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  • ブルーバード – P310【「名前」が生まれた瞬間のクルマ】

    ブルーバード – P310【「名前」が生まれた瞬間のクルマ】

    「ブルーバード」という名前を聞いて、どの世代を思い浮かべるかは人によってまったく違います。510を挙げる人もいれば、910やU12を語る人もいる。けれど、そもそもこの名前が最初に冠されたクルマがどんな存在だったのか、ちゃんと語られることは意外と少ない。1959年に登場したP310型。これが「ブルーバード」の出発点です。

    ダットサン1000の次に来たもの

    https://kuruma-dna.com/p410

    P310型を語るには、まずその前身であるダットサン1000(210型)の存在を押さえておく必要があります。210型は1957年に登場し、翌年にはオーストラリアのモービルガス・トライアルでクラス優勝を果たすなど、日産の小型乗用車として国際的な実績を積み始めていました。

    ただ、210型はあくまで「ダットサン1000」という排気量ベースの呼称で販売されていました。型式で呼び、排気量で区別する。当時の日本車はだいたいそんな感じです。クルマに「固有の名前」を与えて、ブランドとして育てるという発想は、まだ一般的ではありませんでした。

    そこに登場したのがP310型です。日産はこのモデルから「ブルーバード」というペットネームを正式に採用しました。メーテルリンクの童話『青い鳥』に由来するこの名前は、当時の日産社内公募で選ばれたとされています。つまりこのクルマは、日産が「型式番号ではなく名前で覚えてもらう」という戦略に舵を切った最初の一台だったわけです。

    ピニンファリーナの影

    https://kuruma-dna.com/p510

    P310型のデザインを語るうえで避けて通れないのが、イタリアのカロッツェリア・ピニンファリーナとの関係です。当時の日産は、乗用車デザインの近代化を急いでいました。210型まではどこか武骨で実用本位のスタイリングでしたが、P310型ではイタリアンデザインの手法を取り入れることで、一気にモダンな印象へ転換しています。

    具体的には、ピニンファリーナがデザインの方向性に関与したとされており、丸みを帯びたボディライン、前後に流れるようなフェンダーの処理など、当時の欧州車に通じるプロポーションが与えられました。ただし、最終的なデザインの仕上げは日産社内で行われており、「ピニンファリーナ・デザイン」と言い切れるかどうかは、資料によって見解が分かれます。

    要するに、丸ごとイタリアに外注したわけではなく、「欧州の感覚を自社に取り込む」というプロセスの産物だったと見るのが妥当でしょう。この手法は、当時のトヨタがクラウンで目指した方向性とも重なります。日本の自動車メーカーが「見た目の質」を本気で意識し始めた時代の空気が、P310型には色濃く反映されています。

    1000ccという現実的な選択

    https://kuruma-dna.com/p610

    P310型に搭載されたエンジンは、直列4気筒OHVの988cc・C型エンジン。最高出力は34馬力です。現代の感覚で見れば驚くほど非力ですが、当時の日本の道路事情と税制を考えれば、これは極めて合理的な選択でした。

    1950年代後半の日本では、小型自動車の排気量枠が税制上の大きな区切りになっていました。1000cc以下に収めることで、ユーザーの維持コストを抑える。マイカー時代の入り口に立っていた日本市場において、これは「走りの性能」よりもはるかに重要な商品企画上の判断です。

    のちにP312型として1200ccエンジン(E型)を搭載したモデルも追加されますが、最初に1000ccで出したこと自体が、日産のマーケティング的な計算を物語っています。まず広い層に届けて、そのあとで上を伸ばす。この段階的な展開は、後のブルーバードシリーズでも繰り返される基本戦略になりました。

    モータースポーツへの布石

    https://kuruma-dna.com/p810

    P310型は、モータースポーツの世界でも存在感を示しています。とりわけ注目すべきは、先代210型から続くラリーへの積極参戦です。日産はP310型でも国内外のラリーイベントに挑み、小型車としての耐久性と信頼性をアピールしました。

    この時代のモータースポーツ参戦は、純粋な速さの追求というよりも、「壊れない」「ちゃんと走り切る」ことの証明でした。まだ日本車の品質に対する国際的な信頼が確立されていない時代です。完走すること自体がブランドの説得力になる。P310型はそうした文脈のなかで、日産の「走って証明する」姿勢を引き継いだモデルでした。

    この姿勢はやがて、次世代の410型、そして名車510型へと受け継がれていきます。510型がサファリラリーで総合優勝を果たすのは1970年のこと。その系譜の最初の一歩が、P310型の時代にすでに踏み出されていたわけです。

    BC戦争の始まり

    https://kuruma-dna.com/p910

    P310型の登場は、日本の自動車史におけるもうひとつの大きな文脈とも接続しています。それが、いわゆる「BC戦争」です。Bはブルーバード、Cはトヨタのコロナ。この二台が1960年代を通じて繰り広げた販売競争は、日本のモータリゼーションの象徴的なエピソードとして語り継がれています。

    P310型が登場した1959年は、初代コロナ(ST10型)がまだ市場で苦戦していた時期にあたります。つまり、この時点ではブルーバードが明確に優位に立っていました。日産の販売網の強さ、210型で築いた実績、そしてモダンなデザイン。P310型は、BC戦争の「先手」を打ったクルマだったと言えます。

    もちろん、トヨタはその後コロナを急速に進化させ、1960年代半ばには形勢を逆転します。しかし、そもそもこの競争構造を成立させたのは、P310型が「名前を持った大衆車」として市場に定着したからです。名前のないクルマ同士では、こうしたライバル関係は成り立ちません。

    名前が系譜を作った

    https://kuruma-dna.com/u11

    P310型の最大の功績は、スペックでも販売台数でもなく、「ブルーバード」という名前を日本のクルマ文化に刻んだことです。この名前があったからこそ、410、510、610……と続く系譜が「ひとつの物語」として認識されるようになりました。

    型式番号だけで呼ばれていたら、それぞれのモデルは単なる後継機種にすぎません。しかし「ブルーバード」という固有名が通底することで、世代を超えた比較や愛着が生まれる。510が名車として語り継がれるのも、910がヒット作として記憶されるのも、すべてはP310型が「名前」を持って生まれたことに端を発しています。

    1959年という、日本がまさにモータリゼーションの入り口に立っていた年。そこに「青い鳥」と名付けられた小さな1000ccセダンが現れた。技術的に革新的だったわけではありません。圧倒的に速かったわけでもない。けれどこのクルマは、日産に「名前で勝負する」という文化を植え付けた。それは、スペックシートには載らない、しかし決定的に重要な遺産です。

  • セドリック – 330型【排出ガス規制の時代を走った4代目】

    セドリック – 330型【排出ガス規制の時代を走った4代目】

    1975年6月、セドリックは4代目の330型になります。先代230型からの曲面を残しながら、顔つきはより力強いものになりました。

    この4年間を追うなら、外観だけでなく数字にも目を向けたい。330、331、332。型式が変わるたびに、排出ガス規制への対応が刻まれています。

    曲面をまとった、4代目のセドリック

    先代の230型は、グロリアと基本構造を共有した最初のセドリックでした。330型でも、セドリックとグロリアは並んで続きます。

    日産は330型の外観を、アメリカ車風の抑揚が強いスタイリングと紹介しています。ボンネットも側面も平板にせず、前後に厚みを持たせた姿です。230型のコークボトルラインを思い出すところはあっても、グリルや灯火、装飾は330型の顔になりました。

    車体はセダン、2ドアハードトップ、4ドアハードトップ、バン。エンジンも2Lと2.8Lの系統を用意します。ひとつの形だけでこの世代を代表させるには、最初から選択肢が多い車でした。

    330系セドリック2000 SGL-E Extraの4ドアハードトップを斜め前から見た写真。角形のヘッドライトが見える
    330系セドリック2000 SGL-E Extra。Ypy31、CC0 1.0。画像加工なし

    330から331、332へ

    330型の登場時、日産はNAPSと呼ぶ排出ガス対策技術を採用し、昭和50年排出ガス規制に適合しました。NAPSは「NISSAN ANTI POLLUTION SYSTEM」の略です。

    昭和51年規制への対応で331型へ、さらに昭和53年規制への対応で332型へ。どれも4代目セドリックの330系です。時代ごとの排出ガス対策が、型式の末尾に刻まれました。

    同じ車名で新しい規制を一つずつ越え、セダンやハードトップの展開も続ける。330から332までの数字は、1970年代後半の自動車づくりが動いていたことをそのまま示しています。

    角形ライトを持つ4ドアハードトップ

    1976年6月に追加された4ドアハードトップのFタイプは、2ドアハードトップと同じ角形ライトを採用しました。丸い四灯のセダンと、角形の灯火を持つFタイプ。同じ330系でも、写真で見分ける手がかりになります。

    先ほどの写真に写る2000 SGL-E Extraを見ると、角形ライトがグリルとひと続きになり、セダンとは違う顔をつくっています。1975年の登場時から続く曲面の車体に、四角い前まわりが組み合わさる。上級車としての華やかさと、規制に合わせた中身の改良が同じ時期に進んでいました。

    2.2Lディーゼルのセダンも加わった

    1977年には、2.2Lのディーゼルエンジンを積む乗用セダンが追加されます。ガソリンの2L・2.8Lだけを並べていたところへ、燃料も性格も異なる選択肢が入ったのです。

    1977~1979年型セドリック330系セダン220Dデラックスを斜め前から見た写真
    330系のセダン220Dデラックス。TTTNIS、CC0 1.0。画像加工なし

    写真の220Dデラックスはセダンです。先ほどの角形ライトを持つ4ドアハードトップと見比べると、同じ時期のセドリックに別々の顔があったことがわかります。四灯の並びも、屋根からトランクへ落ちる線も異なる。エンジンだけでなく、車体の形も選べたのです。

    アジアハイウェーを走った2800SGL

    330型には、日産が今も保存する少し変わった一台があります。1977年式P331型の2800SGL。L28型2,753ccの直列6気筒で140PSを発生するガソリン車です。

    この車は朝日新聞社の取材車として、アジアハイウェー1号線の旅に使われました。トルコのイスタンブールからベトナムのサイゴンまで、取材を重ねながら約2万3,000kmを85日間で走破。日産のヘリテージコレクションに残るのは、その取材に使われた実車です。

    保存車の全長は4,785mm、全幅は1,705mm。後で紹介する1978年式2Lデラックスの全長4,690mm、全幅1,690mmより、それぞれ95mm、15mm大きい車体です。2800SGLの大きさを数字で見てから旅の距離を読むと、同じ330系の中でもこの一台の姿がはっきりします。

    この車は長旅に向けて、日産の追浜にある特殊車両実験課で手が加えられました。現存車が普通の2800SGLと少し違って見えるのは、そのためです。取材のために実際に使われた一台とわかると、保存車の見え方も変わります。

    「特捜最前線」「大都会」「西部警察」などの刑事ドラマにも登場した330型ですが、この2800SGLは画面の外で、長い旅の足になっていました。330型の用途の広さを、言葉より具体的に伝える記録です。

    332型を経て、直線的な430型へ

    1978年の332型では、上級グレードにラジアルタイヤが標準装備されました。日産が保存する1978年式332型2000デラックスは、L20型1,998ccで115PS、全長4,690mm、全幅1,690mm、ホイールベース2,690mm。前輪ディスク・後輪ドラムのブレーキを持つ、昭和53年規制を越えた時代の2Lセダンです。

    隣に2.8Lの2800SGLや2.2Lディーゼルを並べれば、エンジンも車体の性格も違います。331型の時期には角形ライトのFタイプが加わり、332型では上級車の装備が増える。330系は規制に応えながら、選べるセドリックの幅も保ちました。

    1979年6月、セドリックは5代目430型へ交代します。次の世代は、長い直線を使った外観に変わります。曲面の330系を見送ると、1970年代のセドリックが、顔つきと排出ガス対策の両方で何度も姿を変えたことが見えてきます。

  • セドリック – P31【高級車の形を決めた2代目の覚悟】

    セドリック – P31【高級車の形を決めた2代目の覚悟】

    「高級車」とは何か。1960年代初頭の日本で、その問いにまともに答えられたメーカーはほとんどありませんでした。

    トヨタにはクラウンがあり、日産にはセドリックがあった。

    ただ、どちらもまだ手探りの時代です。そんな中で登場した2代目セドリック・P31系は、日産が「うちの高級車はこれだ」と初めて胸を張れた一台だったと言えます。

    初代が残した宿題

    https://kuruma-dna.com/p30

    1960年に登場した初代セドリック(30系)は、日産にとって初の本格的な上級セダンでした。ただ、正直に言えば初代はまだ「高級車の練習」に近い存在です。エンジンは堅実だったものの、デザインや内装の質感でクラウンに対して明確な優位を示せたかというと、やや心もとない。

    当時の日本はモータリゼーションの入口で、乗用車そのものがまだ贅沢品でした。その中で「さらに上」を目指す高級セダンには、単に大きくて立派というだけでなく、見た瞬間に格の違いが伝わるデザインが求められていた。初代はその課題を残したまま、わずか2年でバトンを渡すことになります。

    ピニンファリーナの名がもたらしたもの

    https://kuruma-dna.com/p130

    P31系のデザインを語るとき、必ず出てくるのがイタリアのカロッツェリア、ピニンファリーナの名前です。正確には、ピニンファリーナが全面的にデザインしたというより、同社の監修・助言を受けながら日産社内でまとめ上げたとされています。ただ、その影響は明らかでした。

    直線を基調としつつも、フェンダーラインに柔らかな抑揚を持たせたボディは、初代のやや素朴な印象とは別物です。フロントグリルの造形やリアまわりの処理に、当時のイタリアンデザインの文法がはっきりと読み取れる。要するに、「国産車なのに、どこか欧州の匂いがする」という空気をまとっていたわけです。

    これは単なる見た目の話ではありません。1960年代前半、日本の消費者にとって「欧州的な洗練」は高級の代名詞でした。ピニンファリーナの関与は、デザインそのものの質を上げると同時に、「日産は本気で世界水準の高級車を作ろうとしている」というメッセージでもあったのです。

    G型エンジンという選択

    https://kuruma-dna.com/p230

    P31系で注目すべきもうひとつのポイントが、G型エンジンの搭載です。直列4気筒OHVのG型は、排気量1.9リッターで最高出力は約88馬力。数字だけ見れば地味に思えるかもしれませんが、当時の国産上級セダンとしてはまっとうなスペックでした。

    G型エンジンの美点は、スペック上の派手さよりも実用域での扱いやすさにあります。低中速トルクが厚く、街中でも高速道路でも不足を感じにくい。高級車のエンジンに求められるのは、レッドゾーンまで回したときの快感ではなく、どの回転域でも余裕を感じさせる静かな力強さです。G型はその要件をきちんと満たしていました。

    後に直列6気筒のH型エンジンを積んだ上位モデル(H30系)も追加されます。6気筒の滑らかさは4気筒では到達できない領域で、これによってセドリックは「4気筒で十分実用的、6気筒ならさらに上質」という幅のあるラインナップを手に入れました。この多層構造は、後の歴代セドリックにも受け継がれる考え方です。

    クラウンとの距離感

    https://kuruma-dna.com/230-cedric

    P31系を語るうえで、トヨタ・クラウンとの関係は避けて通れません。1962年当時、クラウンは2代目(S40系)の時代。こちらもデザインを大幅に刷新し、国産高級車の座を固めようとしていました。

    クラウンが「保守的な安心感」を武器にしていたのに対し、P31系セドリックは「モダンな洗練」で勝負しようとしていた。ピニンファリーナの血が入ったスタイリングは、クラウンとは明らかに違う方向性を示しています。つまり日産は、クラウンの真似をして追いかけるのではなく、高級車の定義そのものを変えようとしたわけです。

    ただ、販売台数という現実で見れば、クラウンの牙城を崩すまでには至りませんでした。法人需要やタクシー市場ではセドリックも健闘しましたが、個人ユーザーの「高級車といえばクラウン」というイメージは根強かった。この構図は、その後何十年にもわたって続くことになります。

    高級車としての足場を固めた世代

    https://kuruma-dna.com/p430

    P31系の功績は、単にデザインが良くなった、エンジンが変わったという個別の進化にとどまりません。この世代で日産は、セドリックというブランドの骨格を作り上げました。

    欧州的な美意識をデザインに取り入れること。エンジンのラインナップで幅を持たせること。法人にも個人にも訴求できる上質さを目指すこと。これらの方針は、後の130系、230系、そして330系へと続くセドリックの系譜を貫く基本思想になっていきます。

    特に、130系以降でセドリックが本格的に直列6気筒中心のラインナップへ移行していく流れは、P31世代でH型6気筒を追加した経験がなければ生まれなかったはずです。高級車には6気筒、という常識を日産の中に根づかせたのは、まさにこの世代でした。

    「まだ発展途上」だったからこそ面白い

    https://kuruma-dna.com/p430-mc

    P31系セドリックは、完成された名車かと問われれば、正直そこまでの評価は難しいかもしれません。後の世代と比べれば装備も簡素だし、エンジンの洗練度にも限界がある。クラウンに勝てたかと言えば、勝ちきれなかった。

    でも、だからこそ面白い。この世代には、日産が「高級車とは何か」を本気で考え始めた痕跡がはっきりと残っています。ピニンファリーナに学び、エンジンの選択肢を広げ、クラウンとは違う価値を提示しようとした。その試行錯誤の密度が、P31系をただの旧車ではなく、セドリックという系譜の出発点にしているのです。

    完成された車より、何かを掴もうとしている車のほうが、振り返ったときに語れることが多い。P31系は、まさにそういう一台です。

  • セドリック – 230型【グロリアと手を組んだ、統合の起点】

    セドリック – 230型【グロリアと手を組んだ、統合の起点】

    日産とプリンスの合併は1966年。

    ですが、両社の看板車種であるセドリックとグロリアが本当の意味で「ひとつの屋根の下」に入ったのは、もう少し先の話です。

    1971年に登場した230型セドリックこそが、その統合の実質的な起点でした。

    合併から5年、ようやく踏み出した一歩

    日産セドリック 230
    画像:TTTNIS/CC0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/p230

    日産とプリンスが合併した直後、両ブランドの上級セダンはまだ別々の設計で走っていました。先代の130型セドリックとA30型グロリアは、車台もエンジンも異なる完全な別物です。合併したとはいえ、開発ラインや生産設備をすぐに統合するのは現実的に無理だった、というのが実情でしょう。

    しかし、いつまでも同じクラスに別設計の2車種を並べておくわけにはいきません。開発コスト、部品管理、販売チャネルの整理。経営的に見れば、統合しない理由のほうが少なかった。230型は、そうした合併後の宿題にようやく手をつけた世代です。

    プラットフォーム共有という現実解

    https://kuruma-dna.com/p430

    230型セドリックと同時期に登場した230型グロリアは、基本プラットフォームを共有しています。ボディの骨格、サスペンション構成、エンジンラインナップといった車の根幹部分を共通化し、外装デザインや内装の味付けで差別化する。今でこそ当たり前の手法ですが、当時の日産にとっては大きな決断だったはずです。

    なぜなら、セドリックは日産系ディーラー、グロリアは旧プリンス系ディーラーで売られていたからです。販売店にとって「中身が同じ車を看板を変えて売る」というのは、かなりデリケートな話でした。それでも共有化に踏み切ったのは、2車種を完全別設計で維持し続けるコストがもう限界だったということでしょう。

    つまり230型は、「統合しなければならない」という経営の論理と、「違いを見せなければならない」という販売の論理の、ちょうど折衷点に立っていた車です。

    L型エンジンと、時代が求めた直6

    https://kuruma-dna.com/p130

    230型の心臓部として主力を担ったのが、日産の名機L型直列6気筒エンジンです。L20型(2.0L)を中心に、L24型やL26型といった排気量バリエーションが用意されました。直列6気筒のスムーズな回転フィールは上級セダンとの相性が良く、セドリック/グロリアの性格を支える重要な柱でした。

    ただし、この時代はちょうど排ガス規制が厳しくなり始めた時期でもあります。1970年のマスキー法(米国)を受けて日本でも規制強化の流れが加速しており、230型のモデルライフ中にも対応が求められました。パワーよりもクリーン化。華やかなスペック競争から、地味だが避けられない環境対応へ。230型はそうした転換期のまっただ中にいた世代でもあります。

    デザインに宿った「高級」の再定義

    https://kuruma-dna.com/p430-mc

    230型のエクステリアは、先代に比べてぐっと直線的になりました。ボンネットは長く、フェンダーラインはシャープ。1970年代初頭の日本車に共通する、アメリカ車の影響を受けつつも独自の端正さを目指したデザインです。

    特にフロントグリルの造形は堂々としていて、当時の日本における「高級車らしさ」をストレートに表現しています。まだクラウンが最大のライバルだった時代。セドリックは「トヨタとは違う高級感」をどう見せるかに腐心していたはずで、230型のデザインにはその意志が読み取れます。

    インテリアも同様で、ウッド調パネルやベロア素材の採用など、装備面での充実が図られました。ただ、グロリアとの差別化はあくまで外装の意匠が中心で、室内空間の基本設計は共通です。ここに、共有化の合理性と差別化の限界が同居しています。

    「セドグロ」という呼ばれ方が意味するもの

    https://kuruma-dna.com/p31

    230型以降、セドリックとグロリアはしばしば「セドグロ」とひとまとめに呼ばれるようになります。これはユーザーやメディアが自然に使い始めた呼称ですが、裏を返せば「もう実質的に同じ車だよね」という認識が広がった証拠でもあります。

    メーカーとしては差別化を主張したかったはずですが、市場の目はシビアです。プラットフォームが同じ、エンジンが同じ、サイズが同じ。違うのはグリルとエンブレム。この構図は、後の330型、430型と続くセドリック/グロリアの基本フォーマットになっていきます。

    つまり230型は、日産の上級セダン戦略における「兄弟車商法」のテンプレートを作った世代です。良くも悪くも、ここで確立された方程式がその後20年以上にわたって踏襲されることになります。

    統合の起点としての230型

    https://kuruma-dna.com/p30

    230型セドリックを一台の車として見れば、L型エンジンの滑らかさ、堂々としたスタイリング、上級セダンとしての十分な装備と、水準以上の完成度を持った車です。しかしこのモデルの本当の意味は、車単体の出来よりも「仕組みを変えた」ことにあります。

    合併後の日産が抱えていた二重構造を、プラットフォーム共有という現実解で整理した。その判断がなければ、日産の上級セダンラインは開発コストに押しつぶされていたかもしれません。

    230型は、華やかなエピソードが語られるタイプの車ではありません。でも、日産の商品体系を語るうえで外せない「構造の転換点」です。セドリックとグロリアが同じ道を歩き始めた、その最初の一歩。

    地味かもしれませんが、系譜の中では決定的に重要な一台です。

  • セドリック – 230型【グロリアと骨格を共有した3代目】

    セドリック – 230型【グロリアと骨格を共有した3代目】

    1971年2月、セドリックは3代目の230型になります。ここで起きた変化は、ボディの線を描き直すだけではありません。セドリックとグロリアが、初めて基本構造を共有したのです。

    二つの車名は残ったまま。けれど車の成り立ちは近づいていく。230型は、その始まりを形にした世代です。

    合併の後、二つの系譜が交わる

    日産とプリンス自動車が合併したのは1966年。そのあとも、セドリックとグロリアはそれぞれの系譜で走っていました。1965年登場の2代目セドリック130型は、ピニンファリーナが外観を手がけた車です。

    一方、1967年登場のグロリアA30型は旧プリンスが開発を進めた車。縦に並ぶ四灯を持ち、「タテ目のグロリア」とも呼ばれました。その後、1969年の改良でエンジンは旧プリンス系のG7型から日産のL20型へ変わります。車体が共通になる前に、エンジンから距離が縮まっていたのです。

    1971年の230型で、セドリックとグロリアは基本構造を共用します。セドリックにとっては3代目、グロリアにとっては4代目。同じ230型という呼び方でも、何代目かは車名ごとに数えます。

    セドリックとグロリアの車名はどちらも残りました。共通の土台を持ちながら二つの名で走る。その後の二車の関係を読む起点が、230型です。

    コークボトルラインの長い車体

    130型の「フローイングライン」から、230型では車体側面に抑揚のある「コークボトルライン」へ。日産自身がそう呼ぶ、前後のふくらみと中央の絞り込みを持つ輪郭です。

    セダンの後ろ姿を見ても、単純な四角い箱には見えません。後輪の上からトランクへ続く面に厚みがあり、長い車体に動きが生まれています。ピニンファリーナの130型と同じ「流麗」という言葉で呼べても、線の作り方は違います。

    1972年式セドリック230型セダン2000GLを斜め後ろから見た写真
    230型セダン2000GLの後ろ姿。TTTNIS、CC0 1.0。画像加工なし

    ただ、230型の面白さはこの線だけでは収まりません。同じ骨格から、用途も屋根の形も異なる車体が用意されました。

    セダンだけで始まった車ではない

    登場時の車体は、4ドアセダン、2ドアハードトップ、ステーションワゴン、バン。人を運ぶセダンと、荷物を積む車を同じ世代に並べていました。

    セダンの4枚のドアとまっすぐな屋根に対して、2ドアハードトップは低い屋根と長いドアが目立ちます。ステーションワゴンなら、荷室のために屋根が後ろまで伸びる。写真を一枚ずつ並べると、同じ230型の車体とは思えないほど表情が違います。

    セドリック230型の2ドアハードトップGXを斜め後ろから見た写真
    230型の2ドアハードトップGX。先従隗始.jpg)、CC0 1.0。画像加工なし

    写真のGXは2ドアハードトップ。長いドアの向こうに後席の窓が続く、この低い屋根の形を4ドアにも広げたのが、翌年の変化です。

    4ドアハードトップが加わる

    1972年には、ピラーレスの4ドアハードトップが追加されます。日産はこれを国産車初のピラーレス4ドアハードトップと記しています。登場時からあった2ドアに、今度は4ドアのハードトップが並んだのです。

    ピラーレスとは、前席と後席の窓の間に見える柱をなくした形。230型の4ドアハードトップは、窓の枠もなくしています。日産は、クーペに近い外観と後席の広さを両立した車として紹介しています。写真の2ドアハードトップとはドアの数が違いますが、横から見たときの抜けのよさはつながっています。

    日産の保存車には、1973年式KF230の4ドアハードトップ2000カスタムデラックスが残ります。全長4,690mm、全幅1,690mm、全高1,420mm。一方、1972年式のセダン2000GLは全長と全幅が同じで、全高は1,455mm。展示車の数字を並べると、ハードトップの屋根は35mm低くなっています。

    両車のホイールベースも2,690mmです。長さの数字を変えずとも、屋根や窓の形を変えると、車の印象はずいぶん違って見えます。1972年に加わった4ドアハードトップは、230型の共通した大きさの中で、新しい上級車の姿を示しました。

    L20からL26へ、選択肢を増やす

    発売当初のエンジンは、2LのL20型直列6気筒。1971年には2.6LのL26型が加わります。車体の選択肢が広かった230型は、排気量でも幅を持つようになりました。

    先ほどの1973年式KF230・4ドアハードトップ2000カスタムデラックスは、L20型1,998ccで115PS。日産が示す当時の車両価格は115万円です。2.6L車が加わった後も、2Lの4ドアハードトップがラインアップの一角を占めていたことがわかります。

    この保存車は前輪にディスク、後輪にドラムのブレーキを使い、前輪はダブルウィッシュボーン、後輪はリーフ式の足回りです。窓枠のない新しい屋根の下にも、セドリックとしての基本的な機械構成が続いていました。

    2ドアと4ドア、セダンとハードトップ、2Lと2.6L。230型は車体とエンジンの選択肢を年ごとに増やしていきました。1972年の4ドアハードトップ追加は、その広がりの中でも目に見えて大きな一歩です。

    1975年、次の課題へ

    日産は230型の販売台数が、当時のトヨペット・クラウンを上回ったと記録しています。基本構造をグロリアとそろえ、4ドアハードトップまで増やしたこの世代は、販売の記録にも名前を残しました。

    同時に、セダンは「特別機動捜査隊」などのテレビの刑事ドラマにも登場しました。高級車のための新しいハードトップと、街でよく目にする4ドアセダン。230型には、見せる顔と働く顔の両方がありました。

    1975年、セドリックは4代目330型へ交代します。コークボトルラインを持つ230型の後、次の世代では排出ガス規制への対応が車の変化を強く左右します。二つの車名が一つの骨格を持つ関係は、その先にも続きます。

  • セドリック – 30/31型【縦四灯から横四灯へ、初代の二つの顔】

    セドリック – 30/31型【縦四灯から横四灯へ、初代の二つの顔】

    初代セドリックには、二つの顔があります。

    1960年に登場した30型は縦四灯。1962年の31型では、四つのヘッドライトが横に並びます。写真を見比べると、同じ車名とは思えても、同じ顔とは思えません。

    ここが初代の面白いところです。31型は2代目ではない。初代のまま、見た目も中身も手を入れ続けたのです。

    オースチンの次を、日産の名前でつくる

    日産は1952年、英国オースチンと技術提携を結びました。翌1953年にA40の国内組立を始め、A50では1956年に全部品を国産化します。英国車を組み立てるところから、少しずつ自分たちでつくるところまで進んだのです。

    1960年3月にその提携は終わります。そして翌4月、オースチンA40・A50の後を受ける車として、セドリック30型が登場しました。最初は1,500ccのセダンです。

    提携が終わった途端に、何もないところから高級車が生まれたのではありません。外から学んだ技術を土台に、今度は自分たちの車名を持つ上級セダンを出した。初代セドリックは、その切り替わりの中にいます。

    縦四灯と、日産初のモノコック

    30型のフロントには、ヘッドライトが縦に二つずつ並んでいます。左右まで回り込むフロントガラスも含め、姿は当時のアメリカ車を思わせるものでした。

    見た目は華やかですが、注目したいのはその下です。30型は日産初のモノコックボディを採用しました。車体そのものが骨格を担う構造で、セドリックは上級車としての姿だけでなく、日産の乗用車づくりの新しい一歩も背負っていたのです。

    発売から半年後の1960年10月には、1.9Lのカスタムが加わります。1961年5月には1.9Lデラックスも追加されました。最初の1.5Lだけでラインアップを固定せず、上の仕様を増やしていきます。

    1961年式G30カスタムでは、H型1,883ccの直列4気筒が88PSを発生。全長4,510mm、ホイールベース2,630mmです。セドリックは登場からわずか1年で、エンジンも装備も選べる上級セダンになっていました。

    一方、最初の1.5Lエンジンにも意外な続きがあります。1962年登場のダットサン・フェアレディ1500は、ブルーバードの車台とセドリック30型のエンジンをもとに生まれました。上級セダンの心臓が、小さなスポーツカーにも渡ったのです。

    31型は、顔だけの化粧直しではない

    1963年式セドリック1900デラックスを斜め前から見た写真。横並びの四灯が見える
    1963年式セドリック1900デラックス。31型の時代に横並びとなった四灯。TTTNIS、CC0 1.0。画像加工なし

    1962年11月、30型は31型へ改良されます。縦四灯を横に置き直すと、フロントは低く、どっしりと見えるようになりました。

    この横四灯は、日産自身が後の高級車にも影響を与えたデザインと振り返っています。初代の途中で選んだ顔が、その後の上級車を考える手がかりにもなりました。

    それだけなら、印象を変えるための改良だったと言えるかもしれません。でも、ホイールベースも60mm延びて2,690mmになりました。当時の国産中型車では最長クラスです。室内のゆとりも増しています。

    1964年式H31カスタムの全長は4,650mm。先ほどの1961年式G30カスタムと比べると、140mm長くなりました。一方で、H型1,883cc・88PSというエンジンの数字は、この2台のカスタムで変わっていません。

    出力の数字を増やさず、乗る人の空間を広げる。31型は外観の印象だけでなく、上級セダンとしての中身を磨いた改良でした。

    3段ATが加わった意味

    31型では、前進3段のトルクコンバーター式ATも採用されました。日産はこれを国産車初の前進3段式完全自動変速機と紹介しています。

    運転手がクラッチを踏み、ギヤを選ぶ。その操作をクルマに任せられるようになることは、馬力を上げるのとは違う快適さです。運転する人の負担まで減らせるなら、上級車としての価値は後席の広さだけでは決まりません。

    横四灯と長いホイールベース、そしてAT。31型は初代の改良型でありながら、初代の可能性をかなり先まで押し広げた車でした。

    初代には、さらに大きなスペシャルもいた

    黒い50型セドリック・スペシャルを斜め前から見た写真
    50型セドリック・スペシャルの現存車。TTTNIS、CC0 1.0。画像加工なし

    30型から31型へと続く頃、もう一つの方向へ伸びたセドリックがあります。50型のセドリック・スペシャルです。

    1964年式の50型は、全長4,855mm、ホイールベース2,835mm。K型2,825ccの直列6気筒で115PSを発生します。31型カスタムより、さらに145mm長いホイールベースです。

    「スペシャル」という名前だけでは、装備を豪華にした仕様にも聞こえます。でも、1.9Lの直列4気筒から2.8Lの直列6気筒へ。車体もエンジンも大きくし、セドリックの名前を大型乗用車の領域まで広げた一台でした。

    1964年の東京オリンピックでは、その一台が聖火搬送車を務めました。車体側面に「TOKYO 1964」の文字を記した車が、いまも日産のヘリテージコレクションに残っています。上級セダンとして始まった車名が、国を挙げた行事にも使われたのです。

    50型が担った大型乗用車の位置は、1965年以降、プレジデントへ引き継がれていきます。初代セドリックは一つの車体、一つの排気量だけで終わったシリーズではありません。

    2代目へ渡したもの

    1965年、セドリックは130型へモデルチェンジします。ピニンファリーナが手がけた欧州的な外観を持つ、ここからが2代目です。

    初代の5年間で、セドリックは「オースチンの後継」という役目を脱ぎました。モノコックの30型を起点に、31型では室内と運転の快適さを磨く。50型が担った大型車の役割はプレジデントへ渡す。130型が受け継いだのは、日産が自分たちの上級車を育て続けるための土台でした。

  • セドリック – 130型【流れる線と、新しい直列6気筒】

    セドリック – 130型【流れる線と、新しい直列6気筒】

    1965年10月、セドリックは2代目の130型になります。初代の縦四灯、そして横四灯を見てきたあとでは、流れるような側面の線が目を引きます。

    この世代を外観だけで覚えるのは、少しもったいない。3種類の2Lエンジンを選べ、途中で前後の姿を大きく変え、サファリラリーも走ったセドリックです。

    31型の次が、130型

    初代の30/31型から続くセドリックは、1965年に130型へ交代しました。31型は初代の改良型。130型が、世代を改めた2代目です。

    初代には、ひと回り大きな50型セドリック・スペシャルもいました。K型2,825ccの直列6気筒を積む車です。大きな車体と6気筒を先に手にした50型の役割は、プレジデントへとつながっていきます。130型は、その傍らで日産の上級セダンを受け継ぎました。

    名前に現れる数字だけを並べると、30、31、50、130。けれどセドリック本流の世代は、30/31型から130型へ進みます。50型で広げた大型車の領域とは、ここで別の道を歩き始めたのです。

    ピニンファリーナが引いた「フローイングライン」

    130型のデザインを手がけたのは、イタリアのピニンファリーナです。日産はその外観を「フローイングライン」と呼びました。初代のアメリカ車を思わせる姿から、長いボンネットと車体側面が滑らかにつながる姿へ変わります。

    当時、高速道路の整備が進んでいました。日産は130型で、高速走行性能だけでなく、静粛性と安全性も高めたと記しています。線の引き直しと同じタイミングで、上級セダンとして走る場面も広がっていたのです。

    ただ、この流れる線が最初から広く受け入れられたわけではありません。日産自身、初期の意匠は市場で苦戦したと振り返っています。写真に残る前期型と後期型の顔つきが大きく違うのも、130型を語るうえで外せない話です。

    同じ2Lでも、4気筒と二つの6気筒

    発売当初に用意されたのは、H20型の直列4気筒、J20型の直列6気筒、そして新開発のL20型直列6気筒。いずれも約2Lですが、H20とJ20はOHV、L20はOHCです。排気量だけでは、この3つの違いは見えません。

    日産が保存する1966年式P130カスタム6には、J20型1,973ccの直列6気筒が載り、最高出力は100PS。コラムシフトのMT車です。一方、同じく1966年式のH130スペシャル6は、L20型1,998ccの直列6気筒で105PSを発生します。

    両車とも全長4,680mm、ホイールベース2,690mm。同じ大きさの車体に、100PSのJ20型と105PSのL20型がそれぞれ収まっています。数字の差は5PSでも、片方はOHV、もう片方はOHC。130型の中に、新旧二つの6気筒が並んでいました。

    ブレーキにも違いがあります。日産が保存するP130カスタム6は前後ともドラム、H130スペシャル6は前輪ディスク・後輪ドラムです。エンジンだけでなく、止まるための装備にもグレードの違いが表れています。

    この世代で初めて載ったL20型は、その後も長く日産車の中核を担います。フローイングラインは次の世代で姿を変えても、直列6気筒のL型は走り続ける。その対照も、130型から見える歴史です。

    尾灯が変わり、前後の姿も変わる

    1966年の改良では、後ろに大きな長方形のテールランプが付きました。その後もほぼ毎年秋に手を入れ、1968年9月にはフロントとリアを大きく変えます。日産は、この前後で前期型と後期型を分けています。

    1968年のセドリック130型スペシャル6を後方から見た写真。長方形のテールランプが見える
    130型スペシャル6の後ろ姿。TTTNIS、CC0 1.0。画像加工なし

    写真のテールランプは、初代31型の横四灯とは別の方向に、車幅を強調します。後期にはフロントグリルとリアの造形も、より四角く平らな印象になりました。「フローイングライン」で始まった130型の6年間は、一枚の写真だけでは語れません。

    上級セダンが、東アフリカを完走した

    日産のヘリテージコレクションには、130型が1967年と1968年の東アフリカ・サファリラリーに出場し、両年とも完走したという記録があります。

    ふだんは人をゆったり運ぶ高級乗用車が、長距離の過酷なラリーにも姿を現した。130型には、街で見せる端正な顔のほかに、そんな一面があります。ピニンファリーナの線だけを追っていると、見逃してしまう足跡です。

    115PSの後期型から、230型へ

    1968年の大きな外観変更の後も、改良は続きます。日産が保存する1969年式H130カスタム6は、同年10月の改良で115PSとなったL20型1,998ccを搭載。6人乗りで、全長は4,690mmです。1966年式スペシャル6の105PSと並べると、同じL20型でも3年の間に数字が変わったことが見えてきます。

    写真に写る後期型のスペシャル6は、130型の最上級グレード。日産に残る1969年10月改良後のスペシャル6も、L20型の115PSです。全長はカスタム6と同じ4,690mmですが、最上級の名が付く車には、同じ器の中で別の位置が与えられていました。

    1969~1971年型セドリック130型スペシャル6を斜め前から見た写真
    130型後期のスペシャル6。TTTNIS、CC0 1.0。画像加工なし

    そして1971年、セドリックは3代目230型へ。130型で登場したL20型直列6気筒は、次の世代にも続きます。一方で、ピニンファリーナの流れる線はここで一区切り。230型ではグロリアと基本構造を共有し、セドリックは別の時代に入っていきます。

  • ブルーバード – U14【名門の看板を下ろした最後の一台】

    ブルーバード – U14【名門の看板を下ろした最後の一台】

    「ブルーバード」という名前に、どれくらいの重みを感じるかは世代によってかなり違うはずです。1959年の初代310型から数えれば、日産の屋台骨を支え続けた看板車種。トヨタ・コロナとの「BC戦争」は日本の自動車史そのものでした。そのブルーバードが、最後に名乗りを上げたのが1996年登場のU14型です。

    ただ、この最終型は華々しいフィナーレとはちょっと違いました。むしろ静かに、粛々と、次の時代への橋渡しを済ませて退場していった。その経緯を追うと、1990年代後半の日産が置かれた状況がよく見えてきます。

    1990年代後半、日産が抱えていた事情

    https://kuruma-dna.com/u13

    U14型が登場した1996年は、日産にとって非常に厳しい時期でした。バブル崩壊後の販売不振に加え、車種の乱立による開発コストの肥大化が経営を圧迫していた時代です。プリメーラ、ブルーバード、セフィーロ、ローレルといったミドルセダンが社内で食い合いを起こしている状態で、「そもそもこんなに似たクラスの車を何車種も抱えて大丈夫なのか」という問いが、すでに社内でも避けられなくなっていました。

    結果的に1999年にはルノーとの資本提携、カルロス・ゴーンの着任という大きな転機を迎えます。U14型ブルーバードは、まさにその「嵐の前」に生まれた車です。名門の名を冠してはいるものの、開発の自由度や投入できるリソースは、かつてのブルーバードとは比べものにならなかったはずです。

    先代U13からの継承と変化

    https://kuruma-dna.com/u12

    U14型は、先代U13型のプラットフォームを引き継いで開発されています。U13型は1991年に登場し、丸みを帯びたデザインで当時の日産デザインの方向性を示したモデルでした。ただ、そのデザインが保守的なブルーバードユーザー層にはやや不評だったという声もあり、U14型では全体的に落ち着いた、端正な方向へ軌道修正されています。

    エンジンラインナップは直列4気筒のSR18DE(1.8L)とSR20DE(2.0L)が中心で、SR20DETのターボモデルは設定されませんでした。先代U13にはターボのSSS系があったことを考えると、U14ではスポーティ路線を明確に縮小しています。

    これは単にコストの問題だけではなく、市場の変化も大きかったと考えられます。1990年代後半のミドルセダン市場では、走りの刺激よりも快適性や経済性が重視されるようになっていました。ブルーバードSSSの「走れるセダン」というキャラクターは、もはやこのクラスの主流ではなくなりつつあったのです。

    「名門」の看板が重荷になるとき

    https://kuruma-dna.com/u11

    U14型のポジションを考えるうえで重要なのは、同時期のプリメーラ(P11型)との関係です。P11プリメーラは欧州市場を強く意識した走行性能と質感を持ち、日産のミドルセダンとしてはむしろこちらが「本命」に近い扱いを受けていました。

    一方のブルーバードは、国内の既存顧客層、とくに法人需要や年配のリピーターを受け止める役割が色濃くなっていました。つまり、攻めの商品企画ではなく、守りの商品企画です。これは悪い意味ではなく、当時の日産にとっては確実に売れる台数を確保するための現実的な判断でした。

    ただ、その結果として「ブルーバードらしさとは何か」がぼやけてしまったのも事実です。かつてのBC戦争時代には、ブルーバードは技術的な挑戦の象徴でもありました。510型のサスペンション設計しかり、910型の直線基調デザインしかり。U14型にはそうした「これがブルーバードだ」と言い切れる強い個性が見当たりません。

    名門であるがゆえに存続させなければならない。でも、そこに注ぎ込めるリソースは限られている。この矛盾が、U14型の佇まいをどこか控えめなものにしていたように思えます。

    実用車としての完成度

    https://kuruma-dna.com/p910

    とはいえ、U14型が悪い車だったかというと、そんなことはありません。むしろ実用セダンとしての完成度は高く、SR20DEエンジンの信頼性、取り回しのよいボディサイズ、そつのない乗り心地は、日常の道具として十分以上の水準でした。

    室内空間もこのクラスとしては十分に確保されており、後席の居住性やトランク容量に不満を覚えることはほとんどなかったはずです。CVT(無段変速機)の設定もあり、燃費面での配慮も見られました。1990年代後半のCVTはまだ発展途上でしたが、日産はこの時期から積極的にCVTを展開しており、U14型もその流れの中にあります。

    要するに、地味だけど真面目に作られた車だったのです。ただ、真面目さだけでは車の名前を語り継ぐ理由にはなりません。それが、この車の宿命でもありました。

    シルフィへの橋渡し、そしてブルーバードの終焉

    https://kuruma-dna.com/p810

    U14型ブルーバードは2001年に生産を終了し、後継として登場したのがブルーバード シルフィ(G10型)です。車名にはまだ「ブルーバード」が残されていましたが、実質的には新しいブランドへの移行でした。そして2012年のモデルチェンジでは「ブルーバード」の名が完全に外れ、ただの「シルフィ」になります。

    この流れは、日産がゴーン体制のもとで進めた車種整理の一環でもありました。リバイバルプランの中で、重複する車種は統廃合され、ブランドの選択と集中が進められた。ブルーバードという名前は、その過程で静かに役目を終えたのです。

    ただ、U14型の存在がなければ、シルフィへの移行はもっと唐突なものになっていたかもしれません。U14型は「ブルーバードの顧客を次の時代に受け渡す」という、地味だけれど欠かせない仕事をこなしていた。その意味では、最終型にふさわしい実直さを持った車だったと言えます。

    名前が消えることの意味

    https://kuruma-dna.com/p610

    40年以上にわたって続いた車名が消えるというのは、単なるモデルチェンジとはまったく違う出来事です。ブルーバードという名前には、日産の成長期の記憶、日本のモータリゼーションの記憶、そして「セダンが主役だった時代」の記憶が染みついています。

    U14型は、その記憶の最後の器でした。派手さはなく、語り継がれるような伝説もありません。でも、名門が名門として終わるためには、こういう車が必要だったのだと思います。暴れて退場するのではなく、きちんと後始末をして、次の世代にバトンを渡す。

    ブルーバードU14は、そういう仕事を黙々とやり遂げた、最後の一台でした。

  • セドリック – Y34【最後のハードトップは、名前の使い方まで変えた】

    セドリック – Y34【最後のハードトップは、名前の使い方まで変えた】

    1999年、セドリックのハードトップがY34へ変わりました。これが、その系統では最後のモデルチェンジになります。

    ただ、Y34は最後を待つだけの車ではありません。ブロアムとグランツーリスモの名を外し、外観、エンジン、足回り、車内の情報表示まで、新しい上級車の形を探りました。

    それまでのセドリックが持っていた何を残し、何を変えたのか。最後のハードトップを、そこから見ていきます。

    ブロアムも、グランツーリスモも名乗らない

    Y33までは、セドリックの中に「ブロアム」と「グランツーリスモ」がありました。豪華な系列と走りの系列を、同じ車名の下で選ぶ作り方です。

    1999年6月に登場したY34セドリックでは、その二つの系列名を廃止します。日産は、セドリックとグロリアのそれぞれに一つの性格を与える方針を示しました。セドリックは落ち着いた風格、兄弟車のグロリアは動きのある表情。上級車の選び方を、グレード系列ではなく車名の違いへ移したのです。

    Y34セドリックの長い後部とテールランプを斜め後ろから見た姿
    Y34型セドリックの後方。写真:TTTNIS/Wikimedia Commons、パブリックドメイン。Commonsの縮小版を使用

    写真の後ろ姿では、トランクまで大きな面が続き、角は丸く処理されています。日産が発表時に強調したのも、陰影によって表情が変わる外観でした。ブロアムとグランツーリスモの名前を外し、まず一台のセドリックとして見せる。Y34のデザインと車名の整理は、同じ方向を向いています。

    直噴V6と二つのターボ

    Y34のエンジンは一種類ではありません。3.0Lと2.5Lの直噴V6、VQ30DDとVQ25DD。さらに3.0LターボのVQ30DET、4WD用の直列6気筒ターボRB25DETが並びました。

    直噴V6では、燃料をシリンダーへ直接噴射します。日産の1999年発表では、VQ30DDとVQ25DDのそれぞれが従来型の対応エンジンに比べ、10・15モード燃費を約23%向上させ、出力も20PS上げました。上級車に必要な余裕を保ちながら、燃料の使い方にも手を入れたわけです。

    VQ30DETは最高280PS。4WD車に載るRB25DETもターボ付きの直列6気筒で、260PSでした。直噴V6を選ぶか、二つのターボのどちらを選ぶか。同じハードトップでも、エンジンと駆動方式の組み合わせは一つではありません。

    発売時の「300VIP」はVQ30DET、「300LV」はVQ30DD、4WDの「250LV FOUR」はRB25DET。同じセドリックのカタログでも、グレード名をたどれば、走りの中身は一台ずつ違いました。系列の名札を外した分だけ、個々の仕様を見ることが大切になります。

    先代までの系列名はなくなっても、買う人が求める走りを一つに絞ったわけではありません。Y34は名前の構成を整理しながら、動力の選び方には幅を残しました。

    滑らかさは、車体と足回りから作る

    新しいLLクラスのプラットフォームを採用し、日産は従来型に対して車体剛性を約23%高めたと発表しました。頑丈な車体に足回りを取り付ければ、段差を越えたときの揺れも、ハンドルを切ったときの反応も、より正確に整えられます。

    前輪はストラット式、後輪には新開発のマルチリンク式サスペンション。後輪のサスペンションにはアルミ材を使い、片側で約6kg軽くしています。車体だけでなく、路面に触れる足回りにも手が入りました。

    大きな上級車は、運転席だけが快適でも足りません。後席で継ぎ目の衝撃をどう受けるか、長距離で車体がどう落ち着くか。エンジンの数字だけでは分からない乗り味を、Y34は車体とサスペンションの両方から詰めていました。

    メーターと画面を、一つの場所へ

    Y34の室内では、メーターと液晶モニターを一体にした「トータルインフォメーションディスプレイ」が目を引きます。オーディオやエアコンの表示に加え、車両の警告や対処法、燃費、整備に関する情報も示す仕組みです。

    運転席に必要な情報を、計器の間に集めて見せる。ナビゲーションの画面を置いただけではありません。日産が「ドライバーとクルマのコミュニケーション」と呼んだものを、室内の設計へ入れたのです。

    2001年12月のマイナーチェンジでは、7インチワイド液晶モニターとFM多重VICSが全車標準になりました。出たときの仕様だけで固定せず、情報装備を更新しながら売り続けたことも、Y34の約5年間を形づくっています。

    セドリックはこのとき、フロントグリルとバンパーグリルも新しくし、リアランプの配色を変えました。画面で見える情報と、街で見える車の表情。その両方に手を入れた改良でした。

    同じ改良では、SRSカーテンエアバッグも加わります。セドリックの300LX VIP-Zと300LV VIPでは標準、そのほかのグレードではオプション。画面の新しさと、衝突時に乗員を守る装備の積み重ねが、並行して進んだ時期でした。

    2004年で終わったのは、ハードトップ

    2004年、Y34のハードトップは生産を終えます。日産が同年に新しい上級セダンへ与えた名は「フーガ」でした。セドリックのハードトップは、ここで次の車名に道を譲ります。

    それでも「セドリック」はすぐには消えません。別の系統として残ったY31セダンは営業車などに使われ、日産車体は2014年9月まで生産を続けました。ハードトップが止まってから、さらに約10年です。

    国内の年表だけでも、二つの終点があります。しかもY34のセドリックは中東向けの販売地域表にも名前が載る車でした。日本の街で見た最後の姿だけで、その歩みを閉じることはできません。

    Y34は、ハードトップという一つの作り方を締めくくった世代です。車名は別のセダンに残り、上級車の役目はフーガへ渡る。三つの線が同じ年に終わったわけではない。そのずれまで含めて、セドリックの最後のハードトップだったのです。

  • セドリック – 430型【直線基調とターボを得た5代目】

    セドリック – 430型【直線基調とターボを得た5代目】

    1979年6月、セドリックは430型へ変わりました。5代目の姿は、ひと目で分かります。丸みの残る先代330型に対し、ボンネットも窓も、車体を通る線がまっすぐになったのです。

    けれど、430型の変化は外観だけではありません。エンジンの制御を電子化し、発売後にはターボと6気筒ディーゼルも加えました。四角い車体の中で、上級車の動かし方まで変え始めた世代です。

    曲線をやめたら、セドリックはどう見えたか

    先代の330型には、長いボンネットや車体側面に曲線が残っていました。430型はそこから離れ、フロントグリルも窓の輪郭も、水平と垂直の線で整理します。

    濃紺の430型セドリック・セダンを斜め前から見た写真
    1979~1981年式とされる430型セドリック・セダン。写真:TTTNIS/CC0 1.0。Commonsの縮小版を使用

    写真のセダンを見ると、四角いヘッドライトの横にグリルがまっすぐ伸び、ルーフからトランクまでも角を意識した形です。ただ「角張った」だけではなく、車体の前から後ろまで、同じ線の使い方を通しました。

    日産の資料も、先行する二世代の姿から430型が直線的な形へ転じたと振り返っています。型式を知らなくても、330型と並べれば世代の境目が分かる。430型の顔は、それほどはっきり変わりました。

    セダン、ハードトップ、戻ってきたワゴン

    430型には4ドアセダンと4ドアハードトップがあり、ワゴンも復活しました。一方、2ドアハードトップは用意されませんでした。

    ハードトップは、同じ4枚のドアを持ちながら、後席まで続く窓の見え方でセダンと違う印象をつくります。セダンは窓枠と柱を残した落ち着いた形。車名は同じでも、車体の選び方で見せたいセドリックの姿が変わるのです。

    セダンとハードトップでは、同じ4ドアでも窓の形が違います。そこに、長いルーフと荷室を持つワゴンも並ぶ。人を乗せる形の違いに、荷物を積む形も加わりました。

    黒い1981年式430型セドリック・ハードトップ2800ブロアムを斜め後ろから見た写真
    1981年式430型セドリック・ハードトップ2800ブロアム。写真:TTTNIS/撮影者によるパブリックドメイン公開。Commonsの縮小版を使用

    この2800ブロアムの写真では、長い後部ガラスとトランクまで続く低い線がよく見えます。正面の角張った印象だけでは分からない、430型のもう一つの姿です。2.8Lのブロアムがあったように、ハードトップも後で加わる2.0Lターボだけの車ではありませんでした。

    ECCSがエンジンを見張る

    430型の2.8Lガソリンエンジン車には、ECCSと呼ぶエンジン集中電子制御システムが採用されました。点火の時期やアイドリングをコンピューターで集中管理する仕組みで、日産はこれを日本初の採用と説明しています。

    それまでのセドリックも、330型でNAPSによる排出ガス対策を進めていました。430型では、エンジンの働きをより細かく制御する方法が加わったわけです。

    大きなグリルや豪華な室内は、見れば分かります。ECCSは外から見えません。アクセルを踏んだときや信号待ちで止まったとき、エンジンを適切に働かせるための技術です。上級車の価値を車体の大きさだけでなく、機械の制御にも求めたところに、430型の新しさがあります。

    2.8L車に載ったECCSと2.0L車のターボは、対象のエンジンが違います。同じ430型の中で、それぞれ別の方法が力と扱いやすさを支えました。

    発売後に加わった2.0Lターボ

    L20E・T型ターボ搭載車は、430型の登場から半年後の1979年12月に発売されました。日産はこれを国産乗用車初のターボエンジンと位置づけています。角張った新型が出たあとに、エンジンの選択肢が増えたのです。

    1980年式の4ドアハードトップ「ターボSGLエクストラ」には、1,998ccの直列6気筒ターボが載ります。最高出力は145PS、最大トルクは21.0kgm。日産が残す同年式の自然吸気2.0L「200E SGLエクストラ」は130PSです。車体の形と仕様は違いますが、2.0Lという排気量を保ちながら、ターボが力を上積みしたことが数字にも表れています。

    当時は第二次石油危機のさなか。日産は、小さめの排気量で出力と燃費性能を両立するための技術としてターボを位置づけています。単に一番大きいエンジンを載せるのではなく、別の方法で力を引き出す答えでした。

    1982年式の「ターボブロアム」にも2.0Lターボが載ります。保存車は145PSで、ロックアップ付き3段ATを組み合わせていました。発売後に加わったエンジンが、上級仕様の中でも使われ続けたことが分かります。

    6気筒ディーゼルも選べるように

    1979年10月、日産はセドリックとグロリアへの6気筒ディーゼル搭載を発表しました。日産のエンジン資料では、そのエンジンはLD28型です。発売順に並べると、6月に430型、10月にディーゼル、12月にターボ。半年ほどの間に、車の選び方が増えていきました。

    ターボは2.0Lのまま力を求める選択肢。ディーゼルは、同じ車名を異なる燃料と使い方へ開く選択肢でした。2.8Lガソリン車の電子制御、2.0Lターボ、6気筒ディーゼル。それぞれは別の仕様ですが、一つの430型の中に並びました。外観の直線だけでは、この世代を言い尽くせません。

    次はV6のY30へ

    1983年、セドリックは6代目Y30へ進みます。そこで主役になるのはVG型V6。430型で使われたL型の直列6気筒から、エンジンの基本の形まで変わります。

    430型を振り返ると、角張ったデザインがまず目に入ります。でも、その内側ではECCSが働き、登場後にターボとディーゼルが加わっていました。形を変えながら、次のセドリックに渡す技術も増やした5代目だったのです。