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  • パジェロ – 2026年新型【ラダーフレームへ戻った、三菱4WDの本流】

    パジェロ – 2026年新型【ラダーフレームへ戻った、三菱4WDの本流】

    パジェロが帰ってきます。

    2019年に日本向けの生産を終え、2021年には海外向けも終了。それから5年が経った2026年、三菱自動車は新型パジェロを同年秋に世界初公開すると発表しました。

    歴代パジェロは世界170以上の国と地域で累計325万台以上を販売し、ダカールラリーでは通算12勝。復活だけでも十分に大きな出来事です。

    ただ、新型で本当に面白いのは、名車が帰ってくることだけではありません。

    発表済みの構造と技術を見ると、40年以上の積み重ねを現代の技術でもう一度組み直そうとしていることが分かります。

    その象徴が、ラダーフレームへの回帰です。

    パジェロは、一度ラダーフレームを捨てている

    https://kuruma-dna.com/v60

    初代と2代目のパジェロは、頑丈なラダーフレームの上にボディを載せる、本格クロスカントリー4WDらしい構造を採用していました。

    ところが1999年に登場した3代目で、三菱は従来のラダーフレームをやめ、フレームをボディへ一体化した「ビルトインフレーム・モノコック」へ移行します。

    狙いは軽量化や低重心化だけではありません。オフロード車は舗装路で我慢が必要だという常識を変えようとしていました。

    悪路には強いが、街中や高速道路では疲れるクルマではなく、どこを走っても快適で、それでも本格的な悪路へ入っていけるクルマ。そのために、パジェロの象徴だった骨格を自ら捨てたのです。

    2006年の4代目も、ビルトインフレーム・モノコックと4輪独立懸架を継承しました。歴代パジェロは3代目以降、単純な悪路性能の競争ではなく、本格4WDをどこまで乗用車として成立させられるかを追い続けました。

    27年後、同じ目的のために戻る

    2026年新型パジェロのラダーフレームイメージ
    画像:三菱自動車

    2026年の新型パジェロでは、再びラダーフレームが採用されます。

    ベースは、現行トライトンの強靭なラダーフレーム。ただし、ピックアップトラックの荷台をSUVボディへ置き換えるだけではありません。フレームには改良を施し、キャビンと前後サスペンションもパジェロ専用に開発されます。

    狙っているのは、本格的な悪路走破性を確保しながら、長距離移動でも疲れにくい上質な乗り心地です。

    ラダーフレームへ戻ったからといって、初代や2代目へ単純に戻るわけではない。初期パジェロの頑丈な骨格を取り戻しながら、3代目と4代目が追求した「舗装路でも快適な本格4WD」という思想を残そうとしています。

    構造は過去へ戻っても、目指すクルマは過去へ戻らない。

    新型パジェロの系譜上の面白さは、ここにあります。

    土台は、約20年ぶりに作り直した新しい骨格

    https://kuruma-dna.com/grj300

    新型が使うトライトン由来のフレームも、古い設計をそのまま流用したものではありません。

    現行トライトンの開発時、三菱はピックアップトラック用ラダーフレームを約20年ぶりにゼロから刷新しました。従来型の改良だけでは、将来求められる衝突安全性や剛性を確保できないと判断したためです。高強度・軽量鋼板を増やし、強さと重量の両立も図っています。

    つまり新型パジェロは昔ながらの構造へ回帰しながら、現在の安全基準と使用環境を前提に作られた骨格を使います。

    パジェロがいなかった5年間にも、三菱は次のパジェロに必要な土台を、トライトンという別の名前で作り続けていたのです。

    スーパーセレクトの思想に、S-AWCを重ねる

    https://kuruma-dna.com/cz4a

    パジェロの系譜では、4WDシステムも進化を続けてきました。

    1991年の2代目が採用したスーパーセレクト4WDは、2WD、センターデフ式フルタイム4WD、直結4WDを使い分け、舗装路での扱いやすさと悪路での強さを一つのシステムへ収めました。

    それ以降のパジェロにとって4WDは、単に四輪へ力を送る仕組みではありません。路面に応じて駆動力をどう使えば、誰もが意図した通り走れるのか。そこまで含めた技術になりました。

    新型には、その歴代の思想へ現在の統合制御を重ねるS-AWCが採用されます。

    S-AWCは駆動力と制動力を統合的に制御し、操縦性、安定性、走破性を高める技術です。ラダーフレームへ電子制御を組み合わせ、扱いやすい本格4WDを目指します。

    3連メーターは、飾りではない

    2026年新型パジェロのマルチメーターイメージ
    画像:三菱自動車

    新型には、歴代パジェロのダッシュボード中央に並んだ3連メーターをオマージュした「マルチメーター」も採用されます。

    表示するのは、高度、方位、外気温、車体の前後左右の傾き、左右のトルク配分。昔の形だけを懐かしく再現したのではなく、現在の車両制御と結びつく情報へ作り直しています。

    普段の街中では、ほとんど見ない情報かもしれません。

    けれど、普段は使わない情報まで用意すること自体、行き先を限定しないパジェロらしさでした。急勾配や岩場では、車体の姿勢と駆動力の行き先を自分で確かめられます。

    3連メーターは意匠としてではなく、冒険のための機能として戻ってきます。

    砂漠から東南アジアへ移った鍛錬の場

    https://kuruma-dna.com/e38a

    パジェロは1983年にダカールラリーへ初参戦し、2001年から2007年の7連覇を含む通算12回の総合優勝を記録しました。

    現在、パジェロ自身はラリーを走っていません。それでも三菱は、モータースポーツで市販車を鍛える方法をやめませんでした。

    トライトンを投入するアジアクロスカントリーラリーでは、2022年と2025年に総合優勝。そこで得た技術的な情報をトライトンだけでなく、新型パジェロにも生かしていると三菱は明言しています。

    競技の舞台はアフリカの砂漠から、急勾配、密林、泥濘が続く東南アジアへ変わりました。車名もパジェロからトライトンへ変わりました。

    それでも、壊れた原因を突き止め、直し、もう一度走らせ、その知見を市販車へ戻す。パジェロがいなかった期間にも、その作り方は途切れていません。

    復活を可能にした、三菱の現在地

    2026年新型パジェロのティザーイメージ
    画像:三菱自動車

    今回の復活には、三菱自動車の経営戦略も関係しています。

    三菱は2026年の新中長期ビジョンで、開発資源をASEAN商品群とオフロード商品群へ集中させる方針を示しました。新型パジェロを「三菱自動車らしさを体現する商品」と位置づけ、将来はシリーズ展開も図ります。

    現在の三菱にはトライトンの新しい骨格とS-AWCがあり、本格オフロード車を必要とする市場も残っています。

    懐かしい名前だから復活させるのではない。三菱がもう一度オフロードを自分たちの強みとして押し出すとき、その頂点に置ける名前がパジェロだったのでしょう。

    過去に戻るための復活ではない

    https://kuruma-dna.com/l040

    新型パジェロは、一つの世代を再現するクルマではありません。

    ラダーフレームは初代と2代目から。舗装路の快適性を諦めない思想は3代目と4代目から。四輪制御には現在のS-AWCが入り、3連メーターはデジタルのマルチメーターへ置き換わります。モータースポーツで鍛える開発方法も、トライトンを経由してつながりました。

    パワートレインや詳細な寸法、グレード構成など、まだ発表されていない部分は残っています。

    それでも、新型が目指すものはすでに見えています。

    パジェロが歴代モデルで追い続けたのは、単純な悪路走破性ではありません。本格4WDとして厳しい道を走れることと、乗用車として長距離を快適に移動できることを、一台の中でどう両立するか。その答えを探し続けたクルマでした。

    3代目では、そのためにラダーフレームを捨てました。

    そして新型では、同じ目的を実現するために、もう一度ラダーフレームを使います。

    骨格は27年前へ戻っても、パジェロが目指しているものは、一度も後ろを向いていません。

  • パジェロ – V80/V90【熱狂のあとを、13年走り続けたパジェロ】

    パジェロ – V80/V90【熱狂のあとを、13年走り続けたパジェロ】

    2006年、4代目パジェロが登場したとき、かつてのような熱狂はもうありませんでした。

    スキー場を埋めたRVブームは遠ざかり、街では軽くて燃費のいいクロスオーバーSUVが選ばれていた。三菱のダカール参戦も、間もなく終わろうとしていました。

    それでも4代目は、国内で13年間売られ続けます。

    大きく流行を作ることはなかった。しかし、誰かがまだ本物の四駆を必要としているかぎり、カタログから消えなかった。4代目は、拍手のない時代にパジェロが何者だったのかを、いちばんよく表した世代です。

    角張った姿へ戻した理由

    https://kuruma-dna.com/jb64

    4代目の姿には、ひと目で分かる変化がありました。

    3代目の大きく膨らんだフェンダーと曲線的な顔をやめ、ボンネットを水平に見せ、フロントグリルを立て、ボディ側面にも直線を戻した。初代や2代目を思わせる、四角いパジェロです。

    3代目の丸い姿に戸惑った人へ、三菱はもう一度「これがパジェロだ」と分かる形を差し出しました。背面スペアタイヤも、ツートーンカラーも残っています。

    ただし、これは昔へ戻るためのデザインではありませんでした。中身まで2代目のラダーフレームへ戻したわけではなく、3代目で選んだビルトインフレーム・モノコックと4輪独立懸架を継承しています。

    見た目は原点へ戻り、骨格は進化を引き返さない。 4代目の立ち位置は、その組み合わせに表れていました。

    変わって見えない、7割の再設計

    https://kuruma-dna.com/grj300

    4代目は、外から見ると3代目の改良型にも見えます。ホイールベースも基本的な車体構成も受け継いだからです。

    しかし三菱によれば、見直した構造は約70%。実質的な全面再設計でした。

    ビルトインフレーム・モノコックは、スポット溶接の範囲を広げ、カウルトップを高剛性化。高張力鋼板と構造用接着剤も使い、強度を上げながら重量増加を抑えました。サスペンションの取り付け部やリヤまわりの形状にも手を入れ、荒れた路面での動きと舗装路での落ち着きを詰めています。

    目指したのは、乗った瞬間に驚かせる新しさではありません。操作に対してクルマが自然に動き、長距離を走っても違和感が残らないことでした。

    派手な発明を看板にするのではなく、3代目で大きく変えた構造を、時間をかけて完成させる。4代目のモデルチェンジは、革命というより答え合わせでした。

    電子制御と機械式デフロックの共存

    https://kuruma-dna.com/cz4a

    4代目には、スーパーセレクト4WD-IIとASTC(アクティブスタビリティ&トラクションコントロール)が採用されました。

    ASTCは、滑りやすいカーブで車体の姿勢を整え、空転したタイヤにブレーキをかけて、接地しているタイヤへ駆動力を残す電子制御です。一方、泥濘地から脱出するときには、左右の後輪を直結する機械式リヤデフロックが強い。

    従来、この二つを同時に働かせるのは簡単ではありませんでした。デフを機械的に固定した状態へ電子制御が介入すれば、互いの狙いがぶつかるからです。

    4代目はリヤデフロックの作動をASTC側で検知し、協調して制御できるようにしました。電子制御か、昔ながらの機械か。そのどちらかを選ぶのではなく、必要な場面で両方を使う。

    それは、モノコックになっても本格四駆であり続けるという、3代目からの考え方をもう一段深めた技術でした。

    客が呼び戻した3.2Lディーゼル

    https://kuruma-dna.com/fzj100

    日本仕様の発売時に用意されたのは、V6 3.0LとV6 3.8Lのガソリンエンジンでした。歴代パジェロを支えてきたディーゼルは、国内仕様からいったん姿を消します。

    当時の日本では、排出ガスをめぐってディーゼル乗用車への風当たりが強く、各社が設定を縮小していました。しかし重い車体で長距離を走り、雪道や坂道を進み、荷物を積み、ときには何かを牽引するパジェロにとって、低回転から力を出すディーゼルは単なる廉価版ではありませんでした。

    復活を求める声を受け、2008年に3.2Lコモンレール式DI-Dが追加されます。2010年には排出ガス性能を高めたクリーンディーゼルへ進化しました。

    ブームのころなら、太いタイヤや豪華な装備が欲しい理由になったかもしれません。4代目を待っていた人が求めたのは、自分の使い方に必要なエンジンでした。

    流行ではなく用途で選ばれるクルマになった。 ディーゼルの復活は、4代目の客層を象徴しています。

    最後の勝利、その先にあった砂漠との別れ

    2002年ダカールラリーを走る3代目パジェロ
    画像:三菱自動車

    4代目の発売から約3か月後、2007年1月のダカールラリーで三菱は7大会連続、通算12回目の総合優勝を果たしました。

    優勝車は市販の4代目そのものではなく、競技専用のパジェロエボリューションです。それでも、パジェロという名前が世界で積み重ねてきた強さは、この勝利で頂点に達しました。

    その後、三菱は競技車をレーシングランサーへ切り替え、2009年にダカールから撤退します。1983年から続いた挑戦は終わり、砂漠で勝つことが市販車の説得力になった時代も幕を閉じました。

    4代目は、パジェロ最後のダカール優勝を見届けた世代です。そして皮肉にも、競技で名前を叫ばれなくなってからの方が、はるかに長く売られました。

    主役ではなくなった。その先に残る役割

    https://kuruma-dna.com/jb23

    2000年代後半のSUV市場で主役になったのは、舗装路での燃費と取り回しに優れたクロスオーバーでした。悪路に行かない人には、大きな副変速機も、リヤデフロックも、頑丈な車体も過剰です。

    家族を乗せるならミニバンがあり、街でSUVらしい姿を楽しむなら、もっと軽くて安い選択肢がある。かつて一台で引き受けていた役割は、別々のクルマへ分かれていきました。

    だから4代目は、2代目のように誰もが憧れる商品ではありませんでした。

    その代わり、雪国で確実に帰ってくること、長い距離を疲れずに走ること、舗装が終わった先まで家族と荷物を運ぶことを求める人には、代わりが少なかった。パジェロが必要な人の数は減っても、必要とされる理由は薄まりませんでした。

    ブームの中心から降りたことで、4代目はようやく、記号ではなく道具として愛されるようになったのだと思います。

    700台のファイナルエディション

    https://kuruma-dna.com/pajero-2026

    2019年、三菱は国内向けパジェロの生産終了を発表しました。最後に用意されたファイナルエディションは700台。3.2LクリーンディーゼルのEXCEEDをベースに、リヤデフロック、電動ロングサンルーフ、ルーフレール、本革シートなどを標準装備しました。

    国内累計販売は64万台以上。4代目だけでも13年間を走り切りました。日本向けが終わったあとも海外向けは残り、2021年まで生産されています。

    華やかな新技術を毎年のように追加したわけでも、大ヒットで延命したわけでもありません。同じ基本設計のまま、必要とする市場へ作り続けた13年でした。

    初代は、四駆を我慢して乗る時代を終わらせました。2代目は、四駆を時代の主役にしました。3代目は、主役であり続けるために常識を壊しました。

    そして4代目は、主役でなくなっても残りました。

    歓声が消え、砂漠からも去り、街から大きな四駆が減っていく。その最後まで、パジェロはパジェロを必要とする人のために、同じ形で待っていたのです。

  • パジェロ – V60/V70【街の主役を降りても、砂漠では王者だった】

    パジェロ – V60/V70【街の主役を降りても、砂漠では王者だった】

    1999年、パジェロはパジェロであるための骨格を、自分から捨てました。

    初代から2代目まで守ってきた、ボディと別体のラダーフレームをやめたのです。

    それは、丸くなったデザインよりも、豪華になった内装よりも大きな変化でした。本格四駆は頑丈なフレームを持つものだと信じられていた時代に、「その常識こそが次の弱点になる」と三菱は判断しました。

    2代目が完成させたのは、誰でも扱える四駆です。3代目に求められたのは、四駆であることさえ意識させない走りでした。

    「モノコックにするか」で、会社が割れた

    https://kuruma-dna.com/xj-cherokee

    3代目パジェロの開発で、最大の論点はエンジンでも装備でもなく、車体構造でした。開発陣の議論は、会社が二つに割れるほど激しかったといいます。

    ラダーフレームは、悪路で車体に強い力がかかっても耐えやすく、ダメージを受けたときに現地で修理しやすい。ウインチの取り付けや過酷な使い方まで考えれば、守りたい理由は十分にありました。

    一方で、フレームとボディが別であるかぎり、軽量化と低重心化、剛性、高速域の安定性、衝突安全性をすべて大きく引き上げるには限界があります。日常で乗る人が増えるほど、ラダーフレームの長所より、その制約が見えるようになっていたのです。

    フレームは、消えたのではなく内側に入った

    https://kuruma-dna.com/fzj100

    3代目が選んだのは、ラダー状の補強部材をボディと一体化した「ビルトインフレーム・モノコック」でした。乗用車と同じ構造に安易に寄せたのではなく、フレームの強さをモノコックの中へ持ち込む折衷案です。

    足まわりも4輪独立懸架へ変わりました。フロントはダブルウィッシュボーン、リヤはマルチリンク。タイヤの動きを左右独立で制御できるため、荒れた路面でのストロークを確保しながら、舗装路での安定性を大きく高められました。

    スーパーセレクト4WDも「II」へ進化します。電動アクチュエーターでモードを切り替え、通常時の前後トルク配分を従来の50:50から33:67へ。後輪寄りにすることで、四駆らしい安定感を残しながら、カーブで曲がりやすくしました。

    エンジンはV6 3.5L GDIと、新開発の3.2L直噴ディーゼルターボ。伝統的なクロカンを電子制御の現代的なSUVへ作り直す、ほぼゼロからの再設計でした。

    デザインもその構造変化を隠しませんでした。三菱がモチーフにしたのは、山猫が獲物を狙う瞬間の凝縮感。後付けのオーバーフェンダーで幅を強調した2代目に対し、3代目はボディ自体の面を大きく膨らませました。

    進化は正しかった。しかし、時代の真ん中ではなかった

    https://kuruma-dna.com/jb23

    3代目が登場したころ、日本のRVブームはすでに山を越えていました。1994年のRAV4、1995年のCR-V、1997年のハリアー。乗用車を土台にした軽くて快適なSUVが、悪路に行かない人には十分だと示していました。

    家族用の需要は、オデッセイやステップワゴンなどのミニバンにも流れていきます。7人で移動するなら、背の高い本格四駆ではなく、床が低くて室内が広いクルマを選べるようになったのです。

    そして、2代目の角張ったワイドボディを愛した人から見れば、3代目の丸みを帯びたフェンダーとモノコック化は「パジェロらしさ」を薄めたようにも見えました。

    ライトなSUVを求める人にはまだ本格的すぎ、本格四駆を求める人には乗用車的すぎる。 3代目は、市場の境目に立ったクルマでした。

    発売翌年、クルマではなく会社の信頼が崩れた

    3代目パジェロ V60/V70系(1999年)
    画像:三菱自動車

    3代目パジェロには、商品のできだけでは説明できない不運もありました。

    発売翌年の2000年、三菱自動車がクレーム情報を二重管理し、リコールの届け出をせずに改修を指示していた事実が発覚します。これは3代目パジェロ単独の問題ではありません。しかし買う側から見れば、エンブレムに対する信頼は、すべての車種に共通するものです。

    ちょうど市場がクロカン四駆からクロスオーバーとミニバンへ向かうなか、三菱の信頼問題が重なった。2代目のような社会現象を、3代目が国内で再現することはありませんでした。

    日本でブームが終わっても、世界では道具だった

    https://kuruma-dna.com/grj300

    それでも3代目の改革が失敗ではなかったことは、日本の外を見るとよくわかります。

    高速道路を長時間走り、大きなキャンピングトレーラーを牽引し、その先で未舗装路に入る。オーストラリアのアウトバックや、道路環境の厳しい国では、高速安定性と悪路走破性の両方が装飾ではなく実用でした。

    2代目が日本で愛されたのは、週末を自由にする記号だったからです。3代目が海外で評価されたのは、家族と荷物を必ず目的地まで運ぶ、生活のインフラになれたからです。

    モノコックへの疑いに、ダカールが答えた

    2002年ダカールラリーを走る3代目パジェロ
    画像:三菱自動車

    別体式ラダーフレームをやめれば、本当に過酷な環境で耐えられるのか。その疑問に、三菱はまた砂漠で答えました。

    2001年、ユッタ・クラインシュミットがダカールラリーで女性ドライバー初の総合優勝を達成。2002年には増岡浩が初優勝し、2003年に日本人初の2連覇を果たします。3代目の時代に始まった三菱の連勝は、2007年まで7年連続へ伸びました。

    ラリー車は市販車そのままではありません。それでも、モノコック化と低重心化、4輪独立懸架という方向が、パジェロから強さを奪ったわけではないことは証明されました。むしろ高速で長距離を走る砂漠では、その進化が武器になりました。

    壊したのは、パジェロらしさではなかった

    https://kuruma-dna.com/cz4a

    3代目パジェロは、2代目のように日本の街を支配したクルマではありません。デザインと構造の変化に戸惑った人がいて、国内のブームが終わり、その上に会社の信頼問題まで重なりました。

    しかし、この世代で作ったビルトインフレーム・モノコックと4輪独立懸架は、次の4代目にも基本的に受け継がれます。一度変えた骨格を、三菱は元に戻しませんでした。

    つまり3代目が捨てたのは、パジェロらしさではなく、「パジェロらしさはこの構造でなければならない」という思い込みだったのだと思います。

  • パジェロ – V20/V40【カローラを抜いた四駆】

    パジェロ – V20/V40【カローラを抜いた四駆】

    1992年、日本で月間販売台数1位になったのは、カローラではありませんでした。

    ラダーフレームに大きなボディを載せた、三菱パジェロです。

    年間でも8万3,000台以上を売り、月間販売ではカローラさえ抑えて1位になった。「乗用車のように使える四駆」という初代の提案が、2代目で国民的な商品になった瞬間でした。

    ただし、単にブームの波に乗ったわけではありません。その売れ方には、初代で残った「本格四駆の面倒さ」を技術で消した、2代目なりの理由がありました。

    初代の弱点から、スーパーセレクト4WDは生まれた

    スーパーセレクト4WDを初搭載した2代目パジェロ(1991年)
    画像:三菱自動車

    1991年1月に登場した2代目パジェロの核は、世界初の「スーパーセレクト4WD」でした。

    従来のパートタイム4WDは、悪路で前後輪を直結すると強い反面、そのまま舗装路の急カーブを曲がると、クルマ自身がブレーキをかけたような状態になります。タイトコーナーブレーキング現象です。

    雪道と乾いた舗装路が交互に現れるような場面では、ドライバーが駆動方式を意識し続けなければなりません。初代は快適な四駆でしたが、まだ四駆の知識をドライバーに求めるクルマでした。

    2代目は、2WDの「2H」、センターデフを使う4WDの「4H」、センターデフをロックする「4HLc」、さらに副変速機をローギヤにする「4LLc」を1本のレバーで選べるようにしました。時速100km以下なら走行中に2WDと4WDを切り替えられ、そのすべてのモードにマルチモードABSが対応しました。

    これはメカニズムの多さを誇る装備ではありません。知識がなくても、まず4Hで走ればいい。本格四駆を日用品にするための技術でした。

    「選べる」の意味が、用途から欲望へ変わった

    https://kuruma-dna.com/bj60

    2代目は、メタルトップ、ミッドルーフ、屋根を一段高くしたキックアップルーフ、幌型のJトップと、4つのボディタイプを用意しました。ショートかロングか、ナローかワイドか、ガソリンかディーゼルか、MTかATか。時期によってはグレード数が30を超えました。

    登場時のV6 3.0Lガソリンと2.5Lディーゼルターボに加え、1993年7月にはV6 3.5Lと2.8Lディーゼルターボも追加。ブームの間も、長距離での余裕を増やし続けました。

    初代のバリエーションは、商用から家族用まで、必要な用途をカバーするためのものでした。しかし2代目では、どんな自分に見せたいかまで選べるようになります。

    なかでも時代を象徴したのが、ワイドフェンダーでした。張り出したフェンダー、大きなタイヤ、サイドステップ、ツートンカラー。必要だから大きいのではなく、大きく見えることそのものが価値になっていました。

    1989年の税制改正で、3ナンバー車の自動車税が排気量を中心とする仕組みに改められ、従来の割高感が薄れたことも追い風でした。ワイドボディは、贅沢な見た目と手が届く現実性を同時に持てたのです。

    スキー場からお茶の間まで、パジェロだった

    https://kuruma-dna.com/fj80

    1990年代初頭、スキー板を積んだパジェロは、週末の高速道路や雪山の駐車場にあふれました。バンパーガードにフォグランプ、ルーフラック、背面スペアタイヤ。本当に必要かどうかより、それらが「この週末にどこかへ行く人」の記号になっていました。

    当時のRVは、実用性だけで売れたのではありません。セダンのトランクには入らない道具を積めること、家族や友人と遠くへ行けること、そしてそういう生活をしている人に見えること。実用と自己表現が、ひとつの大きなボディの中で重なっていました。

    その知名度を決定的にしたのが、テレビ番組『東京フレンドパーク』です。最後のダーツの賞品としてパジェロが登場し、観客が「パジェロ! パジェロ!」と連呼する。クルマ好きでなくても、パジェロは「当たったら嬉しい高級品」として毎週のようにお茶の間に届きました。

    自動車の車名が、あそこまで全国の子どもにまで知られた時代は、そう多くありません。

    カローラを抜いたのは、四駆の勝利だけではない

    2代目パジェロ V20/V40系(1991年)
    画像:三菱自動車

    1992年にパジェロが記録した年間8万3,000台以上という販売台数は、現在のSUV市場から見ても大きな数字です。しかも当時、新車販売の中心はまだセダンでした。

    つまりパジェロは、ランドクルーザーやサファリとの四駆対決に勝っただけではありません。ファミリーカーの座をセダンから奪ったのです。

    「乗り心地も積載性も、セダンで足りる」という常識に対し、「休日の可能性が広がる方がいい」という価値観が上回った。いまSUVが日本の乗用車の主流にいることを考えれば、この月間1位は一時的な珍事ではなく、市場が向かう方向を先に見せたのだと思います。

    パジェロが、一台のクルマではなくなった

    パジェロミニ(1994年)
    画像:三菱自動車

    本家の成功は、そのまま新しい家族を生みました。1994年にパジェロミニ、1995年にパジェロジュニア、1996年にチャレンジャー、1998年にパジェロイオ。大きさも価格も異なるクルマが、パジェロの名前と雰囲気を分け合いました。

    この時期の三菱にとって、パジェロは車種である以上にブランドでした。小さいクルマにも、家族向けのクルマにも、「パジェロのような生活」を移植できたからです。

    最後の反論は、市販車ベースの1–4位独占だった

    https://kuruma-dna.com/cp9a-1

    日常に近づき、豪華になり、社会現象になるほど、「もう本格四駆ではない」という疑いは強くなります。

    その反論は、1997年のダカールラリーで出ました。レギュレーション変更によりメーカーのプロトタイプ車が出場できなくなり、三菱は2代目パジェロをベースにしたT2仕様を急造します。結果は篠塚建次郎の日本人初となる総合優勝。三菱車が史上初の総合1–4位独占を果たしました。

    同年9月には、3.5L MIVECエンジンと4輪独立懸架を持つパジェロエボリューションが市販されます。快適な人気車と砂漠で勝つクルマを、最後まで別々の存在にしなかったわけです。

    売れすぎたパジェロが、次に残した難題

    https://kuruma-dna.com/xj-cherokee

    2代目パジェロは、初代が始めた「四駆を日常に持ち込む」という仕事を完成させました。スーパーセレクト4WDが操作の不安を消し、多彩なボディとグレードが買う理由を増やし、ダカールが本物であることを保証した。そして時代が、スキーとアウトドアとテレビでそれを増幅しました。

    一方で、パジェロが市場の真ん中に来たことで、四駆の常識そのものが変わります。ラダーフレームを持つことより、セダンより快適であることを求める人が増えていきました。

    自分が開いた市場に、自分の設計が古く見え始める。この成功者ならではの難題に答えるのが、1999年の3代目です。

  • パジェロ – L040【「我慢して乗る」を終わらせた】

    パジェロ – L040【「我慢して乗る」を終わらせた】

    四輪駆動車というのは、長いあいだ「我慢して乗るもの」でした。

    悪路に強いかわりに、乗り心地は硬く、静粛性は期待できず、高速道路では落ち着かない。そういう乗り物です。三菱に至っては、そのど真ん中にいた会社でした。ウィリス・ジープのライセンス生産を1953年から続け、日本の四駆といえば三菱ジープ、という時代を作ってきたからです。

    その会社が1982年5月に出したパジェロは、同じ悪路性能を持ちながら、まったく違う顔をしていました。

    そして10年も経たないうちに、日本のスキー場の駐車場はこのクルマとその後継で埋まることになります。

    ジープを作り続けた会社が、ジープを作らなかった

    https://kuruma-dna.com/bj-fj20

    初代パジェロが登場した1982年、三菱はすでに30年近くジープを作っていました。四駆の作り方を知らなかったわけではありません。むしろ、知りすぎているくらいでした。

    だからこそ興味深いのは、パジェロがジープの改良版として出てこなかったことです。

    ラダーフレームという骨格は引き継ぎながら、ボディは2ボックスのワゴン。フロントサスペンションは独立懸架。乗用車の使い方を前提にした設計思想が最初から入っています。

    三菱自身も、パジェロを「新世代の4WD」と位置づけて発表しました。ジープの後継ではなく、別のカテゴリーの提案だったわけです。

    実際、この時期に民間向けジープの整理が進んでいたことを踏まえると、パジェロは置き換えでありながら、置き換えではありませんでした。同じ客に同じものを売り直すのではなく、四駆を買わなかった人に売るためのクルマだったからです。

    フロント独立懸架という、賛否のある選択

    https://kuruma-dna.com/fj40

    初代パジェロで最も語られるべきなのは、フロントに独立懸架を採用したことでしょう。

    当時の本格四駆は、前後ともリジッドアクスルが常識でした。左右の車輪が1本の軸でつながっている方が、極端な凹凸でもタイヤを接地させやすく、構造も頑丈だからです。悪路だけを見れば、リジッドの方が有利な場面は確かにあります。

    それでも三菱は独立懸架を選びました。舗装路での乗り心地と直進安定性を、悪路性能と同じ土俵に乗せるためです。

    これは単なる快適装備の話ではありません。四駆をどこで使う乗り物と定義するか、という商品の根本に関わる判断でした。山に入る前後に、何時間も舗装路を走る。その時間を我慢の時間にしない。そう決めた設計です。

    そしてこの判断は、当時のライバルと並べたときに効いてきます。ランドクルーザー60系、日産サファリ、いすゞビッグホーン。どれも本格派でしたが、乗用車としての感触ではパジェロが頭ひとつ抜けていました。

    四駆を選ぶ理由が「悪路に行くから」だけではなくなった瞬間、この差は決定的になります。

    屋根も長さも選ばせた、商品としての幅

    https://kuruma-dna.com/fj55

    初代パジェロがうまかったのは、車体そのものだけではありません。

    デビュー時からメタルトップとキャンバストップを用意し、1983年3月には5ナンバーのワゴンを追加。同年7月にはロングボディを加え、1985年にはオートマチックまで用意しました。

    並べてみると、拡張の方向がはっきりしています。趣味の道具から、家族で使える道具へ。四駆に興味はあるが生活の中で無理なく使いたい、という層をひとつずつ拾いにいった動きです。

    5ナンバー設定は税金と車幅の心配を消し、ATは運転のハードルを下げ、乗用車用ディーゼルは静かで扱いやすい加速をもたらしました。当時の本格四駆でATを選べること自体が、「毎日乗る人」を客として想定している証拠です。

    道具として尖らせるのではなく、間口を広げる方向に手を入れ続けた。ここが初代パジェロの商品設計の芯でした。

    パリ・ダカールが、カタログより雄弁だった

    1985年ダカールラリー参戦車の初代パジェロ
    画像:三菱自動車

    一方で、間口を広げたクルマには必ずこう言われます。軟弱になったのではないか、と。

    その反論を、三菱は言葉ではなく結果で用意しました。パリ・ダカール・ラリーです。

    パジェロは1983年に初参戦し、市販車無改造クラスで優勝します。翌1984年には改造クラスで優勝。そして1985年、ついに総合優勝を獲得しました。

    ここで効いているのは、順番です。最初の勝利が「無改造クラス」だったという事実は、カタログのどんな文章よりも雄弁でした。売っているクルマと戦っているクルマが地続きである、という証明になったからです。

    日本国内でパジェロが「本物」として受け止められた背景には、この時期のダカールが確実にあります。四駆ブームという言葉が広まるより前に、パジェロは実績で説得を済ませていました。

    スキー場の駐車場で、パジェロは記号になった

    https://kuruma-dna.com/bj60

    そして1980年代後半、時代の方がパジェロに追いついてきます。

    バブル景気とスキーブームです。当時はSUVという言葉すら一般的ではなく、この手のクルマはクロスカントリー4WD、あるいはRVと呼ばれていました。週末に雪道を走って遊びに行く。その用途に、四駆はあまりに分かりやすく合致しました。

    面白いのは、買った人の多くが本気の悪路になど行かなかったことです。行き先はスキー場であり、アウトドアであり、多くの場合は舗装された生活道路でした。

    つまり市場が求めたのは、悪路を走る性能そのものではなく、悪路を走れるという事実だったわけです。そしてその需要に応えるには、悪路性能と日常の快適さを同時に持っている必要がありました。初代パジェロが1982年に選んだ設計が、そのまま答えになっていた形です。

    ゴツいシルエットにパリダカの実績が乗り、しかも5ナンバーでATが選べて、雪道で強い。都市に住む人が週末のために買うクルマとして、これほど説明しやすい商品はそう多くありません。

    パジェロは、四駆というジャンルを愛好家の手から解放しました。そして日本の若者にとって、四駆は我慢して乗る道具ではなく、乗っていること自体が態度表明になるクルマへ変わっていきます。

    63万台が、次の世代へ渡したもの

    https://kuruma-dna.com/lj10

    初代パジェロは、最終的に約63万台を売るヒットになりました。三菱の四駆が、専門的な道具から一般的な商品へ移った瞬間です。

    そして1992年、2代目パジェロは月間の国内新車販売台数で1位を獲得します。カローラのような大衆車を、クロカン四駆が抜いたわけです。この異常事態の土壌を耕したのは、間違いなく初代でした。

    この一台が定義したものは、その後もパジェロの背骨として残ります。悪路で本気であること。舗装路で我慢させないこと。用途に合わせて選ばせること。ダカールで証明し続けること。

    三菱ジープを作り続けた会社が、ジープではないものを作った。そこで生まれた「悪路も走れる乗用車」という発想は、いま私たちがSUVと呼んでいるクルマたちの、かなり早い時期の原型だったと言っていいと思います。

  • スズキはなぜトヨタにならなかったのか

    スズキはなぜトヨタにならなかったのか

    2025年度、スズキは世界で約332万台の四輪車を販売しました。

    トヨタのような年間1000万台企業ではありません。

    高級ブランドも持っていません。

    北米では、2012年に四輪車販売から撤退しています。

    ところが、その332万台のうち約186万台を売っている国があります。

    インドです。

    2026年度第1四半期には、Maruti Suzukiのインド乗用車市場シェアは41.2%に達しました。

    今やスズキは、世界最大級の人口を持つ国で、4割前後のシェアを握る巨大メーカーになっています。

    しかも現在、インドで年間400万台規模を生産できる体制まで作ろうとしています。2026年7月時点ですでに年産能力は290万台。インド国内へ売るだけでなく、世界各地へ輸出するグローバル生産拠点へ変わりつつあります。

    不思議な会社です。

    世界最大の自動車メーカーになろうとしたようには見えない。

    アメリカで負ければ撤退する。

    大企業と組むことはある。

    でも、飲み込まれそうになると離れる。

    小型車という得意分野を捨てない。

    そして、自分たちの得意技が最も大きな価値を持つ場所では、異常なほど強い。

    スズキは、なぜトヨタにならなかったのでしょうか。

    もしかすると答えは、トヨタになれなかったからではなく、トヨタになる必要がなかったから、なのかもしれません。

    「小・少・軽・短・美」——スズキの思想は、会社の名前より分かりやすい

    https://kuruma-dna.com/jb64

    スズキには、現在も正式な「行動理念」として残っている言葉があります。

    小・少・軽・短・美。

    英語では Smaller, Fewer, Lighter, Shorter, Beauty.

    小さくする。無駄を減らす。軽くする。時間や距離を短くする。

    そして、それらを顧客にとって価値ある形にする。

    スズキ ジムニー ノマド
    画像:スズキ

    もともとは生産現場から生まれた考え方ですが、現在では製品だけでなく、組織や意思決定にまで適用されています。

    さらにもう一つ、「やらまいか」という浜松の言葉も、スズキは行動理念に入れています。

    やってみよう。

    挑戦してみよう。

    現在のスズキは、その説明の中でかなり面白いことを書いています。

    会社が大きくなっても、「大企業病に陥らない」ようにする、と。

    つまりスズキは、自分が大企業になっていることを認識しながら、大企業のやり方をしないことを、意識的に会社の思想として残しているわけです。

    この考え方を知ると、スズキの世界戦略が少し違って見えてきます。

    スズキは「全部の市場で勝つ」とは考えなかった

    スズキ スイフト(現行型)
    画像:スズキ

    一般にグローバル自動車メーカーを想像すると、北米、欧州、中国、インド、東南アジアといった巨大市場を取りに行く姿が浮かびます。

    そして各地域で、小型車からSUV、高級車まで商品を揃える。

    規模が競争力になる自動車産業では、とても自然な発想です。

    でもスズキは、そうしませんでした。

    スズキが得意なのは、小型で、軽く、比較的安価で、省資源なクルマです。

    なら、その能力が最も高く評価される市場へ行けばいい。

    日本では軽自動車。

    そして海外で、その思想が恐ろしいほど噛み合った国がインドでした。

    1982年のインド進出は「フォロワー戦略」ではない

    https://kuruma-dna.com/honda-motor-to-honda

    スズキの戦略を見ていると、価格を武器にしたフォロワー戦略のようにも見えます。

    大手が作った市場へ後から入り、小さく安い商品でシェアを取る。

    ただ、少なくともインドでは、この説明はあまり当てはまりません。

    1982年。

    スズキはインド国営企業Maruti Udyogと自動車の生産契約を結びます。

    翌1983年、Maruti 800の生産を開始しました。

    現在のインドを知っていると、世界最大級の将来市場へ早期参入した先見の明、という話に見えます。

    でも、当時から現在の巨大市場が完成していたわけではありません。

    むしろMaruti Suzukiは、その後40年以上にわたり、Maruti 800、Alto、WagonR、Swiftと車種を重ねながら、自動車を所有する層そのものを広げていきました。

    2025年11月には、インド国内累計販売3000万台へ到達しています。

    つまりスズキは、成長したインド自動車市場を見つけて入った会社というより、インド自動車市場が成長していく過程そのものにいた会社と考えた方が近い。

    ここが、単純なフォロワー戦略とはかなり違います。

    スズキが売ったのは、クルマだけではなかった——販売・整備・金融まで作った

    そしてインドにおけるスズキの強さを考えるとき、商品だけを見ても十分ではありません。

    2025年には、Maruti Suzukiのサービス拠点が5500ヶ所へ到達しました。

    2764都市をカバーし、年間3000万台を整備できる能力を持つまでになりました。

    販売拠点も4500ヶ所を超えています。

    さらに地域金融機関などと組み、自動車ローンへのアクセスも広げています。

    つまり、買える。

    近くで整備できる。

    純正部品が手に入る。

    地方でも使える。

    次のクルマへ乗り換えられる。

    ここまで含めてMaruti Suzukiの商品です。

    マーケティングの4Pで言えば、ProductでもPriceでもなく、Placeが異常に強いのです。

    どれだけいいクルマを作っても、近くで買えない。

    故障したときに直せない。

    ローンが組めない。

    そんな商品を、人生で初めて自動車を買う人が選ぶのは難しいでしょう。

    逆に、「初めて買うならMarutiにしておけば困らない」という状態を作ってしまえば、単純なスペック比較では崩れにくくなります。

    スズキは、クルマを売る前に、クルマを所有できる環境そのものを作ったとも言えます。

    でも「安いクルマ屋」のままでは終われない

    ただし、この戦略には当然問題があります。

    国が豊かになると、顧客も変わるからです。

    最初は、安くて、燃費がよくて、壊れにくい。

    それで十分だった顧客も、所得が増えれば、デザインやSUV、装備、ブランド、上質な販売体験を求めるようになります。

    ここで「安い小型車の会社」という強烈なブランドイメージが、逆に足かせになります。

    スズキはこの問題に対して、かなり面白い手を打ちました。

    NEXA——クルマではなく「売り場」を別ブランドにした

    2015年、Maruti SuzukiはNEXAを立ち上げました。

    プレミアム車を扱う、新しい販売チャネルです。

    面白いのは、新しい高級車ブランドを作ったわけではないこと。

    会社はMaruti Suzukiのまま。

    でも、ショールームも接客も取扱車種も顧客体験も、既存の販売網から切り分けました。

    Maruti Suzuki自身、NEXAを作った目的を「新しいカテゴリーの顧客を獲得しながら、既存顧客をMaruti Suzukiの中に留めるため」と説明しています。

    これはかなり巧妙です。

    たとえば最初にAltoを買った20代の顧客が、10年後に収入を増やしたとします。

    次は少し高いクルマが欲しい。

    普通ならそこで他メーカーへ流出する可能性があります。

    でもNEXAがあれば、顧客が豊かになった後も、同じ会社の中で上へ移動できる。

    実際、2023年度にはNEXA経由の商品がMaruti Suzuki全体の31.88%を占めるところまで成長しました。

    つまりスズキは、「貧しい市場へ安いクルマを売る」会社ではありません。

    むしろ、最初の一台から顧客を取り、その人たちの所得上昇と一緒に商品も上へ移動させる。この戦略の方が実態に近い。

    もちろん、全部うまくいったわけではない

    ここもスズキの面白いところです。

    2025年の統合報告書で、スズキ自身がかなり率直な反省を書いています。

    インド市場で日本側主導の商品開発を進めた結果、現地顧客が本当に求めているものを十分に把握できず、SUV投入が遅れた。そう認めています。

    これは結構重要な話です。

    「スズキはインドを完全に理解していたから勝った」ではない。

    むしろ40年以上やっていても、顧客から離れれば普通に外す。

    だから現在の行動理念でも、現場・現物・現実を直接見ることを強調しています。

    スズキの強みは、未来を完璧に予測する能力ではないのかもしれません。

    外したとき、巨大企業の理屈に固執せず修正できること。こちらの方が重要に見えます。

    アメリカでは、本当に負けた——2012年の四輪撤退

    そしてスズキの世界戦略を美談だけで語るなら、絶対に外せない市場があります。

    アメリカです。

    2012年、American Suzuki Motor CorporationはChapter 11を申請し、米国本土での四輪車販売から撤退しました。

    理由としてスズキ自身が挙げたのは、為替、販売台数、厳しい環境・安全規制、そして自社の商品が小型車中心だったことです。

    米国四輪事業で長期的に利益を維持することは難しいと判断しました。

    これは明確な失敗です。

    でも、その後がスズキらしい。

    「世界的メーカーならアメリカ市場を捨てられない」とは考えなかった。

    勝てないなら撤退する。

    そして、利益が見込める二輪、ATV、マリンへ経営資源を振り直しました。

    ここでも、全部取ろうとしないという姿勢が見えます。

    世界最大級の市場だから重要なのではなく、自分たちが価値を出せる市場だから重要。

    逆に言えば、巨大市場でも自分たちの強みと噛み合わなければ撤退する。

    これはかなり勇気のいる戦略です。

    大企業の技術は欲しい。でも、大企業にはならない

    カルコダ工場の開所式で登壇するスズキ経営陣
    画像:スズキ

    スズキは、自前主義の会社でもありません。

    むしろ昔から巨大メーカーとよく組んでいます。

    1981年にはGeneral Motorsと提携しました。

    GMはスズキ株を保有し、両社の協力関係は25年以上続きました。

    そして2009年。

    今度はVolkswagenとの包括提携に踏み切ります。

    VWはスズキ株の19.89%を取得しました。

    両社は「独立した対等なパートナー」として提携し、スズキ側にはVWの技術へアクセスする狙いがありました。

    ところが、わずか2年後。

    関係は崩壊します。

    「独立」の意味が違った——VWとの決裂

    2011年、スズキはVWとの提携契約を打ち切ります。

    スズキ側の公式説明はかなり激しいものです。

    VWが約束したコア技術へのアクセスを認めなかった。

    そして何より、両社で「independence——独立」の意味が違っていた、としています。

    その後は国際仲裁にまで発展します。

    2015年、VWが持っていた約19.9%のスズキ株はすべて売却され、スズキ側が買い戻しました。

    この出来事は、スズキという会社をかなり象徴している気がします。

    技術が必要だから、大企業とは組む。でも、会社の進路まで渡すつもりはない。

    では、巨大企業との提携そのものがダメだったのでしょうか。

    そうでもありません。

    そして今度は、トヨタと組んだ

    2019年。

    スズキはトヨタと資本提携を結びます。

    トヨタはスズキ株4.94%を取得し、スズキも480億円相当のトヨタ株を取得しました。

    VWの19.89%と比べると、かなり距離があります。

    そして両社の説明が面白い。

    トヨタの電動化技術と、スズキの小型車技術。互いの得意分野を持ち寄る。そのうえで「競争相手であり続けながら協力する」と明記しています。

    VWとの経験だけが理由とは断定できません。

    ただ、スズキの一連の行動を見る限り、一貫性はあります。

    全部を自社開発する必要はない。

    必要な技術は借りればいい。

    大企業と組んでもいい。

    でも、自分たちが何者になるかまで、相手に決めてもらう必要はない。

    スズキはフォロワーなのか

    https://kuruma-dna.com/zc33s

    ここまで見ると、スズキを単純な市場フォロワーと呼ぶのはやはり難しくなります。

    確かに技術では他社から供給を受けることがあります。

    高級車市場を切り開いた会社でもありません。

    世界のすべてのカテゴリーで最先端を走るメーカーでもない。

    でもインドでは、完成した市場を後追いしたわけではありません。

    市場の形成段階から入り、生産、販売、整備、金融、部品、そして顧客の所得上昇に合わせた商品ラインまで構築した。

    これはフォロワーというより、自分がリーダーになれる市場を選んだ、と考えた方がしっくりきます。

    Porter的に言えば、フォーカス戦略。

    マーケティング的に見れば、市場形成と顧客生涯価値の獲得。

    経営として見れば、徹底した選択と集中。

    でも、どれか一つだけでは説明しきれません。

    スズキがやっているのは、自分たちの能力が最も価値を持つ場所を探し、そこへ深く入り込むことなのだと思います。

    「インドで売る会社」から「インドから世界へ売る会社」へ

    インド・ハンサルプールD工場でラインオフする e VITARA
    画像:スズキ

    そして現在。

    スズキのインド事業は、また次の段階へ進んでいます。

    2025年度、Maruti Suzukiの輸出台数は約44.8万台でした。

    インドから輸出される乗用車の約49%をMaruti Suzukiが占めました。

    初のBEVであるe VITARAも、インドから44ヶ国へ輸出されています。

    スズキ e VITARA
    画像:スズキ

    かつては、日本のスズキが成長するインドへクルマを持っていった。

    今は違います。インドで作ったスズキ車を、世界へ出している。

    2026年7月、インド国内の生産能力は年間290万台へ到達しました。

    2030年代には400万台体制を目指しています。

    400万台。

    現在のスズキ全世界販売約332万台を上回る規模です。

    つまり将来、スズキを「日本メーカーのインド事業」と考えること自体が、間違いになる可能性があります。

    むしろ、インドを最大の生産・販売基盤として世界へ展開するメーカー。その本社が浜松にある。そんな会社へ変わりつつあります。

    スズキはなぜトヨタにならなかったのか

    インド・カルコダ四輪車工場の開所式
    画像:スズキ

    トヨタには、トヨタにしかできないことがあります。

    年間1000万台を超える規模。莫大な研究開発費。全方位の商品群。高級ブランド。世界中の生産拠点。

    スズキが同じことをやって勝てるとは限りません。

    だから、やらなかった。

    小さいクルマを極める。

    そのクルマを必要とする市場へ行く。

    勝てない市場からは撤退する。

    巨大メーカーの技術は借りる。

    でも、経営の独立は渡さない。

    顧客が豊かになったら、自分たちも一緒に上へ行く。

    そして自分たちが圧倒的に強い市場では、誰より深く入り込む。

    「小・少・軽・短・美」という言葉は、単なる軽量化技術の標語ではなかったのかもしれません。

    会社の戦い方そのものが、小・少・軽・短だった。

    何でも持たない。

    何でも狙わない。

    必要なものへ資源を集める。

    動くと決めたら速く動く。

    その結果、トヨタより遥かに小さいメーカーが、インドでは40年以上にわたってトップを走り続けています。

    世界一の自動車メーカーにはならなかった。

    でも、世界一になれる場所を、自分たちで選んだ。

    スズキが小さいのは、トヨタになれなかったからではありません。

    トヨタになる必要がなかったからなのかもしれません。

    この記事に出てきたクルマの系譜

    参考

  • 「本田技研工業」は、いつ「Honda」になったのか

    「本田技研工業」は、いつ「Honda」になったのか

    「本田技研工業」と「Honda」

    もちろん、同じ会社です。

    正式な社名は今も本田技研工業株式会社ですし、昔の会社が途中でHondaへ社名変更したわけでもありません。

    それでも、この二つの名前から受ける印象は、少し違う気がします。

    本田宗一郎。藤澤武夫。町工場。マン島TT。F1。VTEC。高回転エンジン。

    そんな時代を思い浮かべるとき、「本田技研工業」という少し堅い名前が妙によく似合います。

    一方、現在のHondaは世界中で二輪車と四輪車を販売し、航空機を飛ばし、ロボットを研究し、電動化や宇宙領域まで手を伸ばす巨大グローバル企業です。

    では、「本田技研工業」は、いつ現在のHondaになったのでしょうか。

    そして、その過程で「ホンダらしさ」は消えてしまったのでしょうか。

    この話を考えるうえで、まず見ておきたいのがクルマではありません。

    株主です。

    Hondaの株主構成——いまや、ほとんど「誰の会社でもない」

    N-BOX/N-BOX カスタム/N-BOX ジョイ(2026年)
    画像:本田技研工業

    2026年3月末現在、Hondaの筆頭株主は日本マスタートラスト信託銀行で17.5%。

    2位が日本カストディ銀行で7.1%、3位がADRの預託機関名義であるMoxley & Co.で5.7%。その後も生命保険会社や海外金融機関が続きます。

    そこに「本田家」の名前はありません。

    これはかなり重要です。

    現在のHondaは、本田宗一郎の子孫が大量の議決権を握り、「本田家がやりたいこと」を押し通せる会社ではありません。

    株式市場から資本を預かり、世界中に従業員と顧客を抱え、巨額の研究開発費と設備投資を動かす上場企業です。

    当然、経営には説明責任があります。

    「この技術に投資すると、どの市場で勝てるのか」

    「何台売れるのか」

    「利益率はどうなるのか」

    「その開発費は回収できるのか」

    規模が大きくなるほど、こうした問いは重くなります。

    そして、これはHondaだけの問題ではありません。

    巨大メーカーが変なクルマを作りづらくなる理由のひとつです。

    ただし。

    昔のホンダは、本当に違いました。

    本田宗一郎は、本当に大株主だった——1957年の持株比率16.41%

    Honda 1300(1969年)。本田宗一郎が主導した空冷エンジンを積む
    画像:本田技研工業

    本田技研工業が東京証券取引所へ上場した1957年度。

    本田宗一郎の持株比率は16.41%。

    藤澤武夫は9.07%。

    二人だけで約25.5%を保有していました。

    本田宗一郎は、単に強烈な個性を持った社長だったわけではありません。

    創業者であり、経営者であり、大株主でもあった。

    そこに、経営と財務を担った藤澤武夫がいる。

    現代の巨大メーカーとは、そもそも意思決定の前提が違います。

    そして1957年、本田宗一郎は株主総会で研究開発について説明しています。

    研究や試作というものは、すぐに貸借対照表へ成果として現れるものではない。

    しかし、それでも重要なのだ、と。

    当時すでに研究部門には約200人を置き、毎月最大2000万円を投じていました。

    これ、今読んでもかなり象徴的です。

    「数字としてすぐ説明できないものにも、会社の金を使う」

    本田宗一郎時代のホンダを語るうえで、ここはかなり重要な気がします。

    初代シビックとCVCC——その思想がクルマになった1972年

    初代シビック 2ドア DX(1972年)
    画像:本田技研工業

    初代シビックが登場したのは1972年。

    今ではHondaを代表する世界的な車名ですが、当時のホンダ四輪事業はかなり危うい状態でした。

    その前に投入したHonda 1300は販売面で苦戦。

    ホンダ自身の75年史でも、次の新型車が失敗すれば四輪事業への本格参入そのものが難しくなるのではないか、という危機感の中でシビックが開発されたとされています。

    そこでホンダが作ったのは、単純に「他社より馬力のあるクルマ」ではありませんでした。

    小さなFFの2ボックス。

    タイヤを四隅へ置き、人が使える空間を確保する。

    そして翌1973年には、厳しい米国排出ガス規制をクリアしたCVCCエンジンを投入します。

    規制が厳しくなった。

    なら、規制をクリアする技術を作る。

    しかもCVCCの公害対策技術は他メーカーにも公開されました。

    ここには、後のホンダにも何度も現れる考え方があります。

    スペック競争だけではない。

    「世の中がこうなるなら、技術で別の答えを出す」

    という姿勢です。

    シビックは、その思想を最も長く観察できるクルマでもあります。

    本田宗一郎は「本田宗一郎の会社」を、自分で終わらせた

    https://kuruma-dna.com/suzuki-india-strategy

    ここからが、この会社の少し変わったところです。

    普通、強烈な創業者がいて、大量の株を持ち、会社が成功したなら、その影響力を残そうと考えても不思議ではありません。

    ホンダは逆でした。

    1960年、本田技術研究所の分離

    1960年、ホンダは研究部門を本体から切り離し、本田技術研究所を独立させます。

    その狙いとしてホンダ自身が残しているのが、

    一人の天才・本田宗一郎だけに依存するのではなく、多くの専門家の力を使う

    という考え方です。

    さらに1970年には、すでに4人の専務による集団指導体制への移行を進めていました。

    1973年、藤澤武夫とともに退任

    そして1973年。

    藤澤武夫が退任を決めると、本田宗一郎も同時に退きます。

    後継社長は河島喜好。

    45歳。

    本田家でも、藤澤家でもありません。

    ホンダ自身も、この人事について「典型的な同族企業ではないことを示した」と振り返っています。

    つまり現在のHondaが「本田家の会社」ではないのは、創業者の力がいつの間にか失われたからではありません。

    本田宗一郎と藤澤武夫自身が、そういう会社を作ったのです。

    これはものすごく立派な判断だと思います。

    でも同時に、少し怖い判断でもあります。

    創業者への依存をなくすということは、

    創業者にしか説明できなかった価値を、組織として説明できるようにしなければならない

    ということでもあるからです。

    VTECとシビックType R EK9——それでもしばらく「変なホンダ」は残った

    https://kuruma-dna.com/ek9

    もちろん、本田宗一郎が退任した1973年を境にホンダが突然普通の会社になったわけではありません。

    むしろ、その後も技術者集団としての色はかなり濃く残りました。

    その象徴のひとつがVTECです。

    1989年に登場したVTECは、低回転側と高回転側で異なるバルブ特性を使い分けることで、日常域の扱いやすさと高回転域の性能を両立しようとした技術でした。(この記事を読む人で知らない人はいないと思いつつ)

    最初にこれを積んだのがシビックSiR(EF9)で、そこからシビックにもこの技術が入っていきます。

    やがて1997年には初代シビック TYPE R、EK9が登場。

    1.6L自然吸気のB16Bは185PSを8,200rpmで発生し、車重は約1,050kg。

    ホンダが狙ったのは、単なる最高出力だけではなく、高回転まで回したときの伸びやアクセルレスポンスでした。

    シビック TYPE R・X のアルミ製ペダル(1999年)
    画像:本田技研工業

    もちろん185PSという数字そのものも、当時としては十分にすごい。

    でも、あの時代のホンダ車を好きな人が語るものは、それだけではありません。

    回していく。

    音が変わる。

    エンジンの表情が変わる。

    もう一度そこまで回したくなる。

    速く走るためだけなら、必ずしも必要ではない感覚です。

    でも、運転する人間にとっては大きな価値になる。

    かつての本田技研工業が得意だったのは、こういう「スペック表には最後まで書き切れない価値」をクルマへ入れることだったのかもしれません。

    巨大企業になるほど、「説明できる性能」が強くなる——2020年の組織再編

    ところがホンダは、その後さらに巨大になります。

    二輪、四輪、パワープロダクツ、航空機。

    世界中で事業を展開し、研究開発費も設備投資も桁違いになる。

    株主も創業者中心ではなく、機関投資家や市場の株主へ分散していきます。

    これは会社として成功した結果です。

    そして企業が大きくなるほど、商品開発にも事業としての合理性が求められます。

    象徴的なのが2020年の組織再編です。

    Hondaはそれまで本田技術研究所が担っていた四輪の商品開発機能の多くを本田技研工業本体へ統合。

    営業、生産、開発、購買を一体化し、企画から量産までをより効率的に運営する体制へ変更しました。

    一見すると、かつて独立させた研究所を元へ戻したようにも見えます。

    ただ、Hondaの説明はもう少し面白い。

    量産車の商品開発は、失敗できない。

    一方、将来技術の研究は、99%失敗するようなテーマにも挑まなければならない。

    だから両者を分ける。

    本田技術研究所には、ロボティクスやエネルギー、新しいモビリティなど、未知の領域を改めて任せることになりました。

    つまりこれは、昔の思想を完全に捨てたというより、

    巨大企業になったHondaなりに、挑戦と事業を仕分け直した

    と見る方が正しいでしょう。

    FL5型シビックType Rは、ものすごく良いクルマです

    https://kuruma-dna.com/fl5

    ここで現代のシビックを見てみます。

    現行FL5型シビック TYPE R。

    2.0L VTEC TURBO。

    330PS。

    420Nm。

    6速MT。

    Hondaが積み上げてきたFFスポーツの技術を使い、ニュルブルクリンクでも圧倒的な速さを証明してきたクルマです。

    シビックType R(FL5)
    画像:本田技研工業

    性能だけ見れば、昔のシビックとは比較になりません。

    シャシーも空力もタイヤも電子制御も、遥かに高度です。

    そしてHonda自身も、FL5では速さだけでなく、ドライバーの感情に訴える「driving pleasure」を追求したと説明しています。

    だから、「昔のHondaには技術があったけど今のHondaにはない」という話ではありません。

    そんなものは数字を見ればすぐ否定できます。

    今のHondaの技術力は、間違いなく高い。

    でも、ここで少し別の疑問が残ります。

    「すごい性能」と「欲しくなる理由」は、同じなのか

    330PS。

    420Nm。

    ニュルブルクリンクのラップタイム。

    高剛性ボディ。

    大型ブレーキ。

    シビック TYPE R(FL5)の加速性能グラフ
    画像:本田技研工業

    こういう性能には、大きな強みがあります。

    価値を説明しやすいのです。

    なぜこのクルマに高い金額を払うのか。

    なぜこの部品を開発するのか。

    なぜこの性能が必要なのか。

    数字で示せます。

    一方、

    「高回転まで回したくなる」

    「シフトを一段落として、もう一度加速したくなる」

    「速くなくても、このクルマで遠回りしたくなる」

    という価値は、かなり説明しづらい。

    何馬力分なのか。

    何秒短縮できるのか。

    何台多く売れるのか。

    測ることが難しい。

    それでも本田宗一郎時代の本田技研工業は、そういうものへ平然と金を使いました。

    そもそも創業者本人が、研究開発について「すぐ貸借対照表に成果が出るものではない」と株主へ説明していた会社です。

    だから、昔のHondaと今のHondaの違いを考えるなら、

    「技術力が落ちた」

    ではなく、

    「説明しづらい価値に、会社としてどこまで賭けられるのか」

    という問いの方が近いのかもしれません。

    そして、これはHondaだけの問題ではありません。

    創業者企業が巨大な上場企業へ成長するとき、ほとんどの会社が一度は直面する問題です。

    それを望んだのは、本田宗一郎本人だった

    だから、現在のHondaを見て、

    「昔のHondaは良かった」

    だけで終わるのも少し違います。

    今の資本構成も。

    プロ経営者による経営も。

    創業家に依存しない組織も。

    ある意味では全部、本田宗一郎と藤澤武夫が望んだHondaの姿だからです。

    NS-X(1989年発表時のNSX)の走行イメージ
    画像:本田技研工業

    二人は自分たちの子供へ会社を継がせませんでした。

    自分たちがいなくても研究できる仕組みを作りました。

    若い後継者へ会社を渡し、自分たちは経営から退きました。

    「本田宗一郎という天才がいなくなったら終わる会社」にしないためです。

    その実験は成功しました。

    本田宗一郎が亡くなってから30年以上。

    経営から退いてからなら半世紀以上が経っています。

    それでもHondaは世界最大級のモビリティ企業として残っている。

    その事実だけでも、創業者の設計は恐ろしく優秀だったと言えます。

    ただ。

    会社を残すことと、

    創業者が持っていた狂気まで残すことは、同じではありません。

    Super-ONEのBOOSTモード——2026年、少しだけ「本田技研工業」が戻ってきた

    そんなことを考えていたら、2026年。

    Hondaから少し妙なクルマが出てきました。

    皆さんもご存知、Super-ONEです。

    小型EV。

    ベースはN-ONE e:。

    ここまでなら、時代に合わせた普通の電気自動車にも見えます。

    ところがHondaは、このEVに専用の「BOOSTモード」を入れました。

    通常47kWの最高出力を70kWまで引き上げる。

    ここまでは分かります。

    速くなるからです。

    でも、その先がおかしい。

    7段の仮想有段シフト制御。

    さらに、

    アクセル操作に合わせて鳴る仮想エンジンサウンド。

    Super-ONEのパドルシフト(7段の仮想有段シフト制御を操作する)
    画像:本田技研工業

    EVには本来、どちらも必要ありません。

    モーターは変速しなくても走れます。

    エンジンもないので、エンジン音も必要ありません。

    効率だけを考えるなら、なくてもいい。

    それでもHondaは作りました。

    理由も、かなり分かりやすい。

    Honda自身がBOOSTモードについて、

    カーボンニュートラルの時代でも「操る喜び」を届けるためのものだと説明しています。

    これです。

    最高出力なら数字にできます。

    航続距離も数字にできます。

    充電時間も数字にできます。

    でも、

    「変速しないEVを、わざわざ変速しているように感じさせた方が楽しい」

    は、かなり説明しづらい価値です。

    そのためだけに制御を作る。

    音を作る。

    演出を作る。

    効率の世界から少しだけはみ出して、人間がどう感じるかに開発費を使う。

    なんだか、ずいぶん昔の会社に似ています。

    https://kuruma-dna.com/super-one

    本田技研工業は、まだHondaの中に残っている

    本田宗一郎の本田技研工業は、もうありません。

    それでいいのだと思います。

    そもそも本田宗一郎本人が、自分なしでも続く会社を作ろうとしたのですから。

    現在のHondaは、世界中の株主から資本を預かり、何十万人もの生活と巨大な事業を背負って動く企業です。

    1950年代の会社と同じ意思決定ができるはずもありません。

    そして、するべきでもないでしょう。

    ただ、その巨大な組織のどこかで、

    「これ、必要ではないけど楽しくない?」

    と言う人がいて、

    それに会社の金を使うことが許されて、

    本当に商品になって出てくる。

    Super-ONE フロント7:3スタイリング(ブーストバイオレット・パール)
    画像:本田技研工業

    Super-ONEを見る限り、

    どうやらHondaの中には、まだ少しだけ「本田技研工業」が残っているようです。

    この記事に出てきたクルマの系譜

    参考

  • 豊田章男はなぜ許されたのか——株主127万人のトヨタでGRヤリスが生まれた理由

    豊田章男はなぜ許されたのか——株主127万人のトヨタでGRヤリスが生まれた理由

    GRヤリス(GXPA16)というクルマは、冷静に考えるとかなりおかしな存在です。

    3ドア専用ボディ。専用の1.6L直列3気筒ターボ「G16E-GTS」。専用の4WDシステム「GR-FOUR」。カーボンルーフ。そして、普通のヤリスとはまったく違う思想で作られたシャシー。

    ただ、本当におかしいのはクルマそのものではありません。

    トヨタが、このクルマを作るための「GR Factory」まで用意したことです。

    少量生産のスポーツカーのために、通常の量産ラインとは異なる生産方式を持つ専用ラインを元町工場に新設する。

    しかも、それをやったのは創業家が株式の過半数を握るオーナー企業ではありません。

    世界中の機関投資家や金融機関に株式を持たれ、127万人を超える株主を抱える巨大上場企業、トヨタ自動車です。2026年3月末時点の筆頭株主は日本マスタートラスト信託銀行で12.8%。かつて9.15%を保有していた豊田自動織機も、2026年5月にはその大部分を売却しています。大株主上位10社を見ても、豊田章男の名前はありません。

    では、なぜそんな会社でGRヤリスのようなクルマが生まれ、専用工場まで作ることができたのか。

    その背景を追うと、豊田章男という経営者がトヨタに残したもの、そしてその異質なまでのカリスマ性が少し違った形で見えてきます。

    スポーツカーは、巨大上場企業と相性が悪い

    https://kuruma-dna.com/skyline-nissan-infiniti-emblem

    まず前提として、スポーツカーは企業経営だけを考えれば、かなり扱いづらい商品です。

    SUVやミニバンのような大量販売を期待しにくい。それなのにボディ、エンジン、駆動系、足回りなどに専用品が増えれば、開発費はかさみます。

    販売台数が少なければ、その開発費を回収できる台数も少ない。

    さらに専用の生産設備まで必要になれば、話はもっと厳しくなります。

    会社側からすれば当然、

    「その投資をするなら、もっと売れる車種に使ったほうがいいのではないか」

    という議論が出てきます。

    これは株主がスポーツカー嫌いだから、という話ではありません。

    資本を預かっている以上、その金をどこに使い、どのように企業価値へ戻すのかを説明しなければならない。当たり前の話です。

    そしてトヨタは、その説明から逃れられる会社ではありません。

    トヨタの資本構成を見る——「豊田家の会社だからできた」は成立しない

    TOYOTA GAZOO Racingのステージに立つ豊田章男
    画像:トヨタ自動車(撮影:三橋仁明/N-RAK PHOTO AGENCY)

    トヨタという社名と豊田章男という名前を並べると、どうしても「創業家の人だから好きにできた」という印象があります。

    ただ、トヨタ自動車の資本構成を見ると話はそれほど単純ではありません。

    2026年3月末時点で株主は約127万人。筆頭株主は信託銀行で、ほかにも日本カストディ銀行、日本生命、State Street、JPMorganなど巨大な機関投資家の名義が並びます。デンソーやアイシンなどトヨタグループ企業による保有もありますが、創業家が議決権で会社を支配する構造ではありません。

    つまり豊田章男は、

    「俺の会社なんだから、俺が作りたいクルマを作る」

    とは言えない立場だったわけです。

    むしろ興味深いのは、その状態でモータースポーツに参戦し続け、GRというブランドを育て、最後にはスポーツカー専用の生産体制まで会社の中に作ってしまったことです。

    豊田章男が手に入れたのは、大量の議決権ではありません。

    「この人に任せた結果、会社が良くなる」という信用でした。

    4610億円の営業赤字から始まった、豊田章男の社長時代

    豊田章男・佐藤恒治・内山田竹志(2023年の社長交代発表)
    画像:トヨタ自動車

    豊田章男が社長に就任したのは2009年6月。

    直前の2009年3月期、トヨタはリーマンショックの直撃を受け、4610億円の営業赤字を計上していました。前年には2兆2700億円あった営業利益が、一気に赤字へ転落した格好です。

    つまり、豊田章男の社長時代は「余裕のあるトヨタを好きに改造した」ところから始まったわけではありません。

    むしろ会社としてかなり苦しいところからスタートしています。

    その後も大規模リコール、東日本大震災、タイ洪水、超円高と、トヨタには次々と問題が襲いかかりました。

    それでも2023年3月期、豊田章男が社長を退く直前の年度には2.7兆円の営業利益を確保。

    後任の佐藤恒治社長自身が、この数字について「前期の決算の数字は豊田章男・前社長の14年にわたる取り組みによるところ」と説明しています。

    ここがかなり重要だと思います。

    スポーツカーを作ったから、豊田章男が自由になったのではありません。

    本業で結果を出し続けたから、普通なら通りにくい挑戦にも説得力が生まれた。

    順番はそちらです。

    モータースポーツを「社長の趣味」で終わらせなかった——GAZOO Racingの位置づけ

    2019年仕様ヤリスWRC
    画像:トヨタ自動車

    ただ、利益を出しているだけならGRヤリスにはつながりません。

    豊田章男がもうひとつやったのは、モータースポーツそのものを企業活動の中に組み込んだことでした。

    GAZOO Racingの原点は2007年。

    当時副社長だった豊田章男は、マスタードライバーだった成瀬弘らとニュルブルクリンク24時間レースへ挑戦します。

    現在のGAZOO Racing自身が、その原点を「トヨタにこんなクルマは作れないだろう」と言われた悔しさだったと振り返っています。

    ここから始まった活動が、やがてWRC(世界ラリー選手権)への復帰につながります。

    そしてトヨタは、GRヤリスで従来とは逆のクルマづくりを始めました。

    市販車を作ってから競技車両へ改造するのではなく、

    まずモータースポーツで勝てるクルマを考え、それを市販車に落とす。

    GRヤリスは、トヨタがこの考え方で開発した最初の市販車でした。

    これなら、レースに使う金にも説明がつきます。

    レースは広告ではなく、開発です。

    ドライバーは宣伝要員ではなく、評価者です。

    壊れた部品は失敗ではなく、次の改良点です。

    実際、GRヤリスは発売後もレースやラリーへ投入され、「壊しては直す」を繰り返しながら改良され続けています。

    モータースポーツを「社長が好きだからやるもの」から、「より良い市販車を作るための開発工程」に変換した。

    ここまで来れば、会社として金を使う意味が変わってきます。

    GRヤリス(GXPA16)は、その経営判断が形になった最初の商品

    GRヤリス RZ(GXPA16)の走行シーン
    画像:トヨタ自動車

    2020年に登場したGRヤリスは、その新しいやり方を初めて真正面から商品化したクルマです。

    普通のヤリスを速くしたわけではありません。

    3ドアボディを用意し、新開発の1.6L直列3気筒ターボ「G16E-GTS」とGR-FOURと呼ばれるスポーツ4WDを組み合わせ、アルミ製パネルやCFRP製ルーフまで投入しました。

    クルマそのものの成り立ちは、型式レベルで別の記事にまとめています。

    https://kuruma-dna.com/gxpa16

    ここまでなら、まだ「高コストなスポーツモデルを一台作った」という話で済みます。

    ただ、トヨタはそこで止まりませんでした。

    GRヤリスを作るために、生産方法そのものを変えます。

    それがGR Factoryです。

    GR Factoryとは何か——元町工場に作られた「仕組み」

    元町工場のGR Factory 検査ライン
    画像:トヨタ自動車

    GR Factoryは、トヨタ自動車 元町工場の中に作られた、GRスポーツカー専用の生産ラインです。

    コンベアを捨てた生産方式

    普通の自動車工場を想像すると、長いコンベアの上を大量のクルマが流れていく姿が浮かぶと思います。

    GR Factoryは違います。

    複数のセルをAGV(無人搬送車)でつなぎ、ボディ工程も組立工程もコンベアレス。通常の量産ラインでは実現しづらい高剛性ボディや高精度な組み立てに対応しながら、多品種少量生産でも生産性を維持できるよう設計されました。

    高技能者を集め、その技能を次に残す場として

    さらにトヨタ各地から高技能者を集め、その技術を次世代へ伝える場所としての役割まで持たされています。

    つまりGR Factoryは、

    「GRヤリスを手作りするための豪華な専用工場」

    ではありません。

    少量の特殊なクルマを、巨大メーカーの中で継続的に作れるようにするための仕組みです。

    ここが決定的に違います。

    ワンオフ的にGRヤリスを作っただけなら、豊田章男という強い社長がいた時代だけの特殊案件で終わったかもしれません。

    でも生産方式まで作ってしまえば、次のクルマにも使える。

    実際、トヨタ自身がGRヤリスによって「モータースポーツで勝てるスポーツカーを自社で作る能力を復活させた」と振り返っています。

    豊田章男が残した大きなものは、GRヤリスそのものよりも、こちらなのかもしれません。

    株主を黙らせたのではなく、「面白いクルマ」を企業価値の言葉に翻訳した

    ここまで来ると、最初の疑問に戻れます。

    なぜ、外部株主の多い巨大上場企業でこんな挑戦が許されたのか。

    おそらく答えは、「豊田章男だから株主が何も言えなかった」ではありません。

    取締役再任賛成率という「通信簿」

    実際、株主は普通に意思表示します。

    豊田章男会長の取締役再任賛成率は2024年には71.93%まで落ちました。一方で2025年には96.72%、2026年には95.97%となっています。創業家だから自動的に承認される会社ではないことは、この数字からも分かります。

    それでもGRへの投資が続いたのは、モータースポーツやスポーツカーを単なる道楽として扱わなかったからでしょう。

    モータースポーツは開発。

    GRはブランド。

    GR Factoryは新しい少量生産技術と技能伝承の場。

    そこで作られるクルマは、トヨタというメーカーそのものの魅力を高める商品。

    こうやって一見すると非合理な活動を、企業活動の中にひとつずつ接続していった。

    「面白いクルマを作りたいから金を使わせてくれ」ではなく、「面白いクルマを作ることが、長期的にトヨタを強くする」と証明していったわけです。

    これなら、外部株主が多いことと、面白いクルマを作ることは両立できます。

    豊田章男が残したのは、クルマではなく「挑戦が許される構造」

    GR GT(プロトタイプ)とGR GT3(プロトタイプ)
    画像:トヨタ自動車

    GRヤリスが成功したことで、GRというブランドは一段階変わりました。

    その後GRカローラ(GZEA14H)が登場し、GRヤリス自身もモータースポーツで壊され、直され、進化を続けています。

    さらに現在では、GR GTやGR GT3といった、より本格的なスポーツカーまでトヨタ社内で開発されるようになりました。

    20年前のトヨタを知る人からすれば、かなり不思議な光景です。GRスープラ(A90)をBMWと組んで復活させた時期を思い返すと、その変化の幅がよく分かります。

    巨大な量産メーカーが、V8ツインターボのスポーツカーを自社で作り、その技術を次世代へ残そうとしている。

    GRヤリスは、その流れの切込隊長でした。

    豊田章男が作ったのは、単なるスポーツカーブランドではありません。

    巨大上場企業の中でも、面白いクルマを作り続けられる理由と仕組みそのものだった。

    GR Factoryは、その思想が工場という物理的な形になった場所です。

    この話の始まりは、GRヤリスではない

    ひとつだけ付け加えるなら。

    この話をGRヤリスから始めると、まるで2020年に突然すべてが始まったように見えます。

    もちろん、そんなことはありません。

    GRヤリスより前。

    まだ今のGRが完成する前に、NCP131型ヴィッツを使って、トヨタはもっと小さな規模で同じような挑戦を始めていました。2017年に150台限定で売られた、ヴィッツGRMNです。

    https://kuruma-dna.com/ncp131

    もしかすると、あのヴィッツGRMNがいなければ、GR Factoryも存在しなかったかもしれません。

    それは、また別の系譜で追ってみたいと思います。

    まとめ:資本構成から見ると、豊田章男が何をしたのかが分かる

    • トヨタ自動車の株主は約127万人。筆頭株主は信託銀行で、創業家が議決権で支配する資本構成ではない。「豊田家の会社だからできた」では説明がつかない。
    • 豊田章男の社長時代は4610億円の営業赤字から始まり、14年かけて2.7兆円の営業利益に到達した。本業の結果が、通りにくい投資への説得力になった。
    • 取締役再任賛成率は2024年に71.93%まで落ち、2025年96.72%、2026年95.97%。株主は普通に意思表示する会社である。
    • それでもGRヤリス(GXPA16)とGR Factoryが成立したのは、モータースポーツを開発工程として企業活動に接続し直したから。残ったのは一台のクルマではなく、少量生産と技能伝承の仕組みだった。

    この記事に出てきたクルマの系譜

    参考

    数字は以下の一次情報に基づいています。

  • クラウン – S230系(16代目)【「いつかはクラウン」を自ら壊した再定義】

    クラウン – S230系(16代目)【「いつかはクラウン」を自ら壊した再定義】

    クラウンが変わった、という話ではないんです。

    クラウンを「変えなければならなかった」という話です。

    2022年に登場した16代目クラウン、S230系。セダン専用だったはずの車名が、突然4つのボディタイプを持つシリーズへと再編されました。

    これはモデルチェンジではなく、ブランドの再定義です。なぜトヨタはここまで踏み込んだのか。

    その理由を追うと、クラウンという車名が背負ってきた重さと、それが限界に達した瞬間が見えてきます。

    セダンの王様が抱えていた構造的な問題

    トヨタ・クラウン S230
    画像:芯正/CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/s210-crown

    クラウンは1955年の初代から数えて67年、日本の高級車市場をほぼ一手に担ってきた車種です。「いつかはクラウン」というフレーズが象徴するように、出世の階段を上った先にある車、という文化的ポジションを長く維持してきました。

    ただ、その構図は2010年代に入って急速に崩れていきます。理由はシンプルで、セダンそのものが売れなくなったからです。国内のセダン市場は縮小の一途で、SUVやミニバンに主役を奪われていました。クラウンの販売台数も、最盛期の年間20万台超から、15代目の末期には年間3万台前後にまで落ち込んでいます。

    しかも、購買層の高齢化も深刻でした。クラウンの平均購入年齢は60代後半に達していたとされ、若い世代がクラウンに憧れるという構図はほぼ消えていました。つまり、「いつかは」と思ってくれる人がいなくなりつつあったわけです。

    トヨタとしては、クラウンという名前を畳むか、意味ごと作り替えるかの二択を迫られていた。そして選んだのは後者でした。

    4つのボディという異例の回答

    https://kuruma-dna.com/s180

    2022年7月、トヨタは16代目クラウンを発表しましたが、その中身は衝撃的でした。従来のセダンではなく、クロスオーバー、スポーツ、セダン、エステートという4つのボディタイプを「クラウン」という名のもとに展開するという構成です。しかも最初に市場投入されたのは、セダンではなくクロスオーバーでした。

    これは単に「SUVっぽいクラウンを出した」という話ではありません。車名をモデル名からブランド名に格上げした、という構造転換です。レクサスがそうであるように、「クラウン」という傘の下に複数の車種をぶら下げるという発想に切り替えたわけです。

    豊田章男社長(当時)は発表時に「クラウンはこれからも進化し続ける」と語りましたが、その言葉の裏には、セダンという形式にしがみついていてはクラウンの名前ごと沈む、という危機感があったはずです。

    GA-Kプラットフォームと世界市場への転換

    https://kuruma-dna.com/s140

    技術的に見ると、S230系はTNGA世代のGA-Kプラットフォームをベースにしています。これは従来のクラウンが使ってきたFR(後輪駆動)レイアウトからの大きな転換です。GA-KはFF(前輪駆動)ベースのプラットフォームで、カムリやハリアーと基盤を共有しています。

    FRを捨てたことに対して、クラウンらしさが失われるという批判は当然ありました。ただ、トヨタ側の狙いは明確です。クラウンを国内専用車から世界戦略車に変えるためには、グローバルで展開しやすいプラットフォームが必要でした。実際、16代目クラウンは約40の国と地域で販売されており、これは歴代クラウンで初めてのことです。

    パワートレインも時代を反映しています。クロスオーバーには2.5Lハイブリッドと2.4Lターボハイブリッドの2種類が用意され、後者はデュアルブーストハイブリッドと呼ばれる新システムです。2.4Lターボエンジンにモーターを組み合わせ、システム出力は約349psに達します。

    この数字は、先代15代目の3.5LマルチステージハイブリッドV6に匹敵するもので、排気量を下げながら動力性能を維持するという、今の時代に求められるバランスを実現しています。

    クロスオーバーという「最初の一手」の意味

    https://kuruma-dna.com/s120

    4つのボディのうち、最初に発売されたクロスオーバーは、全高1,540mm前後という微妙な数値を持っています。SUVと呼ぶには低く、セダンと呼ぶには高い。この中途半端さこそが、実は狙いでした。

    トヨタが目指したのは、セダンの走行安定性とSUVの視界の高さ・乗降性を両立する「新しいカタチ」です。クラウンの既存ユーザーがSUVに流れていた現実を踏まえると、セダンの延長線上にありつつSUV的な使い勝手を持つ車は、理にかなった提案でした。

    デザインも大きく変わりました。リアに向かって流れるファストバックのシルエットは、歴代クラウンのどれとも似ていません。フロントグリルの造形も、威厳よりもスポーティさを前面に出しています。好みは分かれますが、「これまでのクラウンとは違う」と一目で伝えるという役割は果たしています。

    セダン・スポーツ・エステートが埋める領域

    https://kuruma-dna.com/s60-s70-crown

    クロスオーバーに続いて展開されたスポーツは、よりSUV色の強いボディを持ち、全高も1,620mm前後に上がっています。ハリアーやRAV4と市場が重なる部分はありますが、クラウンの名を冠することで上質さを差別化する狙いです。

    セダンは2024年に登場しましたが、こちらはFCEV(燃料電池車)とハイブリッドの2本立てという、やや実験的な構成です。従来のクラウンセダンの顧客、つまり法人需要やショーファー用途を意識しつつ、FCEVで環境対応の旗を立てるという二重の役割を担っています。全長5,030mm、ホイールベース3,000mmという堂々たるサイズは、センチュリーとレクサスLSの間を埋める存在です。

    エステートは2024年後半に追加されたワゴンボディで、欧州市場を強く意識した展開です。日本ではワゴン市場が極めて小さいため、国内よりも海外での存在感を期待されたモデルと言えます。

    つまり4つのボディは、それぞれ異なるマーケットと顧客層に向けた「入口」として設計されています。クラウンという名前に複数の入口を設けることで、ブランドの間口を広げるという戦略です。

    賛否の構造と、壊すことの意味

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    当然ながら、S230系クラウンへの評価は割れています。FRを捨てたこと、セダン一本の潔さを失ったこと、クロスオーバーという形が中途半端に見えること。長年のクラウンファンからの批判は少なくありません。

    一方で、販売実績を見ると、クロスオーバーは発売直後から好調な受注を記録しました。月販目標3,200台に対して、発売1ヶ月で約2万5,000台を受注したという数字は、少なくとも市場が「新しいクラウン」を拒絶しなかったことを示しています。

    ここで考えるべきは、「変えなかったら何が起きていたか」です。セダン専用のままクラウンを続けていたら、販売台数はさらに落ち込み、いずれモデル廃止に追い込まれていた可能性が高い。実際、マークXやプレミオといったトヨタのセダン群は次々と消えていきました。

    クラウンが生き残るためには、クラウンであることの定義そのものを変える必要があった。S230系は、まさにその決断の産物です。

    68年目の再出発が問いかけるもの

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    16代目クラウンは、系譜という観点で見ると異質な存在です。1台の車のモデルチェンジではなく、車名の意味そのものを書き換えた世代だからです。

    ただ、振り返ってみると、クラウンは常に「その時代の日本の高級車とは何か」を体現してきた車種でもあります。初代は国産車で初めてまともに高速走行できるセダンでしたし、8代目はハイソカーブームの頂点を象徴しました。時代に合わせて自らを変えてきたという意味では、S230系の大転換もクラウンらしいと言えなくもありません。

    問題は、この再定義が10年後、20年後に「正しかった」と言えるかどうかです。4つのボディがそれぞれ定着し、クラウンというブランドが世界で通用するようになれば、S230系は英断として語られるでしょう。逆に、どのボディも中途半端に終われば、迷走の始まりとして記憶されるかもしれません。

    ただ、ひとつ確かなことがあります。トヨタは、クラウンを「惰性で続ける」ことを選ばなかった。68年の歴史を持つ看板を、あえて壊して作り直すという判断には、相応の覚悟があったはずです。

    S230系クラウンは、その覚悟の形です。

  • クラウン – S210系【「いつかはクラウン」の最終形態】

    クラウン – S210系【「いつかはクラウン」の最終形態】

    「いつかはクラウン」という言葉が、まだかろうじて意味を持っていた最後の世代かもしれません。

    2012年に登場した14代目クラウン・S210系は、伝統のFRセダンという形式を守りながら、同時にそのフォーマット自体の限界とも向き合わなければならなかった一台です。

    結果として生まれたのは、保守と革新を両方やろうとした、極めてトヨタらしいクルマでした。

    ピンクのクラウンが意味したこと

    2013
    画像:先従隗始/CC0(Wikimedia Commons)

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    S210系クラウンを語るうえで避けて通れないのが、発売時に大きな話題を呼んだ「ピンクのクラウン」です。正式にはリボーンピンクと呼ばれたこの特別仕様は、2013年の発売直後に期間限定で設定されました。SNSやニュースで一気に拡散され、クラウンという名前を普段クルマに興味のない層にまで届けた。

    ただ、あれは単なる話題づくりではありません。背景にあったのは、クラウンのユーザー層の高齢化という深刻な課題です。先代のS200系(13代目)の時点で、クラウンの購買層の平均年齢は60代後半に達していたとされています。このまま何もしなければ、クラウンは「おじいちゃんのクルマ」として静かに消えていく。その危機感が、あのピンクを生んだわけです。

    豊田章男社長(当時)が「クラウンを壊してもいい」と開発陣に伝えたという話は、当時のメディアでも繰り返し紹介されました。壊すというのは、もちろん物理的にではなく、「クラウンとはこうあるべき」という固定観念のことです。この号令がなければ、S210系はもっとおとなしいクルマになっていたはずです。

    FRセダンとしての正常進化

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    とはいえ、ピンクのインパクトばかりが語られるのはもったいない。S210系の本質は、FRセダンとしての完成度を一段引き上げたところにあります。

    プラットフォームは先代S200系から引き続きゼロクラウン(S180系)以来の流れを汲むものですが、ボディ剛性の向上やサスペンションジオメトリーの見直しが徹底されました。特にロイヤル系に採用された2.5Lハイブリッド(2AR-FSE+モーター)は、先代から大幅に制御を改良し、動力性能と燃費のバランスを高い次元で両立させています。JC08モード燃費で23.2km/Lという数値は、このクラスのFRセダンとしては驚異的でした。

    アスリート系には3.5L V6の2GR-FSEも引き続き設定され、こちらはスポーティな走りを求める層に応えています。ただし、時代の主役は明確にハイブリッドへ移っていました。実際、販売の中心はロイヤルハイブリッドとアスリートハイブリッドに集中しています。

    「つながる」への布石

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    S210系でもうひとつ見逃せないのが、コネクティッド機能への本格的な踏み込みです。トヨタはこの世代のクラウンに、DCM(車載通信機)を標準搭載しました。これはトヨタの量販車としては先駆的な取り組みです。

    2018年のマイナーチェンジ(実質的に大幅改良を受けた後期型、通称「220系」と混同されがちですが、S210系自体も2015年の改良で通信機能を強化しています)に至る流れの中で、クラウンは「つながるクルマ」の実験台としての役割も担っていました。

    要するに、クラウンはトヨタにとって単なる高級セダンではなく、新技術を最初に載せるショーケースでもあったわけです。これは初代から続くクラウンの伝統でもあります。日本初の純国産乗用車として誕生した初代クラウンの精神は、形を変えてこの世代にも受け継がれていました。

    保守層との綱引き

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    ただし、S210系には明確なジレンマもありました。若返りを図りたいという意志と、既存の顧客を手放せないという現実の間で、デザインも商品企画も綱引き状態だったのです。

    エクステリアは、先代よりもワイド感を強調した造形になりました。特にアスリート系のフロントフェイスはかなり押し出しが強く、従来のクラウンユーザーからは賛否が分かれています。一方でロイヤル系は比較的穏やかな顔つきを維持しており、この「二枚看板」戦略自体が、ターゲットの分裂を物語っていました。

    インテリアに目を向けると、質感は確実に向上しています。しかし、レクサスGS(L10系)やドイツ勢のEセグメントと比較すると、素材の選び方や仕立ての思想にやや古さが残る部分もありました。クラウンが「国内専用車」であるがゆえに、グローバル競争の中で磨かれるレクサスとの差が、この世代あたりから目に見えるようになってきたのです。

    「最後のFRクラウン」前夜

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    S210系の後を継いだ15代目・S220系(2018年〜)は、「アスリート」「ロイヤル」「マジェスタ」というグレード体系を廃止し、クラウンを一本化するという大改革に踏み切りました。そしてその次の16代目では、ついにクロスオーバーやスポーツといったセダン以外のボディ形態にまで拡張されています。

    つまりS210系は、「ロイヤル」「アスリート」「マジェスタ」という三本柱が揃った最後のクラウンでもあるのです。この体系は、S170系(11代目)でアスリートが登場して以来、長らくクラウンの商品構成の骨格を成してきました。それが終わったという事実は、クラウンの歴史の中でも大きな転換点です。

    マジェスタについても触れておくべきでしょう。S210系のマジェスタは、先代まで独立した車種だったものがクラウンのグレードとして統合された形です。2.5Lハイブリッドではなく3.5Lハイブリッド(2GR-FXE)を搭載し、ホイールベースも延長されています。ショーファー的な使い方にも対応するこのグレードの存在が、S210系クラウンの守備範囲の広さを示していました。

    「日本のセダン」が持っていた意味

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    S210系クラウンは、革命的なクルマではありません。むしろ、伝統的なFRセダンという形式の中で、できることをすべてやろうとした集大成に近い存在です。

    ハイブリッドで燃費を稼ぎ、コネクティッドで時代に追いつき、デザインで若返りを図り、それでいてロイヤルの静粛性やマジェスタの格式は手放さない。全方位に気を配った結果、どこかひとつが突き抜けるということはなかったかもしれません。でも、それこそがクラウンというクルマの宿命でもあります。

    日本の道路事情に合わせた5ナンバーサイズから始まり、時代とともに大きくなり、豪華になり、速くなり、そしてついにはセダンという枠すら超えていった。S210系は、その長い物語の中で「セダンとしてのクラウン」が最も成熟した瞬間のひとつとして記憶される一台です。

    派手な一台ではないかもしれない。

    でも、60年以上続いた「日本の高級セダン」という概念が、どこに行き着いたのかを知りたければ、このクルマを見るのがいちばん早いと思います。