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  • クラウン – S60/70系【「白いクラウン」が壊した常識】

    クラウン – S60/70系【「白いクラウン」が壊した常識】

    クラウンといえば黒塗りの法人車。

    1960年代後半まで、その印象は揺るぎないものでした。

    ところが4代目クラウン、通称S60/70系は「白いクラウン」という衝撃的なキャッチコピーとともに登場し、クラウンの客層そのものを塗り替えようとしました。

    保守的であることがブランドの根幹だったクラウンが、なぜこのタイミングで攻めに転じたのか。

    その背景を読み解くと、1960年代後半の日本の自動車産業が直面していた構造変化が見えてきます。

    黒から白へ──商品企画の大転換

    https://kuruma-dna.com/s120

    1971年に登場した4代目クラウンは、「白いクラウン」のキャッチコピーで世に出ました。当時のクラウンは法人需要が圧倒的で、ボディカラーは黒が常識。タクシーやハイヤー、官公庁の公用車として使われることが多く、個人オーナーが自分の趣味で選ぶクルマという印象は薄かったのです。

    トヨタがここで白を打ち出したのは、単なるカラーバリエーションの話ではありません。「クラウンを個人ユーザーのクルマにしたい」という、商品企画の根本的な方向転換でした。日本のモータリゼーションが急速に進み、個人の所得水準が上がっていた時代です。法人需要だけに頼っていては、いずれ成長の天井にぶつかる。その危機感が、クラウンの「脱・黒塗り」を後押ししました。

    結果として、この戦略は大きく当たります。白いクラウンは個人オーナー層に刺さり、クラウンのイメージを「偉い人が乗せてもらうクルマ」から「成功した人が自分で選ぶクルマ」へと変えていきました。後のクラウンが個人ユーザー比率を高めていく流れは、この4代目が起点だったといっていいでしょう。

    ペリメーターフレームという構造的な決断

    https://kuruma-dna.com/s140

    商品企画だけでなく、技術面でもS60/70系は大きな転換を遂げています。最も重要なのは、ペリメーターフレームの採用です。従来のはしご型フレームに代わり、車体の外周に沿ってフレームを配置する構造に切り替えました。

    ペリメーターフレームの狙いは明快です。フロア面を低くできるため、室内空間が広がる。同時に、フレームとボディの結合点が増えるため、剛性も向上する。乗用車としての快適性を高めつつ、フレーム構造の堅牢さも維持するという、いわば「いいとこ取り」の設計思想です。

    当時、日産のセドリック/グロリアはすでにモノコック構造に移行していました。トヨタがあえてフレーム構造を残したのは、クラウンの用途──つまり法人車やタクシーとしての耐久性要求──を無視できなかったからです。ただし、旧来のはしご型のままでは乗用車としての進化に限界がある。ペリメーターフレームは、その両方の要求に応えるための現実的な解でした。

    スピンドルシェイプと新しいデザイン言語

    https://kuruma-dna.com/s180

    4代目クラウンのスタイリングは、スピンドルシェイプと呼ばれる紡錘形のボディラインが特徴です。ウエストラインを絞り、フェンダーを張り出させることで、それまでの箱型セダンとは明確に異なるシルエットを作り出しました。

    このデザインには賛否がありました。保守的なクラウンユーザーからすれば、急に派手になったように見えたはずです。しかしトヨタの狙いは、まさにそこにありました。「白いクラウン」のコンセプトと同じく、若い個人オーナーに「欲しい」と思わせるためには、見た目からして変えなければならなかったのです。

    また、ハードトップモデルが設定されたのも4代目の大きなトピックです。ピラーレスのスタイリッシュなシルエットは、まさに個人ユーザー向けの商品。セダンとハードトップの二本立てという構成は、以降のクラウンでも長く続く定番のフォーマットになりました。

    エンジンラインナップと実用性の幅

    https://kuruma-dna.com/s210-crown

    パワートレインは、直列6気筒のM型系エンジンが中心でした。2.0リッターのM型、2.3リッターの2M型、そして2.6リッターの4M型といったラインナップが揃えられ、用途に応じた選択肢が用意されています。

    特に4M型の2.6リッターSOHCは、当時の国産セダンとしてはかなり余裕のある排気量でした。高速道路網の整備が進んでいた時代、長距離を快適に移動するための動力性能は重要なセールスポイントだったのです。

    一方で、タクシー向けにはLPG仕様も設定されるなど、法人需要を切り捨てたわけではありません。個人向けに華やかなイメージを打ち出しつつ、実需もしっかり押さえる。このあたりのバランス感覚は、トヨタらしいと言えます。

    3代目の反省と4代目の挑戦

    https://kuruma-dna.com/s230

    4代目の方向性を理解するには、先代である3代目クラウン(S50系)の経緯を知っておく必要があります。3代目は1967年に登場しましたが、当初の評価は必ずしも高くありませんでした。特にフロントサスペンションの問題が指摘され、マイナーチェンジで大幅な改良を余儀なくされています。

    この経験がトヨタに与えた教訓は大きかったはずです。4代目では足回りの設計が見直され、フロントにダブルウィッシュボーン、リアにはトレーリングアーム式の4リンクが採用されました。乗り心地と操縦安定性の両立を、フレーム構造の中でどこまで追求できるか。その回答が、ペリメーターフレームと新しいサスペンション設計の組み合わせだったわけです。

    つまり4代目クラウンは、3代目での躓きを踏まえた「リベンジ」の側面も持っていました。商品企画で攻めると同時に、基本性能では確実に前進する。攻守のバランスが取れていたからこそ、4代目は成功を収めることができたのです。

    クラウン史における分水嶺

    https://kuruma-dna.com/x10

    S60/70系クラウンは、クラウンの歴史において明確な分水嶺です。それまでの「保守と格式」から、「個人の豊かさの象徴」へ。この転換がなければ、後の「いつかはクラウン」というキャッチコピーも生まれなかったでしょう。

    技術的にも、ペリメーターフレームの導入はクラウンのフレーム構造を延命させる重要な判断でした。モノコック化を選ばなかったことで、クラウンは他の国産高級セダンとは異なる乗り味──重厚で、どっしりとした走り──を長く維持することになります。良くも悪くも、クラウンらしさの骨格がここで固まったのです。

    「白いクラウン」という一見キャッチーなだけのフレーズの裏には、商品企画の大転換、構造設計の刷新、先代の反省という三つの重い決断が重なっていました。

    4代目クラウンは、クラウンが「国民車の頂点」になるための土台を築いた、地味だけれど決定的に重要な一台です。

  • ヴェルファイア – 40系【アルファードの影を抜け出した、攻めの再定義】

    ヴェルファイア – 40系【アルファードの影を抜け出した、攻めの再定義】

    ヴェルファイアという車名を聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。「アルファードの顔違い」。そう答える人が多いはずです。実際、それは長いあいだ、ほぼ正解でした。ただ、2023年に登場した40系は、その図式を意図的に壊しにかかっています。

    兄弟車という宿命

    https://kuruma-dna.com/vellfire-30

    ヴェルファイアの出自を語るには、まずアルファードとの関係を整理する必要があります。初代ヴェルファイア(20系)が登場したのは2008年。それ以前、トヨタの大型ミニバンには「アルファードG」と「アルファードV」という販売チャネル違いの兄弟がいました。トヨペット店向けがG、ネッツ店向けがV。これを車名レベルで分離したのがヴェルファイアの始まりです。

    つまり、ヴェルファイアは最初から「アルファードと中身は同じだけど、別の顔で別の店で売る車」として生まれています。メカニズムもプラットフォームも共有。違うのは主にフロントフェイスとリアのデザイン、そして味付けの方向性でした。

    20系、30系と世代を重ねるなかで、アルファードが「品格・高級感」を軸にしたのに対し、ヴェルファイアは「迫力・押し出し」を担当しました。大きなメッキグリル、鋭い目つき。いわゆる「強面ミニバン」路線です。この棲み分けは商業的にうまく機能していましたが、30系後期になると販売台数でアルファードに大きく差をつけられるようになります。

    30系後期で起きた「逆転」

    https://kuruma-dna.com/20-vellfire

    30系の前期(2015年〜)では、ヴェルファイアのほうがやや売れていた時期もありました。ところが2018年のマイナーチェンジ以降、状況が変わります。アルファードのフロントフェイスが大型グリルを採用し、押し出しの強さでヴェルファイアとの差がほぼなくなったのです。

    こうなると、ユーザーはより知名度の高いアルファードに流れます。「迫力のある高級ミニバン」という市場で、アルファードが一人勝ちする構図ができあがりました。ヴェルファイアは存在意義そのものを問い直す必要に迫られたわけです。

    販売チャネルの統合という流れも追い打ちをかけました。トヨタは2020年に全車種併売化を実施。ネッツ店専売という差別化の根拠がなくなり、「同じ店でアルファードもヴェルファイアも買える」状態になった。こうなると兄弟車の片方は、よほど明確な理由がなければ選ばれません。

    40系の戦略──「違う車」にする

    https://kuruma-dna.com/alphard-40

    2023年6月に発売された40系で、トヨタは大胆な手を打ちました。まず、グレード構成を大幅に絞ったのが象徴的です。アルファードには幅広いグレードが用意される一方、ヴェルファイアは「Z Premier」を頂点とする少数精鋭の構成。エントリーグレードを削り、上位グレードに集中させました。

    パワートレインの差別化も明確です。アルファードの主力が2.5Lハイブリッドであるのに対し、ヴェルファイアには2.4Lターボエンジン(T24A-FTS型)が設定されています。最高出力279ps、最大トルク430Nm。このエンジンはレクサスNXやクラウンクロスオーバーにも搭載されるユニットで、ミニバンとしては明らかにオーバースペックです。

    ただ、このオーバースペックこそが狙いでしょう。ヴェルファイアを「走りの質で選ぶ高級ミニバン」として位置づけ直す。アルファードとの関係を「顔違いの兄弟」から「性格の違う別の車」に変えようとしているわけです。

    TNGA-Kが支える走りの説得力

    https://kuruma-dna.com/mxwh60

    40系のプラットフォームはTNGA-K(GA-Kプラットフォーム)です。先代30系のMCプラットフォームからの刷新で、ボディ剛性は大幅に向上しています。これは単にカタログ上の話ではなく、実際に乗ると明確に違いがわかるレベルです。

    特にヴェルファイアでは、専用チューニングの足回りが与えられている点が重要です。フロントのパフォーマンスダンパー、リアスタビライザーの専用セッティングなど、アルファードとは異なる味付けが施されています。2トンを超える車重でありながら、コーナリング時のロールが抑えられ、ドライバーズカーとしての性格が強まっています。

    周波数感応型のショックアブソーバーも採用されており、路面の細かい振動は吸収しつつ、大きな入力にはしっかり踏ん張る。快適性と操縦安定性の両立を、かなり高い次元で実現しています。2トン超のミニバンでこれをやるのは、プラットフォームの基礎体力がなければ不可能です。

    後席の価値は変わらない、ただし文法が違う

    https://kuruma-dna.com/s230

    高級ミニバンである以上、後席の居住性は最重要項目です。40系ヴェルファイアも当然、ここは外していません。エグゼクティブラウンジシートは電動オットマン、ベンチレーション、シートヒーターを備え、アームレストには格納式テーブルも装備されます。

    ただ、ヴェルファイアの後席空間には、アルファードとは少し違うニュアンスがあります。アルファードが「もてなしの空間」を志向するのに対し、ヴェルファイアは「自分のための上質な移動空間」という色合いが強い。内装のカラーリングも、ブラック基調でスポーティな印象に振られています。

    要するに、誰かを乗せるための車か、自分が乗るための車か。その微妙な違いが、40系では意識的に拡大されています。

    ヴェルファイアが手に入れた「選ぶ理由」

    https://kuruma-dna.com/gzea14h

    40系ヴェルファイアの本質は、「アルファードの代わり」ではなく「アルファードでは手に入らないもの」を提供することにあります。2.4Lターボの力強い加速、専用セッティングの足回り、スポーティな内外装。これらはすべて、アルファードを選んだだけでは得られない要素です。

    販売戦略としても、グレードを絞ることで「迷ったらアルファード、わかって選ぶならヴェルファイア」という構図を作っています。台数を追うのではなく、指名買いされる車にする。これは兄弟車の生存戦略として、かなり合理的な判断です。

    もちろん課題がないわけではありません。車両本体価格は600万円台後半からスタートし、上位グレードでは800万円を超えます。レクサスLMという「さらに上」の存在も控えている。価格帯としてはかなり攻めた領域です。

    それでも、40系ヴェルファイアがやろうとしていることは明快です。15年間続いた「顔違いの兄弟」という構造から脱却し、走りと個性で選ばれる高級ミニバンになる。その意思表示は、パワートレインの選択にも、足回りのチューニングにも、グレード構成にも、一貫して表れています。

    ヴェルファイアはようやく、アルファードの影ではなく、自分自身の輪郭を手に入れた。そう言える一台です。

  • ヴェルファイア – 20系【アルファードの影ではなく、もうひとつの本流】

    ヴェルファイア – 20系【アルファードの影ではなく、もうひとつの本流】

    ヴェルファイアという車名を聞いて、「アルファードの兄弟車でしょ」と片づける人は多いと思います。事実その通りなんですが、ただの兄弟車で終わらなかったからこそ、この車は語る価値があります。

    2008年に登場した20系ヴェルファイアは、初代です。つまりそれ以前にはヴェルファイアという車は存在しなかった。アルファードにはすでに初代(10系)がありましたから、ヴェルファイアは後から生まれた側です。では、なぜトヨタはわざわざ新しい名前の高級ミニバンを作ったのか。そこにこの車の本質があります。

    販売チャネルという「トヨタの事情」

    https://kuruma-dna.com/vellfire-30

    20系ヴェルファイアの誕生を理解するには、当時のトヨタの販売体制を知る必要があります。トヨタには長らく4つの販売チャネルがありました。トヨタ店、トヨペット店、カローラ店、そしてネッツ店です。それぞれに専売車種があり、同じプラットフォームの車でも販売店ごとに別の顔を与えるのがトヨタの伝統でした。

    初代アルファード(10系)の時代、トヨペット店には「アルファードG」、ネッツ店には「アルファードV」という形で振り分けられていました。同じアルファードという名前を共有しつつ、フロントグリルなどの意匠で差をつけるやり方です。

    ただ、この方式には限界がありました。名前が同じだと、お客さんから見れば「どっちで買っても同じ車」に見えてしまう。販売店間の競争意識は生まれにくいし、ネッツ店としても「うちだけの看板車種」という誇りが持ちにくい。そこでトヨタが出した答えが、名前ごと分けるという判断でした。

    「もうひとつのアルファード」ではない設計意図

    https://kuruma-dna.com/vellfire-40

    2008年5月、2代目アルファード(20系)と同時にヴェルファイアが登場します。プラットフォームは共通、パワートレインも共通。2.4L直4の2AZ-FEと3.5L V6の2GR-FEという2本立て、さらにハイブリッドも後に追加されます。基本骨格が同じである以上、走りの本質に大きな差はありません。

    では何が違うのか。端的に言えば、顔つきと、それが生み出すキャラクターの方向性です。アルファードが上品さや威厳を軸にしたのに対し、ヴェルファイアは「力強さ」「押し出し」をより前面に出しました。大型のメッキグリルに二段構えのヘッドライト。好みは分かれるところですが、このデザインの狙いは明確でした。

    ネッツ店はもともと、若年層やアクティブな層をターゲットにしたチャネルです。ヴィッツやist、あるいはかつてのアルテッツァなど、少し攻めた商品を扱ってきた歴史があります。そこに最上級ミニバンを置くなら、アルファードと同じ上品路線ではなく、もう少しアグレッシブなほうが筋が通る。ヴェルファイアの顔つきは、そういう商品企画上のロジックから生まれたものです。

    「迫力」が市場で正解だった時代

    https://kuruma-dna.com/alphard-20

    結果として、ヴェルファイアは大当たりしました。ここが面白いところです。本来はアルファードが本流で、ヴェルファイアはチャネル対応の派生車だったはずなのに、販売台数ではヴェルファイアがアルファードを上回る時期が続いたのです。

    理由はいくつか考えられます。まず、2000年代後半の日本市場では、ミニバンの「押し出し感」が購買動機として非常に強く機能していました。大きなグリル、存在感のあるフロントフェイス。これは単なる見た目の好みではなく、「この車に乗っている自分」を周囲にどう見せたいかという、ある種のコミュニケーションツールとしての価値です。

    ヴェルファイアのデザインは、まさにそこに刺さりました。上品さよりも力強さ、控えめよりも主張。高級ミニバンを求める層が必ずしも「品の良さ」だけを求めていたわけではなかった、ということをヴェルファイアの販売実績は証明しています。

    中身の実力──走りと室内空間

    https://kuruma-dna.com/urj200

    見た目の話ばかりしてしまいましたが、20系の中身もきちんと進化しています。プラットフォームは初代アルファードから刷新され、ボディ剛性が向上しました。全長4,885mm、全幅1,840mm、全高1,900mmという堂々たるサイズの中に、フラットで広大な室内空間を確保しています。

    特に3.5L V6の2GR-FEエンジンは最高出力280psを発生し、2トンを超える車体をしっかり動かす余裕がありました。6速ATとの組み合わせで、高速巡航時の静粛性も高い。このクラスのミニバンに「走りの良さ」を求める人は少数派かもしれませんが、重い車体をストレスなく走らせるだけのパワーは、結果として乗員全員の快適性に直結します。

    2.4Lの2AZ-FEはさすがに車重に対してやや非力な場面もありましたが、日常使いでは十分。価格を抑えたいユーザーにとっては現実的な選択肢でした。2011年にはハイブリッドモデルも追加され、燃費を気にする層にも門戸を開いています。

    室内の仕立てにおいては、エグゼクティブパワーシートを備えた7人乗り仕様が象徴的です。セカンドシートにオットマン付きのキャプテンシートを配置し、後席に座る人を「もてなす」という思想が明確に出ていました。これは後の30系、40系にも引き継がれるヴェルファイア/アルファードの核心的な価値です。

    兄弟車の力学──なぜヴェルファイアが勝ったのか

    https://kuruma-dna.com/grx130

    20系の世代でヴェルファイアがアルファードを販売面で凌駕した現象は、トヨタ社内でも少なからず影響を与えたはずです。というのも、この結果は「高級ミニバンの顧客が何を求めているか」についての、リアルな市場の回答だったからです。

    従来の高級車的な価値観──控えめな品格、落ち着いた佇まい──は、セダンの文脈では正解でした。しかしミニバンという、ある意味で実用車の延長線上にある車種では、「わかりやすい存在感」のほうが訴求力を持った。これはヴェルファイアだけの話ではなく、同時期の日産エルグランドやホンダの動向を見ても、ミニバン市場全体がそういう方向に動いていた時代でした。

    ヴェルファイアは、その流れのど真ん中に、ちょうどいいタイミングで投入されたわけです。

    初代が残したもの

    https://kuruma-dna.com/zvw30

    20系ヴェルファイアは2015年に30系へバトンを渡します。後継の30系では、ヴェルファイアの「迫力路線」がさらに強化され、アルファードとの差別化もより明確になりました。そして現行の40系では、逆にアルファードが前面に押し出され、ヴェルファイアはスポーティ寄りのキャラクターへと再定義されています。

    つまり、アルファードとヴェルファイアの関係性は世代ごとに揺れ動いている。その起点となったのが、この20系です。「高級ミニバンにはひとつの正解しかない」という前提を崩し、迫力という価値軸が市場で通用することを証明したのが初代ヴェルファイアでした。

    チャネル戦略の産物として生まれた車が、結果的に市場の嗜好を可視化し、その後のトヨタの商品戦略を動かした。20系ヴェルファイアは、派生車という出自を超えて、高級ミニバンの文法を書き換えた一台だったと言っていいと思います。

  • ブルーバード – U12【SR20を手にした、走るブルーバードの到達点】

    ブルーバード – U12【SR20を手にした、走るブルーバードの到達点】

    ブルーバードという名前に、どんなイメージを持つでしょうか。

    堅実なファミリーセダン、お父さんのクルマ、あるいは「技術の日産」を支えた屋台骨。どれも間違いではありません。

    ただ、1987年に登場した7代目・U12型は、その印象をかなり塗り替えにかかったモデルでした。後に日産の主力ユニットとなるSR20エンジンを初めて積み、スポーツグレードを本気で拡充した一台。

    「走り」を語れるブルーバードとして、このクルマはひとつの頂点だったと言えます。

    ブルーバードが「走り」に振れた時代背景

    https://kuruma-dna.com/u11

    1980年代後半の日本は、バブル経済の追い風もあってクルマの高性能化が一気に加速した時期です。ユーザーは実用性だけでなく、走りの質やスポーティさを求めるようになっていました。ミドルクラスセダンでさえ、ただ広くて燃費がいいだけでは戦えない空気がありました。

    先代のU11型ブルーバードは、直線基調のシャープなデザインと4WDターボモデルの投入でそれなりに存在感を示していました。ただ、ライバルであるトヨタ・コロナやホンダ・アコードも着々と進化しており、日産としてはブルーバードの商品力をもう一段引き上げる必要があった。U12型は、そうした競争環境のなかで「走り」を明確な武器にしようとした世代です。

    SR20エンジンという転換点

    https://kuruma-dna.com/u13

    U12型を語るうえで外せないのが、SR20型エンジンの初搭載です。SR20DE、つまり2.0リッター直列4気筒DOHCの自然吸気ユニット。このエンジンは後にシルビアやプリメーラなど日産の多くの車種に載ることになる、いわば「日産の90年代を支えた心臓」の原点でした。

    それまでのブルーバードに積まれていたCA型エンジンと比べると、SR20DEはレスポンスの鋭さとトルクの厚みが段違いでした。140馬力という数値自体は今の感覚では控えめですが、1.2トン台のボディに載せれば十分に軽快です。高回転まで気持ちよく回り、日常域でもトルクが痩せない。実用エンジンでありながら回す楽しさがある、という絶妙なバランスが持ち味でした。

    さらにターボ仕様のSR20DETも用意されています。こちらは最高出力205馬力。1980年代末のミドルセダンとしては相当な数字です。この「ファミリーセダンの顔をして200馬力オーバー」という構図は、当時の日産がブルーバードに何を期待していたかをよく物語っています。

    SSSという看板の本気度

    https://kuruma-dna.com/p910

    ブルーバードのスポーツグレードといえば、SSS(スーパースポーツセダン)の名が欠かせません。この名前自体は1960年代の410型から続く由緒あるもので、ブルーバードの走りの系譜そのものです。U12型では、このSSSがかなり本気の仕立てになっていました。

    SSS系グレードには前述のSR20DE/DETが搭載され、足回りも専用セッティングが施されています。フロントにマクファーソンストラット、リアにマルチリンクというサスペンション構成は、当時のこのクラスとしては凝った設計でした。とくにリアのマルチリンクは、コーナリング時の安定性と乗り心地の両立に効いています。

    加えて、ビスカスカップリング式のフルタイム4WDモデルも設定されていました。ATTESA(アテーサ)と呼ばれるこのシステムは、後にスカイラインGT-Rで有名になるATTESA E-TSの前身にあたる技術です。ブルーバードのようなミドルセダンで4WDターボという組み合わせは、ラリーフィールドを意識したものでもありました。実際、U12型ブルーバードはオーストラリアやアジアのラリーで実戦投入されています。

    デザインとパッケージの割り切り

    https://kuruma-dna.com/u14

    U12型のエクステリアは、先代U11の直線的なシャープさから一転して、やや丸みを帯びた流線型に変わりました。1980年代後半は空力を意識したデザインが世界的なトレンドで、U12もその流れに乗った形です。Cd値(空気抵抗係数)の低減は、高速巡航時の安定性や燃費にも直結します。

    ボディバリエーションは4ドアセダンとハードトップの2本立て。ハードトップはBピラーを持たないスタイルで、見た目のスマートさを重視した仕様です。当時の日産はローレルやセフィーロでもハードトップを展開しており、U12ブルーバードもその流れのなかにありました。

    室内は、決して広々というわけではありません。走りを重視した結果、ホイールベースの使い方がやや走行性能寄りになっている印象があります。ファミリーユースだけを考えるなら、同時期のコロナやアコードのほうがゆとりがあったかもしれません。ただ、それはU12が何を優先したかの裏返しでもあります。

    評価と限界、そして残したもの

    https://kuruma-dna.com/p810

    U12型ブルーバードは、走りの面では高い評価を受けました。とくにSR20エンジンの出来は「ブルーバードにはもったいない」とまで言われたほどです。SSSの4WDターボモデルは、当時のスポーツセダンとしてかなり戦闘力の高い一台でした。

    一方で、販売面ではやや苦戦した側面もあります。1980年代末から1990年代初頭にかけて、日産は車種を増やしすぎていました。ブルーバードの上にはローレル、横にはスタンザ、下にはパルサーと、似たような価格帯・サイズのクルマがひしめいていた。ユーザーから見ると「どれを選べばいいのか」がわかりにくくなっていたのです。

    また、ブルーバードという名前自体が持つ「堅実なセダン」のイメージと、U12が目指した「走りのスポーツセダン」の方向性が、必ずしも噛み合っていなかったという指摘もあります。走りを求める層はシルビアやスカイラインに流れ、実用性を求める層はもっと穏やかなクルマを選ぶ。U12はその間で、少し居場所を見つけにくかった部分があったのかもしれません。

    それでも、U12型が残した遺産は大きいものでした。SR20エンジンはここから始まったという事実だけでも、日産の歴史における存在意義は十分です。ATTESA 4WDの技術的蓄積もまた、後のGT-Rへとつながっていきます。

    走るブルーバードの、最も濃い一滴

    https://kuruma-dna.com/p610

    ブルーバードの歴史を振り返ると、世代ごとに「実用重視」と「走り重視」の振り子が揺れてきたことがわかります。U12型は、その振り子がもっとも走り側に振れた世代でした。

    後継のU13型は再びデザインや快適性に軸足を移し、U14型を最後にブルーバードの名前はシルフィへと引き継がれていきます。SSSの名を冠して、SR20ターボと4WDを武器にラリーフィールドにまで出ていったセダン。それがU12型ブルーバードという存在でした。

    派手な主役ではなかったかもしれません。ただ、日産がミドルセダンで「走り」を本気で追求したらどうなるか、その答えをもっとも純粋に体現したモデルだったと思います。

    SR20という名機の産声を聞いたクルマとして、系譜のなかに確かな足跡を残しています。

  • ブルーバード – P910【FRの最後を飾った、変革前夜の集大成】

    ブルーバード – P910【FRの最後を飾った、変革前夜の集大成】

    ブルーバードという名前は、日産の歴史そのものと言っていい。初代310から始まった系譜は、日本のモータリゼーションとともに育ち、トヨタ・コロナとの「BC戦争」で鍛えられてきました。

    その長い歴史の中で、910型は少し特殊な立ち位置にいます。FRブルーバードの最終世代であり、同時に次のU11でFF化するという大転換の直前に置かれたモデルだからです。

    つまり910は、「終わり」と「始まり」の両方を背負っていた。しかもそれを、ただの繋ぎではなく、商品として非常に高い完成度で成立させたところに、このクルマの面白さがあります。

    1979年という時代の空気

    https://kuruma-dna.com/p810

    910型が登場した1979年は、第二次オイルショックの真っ只中です。燃費性能への要求はますます厳しくなり、排ガス規制も強化の一途をたどっていました。日本の中型セダン市場は、「速さ」よりも「効率」と「実用性」が問われる時代に入りつつあった。

    一方で、ライバルのトヨタ・コロナはすでにFF化の検討を進めていました。ホンダのアコードはFF+横置きエンジンという構成で着実に支持を広げていた。FRレイアウトのセダンは、室内空間や燃費の面でFFに対して構造的な不利を抱えていたのです。

    日産もこの流れを当然把握していました。次期モデルでのFF転換はほぼ既定路線だったとされています。ただ、だからといって910を「消化試合」にするつもりはなかった。むしろ、FRでやれることをすべてやり切るという姿勢が、このモデルには色濃く出ています。

    先代810の反省と、910の設計思想

    https://kuruma-dna.com/u11

    910を語るうえで、先代の810型(通称「ブルU」)の存在は外せません。810は1976年に登場し、サーフィンラインと呼ばれた伝統的なデザインを捨て、角張ったスタイルに一新しました。ただ、商品としての評価は正直なところ芳しくなかった。

    デザインの変化が急すぎたこと、そして肝心の走りの質感が価格に見合わないという声があったのです。コロナとの販売競争でも苦戦が続きました。日産としては、910で確実に巻き返す必要があった。

    910の開発チームが重視したのは、基本性能の底上げです。ボディ剛性の向上、サスペンションジオメトリの見直し、そして軽量化。派手な新機軸よりも、走る・曲がる・止まるの地力を高めることに注力しました。

    結果として910は、FR時代のブルーバードとしては最も洗練されたシャシーを持つクルマになりました。特にSSS系のグレードでは、4輪独立懸架の足回りがしっかり仕事をして、当時のオーナーからも「走りが素直」という評価を得ています。

    ハッチバックとターボという新しい武器

    https://kuruma-dna.com/u12

    910で見逃せないのが、ハッチバックモデルの追加です。ブルーバードといえばセダンというイメージが強いですが、910ではセダン、ハードトップに加えてハッチバックを新設しました。これは欧州市場を意識した判断でもあり、国内でも「セダンだけじゃない選択肢」を提示する狙いがありました。

    当時、日本ではハッチバックという形式自体がまだ市民権を得きっていない時期です。シビックやファミリアが切り拓いた道はあったものの、中型車クラスでのハッチバックは冒険でした。910のハッチバックが爆発的に売れたわけではありませんが、「ブルーバードは保守的なクルマ」という印象を崩す一手にはなった。

    そしてもうひとつ、1980年の追加で登場したターボモデル。Z18ET型エンジンを搭載したSSS-Sターボは、国産セダンにおけるターボ普及の先駆けのひとつです。当時のターボはまだ「速くするための飛び道具」という位置づけが強かったですが、910ターボはFRシャシーとの相性もあって、スポーティセダンとしてかなり楽しめる仕上がりでした。

    ラリーでの活躍も見逃せません。910ブルーバードはサファリラリーをはじめとする国際ラリーに参戦し、実績を残しています。FRレイアウトのセダンがダートを駆け抜ける姿は、当時のモータースポーツファンに強い印象を与えました。この「SSSはラリーで走るクルマだ」というイメージは、ブルーバードのブランド価値を支える大きな柱だったのです。

    売れた理由は「堅実さ」にある

    https://kuruma-dna.com/p610

    910ブルーバードは、商業的にも成功したモデルです。先代810の苦戦を受けて、日産はデザインを奇をてらわない端正な方向にまとめました。直線基調でありながら品のあるプロポーションは、法人需要から個人ユーザーまで幅広く受け入れられた。

    グレード構成も巧みでした。実用本位のベースグレードから、SSSのスポーティ路線、さらにターボまで。ひとつの車種で複数の顧客層をカバーする、いわゆる「フルライン戦略」がきちんと機能していたのです。

    ただ、すべてが順風だったわけではありません。FRレイアウトゆえに室内空間、とくに後席の広さではFF勢に対して不利でした。燃費面でもFFの構造的な優位性には抗えない部分があった。910が「最後のFR」になったのは、こうした物理的な限界が背景にあります。

    それでも910は、FRという制約の中で最大限の回答を出したモデルでした。走りの質、デザインのバランス、グレード展開の幅。どれをとっても「やれることはやった」と言える完成度です。

    FF化への橋渡しとして

    https://kuruma-dna.com/p510

    1983年、後継のU11型ブルーバードが登場します。駆動方式はFFに転換され、エンジンは横置きに。ブルーバードの歴史における最大の転換点です。このFF化は時代の必然ではありましたが、「ブルーバードらしさ」が薄れたという声も少なくなかった。

    U11以降のブルーバードは、実用性や効率では確かに進化しました。しかし、SSSの名が持っていた「FRスポーツセダン」としての個性は、駆動方式の変更とともに変質していきます。910のSSSターボが持っていたあの走りの味は、FF化後には同じ形では再現できなかった。

    だからこそ、910は単なる「旧世代の最終型」ではなく、ひとつの時代の到達点として記憶されるべきモデルです。FRブルーバードの技術的蓄積がすべて注ぎ込まれ、なおかつ次の時代を見据えたハッチバックやターボという要素も取り込んだ。過去と未来の両方に足をかけた、稀有な一台でした。

    変革の前に、完成させること

    https://kuruma-dna.com/u13

    クルマの世代交代において、「次で大きく変わるから、今回は手を抜く」という判断はありえます。実際、そういうモデルは歴史上少なくない。しかし910ブルーバードは、その逆を行きました。

    次がFF化されることを分かっていながら、FRとしての完成度を限界まで追求した。ラリーで戦い、ターボを載せ、ハッチバックという新しい形も試した。「終わるからこそ全力を出す」という姿勢が、このクルマには確かにあります。

    910型ブルーバードは、日産が本気で作った「FRセダンの答え」です。それは同時に、ブルーバードという車名が持っていた原初的な魅力——後輪で路面を蹴って走るセダンの楽しさ——の、最後の結晶でもありました。

  • ブルーバード – P710【角型ヘッドライトが告げた「脱・質実」宣言】

    ブルーバード – P710【角型ヘッドライトが告げた「脱・質実」宣言】

    ブルーバードという名前は、日産の中で特別な重みを持っています。初代から数えて6代目にあたるP810型が登場したのは1976年。この世代は、それまでの堅実路線から一歩踏み出して、見た目のモダンさで勝負しようとした転換点でした。角型ヘッドライトという、当時としてはかなり先進的な意匠を正面に据えたそのスタイリングには、日産なりの危機感と野心が同居しています。

    ブルーバードが置かれていた苦しい立ち位置

    https://kuruma-dna.com/p910

    1970年代半ばの日産は、セダン市場で微妙なポジション争いを強いられていました。トヨタ・コロナという強力なライバルが常に目の前にいて、しかも社内にはバイオレットという兄弟車まで存在していた。ブルーバードとバイオレットは車格がほぼ重なっており、ユーザーから見ると「何が違うの?」という状態だったわけです。

    先代の610型ブルーバードUは、質実剛健を地で行くようなクルマでした。悪いクルマではなかったものの、正直なところ華がなかった。コロナが着実にモデルチェンジで洗練されていく中で、ブルーバードは「堅いけど地味」という印象に甘んじていた面があります。

    つまり810型には、バイオレットとの差別化と、コロナに対する商品力の底上げという二つの課題が同時にのしかかっていたのです。

    角型ヘッドライトが意味したもの

    https://kuruma-dna.com/p610

    810型ブルーバードを語るうえで、まず触れなければならないのが角型ヘッドライトです。今でこそ当たり前ですが、1976年当時、角型ヘッドライトは国産車ではまだ珍しい存在でした。丸目が主流だった時代に、あえてシャープな四角い目を採用したことは、デザイン上の大きな賭けだったと言えます。

    この選択には明確な意図がありました。バイオレットが比較的コンパクトでスポーティな方向を志向していたのに対し、ブルーバードは「上質さ」と「先進性」で差をつけようとしたのです。角型ヘッドライトは、その象徴でした。直線基調のボディラインと合わせて、当時の感覚では相当にモダンな印象を与えるデザインだったはずです。

    ただし、このモダンさは万人受けしたかというと、少し話が複雑です。ブルーバードの顧客層は保守的なユーザーが多く、「急に顔が変わった」ことへの戸惑いもあったとされています。新しさを打ち出すことと、既存ファンの期待に応えること。この二律背反は、810型が最初に直面した壁でした。

    中身の進化──堅実だが着実だった機械面

    https://kuruma-dna.com/u11

    見た目の変化が目立つ810型ですが、機械的な部分も地道にアップデートされています。エンジンはL型直列4気筒を中心としたラインナップで、1.6Lから2.0Lまでを揃えていました。L型エンジンは日産の屋台骨とも言えるユニットで、信頼性の高さには定評があります。

    サスペンションはフロントがストラット、リアがリーフスプリングの4リンクという、当時のこのクラスでは標準的な構成。飛び抜けた先進性はありませんが、実用セダンとしての基本をしっかり押さえた設計です。

    注目すべきは、上級グレードの充実です。810型では内装の質感向上や装備の拡充に力が入れられ、ブルーバードを「ちょっといいセダン」として位置づけ直す意図が見えます。バイオレットが実用車寄りのキャラクターを担う分、ブルーバードはワンランク上の満足感を提供する──という棲み分けの構図が、810型でようやく明確になりました。

    コロナとの戦い、そして時代の壁

    https://kuruma-dna.com/p510

    810型の最大のライバルは、やはりトヨタ・コロナでした。1970年代のコロナは販売力が圧倒的で、ブルーバードはつねに追いかける立場にありました。810型はデザインの刷新と上級感の演出で対抗しようとしましたが、販売台数でコロナを逆転するには至っていません。

    もうひとつ、810型が直面した時代的な制約があります。1970年代後半は排出ガス規制の強化が続いた時期で、エンジンのパワーダウンは避けられませんでした。L型エンジンも例外ではなく、規制対応によって本来の持ち味であるトルク感がやや薄れた面は否めません。

    これは810型だけの問題ではなく、同時代のほぼすべての国産車が抱えていたハンデです。ただ、その中でブルーバードがデザインや装備で差別化を図ろうとしたのは、エンジン性能だけでは勝負できない時代への適応だったとも読めます。

    810型が系譜に残したもの

    https://kuruma-dna.com/u12

    810型ブルーバードの生産期間は1976年から1979年と、決して長くはありません。次の910型が登場すると、ブルーバードは一気にヒット作へと化けます。910型は「技術の日産」を体現するモデルとして大成功を収めるわけですが、その下地を作ったのは810型だったと言えるでしょう。

    810型が試みた「質実剛健からの脱却」と「バイオレットとの明確な差別化」は、結果として910型以降のブルーバードの方向性を決定づけました。上質さと先進性で勝負するという路線は、910型のターボモデルやアテーサ(4WD)搭載モデルへとつながっていきます。

    もし810型が従来どおりの地味な路線を踏襲していたら、910型の成功はなかったかもしれない。そう考えると、810型は「成功の前夜」を担った世代です。華々しい主役ではなかったけれど、ブルーバードという名前が次の時代でも生き残るための布石を、確かに打っていた。

    角型ヘッドライトの採用ひとつとっても、810型には「変わらなければいけない」という切実な意志が宿っています。その意志が正しかったことは、後の歴史が証明しています。

  • ブルーバード – P510【日本車が世界で通用すると証明した一台】

    ブルーバード – P510【日本車が世界で通用すると証明した一台】

    「日本車は安いだけ」。1960年代のアメリカでは、それが常識でした。その空気を変えた一台があります。日産ブルーバード510。日本では堅実なファミリーセダンとして売られたこの車が、海を渡った先でまったく別の評価を受けることになります。

    先代の挫折と、設計思想の転換

    https://kuruma-dna.com/p610

    510を語るには、まずその前に何があったかを知る必要があります。先代の410型ブルーバードは、ピニンファリーナによるデザインを採用したものの、日本市場では賛否が割れました。とくに尖ったテールまわりのデザインは「鯨」と呼ばれ、販売面でトヨタ・コロナに大きく水をあけられた世代です。

    日産にとって410の苦戦は深刻でした。ブルーバードはダットサンブランドの屋台骨であり、ここでの敗北はそのまま会社の体力に直結します。次のモデルでは、見た目の冒険よりも中身の実力で勝負するという方向に舵が切られました。

    四輪独立懸架という選択

    https://kuruma-dna.com/p410

    510型の最大の特徴は、このクラスとしては異例だった四輪独立懸架サスペンションの採用です。フロントにストラット、リアにセミトレーリングアームという構成は、当時のBMW 1600や2002といった欧州スポーツセダンと同じ考え方でした。

    これは偶然ではありません。開発を主導したエンジニアたちは、欧州車の走行性能を明確にベンチマークとしていたとされています。要するに、「安くて壊れにくい日本車」ではなく、「ちゃんと走る日本車」を作ろうとした。その意志がサスペンション形式に表れています。

    リジッドアクスルが当たり前だったこの価格帯で、四輪独立懸架を量産車に載せるのは簡単な判断ではありません。コストは上がるし、生産の難度も上がる。それでもやったのは、410で負けた悔しさと、ブルーバードという看板を立て直すという強い意志があったからでしょう。

    L型エンジンとパッケージの合理性

    https://kuruma-dna.com/p310

    エンジンもこの世代で一新されました。搭載されたのは新開発のL13型 1.3L SOHCエンジン、そして上位グレードにはL16型の1.6Lが用意されています。OHVからSOHCへの転換は、高回転域での効率と出力向上を狙ったものです。

    このL型エンジンは、後に日産の主力ユニットとして長く使われることになります。つまり510は、日産のエンジン戦略においても転換点だったわけです。単にブルーバード一車種の話ではなく、メーカー全体の技術基盤を切り替えるタイミングでもありました。

    ボディは先代より全長がやや短くなり、全幅もコンパクトにまとまっています。ただし室内空間は犠牲にしていない。直線基調のシンプルなデザインは、410のような好き嫌いを生みにくく、どの市場にも受け入れられやすいものでした。見た目で冒険せず、中身で攻める。その設計思想が外観にもはっきり出ています。

    北米での「Datsun 510」という衝撃

    https://kuruma-dna.com/p810

    510ブルーバードの真価が発揮されたのは、むしろ日本の外でした。北米では「Datsun 510」の名前で販売され、ここで予想を超えるヒットとなります。

    理由は明快です。四輪独立懸架による安定した走り、SOHCエンジンの軽快な回転フィール、そして欧州スポーツセダンの半額以下という価格。BMW 2002に匹敵する走りが、はるかに安く手に入る。アメリカの自動車メディアはこの事実に驚き、高い評価を与えました。

    とくに重要だったのは、510が単に「安い代替品」として評価されたのではなく、「この価格でこの走りは本物だ」という認められ方をしたことです。日本車が価格以外の理由で選ばれる。それは1960年代においては画期的なことでした。

    さらにSCCA(スポーツカー・クラブ・オブ・アメリカ)のレースでも510は活躍します。ピーター・ブロックが率いるBREレーシングのDatsun 510は、トランザムシリーズの2.5Lクラスで圧倒的な強さを見せました。レースでの実績は、510の走行性能が看板倒れではないことを証明し、ブランドイメージを大きく押し上げています。

    日本市場での評価と、もうひとつの顔

    https://kuruma-dna.com/p910

    一方、日本国内での510ブルーバードは、もう少し地味な存在でした。コロナとの販売競争は続いていましたし、日本のユーザーにとっては「よくできたファミリーセダン」という認識が主だったはずです。

    ただ、SSSグレードの存在は見逃せません。SUツインキャブ仕様のエンジンにクロスレシオのミッション、そして四輪独立懸架。SSSは国内のラリーシーンでも結果を残しており、とくにサファリラリーでの活躍は日産のモータースポーツ史において重要なエピソードです。

    つまり510は、日本では「堅実なセダン」、北米では「驚異のバリューカー」、モータースポーツでは「本格的な競技車両」と、市場によってまったく異なる顔を持っていた。ひとつの車がこれだけ多面的に評価されること自体が、設計の懐の深さを物語っています。

    510が残したもの

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    510ブルーバードの最大の遺産は、「日本車は走りでも勝負できる」という事実を世界に示したことです。それまでの日本車は、耐久性や経済性で評価されることはあっても、ハンドリングや走行性能で欧州車と比較されることはほとんどありませんでした。

    510の成功がなければ、後のフェアレディZの北米でのブレイクも、違う形になっていたかもしれません。Datsun 510が築いた「日産は走れるメーカーだ」という信頼が、Z432やS30フェアレディZを受け入れる土壌を作ったと見るのは、決して大げさな話ではないでしょう。

    後継の610型は、より大きく、より豪華な方向に進みました。それは時代の要請でもありましたが、510が持っていた「小さくて、軽くて、よく走る」という美点は薄れていきます。だからこそ、510は今なお特別な存在として語られるのです。

    派手なスーパーカーでもなく、革新的なメカニズムの塊でもない。けれど、正しい設計思想を正しい価格で提供した。

    510ブルーバードは、日本の自動車産業が「世界で戦える」と初めて胸を張れた車だったのだと思います。

  • セドリック – 330型【オイルショックの灰から立ち上がった高級車の再定義】

    セドリック – 330型【オイルショックの灰から立ち上がった高級車の再定義】

    1975年という年は、日本の自動車メーカーにとって「何を作るか」よりも「何を作れるか」が先に来た時代でした。

    オイルショックの余波、排ガス規制の強化、そして高級車という存在そのものへの逆風。そんな中で登場した日産セドリック・330型は、単なるモデルチェンジではなく、高級車の意味をもう一度問い直す作業だったと言えます。

    オイルショック後の高級車という矛盾

    https://kuruma-dna.com/230-cedric

    1973年の第一次オイルショックは、日本の自動車市場を根底から揺さぶりました。ガソリン価格の高騰、省エネルギーの社会的要請、そして「大きなクルマ=悪」という空気。高級セダンを主力のひとつに据える日産にとって、これは深刻な問題でした。

    先代の230型セドリックは1971年にデビューしており、オイルショック前の空気の中で設計されたクルマです。大排気量エンジンと堂々としたボディは、高度経済成長の延長線上にあるものでした。ところが社会の空気が一変した1970年代半ば、日産は次のセドリックで「豪華さ」と「時代への適合」を両立させなければならなくなったわけです。

    要するに、330型は「高級車を作りたい」という意思と「もう以前のようには作れない」という制約が同時に存在する中で生まれたモデルです。この緊張関係こそが、このクルマの性格を決定づけています。

    排ガス規制という技術的な壁

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    330型が直面した最大の技術的課題は、昭和50年・51年排出ガス規制への対応でした。これは当時の日本の自動車メーカーにとって、エンジン開発の最優先課題です。排ガスをきれいにしながら、パワーと燃費を両立させる。言うのは簡単ですが、当時の技術水準では極めて難しい注文でした。

    日産はこの世代で、直列6気筒のL型エンジンを引き続き搭載しつつ、排ガス浄化システムの改良に注力しています。NAPS(Nissan Anti-Pollution System)と呼ばれた排ガス対策技術を投入し、規制をクリアしました。ただ、この対策はどうしても出力の低下を伴います。

    L20型やL28型といったエンジンは、本来もっとパワフルに回せるユニットです。しかし排ガス規制対応のためにチューニングを抑えざるを得ず、結果として「走りの力強さ」は先代比で控えめになった面があります。これは日産だけの問題ではなく、トヨタのクラウンも含めた同時代の高級車すべてが抱えたジレンマでした。

    つまり330型のエンジニアリングは、「いかに速く走るか」ではなく「いかに規制をクリアしながら高級車としての品格を保つか」という方向に振られていたわけです。この時代の高級車を評価するときに、スペックの数字だけ見ても本質は見えてきません。

    デザインの刷新が語るもの

    https://kuruma-dna.com/p230

    330型セドリックのデザインは、先代230型の路線を否定するのではなく、さらに押し進めるものでした。曲面を主体にしたボディに、豪華さを強調する装飾。日産自身の表現を借りれば、アメリカンスタイルをより昇華させた方向です。

    面白いのは、この判断がオイルショック直後の空気と必ずしも一致していなかったことです。世の中が「大きなクルマ=悪」へ傾いていた時期に、日産は豪華さで勝負する道を選びました。高級車とはそういうものだ、という当時の常識に忠実だったとも言えます。

    ただし細部では時代への対応も進んでいます。1976年6月には「Fタイプ」に角型ヘッドランプが追加され、のちの世代につながる意匠が部分的に顔を出しました。曲面と豪華さを基調にしながら、次の時代の要素が混ざり始めた世代でもあります。

    インテリアも同様に、質感の向上が図られました。ウッドパネルやソフトパッドの使い方に工夫が見られ、「派手ではないが確実に上質」という方向性が打ち出されています。これは後の日産高級車のインテリア思想にもつながる考え方です。

    兄弟車グロリアとの関係

    https://kuruma-dna.com/y30

    セドリックを語るうえで外せないのが、兄弟車であるグロリアとの関係です。330型世代でもセドリックとグロリアは基本設計を共有しつつ、フロントマスクやリアまわりのデザインで差別化を図っていました。

    セドリックがよりフォーマルでオーナードリブン寄りの性格を持つのに対し、グロリアはややスポーティな味付けを意識している。ただ、この世代ではその差は微妙なものであり、実質的にはほぼ同じクルマと言ってもよいレベルです。

    この「セド・グロ」体制は日産の販売チャネル戦略に根ざしたものでした。日産店で売るセドリック、日産モーター店で売るグロリア。同じクルマを二つの販売網で売り分けるという手法は、トヨタのクラウン一本に対する日産なりの回答だったわけです。効率的ではありますが、ブランドの独自性という点では薄まるリスクも抱えていました。

    クラウンとの終わらない競争

    https://kuruma-dna.com/p130

    330型セドリックの最大のライバルは、言うまでもなくトヨタ・クラウンです。この世代のクラウンは5代目のMS80/MS100系で、やはり排ガス規制対応に苦しみながらも堅実な販売を続けていました。

    セドリックとクラウンの競争は、単なる販売台数の争いではありません。法人需要、ハイヤー・タクシー需要、そして個人オーナーの指名買い。それぞれの領域で、どちらがより信頼されるかという総合力の勝負です。

    正直に言えば、この時代のセドリックはクラウンに対して販売面で苦戦する場面が増えていました。トヨタの販売力とブランド構築力は強力で、日産はセドリック/グロリアの二本立てをもってしてもクラウンの牙城を崩しきれなかった。330型はその構造的な課題を引き継いだ世代でもあります。

    ただ、だからといって330型に魅力がなかったわけではありません。直列6気筒の滑らかさ、日産らしい足回りのしっかり感、そしてフォーマルなデザイン。好む人には確実に響く個性を持っていました。問題は、それが市場全体のシェアには直結しにくかったということです。

    系譜の中での330型の意味

    https://kuruma-dna.com/y31

    330型セドリックは、1979年に後継の430型へバトンを渡し、その430型が1983年にY30型へと続いていきます。Y30型以降、セドリックはV型6気筒エンジンの搭載やターボ化など、より積極的な技術投入で差別化を図っていくことになります。

    振り返ってみると、330型は「我慢の世代」だったと言えるかもしれません。やりたいことよりも、やらなければならないことが先に来た時代。排ガス規制をクリアし、オイルショック後の市場に適応し、それでも高級車としての体面を保つ。華やかさには欠けるかもしれませんが、この世代があったからこそ、日産は高級セダンのラインを途切れさせずに済んだのです。

    そしてもうひとつ見逃せないのは、330型が貫いた曲面と豪華さの路線が、次の430型で正反対に振り切られたことです。直線的でクリーンなデザインへ大転換したのが430型で、Y30、Y31と続く日産高級車の造形はその延長線上にあります。330型は、その転換を引き起こした最後の一台でもありました。

    逆風の中で生まれたクルマは、得てして地味に見えます。でも、その地味さの裏には「この状況でも高級車を作り続ける」という意思決定があった。

    330型セドリックは、日産の高級車史における踏ん張りどころであり、次の飛躍のための土台を静かに築いた一台でした。

  • ブルーバード – U11【FFブルーバードが「普通」になった世代】

    ブルーバード – U11【FFブルーバードが「普通」になった世代】

    ブルーバードという名前に、どんな印象を持つでしょうか。

    技術の日産を体現した看板車種。サニーの兄貴分。トヨタ・コロナとの販売合戦を繰り広げた永遠のライバル。

    そのどれもが正しいのですが、U11型に限って言えば、少し違う角度から見る必要があります。この世代のブルーバードは、革命の直後に来た「地固め」の一台だったからです。

    先代が起こした革命の後始末

    日産ブルーバード U11
    画像:kieranwhite599/CC BY 2.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/p910

    U11型ブルーバードを語るには、まず先代のU11…ではなく、910型とU11の一つ前にあたるU11型の関係を整理する必要があります。正確には、U11型は7代目ブルーバードにあたります。ただし、ブルーバードの系譜で本当に大きな転換点だったのは、その一世代前、1983年ではなく1979年登場の910型と、そこからFF化に踏み切った流れそのものです。

    910型ブルーバードはFR(後輪駆動)の最終世代として大ヒットしました。「ブルーバード、お前の時代だ」というCMコピーが象徴するように、端正なデザインと扱いやすさで幅広い支持を集めた名車です。ところが日産は、その次のモデルで駆動方式をFF(前輪駆動)に転換します。

    FFへの切り替えは、910型の後継として1983年10月に登場したU11型で実現しました。正確に言えば、日産はこの世代で「ブルーバードをFF化する」という大きな賭けに出たわけです。当時、世界的にFF化の波が押し寄せていたとはいえ、FRで成功していた看板車種の駆動方式を変えるのは、メーカーにとって相当なリスクでした。

    CA型エンジンとFF専用設計の意味

    日産ブルーバード U11
    画像:kieranwhite599/CC BY 2.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/u12

    U11型の心臓部を担ったのは、CA型エンジンです。CA16、CA18、CA20といった直列4気筒が搭載され、排気量は1.6Lから2.0Lまでカバーしていました。CA型は日産がFF車用に開発した横置きエンジンで、U11型ではこのエンジンの熟成が大きなテーマになっています。

    CA型エンジンは、当時の日産が持っていたFF用パワートレインの中核です。SOHCとDOHCの両方が用意され、ターボモデルも設定されました。特にCA18DETを積んだターボモデルは、FFセダンとしてはかなり力強い走りを見せています。ただ、このエンジンの本質的な美点は爆発的なパワーではなく、日常域での扱いやすさと静粛性にありました。

    FF化によって室内空間が広がったことも見逃せません。プロペラシャフトのトンネルが不要になり、後席の足元が広くなる。トランク容量も確保しやすくなる。こうした実用面でのメリットは、カタログ上の数値以上に、実際に乗る人にとっては大きな変化でした。

    「技術の日産」が選んだ実用路線

    https://kuruma-dna.com/p810

    U11型ブルーバードの設計思想を一言でまとめるなら、「奇をてらわず、確実に良くする」という方向性です。先代でFF化という大転換を果たした以上、この世代に求められたのは革新ではなく成熟でした。

    ボディデザインは、直線基調でありながら角の丸みを増した、いかにも1980年代中盤らしいスタイルです。4ドアセダンとワゴン(ただしワゴンはやや遅れて追加)が主力で、ハードトップも用意されました。ハードトップはピラーレスの開放感を持ちながら、ボディ剛性の確保にも配慮されています。

    足回りには4輪独立懸架が採用されました。FFセダンで4輪独立というのは、当時のこのクラスでは先進的な選択です。コロナやカリーナといったトヨタ勢がリアにビーム式を使っていた時代に、日産はコストをかけてでも走りの質を追求しています。「技術の日産」という看板は、こういう地味なところにこそ表れていました。

    ライバルとの距離、そして時代の空気

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    1983年という年は、日本の自動車市場にとって過渡期でした。FF化の波はすでに止められないものになっており、トヨタもカローラやカリーナでFF化を進めています。ブルーバードの直接のライバルであるコロナも、1983年登場のT150系でFF化を果たしました。

    つまり、U11型ブルーバードが戦った相手は、同じようにFF化を済ませたばかりのライバルたちだったわけです。ここで勝負を分けたのは、FFとしての完成度の差でした。日産はスタンザやパルサーなど、ブルーバードより先にFF化した車種で経験を積んでおり、その蓄積がU11型に活かされています。

    ただし、販売面では910型ほどの爆発力はありませんでした。910型が持っていた「FRセダンの決定版」という明快なキャラクターに比べると、U11型は良くも悪くも優等生的です。突出した個性がないぶん、指名買いの動機が弱い。これはU11型だけの問題ではなく、FF化以降のブルーバード全体が抱えることになる構造的な課題でもありました。

    SSSの名は残ったけれど

    https://kuruma-dna.com/p610

    ブルーバードといえばSSS(スリーエス)というグレード名を思い浮かべる人も多いでしょう。Super Sports Sedanの頭文字を取ったこの名前は、510型の時代からブルーバードのスポーティグレードを象徴してきました。

    U11型にもSSSは設定されています。ターボエンジンにスポーツサスペンション、専用の内外装を組み合わせた仕様で、カタログ上のスペックは十分に魅力的でした。しかし、FFになったブルーバードのSSSは、510や910のSSSとは本質的に異なるものです。

    FRのSSSが持っていた、後輪駆動ならではのスポーティな挙動や、ドライバーとの一体感。それはFF化によって失われた部分でもあります。もちろんFFにはFFの良さがあり、トラクション性能やスペース効率では優れています。ただ、SSSという名前が喚起するイメージと、実際の走りの質感との間に、微妙なズレが生じ始めていたのは事実でしょう。

    U11型が系譜に残したもの

    https://kuruma-dna.com/u14

    U11型ブルーバードは、派手な話題に乏しい世代です。先代のようなFF化の衝撃もなければ、後継のU12型のような洗練されたデザインの評価もありません。けれど、この世代がなければ、ブルーバードのFF化は「実験」のまま終わっていた可能性があります。

    FF専用プラットフォームの熟成、CA型エンジンの改良、4輪独立懸架の採用。U11型が地道に積み上げたこれらの技術的資産は、次のU12型で花開くことになります。U12型ブルーバードが「走りのいいFFセダン」として高い評価を受けたのは、U11型の時代に基礎が固められていたからです。

    もうひとつ、U11型が示したのは、ブルーバードという車種の性格が変わりつつあったという事実です。510型や910型の時代、ブルーバードは「走りで選ぶセダン」でした。しかしFF化以降、ブルーバードは徐々に「実用性で選ぶセダン」へとシフトしていきます。その転換点に立っていたのが、U11型でした。

    革命は目立ちます。でも、革命を日常に定着させる世代は、どうしても地味になる。U11型ブルーバードは、まさにそういう役割を担った一台です。

    派手さはなくても、ブルーバードがブルーバードであり続けるために、必要な世代だったと言えるでしょう。

  • ブルーバード – P610【ブルーバードが「大きくなる」と決めた世代】

    ブルーバード – P610【ブルーバードが「大きくなる」と決めた世代】

    ブルーバードという名前に、どんなイメージを持つでしょうか。

    技術の日産を支えた大衆車。サファリラリーを走った硬派なセダン。あるいは、いつの間にか存在感が薄くなっていった中型車。

    どれも間違いではありません。ただ、その長い歴史の中で「ブルーバードの性格が変わった」と言える瞬間がいくつかあります。

    1971年に登場したP610型は、まさにそのひとつです。

    510の成功が生んだ「次」への圧力

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    P610の話をするには、まず先代の510型に触れないわけにはいきません。510ブルーバードは、1967年の登場以来、国内外で高い評価を得ました。とくに北米市場では「ダットサン510」として、コンパクトで軽快なスポーツセダンとして人気を博しています。SSS(スーパースポーツセダン)グレードのイメージも強く、モータースポーツでの活躍もあって、ブルーバード史上もっとも「走り」のイメージが濃い世代だったと言えます。

    ところが、成功した車の後継というのは厄介なものです。510の評価が高ければ高いほど、次のモデルには「もっと上」を求める声と「あの良さを守れ」という声が同時に押し寄せます。そして日産が選んだのは、明確に「上」へ向かう道でした。

    大型化とL型エンジンという選択

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    P610型で最も目立つ変化は、ボディの大型化です。全長・全幅ともに先代より一回り大きくなり、室内空間にも明らかな余裕が生まれました。510が持っていたコンパクトさ、凝縮感とは違う方向性です。

    エンジンも変わりました。510型の主力だったL13型・L16型に加え、P610ではL18型(1,770cc)が新たに搭載されています。L型エンジンは日産の直列4気筒OHCユニットとして幅広い車種に使われたシリーズですが、排気量を拡大して搭載したことで、ブルーバードの「格」を一段引き上げようとした意図が見えます。

    つまり、P610は「より広く、より力強く、より上質に」という方向で企画された車です。1970年代初頭の日本では、マイカーブームが一巡し、ユーザーの目が「次の一台」に向き始めていました。最初の一台としてカローラやサニーを買った層が、次はもう少し上のクラスを求める。その受け皿として、ブルーバードが大きくなるのは自然な流れだったとも言えます。

    時代が求めた「高級化」の空気

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    P610が高級路線に舵を切った背景には、日産社内の事情もあります。当時の日産のラインナップでは、ブルーバードの上にはセドリック/グロリアがありましたが、その間を埋める車種が手薄でした。ローレル(C130系)が同時期にその役割を担い始めていたとはいえ、ブルーバード自体も「少し上」に動くことで、ラインナップ全体の厚みを出す狙いがあったと考えられます。

    競合のトヨタを見れば、コロナとマークIIの二段構えで中型車市場をきっちり押さえていました。日産としても、ブルーバードをコロナの真正面だけに置いておくわけにはいかなかったのです。

    加えて、1970年代は排出ガス規制の波が押し寄せ始めた時期でもあります。エンジンの出力を絞らざるを得ない状況で、車としての魅力をどこで出すか。走りのキレだけでは勝負しにくくなる時代に、快適性や質感で勝負する方向は、ある意味で合理的な判断でした。

    デザインと走りの評価は割れた

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    P610のエクステリアデザインは、510の端正さとはかなり趣が異なります。丸みを帯びたボディラインに大型のグリル。好き嫌いが分かれるデザインだったのは確かです。510のシャープさを愛したファンからは「太った」「鈍くなった」という声もありました。

    走りの面でも、大型化と重量増は隠しようがありません。510のSSSが持っていた軽快なハンドリングを期待した層にとっては、やや物足りなさがあったでしょう。もちろんSSSグレードは引き続き設定されており、L18型エンジンとの組み合わせで動力性能自体は向上しています。ただ、「速さ」と「軽快さ」は別物です。P610は速くなったけれど、軽くはなかった。

    一方で、ファミリーユースの観点から見れば、室内の広さや乗り心地の向上は明確な進歩です。後席の居住性、トランク容量、静粛性。こうした実用面での改善は、実際に家族を乗せて走るオーナーには歓迎されました。評価が割れたのは、ブルーバードに何を求めるかによって、見え方がまるで違ったからです。

    「U」へ続く高級化の起点

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    P610の後継として1976年に登場した810型は、さらに高級化を推し進めます。そしてその次の910型(1979年)で「ブルーバードは実用セダンとしての完成度で勝負する車」という路線が定着していきました。つまりP610は、ブルーバードが「走りのセダン」から「上質な中型車」へと軸足を移す、最初の一歩だったわけです。

    後年、U12やU13の世代で「ブルーバードらしさとは何か」が繰り返し問われることになりますが、その問いの原点はP610にあると言ってもいいかもしれません。510が作った「走りのブルーバード」像を手放し、別の価値で勝負すると決めた世代。それがP610です。

    もちろん、大型化と高級化が「正解だったか」は一概には言えません。ただ、1971年という時代に立ってみれば、日産がその選択をした理由は十分に理解できます。マーケットが上を求め、規制が走りを制限し、競合が隙間を埋めてくる。そのなかで、ブルーバードは「大きくなる」と決めた。P610は、その決断が形になった最初の車です。