「アバルト」という名前を聞いて、サソリのエンブレムを思い浮かべる人は多いと思います。
ただ、その実体がどういうブランドなのかを正確に説明できる人は、意外と少ないかもしれません。
かつてはフィアット車をベースにしたチューニングメーカーであり、レースの世界で数え切れないほどのタイトルを獲った伝説的な存在。
しかし1971年にフィアットに吸収されて以降、長い沈黙の時代がありました。その沈黙を破って現代に蘇ったブランドの、最も象徴的なモデルが「595」です。
アバルト復活と「新500」という舞台装置
アバルトが独立ブランドとして再始動したのは2007年のことです。
フィアットグループがアバルトの名を冠した専門部門「アバルト&C.」を設立し、再び市販車を送り出す体制を整えました。そしてその最初の主役に選ばれたのが、同年デビューしたばかりの新型フィアット500でした。
この組み合わせには、明確な歴史的文脈があります。1960年代、カルロ・アバルトが最も得意としたのは、フィアット600やフィアット500といった小さな大衆車をベースにした高性能モデルの製作でした。つまり「小さなフィアットにアバルトが手を入れる」という構図そのものが、ブランドのDNAそのものだったわけです。
新型フィアット500は、レトロモダンなデザインで大きな話題を呼んでいました。ここにアバルトの毒を注ぐというのは、マーケティング的にも商品企画的にも、これ以上ないほど筋の通った判断だったと言えます。
31214T型の成り立ち
アバルト 595の型式「31214T」は、ベースとなるフィアット500(型式312)の派生であることを示しています。最初に登場したのは「アバルト500」という名称で、2008年に発売されました。その後、2012年のマイナーチェンジを機に車名が「595」へと変更されます。
なぜ「595」なのか。これも歴史への接続です。1963年に登場した「フィアット・アバルト595」は、初代フィアット500のエンジンを排気量アップしてチューンした伝説的なモデルでした。その名前をそのまま復活させたのは、単なるノスタルジーではなく、「小さなフィアットを速くする」というアバルトの存在意義を改めて宣言する意味があったはずです。
エンジンは1.4リッター直4ターボ、いわゆるフィアットのMultiAirユニットがベースです。標準の595で135馬力、595 ツーリズモで160馬力前後、そしてトップグレードの595 コンペティツィオーネでは最終的に180馬力にまで引き上げられました。車両重量はおよそ1,100kg台ですから、パワーウェイトレシオで考えれば十分に「速い」部類に入ります。
数字では伝わらない刺激の正体
ただ、アバルト595の本質はスペックシートの数字だけでは語れません。135馬力や180馬力という数字は、現代のホットハッチとしては控えめに見えるかもしれない。実際、同時代のルノー・メガーヌRSやフォルクスワーゲン・ゴルフGTIと比べれば、絶対的な性能では明らかに劣ります。
しかし、この車の「速さの体感」は数字以上のものがあります。全長3.7m以下、ホイールベースは2.3m。この極端に短いボディに、ターボで過給されたエンジンが前輪を蹴り飛ばすように回す。レコードモンツァと呼ばれる専用排気系が、街中でも遠慮なく吠える。ステアリングはクイックで、サスペンションは硬い。
要するに、すべてが近いのです。ドライバーとクルマの間に距離がない。
この「近さ」こそが、アバルト595が多くのファンを掴んだ最大の理由でしょう。大排気量の高性能車が持つ余裕とは対極にある、ギリギリの刺激。それは1960年代のオリジナル595が持っていた魅力と、本質的に同じものです。
グレード展開という巧みな商品設計
アバルト595のもうひとつの特徴は、グレード展開の巧みさです。標準の「595」、快適性を少し加えた「ツーリズモ」、そして走りに振り切った「コンペティツィオーネ」。この三段構えは、2012年の595化以降、モデルライフを通じて基本的に維持されました。
コンペティツィオーネにはメカニカルLSD(機械式リミテッドスリップデフ)やブレンボ製ブレーキが奢られ、サスペンションもコニ製のFSD(周波数感応型ダンパー)が採用されています。これは「見た目だけのスポーツモデル」ではなく、ちゃんと足回りとブレーキにコストをかけた本気の仕様です。
一方でツーリズモは、レザーシートや少し穏やかなセッティングで「毎日乗れるアバルト」を提案しました。この棲み分けがうまく機能したからこそ、595は一部のマニア向けではなく、幅広い層に受け入れられたのだと思います。
さらに言えば、限定モデルの多さも595の特徴です。695ビポスト、695リヴァーレ、695セッタンタ・アニヴェルサーリオなど、数え切れないほどの特別仕様車が次々と投入されました。ベースが同じでも、味付けを変えることでコレクター心をくすぐる。これはアバルトというブランドの商売上手な一面でもあり、同時に小さなクルマだからこそ成立する戦略でもありました。
長寿モデルの功罪
31214T型のアバルト595は、2008年の登場から2023年の生産終了まで、実に15年以上にわたって販売されました。これは現代の自動車としては異例の長寿です。その間、エンジン出力の段階的な引き上げ、インフォテインメント系のアップデート、安全装備の追加など、細かな改良は重ねられましたが、基本設計は最後まで変わっていません。
この長寿には良い面と難しい面の両方があります。良い面は、熟成が進んだこと。年を追うごとにセッティングが洗練され、後期型ほど完成度が高いという評価は多くのオーナーから聞かれます。
難しい面は、やはり安全基準や環境規制への対応です。ベースのフィアット500自体が2007年設計のプラットフォームですから、最新の衝突安全基準に対しては構造的な限界がありました。Euro NCAPの評価も、登場時と末期では求められる水準がまるで違います。最終的に生産終了となった背景には、欧州の排ガス規制強化も大きく影響しています。
電動化時代に残した意味
2023年、アバルト595は生産を終了し、後継として電気自動車の「アバルト500e」が登場しました。内燃機関のアバルトは、ここでひとつの区切りを迎えたことになります。
500eは0-100km/h加速7秒を謳い、専用のサウンドジェネレーターで「アバルトらしさ」を演出しようとしています。ただ、595が持っていたあの生々しい刺激——エンジンの鼓動、排気音の暴力性、トルクステアとの格闘——を電動モデルがそのまま引き継げるかと言えば、それは別の話です。
だからこそ、31214T型の595には特別な意味があります。「小さなフィアットにサソリの毒を盛る」という、カルロ・アバルトが始めた遊びを、内燃機関で最後までやり切ったモデルだからです。
現代のクルマとしては荒削りで、快適とは言いがたい部分もある。でも、そういう「足りなさ」が逆にドライバーを夢中にさせる。595が15年間も売れ続けた理由は、結局そこに尽きるのだと思います。
小さくて、うるさくて、少し不便で、でもたまらなく楽しい。それがアバルト595という車の正体です。









