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  • ブルーバード – U12【SR20を手にした、走るブルーバードの到達点】

    ブルーバード – U12【SR20を手にした、走るブルーバードの到達点】

    ブルーバードという名前に、どんなイメージを持つでしょうか。

    堅実なファミリーセダン、お父さんのクルマ、あるいは「技術の日産」を支えた屋台骨。どれも間違いではありません。

    ただ、1987年に登場した7代目・U12型は、その印象をかなり塗り替えにかかったモデルでした。後に日産の主力ユニットとなるSR20エンジンを初めて積み、スポーツグレードを本気で拡充した一台。

    「走り」を語れるブルーバードとして、このクルマはひとつの頂点だったと言えます。

    ブルーバードが「走り」に振れた時代背景

    1980年代後半の日本は、バブル経済の追い風もあってクルマの高性能化が一気に加速した時期です。ユーザーは実用性だけでなく、走りの質やスポーティさを求めるようになっていました。ミドルクラスセダンでさえ、ただ広くて燃費がいいだけでは戦えない空気がありました。

    先代のU11型ブルーバードは、直線基調のシャープなデザインと4WDターボモデルの投入でそれなりに存在感を示していました。ただ、ライバルであるトヨタ・コロナやホンダ・アコードも着々と進化しており、日産としてはブルーバードの商品力をもう一段引き上げる必要があった。U12型は、そうした競争環境のなかで「走り」を明確な武器にしようとした世代です。

    SR20エンジンという転換点

    U12型を語るうえで外せないのが、SR20型エンジンの初搭載です。SR20DE、つまり2.0リッター直列4気筒DOHCの自然吸気ユニット。このエンジンは後にシルビアやプリメーラなど日産の多くの車種に載ることになる、いわば「日産の90年代を支えた心臓」の原点でした。

    それまでのブルーバードに積まれていたCA型エンジンと比べると、SR20DEはレスポンスの鋭さとトルクの厚みが段違いでした。140馬力という数値自体は今の感覚では控えめですが、1.2トン台のボディに載せれば十分に軽快です。高回転まで気持ちよく回り、日常域でもトルクが痩せない。実用エンジンでありながら回す楽しさがある、という絶妙なバランスが持ち味でした。

    さらにターボ仕様のSR20DETも用意されています。こちらは最高出力205馬力。1980年代末のミドルセダンとしては相当な数字です。この「ファミリーセダンの顔をして200馬力オーバー」という構図は、当時の日産がブルーバードに何を期待していたかをよく物語っています。

    SSSという看板の本気度

    ブルーバードのスポーツグレードといえば、SSS(スーパースポーツセダン)の名が欠かせません。この名前自体は1960年代の410型から続く由緒あるもので、ブルーバードの走りの系譜そのものです。U12型では、このSSSがかなり本気の仕立てになっていました。

    SSS系グレードには前述のSR20DE/DETが搭載され、足回りも専用セッティングが施されています。フロントにマクファーソンストラット、リアにマルチリンクというサスペンション構成は、当時のこのクラスとしては凝った設計でした。とくにリアのマルチリンクは、コーナリング時の安定性と乗り心地の両立に効いています。

    加えて、ビスカスカップリング式のフルタイム4WDモデルも設定されていました。ATTESA(アテーサ)と呼ばれるこのシステムは、後にスカイラインGT-Rで有名になるATTESA E-TSの前身にあたる技術です。ブルーバードのようなミドルセダンで4WDターボという組み合わせは、ラリーフィールドを意識したものでもありました。実際、U12型ブルーバードはオーストラリアやアジアのラリーで実戦投入されています。

    デザインとパッケージの割り切り

    U12型のエクステリアは、先代U11の直線的なシャープさから一転して、やや丸みを帯びた流線型に変わりました。1980年代後半は空力を意識したデザインが世界的なトレンドで、U12もその流れに乗った形です。Cd値(空気抵抗係数)の低減は、高速巡航時の安定性や燃費にも直結します。

    ボディバリエーションは4ドアセダンとハードトップの2本立て。ハードトップはBピラーを持たないスタイルで、見た目のスマートさを重視した仕様です。当時の日産はローレルやセフィーロでもハードトップを展開しており、U12ブルーバードもその流れのなかにありました。

    室内は、決して広々というわけではありません。走りを重視した結果、ホイールベースの使い方がやや走行性能寄りになっている印象があります。ファミリーユースだけを考えるなら、同時期のコロナやアコードのほうがゆとりがあったかもしれません。ただ、それはU12が何を優先したかの裏返しでもあります。

    評価と限界、そして残したもの

    U12型ブルーバードは、走りの面では高い評価を受けました。とくにSR20エンジンの出来は「ブルーバードにはもったいない」とまで言われたほどです。SSSの4WDターボモデルは、当時のスポーツセダンとしてかなり戦闘力の高い一台でした。

    一方で、販売面ではやや苦戦した側面もあります。1980年代末から1990年代初頭にかけて、日産は車種を増やしすぎていました。ブルーバードの上にはローレル、横にはスタンザ、下にはパルサーと、似たような価格帯・サイズのクルマがひしめいていた。ユーザーから見ると「どれを選べばいいのか」がわかりにくくなっていたのです。

    また、ブルーバードという名前自体が持つ「堅実なセダン」のイメージと、U12が目指した「走りのスポーツセダン」の方向性が、必ずしも噛み合っていなかったという指摘もあります。走りを求める層はシルビアやスカイラインに流れ、実用性を求める層はもっと穏やかなクルマを選ぶ。U12はその間で、少し居場所を見つけにくかった部分があったのかもしれません。

    それでも、U12型が残した遺産は大きいものでした。SR20エンジンはここから始まったという事実だけでも、日産の歴史における存在意義は十分です。ATTESA 4WDの技術的蓄積もまた、後のGT-Rへとつながっていきます。

    走るブルーバードの、最も濃い一滴

    ブルーバードの歴史を振り返ると、世代ごとに「実用重視」と「走り重視」の振り子が揺れてきたことがわかります。U12型は、その振り子がもっとも走り側に振れた世代でした。

    後継のU13型は再びデザインや快適性に軸足を移し、U14型を最後にブルーバードの名前はシルフィへと引き継がれていきます。SSSの名を冠して、SR20ターボと4WDを武器にラリーフィールドにまで出ていったセダン。それがU12型ブルーバードという存在でした。

    派手な主役ではなかったかもしれません。ただ、日産がミドルセダンで「走り」を本気で追求したらどうなるか、その答えをもっとも純粋に体現したモデルだったと思います。

    SR20という名機の産声を聞いたクルマとして、系譜のなかに確かな足跡を残しています。

  • ブルーバード – P910【FRの最後を飾った、変革前夜の集大成】

    ブルーバード – P910【FRの最後を飾った、変革前夜の集大成】

    ブルーバードという名前は、日産の歴史そのものと言っていい。初代310から始まった系譜は、日本のモータリゼーションとともに育ち、トヨタ・コロナとの「BC戦争」で鍛えられてきました。

    その長い歴史の中で、910型は少し特殊な立ち位置にいます。FRブルーバードの最終世代であり、同時に次のU11でFF化するという大転換の直前に置かれたモデルだからです。

    つまり910は、「終わり」と「始まり」の両方を背負っていた。しかもそれを、ただの繋ぎではなく、商品として非常に高い完成度で成立させたところに、このクルマの面白さがあります。

    1979年という時代の空気

    910型が登場した1979年は、第二次オイルショックの真っ只中です。燃費性能への要求はますます厳しくなり、排ガス規制も強化の一途をたどっていました。日本の中型セダン市場は、「速さ」よりも「効率」と「実用性」が問われる時代に入りつつあった。

    一方で、ライバルのトヨタ・コロナはすでにFF化の検討を進めていました。ホンダのアコードはFF+横置きエンジンという構成で着実に支持を広げていた。FRレイアウトのセダンは、室内空間や燃費の面でFFに対して構造的な不利を抱えていたのです。

    日産もこの流れを当然把握していました。次期モデルでのFF転換はほぼ既定路線だったとされています。ただ、だからといって910を「消化試合」にするつもりはなかった。むしろ、FRでやれることをすべてやり切るという姿勢が、このモデルには色濃く出ています。

    先代810の反省と、910の設計思想

    910を語るうえで、先代の810型(通称「ブルU」)の存在は外せません。810は1976年に登場し、サーフィンラインと呼ばれた伝統的なデザインを捨て、角張ったスタイルに一新しました。ただ、商品としての評価は正直なところ芳しくなかった。

    デザインの変化が急すぎたこと、そして肝心の走りの質感が価格に見合わないという声があったのです。コロナとの販売競争でも苦戦が続きました。日産としては、910で確実に巻き返す必要があった。

    910の開発チームが重視したのは、基本性能の底上げです。ボディ剛性の向上、サスペンションジオメトリの見直し、そして軽量化。派手な新機軸よりも、走る・曲がる・止まるの地力を高めることに注力しました。

    結果として910は、FR時代のブルーバードとしては最も洗練されたシャシーを持つクルマになりました。特にSSS系のグレードでは、4輪独立懸架の足回りがしっかり仕事をして、当時のオーナーからも「走りが素直」という評価を得ています。

    ハッチバックとターボという新しい武器

    910で見逃せないのが、ハッチバックモデルの追加です。ブルーバードといえばセダンというイメージが強いですが、910ではセダン、ハードトップに加えてハッチバックを新設しました。これは欧州市場を意識した判断でもあり、国内でも「セダンだけじゃない選択肢」を提示する狙いがありました。

    当時、日本ではハッチバックという形式自体がまだ市民権を得きっていない時期です。シビックやファミリアが切り拓いた道はあったものの、中型車クラスでのハッチバックは冒険でした。910のハッチバックが爆発的に売れたわけではありませんが、「ブルーバードは保守的なクルマ」という印象を崩す一手にはなった。

    そしてもうひとつ、1980年の追加で登場したターボモデル。Z18ET型エンジンを搭載したSSS-Sターボは、国産セダンにおけるターボ普及の先駆けのひとつです。当時のターボはまだ「速くするための飛び道具」という位置づけが強かったですが、910ターボはFRシャシーとの相性もあって、スポーティセダンとしてかなり楽しめる仕上がりでした。

    ラリーでの活躍も見逃せません。910ブルーバードはサファリラリーをはじめとする国際ラリーに参戦し、実績を残しています。FRレイアウトのセダンがダートを駆け抜ける姿は、当時のモータースポーツファンに強い印象を与えました。この「SSSはラリーで走るクルマだ」というイメージは、ブルーバードのブランド価値を支える大きな柱だったのです。

    売れた理由は「堅実さ」にある

    910ブルーバードは、商業的にも成功したモデルです。先代810の苦戦を受けて、日産はデザインを奇をてらわない端正な方向にまとめました。直線基調でありながら品のあるプロポーションは、法人需要から個人ユーザーまで幅広く受け入れられた。

    グレード構成も巧みでした。実用本位のベースグレードから、SSSのスポーティ路線、さらにターボまで。ひとつの車種で複数の顧客層をカバーする、いわゆる「フルライン戦略」がきちんと機能していたのです。

    ただ、すべてが順風だったわけではありません。FRレイアウトゆえに室内空間、とくに後席の広さではFF勢に対して不利でした。燃費面でもFFの構造的な優位性には抗えない部分があった。910が「最後のFR」になったのは、こうした物理的な限界が背景にあります。

    それでも910は、FRという制約の中で最大限の回答を出したモデルでした。走りの質、デザインのバランス、グレード展開の幅。どれをとっても「やれることはやった」と言える完成度です。

    FF化への橋渡しとして

    1983年、後継のU11型ブルーバードが登場します。駆動方式はFFに転換され、エンジンは横置きに。ブルーバードの歴史における最大の転換点です。このFF化は時代の必然ではありましたが、「ブルーバードらしさ」が薄れたという声も少なくなかった。

    U11以降のブルーバードは、実用性や効率では確かに進化しました。しかし、SSSの名が持っていた「FRスポーツセダン」としての個性は、駆動方式の変更とともに変質していきます。910のSSSターボが持っていたあの走りの味は、FF化後には同じ形では再現できなかった。

    だからこそ、910は単なる「旧世代の最終型」ではなく、ひとつの時代の到達点として記憶されるべきモデルです。FRブルーバードの技術的蓄積がすべて注ぎ込まれ、なおかつ次の時代を見据えたハッチバックやターボという要素も取り込んだ。過去と未来の両方に足をかけた、稀有な一台でした。

    変革の前に、完成させること

    クルマの世代交代において、「次で大きく変わるから、今回は手を抜く」という判断はありえます。実際、そういうモデルは歴史上少なくない。しかし910ブルーバードは、その逆を行きました。

    次がFF化されることを分かっていながら、FRとしての完成度を限界まで追求した。ラリーで戦い、ターボを載せ、ハッチバックという新しい形も試した。「終わるからこそ全力を出す」という姿勢が、このクルマには確かにあります。

    910型ブルーバードは、日産が本気で作った「FRセダンの答え」です。それは同時に、ブルーバードという車名が持っていた原初的な魅力——後輪で路面を蹴って走るセダンの楽しさ——の、最後の結晶でもありました。

  • ブルーバード – P710【角型ヘッドライトが告げた「脱・質実」宣言】

    ブルーバード – P710【角型ヘッドライトが告げた「脱・質実」宣言】

    ブルーバードという名前は、日産の中で特別な重みを持っています。初代から数えて6代目にあたるP810型が登場したのは1976年。この世代は、それまでの堅実路線から一歩踏み出して、見た目のモダンさで勝負しようとした転換点でした。角型ヘッドライトという、当時としてはかなり先進的な意匠を正面に据えたそのスタイリングには、日産なりの危機感と野心が同居しています。

    ブルーバードが置かれていた苦しい立ち位置

    1970年代半ばの日産は、セダン市場で微妙なポジション争いを強いられていました。トヨタ・コロナという強力なライバルが常に目の前にいて、しかも社内にはバイオレットという兄弟車まで存在していた。ブルーバードとバイオレットは車格がほぼ重なっており、ユーザーから見ると「何が違うの?」という状態だったわけです。

    先代の610型ブルーバードUは、質実剛健を地で行くようなクルマでした。悪いクルマではなかったものの、正直なところ華がなかった。コロナが着実にモデルチェンジで洗練されていく中で、ブルーバードは「堅いけど地味」という印象に甘んじていた面があります。

    つまり810型には、バイオレットとの差別化と、コロナに対する商品力の底上げという二つの課題が同時にのしかかっていたのです。

    角型ヘッドライトが意味したもの

    810型ブルーバードを語るうえで、まず触れなければならないのが角型ヘッドライトです。今でこそ当たり前ですが、1976年当時、角型ヘッドライトは国産車ではまだ珍しい存在でした。丸目が主流だった時代に、あえてシャープな四角い目を採用したことは、デザイン上の大きな賭けだったと言えます。

    この選択には明確な意図がありました。バイオレットが比較的コンパクトでスポーティな方向を志向していたのに対し、ブルーバードは「上質さ」と「先進性」で差をつけようとしたのです。角型ヘッドライトは、その象徴でした。直線基調のボディラインと合わせて、当時の感覚では相当にモダンな印象を与えるデザインだったはずです。

    ただし、このモダンさは万人受けしたかというと、少し話が複雑です。ブルーバードの顧客層は保守的なユーザーが多く、「急に顔が変わった」ことへの戸惑いもあったとされています。新しさを打ち出すことと、既存ファンの期待に応えること。この二律背反は、810型が最初に直面した壁でした。

    中身の進化──堅実だが着実だった機械面

    見た目の変化が目立つ810型ですが、機械的な部分も地道にアップデートされています。エンジンはL型直列4気筒を中心としたラインナップで、1.6Lから2.0Lまでを揃えていました。L型エンジンは日産の屋台骨とも言えるユニットで、信頼性の高さには定評があります。

    サスペンションはフロントがストラット、リアがリーフスプリングの4リンクという、当時のこのクラスでは標準的な構成。飛び抜けた先進性はありませんが、実用セダンとしての基本をしっかり押さえた設計です。

    注目すべきは、上級グレードの充実です。810型では内装の質感向上や装備の拡充に力が入れられ、ブルーバードを「ちょっといいセダン」として位置づけ直す意図が見えます。バイオレットが実用車寄りのキャラクターを担う分、ブルーバードはワンランク上の満足感を提供する──という棲み分けの構図が、810型でようやく明確になりました。

    コロナとの戦い、そして時代の壁

    810型の最大のライバルは、やはりトヨタ・コロナでした。1970年代のコロナは販売力が圧倒的で、ブルーバードはつねに追いかける立場にありました。810型はデザインの刷新と上級感の演出で対抗しようとしましたが、販売台数でコロナを逆転するには至っていません。

    もうひとつ、810型が直面した時代的な制約があります。1970年代後半は排出ガス規制の強化が続いた時期で、エンジンのパワーダウンは避けられませんでした。L型エンジンも例外ではなく、規制対応によって本来の持ち味であるトルク感がやや薄れた面は否めません。

    これは810型だけの問題ではなく、同時代のほぼすべての国産車が抱えていたハンデです。ただ、その中でブルーバードがデザインや装備で差別化を図ろうとしたのは、エンジン性能だけでは勝負できない時代への適応だったとも読めます。

    810型が系譜に残したもの

    810型ブルーバードの生産期間は1976年から1979年と、決して長くはありません。次の910型が登場すると、ブルーバードは一気にヒット作へと化けます。910型は「技術の日産」を体現するモデルとして大成功を収めるわけですが、その下地を作ったのは810型だったと言えるでしょう。

    810型が試みた「質実剛健からの脱却」「バイオレットとの明確な差別化」は、結果として910型以降のブルーバードの方向性を決定づけました。上質さと先進性で勝負するという路線は、910型のターボモデルやアテーサ(4WD)搭載モデルへとつながっていきます。

    もし810型が従来どおりの地味な路線を踏襲していたら、910型の成功はなかったかもしれない。そう考えると、810型は「成功の前夜」を担った世代です。華々しい主役ではなかったけれど、ブルーバードという名前が次の時代でも生き残るための布石を、確かに打っていた。

    角型ヘッドライトの採用ひとつとっても、810型には「変わらなければいけない」という切実な意志が宿っています。その意志が正しかったことは、後の歴史が証明しています。

  • ブルーバード – P510【日本車が世界で通用すると証明した一台】

    ブルーバード – P510【日本車が世界で通用すると証明した一台】

    「日本車は安いだけ」。1960年代のアメリカでは、それが常識でした。その空気を変えた一台があります。日産ブルーバード510。日本では堅実なファミリーセダンとして売られたこの車が、海を渡った先でまったく別の評価を受けることになります。

    先代の挫折と、設計思想の転換

    510を語るには、まずその前に何があったかを知る必要があります。先代の410型ブルーバードは、ピニンファリーナによるデザインを採用したものの、日本市場では賛否が割れました。とくに尖ったテールまわりのデザインは「鯨」と呼ばれ、販売面でトヨタ・コロナに大きく水をあけられた世代です。

    日産にとって410の苦戦は深刻でした。ブルーバードはダットサンブランドの屋台骨であり、ここでの敗北はそのまま会社の体力に直結します。次のモデルでは、見た目の冒険よりも中身の実力で勝負するという方向に舵が切られました。

    四輪独立懸架という選択

    510型の最大の特徴は、このクラスとしては異例だった四輪独立懸架サスペンションの採用です。フロントにストラット、リアにセミトレーリングアームという構成は、当時のBMW 1600や2002といった欧州スポーツセダンと同じ考え方でした。

    これは偶然ではありません。開発を主導したエンジニアたちは、欧州車の走行性能を明確にベンチマークとしていたとされています。要するに、「安くて壊れにくい日本車」ではなく、「ちゃんと走る日本車」を作ろうとした。その意志がサスペンション形式に表れています。

    リジッドアクスルが当たり前だったこの価格帯で、四輪独立懸架を量産車に載せるのは簡単な判断ではありません。コストは上がるし、生産の難度も上がる。それでもやったのは、410で負けた悔しさと、ブルーバードという看板を立て直すという強い意志があったからでしょう。

    L型エンジンとパッケージの合理性

    エンジンもこの世代で一新されました。搭載されたのは新開発のL13型 1.3L SOHCエンジン、そして上位グレードにはL16型の1.6Lが用意されています。OHVからSOHCへの転換は、高回転域での効率と出力向上を狙ったものです。

    このL型エンジンは、後に日産の主力ユニットとして長く使われることになります。つまり510は、日産のエンジン戦略においても転換点だったわけです。単にブルーバード一車種の話ではなく、メーカー全体の技術基盤を切り替えるタイミングでもありました。

    ボディは先代より全長がやや短くなり、全幅もコンパクトにまとまっています。ただし室内空間は犠牲にしていない。直線基調のシンプルなデザインは、410のような好き嫌いを生みにくく、どの市場にも受け入れられやすいものでした。見た目で冒険せず、中身で攻める。その設計思想が外観にもはっきり出ています。

    北米での「Datsun 510」という衝撃

    510ブルーバードの真価が発揮されたのは、むしろ日本の外でした。北米では「Datsun 510」の名前で販売され、ここで予想を超えるヒットとなります。

    理由は明快です。四輪独立懸架による安定した走り、SOHCエンジンの軽快な回転フィール、そして欧州スポーツセダンの半額以下という価格。BMW 2002に匹敵する走りが、はるかに安く手に入る。アメリカの自動車メディアはこの事実に驚き、高い評価を与えました。

    とくに重要だったのは、510が単に「安い代替品」として評価されたのではなく、「この価格でこの走りは本物だ」という認められ方をしたことです。日本車が価格以外の理由で選ばれる。それは1960年代においては画期的なことでした。

    さらにSCCA(スポーツカー・クラブ・オブ・アメリカ)のレースでも510は活躍します。ピーター・ブロックが率いるBREレーシングのDatsun 510は、トランザムシリーズの2.5Lクラスで圧倒的な強さを見せました。レースでの実績は、510の走行性能が看板倒れではないことを証明し、ブランドイメージを大きく押し上げています。

    日本市場での評価と、もうひとつの顔

    一方、日本国内での510ブルーバードは、もう少し地味な存在でした。コロナとの販売競争は続いていましたし、日本のユーザーにとっては「よくできたファミリーセダン」という認識が主だったはずです。

    ただ、SSSグレードの存在は見逃せません。SUツインキャブ仕様のエンジンにクロスレシオのミッション、そして四輪独立懸架。SSSは国内のラリーシーンでも結果を残しており、とくにサファリラリーでの活躍は日産のモータースポーツ史において重要なエピソードです。

    つまり510は、日本では「堅実なセダン」、北米では「驚異のバリューカー」、モータースポーツでは「本格的な競技車両」と、市場によってまったく異なる顔を持っていた。ひとつの車がこれだけ多面的に評価されること自体が、設計の懐の深さを物語っています。

    510が残したもの

    510ブルーバードの最大の遺産は、「日本車は走りでも勝負できる」という事実を世界に示したことです。それまでの日本車は、耐久性や経済性で評価されることはあっても、ハンドリングや走行性能で欧州車と比較されることはほとんどありませんでした。

    510の成功がなければ、後のフェアレディZの北米でのブレイクも、違う形になっていたかもしれません。Datsun 510が築いた「日産は走れるメーカーだ」という信頼が、Z432やS30フェアレディZを受け入れる土壌を作ったと見るのは、決して大げさな話ではないでしょう。

    後継の610型は、より大きく、より豪華な方向に進みました。それは時代の要請でもありましたが、510が持っていた「小さくて、軽くて、よく走る」という美点は薄れていきます。だからこそ、510は今なお特別な存在として語られるのです。

    派手なスーパーカーでもなく、革新的なメカニズムの塊でもない。けれど、正しい設計思想を正しい価格で提供した。

    510ブルーバードは、日本の自動車産業が「世界で戦える」と初めて胸を張れた車だったのだと思います。

  • シロッコ R – 1K8【ゴルフの皮を脱いだ265馬力の本気】

    シロッコ R – 1K8【ゴルフの皮を脱いだ265馬力の本気】

    ゴルフGTIがあるのに、なぜフォルクスワーゲンはもう一台スポーツモデルを作ったのか。しかもプラットフォームは同じ。エンジンも基本は同じ。

    それなのに、シロッコ Rという車はゴルフとはまるで違う顔をしていました。

    2009年、VWが出した答えは「同じ素材でも、まとめ方を変えれば別の車になる」という、ある意味で非常にドイツ的な合理性でした。

    シロッコ復活の文脈

    シロッコという名前は、1974年の初代から数えて長い歴史を持っています。初代と2代目はゴルフベースのスポーツクーペとして一定の人気を得ましたが、1992年に2代目が生産終了して以降、シロッコの名は長い休眠に入りました。16年もの空白です。

    2008年、3代目シロッコ(型式1K8)が復活します。ベースとなったのはゴルフVと共通のPQ35プラットフォーム。ゴルフVIがPQ35の改良版を使っていた時期と重なりますから、要するにゴルフGTIと骨格は兄弟です。ただ、ボディは完全に専用設計でした。全高はゴルフより約70mm低く、全幅は逆に広い。重心が低く、見た目にもワイド&ローなプロポーションが与えられていました。

    VWがシロッコを復活させた狙いは明確です。ゴルフGTIはあくまで「実用車のスポーツ版」であり、ブランドイメージを引き上げるにはもう少し非日常感のあるモデルが必要だった。かといってアウディTTほど高価格帯に振る余裕はない。シロッコは、その隙間を埋めるために呼び戻された名前でした。

    「R」が意味するもの

    2009年に追加されたシロッコ Rは、そのシロッコの頂点に立つモデルです。搭載される2.0L TSIエンジンは最高出力265PS、最大トルク350Nm。ゴルフGTI(当時のMk6)が211PSだったことを考えると、50PS以上の上乗せです。これはただのチューニングではなく、エンジン内部のハードウェアから手が入っています。

    具体的には、ピストン、コンロッド、インタークーラーなどが専用品に置き換えられ、ターボチャージャーも大型化されています。排気系も専用設計。同じEA888型エンジンをベースにしながら、出力特性はかなり異なるものに仕上げられていました。

    トランスミッションは6速DSG(デュアルクラッチ)が標準。駆動方式はFFです。ここが重要なポイントで、同時期のゴルフ Rが4WDだったのに対し、シロッコ Rはあえて前輪駆動のまま265馬力を受け止めるという判断をしています。物理的にはPQ35プラットフォームに4WDを組み込むことは可能だったはずですが、VWはそうしなかった。

    理由はおそらく二つあります。ひとつは重量。4WD化すれば当然重くなり、シロッコの持ち味である軽快さが損なわれる。もうひとつは、ゴルフ Rとの差別化です。同じパワートレインで同じ駆動方式なら、わざわざ二台作る意味が薄れてしまう。シロッコ RはFFであることで、ゴルフ Rとは明確に異なるキャラクターを持つことになりました。

    FFで265馬力をどうさばくか

    FF車に265馬力。これは2009年当時としてはかなり攻めた数字です。トルクステアやトラクション不足が懸念されるスペックですが、VWはここに電子制御のXDS(エレクトロニック・ディファレンシャルロック)を投入しました。

    XDSは、コーナリング時に内輪にわずかにブレーキをかけることで、擬似的にLSD(リミテッド・スリップ・デファレンシャル)の効果を生み出す仕組みです。機械式LSDほどダイレクトではありませんが、日常的な走行からスポーツ走行まで幅広い領域で安定したトラクションを確保できる。VWらしい、電子制御で実用性とスポーツ性を両立させるアプローチでした。

    足回りもシロッコ R専用のセッティングが施されています。車高はノーマルのシロッコから約10mm下げられ、スプリングレートもダンパー減衰力も引き上げられました。ブレーキはフロントに345mmのベンチレーテッドディスクを装備。タイヤは235/35R19という、このクラスとしてはかなり攻めたサイズです。

    実際に走らせると、このクルマの美点はパワーそのものよりもシャシーの剛性感にあったと言われます。ゴルフよりも低い重心と、専用ボディによるねじり剛性の高さが、FFの限界を引き上げていた。265馬力のFF車でありながら、破綻しにくいという評価は、当時の欧州メディアでも一致していました。

    ゴルフとの距離感という設計思想

    シロッコ Rを語るうえで避けて通れないのが、「ゴルフ Rとどう違うのか」という問いです。プラットフォームは同じ、エンジンも同系統、価格帯も大きくは離れていない。この二台は、VW社内でも明確に棲み分けが意識されていました。

    ゴルフ Rは4WDで全天候型のハイパフォーマンスハッチ。実用性を犠牲にせず、速さを手に入れるクルマです。一方のシロッコ Rは、2ドアクーペという時点で実用性を一段切り捨てている。後席は狭く、荷室もゴルフより小さい。その代わりに得たのは、低い着座位置と、ドライバーを包み込むようなコクピット感覚でした。

    つまり、シロッコ Rは「速さ」ではなく「走る気分」で差別化されたクルマだったと言えます。数値上のパフォーマンスではゴルフ Rに及ばない部分もありましたが、ドライビングの没入感という点では、シロッコ Rのほうが上だったという声は少なくありません。

    インテリアもゴルフとは異なる専用デザインが与えられていました。ダッシュボードの造形、シートの形状、メーターの意匠。どれもゴルフの部品を流用しつつ、見え方を変えるための工夫が施されています。コストを抑えながら別の世界観を作る。VWはこの手法が非常にうまいメーカーです。

    売れなかったが、意味はあった

    正直に言えば、シロッコ Rは大ヒットモデルにはなりませんでした。日本市場では2009年に導入されましたが、販売台数は限定的でした。理由はいくつかあります。まず価格。シロッコ R の日本での販売価格は約490万円前後で、これはゴルフ Rとほぼ同等か、むしろ割高に感じられる水準でした。

    4WDでもない、後席も狭い、ブランド力ではアウディTTに及ばない。合理的に考えれば、ゴルフ Rを選ぶほうが賢い。そういう判断をした人が多かったのは事実でしょう。

    ただ、それはシロッコ Rの存在意義を否定するものではありません。このクルマが担っていたのは、VWというブランドに「遊びの余地」があることを示す役割でした。ゴルフだけでは表現できない世界観を、シロッコという別の器で見せる。それ自体がブランド戦略として機能していたわけです。

    2017年、シロッコは生産終了を迎えます。後継モデルは発表されていません。PQ35プラットフォームからMQBへの世代交代が進むなかで、シロッコのような専用ボディのクーペを維持するコストが見合わなくなったのだと考えられます。SUV全盛の時代に、2ドアクーペの居場所はますます狭くなっていました。

    FFスポーツクーペという選択肢の記録

    シロッコ Rは、VWが「ゴルフの外側」で本気を出した数少ない例です。同じプラットフォーム、同じエンジンファミリーを使いながら、まったく違う乗り味と世界観を作り上げた。その手腕は、量産メーカーとしてのVWの底力を示すものでした。

    265馬力のFF車という、ある意味で無理のあるスペックを電子制御とシャシー設計で成立させたことも評価に値します。力任せではなく、制御で整える。これは後のゴルフGTI クラブスポーツやゴルフGTI TCRといった高出力FFモデルの下地になった技術でもあります。

    シロッコという名前が再び復活するかどうかは、今のところわかりません。ただ、ゴルフの合理性とは別の文脈でスポーツを語れるVW車が存在したという事実は、このブランドの懐の深さを物語っています。

    1K8シロッコ Rは、その証拠として記録されるべき一台です。

  • ブルーバード – P310【「名前」が生まれた瞬間のクルマ】

    ブルーバード – P310【「名前」が生まれた瞬間のクルマ】

    「ブルーバード」という名前を聞いて、どの世代を思い浮かべるかは人によってまったく違います。510を挙げる人もいれば、910やU12を語る人もいる。けれど、そもそもこの名前が最初に冠されたクルマがどんな存在だったのか、ちゃんと語られることは意外と少ない。1959年に登場したP310型。これが「ブルーバード」の出発点です。

    ダットサン1000の次に来たもの

    P310型を語るには、まずその前身であるダットサン1000(210型)の存在を押さえておく必要があります。210型は1957年に登場し、翌年にはオーストラリアのモービルガス・トライアルでクラス優勝を果たすなど、日産の小型乗用車として国際的な実績を積み始めていました。

    ただ、210型はあくまで「ダットサン1000」という排気量ベースの呼称で販売されていました。型式で呼び、排気量で区別する。当時の日本車はだいたいそんな感じです。クルマに「固有の名前」を与えて、ブランドとして育てるという発想は、まだ一般的ではありませんでした。

    そこに登場したのがP310型です。日産はこのモデルから「ブルーバード」というペットネームを正式に採用しました。メーテルリンクの童話『青い鳥』に由来するこの名前は、当時の日産社内公募で選ばれたとされています。つまりこのクルマは、日産が「型式番号ではなく名前で覚えてもらう」という戦略に舵を切った最初の一台だったわけです。

    ピニンファリーナの影

    P310型のデザインを語るうえで避けて通れないのが、イタリアのカロッツェリア・ピニンファリーナとの関係です。当時の日産は、乗用車デザインの近代化を急いでいました。210型まではどこか武骨で実用本位のスタイリングでしたが、P310型ではイタリアンデザインの手法を取り入れることで、一気にモダンな印象へ転換しています。

    具体的には、ピニンファリーナがデザインの方向性に関与したとされており、丸みを帯びたボディライン、前後に流れるようなフェンダーの処理など、当時の欧州車に通じるプロポーションが与えられました。ただし、最終的なデザインの仕上げは日産社内で行われており、「ピニンファリーナ・デザイン」と言い切れるかどうかは、資料によって見解が分かれます。

    要するに、丸ごとイタリアに外注したわけではなく、「欧州の感覚を自社に取り込む」というプロセスの産物だったと見るのが妥当でしょう。この手法は、当時のトヨタがクラウンで目指した方向性とも重なります。日本の自動車メーカーが「見た目の質」を本気で意識し始めた時代の空気が、P310型には色濃く反映されています。

    1000ccという現実的な選択

    P310型に搭載されたエンジンは、直列4気筒OHVの988cc・C型エンジン。最高出力は34馬力です。現代の感覚で見れば驚くほど非力ですが、当時の日本の道路事情と税制を考えれば、これは極めて合理的な選択でした。

    1950年代後半の日本では、小型自動車の排気量枠が税制上の大きな区切りになっていました。1000cc以下に収めることで、ユーザーの維持コストを抑える。マイカー時代の入り口に立っていた日本市場において、これは「走りの性能」よりもはるかに重要な商品企画上の判断です。

    のちにP312型として1200ccエンジン(E型)を搭載したモデルも追加されますが、最初に1000ccで出したこと自体が、日産のマーケティング的な計算を物語っています。まず広い層に届けて、そのあとで上を伸ばす。この段階的な展開は、後のブルーバードシリーズでも繰り返される基本戦略になりました。

    モータースポーツへの布石

    P310型は、モータースポーツの世界でも存在感を示しています。とりわけ注目すべきは、先代210型から続くラリーへの積極参戦です。日産はP310型でも国内外のラリーイベントに挑み、小型車としての耐久性と信頼性をアピールしました。

    この時代のモータースポーツ参戦は、純粋な速さの追求というよりも、「壊れない」「ちゃんと走り切る」ことの証明でした。まだ日本車の品質に対する国際的な信頼が確立されていない時代です。完走すること自体がブランドの説得力になる。P310型はそうした文脈のなかで、日産の「走って証明する」姿勢を引き継いだモデルでした。

    この姿勢はやがて、次世代の410型、そして名車510型へと受け継がれていきます。510型がサファリラリーで総合優勝を果たすのは1970年のこと。その系譜の最初の一歩が、P310型の時代にすでに踏み出されていたわけです。

    BC戦争の始まり

    P310型の登場は、日本の自動車史におけるもうひとつの大きな文脈とも接続しています。それが、いわゆる「BC戦争」です。Bはブルーバード、Cはトヨタのコロナ。この二台が1960年代を通じて繰り広げた販売競争は、日本のモータリゼーションの象徴的なエピソードとして語り継がれています。

    P310型が登場した1959年は、初代コロナ(ST10型)がまだ市場で苦戦していた時期にあたります。つまり、この時点ではブルーバードが明確に優位に立っていました。日産の販売網の強さ、210型で築いた実績、そしてモダンなデザイン。P310型は、BC戦争の「先手」を打ったクルマだったと言えます。

    もちろん、トヨタはその後コロナを急速に進化させ、1960年代半ばには形勢を逆転します。しかし、そもそもこの競争構造を成立させたのは、P310型が「名前を持った大衆車」として市場に定着したからです。名前のないクルマ同士では、こうしたライバル関係は成り立ちません。

    名前が系譜を作った

    P310型の最大の功績は、スペックでも販売台数でもなく、「ブルーバード」という名前を日本のクルマ文化に刻んだことです。この名前があったからこそ、410、510、610……と続く系譜が「ひとつの物語」として認識されるようになりました。

    型式番号だけで呼ばれていたら、それぞれのモデルは単なる後継機種にすぎません。しかし「ブルーバード」という固有名が通底することで、世代を超えた比較や愛着が生まれる。510が名車として語り継がれるのも、910がヒット作として記憶されるのも、すべてはP310型が「名前」を持って生まれたことに端を発しています。

    1959年という、日本がまさにモータリゼーションの入り口に立っていた年。そこに「青い鳥」と名付けられた小さな1000ccセダンが現れた。技術的に革新的だったわけではありません。圧倒的に速かったわけでもない。けれどこのクルマは、日産に「名前で勝負する」という文化を植え付けた。それは、スペックシートには載らない、しかし決定的に重要な遺産です。

  • セドリック – P430【オイルショックの灰から立ち上がった高級車の再定義】

    セドリック – P430【オイルショックの灰から立ち上がった高級車の再定義】

    1975年という年は、日本の自動車メーカーにとって「何を作るか」よりも「何を作れるか」が先に来た時代でした。

    オイルショックの余波、排ガス規制の強化、そして高級車という存在そのものへの逆風。そんな中で登場した日産セドリック・430型は、単なるモデルチェンジではなく、高級車の意味をもう一度問い直す作業だったと言えます。

    オイルショック後の高級車という矛盾

    1973年の第一次オイルショックは、日本の自動車市場を根底から揺さぶりました。ガソリン価格の高騰、省エネルギーの社会的要請、そして「大きなクルマ=悪」という空気。高級セダンを主力のひとつに据える日産にとって、これは深刻な問題でした。

    先代の230型セドリックは1971年にデビューしており、オイルショック前の空気の中で設計されたクルマです。大排気量エンジンと堂々としたボディは、高度経済成長の延長線上にあるものでした。ところが社会の空気が一変した1970年代半ば、日産は次のセドリックで「豪華さ」と「時代への適合」を両立させなければならなくなったわけです。

    要するに、430型は「高級車を作りたい」という意思と「もう以前のようには作れない」という制約が同時に存在する中で生まれたモデルです。この緊張関係こそが、このクルマの性格を決定づけています。

    排ガス規制という技術的な壁

    430型が直面した最大の技術的課題は、昭和50年・51年排出ガス規制への対応でした。これは当時の日本の自動車メーカーにとって、エンジン開発の最優先課題です。排ガスをきれいにしながら、パワーと燃費を両立させる。言うのは簡単ですが、当時の技術水準では極めて難しい注文でした。

    日産はこの世代で、直列6気筒のL型エンジンを引き続き搭載しつつ、排ガス浄化システムの改良に注力しています。NAPS(Nissan Anti-Pollution System)と呼ばれた排ガス対策技術を投入し、規制をクリアしました。ただ、この対策はどうしても出力の低下を伴います。

    L20型やL28型といったエンジンは、本来もっとパワフルに回せるユニットです。しかし排ガス規制対応のためにチューニングを抑えざるを得ず、結果として「走りの力強さ」は先代比で控えめになった面があります。これは日産だけの問題ではなく、トヨタのクラウンも含めた同時代の高級車すべてが抱えたジレンマでした。

    つまり430型のエンジニアリングは、「いかに速く走るか」ではなく「いかに規制をクリアしながら高級車としての品格を保つか」という方向に振られていたわけです。この時代の高級車を評価するときに、スペックの数字だけ見ても本質は見えてきません。

    デザインの刷新が語るもの

    430型セドリックのデザインは、先代230型からかなり大きく変わりました。直線基調のシャープなボディラインに切り替わり、全体的にフォーマルで端正な印象を強めています。これは1970年代中盤の世界的なデザイントレンドとも合致していました。

    面白いのは、この直線的なデザインが単なる流行追随ではなく、高級車としての「威厳」の表現方法を変えたという点です。先代までの丸みを帯びたラインは、どちらかといえば「ふくよか」で「おおらか」な高級感でした。430型では、それを「引き締まった」「知的な」高級感へと転換しています。

    オイルショック後の社会では、あからさまな豪華さよりも節度ある上質さのほうが受け入れられやすかった。430型のデザイン変更は、そうした空気を読んだ判断だったと見ることができます。

    インテリアも同様に、質感の向上が図られました。ウッドパネルやソフトパッドの使い方に工夫が見られ、「派手ではないが確実に上質」という方向性が打ち出されています。これは後の日産高級車のインテリア思想にもつながる考え方です。

    兄弟車グロリアとの関係

    セドリックを語るうえで外せないのが、兄弟車であるグロリアとの関係です。430型世代でもセドリックとグロリアは基本設計を共有しつつ、フロントマスクやリアまわりのデザインで差別化を図っていました。

    セドリックがよりフォーマルでオーナードリブン寄りの性格を持つのに対し、グロリアはややスポーティな味付けを意識している。ただ、この世代ではその差は微妙なものであり、実質的にはほぼ同じクルマと言ってもよいレベルです。

    この「セド・グロ」体制は日産の販売チャネル戦略に根ざしたものでした。日産店で売るセドリック、日産モーター店で売るグロリア。同じクルマを二つの販売網で売り分けるという手法は、トヨタのクラウン一本に対する日産なりの回答だったわけです。効率的ではありますが、ブランドの独自性という点では薄まるリスクも抱えていました。

    クラウンとの終わらない競争

    430型セドリックの最大のライバルは、言うまでもなくトヨタ・クラウンです。この世代のクラウンは5代目のMS80/MS100系で、やはり排ガス規制対応に苦しみながらも堅実な販売を続けていました。

    セドリックとクラウンの競争は、単なる販売台数の争いではありません。法人需要、ハイヤー・タクシー需要、そして個人オーナーの指名買い。それぞれの領域で、どちらがより信頼されるかという総合力の勝負です。

    正直に言えば、この時代のセドリックはクラウンに対して販売面で苦戦する場面が増えていました。トヨタの販売力とブランド構築力は強力で、日産はセドリック/グロリアの二本立てをもってしてもクラウンの牙城を崩しきれなかった。430型はその構造的な課題を引き継いだ世代でもあります。

    ただ、だからといって430型に魅力がなかったわけではありません。直列6気筒の滑らかさ、日産らしい足回りのしっかり感、そしてフォーマルなデザイン。好む人には確実に響く個性を持っていました。問題は、それが市場全体のシェアには直結しにくかったということです。

    系譜の中での430型の意味

    430型セドリックは、1979年に後継の430型後期を経て、1983年にY30型へとバトンを渡します。Y30型以降、セドリックはV型6気筒エンジンの搭載やターボ化など、より積極的な技術投入で差別化を図っていくことになります。

    振り返ってみると、430型は「我慢の世代」だったと言えるかもしれません。やりたいことよりも、やらなければならないことが先に来た時代。排ガス規制をクリアし、オイルショック後の市場に適応し、それでも高級車としての体面を保つ。華やかさには欠けるかもしれませんが、この世代があったからこそ、日産は高級セダンのラインを途切れさせずに済んだのです。

    そしてもうひとつ見逃せないのは、430型で確立された直線基調のフォーマルデザインが、後の日産高級車の方向性を決定づけたことです。Y30、Y31と続くセドリックの造形は、430型が示した「端正さ」の延長線上にあります。

    逆風の中で生まれたクルマは、得てして地味に見えます。でも、その地味さの裏には「この状況でも高級車を作り続ける」という意思決定があった。

    430型セドリックは、日産の高級車史における踏ん張りどころであり、次の飛躍のための土台を静かに築いた一台でした。

  • ブルーバード – P410/P411【ピニンファリーナが変えた日産の自画像】

    ブルーバード – P410/P411【ピニンファリーナが変えた日産の自画像】

    1960年代の日産にとって、ブルーバードは単なる量販車ではありませんでした。トヨタ・コロナとの販売台数競争——いわゆる「BC戦争」の主役であり、会社の看板そのものだったのです。

    その2代目にあたるP410型が、わざわざイタリアのピニンファリーナにデザインを依頼して生まれたという事実は、当時の日産がどれほど大きな賭けに出たかを物語っています。

    初代の成功と、その先にあった焦り

    初代ブルーバード(310型)は1959年に登場し、日本のモータリゼーション黎明期を代表するヒット作になりました。丸みを帯びたボディに1.0〜1.2リッタークラスのエンジンを積んだ実用的なセダンで、タクシーや営業車としても広く使われています。販売は好調でしたが、トヨタ・コロナとの競争は年を追うごとに激しさを増していました。

    日産が次期モデルに求めたのは、単なるモデルチェンジ以上の「格上げ」です。国内でコロナに差をつけるだけでなく、輸出市場でも通用する国際的なスタイリングが必要だと考えました。1960年代初頭の日本車は、まだ欧米市場で「安いけど垢抜けない」という評価から抜け出せていなかった時代です。

    なぜピニンファリーナだったのか

    ここで日産が選んだのが、イタリア・トリノのカロッツェリア、ピニンファリーナへのデザイン委託でした。フェラーリやランチア、アルファロメオのボディを手がけてきた名門中の名門です。日本の量産車メーカーが、ここまで格の高いデザインハウスに仕事を依頼すること自体、当時としてはかなり異例のことでした。

    背景には、日産社内のデザイン力に対する自己評価の厳しさがあったとされています。初代310型のスタイリングは悪くなかったものの、欧米の同クラス車と並べたときに「世界基準のエレガンス」には届いていないという認識があったのです。自社だけでは超えられない壁を、外の力で突破しようとした判断でした。

    もうひとつ見逃せないのは、当時の日産が輸出拡大を本格的に視野に入れ始めていたことです。とくに北米市場を意識したとき、「イタリアの一流デザイナーが手がけた」という事実そのものが、ブランドの説得力を高める武器になると考えたのでしょう。

    P410のスタイリングが持っていた意味

    1963年に登場したP410型ブルーバードは、初代の柔らかな曲線とはまったく異なるシャープなラインを持っていました。直線基調のボディ、薄く引き伸ばされたような水平のプロポーション、そして抑制の効いたディテール。いかにもピニンファリーナらしい、華美さよりも品格で勝負するデザインです。

    ただ、このデザインは日本市場では賛否が分かれました。初代の親しみやすさに慣れたユーザーからは「冷たい」「よそよそしい」という声もあったのです。とくに尖ったテールフィン風の処理は好みが割れるポイントでした。

    結果として、日産は発売後比較的早い段階でマイナーチェンジを実施し、フロントまわりやリアのデザインを修正しています。P411型と呼ばれるこの改良版では、やや丸みを加えて国内ユーザーの感覚に寄せる調整が行われました。つまり、ピニンファリーナの原案がそのまま日本市場に完全にフィットしたわけではなく、「翻訳」が必要だったということです。

    メカニズムと実力

    デザインの話題が先行しがちなP410ですが、中身もしっかり進化しています。エンジンは1.2リッターのE型をベースに、上級版では1.0リッターのE-1型も設定されました。初代から引き続きOHVの直列4気筒ですが、信頼性と実用性を重視した堅実な設計です。

    サスペンションは前輪が独立懸架、後輪はリーフリジッドという当時の定番構成。とくに画期的なメカニズムがあったわけではありませんが、ボディ剛性の向上や乗り心地の改善は着実に図られていました。

    注目すべきは、このP410世代でもモータースポーツへの参戦が続けられたことです。ブルーバードは初代310型の時代からラリーで活躍しており、P410も国内外のレースやラリーに投入されました。「走り」のイメージを販売に結びつけるという戦略は、この時代の日産にとって重要な柱だったのです。

    BC戦争のなかで

    P410が戦った相手は、言うまでもなくトヨタ・コロナです。1964年に登場したコロナRT40型は、まさにブルーバードを意識して開発された強敵でした。コロナは国内ユーザーの好みに徹底的に寄り添った商品企画で攻めてきたのに対し、ブルーバードは国際性を前面に出すという、ある意味で対照的なアプローチを取っています。

    販売面では、P410は初代ほどの圧倒的な優位を保てなかったとされています。ピニンファリーナデザインという「格」は確かに話題になりましたが、日本の一般ユーザーにとっては、日常の使い勝手や親しみやすさのほうが購買動機として強かった時代です。

    ただ、これを単純に「失敗」と片付けるのは違います。P410で日産が得たのは、海外デザイナーとの協業ノウハウであり、国際市場を意識した商品づくりの経験でした。この経験は、後の510型ブルーバードの大成功に確実につながっています。

    2代目が系譜に残したもの

    P410/P411型ブルーバードは、ブルーバード史上もっとも「挑戦的」だった世代かもしれません。国内で盤石の地位を築いた初代の後を受けて、あえて外の血を入れ、世界基準のデザインで勝負しようとした。その判断は、結果的に国内市場では手放しの成功とは言えなかったかもしれませんが、日産というメーカーの視野を確実に広げました。

    のちに510型が北米で「ダットサン510」として爆発的な人気を得るとき、その下地を作ったのは間違いなくこのP410世代の経験です。ピニンファリーナとの仕事を通じて、日産は「日本車のデザインとは何か」「海外市場が求める品質とは何か」を自問する機会を得たのです。

    2代目ブルーバードは、日産が国内メーカーから国際メーカーへと意識を切り替えた最初の一歩でした。派手な成功譚ではないかもしれません。

    けれど、この一歩がなければ、その後の日産の歴史はまったく違ったものになっていたはずです。

  • ブルーバード – P610【ブルーバードが「大きくなる」と決めた世代】

    ブルーバード – P610【ブルーバードが「大きくなる」と決めた世代】

    ブルーバードという名前に、どんなイメージを持つでしょうか。

    技術の日産を支えた大衆車。サファリラリーを走った硬派なセダン。あるいは、いつの間にか存在感が薄くなっていった中型車。

    どれも間違いではありません。ただ、その長い歴史の中で「ブルーバードの性格が変わった」と言える瞬間がいくつかあります。

    1971年に登場したP610型は、まさにそのひとつです。

    510の成功が生んだ「次」への圧力

    P610の話をするには、まず先代の510型に触れないわけにはいきません。510ブルーバードは、1967年の登場以来、国内外で高い評価を得ました。とくに北米市場では「ダットサン510」として、コンパクトで軽快なスポーツセダンとして人気を博しています。SSS(スーパースポーツセダン)グレードのイメージも強く、モータースポーツでの活躍もあって、ブルーバード史上もっとも「走り」のイメージが濃い世代だったと言えます。

    ところが、成功した車の後継というのは厄介なものです。510の評価が高ければ高いほど、次のモデルには「もっと上」を求める声と「あの良さを守れ」という声が同時に押し寄せます。そして日産が選んだのは、明確に「上」へ向かう道でした。

    大型化とL型エンジンという選択

    P610型で最も目立つ変化は、ボディの大型化です。全長・全幅ともに先代より一回り大きくなり、室内空間にも明らかな余裕が生まれました。510が持っていたコンパクトさ、凝縮感とは違う方向性です。

    エンジンも変わりました。510型の主力だったL13型・L16型に加え、P610ではL18型(1,770cc)が新たに搭載されています。L型エンジンは日産の直列4気筒OHCユニットとして幅広い車種に使われたシリーズですが、排気量を拡大して搭載したことで、ブルーバードの「格」を一段引き上げようとした意図が見えます。

    つまり、P610は「より広く、より力強く、より上質に」という方向で企画された車です。1970年代初頭の日本では、マイカーブームが一巡し、ユーザーの目が「次の一台」に向き始めていました。最初の一台としてカローラやサニーを買った層が、次はもう少し上のクラスを求める。その受け皿として、ブルーバードが大きくなるのは自然な流れだったとも言えます。

    時代が求めた「高級化」の空気

    P610が高級路線に舵を切った背景には、日産社内の事情もあります。当時の日産のラインナップでは、ブルーバードの上にはセドリック/グロリアがありましたが、その間を埋める車種が手薄でした。ローレル(C130系)が同時期にその役割を担い始めていたとはいえ、ブルーバード自体も「少し上」に動くことで、ラインナップ全体の厚みを出す狙いがあったと考えられます。

    競合のトヨタを見れば、コロナとマークIIの二段構えで中型車市場をきっちり押さえていました。日産としても、ブルーバードをコロナの真正面だけに置いておくわけにはいかなかったのです。

    加えて、1970年代は排出ガス規制の波が押し寄せ始めた時期でもあります。エンジンの出力を絞らざるを得ない状況で、車としての魅力をどこで出すか。走りのキレだけでは勝負しにくくなる時代に、快適性や質感で勝負する方向は、ある意味で合理的な判断でした。

    デザインと走りの評価は割れた

    P610のエクステリアデザインは、510の端正さとはかなり趣が異なります。丸みを帯びたボディラインに大型のグリル。好き嫌いが分かれるデザインだったのは確かです。510のシャープさを愛したファンからは「太った」「鈍くなった」という声もありました。

    走りの面でも、大型化と重量増は隠しようがありません。510のSSSが持っていた軽快なハンドリングを期待した層にとっては、やや物足りなさがあったでしょう。もちろんSSSグレードは引き続き設定されており、L18型エンジンとの組み合わせで動力性能自体は向上しています。ただ、「速さ」と「軽快さ」は別物です。P610は速くなったけれど、軽くはなかった。

    一方で、ファミリーユースの観点から見れば、室内の広さや乗り心地の向上は明確な進歩です。後席の居住性、トランク容量、静粛性。こうした実用面での改善は、実際に家族を乗せて走るオーナーには歓迎されました。評価が割れたのは、ブルーバードに何を求めるかによって、見え方がまるで違ったからです。

    「U」へ続く高級化の起点

    P610の後継として1976年に登場した810型は、さらに高級化を推し進めます。そしてその次の910型(1979年)で「ブルーバードは実用セダンとしての完成度で勝負する車」という路線が定着していきました。つまりP610は、ブルーバードが「走りのセダン」から「上質な中型車」へと軸足を移す、最初の一歩だったわけです。

    後年、U12やU13の世代で「ブルーバードらしさとは何か」が繰り返し問われることになりますが、その問いの原点はP610にあると言ってもいいかもしれません。510が作った「走りのブルーバード」像を手放し、別の価値で勝負すると決めた世代。それがP610です。

    もちろん、大型化と高級化が「正解だったか」は一概には言えません。ただ、1971年という時代に立ってみれば、日産がその選択をした理由は十分に理解できます。マーケットが上を求め、規制が走りを制限し、競合が隙間を埋めてくる。そのなかで、ブルーバードは「大きくなる」と決めた。P610は、その決断が形になった最初の車です。

  • ブルーバード – U11【FFブルーバードが「普通」になった世代】

    ブルーバード – U11【FFブルーバードが「普通」になった世代】

    ブルーバードという名前に、どんな印象を持つでしょうか。

    技術の日産を体現した看板車種。サニーの兄貴分。トヨタ・コロナとの販売合戦を繰り広げた永遠のライバル。

    そのどれもが正しいのですが、U11型に限って言えば、少し違う角度から見る必要があります。この世代のブルーバードは、革命の直後に来た「地固め」の一台だったからです。

    先代が起こした革命の後始末

    U11型ブルーバードを語るには、まず先代のU11…ではなく、910型U11の一つ前にあたるU11型の関係を整理する必要があります。正確には、U11型は7代目ブルーバードにあたります。ただし、ブルーバードの系譜で本当に大きな転換点だったのは、その一世代前、1983年ではなく1979年登場の910型と、そこからFF化に踏み切った流れそのものです。

    910型ブルーバードはFR(後輪駆動)の最終世代として大ヒットしました。「ブルーバード、お前の時代だ」というCMコピーが象徴するように、端正なデザインと扱いやすさで幅広い支持を集めた名車です。ところが日産は、その次のモデルで駆動方式をFF(前輪駆動)に転換します。

    FFへの切り替えは、910型の後継として1983年10月に登場したU11型で実現しました。正確に言えば、日産はこの世代で「ブルーバードをFF化する」という大きな賭けに出たわけです。当時、世界的にFF化の波が押し寄せていたとはいえ、FRで成功していた看板車種の駆動方式を変えるのは、メーカーにとって相当なリスクでした。

    CA型エンジンとFF専用設計の意味

    U11型の心臓部を担ったのは、CA型エンジンです。CA16、CA18、CA20といった直列4気筒が搭載され、排気量は1.6Lから2.0Lまでカバーしていました。CA型は日産がFF車用に開発した横置きエンジンで、U11型ではこのエンジンの熟成が大きなテーマになっています。

    CA型エンジンは、当時の日産が持っていたFF用パワートレインの中核です。SOHCとDOHCの両方が用意され、ターボモデルも設定されました。特にCA18DETを積んだターボモデルは、FFセダンとしてはかなり力強い走りを見せています。ただ、このエンジンの本質的な美点は爆発的なパワーではなく、日常域での扱いやすさと静粛性にありました。

    FF化によって室内空間が広がったことも見逃せません。プロペラシャフトのトンネルが不要になり、後席の足元が広くなる。トランク容量も確保しやすくなる。こうした実用面でのメリットは、カタログ上の数値以上に、実際に乗る人にとっては大きな変化でした。

    「技術の日産」が選んだ実用路線

    U11型ブルーバードの設計思想を一言でまとめるなら、「奇をてらわず、確実に良くする」という方向性です。先代でFF化という大転換を果たした以上、この世代に求められたのは革新ではなく成熟でした。

    ボディデザインは、直線基調でありながら角の丸みを増した、いかにも1980年代中盤らしいスタイルです。4ドアセダンとワゴン(ただしワゴンはやや遅れて追加)が主力で、ハードトップも用意されました。ハードトップはピラーレスの開放感を持ちながら、ボディ剛性の確保にも配慮されています。

    足回りには4輪独立懸架が採用されました。FFセダンで4輪独立というのは、当時のこのクラスでは先進的な選択です。コロナやカリーナといったトヨタ勢がリアにビーム式を使っていた時代に、日産はコストをかけてでも走りの質を追求しています。「技術の日産」という看板は、こういう地味なところにこそ表れていました。

    ライバルとの距離、そして時代の空気

    1983年という年は、日本の自動車市場にとって過渡期でした。FF化の波はすでに止められないものになっており、トヨタもカローラやカリーナでFF化を進めています。ブルーバードの直接のライバルであるコロナも、1983年登場のT150系でFF化を果たしました。

    つまり、U11型ブルーバードが戦った相手は、同じようにFF化を済ませたばかりのライバルたちだったわけです。ここで勝負を分けたのは、FFとしての完成度の差でした。日産はスタンザやパルサーなど、ブルーバードより先にFF化した車種で経験を積んでおり、その蓄積がU11型に活かされています。

    ただし、販売面では910型ほどの爆発力はありませんでした。910型が持っていた「FRセダンの決定版」という明快なキャラクターに比べると、U11型は良くも悪くも優等生的です。突出した個性がないぶん、指名買いの動機が弱い。これはU11型だけの問題ではなく、FF化以降のブルーバード全体が抱えることになる構造的な課題でもありました。

    SSSの名は残ったけれど

    ブルーバードといえばSSS(スリーエス)というグレード名を思い浮かべる人も多いでしょう。Super Sports Sedanの頭文字を取ったこの名前は、510型の時代からブルーバードのスポーティグレードを象徴してきました。

    U11型にもSSSは設定されています。ターボエンジンにスポーツサスペンション、専用の内外装を組み合わせた仕様で、カタログ上のスペックは十分に魅力的でした。しかし、FFになったブルーバードのSSSは、510や910のSSSとは本質的に異なるものです。

    FRのSSSが持っていた、後輪駆動ならではのスポーティな挙動や、ドライバーとの一体感。それはFF化によって失われた部分でもあります。もちろんFFにはFFの良さがあり、トラクション性能やスペース効率では優れています。ただ、SSSという名前が喚起するイメージと、実際の走りの質感との間に、微妙なズレが生じ始めていたのは事実でしょう。

    U11型が系譜に残したもの

    U11型ブルーバードは、派手な話題に乏しい世代です。先代のようなFF化の衝撃もなければ、後継のU12型のような洗練されたデザインの評価もありません。けれど、この世代がなければ、ブルーバードのFF化は「実験」のまま終わっていた可能性があります。

    FF専用プラットフォームの熟成、CA型エンジンの改良、4輪独立懸架の採用。U11型が地道に積み上げたこれらの技術的資産は、次のU12型で花開くことになります。U12型ブルーバードが「走りのいいFFセダン」として高い評価を受けたのは、U11型の時代に基礎が固められていたからです。

    もうひとつ、U11型が示したのは、ブルーバードという車種の性格が変わりつつあったという事実です。510型や910型の時代、ブルーバードは「走りで選ぶセダン」でした。しかしFF化以降、ブルーバードは徐々に「実用性で選ぶセダン」へとシフトしていきます。その転換点に立っていたのが、U11型でした。

    革命は目立ちます。でも、革命を日常に定着させる世代は、どうしても地味になる。U11型ブルーバードは、まさにそういう役割を担った一台です。

    派手さはなくても、ブルーバードがブルーバードであり続けるために、必要な世代だったと言えるでしょう。