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  • ジムニーとは

    ジムニーは、たった一つの条件を50年守り続けたクルマです。軽自動車の寸法と排気量の枠に、本物の四輪駆動を収めること。それだけを、他社が降りたあとも一社で続けてきました。

    出発点は買収でした。ホープ自動車という小さなメーカーが作っていた四駆、ホープスターON型の製造権をスズキが引き取り、1970年にLJ10として売り出します。空冷2ストローク360ccにラダーフレームと副変速機付きパートタイム4WD。軽の枠へ本格四駆の構成をそのまま押し込むという、無謀に見えて筋の通った選択でした。

    1977年のSJ10、ジムニー55は排気量を550ccへ広げた小型登録の派生で、軽の枠に収まりきらない需要にも応えます。1986年のJA71では550ccエンジンにターボが加わり、非力さという最大の弱点に正面から手を打ちました。1990年のJA11は660cc化を受けた世代で、多くの人が思い浮かべる「軽の本格四駆」の完成形です。

    1995年のJA12/JA22は、少し違う方向を試しました。前後のサスペンションをコイルスプリング化し、乗り心地と接地性を上げたのです。悪路性能を落とさずに普通のクルマへ近づける。この折り合いの付け方が、次の世代の設計思想になります。

    1998年のJB23はその答えでした。四輪コイル、K6A型ターボ、モノコックではなくラダーフレームを維持したまま、20年にわたって売られ続けます。軽自動車としては異例の長寿ですが、代わりがいなかったというのが実際のところでしょう。

    2018年のJB64は、20年ぶりの全面刷新で何を変えたかより、何を変えなかったかで話題になりました。ラダーフレーム、3リンクリジッドアクスル、パートタイム4WD。近代化されたのは安全装備と使い勝手で、骨格の思想は動いていません。世界的な人気と長い納車待ちが、その判断の正しさを証明しました。

    LJ10からJB64まで、7世代。ジムニーの歴史は、「小さいまま本物であること」を一社が諦めなかった記録です。

  • GT-Rとは

    GT-Rは、勝つ理由がなくなるたびに姿を消してきたクルマです。

    1969年のPGC10は、レースで勝つために作られました。積まれたS20型は、プリンス由来のレーシングエンジンGR8の系譜を引く直列6気筒DOHC。1.9L・160PSという数字より重要なのは、これが公道向けに設計された機構ではなかったことです。翌年のハードトップKPGC10まで含めて、ツーリングカーレースで積み上げた勝利は通算49勝と言われます。

    1973年のKPGC110、いわゆるケンメリGT-Rは、その勢いを引き継ぐはずでした。ところが排出ガス規制とオイルショックが直撃し、レース参戦そのものが消えます。生産わずか197台。走る舞台がなくなった瞬間に、GT-Rという名前も消えました。

    沈黙は16年続きます。復活は1989年のBNR32。グループAで勝つという明確な目的のもと、RB26DETT型2.6L直6ツインターボと、ATTESA E-TSという電子制御四駆が与えられました。結果は国内グループA全戦全勝。名前が戻ってきた理由も、やはり勝つためだったわけです。

    1995年のBCNR33は、その戦績を実力として定着させた世代でした。車体は大きくなったものの、ニュルブルクリンクで8分を切るという分かりやすい指標で速さを示しています。1999年のBNR34では造形と電子制御を煮詰め、スカイラインGT-Rとしての完成形に到達しました。そして2002年、排出ガス規制を理由に再び生産を終えます。

    2007年のR35は、名前の付き方から変わりました。スカイラインの名を外し、独立した車種としてのGT-Rになったのです。VR38DETT型V6ツインターボ、専用設計のトランスアクスル、そして毎年のように手を入れる異例の改良体制。ポルシェを名指しで意識したこのクルマは、18年にわたって作り続けられました。

    PGC10からR35まで、6世代。GT-Rの歴史は、日産が「勝つ」という目的を持てたときにだけ現れる、その会社の本気の記録です。

  • シルビアとは

    シルビアは、FRスポーツを「スポーツカーとして売らない」方法を探し続けたクルマです。

    始まりは1965年のCSP311でした。フェアレディのシャシーに手叩きのボディを載せ、職人が一台ずつ仕上げる。結果として売れた数は554台。美しさは評価されても、商売としては成立しませんでした。

    その反省の上に立つのが1975年のS10です。今度は大量生産できる部品で構成し、走りの数字ではなく「特別に見えること」を売る。日本の大衆スペシャルティカーは、ここから始まります。1979年のS110でその路線を広げ、後期にはFJ20E型を積む本格的なグレードも加わりました。1983年のS12は北米市場を強く意識した造形で、日本ではやや異端の世代として記憶されています。

    すべてが噛み合ったのが、1988年のS13でした。柔らかく低い曲面のボディ、手の届く価格、そして後輪駆動。日産が前面に出したのは「デートカー」という売り方でしたが、中身はターボの効く2ドアクーペです。買った人がサーキットや峠で何をしたかは、いまさら説明するまでもありません。速さを謳わずに、速いクルマを大量に売った。シルビアの最適解でした。

    1993年のS14は、その成功が枷になります。3ナンバーサイズへ拡大した車体は「太った」と言われ続け、販売も苦戦しました。設計としてはむしろ正常進化だったのに、市場はS13の記憶で評価したわけです。

    1999年のS15は、その揺り戻しとして生まれました。ボディを再び5ナンバーに収め、SR20DETは250PSへ、6速MTも与えられます。誰が見ても走るためのクルマでした。しかし2002年、排出ガス規制への対応を機に生産を終えます。売り方の仮面を外したときには、その市場自体が縮んでいたのです。

    CSP311からS15まで、7世代。シルビアの歴史は、日本の若者が手の届く値段でFRを買えた最後の時代の記録です。

  • ランボルギーニV12とは

    「スーパーカー」という言葉は、この系譜のために生まれました。

    1966年のP400、ミウラがその出発点です。V12を運転席の後ろに、しかも横向きに寝かせて積む。当時の高級GTの常識からすれば無茶な構成でしたが、その無茶が生んだ低く長い姿は、それまでのどのクルマとも違って見えました。速いから偉いのではなく、見た瞬間に理解させる。ランボルギーニのフラッグシップは、ここで役割を決めています。

    1974年のLP400、カウンタックはそれを極端まで押し進めました。V12を縦置きに変え、車体をくさび形に切り落とし、ドアは前上方へ跳ね上がる。以後50年、子どもが「スーパーカー」と聞いて描く絵は、だいたいこの形です。生産は1990年まで続きました。

    1990年のディアブロは、クライスラー傘下という不安定な時期に登場しながら、最高速度325km/hで「世界最速」の看板を守り切ります。経営は揺れても、フラッグシップの役目だけは降ろさなかったわけです。

    2001年のLP640/LP670、ムルシエラゴでアウディ傘下の時代が始まります。カーボンとスチールを組み合わせた骨格、四輪駆動、品質管理。近代化しながら、V12ミッドシップという核は動かしませんでした。ここが手作りの時代の最後です。

    2011年のLP700-4、アヴェンタドールはカーボンモノコックと6.5LのV12を組み合わせ、フラッグシップを完全に現代の工業製品へ載せ替えました。過給機を持たない自然吸気V12の最後の砦として、2022年まで作られています。

    そして2023年のLB744、レヴエルト。V12は残したまま3基のモーターを追加し、システム出力は1000PSを超えました。電動化を延命の道具にして、12気筒を次の時代へ持ち越したわけです。

    ミウラからレヴエルトまで、6モデル。ランボルギーニのV12は、速さの記録ではなく「一目で分かる異常さ」を60年間更新し続けた系譜です。

  • ベビーランボとは

    ランボルギーニといえばV12のフラッグシップですが、会社を実際に支えてきたのは「小さいほう」でした。

    フェルッチオ・ランボルギーニがそれに気づいたのは早く、1970年のP250、ウラッコから挑戦が始まります。V8を横置きミッドシップに積み、後席まで備えた2+2。ミウラの隣に、もっと現実的な価格で買えるランボルギーニを置く構想でした。

    ただ、思惑どおりにはいきません。オイルショックと会社の経営難が重なり、ウラッコは十分な数を売れませんでした。1976年のP300、シルエットはウラッコにタルガトップを与えた発展型でしたが、生産台数はわずか54台。1981年のJalpaもカウンタックの影に隠れたまま、1988年に姿を消します。

    「買えるランボルギーニ」という発想そのものは正しかった。それを事業として成立させる体力が、当時のランボルギーニにはなかったわけです。

    答えが出たのは、アウディ傘下に入ってからでした。2003年のLP570-4、ガヤルドはV10を積み、品質と生産体制をフォルクスワーゲングループから受け取ります。結果は1万4000台以上。それまでの全モデルの累計を軽く超え、ランボルギーニは工房から会社になりました。

    2014年のLP610-4、ウラカンはその路線をさらに推し進めます。アウディR8と骨格を共有しながら、電子制御で日常でも扱える一台に仕上げ、ガヤルドを上回る販売台数を記録しました。もはや「小さいほう」は補助線ではなく本流です。

    そして2024年のテメラリオ。自然吸気V10をやめ、V8ツインターボと3基のモーターを組み合わせたプラグインハイブリッドになりました。10気筒の音を捨ててでも、この価格帯を守る。それだけの重みが、いまのベビーランボにはあります。

    ウラッコからテメラリオまで、6モデル。ベビーランボの系譜は、スーパーカーメーカーが趣味の会社から企業へ変わっていく過程そのものです。

  • ポルシェ911とは

    911は、不利な形式を60年かけて正解にしたクルマです。

    後車軸より後ろにエンジンを置くリアエンジンは、物理的に見れば無理のある配置でした。重い塊が最後尾にあるぶん、限界を超えると後ろから外へ逃げていく。普通なら、どこかの世代で捨てる設計です。ポルシェはそれを捨てず、60年かけて押さえ込み続けました。

    出発点は1948年の356でした。フォルクスワーゲン・ビートルの空冷フラット4とリアエンジンという構成を引き継ぎ、軽さと空力で速く走る。この一台で、ポルシェの作法が決まります。

    1964年に登場したのが901、後の911です。型式の三桁の真ん中がゼロの車名をプジョーが商標登録していたため、発売直後に911へ改められました。エンジンは空冷のフラット6、排気量2.0Lで130PS。356から気筒数を増やしながら、レイアウトはそのまま持ち越しています。

    1975年の930で、911は牙を剥きました。3.0Lターボは当時としては強烈な過給圧を持ち、踏んだ瞬間ではなく一拍遅れて全部来る。後ろに重心があるうえに唐突なパワー、しかも当時は電子制御などありません。それでも売れたのは、恐ろしさそのものが魅力だったからでしょう。

    1989年の964から近代化が始まります。四輪駆動のカレラ4、ABS、パワーステアリング。1993年の993ではリアサスペンションがマルチリンク化され、リアエンジンの弱点がついに実用上ほぼ消えました。空冷最後の世代が完成形と呼ばれるのは、この到達点があるからです。

    1997年の996で水冷になり、911は一度信者を裏切ります。ヘッドライトの形までボクスターと共有したこの世代は、いまも評価が割れる存在です。2004年の997でその反省を回収し、丸い目とポルシェらしい質感が戻りました。

    2011年の991でボディはさらに大きくなり、油圧式のパワーステアリングも電動へ置き換わります。そして後期型で、GTモデルを除く全車がターボ化されました。2019年の992は、電動化の時代にあってなお自然吸気のGT3を残し、一方でハイブリッドも受け入れています。

    356から992まで。911の型式の並びは、「間違った配置」を捨てずに直し続けたらどこまで行けるのかという、一つの長い実験の記録です。

  • ランサーエボリューションとは

    ランサーエボリューションは、ラリーに勝つためだけに10回作り直されたクルマです。

    始まりは1987年のE38A/E39A、ギャランVR-4でした。2.0Lターボの4G63型とフルタイム4WDという組み合わせで、三菱はWRCに本格参戦します。ただ、ギャランは車体が大きすぎました。同じ中身をもっと小さな箱に移せば速くなる。その発想から生まれたのが、1992年のCD9A、初代ランサーエボリューションです。

    競技に出るには市販台数の条件を満たす必要があります。だから作った。理屈としてはそれだけの、極端に用途の限られたクルマでした。それが即完売します。

    以降、三菱はほぼ毎年のように手を入れました。1994年のCE9AでII、翌年にはIIIへと進み、空力の造形が本格化します。1996年のCN9A、エボIVで登場したのがAYC、つまり左右後輪の駆動力を積極的に振り分けて曲がる機構でした。四駆は曲がりにくいという常識に、三菱は電子制御で殴りかかったわけです。

    1998年のCP9A、エボVでは車体の幅を広げて3ナンバーになり、ブレーキも大径化されます。翌年のVIはラリーでの耐久性に振った熟成版で、2000年のトミ・マキネンエディションがグループA時代の終わりを飾りました。

    2001年のCT9Aはランサーセディアを土台にした新世代です。エボVIIでACD(アクティブセンターデフ)が加わり、VIIIではAYCが強化され、2005年のIXでは4G63にMIVECが組み込まれます。エボIXは、13年使い続けた4G63型の最終形でした。

    2007年のCZ4A、エボXでエンジンがアルミブロックの4B11型へ切り替わります。ツインクラッチのSSTが選べるようになり、駆動系はS-AWCとして統合されました。速さも快適さも、それまでで最高です。

    ただ、三菱はすでにWRCから撤退していました。勝つために作る理由が消えたクルマは、2015年のファイナルエディションをもって生産を終えます。

    E38AからCZ4Aまで、10世代。ランエボの型式の並びは、日本のメーカーが世界のラリーで勝つために何を積み増していったかの記録そのものです。

  • マーチとは

    マーチは、日産が「国民車」として作り、最後は日本に来なくなったクルマです。

    1982年の初代K10は、車名を一般公募で決めるところから始まりました。デザインを任されたのはジョルジェット・ジウジアーロ。奇をてらわない直線的な小さな箱は、流行に左右されないぶん10年戦える形でした。実際K10は10年間現役です。そして1988年、この実用車に930ccのエンジンへターボとスーパーチャージャーを両方載せた「スーパーターボ」が追加されます。国民車として設計したはずの器に、日産は平然と変な球を投げ込んできました。

    1992年のK11では、丸みのある造形とともにCVTが本格的に導入されます。当時のCVTはまだ珍しく、小型車で普及させた立役者のひとつがK11でした。欧州でも売られ、この世代でマーチは日本専用車ではなくなります。

    2002年のK12は、性格を大きく振りました。ルノーと共有するプラットフォームの上に、丸い目と柔らかい面で構成した「かわいい」を、狙って設計したのです。街乗りの小型車が女性ユーザーの支持で決まる時代を、日産は正面から取りにいきました。一方でオーテックが仕上げた12SRのような、走りに振ったグレードも残っています。

    2010年のK13で、生産地が変わります。タイで作って日本へ輸入する。国民車を国内で作り続けることを、日産はここでやめました。3気筒エンジンによる燃費と価格の追求が主題になり、その一方でニスモSという1.5Lの硬派なグレードも用意されています。

    2016年のK14は、日本に導入されませんでした。欧州で「マイクラ」として売られるこの世代は、完全にグローバルコンパクトとして設計されています。日本ではK13が2022年まで売られ、そのまま静かに姿を消しました。

    K10からK14まで、5世代。マーチの歴史は、日本のメーカーが「安くて小さいクルマ」をどこで作り、誰に売るのかを問い直し続けた記録です。

  • コルベットとは

    コルベットは、70年間ほぼ同じ答えを出し続けたクルマです。フロントに大排気量のV8を置き、後輪で押す。その一点だけは、どれだけ時代が変わっても動きませんでした。

    そして最後に、一度だけその答えを捨てます。

    始まりは1953年のC1でした。当時としては珍しいFRP、つまりガラス繊維強化樹脂のボディを使い、エンジンは直列6気筒、変速機は2速のオートマチックのみ。速さより「アメリカにもスポーツカーがある」と示すことが目的の一台でした。V8を積んで本物になるのは、1955年からです。

    1963年のC2、通称スティングレイで性格が固まります。この世代でリアサスペンションが独立式になり、アメリカ車らしい直線番長から、曲がれるスポーツカーへ踏み出しました。1968年のC3は、コークボトルと呼ばれる抑揚のある造形で最も派手な世代になりましたが、途中から排出ガス規制と燃費規制に直撃されます。出力は落ち、それでも1982年まで作り続けられました。

    反撃は1984年のC4からです。設計を一新し、1990年にはロータスと開発したDOHCのLT5型を積むZR-1を投入して、世界のスーパースポーツと同じ土俵に立ちます。1997年のC5では変速機を後軸側に移すトランスアクスル方式を採用し、前後重量配分を整えました。ここでコルベットは、力任せのクルマではなくなります。

    2005年のC6は1962年以来のリトラクタブルヘッドライトをやめ、7.0LのLS7を積むZ06や638hpのZR1で頂点を更新しました。2014年のC7でスティングレイの名が復活し、フロントエンジンのコルベットはここで完成します。

    そして2019年のC8。エンジンが運転席の後ろへ移りました。66年守ったフロントエンジンを、コルベットは自分から手放したわけです。以降はZ06の5.5L DOHCフラットプレーンV8や、前輪をモーターで駆動するE-Rayまで現れています。

    C1からC8まで、8世代。コルベットの歴史は、アメリカが「安く速いスポーツカー」という理想をどこまで守り抜けるか試し続けた記録です。

  • BRZとは

    スバルというメーカーを支えてきた柱は、水平対向エンジンとシンメトリカルAWDの二本でした。BRZは、そのうち片方だけを持ち込んだクルマです。

    2012年の初代ZC6は、トヨタとの共同開発として生まれました。トヨタ側の車名は86。スバルは水平対向エンジンと生産を受け持ち、トヨタはD-4S、つまり直噴とポート噴射を併用する燃料供給システムを持ち込みます。2.0LのFA20型は200PS・205N・mと、数字だけ見れば平凡でした。

    狙いは最高出力ではなかったからです。水平対向はシリンダーが左右に寝ているぶん背が低く、そのままエンジンを低く積めます。重心を下げ、車重を1.2トン台に抑え、幅の狭いタイヤを履かせる。四輪が路面をつかむ限界を意図的に低いところへ置いて、その手前で起きることを運転手に全部見せる。これがZC6の設計思想でした。

    AWDを外したことも、その延長線上にあります。四駆で速さを稼ぐのではなく、後輪だけで曲がることをドライバーに任せる。スバルにとっては、自社の看板を一枚外してでも作りたいクルマだったわけです。

    2021年の2代目ZD8は、初代への不満に正面から答えた世代でした。排気量を2.4Lへ拡大したFA24型は235PS・250N・mで、初代が指摘され続けた中回転域のトルクの谷を埋めています。ボディの構造用接着剤やフルインナーフレーム構法によって剛性も大きく上がりました。

    それでいて、車体の低さも軽さも手放していません。速くはなったものの、性格は変わらなかった。同じ骨格を使うGR86に対して、BRZは足まわりの味つけで自分の答えを出しています。

    ZC6からZD8まで、2世代。BRZの歴史は、AWDの会社が「四駆でなくても操る楽しさは作れる」と証明し続けた記録です。