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  • ブルーバード – U13【バブルの余熱が生んだ最も上質なブルーバード】

    ブルーバード – U13【バブルの余熱が生んだ最も上質なブルーバード】

    ブルーバードという名前に、どんな印象を持つでしょうか。

    堅実、実直、サラリーマンの足。おそらくそんなイメージが多いはずです。

    ところが1991年に登場したU13型は、その「堅実な日産のセダン」が最も華やかだった瞬間を切り取ったようなクルマでした。

    バブル経済の余熱をたっぷり吸い込んで企画・開発されたこの世代は、歴代ブルーバードの中でもっとも上質で、もっとも野心的で、そしてもっとも時代に翻弄された存在だったと言えます。

    バブルが企画書に残した痕跡

    https://kuruma-dna.com/u12

    U13型の開発が本格化したのは1980年代後半、まさにバブル経済の絶頂期です。この時期の日産は、あらゆる車種で「もう一段上」を目指す空気に満ちていました。セフィーロ、プリメーラ、インフィニティQ45。ラインナップ全体が高級化・高品質化へと舵を切っていた時代です。

    ブルーバードもその流れの中にいました。先代のU12型は直線基調の端正なデザインと、アテーサ(ATTESA)と呼ばれるフルタイム4WDシステムで一定の評価を得ていました。SSS系のスポーティグレードも人気があり、商品としてのバランスは悪くなかった。ただ、時代が求めていたのは「もっと上質に、もっと滑らかに」という方向でした。

    U13型の企画意図を一言でまとめるなら、ブルーバードを「ミドルセダンの上限」まで引き上げること。それはバブル期ならではの、潤沢な開発予算と高い目標設定があってこそ可能だった挑戦です。

    丸くなったのには理由がある

    https://kuruma-dna.com/u14

    U13型を見てまず気づくのは、先代までとはまるで違う丸みを帯びたボディラインです。U12型の角張ったシルエットから一転して、曲面で構成された流麗なフォルムに変わりました。この変化には、ちゃんとした背景があります。

    1990年前後、自動車デザインの世界ではエアロダイナミクスへの関心が急速に高まっていました。空気抵抗係数(Cd値)を下げることが燃費改善にも走行安定性にも効くという認識が広がり、各社が競うように曲面デザインを採用し始めた時期です。U13型のCd値は0.30を切る水準に達しており、当時のセダンとしてはかなり優秀な数字でした。

    ただし、デザインの狙いは空力だけではありません。丸みのあるフォルムは「柔らかさ」「上品さ」を視覚的に伝える手段でもありました。角張ったクルマが「硬派」「実用的」に見えるのに対して、曲面は「余裕」「豊かさ」を暗示します。バブル期の空気を反映するなら、この方向は必然だったとも言えます。

    ただ、この大胆なデザイン変更は賛否を分けました。従来のブルーバードユーザーの中には「らしくない」と感じた人も少なくなかったようです。堅実さを美徳としてきたブランドにとって、上質さへの振り切りは諸刃の剣でした。

    中身に注がれたバブルの恩恵

    https://kuruma-dna.com/u11

    U13型の真価は、むしろ走らせてみたときに感じる質感の高さにあります。プラットフォームは先代から大幅に改良され、ボディ剛性が引き上げられました。サスペンションはフロントがストラット、リアがマルチリンクという構成で、乗り心地と操縦安定性の両立が図られています。

    エンジンは直列4気筒のSR18DE(1.8L)とSR20DE(2.0L)を中心にラインナップ。SR20DEは自然吸気で140馬力を発生し、日常域のトルク感と回転フィールのバランスに優れたユニットでした。スポーティグレードのSSS系にはSR20DETターボも用意され、こちらは200馬力オーバー。アテーサ4WDとの組み合わせも継続されました。

    特筆すべきは内装の仕上げです。ソフトパッドの質感、シートの座り心地、スイッチ類の操作感。当時のこのクラスとしては明らかにワンランク上の作り込みがされていました。これは開発時期がバブル真っ只中だったからこそ実現できた贅沢です。コストダウンの圧力がまだ本格化する前に、やれることを全部やった。そういう世代のクルマです。

    また、静粛性への配慮も丁寧でした。遮音材の追加やボディの制振処理が施され、高速巡航時の快適性は先代から明確に向上しています。このあたりの地道な積み上げが、U13型の「乗ると違いがわかる」という評価につながっていました。

    時代の変わり目に立たされた不運

    https://kuruma-dna.com/p910

    U13型が市場に出た1991年は、バブル崩壊が始まった年でもあります。企画・開発はバブルの空気の中で進められましたが、販売はバブル後の冷え込んだ市場で戦わなければなりませんでした。この時間差が、U13型の商業的な運命を大きく左右します。

    景気が後退すると、消費者の目は一気にシビアになります。「上質なセダン」に対する需要そのものが縮小し、代わりに求められたのはコストパフォーマンスや実用性でした。さらに1990年代前半はRVブーム(レクリエーショナル・ビークル)の台頭期でもあり、セダン市場全体が縮小に向かい始めていた時期です。

    加えて、日産社内での立ち位置も微妙でした。同時期に存在したプリメーラ(P10型)がヨーロッパ仕込みのシャープなハンドリングで高い評価を得ており、「走りの日産」を体現する役割はプリメーラに持っていかれた感があります。ブルーバードは「プリメーラほど尖っていないが、ローレルほど上級でもない」という、やや中途半端なポジションに置かれてしまいました。

    販売台数は先代U12型を下回り、ブルーバードの存在感は徐々に薄れていきます。クルマの出来が悪かったわけではない。むしろ質感では歴代最高と言ってもいい。ただ、時代がそれを正当に評価する余裕を失っていたのです。

    SSS-Zという最後の輝き

    https://kuruma-dna.com/p810

    U13型を語るうえで外せないのが、スポーツグレードのSSS系、とりわけ後期に追加されたSSS-Zの存在です。SR20DETターボエンジンに5速マニュアル、ビスカスLSD、専用サスペンション。このあたりの装備を見ると、日産がブルーバードのスポーツ性を最後まで諦めていなかったことがわかります。

    SSS(スーパー・スポーツ・セダン)というグレード名は、1960年代の410型ブルーバードから続く由緒ある名前です。U13型のSSSは、その系譜の中でも最も洗練されたパッケージだったと言えるでしょう。先代のようなラリーイメージの荒々しさは薄れましたが、代わりに日常の中で楽しめるスポーツセダンとしての完成度は高かった。

    ただ、この時期のスポーツセダン市場はシビックSiRやランサー、インプレッサWRXといった強力なライバルが台頭してきた時期でもあります。U13型SSSは「大人のスポーツセダン」としての魅力はあったものの、話題性という点では新興勢力に押され気味でした。

    ブルーバードが最も豊かだった時代

    https://kuruma-dna.com/p610

    U13型の後継であるU14型を最後に、ブルーバードという車名は単独では消滅します。2000年に登場したブルーバードシルフィへと名前は引き継がれましたが、それはもはや別のクルマ、別のコンセプトでした。ブルーバードという「日産の基幹セダン」としての役割は、実質的にU13〜U14型の時代に終わりを迎えたと見るのが自然です。

    U13型は、ブルーバードの長い歴史の中で最も贅沢に作られた世代です。バブルという特殊な時代の空気が、開発陣に「妥協しなくていい」という自由を与えた。その結果、デザインも質感も走りも、従来のブルーバード像を超えるものが生まれました。

    しかし、その豊かさが市場に届いたとき、受け手の側はすでに豊かさを手放し始めていた。U13型ブルーバードとは、バブルが自動車に残した最良の遺産と、その遺産が報われなかった現実の両方を体現するクルマです。だからこそ、今振り返ると妙に味わい深い。

    時代を映す鏡としてのセダンの姿が、ここにはっきりと残っています。

  • セドリック – Y32【セダンを残し、ハードトップだけを次へ】

    セドリック – Y32【セダンを残し、ハードトップだけを次へ】

    1991年、セドリックの4ドアハードトップがY32へ変わりました。角を立てた先代に比べると、輪郭は丸く、顔つきもやわらかい。

    けれど、穏やかになったのは外側だけ。ブロアムVIPには255PSのターボ、グランツーリスモ・アルティマには後輪の向きも制御するスーパーHICASが用意されます。大きな上級車をどう走らせるか、Y32にはいくつもの答えがありました。

    丸みを帯びた、ハードトップの8代目

    Y31までのセドリックには、ハードトップとセダンがありました。1991年に新しくなったのはピラードハードトップだけ。営業車などにも使われるセダンは、Y31型のまま続きます。

    先代のハードトップと写真を見比べると、Y32はフロントから屋根、後ろまで線がなめらかにつながります。同じセドリックの名前を持ちながら、角張ったY31セダンと、この丸いY32ハードトップが街に並んでいたのです。

    車名は一つでも、車体の歩みは一つではありません。Y32はハードトップが進んだ8代目。この違いを頭に置くと、次の世代へ続くセドリックの姿が見えてきます。

    一つの車体に、ブロアムとグランツーリスモ

    Y32にも、上質さを前面に出す「ブロアム」と、走りを印象づける「グランツーリスモ」が並びました。同じピラードハードトップでも、フロントの表情は一つではありません。

    グランツーリスモは丸型4灯のヘッドライトを採用します。ブロアムの落ち着いた顔と比べると、ライトだけで印象が大きく変わる。同じY32の中で性格を選べるようにしたわけです。

    四つの丸いライトを置いたグランツーリスモは、なめらかな輪郭の中でもひときわはっきりした顔を持っていました。車体の形は共有しても、前から近づいてくる姿はまるで違います。

    255PSを持つブロアムVIP

    1991年式Y32セドリック・ブロアムVIPの斜め前から見た姿
    1991年式セドリック・ブロアムVIP(PAY32型)。写真:TTTNIS/Wikimedia Commons、CC0 1.0。Commonsの縮小版を使用

    ブロアムという名から、静かに後席へ乗るクルマを想像するかもしれません。ところが、その最上級に置かれたブロアムVIPは、力も持っていました。

    写真の1991年式ブロアムVIPは、全長4,780mm、全幅1,745mm、ホイールベース2,760mm。長いボンネットと後席まで続くルーフを一枚の姿にまとめた、大きなハードトップです。

    1991年式のPAY32型ブロアムVIPには、3.0LのVG30DET型V6ツインカムターボが載ります。最高出力は255PS、最大トルクは35.0kgm、車両重量は1,680kg。ブロアムの名を掲げる大きな車体に、Y32の中でも力のあるエンジンが組み合わされていました。

    Y32には、このターボのほかにも2.0LのVG20E、3.0LのVG30EやVG30DE、ディーゼルのRD28がありました。同じハードトップのボンネットの下でも、エンジンの幅は広い。255PSのVG30DETはブロアムVIPだけでなく、グランツーリスモ・アルティマにも載りました。

    ブロアムVIPの電動格納ドアミラー、フルオートエアコン、速度を一定に保つASCD、運転席エアバッグ。速いだけで上級車を名乗ったわけではありません。移動中に何を運転者へ任せ、何をクルマに任せるかまで考えた仕様です。

    このPAY32型ブロアムVIPは、前がストラット式、後ろがマルチリンク式のサスペンション。前後ともベンチレーテッドディスクブレーキを備えます。大きな車体の中で255PSを生かすには、止まり方と路面に対する姿勢も大切でした。華やかな数字の後ろに、そうした足回りが控えています。

    グランツーリスモには、後輪を操る選択肢

    一方、グランツーリスモ・アルティマのPBY32型には、スーパーHICASが設定されました。前輪を切るだけでなく、後輪の向きも制御する仕組みです。丸型4灯の顔の奥に、曲がり方へ踏み込む装備がありました。

    角を曲がるときも、高速で車線を移すときも、クルマの後ろ側はただ引きずられているわけではない。後輪まで動きに加えるという発想は、大きな上級ハードトップにも操る楽しさを求めた、この仕様の性格をよく示しています。

    先代Y31は、セドリックにグランツーリスモの名を加え、上級車にも「運転する楽しさ」を掲げました。Y32のアルティマは、外観だけでその言葉を受け継いだのではありません。後輪の動きにまで踏み込んだ選択肢を、同じグランツーリスモの系列へ用意したのです。

    アルティマはVIPと同じ255PSのV6ターボを持ちながら、スーパーHICASという選択肢も用意しました。力の数字を共にする二台でも、外から見える顔と、選べる装備が違う。この幅もY32の面白さです。

    二つの顔を次へ渡す

    1995年、ハードトップはY33へ交代します。ブロアムとグランツーリスモという二つの系列は、次のハードトップにも受け継がれました。

    丸みを帯びた姿の中に、静かに乗るための装備と、後輪まで使って曲がる仕組みをそろえたY32。同じ255PSでも、どんな顔と装備で乗るかを選べるところに、この世代らしさがあります。

    Y31セダンはその後も残ります。一方のハードトップは姿を変え、上級車の中で走り方を選べる道を、Y33へ渡していきました。

  • セドリック – Y33【VQの時代に、直6の4WDも加わった】

    セドリック – Y33【VQの時代に、直6の4WDも加わった】

    1995年、セドリックのハードトップはY32からY33へ移りました。

    新型に載ったVQ型V6は、次の時代を担うエンジンです。ところが、後期の4WDには直列6気筒のRB25DETも現れます。新しいV6だけで終わらなかったところに、Y33の面白さがあります。

    一つの高級ハードトップの中に、異なる考え方のエンジンが並んだ。9代目は、選択肢の多さで記憶したいセドリックです。

    変わったのは、ハードトップの方だった

    モデルチェンジしたのは4ドアハードトップ。Y31のセダンは同じセドリックの名で生産が続きました。ハードトップだけが先へ進む形は、先代Y32からの続きです。

    では、新しいハードトップは何を受け継いだのか。エンジンだけを新しくして、セドリックの選び方を捨てたわけではありません。

    Y33のハードトップには、上質さを押し出すブロアムと、走りの表情を持つグランツーリスモが残りました。二つの系列名はY32から受け継がれます。名札を守りながら、その下のエンジンを新しくしていく世代でした。

    VQが入って、上級車の走りが変わる

    Y33で加わったVQ型は、新開発のV型6気筒でした。従来のVG型もセドリックの歴史を長く支えてきましたが、Y33はVQを上級ハードトップの新しい動力として迎えます。

    アルミ製ブロックによる軽量化に加え、日産が磨いたのはアクセルに対する反応、静粛性、燃費、排出ガスでした。高級車に載せる新型エンジンには、力だけでなく、日々の移動を支える幅広い仕事が求められます。

    3.0LのVQには自然吸気とターボ付きがあり、VQ30DETはその高出力側を担いました。新しいV6を入れたことで、Y33は出力を求める仕様と、軽さや静けさを重んじる仕様を同じ系列の中に置けるようになります。

    同じY33の兄弟車グロリアでは、車体を強め、装備を増やしながら、VQの軽さによって車両全体の軽量化も実現しました。エンジンの材質が変わったことは、上級車を一台としてどう作るかにまでつながっていたのです。

    従来からのVG系も、仕様によってはカタログに残りました。新型エンジンを迎えながら、長く使ってきたものも続ける。Y33のエンジン構成には、その移り変わりがそのまま表れています。

    二つの顔を残したまま、次へ進む

    Y33セドリック・グランツーリスモを後方から見た姿
    Y33型セドリック・グランツーリスモ。写真:TTTNIS/Wikimedia Commons、パブリックドメイン。Commonsの縮小版を使用

    ブロアムとグランツーリスモを一つの名前へまとめなかったことも、Y33らしさです。落ち着いた上級車として乗るか、外観から走りの性格を選ぶか。日産はこの違いを、Y33でも残しました。

    写真のグランツーリスモは、後ろからでも車名と系列名が分かります。前だけでなく後ろ姿にも、セドリックの中の一つの系統として名前が刻まれていました。

    1995年の仕様には、マルチAVを備えたブロアムVIPと、電動スーパーHICAS付きのグランツーリスモ・アルティマもありました。一方は室内の装備を厚くし、もう一方は後輪の向きまで制御する。同じY33でも、名前ごとに力を入れる場所が違います。

    二つの系列は、エンジンの数字だけで分けられたものではありません。外から見える表情も、室内に求める雰囲気も違う。Y33では新しい動力を受け入れながら、セドリックを二つの名前で選ぶ形を守りました。

    1997年、4WDにはRB25DET

    1997年6月のカタログには、グランツーリスモFOURという4WD仕様が載っています。E-ENY33型に搭載されたのは2.5LのRB25DET。こちらはV6ではなく、直列6気筒ターボです。最高出力は235PSでした。

    3.0L VQのターボとは排気量も気筒の並び方も違います。しかも駆動するのは後輪だけでなく4輪。Y33の後期には、エンジンと駆動方式をひと組で変えた選択肢がありました。

    車両重量1,700kgのグランツーリスモFOURは、前がストラット式、後ろがマルチリンク式のサスペンションを備えます。直6ターボと4WDを組み合わせ、Y33の後期にもう一つの走り方を用意していました。

    4速ATを介して常時4輪を駆動し、16インチのアルミホイールを履きました。グランツーリスモの名前はそのままでも、前輪まで力を送る仕組みが車の中身を変えています。外から一目で分かる違いだけが、後期Y33の変化ではありません。

    一つの世代の中でVQの新しさとRBの4WDを両立させたことは、Y33が一枚岩のクルマではなかったことをよく表しています。

    直6ターボと4WDの組み合わせは、次のY34にも引き継がれます。1999年の新型発表では、4WDの「250LV FOUR」にRB25DETが指定されました。Y33後期の変わり種で終わらず、次代へ渡った一つの選択だったのです。

    ブロアムとグランツーリスモの最後

    1999年に登場するY34セドリックでは、ブロアムとグランツーリスモという長年の系列名が廃止されます。セドリックとグロリア、それぞれの車名そのものへ性格を与える構成に変わりました。

    そう考えると、Y33は二つの名前を最後まで同じセドリックの中に置いた世代です。新しいVQを受け入れ、後から直6の4WDも加えながら、ブロアムとグランツーリスモを選ぶ楽しさは残した。

    次のセドリックは、もっと大きく整理されます。Y33には、その直前まで続いた「一つの車名の中に、いくつもの上級車を用意する」という作り方が残っていたのです。

  • セドリック – Y30【V6が主役になった6代目】

    セドリック – Y30【V6が主役になった6代目】

    1983年6月22日、6代目セドリックのY30が登場しました。四角い430型の次も直線を使った姿ですが、ボンネットの中は大きく変わります。長く親しんだ直列6気筒に代わり、VG型のV6を主力に据えたのです。

    しかもY30は、エンジンだけを替えた車ではありません。静かな室内、雨を見て動くワイパー、後席まで調整できる電動シート。上級車の快適さを、機械と電子装備の両方でつくろうとした世代です。

    直列6気筒からV6へ

    先代430型の2.0Lターボは、L型の直列6気筒でした。6つのシリンダーが一列に並ぶ、長く使ってきた形です。Y30で前面に出たVG型は、それを左右3本ずつに分けたV6。日産はY30を、国産乗用車で初めてV6を採用したモデルと紹介しています。

    登場時のV6には3.0LのVG30Eと2.0LのVG20Eがありました。日産のY30セダン資料には、2.0LターボのVG20ETもラインアップとして挙げられています。3.0Lだけの車ではなく、排気量と過給の選び方を残しながら、エンジンの基本の形を変えたのです。

    淡い色のY30型セドリック・セダンを斜め前から見た写真
    日産ヘリテージコレクションに展示されたY30型セドリック・セダン。写真:M.rJirapat/CC BY-SA 4.0。Commonsの縮小版を使用

    写真のセダンでは、広いグリルの両端にライトを置き、車体側面をまっすぐ伸ばしています。430型からの角張った輪郭を残しつつ、中身は新しいV6へ。外観の継続とエンジンの転換が、同じ車に収まっています。

    静かさを数字の外でもつくる

    Y30のホイールベースは先代より40mm長くなりました。長さだけで室内の良し悪しは決まりませんが、日産はエンジン音を抑える工夫や、サスペンションから伝わる振動を減らす構造も説明しています。

    さらに車体表面の段差を抑え、走行中の空気の流れにも気を配りました。上級車を「大きなエンジンと豪華な内装」で終わらせず、乗っている間に聞こえる音や伝わる揺れまで整える。Y30が目指した快適さは、こうした見えにくい部分にもありました。

    それは運転する人だけの話ではありません。後席に人を乗せるセドリックでは、エンジンの静かさも、車体から伝わる振動の少なさも、移動中の居心地を左右します。Y30はV6の新しさを、車内で感じる変化につなげようとしました。

    雨を見て動くワイパー

    Y30には雨滴を感知して間欠作動するワイパーが用意されました。日産はこれを、当時の世界初の自動ワイパーシステムと説明しています。雨が降り始めるたびに手で間隔を調整する、その小さな操作を車に任せる装備です。

    電子装備はワイパーだけではありません。ターボ車には選曲表示や番組予約のできる電子式ラジオチューナーがあり、室内の空調にもコンピューター制御が使われました。ボンネット先端のマスコットを光らせる仕組みまであります。

    雨、音、室温。電子技術の出番は運転席から客室まで広がりました。速く走るためだけでなく、移動中に人が繰り返す操作を減らすことにも使う。Y30の装備には、1980年代の上級車が考えた「便利」が詰まっています。

    1984年、VIPに3.0Lターボが加わる

    3.0Lターボは、Y30の登場から約1年後に加わりました。まず1984年1月に「V30EブロアムVIP」が最上級仕様として登場。同年6月18日に、VG30ET型V6ターボの「ターボブロアムVIP」と「ターボブロアム」が加わります。

    1985年式のターボブロアムVIP保存車は、2,960ccで230PS、最大トルク34.0kgmです。同じVG30ETはフェアレディZにも使われました。2.0LのV6や営業用セダンとは、エンジンも力の出し方も違います。

    1984年1月のV30EブロアムVIPには、前後4席の位置を記憶する電動シートが用意されました。後から加わるターボVIPには、車高を保つ装置も備わります。運転席で力を感じるエンジンと、乗る人に合わせる室内装備。Y30は、上級車の価値を二つの方向から広げていました。

    ワゴンも、LPGのセダンもいた

    木目調の側面を持つ白いY30型セドリック・ワゴンを斜め前から見た写真
    沖縄で撮影された1985年式とされるY30型セドリック・ワゴン。写真:User3204/CC BY-SA 4.0。Commonsの縮小版を使用

    Y30には4ドアハードトップ、セダンのほか、ワゴンとバンもありました。写真のワゴンは、長いルーフと荷室側の窓がはっきり見えます。ハードトップの短い後部と比べると、同じセドリックでも車体の役割が違います。

    エンジンもV6だけではありません。日産の資料には、直列6気筒ディーゼルのLD28、セダンやバン向けの4気筒ガソリンCA20S、セダン向けLPGのCA20Pが載っています。1984年式NY30型セダンGLの保存車は、CA20Pを使った1,973ccのLPG車です。

    V6はY30の大きな変化です。その一方で、ワゴンや営業用セダンには別のエンジンも残りました。車体と燃料を用途に合わせて選べることも、この世代の広さでした。

    Y31へ渡した二つの流れ

    1987年、ハードトップとセダンは7代目Y31へ進みます。VG型V6はその後も活躍し、上級装備と走りの組み合わせは、次のセドリックでさらに違う顔を見せます。

    Y30で始まったのは、単に「直列6気筒をV6に替えた」という話ではありません。静かな車内をつくり、電子装備を増やし、3.0Lターボを後から加える。同時に、セダンやワゴン、LPG車も残した。新しい技術と幅広い使い道を、同じ車名の中に抱えた6代目でした。

  • セドリック – Y31【グランツーリスモを加えた7代目】

    セドリック – Y31【グランツーリスモを加えた7代目】

    1987年6月17日、7代目セドリックY31が登場しました。Y30からV6を受け継ぎながら、新たに「グランツーリスモ」を加えます。ブロアムと並ぶ、走りを前に出したセドリックです。

    この世代には、もう一つ大事な顔があります。4ドアハードトップが次のY32へ進んだ後も、Y31のセダンは営業車として生き続けました。Y31を一つの終了年で語れないのは、同じ型式の中に二つの時間があるからです。

    ブロアムの隣に、グランツーリスモ

    ブロアムの名前には、セドリックの上級車らしさがありました。Y31はそこへグランツーリスモを並べます。日産が掲げたのは、上級車にも「運転する楽しさ」を持たせることでした。

    黒いY31型セドリック・グランツーリスモSVを斜め前から見た写真
    Y31型セドリック V20ツインカムターボ・グランツーリスモSV。写真:TTTNIS/撮影者によるパブリックドメイン公開。Commonsの縮小版を使用

    写真のグランツーリスモSVを見ると、低く見えるフロントと、車体を長く見せる側面の線が目に入ります。同じセドリックでも、後席の落ち着きを想像させる名前だけでは終わらない。自分でハンドルを握る人へも、車の性格を示したのです。

    走りを見せるグランツーリスモ、上級装備を重ねるブロアム。その横には、後に営業用として長く残るセダンもあります。Y31は最初から、一つの性格に収まらない世代でした。

    VG20DETは185PSから210PSへ

    グランツーリスモの走りを支えた一つが、VG20DET型の2.0L V6ツインカムターボです。4バルブDOHCにセラミックターボを組み合わせました。

    このエンジンの最高出力は、初期型で185PS。1989年以降は210PSとなり、日産が保存する1991年式グランツーリスモSVも210PSです。同じVG20DETの名前のまま、登場時から25PS上積みされました。

    1991年式保存車のホイールベースは2,735mm。足回りは前ストラット、後ろはセミトレーリングアームの独立懸架です。ターボエンジンと足回りを合わせて見ると、グランツーリスモが動力だけでなく、曲がるときの車の動きにも目を向けていたことが分かります。

    それは「大きなセダンだから運転を任せる」という発想から一歩出ることでした。上級車の静けさや装備を保ちながら、自分で走らせる楽しさも選べる。Y31はその選択肢を、ブロアムの隣に置きました。

    1991年、ハードトップだけが先へ進む

    1991年、セドリックの4ドアハードトップは8代目Y32へモデルチェンジします。でも、街からY31の姿が消えたわけではありません。セダンはY31型のまま生産を続けました。

    Y31にとって1991年は、終わりではなく分岐点でした。華やかなグランツーリスモを持つハードトップは次へ渡り、別の仕事を担うセダンは自分の時間を続けます。

    後席のために変わったセダン

    黒いY31型セドリック・セダンのタクシーを斜め前から見た写真
    諏訪交通のY31型セドリック・セダン。写真:Mr.choppers/CC BY-SA 4.0。Commonsの縮小版を使用

    Y31のセダンは、タクシーにも使われました。写真では、後席の窓まで続く太い屋根の柱と、独立したトランクがよく分かります。前の写真のグランツーリスモと見比べると、同じY31でも車体の役割が違うことが見えてきます。

    1991年の改良では、後席の頭上を広げるためにルーフの形が変わりました。後ろの小さなオペラウインドーも廃止されます。外から見える変更ですが、理由は後ろに乗る人の空間でした。

    フォグランプ一体型のハロゲンヘッドライト、高い位置のブレーキランプ、ドア側面の補強材、運転席の上下調整機構も標準装備に加わりました。ハードトップが次の世代へ移っても、セダンには使われ方に合わせた改良が続いていたのです。

    V6だけではなかった長い後半

    営業用セダンのエンジンは、グランツーリスモのVG20DETとは別です。日産の資料では、当初のタクシー向けにLPGのRB20PとディーゼルのRD28が挙げられ、1991年には4気筒LPGのNA20Pが加わっています。

    1996年式の保存車「オリジナル」は、そのNA20Pを載せたタクシー仕様です。1,998ccで82PS、変速機はコラム式の4段MT。同じY31でも、210PSのグランツーリスモSVとは、エンジンも車内の使い方もまるで違います。

    人を乗せて日々走るセダンには、V6ターボとは別のエンジンと装備が選ばれました。Y31の長い後半は、上級ハードトップの続編ではなく、セダン自身の歩みです。

    2014年まで続いた車名

    日産車体の資料では、Y31系セドリックの生産終了は2014年9月。日産の案内では、販売終了は同年11月です。1991年にハードトップがY32へ進んでからも、セダンは20年以上つくり続けられました。

    セドリックのハードトップ系は、その間にY32、Y33、Y34へ進み、2004年に生産を終えます。Y31セダンはそこからも約10年走り続け、同じ車名の年表をさらに先へ延ばしました。

    1987年に生まれたY31は、走りを掲げたグランツーリスモで新しい顔を見せ、後には営業用セダンとして長く働きました。速さを見せた前半と、使われ続けた後半。二つを合わせて初めて、Y31の時間がつながります。

  • スカイライン – C210【GT-Rなき時代を生きた「ジャパン」の正体】

    スカイライン – C210【GT-Rなき時代を生きた「ジャパン」の正体】

    スカイラインの歴史を語るとき、C210型はちょっと扱いに困る存在かもしれません。先代のケンメリほどの華やかさはなく、次のR30ほど割り切ったスポーツ回帰もない。GT-Rの設定すらなかった。

    けれど、この世代を「谷間」の一言で片づけてしまうと、1970年代後半という時代が日本車に何を強いたのか、その本質を見落とすことになります。

    排ガス規制がすべてを変えた時代

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    C210型スカイラインが登場した1977年は、日本の自動車史において最も息苦しい時期のひとつです。

    昭和53年排出ガス規制——いわゆる「53年規制」の施行が目前に迫り、各メーカーはエンジンの出力を大幅に絞らざるを得ない状況に追い込まれていました。

    先代のC110型、通称「ケンメリ」の末期にはすでにGT-Rが消滅しています。KPGC110型GT-Rはわずか197台の生産で打ち切られ、レースにも出られないまま終わりました。排ガス対策と高性能の両立が技術的に困難だったからです。

    つまりC210型は、GT-Rが存在しないことが最初から確定していた世代です。スカイラインの歴史上、これは異例の事態でした。スポーツ性を看板に掲げてきた車種が、その看板を降ろさざるを得なかった。そこにどう意味を持たせるかが、このモデルの企画上最大の課題だったはずです。

    「ジャパン」という愛称が示すもの

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    C210型には「SKYLINE JAPAN」というキャッチコピーが与えられました。テレビCMでは俳優のショーン・コネリーを起用し、「日本の風土が生んだ名車」という打ち出し方をしています。ここに、当時の日産の狙いが透けて見えます。

    スポーツで勝負できないなら、「日本を代表する上質なセダン」として立たせよう——。これがC210型の基本戦略でした。先代までの「羊の皮を被った狼」路線から、明確に高級パーソナルカー路線への転換です。

    実際、内装の質感は先代から大きく向上しています。インパネまわりのデザインは直線基調で整理され、装備も充実しました。4ドアセダンだけでなく2ドアハードトップも用意されましたが、そのキャラクターはあくまで「スポーティな高級車」であって、「速さを追求するGTカー」ではありません。

    エンジンは苦しかった

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    搭載されたエンジンは、直列6気筒のL20型を中心としたラインナップです。排ガス規制対応のためにNAPSと呼ばれる日産の排出ガス浄化システムが組み込まれ、出力は130馬力程度に抑えられていました。

    130馬力という数字は、現代の感覚ではもちろん、当時の基準でも「速い」とは言いがたいものです。ケンメリGT-Rが搭載していたS20型エンジンの160馬力と比べるまでもなく、スカイラインが誇ってきたパフォーマンスの面影はかなり薄くなっていました。

    ただ、これはC210型だけの問題ではありません。同時期のトヨタ・セリカやマツダ・サバンナも同様に出力を落としており、日本のスポーティカー全体が「冬の時代」に入っていたのです。C210型のエンジンが物足りなかったのは事実ですが、それは時代の制約であって、このモデルだけの欠点ではありません。

    後期型ではL20ET型ターボエンジンが追加され、145馬力まで引き上げられました。ターボ化はこの時代の国産車としてはかなり早い動きで、日産がスカイラインのスポーツ性を完全に諦めていたわけではないことを示しています。このターボ技術の蓄積が、後のR30型「鉄仮面」やR32型GT-Rへとつながっていくことを考えると、C210型後期のターボ搭載は系譜上かなり重要な一歩でした。

    売れた、という事実

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    意外かもしれませんが、C210型スカイラインはよく売れました。販売台数は先代のケンメリに迫る水準で、商業的には成功と言ってよい数字を残しています。

    理由はいくつか考えられます。まず、スカイラインというブランド自体の吸引力がまだ非常に強かったこと。そして、高級化路線への転換が市場のニーズと合致していたこと。1970年代後半の日本は高度経済成長を経て消費が成熟しつつあり、「速さ」よりも「上質さ」を求める層が確実に増えていました。

    2ドアハードトップのスタイリングも人気を支えた要因です。直線的でシャープなボディラインは当時のトレンドを押さえており、特に若年層からの支持を集めました。走りで語れない分、見た目と雰囲気で選ばれた——そういう側面は間違いなくあります。

    スカイライン史の中での位置づけ

    https://kuruma-dna.com/r32-skyline

    C210型を語るとき、どうしても「GT-Rがなかった世代」という文脈がついて回ります。スカイライン愛好家の間でも、ハコスカやケンメリ、あるいはR32以降と比べると語られる機会が少ない。それは否定しようのない事実です。

    しかし、この世代が果たした役割は小さくありません。排ガス規制という逆風の中でスカイラインというブランドを存続させ、販売台数を維持し、ターボ技術の導入という次の時代への布石を打った。守りの世代だったからこそ、次の攻めが可能になったという見方は、決して後づけの美化ではないでしょう。

    もうひとつ見逃せないのは、C210型が「スカイラインは必ずしもGT-Rだけではない」という事実を証明した世代でもあるということです。GT-Rなしでも売れた。高級路線でも支持された。この実績があったからこそ、日産はスカイラインを単なるスポーツモデルではなく、幅広い層に訴求できるブランドとして維持し続けることができたのです。

    「ジャパン」が遺したもの

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    C210型スカイラインは、華々しいレース戦績も、伝説的なエンジンも持っていません。けれど、この世代がなければスカイラインという名前は1970年代で途絶えていたかもしれない。それは大げさな話ではなく、排ガス規制で多くのスポーツモデルが消えていった時代の現実です。

    「ジャパン」という愛称は、いまでもスカイラインファンの間で親しみを込めて使われます。GT-Rの栄光とは無縁の世代でありながら、それでも愛されている。それは、この車が時代の制約の中で精一杯の回答を出したモデルだったからではないでしょうか。

    スカイラインの系譜において、C210型は「繋いだ世代」です。

    派手さはなくとも、ブランドの命脈を保ち、次の飛躍のための技術と市場を準備した。

    その地味な功績は、もう少し正当に評価されてよいはずです。

  • スカイライン – RV37【ハンズオフが変えた、GTの定義】

    スカイライン – RV37【ハンズオフが変えた、GTの定義】

    スカイラインが「走り」ではなく「運転支援技術」で話題になった。それだけで、この世代が何を背負っていたかが伝わるはずです。

    2019年にマイナーチェンジという形で登場したRV37型スカイラインは、日産が世界に先駆けて実用化した「プロパイロット2.0」を搭載し、高速道路での同一車線内ハンズオフ走行を実現しました。

    スカイラインの歴史において、テクノロジーがここまで前面に出た世代は他にありません。

    V37からRV37へ──マイナーチェンジの皮をかぶった転換点

    https://kuruma-dna.com/v37-skyline

    まず整理しておきたいのは、RV37は完全な新型車ではないということです。ベースとなったのは2014年に登場したV37型スカイライン。これ自体がインフィニティQ50の国内版という、やや複雑な出自を持つモデルでした。

    V37型はデビュー時、フロントに日産エンブレムではなくインフィニティのバッジを付けて販売されました。これは当時の日産がグローバルブランド戦略の一環として進めたもので、国内のスカイラインファンからは少なからず反発を受けています。「スカイラインなのにスカイラインじゃない」──そんな空気が、このモデルにはずっとつきまとっていました。

    2019年のマイナーチェンジで、日産はフロントバッジをインフィニティから日産に戻しました。たかがエンブレムの話に聞こえるかもしれませんが、これは象徴的な判断です。スカイラインを「日産の車」として再び引き受ける、という意思表示だったからです。

    型式がV37からRV37に変わったこのタイミングで、クルマの中身も大きく変わっています。単なるフェイスリフトではなく、パワートレインの刷新と先進運転支援の搭載という、商品の骨格に関わる変更が入りました。

    プロパイロット2.0という賭け

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    RV37最大のトピックは、プロパイロット2.0の世界初搭載です。これは高速道路のナビ連動ルート走行と、同一車線内でのハンズオフ走行を組み合わせた運転支援システムで、ドライバーが前方を注視していることをカメラで確認しながら、ステアリングから手を離した状態での走行を可能にしました。

    「手を離せる」という表現だけを聞くと自動運転のように思えますが、実態はあくまでレベル2の運転支援です。つまり、最終的な責任はドライバーにある。それでも、量産車でハンズオフを実現したことのインパクトは大きかった。テスラのオートパイロットとは異なるアプローチで、日産は「目を離さなければ手は離せる」という落としどころを提示したわけです。

    注目すべきは、この技術をスカイラインに載せたという選択です。リーフやセレナではなく、スカイライン。日産にとってスカイラインは技術のショーケースであるという伝統が、ここにも効いています。かつてのGT-Rがそうだったように、最も先進的な技術はスカイラインで世に問う──その姿勢は、技術の中身が走行性能から運転支援に変わっても一貫していました。

    VR30DETTとスポーツセダンの矜持

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    プロパイロット2.0が注目を集める一方で、RV37にはもうひとつ重要な変更がありました。エンジンです。V37型の前期に搭載されていたダイムラー製の2.0リッター直4ターボに代わり、RV37では日産内製のVR30DETT──3.0リッターV6ツインターボが搭載されました。

    このエンジンは最高出力304ps(400Rでは405ps)を発生する、日産が本気で作ったユニットです。特に400Rグレードは、かつてのスカイラインGT系を思わせるような動力性能を持ち、0-100km/h加速は4秒台後半とされています。

    ダイムラー製エンジンからの切り替えには、ルノー・日産・三菱アライアンスの中での戦略変化が背景にあります。V37前期はダイムラーとの提携が色濃く反映されていましたが、その関係が薄れるにつれ、日産は自社技術への回帰を進めました。RV37のパワートレイン変更は、その流れの中で読むとよく理解できます。

    つまりRV37は、先進運転支援というフォワードルッキングな技術と、V6ツインターボというスポーツセダンとしての伝統を、1台の中に同居させたモデルでした。この二面性こそが、RV37の最も興味深いところです。

    「最後のスカイライン」という空気の中で

    https://kuruma-dna.com/r34-skyline

    RV37を語るうえで避けて通れないのは、「スカイラインはこれで終わるのではないか」という空気が常にあったことです。日産の経営状況、セダン市場の縮小、国内ラインナップの整理──どれをとっても、スカイラインの次世代を楽観できる材料はありませんでした。

    実際、販売台数は決して多くありません。月販数百台という水準は、かつてのスカイラインの存在感とは明らかに異なります。ただ、これはスカイラインだけの問題ではなく、国産スポーツセダン全体が直面している構造的な課題です。

    それでも日産がRV37でスカイラインに大きな投資をしたのは、このクルマがブランドのアイデンティティそのものだからでしょう。プロパイロット2.0を最初に載せる器として、400psのV6ターボを与える器として、スカイラインという名前には他の車種にない意味がありました。

    2024年末にはスカイラインの生産終了が報じられ、60年以上続いた系譜に一区切りがつくことになります。RV37は結果的に、内燃機関を搭載する最後のスカイラインとなる可能性が高い世代です。

    テクノロジーの器としてのスカイライン

    https://kuruma-dna.com/r33-skyline

    スカイラインの歴史を振り返ると、このクルマは常に「日産が今持っている最良のもの」を詰め込む器でした。S54型のスカイラインGTがレース技術の結晶だったように、R32がアテーサE-TSとRB26の実験場だったように、RV37はプロパイロット2.0とVR30DETTの実装の場でした。

    載せるものが変わっただけで、スカイラインの役割は変わっていません。ただ、その「載せるもの」がエンジンや足回りだけでなく、センサーとソフトウェアにまで広がったことが、時代の変化を如実に映しています。

    RV37は、走りの歓びと先進技術の両立を一台で試みた、野心的で少し不器用なスカイラインでした。プロパイロット2.0のハンズオフに感動する人と、400Rのエンジンフィールに惚れる人が、同じ車種の中にいる。

    その振れ幅の大きさこそが、最後の内燃機関スカイラインにふさわしい姿だったのかもしれません。

  • スカイライン – R33【不遇の烙印を押された技術の正常進化】

    スカイライン – R33【不遇の烙印を押された技術の正常進化】

    スカイラインの歴史のなかで、R33ほど損な役回りを引き受けた世代はないかもしれません。

    先代R32が築いた伝説があまりに鮮烈だったがゆえに、正常進化したはずのこの世代は「太った」「重くなった」「らしくない」と言われ続けました。でも、本当にそれだけの車だったのか。

    時代と技術の両面から見直してみると、R33の輪郭はだいぶ違って見えてきます。

    R32という「神話」の直後に生まれた宿命

    https://kuruma-dna.com/r32-skyline

    1989年に登場したR32スカイラインは、日本のスポーツカー史においてほぼ完璧なタイミングで現れた車でした。コンパクトなボディ、直列6気筒のRB型エンジン、そしてGT-Rの復活。バブル経済の熱気と重なって、R32は「スカイライン=走りの車」というイメージを決定的にしました。

    問題は、その次に何を出すかです。R32があまりに鮮烈だったせいで、次期型には「R32を超える」ことが暗黙の条件になっていました。しかも1993年という登場時期は、バブル崩壊後の市場縮小がじわじわと効き始めていた頃です。開発はバブル末期にスタートしていたものの、世に出た瞬間にはもう時代の空気が変わっていた。R33は、そういう意味でも不運な世代です。

    大型化は「怠慢」ではなく「設計判断」だった

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    R33を語るとき、必ず出てくるのが「デブ33」という蔑称です。実際、ホイールベースはR32比で105mm延長され、車両重量もGT-Rで約60kg増えました。数字だけ見れば、確かに大きく重くなっています。

    ただ、この大型化には明確な理由がありました。R32のシャシーは、とくにリアの安定性に課題を抱えていたのです。高速域でのリアの落ち着きのなさは、当時のレースシーンでも指摘されていた点でした。ホイールベースの延長は、この弱点を根本的に潰すための設計判断です。

    結果として、R33のシャシーは高速域での直進安定性が大幅に向上しています。ニュルブルクリンク北コースでのタイムアタックでR32のタイムを約20秒短縮したというエピソードは有名ですが、これは単にパワーが上がったからではありません。シャシーの素性そのものが良くなったことの証拠です。

    つまり、R33の大型化は「太った」のではなく、「骨格を作り直した」というのが正確な表現でしょう。見た目のボリューム感が増したことで損をしましたが、エンジニアリングとしては正しい方向に進んでいました。

    RB26DETTの熟成とアテーサE-TSの進化

    https://kuruma-dna.com/r31-skyline

    R33型GT-Rに搭載されたRB26DETTは、型式こそR32と同じです。しかし中身はかなり手が入っています。ツインターボのレスポンス改善、吸排気系の見直し、ECUの制御精度向上。カタログスペック上の最高出力は280馬力で据え置きですが、これは当時の自主規制枠の話であって、実質的なパフォーマンスはR32世代より明確に上がっていました。

    とくに大きかったのは、アテーサE-TS(電子制御トルクスプリット4WD)の進化です。R32ではリアルタイムのトルク配分がやや大味だった部分が、R33では制御ロジックが洗練されました。アクティブLSD(R33後期にはさらに改良型が投入)との組み合わせで、4輪の駆動力配分がより緻密になっています。

    この進化は、ドライバーの操作に対する車の応答が自然になったことを意味します。R32が「暴力的だけど速い」だとすれば、R33は「速いけど扱いやすい」。この差は、公道で日常的に乗る場面では非常に大きいのですが、当時のスポーツカーファンはむしろ「暴力的」なほうを好んでいました。

    GT-Rだけではないセダンとしての進化

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    R33を語るとき、どうしてもGT-Rに話題が集中しがちです。でも、スカイラインというシリーズ全体で見ると、この世代はセダンとしての質感を明確に引き上げようとした世代でもありました。

    インテリアの質感向上、静粛性の改善、乗り心地の洗練。R32がやや「走り一辺倒」に振れていたのに対し、R33は日産のアッパーミドルセダンとしてのバランスを取り戻そうとしています。GTS25tのようなターボセダンは、日常の快適性とスポーツ性能を両立させた、実はかなりまとまりの良い車でした。

    ただ、この「バランスの良さ」がR33の不幸でもありました。スカイラインに求められていたのは、バランスではなく「とんがり」だったからです。ローレルとの差別化がぼやけた、という批判は当時からありましたし、それは的外れとも言い切れません。

    市場が求めたものとのズレ

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    R33の販売成績は、R32と比べて明確に落ちています。これは車の出来が悪かったからではなく、複数の要因が重なった結果です。

    まず、バブル崩壊後の景気後退。スポーツカー市場そのものが縮小し始めていました。さらに、RVブームやミニバンの台頭といった市場構造の変化も大きかった。スカイラインのようなスポーツセダンを積極的に選ぶ層が、物理的に減っていたのです。

    加えて、R33のデザインが持つ「おとなしさ」も影響しました。R32の端正でタイトなプロポーションに比べ、R33はホイールベース延長の影響でサイドビューがやや間延びして見えます。実車のまとまりは悪くないのですが、写真映えやカタログ上の第一印象で損をしていたのは否めません。

    要するに、R33は「車としては進化していたのに、時代と市場が求めるものとズレてしまった」世代です。技術者の仕事は正しかったけれど、商品企画としてはうまくいかなかった。こういう車は、自動車史のなかで意外と多く存在します。

    R34への橋渡しとして残したもの

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    R33が技術的に積み上げたものは、次世代のR34にしっかり受け継がれています。シャシー剛性の考え方、4WD制御の進化、RB26の熟成。R34が「GT-Rの完成形」と呼ばれるのは、R33世代での試行錯誤があったからこそです。

    とくにアテーサE-TSの制御ロジックは、R33での改良がなければR34の仕上がりには到達できなかったでしょう。R34で実現された精緻な4輪制御は、R33で蓄積されたデータと知見の上に成り立っています。

    また、R33のニュルブルクリンクでのタイムアタックは、日産がGT-Rの開発指標としてニュルを使う文化の起点になりました。R35 GT-Rがニュルのタイムを前面に打ち出すマーケティングを行ったのは有名ですが、その原型はR33の時代にすでに始まっていたわけです。

    R33スカイラインは、不遇の世代と呼ばれ続けてきました。

    しかし、その実態は「先代の弱点を潰し、次世代の基盤を築いた」という、系譜のなかで極めて重要な役割を担った世代です。華やかな評価を得ることはなかったかもしれません。でも、R32の神話とR34の完成形のあいだを繋いだのは、間違いなくこの車でした。

    派手さはなくとも、技術の地層を一段積み上げた。R33の本当の価値は、そこにあります。

  • スカイライン – C110【華やかに売れた、最も切ないスカイライン】

    スカイライン – C110【華やかに売れた、最も切ないスカイライン】

    スカイラインの歴史の中で、最も売れたモデルはどれか。

    多くの人がR32やR34を思い浮かべるかもしれませんが、答えはC110型、通称「ケンメリ」です。累計販売台数は約67万台。歴代スカイラインの中でも圧倒的な数字です。ところがこの世代のGT-Rは、たった197台しか生産されていません。

    華やかさと喪失が同居する、なんとも切ないモデルなのです。

    「ケンとメリーのスカイライン」という発明

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    C110型スカイラインが登場したのは1972年9月。

    先代のC10型、いわゆる「ハコスカ」がレースでの武勲によってスポーツイメージを確立した直後のことです。普通に考えれば、後継モデルもその路線を継承するのが自然でしょう。しかし日産が選んだのは、まったく違うアプローチでした。

    テレビCMに登場したのは、若い男女が北海道の大地をスカイラインで駆け抜けるという映像。「ケンとメリーのスカイライン」というキャッチコピーは、レースの匂いを意図的に薄め、ライフスタイルとしてのクルマを前面に押し出しました。北海道美瑛町に立つポプラの木が「ケンメリの木」として観光名所になるほど、この広告戦略は社会現象化しています。

    つまりC110は、ハコスカが築いた「走りのスカイライン」というブランドを、より広い層に届けるためのモデルだったわけです。スポーツカー好きだけに売るのではなく、若者のデートカーとして、家族のセダンとして、間口を大きく広げにいった。そしてその戦略は、販売台数という結果で見れば大成功でした。

    デザインと設計の狙い

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    C110のスタイリングは、ハコスカの直線的で武骨な印象から一転して、流麗なラインを持っています。特にリアまわりの処理が特徴的で、丸型4灯テールランプはこの世代で初めて採用されました。以降のスカイラインにとって「丸テール」はアイデンティティのひとつになっていくわけですから、デザイン史的にもC110の貢献は大きいのです。

    ボディバリエーションは4ドアセダン、2ドアハードトップ、ワゴン(バン含む)と幅広く用意されました。中でも2ドアハードトップの人気は高く、ケンメリといえばこのシルエットを思い浮かべる人が多いでしょう。Bピラーを持たないハードトップの開放感は、当時のデートカー需要にぴったりはまっていました。

    プラットフォームはハコスカから発展したもので、フロントにストラット、リアにセミトレーリングアームという足回り構成を踏襲しています。エンジンは直列4気筒のG型と直列6気筒のL型を搭載。主力はL20型の2.0リッター直6で、スカイラインらしい6気筒のスムーズさは健在でした。

    GT-R、わずか197台の意味

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    C110型にもGT-Rは設定されました。型式はKPGC110。ハコスカGT-R(KPGC10)と同じくS20型の2.0リッター直列6気筒DOHCエンジンを搭載し、2ドアハードトップのボディに収められています。スペック上は最高出力160馬力。ハコスカGT-Rの正統な後継として、1973年1月に発売されました。

    しかし、このGT-Rはレースに一度も出走していません。ハコスカGT-Rが49連勝という伝説を築いたのとは対照的に、ケンメリGT-Rはサーキットでの戦績がゼロなのです。理由は明確で、1973年に始まった排出ガス規制への対応が急務となり、レース活動どころではなくなったからです。

    生産台数はわずか197台。昭和48年排ガス規制に適合できなかったS20型エンジンは継続生産が不可能となり、GT-Rはあっという間にカタログから消えました。ここからGT-Rの名前が復活するのは、1989年のR32型まで実に16年を要しています。

    197台という数字は、希少性という点では神話的な価値を持ちます。現存するKPGC110は極めて少なく、オークション市場では億単位の価格がつくこともあります。ただ、この希少性は「作りたくても作れなかった」という事情の裏返しでもあります。華やかに売れたケンメリの中で、GT-Rだけが時代に殺された。そのコントラストが、このモデルの物語を際立たせています。

    排ガス規制という壁

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    1970年代前半の日本の自動車産業は、排出ガス規制との戦いの真っ只中にありました。1970年に米国で成立したマスキー法の影響を受け、日本でも段階的に規制が強化されていきます。昭和48年規制、昭和50年規制、昭和51年規制と立て続けに基準が厳しくなり、メーカー各社は対応に追われました。

    C110型スカイラインも例外ではありません。L20型エンジンは排ガス対策のために出力が抑えられ、後期モデルでは触媒装置の追加やEGR(排気再循環)の導入が行われています。結果として、初期型と後期型ではエンジンのフィーリングがかなり異なるという声もあります。

    まあ、これはケンメリだけの問題ではなく、同時代のスポーティカーすべてが直面した課題でした。フェアレディZもセリカもサバンナも、等しく牙を抜かれていった時代です。ただ、「GT-R」という看板を背負っていたぶん、スカイラインにとってのダメージは象徴的でした。速さこそがアイデンティティだったはずの車種が、速さを封じられたのですから。

    売れたことの意味、失ったことの意味

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    C110型スカイラインの生産期間は1972年から1977年。この間に約67万台が販売されています。ハコスカの約31万台と比べれば倍以上です。日産にとってケンメリは、スカイラインを「知る人ぞ知るスポーツセダン」から「国民的な人気車種」へと押し上げた功労者でした。

    ただし、その代償として失われたものもあります。GT-Rの中断はもちろん、レースとの結びつきが薄れたことで、スカイラインの「走り」のイメージは一時的に後退しました。後継のC210型(通称ジャパン)も同様の路線を歩み、スカイラインが再びスポーツ性を前面に打ち出すのはR30型のターボ搭載以降のことです。

    しかし見方を変えれば、ケンメリが広げた裾野があったからこそ、スカイラインというブランドは生き残れたとも言えます。レース直系のイメージだけでは、排ガス規制の嵐を乗り越えられなかったかもしれない。幅広い層に支持される大衆的な人気を獲得したことが、ブランドの体力を維持し、のちのGT-R復活への道をつないだ。そう考えると、ケンメリの67万台は単なる販売記録ではなく、スカイラインの生存戦略そのものだったのです。

    華やかさの奥にある過渡期の痛み

    https://kuruma-dna.com/r33-skyline

    ケンメリスカイラインを語るとき、多くの人はあの有名なCMのイメージか、197台しか存在しないGT-Rの希少性のどちらかに目が行きます。でも、このクルマの本質はその両方の間にあると思います。

    大量に売れた。でもGT-Rは途絶えた。若者に愛された。でもスポーツカーとしては不遇だった。時代が変わる瞬間に立っていたクルマというのは、どうしてもこういう矛盾を抱えることになります。

    C110型は、スカイラインの系譜において最も華やかで、最も切ない世代です。速さの時代と環境の時代の境目に咲いた、一瞬の花のようなモデル。

    その67万台の販売実績と197台のGT-Rという数字の落差に、1970年代の日本の自動車産業が経験した地殻変動のすべてが凝縮されています。

  • スカイライン – V35【GT-Rを失い、世界基準を得た転換点】

    スカイライン – V35【GT-Rを失い、世界基準を得た転換点】

    スカイラインの歴史の中で、もっとも激しく賛否が割れた世代はどれか。

    その問いに対して、多くのファンがまず思い浮かべるのがV35型ではないでしょうか。

    2001年に登場したこの11代目は、直列6気筒を捨て、GT-Rの設定をなくし、丸型テールランプすら廃止しました。それまでのスカイライン像を知る人にとっては、ほとんど別の車に見えたはずです。

    ただ、この車の背景を丁寧に追っていくと、単なる「裏切り」では片付けられない、日産というメーカーの生存戦略が見えてきます。

    日産が瀕死だった時代のスカイライン

    https://kuruma-dna.com/r34-skyline

    V35型を語るには、まず当時の日産の状況を知っておく必要があります。

    1999年、日産はルノーとの資本提携を結び、カルロス・ゴーンがCOOとして着任しました。いわゆる「日産リバイバルプラン」の真っ只中です。2兆円を超える有利子負債を抱え、国内工場の閉鎖やプラットフォームの大幅削減が進められていた時期でした。

    つまりV35型は、日産が自力では立ち行かなくなった直後に世に出た車です。開発自体はゴーン着任前から進んでいましたが、商品としての最終判断はリバイバルプランの影響を色濃く受けています。「聖域なき改革」の空気の中で、スカイラインもまた、従来の延長線上に留まることを許されなかったわけです。

    インフィニティG35という出自

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    V35型を理解するうえで最も重要なのは、この車が最初からインフィニティG35として企画されたという事実です。日産の北米向け高級ブランド「インフィニティ」のミドルセダンとして開発され、日本ではスカイラインの名を冠して販売される──という順番でした。従来のスカイラインが日本市場を起点に設計されていたのとは、根本的に出発点が違います。

    この構造転換には明確な理由があります。日産にとって北米市場は最大の収益源であり、インフィニティブランドの立て直しは経営再建の柱のひとつでした。BMW 3シリーズやメルセデスCクラスと正面から戦える後輪駆動セダンが必要だった。その要求に応えるために生まれたのがFMプラットフォーム(フロントミッドシップ)であり、V35型スカイラインの骨格です。

    要するに、V35型は「日本のスカイラインを世界に出した」のではなく、「世界向けの車にスカイラインの名前を載せた」のです。この順番の違いが、ファンの間に深い溝を生みました。

    直6を捨て、VQを載せた理由

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    V35型で最も象徴的な変化は、スカイライン伝統の直列6気筒エンジンが消えたことです。代わりに搭載されたのは、VQ35DE型3.5リッターV型6気筒。排気量は先代R34型の2.5リッター直6から大幅に拡大され、最高出力は260馬力を発生しました。

    なぜ直6を捨てたのか。理由はいくつかありますが、最大のポイントはパッケージングです。FMプラットフォームはエンジンをフロントアクスルの後方に搭載する設計で、前後重量配分の最適化を狙っていました。直列6気筒は全長が長く、このレイアウトとの相性が悪い。V6であればエンジンを短くコンパクトに収められ、重心位置も有利になります。

    加えて、VQ型エンジンは当時すでに北米市場で高い評価を得ていました。Ward’s誌の「10ベストエンジン」に何度も選出されており、インフィニティの看板として申し分ない実績があった。日産としては、グローバルで通用するパワートレインを優先した形です。

    ただ、スカイラインにとって直列6気筒は単なるエンジン形式ではありませんでした。初代S50型のG7エンジンに始まり、L型、RB型と受け継がれてきた直6は、スカイラインのアイデンティティそのものだった。それを合理性の名のもとに切り替えたことが、多くのファンにとって受け入れがたかったのは当然のことです。

    GT-Rなきスカイラインの意味

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    もうひとつ、V35型で大きな議論を呼んだのがGT-Rの設定がなかったことです。R32以降、スカイラインGT-Rは日産のスポーツイメージを牽引する存在でした。そのGT-Rが、V35型では設定されなかった。

    これは後にGT-Rがスカイラインから独立し、R35型として単独車種になる布石でもありました。日産社内では、GT-Rをスカイラインの一グレードに留めておくべきか、独立したスーパースポーツとして展開すべきかという議論がR34の時代から続いていたとされています。V35型でGT-Rが設定されなかったのは、その結論が出る前の「空白期」だったとも言えます。

    ただ、当時のユーザーからすれば、GT-Rのないスカイラインは「抜け殻」に見えた。スカイラインという名前が持つスポーツ性の象徴がごっそり抜け落ちたわけですから、その喪失感は相当なものだったでしょう。

    走りの実力は本物だった

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    賛否が渦巻く中で、V35型の走行性能そのものは高く評価されていました。FMプラットフォームによる前後重量配分はほぼ52:48。フロントミッドシップの恩恵で、ノーズの入りが自然で、FR車としての素性は先代R34型と比べても明確に進化していました。

    VQ35DEの3.5リッターは、低回転からトルクが豊かで、高回転まで気持ちよく回るエンジンでした。先代の直6RB25DETがターボの過給特性に頼る部分があったのに対し、V35型は自然吸気の大排気量で余裕のある走りを提供しています。北米市場が求める「速くて快適」という要件に対しては、非常に高い完成度だったと言えます。

    実際、インフィニティG35として北米に投入された際の評価は上々でした。Motor Trend誌の2003年カー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、BMW 3シリーズの対抗馬として初めて本気で語られるようになった。日産が狙った「世界基準のFRスポーツセダン」という目標は、少なくとも北米市場では達成されていたのです。

    デザインという断絶

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    V35型の外観デザインも、議論の的になりました。先代R34型までの直線基調から一転し、V35型は曲面を多用した流麗なフォルムを採用しています。丸型4灯テールランプも廃止され、見た目の連続性はほぼ断たれました。

    これもインフィニティとしてのブランド戦略が背景にあります。北米の高級車市場で戦うには、日本のスポーツセダンの文法ではなく、欧州プレミアムセダンに通じるエレガンスが求められた。デザインディレクターの中村史郎氏が推進した新しいデザイン言語は、日産全体のブランド刷新の一環でもありました。

    冷静に見れば、V35型のプロポーションはFRセダンとして美しい。ロングノーズ・ショートデッキの古典的なFRシルエットを現代的に仕上げており、デザイン単体の完成度は高いものでした。ただ、それが「スカイラインに見えるかどうか」は、まったく別の問題です。

    断絶か、再定義か

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    V35型スカイラインは、日産の経営危機という外圧と、グローバル市場への本格参入という戦略転換が重なった時代の産物です。直6を捨て、GT-Rを切り離し、デザインの連続性を断った。スカイラインの歴史において、これほど大きな断絶はありません。

    しかし同時に、V35型はスカイラインにFRスポーツセダンとしての新しい骨格を与えた世代でもあります。FMプラットフォームはその後V36型、V37型へと受け継がれ、スカイラインの基本構造として定着しました。VQ型エンジンもV36型でVQ37VHRへと進化し、スカイラインの心臓として長く使われることになります。

    つまりV35型は、「スカイラインとは何か」を問い直すことで、結果的にスカイラインの次の20年を規定した車です。ファンが求めた「あのスカイライン」ではなかったかもしれない。でも、日産が生き残るために必要だった車であり、スカイラインが世界と戦うための土台を作った車でもあった。

    愛されたかと問われれば、複雑な答えになるでしょう。ただ、必要だったかと問われれば、答えは明確にイエスです。

    V35型は、スカイラインが「日本の名車」から「グローバルなスポーツセダン」へと変わるために通らなければならなかった、痛みを伴う転換点だったのです。