カテゴリー: Nissan

  • フェアレディZとは

    フェアレディZは、日本車が初めてアメリカで「安くて速い」を売り切ったクルマです。

    1969年のS30が、その最初の一撃でした。長いノーズに直列6気筒、後輪駆動、そして北米では当時のポルシェやジャガーより桁違いに安い価格。作りの良さで勝ったのではなく、価格と体験の釣り合いで勝ったクルマです。日本製スポーツカーは実用車の延長でしかない、という見方は、この一台で崩れました。

    1978年のS130は、その成功を前提に設計されています。より快適に、より大きく、装備も充実させる。走りに尖らせるのではなく、世界で毎日乗れるスポーツカーへ寄せたわけです。1983年のZ31ではエンジンが直6からV6のVG型へ替わり、ターボと快適装備で「速くて楽なクルマ」へさらに舵を切りました。

    反動が来たのが、1989年のZ32です。バブル期の日産が本気で作ったこの世代は、300ZXツインターボで自主規制上限の280PSに到達し、四輪操舵まで備えました。ただし価格も一気に上がります。速さでは文句なしでしたが、Zの出発点だった「手が届く」という条件からは離れました。

    そして2000年、Zはいったん途絶えます。復活は2002年のZ33でした。VQ35DE型V6と、当時のルノー連合下で立て直された日産の生産体制。装備を整理して価格を抑え、もう一度「買えるスポーツカー」へ戻しています。2008年のZ34では車体を短く軽くし、走りの密度を上げました。

    2022年のRZ34は、骨格をZ34から引き継ぎながら、外装をS30と240ZGへの明確な参照で構成しています。エンジンはVR30DDTT型のV6ツインターボで405PS、そして6速MTを残しました。新しさより、Zであり続けることを優先した世代です。

    S30からRZ34まで、7世代。Zの歴史は、日本のスポーツカーが「高くなりすぎたら終わる」と何度も学び直してきた記録です。

  • GT-Rとは

    GT-Rは、勝つ理由がなくなるたびに姿を消してきたクルマです。

    1969年のPGC10は、レースで勝つために作られました。積まれたS20型は、プリンス由来のレーシングエンジンGR8の系譜を引く直列6気筒DOHC。1.9L・160PSという数字より重要なのは、これが公道向けに設計された機構ではなかったことです。翌年のハードトップKPGC10まで含めて、ツーリングカーレースで積み上げた勝利は通算49勝と言われます。

    1973年のKPGC110、いわゆるケンメリGT-Rは、その勢いを引き継ぐはずでした。ところが排出ガス規制とオイルショックが直撃し、レース参戦そのものが消えます。生産わずか197台。走る舞台がなくなった瞬間に、GT-Rという名前も消えました。

    沈黙は16年続きます。復活は1989年のBNR32。グループAで勝つという明確な目的のもと、RB26DETT型2.6L直6ツインターボと、ATTESA E-TSという電子制御四駆が与えられました。結果は国内グループA全戦全勝。名前が戻ってきた理由も、やはり勝つためだったわけです。

    1995年のBCNR33は、その戦績を実力として定着させた世代でした。車体は大きくなったものの、ニュルブルクリンクで8分を切るという分かりやすい指標で速さを示しています。1999年のBNR34では造形と電子制御を煮詰め、スカイラインGT-Rとしての完成形に到達しました。そして2002年、排出ガス規制を理由に再び生産を終えます。

    2007年のR35は、名前の付き方から変わりました。スカイラインの名を外し、独立した車種としてのGT-Rになったのです。VR38DETT型V6ツインターボ、専用設計のトランスアクスル、そして毎年のように手を入れる異例の改良体制。ポルシェを名指しで意識したこのクルマは、18年にわたって作り続けられました。

    PGC10からR35まで、6世代。GT-Rの歴史は、日産が「勝つ」という目的を持てたときにだけ現れる、その会社の本気の記録です。

  • シルビアとは

    シルビアは、FRスポーツを「スポーツカーとして売らない」方法を探し続けたクルマです。

    始まりは1965年のCSP311でした。フェアレディのシャシーに手叩きのボディを載せ、職人が一台ずつ仕上げる。結果として売れた数は554台。美しさは評価されても、商売としては成立しませんでした。

    その反省の上に立つのが1975年のS10です。今度は大量生産できる部品で構成し、走りの数字ではなく「特別に見えること」を売る。日本の大衆スペシャルティカーは、ここから始まります。1979年のS110でその路線を広げ、後期にはFJ20E型を積む本格的なグレードも加わりました。1983年のS12は北米市場を強く意識した造形で、日本ではやや異端の世代として記憶されています。

    すべてが噛み合ったのが、1988年のS13でした。柔らかく低い曲面のボディ、手の届く価格、そして後輪駆動。日産が前面に出したのは「デートカー」という売り方でしたが、中身はターボの効く2ドアクーペです。買った人がサーキットや峠で何をしたかは、いまさら説明するまでもありません。速さを謳わずに、速いクルマを大量に売った。シルビアの最適解でした。

    1993年のS14は、その成功が枷になります。3ナンバーサイズへ拡大した車体は「太った」と言われ続け、販売も苦戦しました。設計としてはむしろ正常進化だったのに、市場はS13の記憶で評価したわけです。

    1999年のS15は、その揺り戻しとして生まれました。ボディを再び5ナンバーに収め、SR20DETは250PSへ、6速MTも与えられます。誰が見ても走るためのクルマでした。しかし2002年、排出ガス規制への対応を機に生産を終えます。売り方の仮面を外したときには、その市場自体が縮んでいたのです。

    CSP311からS15まで、7世代。シルビアの歴史は、日本の若者が手の届く値段でFRを買えた最後の時代の記録です。

  • マーチとは

    マーチは、日産が「国民車」として作り、最後は日本に来なくなったクルマです。

    1982年の初代K10は、車名を一般公募で決めるところから始まりました。デザインを任されたのはジョルジェット・ジウジアーロ。奇をてらわない直線的な小さな箱は、流行に左右されないぶん10年戦える形でした。実際K10は10年間現役です。そして1988年、この実用車に930ccのエンジンへターボとスーパーチャージャーを両方載せた「スーパーターボ」が追加されます。国民車として設計したはずの器に、日産は平然と変な球を投げ込んできました。

    1992年のK11では、丸みのある造形とともにCVTが本格的に導入されます。当時のCVTはまだ珍しく、小型車で普及させた立役者のひとつがK11でした。欧州でも売られ、この世代でマーチは日本専用車ではなくなります。

    2002年のK12は、性格を大きく振りました。ルノーと共有するプラットフォームの上に、丸い目と柔らかい面で構成した「かわいい」を、狙って設計したのです。街乗りの小型車が女性ユーザーの支持で決まる時代を、日産は正面から取りにいきました。一方でオーテックが仕上げた12SRのような、走りに振ったグレードも残っています。

    2010年のK13で、生産地が変わります。タイで作って日本へ輸入する。国民車を国内で作り続けることを、日産はここでやめました。3気筒エンジンによる燃費と価格の追求が主題になり、その一方でニスモSという1.5Lの硬派なグレードも用意されています。

    2016年のK14は、日本に導入されませんでした。欧州で「マイクラ」として売られるこの世代は、完全にグローバルコンパクトとして設計されています。日本ではK13が2022年まで売られ、そのまま静かに姿を消しました。

    K10からK14まで、5世代。マーチの歴史は、日本のメーカーが「安くて小さいクルマ」をどこで作り、誰に売るのかを問い直し続けた記録です。

  • スカイラインとは

    スカイラインは、日産が作り始めたクルマではありません。

    生まれはプリンス自動車。初代ALSI、2代目S50と続いたこのクルマは、1966年の吸収合併で日産の名を纏うことになります。その最初の世代が1968年のC10、通称ハコスカです。翌1969年にはGT-Rが設定され、レースで勝つためのスカイライン、という性格がここで決まりました。

    面白いのは、GT-Rがいた世代と、いなかった世代があることです。1972年のC110(ケンメリ)は歴代最高の販売台数を記録しながら、GT-Rはわずか197台で途絶えます。排ガス規制の時代でした。続くC210(ジャパン)にGT-Rの設定はなく、「名ばかりGT」と揶揄されることになります。

    その反省から生まれたのが1981年のR30、鉄仮面です。FJ20型でスポーツの血を取り戻し、1985年のR31では後のRB型が静かに始まります。そして1989年のR32。16年ぶりにGT-Rが復活し、RB26DETTとアテーサE-TSで不敗神話を作りました。

    R33は「デブ33」と言われ、R34は最後の「スカイラインGT-R」を生みます。ここでひとつの時代が終わりました。

    2001年のV35は、GT-Rを切り離し、直6も捨てた世代です。インフィニティG35として世界を向いた決断は、いまも評価が割れています。V36V37と続き、2019年のRV37ではプロパイロット2.0を世界初搭載。走りの意味そのものが変わりました。

    GT-Rを持ち、失い、また持ち、そして手放す。スカイラインという名前は、その揺れをすべて引き受けてきた名前です。

    なお、GT-Rそのものの系譜はGT-Rの歴代モデル一覧に分けてまとめています。PGC10からR35まで、スカイラインの名を離れるまでの流れはそちらで追えます。

  • セドリックとは

    セドリックの歴史は、日産が「高級車とは何か」を12回考え直した記録です。

    1960年のP30で始まり、P31で高級車の形が固まり、1965年のP130で直6を得ます。1968年のP230で「大人のクルマ」になり、1971年の230型でグロリアと姉妹関係に。ここから両者は同じ道を歩むことになりました。

    面白いのは、時代の圧力への反応がそのまま型式に出ていることです。オイルショック直後の1975年に出た330型は、世の中が「大きなクルマ=悪」に傾く中で、曲面と装飾のアメリカン路線をさらに昇華させました。ところが1979年の430型では正反対へ振り切ります。直線的でクリーンな造形。しかもこの世代は、日本初のターボエンジン搭載車と、乗用車として日本初の直列6気筒ディーゼルを積んでいます。見た目は保守的に見えて、中身が一番攻めていた世代でした。

    1983年のY30でV6を導入し、L型直6の時代が終わります。そしてバブル。1987年のY31は、日産が本気で磨いた正装でした。Y32の贅沢さ、Y33の堅実さ、そして1999年のY34を最後に、セドリックという名前は消えます。

    P30からY34まで、12世代。日本の高級車観がどこで変わったのかが、型式の並びにそのまま残っています。

  • ブルーバードとは

    日産が初めて「名前」で売ったクルマが、ブルーバードでした。

    1959年のP310以前、日産の乗用車はダットサンの型式で呼ばれていました。そこに愛称を与えた最初の一台がこれです。1963年のP410ではピニンファリーナにデザインを委ね、日産は自分の見え方を外部の目に預けます。

    転機は1967年のP510でした。四輪独立懸架とSOHCのL型を積み、サファリラリーで総合優勝。日本車が世界で通用すると証明した一台として、いまも語られ続けています。ブルーバードという名前の評価の大半は、この世代が作ったと言っていいと思います。

    その後は大きくなり、豪華になっていきます。P610P710、そしてFR最後のP910。1983年のU11でFFへ移行し、1987年のU12はSR20とアテーサを得て「走るブルーバード」の到達点になりました。U13U14と続いたあと、名門の看板は静かに下ろされます。

    歴代10世代をたどると、日産という会社が何を目指し、どこで方向を変えたのかが、そのまま出てきます。

  • スカイラインから日産のマークが消えた日

    スカイラインから日産のマークが消えた日

    2014年。

    13代目となるV37型スカイラインが、日本で発売されました。

    そのフロントグリルには、見慣れたNISSANのエンブレムがありませんでした。

    代わりに置かれていたのは、海外で展開される日産の高級車ブランド、INFINITIのエンブレムです。

    車名は「日産 スカイライン」。

    それなのに、その顔には日産と書かれていない。

    なぜ、こんなことが起きたのでしょうか。

    そして2019年、スカイラインには再びNISSANのエンブレムが戻ります。

    さらに現在、日産は次のスカイラインを「Heartbeatモデル」と呼び、明確に“日産らしさ”を背負わせようとしています。

    一台のクルマのエンブレムを追っていくと、そこにはスカイラインだけではなく、日産という会社がこの25年間で自分たちをどう定義してきたのかまで映っているように見えます。

    スカイラインが世界を向いたのは、V37からではない

    https://kuruma-dna.com/v35-skyline

    大きな転換点は、2001年のV35です。

    それまでのスカイラインを知る人にとって、V35はかなり異質な存在でした。

    RB系の直列6気筒はVQ系V6へ置き換えられ、車体も新世代のFMパッケージへ一新されました。

    従来型の延長ではなく、「21世紀の理想のプレミアムスポーツセダン」として生まれ変わったのです。

    そして、このV35は北米でINFINITI G35として販売されました。

    G35は北米でMotorTrendの2003 Car of the Yearを獲得し、日産が狙った新しいプレミアムスポーツセダンは、日本の外でも評価されます。

    つまりこの時点で、スカイラインはすでに日本だけを見て作るクルマではなくなっていました。

    ただし、日本仕様の顔にはまだNISSANがありました。

    世界商品にはなっても、日本ではまだ「日産のスカイライン」だったのです。

    2014年、日産自身がNISSANを外した

    INFINITIエンブレムを付けたV37型スカイライン 350GT HYBRID Type SP
    写真:Tokumeigakarinoaoshima(Wikimedia Commons/CC0)

    2014年に国内発売されたV37は、海外ではINFINITI Q50、日本ではスカイラインとして販売されました。

    ここまではV35以来の流れです。

    しかし今回は、日本仕様のフロントグリルにまでINFINITIのエンブレムが置かれました。

    日産は発表の場で、そのバッジに込めた意味をかなり率直に説明しています。

    V37はINFINITIのフラッグシップとして開発され、輸入プレミアムセダンと競える世界基準のクルマになった。その約束を日本の顧客にも伝えるために、INFINITIのエンブレムを掲げたという趣旨でした。

    つまり、日産のマークは誰かに奪われたわけではありません。

    日産自身が外したのです。

    「スカイライン」より、世界で通用するプレミアムカー

    https://kuruma-dna.com/v37-skyline

    INFINITIはルノーのブランドではありません。

    1985年、日産は米国向け高級車ブランドを作るための専任チームを立ち上げ、1989年にINFINITIを開業しました。

    だから、V37のINFINITIエンブレムを「ルノーに変えられた日産」の象徴と考えるのは違います。

    むしろ面白いのは、日産自身がスカイラインをどう見せたかったのかです。

    開発陣はスカイラインの伝統と、INFINITIのプレミアムスポーツセダンとしての価値を両立させようとしていました。

    それでも最終的に、グリル中央にはNISSANではなくINFINITIを置きました。

    当時の日産にとって、「これは日本の日産を代表するクルマです」と見せることより、「これは世界のプレミアムセダンと戦えるクルマです」と見せることの方が重要だった。

    そう読むことができます。

    同じ頃、日産という会社も世界へ向かっていた

    https://kuruma-dna.com/akio-toyoda-gr-yaris

    1999年、経営危機にあった日産はルノーと資本提携を結びました。

    ルノーは日産株の36.8%を取得し、カルロス・ゴーンが日産へ入ります。

    日産リバイバルプランによる再建を経て、両社の関係は救済から世界規模のアライアンスへ変わりました。

    開発、購買、生産、パワートレイン、販売網。互いの資源を使い、一社では得られない規模を手に入れようとしたのです。

    その変化がよく表れたクルマのひとつが、ルノーとプラットフォームを共用した3代目マーチ K12でした。

    一方、フェアレディZ Z33は再建後の日産が復活を世界へ印象づけ、R35 GT-Rはスカイラインから独立したグローバルブランドへ進みます。

    2011年に始まった中期経営計画「日産パワー88」でも、新興国とINFINITIを含む世界展開が成長の柱に置かれました。

    会社ではRenault-Nissan Allianceを活用し、商品ではNissanとINFINITIを使い分ける。

    この時代の日産は、「日本の日産」という枠を越えることそのものを競争力にしようとしていました。

    V37のINFINITIエンブレムとルノーとの資本関係に、直接の因果があったわけではありません。

    ただ、そこには日本だけで完結しない会社になろうとする、同じ時代の方向がありました。

    それでも、スカイラインという名前は日本に残った

    海外ではQ50、日本ではスカイライン。

    世界戦略のために作られたプレミアムセダンと、日本の日産を象徴してきた車名が、一台の中に同居していました。

    スカイラインという名前には、あまりにも多くの日産が詰まっています。

    プリンス時代から始まり、ハコスカ C10、ケンメリを経て、R32スカイラインやGT-Rへと続いていきました。

    「技術の日産」という言葉と結びつけて記憶している人も多いでしょう。

    そうした歴史を持つ車名が、グローバルプレミアムブランドの顔を付けて走っていた。

    V37前期の独特さは、デザイン以上にここにあったのかもしれません。

    スカイラインなのに、日産のマークがない。

    一台のクルマの中に、日本の日産とグローバルNissanの両方が存在していたようにも見えます。

    2019年、NISSANが帰ってきた

    NISSANエンブレムが戻ったRV37型スカイライン GT
    写真:Tokumeigakarinoaoshima(Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0)

    2018年11月、ゴーンが逮捕されます。

    その後、日産では権限集中やガバナンス、ルノーとの関係をめぐる議論が表面化しました。

    2019年6月の株主総会で、西川廣人CEOは「元会長時代に終止符を打ち、新たな時代へと歩を進めてまいりました」と説明しています。

    そして同年、V37スカイラインにも大幅改良が入りました。

    400馬力級の400RとProPILOT 2.0が登場し、フロントグリルには再びNISSANのエンブレムが置かれます。

    もちろん、経営体制の変化がエンブレム復帰を直接決めたと示す公式資料はありません。

    この二つを単純な原因と結果で結ぶべきではないでしょう。

    それでも、会社が「新たな時代」を掲げた年に、スカイラインもまたINFINITIの顔を外し、日産の顔へ戻った。

    その重なりは、このクルマを語るうえで無視できないものです。

    エンブレムの代わりに、日産の技術を掲げた

    https://kuruma-dna.com/rv37-skyline

    2014年と2019年では、日産がスカイラインに背負わせたものが少し違います。

    2014年には、「世界基準のプレミアムカーであること」をINFINITIで表現しました。

    2019年には、日産自身の最新技術を見せるクルマとしてProPILOT 2.0を載せ、NISSANを掲げます。

    ProPILOT 2.0は、ナビゲーションと連動した高速道路の複数車線走行支援と、一定条件下で同一車線をハンズオフで走れる機能を組み合わせた、当時の日産を象徴する運転支援技術でした。

    日産はその市場投入第1号に、日本専用車となっていたスカイラインを選びました。

    世界ブランドのバッジで価値を説明するのではなく、日産が作った技術そのものでスカイラインの先進性を示す。

    NISSANの復帰は、単なるエンブレム交換だけでは終わらなかったのです。

    次のスカイラインは「日産らしさ」を背負う

    日産が公開した次期スカイラインのティザーイメージ
    画像:日産自動車

    現在、日産は商品ラインアップをHeartbeat、Core、Growth、Partnerという4つの役割に分けています。

    ローグやエクストレイル、ノートのように事業を支えるクルマはCoreに置かれ、協業を活用して市場をカバーするクルマはPartnerに分類されます。

    そして、ブランドの感情や歴史、日産のDNAを担うクルマがHeartbeatです。

    そこにはZやパトロール、リーフと並んで、次のスカイラインも含まれています。

    日産は次期スカイラインについて、日本の高度なエンジニアリングと走行性能を象徴し、強い感情を喚起するモデルだと説明しています。

    これはV37登場時と比べると、かなり面白い変化です。

    2014年には、国際基準のプレミアムスポーツセダンであることを表現するため、INFINITIを掲げました。

    今度は最初から、「これは日産とは何かを表すクルマだ」と役割を定めています。

    スカイラインのエンブレムは、日産という会社を映していた

    INFINITIを付けたV37も、もちろん日産車です。

    スカイラインの歴史を捨てたクルマでもありません。

    だからこれは、「INFINITI時代は間違いだった」という話ではありません。

    見るべきなのは、その時々の日産がスカイラインに何を背負わせようとしたのかです。

    V35では世界へ出ました。

    V37では、INFINITIという世界ブランドを顔に掲げました。

    2019年にはNISSANへ戻り、日産自身の最新技術を背負います。

    そして次は、最初から「日産らしさ」を体現するクルマとして作られます。

    クルマのDNAは、エンジン形式や駆動方式だけで決まるものではありません。

    その会社が何を世界と共有し、どこから先を自分たちで守り、一台のクルマに何を背負わせるのか。

    その意思決定もまた、クルマのDNAを作っています。

    2014年、スカイラインから日産のマークが消えました。

    それは、日産自身が世界へ向かうために選んだエンブレムでした。

    そして現在、日産は次のスカイラインに、もう一度「日産らしさ」を託そうとしています。

    もし、そのグリル中央にNISSANの文字が置かれるなら。

    今度のそれは、ただの日産エンブレムではありません。

    25年間、世界の中で自分たちの立ち位置を探し続けた日産が、もう一度「これは自分たちのクルマだ」と言うためのエンブレムになるのかもしれません。

    この記事の要点

    • 2001年のV35から、スカイラインはINFINITI G35と車体を共有する世界商品になった
    • 2014年のV37は、世界基準のプレミアムセダンであることを示すため、日本仕様にもINFINITIエンブレムを採用した
    • 2019年の大幅改良でNISSANエンブレムが復帰し、ProPILOT 2.0の市場投入第1号となった
    • 次期スカイラインは、日産のDNAと感情価値を担う「Heartbeatモデル」に位置づけられている

    参考

  • ブルーバード – U12【SR20を手にした、走るブルーバードの到達点】

    ブルーバード – U12【SR20を手にした、走るブルーバードの到達点】

    ブルーバードという名前に、どんなイメージを持つでしょうか。

    堅実なファミリーセダン、お父さんのクルマ、あるいは「技術の日産」を支えた屋台骨。どれも間違いではありません。

    ただ、1987年に登場した7代目・U12型は、その印象をかなり塗り替えにかかったモデルでした。後に日産の主力ユニットとなるSR20エンジンを初めて積み、スポーツグレードを本気で拡充した一台。

    「走り」を語れるブルーバードとして、このクルマはひとつの頂点だったと言えます。

    ブルーバードが「走り」に振れた時代背景

    https://kuruma-dna.com/u11

    1980年代後半の日本は、バブル経済の追い風もあってクルマの高性能化が一気に加速した時期です。ユーザーは実用性だけでなく、走りの質やスポーティさを求めるようになっていました。ミドルクラスセダンでさえ、ただ広くて燃費がいいだけでは戦えない空気がありました。

    先代のU11型ブルーバードは、直線基調のシャープなデザインと4WDターボモデルの投入でそれなりに存在感を示していました。ただ、ライバルであるトヨタ・コロナやホンダ・アコードも着々と進化しており、日産としてはブルーバードの商品力をもう一段引き上げる必要があった。U12型は、そうした競争環境のなかで「走り」を明確な武器にしようとした世代です。

    SR20エンジンという転換点

    https://kuruma-dna.com/u13

    U12型を語るうえで外せないのが、SR20型エンジンの初搭載です。SR20DE、つまり2.0リッター直列4気筒DOHCの自然吸気ユニット。このエンジンは後にシルビアやプリメーラなど日産の多くの車種に載ることになる、いわば「日産の90年代を支えた心臓」の原点でした。

    それまでのブルーバードに積まれていたCA型エンジンと比べると、SR20DEはレスポンスの鋭さとトルクの厚みが段違いでした。140馬力という数値自体は今の感覚では控えめですが、1.2トン台のボディに載せれば十分に軽快です。高回転まで気持ちよく回り、日常域でもトルクが痩せない。実用エンジンでありながら回す楽しさがある、という絶妙なバランスが持ち味でした。

    さらにターボ仕様のSR20DETも用意されています。こちらは最高出力205馬力。1980年代末のミドルセダンとしては相当な数字です。この「ファミリーセダンの顔をして200馬力オーバー」という構図は、当時の日産がブルーバードに何を期待していたかをよく物語っています。

    SSSという看板の本気度

    https://kuruma-dna.com/p910

    ブルーバードのスポーツグレードといえば、SSS(スーパースポーツセダン)の名が欠かせません。この名前自体は1960年代の410型から続く由緒あるもので、ブルーバードの走りの系譜そのものです。U12型では、このSSSがかなり本気の仕立てになっていました。

    SSS系グレードには前述のSR20DE/DETが搭載され、足回りも専用セッティングが施されています。フロントにマクファーソンストラット、リアにマルチリンクというサスペンション構成は、当時のこのクラスとしては凝った設計でした。とくにリアのマルチリンクは、コーナリング時の安定性と乗り心地の両立に効いています。

    加えて、ビスカスカップリング式のフルタイム4WDモデルも設定されていました。ATTESA(アテーサ)と呼ばれるこのシステムは、後にスカイラインGT-Rで有名になるATTESA E-TSの前身にあたる技術です。ブルーバードのようなミドルセダンで4WDターボという組み合わせは、ラリーフィールドを意識したものでもありました。実際、U12型ブルーバードはオーストラリアやアジアのラリーで実戦投入されています。

    デザインとパッケージの割り切り

    https://kuruma-dna.com/u14

    U12型のエクステリアは、先代U11の直線的なシャープさから一転して、やや丸みを帯びた流線型に変わりました。1980年代後半は空力を意識したデザインが世界的なトレンドで、U12もその流れに乗った形です。Cd値(空気抵抗係数)の低減は、高速巡航時の安定性や燃費にも直結します。

    ボディバリエーションは4ドアセダンとハードトップの2本立て。ハードトップはBピラーを持たないスタイルで、見た目のスマートさを重視した仕様です。当時の日産はローレルやセフィーロでもハードトップを展開しており、U12ブルーバードもその流れのなかにありました。

    室内は、決して広々というわけではありません。走りを重視した結果、ホイールベースの使い方がやや走行性能寄りになっている印象があります。ファミリーユースだけを考えるなら、同時期のコロナやアコードのほうがゆとりがあったかもしれません。ただ、それはU12が何を優先したかの裏返しでもあります。

    評価と限界、そして残したもの

    https://kuruma-dna.com/p810

    U12型ブルーバードは、走りの面では高い評価を受けました。とくにSR20エンジンの出来は「ブルーバードにはもったいない」とまで言われたほどです。SSSの4WDターボモデルは、当時のスポーツセダンとしてかなり戦闘力の高い一台でした。

    一方で、販売面ではやや苦戦した側面もあります。1980年代末から1990年代初頭にかけて、日産は車種を増やしすぎていました。ブルーバードの上にはローレル、横にはスタンザ、下にはパルサーと、似たような価格帯・サイズのクルマがひしめいていた。ユーザーから見ると「どれを選べばいいのか」がわかりにくくなっていたのです。

    また、ブルーバードという名前自体が持つ「堅実なセダン」のイメージと、U12が目指した「走りのスポーツセダン」の方向性が、必ずしも噛み合っていなかったという指摘もあります。走りを求める層はシルビアやスカイラインに流れ、実用性を求める層はもっと穏やかなクルマを選ぶ。U12はその間で、少し居場所を見つけにくかった部分があったのかもしれません。

    それでも、U12型が残した遺産は大きいものでした。SR20エンジンはここから始まったという事実だけでも、日産の歴史における存在意義は十分です。ATTESA 4WDの技術的蓄積もまた、後のGT-Rへとつながっていきます。

    走るブルーバードの、最も濃い一滴

    https://kuruma-dna.com/p610

    ブルーバードの歴史を振り返ると、世代ごとに「実用重視」と「走り重視」の振り子が揺れてきたことがわかります。U12型は、その振り子がもっとも走り側に振れた世代でした。

    後継のU13型は再びデザインや快適性に軸足を移し、U14型を最後にブルーバードの名前はシルフィへと引き継がれていきます。SSSの名を冠して、SR20ターボと4WDを武器にラリーフィールドにまで出ていったセダン。それがU12型ブルーバードという存在でした。

    派手な主役ではなかったかもしれません。ただ、日産がミドルセダンで「走り」を本気で追求したらどうなるか、その答えをもっとも純粋に体現したモデルだったと思います。

    SR20という名機の産声を聞いたクルマとして、系譜のなかに確かな足跡を残しています。

  • ブルーバード – P910【FRの最後を飾った、変革前夜の集大成】

    ブルーバード – P910【FRの最後を飾った、変革前夜の集大成】

    ブルーバードという名前は、日産の歴史そのものと言っていい。初代310から始まった系譜は、日本のモータリゼーションとともに育ち、トヨタ・コロナとの「BC戦争」で鍛えられてきました。

    その長い歴史の中で、910型は少し特殊な立ち位置にいます。FRブルーバードの最終世代であり、同時に次のU11でFF化するという大転換の直前に置かれたモデルだからです。

    つまり910は、「終わり」と「始まり」の両方を背負っていた。しかもそれを、ただの繋ぎではなく、商品として非常に高い完成度で成立させたところに、このクルマの面白さがあります。

    1979年という時代の空気

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    910型が登場した1979年は、第二次オイルショックの真っ只中です。燃費性能への要求はますます厳しくなり、排ガス規制も強化の一途をたどっていました。日本の中型セダン市場は、「速さ」よりも「効率」と「実用性」が問われる時代に入りつつあった。

    一方で、ライバルのトヨタ・コロナはすでにFF化の検討を進めていました。ホンダのアコードはFF+横置きエンジンという構成で着実に支持を広げていた。FRレイアウトのセダンは、室内空間や燃費の面でFFに対して構造的な不利を抱えていたのです。

    日産もこの流れを当然把握していました。次期モデルでのFF転換はほぼ既定路線だったとされています。ただ、だからといって910を「消化試合」にするつもりはなかった。むしろ、FRでやれることをすべてやり切るという姿勢が、このモデルには色濃く出ています。

    先代810の反省と、910の設計思想

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    910を語るうえで、先代の810型(通称「ブルU」)の存在は外せません。810は1976年に登場し、サーフィンラインと呼ばれた伝統的なデザインを捨て、角張ったスタイルに一新しました。ただ、商品としての評価は正直なところ芳しくなかった。

    デザインの変化が急すぎたこと、そして肝心の走りの質感が価格に見合わないという声があったのです。コロナとの販売競争でも苦戦が続きました。日産としては、910で確実に巻き返す必要があった。

    910の開発チームが重視したのは、基本性能の底上げです。ボディ剛性の向上、サスペンションジオメトリの見直し、そして軽量化。派手な新機軸よりも、走る・曲がる・止まるの地力を高めることに注力しました。

    結果として910は、FR時代のブルーバードとしては最も洗練されたシャシーを持つクルマになりました。特にSSS系のグレードでは、4輪独立懸架の足回りがしっかり仕事をして、当時のオーナーからも「走りが素直」という評価を得ています。

    ハッチバックとターボという新しい武器

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    910で見逃せないのが、ハッチバックモデルの追加です。ブルーバードといえばセダンというイメージが強いですが、910ではセダン、ハードトップに加えてハッチバックを新設しました。これは欧州市場を意識した判断でもあり、国内でも「セダンだけじゃない選択肢」を提示する狙いがありました。

    当時、日本ではハッチバックという形式自体がまだ市民権を得きっていない時期です。シビックやファミリアが切り拓いた道はあったものの、中型車クラスでのハッチバックは冒険でした。910のハッチバックが爆発的に売れたわけではありませんが、「ブルーバードは保守的なクルマ」という印象を崩す一手にはなった。

    そしてもうひとつ、1980年の追加で登場したターボモデル。Z18ET型エンジンを搭載したSSS-Sターボは、国産セダンにおけるターボ普及の先駆けのひとつです。当時のターボはまだ「速くするための飛び道具」という位置づけが強かったですが、910ターボはFRシャシーとの相性もあって、スポーティセダンとしてかなり楽しめる仕上がりでした。

    ラリーでの活躍も見逃せません。910ブルーバードはサファリラリーをはじめとする国際ラリーに参戦し、実績を残しています。FRレイアウトのセダンがダートを駆け抜ける姿は、当時のモータースポーツファンに強い印象を与えました。この「SSSはラリーで走るクルマだ」というイメージは、ブルーバードのブランド価値を支える大きな柱だったのです。

    売れた理由は「堅実さ」にある

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    910ブルーバードは、商業的にも成功したモデルです。先代810の苦戦を受けて、日産はデザインを奇をてらわない端正な方向にまとめました。直線基調でありながら品のあるプロポーションは、法人需要から個人ユーザーまで幅広く受け入れられた。

    グレード構成も巧みでした。実用本位のベースグレードから、SSSのスポーティ路線、さらにターボまで。ひとつの車種で複数の顧客層をカバーする、いわゆる「フルライン戦略」がきちんと機能していたのです。

    ただ、すべてが順風だったわけではありません。FRレイアウトゆえに室内空間、とくに後席の広さではFF勢に対して不利でした。燃費面でもFFの構造的な優位性には抗えない部分があった。910が「最後のFR」になったのは、こうした物理的な限界が背景にあります。

    それでも910は、FRという制約の中で最大限の回答を出したモデルでした。走りの質、デザインのバランス、グレード展開の幅。どれをとっても「やれることはやった」と言える完成度です。

    FF化への橋渡しとして

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    1983年、後継のU11型ブルーバードが登場します。駆動方式はFFに転換され、エンジンは横置きに。ブルーバードの歴史における最大の転換点です。このFF化は時代の必然ではありましたが、「ブルーバードらしさ」が薄れたという声も少なくなかった。

    U11以降のブルーバードは、実用性や効率では確かに進化しました。しかし、SSSの名が持っていた「FRスポーツセダン」としての個性は、駆動方式の変更とともに変質していきます。910のSSSターボが持っていたあの走りの味は、FF化後には同じ形では再現できなかった。

    だからこそ、910は単なる「旧世代の最終型」ではなく、ひとつの時代の到達点として記憶されるべきモデルです。FRブルーバードの技術的蓄積がすべて注ぎ込まれ、なおかつ次の時代を見据えたハッチバックやターボという要素も取り込んだ。過去と未来の両方に足をかけた、稀有な一台でした。

    変革の前に、完成させること

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    クルマの世代交代において、「次で大きく変わるから、今回は手を抜く」という判断はありえます。実際、そういうモデルは歴史上少なくない。しかし910ブルーバードは、その逆を行きました。

    次がFF化されることを分かっていながら、FRとしての完成度を限界まで追求した。ラリーで戦い、ターボを載せ、ハッチバックという新しい形も試した。「終わるからこそ全力を出す」という姿勢が、このクルマには確かにあります。

    910型ブルーバードは、日産が本気で作った「FRセダンの答え」です。それは同時に、ブルーバードという車名が持っていた原初的な魅力——後輪で路面を蹴って走るセダンの楽しさ——の、最後の結晶でもありました。