カテゴリー: Nissan

  • セドリックとは

    セドリックの歴史は、日産が「高級車とは何か」を12回考え直した記録です。

    1960年のP30で始まり、P31で高級車の形が固まり、1965年のP130で直6を得ます。1968年のP230で「大人のクルマ」になり、1971年の230型でグロリアと姉妹関係に。ここから両者は同じ道を歩むことになりました。

    面白いのは、時代の圧力への反応がそのまま型式に出ていることです。オイルショック直後の1975年に出た330型は、世の中が「大きなクルマ=悪」に傾く中で、曲面と装飾のアメリカン路線をさらに昇華させました。ところが1979年の430型では正反対へ振り切ります。直線的でクリーンな造形。しかもこの世代は、日本初のターボエンジン搭載車と、乗用車として日本初の直列6気筒ディーゼルを積んでいます。見た目は保守的に見えて、中身が一番攻めていた世代でした。

    1983年のY30でV6を導入し、L型直6の時代が終わります。そしてバブル。1987年のY31は、日産が本気で磨いた正装でした。Y32の贅沢さ、Y33の堅実さ、そして1999年のY34を最後に、セドリックという名前は消えます。

    P30からY34まで、12世代。日本の高級車観がどこで変わったのかが、型式の並びにそのまま残っています。

  • ブルーバードとは

    日産が初めて「名前」で売ったクルマが、ブルーバードでした。

    1959年のP310以前、日産の乗用車はダットサンの型式で呼ばれていました。そこに愛称を与えた最初の一台がこれです。1963年のP410ではピニンファリーナにデザインを委ね、日産は自分の見え方を外部の目に預けます。

    転機は1967年のP510でした。四輪独立懸架とSOHCのL型を積み、サファリラリーで総合優勝。日本車が世界で通用すると証明した一台として、いまも語られ続けています。ブルーバードという名前の評価の大半は、この世代が作ったと言っていいと思います。

    その後は大きくなり、豪華になっていきます。P610、P710、そしてFR最後のP910。1983年のU11でFFへ移行し、1987年のU12はSR20とアテーサを得て「走るブルーバード」の到達点になりました。U13、U14と続いたあと、名門の看板は静かに下ろされます。

    歴代10世代をたどると、日産という会社が何を目指し、どこで方向を変えたのかが、そのまま出てきます。

  • スカイラインから日産のマークが消えた日

    スカイラインから日産のマークが消えた日

    2014年。

    13代目となるV37型スカイラインが、日本で発売されました。

    そのフロントグリルには、見慣れたNISSANのエンブレムがありませんでした。

    代わりに置かれていたのは、海外で展開される日産の高級車ブランド、INFINITIのエンブレムです。

    車名は「日産 スカイライン」。

    それなのに、その顔には日産と書かれていない。

    なぜ、こんなことが起きたのでしょうか。

    そして2019年、スカイラインには再びNISSANのエンブレムが戻ります。

    さらに現在、日産は次のスカイラインを「Heartbeatモデル」と呼び、明確に“日産らしさ”を背負わせようとしています。

    一台のクルマのエンブレムを追っていくと、そこにはスカイラインだけではなく、日産という会社がこの25年間で自分たちをどう定義してきたのかまで映っているように見えます。

    スカイラインが世界を向いたのは、V37からではない

    https://kuruma-dna.com/v35-skyline

    大きな転換点は、2001年のV35です。

    それまでのスカイラインを知る人にとって、V35はかなり異質な存在でした。

    RB系の直列6気筒はVQ系V6へ置き換えられ、車体も新世代のFMパッケージへ一新されました。

    従来型の延長ではなく、「21世紀の理想のプレミアムスポーツセダン」として生まれ変わったのです。

    そして、このV35は北米でINFINITI G35として販売されました。

    G35は北米でMotorTrendの2003 Car of the Yearを獲得し、日産が狙った新しいプレミアムスポーツセダンは、日本の外でも評価されます。

    つまりこの時点で、スカイラインはすでに日本だけを見て作るクルマではなくなっていました。

    ただし、日本仕様の顔にはまだNISSANがありました。

    世界商品にはなっても、日本ではまだ「日産のスカイライン」だったのです。

    2014年、日産自身がNISSANを外した

    INFINITIエンブレムを付けたV37型スカイライン 350GT HYBRID Type SP
    写真:Tokumeigakarinoaoshima(Wikimedia Commons/CC0)

    2014年に国内発売されたV37は、海外ではINFINITI Q50、日本ではスカイラインとして販売されました。

    ここまではV35以来の流れです。

    しかし今回は、日本仕様のフロントグリルにまでINFINITIのエンブレムが置かれました。

    日産は発表の場で、そのバッジに込めた意味をかなり率直に説明しています。

    V37はINFINITIのフラッグシップとして開発され、輸入プレミアムセダンと競える世界基準のクルマになった。その約束を日本の顧客にも伝えるために、INFINITIのエンブレムを掲げたという趣旨でした。

    つまり、日産のマークは誰かに奪われたわけではありません。

    日産自身が外したのです。

    「スカイライン」より、世界で通用するプレミアムカー

    https://kuruma-dna.com/v37-skyline

    INFINITIはルノーのブランドではありません。

    1985年、日産は米国向け高級車ブランドを作るための専任チームを立ち上げ、1989年にINFINITIを開業しました。

    だから、V37のINFINITIエンブレムを「ルノーに変えられた日産」の象徴と考えるのは違います。

    むしろ面白いのは、日産自身がスカイラインをどう見せたかったのかです。

    開発陣はスカイラインの伝統と、INFINITIのプレミアムスポーツセダンとしての価値を両立させようとしていました。

    それでも最終的に、グリル中央にはNISSANではなくINFINITIを置きました。

    当時の日産にとって、「これは日本の日産を代表するクルマです」と見せることより、「これは世界のプレミアムセダンと戦えるクルマです」と見せることの方が重要だった。

    そう読むことができます。

    同じ頃、日産という会社も世界へ向かっていた

    https://kuruma-dna.com/akio-toyoda-gr-yaris

    1999年、経営危機にあった日産はルノーと資本提携を結びました。

    ルノーは日産株の36.8%を取得し、カルロス・ゴーンが日産へ入ります。

    日産リバイバルプランによる再建を経て、両社の関係は救済から世界規模のアライアンスへ変わりました。

    開発、購買、生産、パワートレイン、販売網。互いの資源を使い、一社では得られない規模を手に入れようとしたのです。

    その変化がよく表れたクルマのひとつが、ルノーとプラットフォームを共用した3代目マーチ K12でした。

    一方、フェアレディZ Z33は再建後の日産が復活を世界へ印象づけ、R35 GT-Rはスカイラインから独立したグローバルブランドへ進みます。

    2011年に始まった中期経営計画「日産パワー88」でも、新興国とINFINITIを含む世界展開が成長の柱に置かれました。

    会社ではRenault-Nissan Allianceを活用し、商品ではNissanとINFINITIを使い分ける。

    この時代の日産は、「日本の日産」という枠を越えることそのものを競争力にしようとしていました。

    V37のINFINITIエンブレムとルノーとの資本関係に、直接の因果があったわけではありません。

    ただ、そこには日本だけで完結しない会社になろうとする、同じ時代の方向がありました。

    それでも、スカイラインという名前は日本に残った

    海外ではQ50、日本ではスカイライン。

    世界戦略のために作られたプレミアムセダンと、日本の日産を象徴してきた車名が、一台の中に同居していました。

    スカイラインという名前には、あまりにも多くの日産が詰まっています。

    プリンス時代から始まり、ハコスカ C10、ケンメリを経て、R32スカイラインやGT-Rへと続いていきました。

    「技術の日産」という言葉と結びつけて記憶している人も多いでしょう。

    そうした歴史を持つ車名が、グローバルプレミアムブランドの顔を付けて走っていた。

    V37前期の独特さは、デザイン以上にここにあったのかもしれません。

    スカイラインなのに、日産のマークがない。

    一台のクルマの中に、日本の日産とグローバルNissanの両方が存在していたようにも見えます。

    2019年、NISSANが帰ってきた

    NISSANエンブレムが戻ったRV37型スカイライン GT
    写真:Tokumeigakarinoaoshima(Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0)

    2018年11月、ゴーンが逮捕されます。

    その後、日産では権限集中やガバナンス、ルノーとの関係をめぐる議論が表面化しました。

    2019年6月の株主総会で、西川廣人CEOは「元会長時代に終止符を打ち、新たな時代へと歩を進めてまいりました」と説明しています。

    そして同年、V37スカイラインにも大幅改良が入りました。

    400馬力級の400RとProPILOT 2.0が登場し、フロントグリルには再びNISSANのエンブレムが置かれます。

    もちろん、経営体制の変化がエンブレム復帰を直接決めたと示す公式資料はありません。

    この二つを単純な原因と結果で結ぶべきではないでしょう。

    それでも、会社が「新たな時代」を掲げた年に、スカイラインもまたINFINITIの顔を外し、日産の顔へ戻った。

    その重なりは、このクルマを語るうえで無視できないものです。

    エンブレムの代わりに、日産の技術を掲げた

    https://kuruma-dna.com/rv37-skyline

    2014年と2019年では、日産がスカイラインに背負わせたものが少し違います。

    2014年には、「世界基準のプレミアムカーであること」をINFINITIで表現しました。

    2019年には、日産自身の最新技術を見せるクルマとしてProPILOT 2.0を載せ、NISSANを掲げます。

    ProPILOT 2.0は、ナビゲーションと連動した高速道路の複数車線走行支援と、一定条件下で同一車線をハンズオフで走れる機能を組み合わせた、当時の日産を象徴する運転支援技術でした。

    日産はその市場投入第1号に、日本専用車となっていたスカイラインを選びました。

    世界ブランドのバッジで価値を説明するのではなく、日産が作った技術そのものでスカイラインの先進性を示す。

    NISSANの復帰は、単なるエンブレム交換だけでは終わらなかったのです。

    次のスカイラインは「日産らしさ」を背負う

    日産が公開した次期スカイラインのティザーイメージ
    画像:日産自動車

    現在、日産は商品ラインアップをHeartbeat、Core、Growth、Partnerという4つの役割に分けています。

    ローグやエクストレイル、ノートのように事業を支えるクルマはCoreに置かれ、協業を活用して市場をカバーするクルマはPartnerに分類されます。

    そして、ブランドの感情や歴史、日産のDNAを担うクルマがHeartbeatです。

    そこにはZやパトロール、リーフと並んで、次のスカイラインも含まれています。

    日産は次期スカイラインについて、日本の高度なエンジニアリングと走行性能を象徴し、強い感情を喚起するモデルだと説明しています。

    これはV37登場時と比べると、かなり面白い変化です。

    2014年には、国際基準のプレミアムスポーツセダンであることを表現するため、INFINITIを掲げました。

    今度は最初から、「これは日産とは何かを表すクルマだ」と役割を定めています。

    スカイラインのエンブレムは、日産という会社を映していた

    INFINITIを付けたV37も、もちろん日産車です。

    スカイラインの歴史を捨てたクルマでもありません。

    だからこれは、「INFINITI時代は間違いだった」という話ではありません。

    見るべきなのは、その時々の日産がスカイラインに何を背負わせようとしたのかです。

    V35では世界へ出ました。

    V37では、INFINITIという世界ブランドを顔に掲げました。

    2019年にはNISSANへ戻り、日産自身の最新技術を背負います。

    そして次は、最初から「日産らしさ」を体現するクルマとして作られます。

    クルマのDNAは、エンジン形式や駆動方式だけで決まるものではありません。

    その会社が何を世界と共有し、どこから先を自分たちで守り、一台のクルマに何を背負わせるのか。

    その意思決定もまた、クルマのDNAを作っています。

    2014年、スカイラインから日産のマークが消えました。

    それは、日産自身が世界へ向かうために選んだエンブレムでした。

    そして現在、日産は次のスカイラインに、もう一度「日産らしさ」を託そうとしています。

    もし、そのグリル中央にNISSANの文字が置かれるなら。

    今度のそれは、ただの日産エンブレムではありません。

    25年間、世界の中で自分たちの立ち位置を探し続けた日産が、もう一度「これは自分たちのクルマだ」と言うためのエンブレムになるのかもしれません。

    この記事の要点

    • 2001年のV35から、スカイラインはINFINITI G35と車体を共有する世界商品になった
    • 2014年のV37は、世界基準のプレミアムセダンであることを示すため、日本仕様にもINFINITIエンブレムを採用した
    • 2019年の大幅改良でNISSANエンブレムが復帰し、ProPILOT 2.0の市場投入第1号となった
    • 次期スカイラインは、日産のDNAと感情価値を担う「Heartbeatモデル」に位置づけられている

    参考

  • ブルーバード – U12【SR20を手にした、走るブルーバードの到達点】

    ブルーバード – U12【SR20を手にした、走るブルーバードの到達点】

    ブルーバードという名前に、どんなイメージを持つでしょうか。

    堅実なファミリーセダン、お父さんのクルマ、あるいは「技術の日産」を支えた屋台骨。どれも間違いではありません。

    ただ、1987年に登場した7代目・U12型は、その印象をかなり塗り替えにかかったモデルでした。後に日産の主力ユニットとなるSR20エンジンを初めて積み、スポーツグレードを本気で拡充した一台。

    「走り」を語れるブルーバードとして、このクルマはひとつの頂点だったと言えます。

    ブルーバードが「走り」に振れた時代背景

    https://kuruma-dna.com/u11

    1980年代後半の日本は、バブル経済の追い風もあってクルマの高性能化が一気に加速した時期です。ユーザーは実用性だけでなく、走りの質やスポーティさを求めるようになっていました。ミドルクラスセダンでさえ、ただ広くて燃費がいいだけでは戦えない空気がありました。

    先代のU11型ブルーバードは、直線基調のシャープなデザインと4WDターボモデルの投入でそれなりに存在感を示していました。ただ、ライバルであるトヨタ・コロナやホンダ・アコードも着々と進化しており、日産としてはブルーバードの商品力をもう一段引き上げる必要があった。U12型は、そうした競争環境のなかで「走り」を明確な武器にしようとした世代です。

    SR20エンジンという転換点

    https://kuruma-dna.com/u13

    U12型を語るうえで外せないのが、SR20型エンジンの初搭載です。SR20DE、つまり2.0リッター直列4気筒DOHCの自然吸気ユニット。このエンジンは後にシルビアやプリメーラなど日産の多くの車種に載ることになる、いわば「日産の90年代を支えた心臓」の原点でした。

    それまでのブルーバードに積まれていたCA型エンジンと比べると、SR20DEはレスポンスの鋭さとトルクの厚みが段違いでした。140馬力という数値自体は今の感覚では控えめですが、1.2トン台のボディに載せれば十分に軽快です。高回転まで気持ちよく回り、日常域でもトルクが痩せない。実用エンジンでありながら回す楽しさがある、という絶妙なバランスが持ち味でした。

    さらにターボ仕様のSR20DETも用意されています。こちらは最高出力205馬力。1980年代末のミドルセダンとしては相当な数字です。この「ファミリーセダンの顔をして200馬力オーバー」という構図は、当時の日産がブルーバードに何を期待していたかをよく物語っています。

    SSSという看板の本気度

    https://kuruma-dna.com/p910

    ブルーバードのスポーツグレードといえば、SSS(スーパースポーツセダン)の名が欠かせません。この名前自体は1960年代の410型から続く由緒あるもので、ブルーバードの走りの系譜そのものです。U12型では、このSSSがかなり本気の仕立てになっていました。

    SSS系グレードには前述のSR20DE/DETが搭載され、足回りも専用セッティングが施されています。フロントにマクファーソンストラット、リアにマルチリンクというサスペンション構成は、当時のこのクラスとしては凝った設計でした。とくにリアのマルチリンクは、コーナリング時の安定性と乗り心地の両立に効いています。

    加えて、ビスカスカップリング式のフルタイム4WDモデルも設定されていました。ATTESA(アテーサ)と呼ばれるこのシステムは、後にスカイラインGT-Rで有名になるATTESA E-TSの前身にあたる技術です。ブルーバードのようなミドルセダンで4WDターボという組み合わせは、ラリーフィールドを意識したものでもありました。実際、U12型ブルーバードはオーストラリアやアジアのラリーで実戦投入されています。

    デザインとパッケージの割り切り

    https://kuruma-dna.com/u14

    U12型のエクステリアは、先代U11の直線的なシャープさから一転して、やや丸みを帯びた流線型に変わりました。1980年代後半は空力を意識したデザインが世界的なトレンドで、U12もその流れに乗った形です。Cd値(空気抵抗係数)の低減は、高速巡航時の安定性や燃費にも直結します。

    ボディバリエーションは4ドアセダンとハードトップの2本立て。ハードトップはBピラーを持たないスタイルで、見た目のスマートさを重視した仕様です。当時の日産はローレルやセフィーロでもハードトップを展開しており、U12ブルーバードもその流れのなかにありました。

    室内は、決して広々というわけではありません。走りを重視した結果、ホイールベースの使い方がやや走行性能寄りになっている印象があります。ファミリーユースだけを考えるなら、同時期のコロナやアコードのほうがゆとりがあったかもしれません。ただ、それはU12が何を優先したかの裏返しでもあります。

    評価と限界、そして残したもの

    https://kuruma-dna.com/p810

    U12型ブルーバードは、走りの面では高い評価を受けました。とくにSR20エンジンの出来は「ブルーバードにはもったいない」とまで言われたほどです。SSSの4WDターボモデルは、当時のスポーツセダンとしてかなり戦闘力の高い一台でした。

    一方で、販売面ではやや苦戦した側面もあります。1980年代末から1990年代初頭にかけて、日産は車種を増やしすぎていました。ブルーバードの上にはローレル、横にはスタンザ、下にはパルサーと、似たような価格帯・サイズのクルマがひしめいていた。ユーザーから見ると「どれを選べばいいのか」がわかりにくくなっていたのです。

    また、ブルーバードという名前自体が持つ「堅実なセダン」のイメージと、U12が目指した「走りのスポーツセダン」の方向性が、必ずしも噛み合っていなかったという指摘もあります。走りを求める層はシルビアやスカイラインに流れ、実用性を求める層はもっと穏やかなクルマを選ぶ。U12はその間で、少し居場所を見つけにくかった部分があったのかもしれません。

    それでも、U12型が残した遺産は大きいものでした。SR20エンジンはここから始まったという事実だけでも、日産の歴史における存在意義は十分です。ATTESA 4WDの技術的蓄積もまた、後のGT-Rへとつながっていきます。

    走るブルーバードの、最も濃い一滴

    https://kuruma-dna.com/p610

    ブルーバードの歴史を振り返ると、世代ごとに「実用重視」と「走り重視」の振り子が揺れてきたことがわかります。U12型は、その振り子がもっとも走り側に振れた世代でした。

    後継のU13型は再びデザインや快適性に軸足を移し、U14型を最後にブルーバードの名前はシルフィへと引き継がれていきます。SSSの名を冠して、SR20ターボと4WDを武器にラリーフィールドにまで出ていったセダン。それがU12型ブルーバードという存在でした。

    派手な主役ではなかったかもしれません。ただ、日産がミドルセダンで「走り」を本気で追求したらどうなるか、その答えをもっとも純粋に体現したモデルだったと思います。

    SR20という名機の産声を聞いたクルマとして、系譜のなかに確かな足跡を残しています。

  • ブルーバード – P910【FRの最後を飾った、変革前夜の集大成】

    ブルーバード – P910【FRの最後を飾った、変革前夜の集大成】

    ブルーバードという名前は、日産の歴史そのものと言っていい。初代310から始まった系譜は、日本のモータリゼーションとともに育ち、トヨタ・コロナとの「BC戦争」で鍛えられてきました。

    その長い歴史の中で、910型は少し特殊な立ち位置にいます。FRブルーバードの最終世代であり、同時に次のU11でFF化するという大転換の直前に置かれたモデルだからです。

    つまり910は、「終わり」と「始まり」の両方を背負っていた。しかもそれを、ただの繋ぎではなく、商品として非常に高い完成度で成立させたところに、このクルマの面白さがあります。

    1979年という時代の空気

    https://kuruma-dna.com/p810

    910型が登場した1979年は、第二次オイルショックの真っ只中です。燃費性能への要求はますます厳しくなり、排ガス規制も強化の一途をたどっていました。日本の中型セダン市場は、「速さ」よりも「効率」と「実用性」が問われる時代に入りつつあった。

    一方で、ライバルのトヨタ・コロナはすでにFF化の検討を進めていました。ホンダのアコードはFF+横置きエンジンという構成で着実に支持を広げていた。FRレイアウトのセダンは、室内空間や燃費の面でFFに対して構造的な不利を抱えていたのです。

    日産もこの流れを当然把握していました。次期モデルでのFF転換はほぼ既定路線だったとされています。ただ、だからといって910を「消化試合」にするつもりはなかった。むしろ、FRでやれることをすべてやり切るという姿勢が、このモデルには色濃く出ています。

    先代810の反省と、910の設計思想

    https://kuruma-dna.com/u11

    910を語るうえで、先代の810型(通称「ブルU」)の存在は外せません。810は1976年に登場し、サーフィンラインと呼ばれた伝統的なデザインを捨て、角張ったスタイルに一新しました。ただ、商品としての評価は正直なところ芳しくなかった。

    デザインの変化が急すぎたこと、そして肝心の走りの質感が価格に見合わないという声があったのです。コロナとの販売競争でも苦戦が続きました。日産としては、910で確実に巻き返す必要があった。

    910の開発チームが重視したのは、基本性能の底上げです。ボディ剛性の向上、サスペンションジオメトリの見直し、そして軽量化。派手な新機軸よりも、走る・曲がる・止まるの地力を高めることに注力しました。

    結果として910は、FR時代のブルーバードとしては最も洗練されたシャシーを持つクルマになりました。特にSSS系のグレードでは、4輪独立懸架の足回りがしっかり仕事をして、当時のオーナーからも「走りが素直」という評価を得ています。

    ハッチバックとターボという新しい武器

    https://kuruma-dna.com/u12

    910で見逃せないのが、ハッチバックモデルの追加です。ブルーバードといえばセダンというイメージが強いですが、910ではセダン、ハードトップに加えてハッチバックを新設しました。これは欧州市場を意識した判断でもあり、国内でも「セダンだけじゃない選択肢」を提示する狙いがありました。

    当時、日本ではハッチバックという形式自体がまだ市民権を得きっていない時期です。シビックやファミリアが切り拓いた道はあったものの、中型車クラスでのハッチバックは冒険でした。910のハッチバックが爆発的に売れたわけではありませんが、「ブルーバードは保守的なクルマ」という印象を崩す一手にはなった。

    そしてもうひとつ、1980年の追加で登場したターボモデル。Z18ET型エンジンを搭載したSSS-Sターボは、国産セダンにおけるターボ普及の先駆けのひとつです。当時のターボはまだ「速くするための飛び道具」という位置づけが強かったですが、910ターボはFRシャシーとの相性もあって、スポーティセダンとしてかなり楽しめる仕上がりでした。

    ラリーでの活躍も見逃せません。910ブルーバードはサファリラリーをはじめとする国際ラリーに参戦し、実績を残しています。FRレイアウトのセダンがダートを駆け抜ける姿は、当時のモータースポーツファンに強い印象を与えました。この「SSSはラリーで走るクルマだ」というイメージは、ブルーバードのブランド価値を支える大きな柱だったのです。

    売れた理由は「堅実さ」にある

    https://kuruma-dna.com/p610

    910ブルーバードは、商業的にも成功したモデルです。先代810の苦戦を受けて、日産はデザインを奇をてらわない端正な方向にまとめました。直線基調でありながら品のあるプロポーションは、法人需要から個人ユーザーまで幅広く受け入れられた。

    グレード構成も巧みでした。実用本位のベースグレードから、SSSのスポーティ路線、さらにターボまで。ひとつの車種で複数の顧客層をカバーする、いわゆる「フルライン戦略」がきちんと機能していたのです。

    ただ、すべてが順風だったわけではありません。FRレイアウトゆえに室内空間、とくに後席の広さではFF勢に対して不利でした。燃費面でもFFの構造的な優位性には抗えない部分があった。910が「最後のFR」になったのは、こうした物理的な限界が背景にあります。

    それでも910は、FRという制約の中で最大限の回答を出したモデルでした。走りの質、デザインのバランス、グレード展開の幅。どれをとっても「やれることはやった」と言える完成度です。

    FF化への橋渡しとして

    https://kuruma-dna.com/p510

    1983年、後継のU11型ブルーバードが登場します。駆動方式はFFに転換され、エンジンは横置きに。ブルーバードの歴史における最大の転換点です。このFF化は時代の必然ではありましたが、「ブルーバードらしさ」が薄れたという声も少なくなかった。

    U11以降のブルーバードは、実用性や効率では確かに進化しました。しかし、SSSの名が持っていた「FRスポーツセダン」としての個性は、駆動方式の変更とともに変質していきます。910のSSSターボが持っていたあの走りの味は、FF化後には同じ形では再現できなかった。

    だからこそ、910は単なる「旧世代の最終型」ではなく、ひとつの時代の到達点として記憶されるべきモデルです。FRブルーバードの技術的蓄積がすべて注ぎ込まれ、なおかつ次の時代を見据えたハッチバックやターボという要素も取り込んだ。過去と未来の両方に足をかけた、稀有な一台でした。

    変革の前に、完成させること

    https://kuruma-dna.com/u13

    クルマの世代交代において、「次で大きく変わるから、今回は手を抜く」という判断はありえます。実際、そういうモデルは歴史上少なくない。しかし910ブルーバードは、その逆を行きました。

    次がFF化されることを分かっていながら、FRとしての完成度を限界まで追求した。ラリーで戦い、ターボを載せ、ハッチバックという新しい形も試した。「終わるからこそ全力を出す」という姿勢が、このクルマには確かにあります。

    910型ブルーバードは、日産が本気で作った「FRセダンの答え」です。それは同時に、ブルーバードという車名が持っていた原初的な魅力——後輪で路面を蹴って走るセダンの楽しさ——の、最後の結晶でもありました。

  • ブルーバード – P510【日本車が世界で通用すると証明した一台】

    ブルーバード – P510【日本車が世界で通用すると証明した一台】

    「日本車は安いだけ」。1960年代のアメリカでは、それが常識でした。その空気を変えた一台があります。日産ブルーバード510。日本では堅実なファミリーセダンとして売られたこの車が、海を渡った先でまったく別の評価を受けることになります。

    先代の挫折と、設計思想の転換

    https://kuruma-dna.com/p610

    510を語るには、まずその前に何があったかを知る必要があります。先代の410型ブルーバードは、ピニンファリーナによるデザインを採用したものの、日本市場では賛否が割れました。とくに尖ったテールまわりのデザインは「鯨」と呼ばれ、販売面でトヨタ・コロナに大きく水をあけられた世代です。

    日産にとって410の苦戦は深刻でした。ブルーバードはダットサンブランドの屋台骨であり、ここでの敗北はそのまま会社の体力に直結します。次のモデルでは、見た目の冒険よりも中身の実力で勝負するという方向に舵が切られました。

    四輪独立懸架という選択

    https://kuruma-dna.com/p410

    510型の最大の特徴は、このクラスとしては異例だった四輪独立懸架サスペンションの採用です。フロントにストラット、リアにセミトレーリングアームという構成は、当時のBMW 1600や2002といった欧州スポーツセダンと同じ考え方でした。

    これは偶然ではありません。開発を主導したエンジニアたちは、欧州車の走行性能を明確にベンチマークとしていたとされています。要するに、「安くて壊れにくい日本車」ではなく、「ちゃんと走る日本車」を作ろうとした。その意志がサスペンション形式に表れています。

    リジッドアクスルが当たり前だったこの価格帯で、四輪独立懸架を量産車に載せるのは簡単な判断ではありません。コストは上がるし、生産の難度も上がる。それでもやったのは、410で負けた悔しさと、ブルーバードという看板を立て直すという強い意志があったからでしょう。

    L型エンジンとパッケージの合理性

    https://kuruma-dna.com/p310

    エンジンもこの世代で一新されました。搭載されたのは新開発のL13型 1.3L SOHCエンジン、そして上位グレードにはL16型の1.6Lが用意されています。OHVからSOHCへの転換は、高回転域での効率と出力向上を狙ったものです。

    このL型エンジンは、後に日産の主力ユニットとして長く使われることになります。つまり510は、日産のエンジン戦略においても転換点だったわけです。単にブルーバード一車種の話ではなく、メーカー全体の技術基盤を切り替えるタイミングでもありました。

    ボディは先代より全長がやや短くなり、全幅もコンパクトにまとまっています。ただし室内空間は犠牲にしていない。直線基調のシンプルなデザインは、410のような好き嫌いを生みにくく、どの市場にも受け入れられやすいものでした。見た目で冒険せず、中身で攻める。その設計思想が外観にもはっきり出ています。

    北米での「Datsun 510」という衝撃

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    510ブルーバードの真価が発揮されたのは、むしろ日本の外でした。北米では「Datsun 510」の名前で販売され、ここで予想を超えるヒットとなります。

    理由は明快です。四輪独立懸架による安定した走り、SOHCエンジンの軽快な回転フィール、そして欧州スポーツセダンの半額以下という価格。BMW 2002に匹敵する走りが、はるかに安く手に入る。アメリカの自動車メディアはこの事実に驚き、高い評価を与えました。

    とくに重要だったのは、510が単に「安い代替品」として評価されたのではなく、「この価格でこの走りは本物だ」という認められ方をしたことです。日本車が価格以外の理由で選ばれる。それは1960年代においては画期的なことでした。

    さらにSCCA(スポーツカー・クラブ・オブ・アメリカ)のレースでも510は活躍します。ピーター・ブロックが率いるBREレーシングのDatsun 510は、トランザムシリーズの2.5Lクラスで圧倒的な強さを見せました。レースでの実績は、510の走行性能が看板倒れではないことを証明し、ブランドイメージを大きく押し上げています。

    日本市場での評価と、もうひとつの顔

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    一方、日本国内での510ブルーバードは、もう少し地味な存在でした。コロナとの販売競争は続いていましたし、日本のユーザーにとっては「よくできたファミリーセダン」という認識が主だったはずです。

    ただ、SSSグレードの存在は見逃せません。SUツインキャブ仕様のエンジンにクロスレシオのミッション、そして四輪独立懸架。SSSは国内のラリーシーンでも結果を残しており、とくにサファリラリーでの活躍は日産のモータースポーツ史において重要なエピソードです。

    つまり510は、日本では「堅実なセダン」、北米では「驚異のバリューカー」、モータースポーツでは「本格的な競技車両」と、市場によってまったく異なる顔を持っていた。ひとつの車がこれだけ多面的に評価されること自体が、設計の懐の深さを物語っています。

    510が残したもの

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    510ブルーバードの最大の遺産は、「日本車は走りでも勝負できる」という事実を世界に示したことです。それまでの日本車は、耐久性や経済性で評価されることはあっても、ハンドリングや走行性能で欧州車と比較されることはほとんどありませんでした。

    510の成功がなければ、後のフェアレディZの北米でのブレイクも、違う形になっていたかもしれません。Datsun 510が築いた「日産は走れるメーカーだ」という信頼が、Z432やS30フェアレディZを受け入れる土壌を作ったと見るのは、決して大げさな話ではないでしょう。

    後継の610型は、より大きく、より豪華な方向に進みました。それは時代の要請でもありましたが、510が持っていた「小さくて、軽くて、よく走る」という美点は薄れていきます。だからこそ、510は今なお特別な存在として語られるのです。

    派手なスーパーカーでもなく、革新的なメカニズムの塊でもない。けれど、正しい設計思想を正しい価格で提供した。

    510ブルーバードは、日本の自動車産業が「世界で戦える」と初めて胸を張れた車だったのだと思います。

  • ブルーバード – P710【角型ヘッドライトが告げた「脱・質実」宣言】

    ブルーバード – P710【角型ヘッドライトが告げた「脱・質実」宣言】

    ブルーバードという名前は、日産の中で特別な重みを持っています。初代から数えて6代目にあたるP810型が登場したのは1976年。この世代は、それまでの堅実路線から一歩踏み出して、見た目のモダンさで勝負しようとした転換点でした。角型ヘッドライトという、当時としてはかなり先進的な意匠を正面に据えたそのスタイリングには、日産なりの危機感と野心が同居しています。

    ブルーバードが置かれていた苦しい立ち位置

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    1970年代半ばの日産は、セダン市場で微妙なポジション争いを強いられていました。トヨタ・コロナという強力なライバルが常に目の前にいて、しかも社内にはバイオレットという兄弟車まで存在していた。ブルーバードとバイオレットは車格がほぼ重なっており、ユーザーから見ると「何が違うの?」という状態だったわけです。

    先代の610型ブルーバードUは、質実剛健を地で行くようなクルマでした。悪いクルマではなかったものの、正直なところ華がなかった。コロナが着実にモデルチェンジで洗練されていく中で、ブルーバードは「堅いけど地味」という印象に甘んじていた面があります。

    つまり810型には、バイオレットとの差別化と、コロナに対する商品力の底上げという二つの課題が同時にのしかかっていたのです。

    角型ヘッドライトが意味したもの

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    810型ブルーバードを語るうえで、まず触れなければならないのが角型ヘッドライトです。今でこそ当たり前ですが、1976年当時、角型ヘッドライトは国産車ではまだ珍しい存在でした。丸目が主流だった時代に、あえてシャープな四角い目を採用したことは、デザイン上の大きな賭けだったと言えます。

    この選択には明確な意図がありました。バイオレットが比較的コンパクトでスポーティな方向を志向していたのに対し、ブルーバードは「上質さ」と「先進性」で差をつけようとしたのです。角型ヘッドライトは、その象徴でした。直線基調のボディラインと合わせて、当時の感覚では相当にモダンな印象を与えるデザインだったはずです。

    ただし、このモダンさは万人受けしたかというと、少し話が複雑です。ブルーバードの顧客層は保守的なユーザーが多く、「急に顔が変わった」ことへの戸惑いもあったとされています。新しさを打ち出すことと、既存ファンの期待に応えること。この二律背反は、810型が最初に直面した壁でした。

    中身の進化──堅実だが着実だった機械面

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    見た目の変化が目立つ810型ですが、機械的な部分も地道にアップデートされています。エンジンはL型直列4気筒を中心としたラインナップで、1.6Lから2.0Lまでを揃えていました。L型エンジンは日産の屋台骨とも言えるユニットで、信頼性の高さには定評があります。

    サスペンションはフロントがストラット、リアがリーフスプリングの4リンクという、当時のこのクラスでは標準的な構成。飛び抜けた先進性はありませんが、実用セダンとしての基本をしっかり押さえた設計です。

    注目すべきは、上級グレードの充実です。810型では内装の質感向上や装備の拡充に力が入れられ、ブルーバードを「ちょっといいセダン」として位置づけ直す意図が見えます。バイオレットが実用車寄りのキャラクターを担う分、ブルーバードはワンランク上の満足感を提供する──という棲み分けの構図が、810型でようやく明確になりました。

    コロナとの戦い、そして時代の壁

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    810型の最大のライバルは、やはりトヨタ・コロナでした。1970年代のコロナは販売力が圧倒的で、ブルーバードはつねに追いかける立場にありました。810型はデザインの刷新と上級感の演出で対抗しようとしましたが、販売台数でコロナを逆転するには至っていません。

    もうひとつ、810型が直面した時代的な制約があります。1970年代後半は排出ガス規制の強化が続いた時期で、エンジンのパワーダウンは避けられませんでした。L型エンジンも例外ではなく、規制対応によって本来の持ち味であるトルク感がやや薄れた面は否めません。

    これは810型だけの問題ではなく、同時代のほぼすべての国産車が抱えていたハンデです。ただ、その中でブルーバードがデザインや装備で差別化を図ろうとしたのは、エンジン性能だけでは勝負できない時代への適応だったとも読めます。

    810型が系譜に残したもの

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    810型ブルーバードの生産期間は1976年から1979年と、決して長くはありません。次の910型が登場すると、ブルーバードは一気にヒット作へと化けます。910型は「技術の日産」を体現するモデルとして大成功を収めるわけですが、その下地を作ったのは810型だったと言えるでしょう。

    810型が試みた「質実剛健からの脱却」と「バイオレットとの明確な差別化」は、結果として910型以降のブルーバードの方向性を決定づけました。上質さと先進性で勝負するという路線は、910型のターボモデルやアテーサ(4WD)搭載モデルへとつながっていきます。

    もし810型が従来どおりの地味な路線を踏襲していたら、910型の成功はなかったかもしれない。そう考えると、810型は「成功の前夜」を担った世代です。華々しい主役ではなかったけれど、ブルーバードという名前が次の時代でも生き残るための布石を、確かに打っていた。

    角型ヘッドライトの採用ひとつとっても、810型には「変わらなければいけない」という切実な意志が宿っています。その意志が正しかったことは、後の歴史が証明しています。

  • ブルーバード – P410/P411【ピニンファリーナが変えた日産の自画像】

    ブルーバード – P410/P411【ピニンファリーナが変えた日産の自画像】

    1960年代の日産にとって、ブルーバードは単なる量販車ではありませんでした。トヨタ・コロナとの販売台数競争——いわゆる「BC戦争」の主役であり、会社の看板そのものだったのです。

    その2代目にあたるP410型が、わざわざイタリアのピニンファリーナにデザインを依頼して生まれたという事実は、当時の日産がどれほど大きな賭けに出たかを物語っています。

    初代の成功と、その先にあった焦り

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    初代ブルーバード(310型)は1959年に登場し、日本のモータリゼーション黎明期を代表するヒット作になりました。丸みを帯びたボディに1.0〜1.2リッタークラスのエンジンを積んだ実用的なセダンで、タクシーや営業車としても広く使われています。販売は好調でしたが、トヨタ・コロナとの競争は年を追うごとに激しさを増していました。

    日産が次期モデルに求めたのは、単なるモデルチェンジ以上の「格上げ」です。国内でコロナに差をつけるだけでなく、輸出市場でも通用する国際的なスタイリングが必要だと考えました。1960年代初頭の日本車は、まだ欧米市場で「安いけど垢抜けない」という評価から抜け出せていなかった時代です。

    なぜピニンファリーナだったのか

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    ここで日産が選んだのが、イタリア・トリノのカロッツェリア、ピニンファリーナへのデザイン委託でした。フェラーリやランチア、アルファロメオのボディを手がけてきた名門中の名門です。日本の量産車メーカーが、ここまで格の高いデザインハウスに仕事を依頼すること自体、当時としてはかなり異例のことでした。

    背景には、日産社内のデザイン力に対する自己評価の厳しさがあったとされています。初代310型のスタイリングは悪くなかったものの、欧米の同クラス車と並べたときに「世界基準のエレガンス」には届いていないという認識があったのです。自社だけでは超えられない壁を、外の力で突破しようとした判断でした。

    もうひとつ見逃せないのは、当時の日産が輸出拡大を本格的に視野に入れ始めていたことです。とくに北米市場を意識したとき、「イタリアの一流デザイナーが手がけた」という事実そのものが、ブランドの説得力を高める武器になると考えたのでしょう。

    P410のスタイリングが持っていた意味

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    1963年に登場したP410型ブルーバードは、初代の柔らかな曲線とはまったく異なるシャープなラインを持っていました。直線基調のボディ、薄く引き伸ばされたような水平のプロポーション、そして抑制の効いたディテール。いかにもピニンファリーナらしい、華美さよりも品格で勝負するデザインです。

    ただ、このデザインは日本市場では賛否が分かれました。初代の親しみやすさに慣れたユーザーからは「冷たい」「よそよそしい」という声もあったのです。とくに尖ったテールフィン風の処理は好みが割れるポイントでした。

    結果として、日産は発売後比較的早い段階でマイナーチェンジを実施し、フロントまわりやリアのデザインを修正しています。P411型と呼ばれるこの改良版では、やや丸みを加えて国内ユーザーの感覚に寄せる調整が行われました。つまり、ピニンファリーナの原案がそのまま日本市場に完全にフィットしたわけではなく、「翻訳」が必要だったということです。

    メカニズムと実力

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    デザインの話題が先行しがちなP410ですが、中身もしっかり進化しています。エンジンは1.2リッターのE型をベースに、上級版では1.0リッターのE-1型も設定されました。初代から引き続きOHVの直列4気筒ですが、信頼性と実用性を重視した堅実な設計です。

    サスペンションは前輪が独立懸架、後輪はリーフリジッドという当時の定番構成。とくに画期的なメカニズムがあったわけではありませんが、ボディ剛性の向上や乗り心地の改善は着実に図られていました。

    注目すべきは、このP410世代でもモータースポーツへの参戦が続けられたことです。ブルーバードは初代310型の時代からラリーで活躍しており、P410も国内外のレースやラリーに投入されました。「走り」のイメージを販売に結びつけるという戦略は、この時代の日産にとって重要な柱だったのです。

    BC戦争のなかで

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    P410が戦った相手は、言うまでもなくトヨタ・コロナです。1964年に登場したコロナRT40型は、まさにブルーバードを意識して開発された強敵でした。コロナは国内ユーザーの好みに徹底的に寄り添った商品企画で攻めてきたのに対し、ブルーバードは国際性を前面に出すという、ある意味で対照的なアプローチを取っています。

    販売面では、P410は初代ほどの圧倒的な優位を保てなかったとされています。ピニンファリーナデザインという「格」は確かに話題になりましたが、日本の一般ユーザーにとっては、日常の使い勝手や親しみやすさのほうが購買動機として強かった時代です。

    ただ、これを単純に「失敗」と片付けるのは違います。P410で日産が得たのは、海外デザイナーとの協業ノウハウであり、国際市場を意識した商品づくりの経験でした。この経験は、後の510型ブルーバードの大成功に確実につながっています。

    2代目が系譜に残したもの

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    P410/P411型ブルーバードは、ブルーバード史上もっとも「挑戦的」だった世代かもしれません。国内で盤石の地位を築いた初代の後を受けて、あえて外の血を入れ、世界基準のデザインで勝負しようとした。その判断は、結果的に国内市場では手放しの成功とは言えなかったかもしれませんが、日産というメーカーの視野を確実に広げました。

    のちに510型が北米で「ダットサン510」として爆発的な人気を得るとき、その下地を作ったのは間違いなくこのP410世代の経験です。ピニンファリーナとの仕事を通じて、日産は「日本車のデザインとは何か」「海外市場が求める品質とは何か」を自問する機会を得たのです。

    2代目ブルーバードは、日産が国内メーカーから国際メーカーへと意識を切り替えた最初の一歩でした。派手な成功譚ではないかもしれません。

    けれど、この一歩がなければ、その後の日産の歴史はまったく違ったものになっていたはずです。

  • ブルーバード – U11【FFブルーバードが「普通」になった世代】

    ブルーバード – U11【FFブルーバードが「普通」になった世代】

    ブルーバードという名前に、どんな印象を持つでしょうか。

    技術の日産を体現した看板車種。サニーの兄貴分。トヨタ・コロナとの販売合戦を繰り広げた永遠のライバル。

    そのどれもが正しいのですが、U11型に限って言えば、少し違う角度から見る必要があります。この世代のブルーバードは、革命の直後に来た「地固め」の一台だったからです。

    先代が起こした革命の後始末

    日産ブルーバード U11
    画像:kieranwhite599/CC BY 2.0(Wikimedia Commons)

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    U11型ブルーバードを語るには、まず先代の910型との関係を整理する必要があります。U11型は1983年に登場した7代目ブルーバードですが、系譜で本当に大きな転換点だったのは、その一世代前の1979年登場の910型と、そこからFF化に踏み切った流れそのものです。

    910型ブルーバードはFR(後輪駆動)の最終世代として大ヒットしました。「ブルーバード、お前の時代だ」というCMコピーが象徴するように、端正なデザインと扱いやすさで幅広い支持を集めた名車です。ところが日産は、その次のモデルで駆動方式をFF(前輪駆動)に転換します。

    FFへの切り替えは、910型の後継として1983年10月に登場したU11型で実現しました。正確に言えば、日産はこの世代で「ブルーバードをFF化する」という大きな賭けに出たわけです。当時、世界的にFF化の波が押し寄せていたとはいえ、FRで成功していた看板車種の駆動方式を変えるのは、メーカーにとって相当なリスクでした。

    CA型エンジンとFF専用設計の意味

    日産ブルーバード U11
    画像:kieranwhite599/CC BY 2.0(Wikimedia Commons)

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    U11型の心臓部を担ったのは、CA型エンジンです。CA16、CA18、CA20といった直列4気筒が搭載され、排気量は1.6Lから2.0Lまでカバーしていました。CA型は日産がFF車用に開発した横置きエンジンで、U11型ではこのエンジンの熟成が大きなテーマになっています。

    CA型エンジンは、当時の日産が持っていたFF用パワートレインの中核です。SOHCとDOHCの両方が用意され、ターボモデルも設定されました。特にCA18DETを積んだターボモデルは、FFセダンとしてはかなり力強い走りを見せています。ただ、このエンジンの本質的な美点は爆発的なパワーではなく、日常域での扱いやすさと静粛性にありました。

    FF化によって室内空間が広がったことも見逃せません。プロペラシャフトのトンネルが不要になり、後席の足元が広くなる。トランク容量も確保しやすくなる。こうした実用面でのメリットは、カタログ上の数値以上に、実際に乗る人にとっては大きな変化でした。

    「技術の日産」が選んだ実用路線

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    U11型ブルーバードの設計思想を一言でまとめるなら、「奇をてらわず、確実に良くする」という方向性です。先代でFF化という大転換を果たした以上、この世代に求められたのは革新ではなく成熟でした。

    ボディデザインは、直線基調でありながら角の丸みを増した、いかにも1980年代中盤らしいスタイルです。4ドアセダンとワゴン(ただしワゴンはやや遅れて追加)が主力で、ハードトップも用意されました。ハードトップはピラーレスの開放感を持ちながら、ボディ剛性の確保にも配慮されています。

    足回りには4輪独立懸架が採用されました。FFセダンで4輪独立というのは、当時のこのクラスでは先進的な選択です。コロナやカリーナといったトヨタ勢がリアにビーム式を使っていた時代に、日産はコストをかけてでも走りの質を追求しています。「技術の日産」という看板は、こういう地味なところにこそ表れていました。

    ライバルとの距離、そして時代の空気

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    1983年という年は、日本の自動車市場にとって過渡期でした。FF化の波はすでに止められないものになっており、トヨタもカローラやカリーナでFF化を進めています。ブルーバードの直接のライバルであるコロナも、1983年登場のT150系でFF化を果たしました。

    つまり、U11型ブルーバードが戦った相手は、同じようにFF化を済ませたばかりのライバルたちだったわけです。ここで勝負を分けたのは、FFとしての完成度の差でした。日産はスタンザやパルサーなど、ブルーバードより先にFF化した車種で経験を積んでおり、その蓄積がU11型に活かされています。

    ただし、販売面では910型ほどの爆発力はありませんでした。910型が持っていた「FRセダンの決定版」という明快なキャラクターに比べると、U11型は良くも悪くも優等生的です。突出した個性がないぶん、指名買いの動機が弱い。これはU11型だけの問題ではなく、FF化以降のブルーバード全体が抱えることになる構造的な課題でもありました。

    SSSの名は残ったけれど

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    ブルーバードといえばSSS(スリーエス)というグレード名を思い浮かべる人も多いでしょう。Super Sports Sedanの頭文字を取ったこの名前は、510型の時代からブルーバードのスポーティグレードを象徴してきました。

    U11型にもSSSは設定されています。ターボエンジンにスポーツサスペンション、専用の内外装を組み合わせた仕様で、カタログ上のスペックは十分に魅力的でした。しかし、FFになったブルーバードのSSSは、510や910のSSSとは本質的に異なるものです。

    FRのSSSが持っていた、後輪駆動ならではのスポーティな挙動や、ドライバーとの一体感。それはFF化によって失われた部分でもあります。もちろんFFにはFFの良さがあり、トラクション性能やスペース効率では優れています。ただ、SSSという名前が喚起するイメージと、実際の走りの質感との間に、微妙なズレが生じ始めていたのは事実でしょう。

    U11型が系譜に残したもの

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    U11型ブルーバードは、派手な話題に乏しい世代です。先代のようなFF化の衝撃もなければ、後継のU12型のような洗練されたデザインの評価もありません。けれど、この世代がなければ、ブルーバードのFF化は「実験」のまま終わっていた可能性があります。

    FF専用プラットフォームの熟成、CA型エンジンの改良、4輪独立懸架の採用。U11型が地道に積み上げたこれらの技術的資産は、次のU12型で花開くことになります。U12型ブルーバードが「走りのいいFFセダン」として高い評価を受けたのは、U11型の時代に基礎が固められていたからです。

    もうひとつ、U11型が示したのは、ブルーバードという車種の性格が変わりつつあったという事実です。510型や910型の時代、ブルーバードは「走りで選ぶセダン」でした。しかしFF化以降、ブルーバードは徐々に「実用性で選ぶセダン」へとシフトしていきます。その転換点に立っていたのが、U11型でした。

    革命は目立ちます。でも、革命を日常に定着させる世代は、どうしても地味になる。U11型ブルーバードは、まさにそういう役割を担った一台です。

    派手さはなくても、ブルーバードがブルーバードであり続けるために、必要な世代だったと言えるでしょう。

  • ブルーバード – P610【ブルーバードが「大きくなる」と決めた世代】

    ブルーバード – P610【ブルーバードが「大きくなる」と決めた世代】

    ブルーバードという名前に、どんなイメージを持つでしょうか。

    技術の日産を支えた大衆車。サファリラリーを走った硬派なセダン。あるいは、いつの間にか存在感が薄くなっていった中型車。

    どれも間違いではありません。ただ、その長い歴史の中で「ブルーバードの性格が変わった」と言える瞬間がいくつかあります。

    1971年に登場したP610型は、まさにそのひとつです。

    510の成功が生んだ「次」への圧力

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    P610の話をするには、まず先代の510型に触れないわけにはいきません。510ブルーバードは、1967年の登場以来、国内外で高い評価を得ました。とくに北米市場では「ダットサン510」として、コンパクトで軽快なスポーツセダンとして人気を博しています。SSS(スーパースポーツセダン)グレードのイメージも強く、モータースポーツでの活躍もあって、ブルーバード史上もっとも「走り」のイメージが濃い世代だったと言えます。

    ところが、成功した車の後継というのは厄介なものです。510の評価が高ければ高いほど、次のモデルには「もっと上」を求める声と「あの良さを守れ」という声が同時に押し寄せます。そして日産が選んだのは、明確に「上」へ向かう道でした。

    大型化とL型エンジンという選択

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    P610型で最も目立つ変化は、ボディの大型化です。全長・全幅ともに先代より一回り大きくなり、室内空間にも明らかな余裕が生まれました。510が持っていたコンパクトさ、凝縮感とは違う方向性です。

    エンジンも変わりました。510型の主力だったL13型・L16型に加え、P610ではL18型(1,770cc)が新たに搭載されています。L型エンジンは日産の直列4気筒OHCユニットとして幅広い車種に使われたシリーズですが、排気量を拡大して搭載したことで、ブルーバードの「格」を一段引き上げようとした意図が見えます。

    つまり、P610は「より広く、より力強く、より上質に」という方向で企画された車です。1970年代初頭の日本では、マイカーブームが一巡し、ユーザーの目が「次の一台」に向き始めていました。最初の一台としてカローラやサニーを買った層が、次はもう少し上のクラスを求める。その受け皿として、ブルーバードが大きくなるのは自然な流れだったとも言えます。

    時代が求めた「高級化」の空気

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    P610が高級路線に舵を切った背景には、日産社内の事情もあります。当時の日産のラインナップでは、ブルーバードの上にはセドリック/グロリアがありましたが、その間を埋める車種が手薄でした。ローレル(C130系)が同時期にその役割を担い始めていたとはいえ、ブルーバード自体も「少し上」に動くことで、ラインナップ全体の厚みを出す狙いがあったと考えられます。

    競合のトヨタを見れば、コロナとマークIIの二段構えで中型車市場をきっちり押さえていました。日産としても、ブルーバードをコロナの真正面だけに置いておくわけにはいかなかったのです。

    加えて、1970年代は排出ガス規制の波が押し寄せ始めた時期でもあります。エンジンの出力を絞らざるを得ない状況で、車としての魅力をどこで出すか。走りのキレだけでは勝負しにくくなる時代に、快適性や質感で勝負する方向は、ある意味で合理的な判断でした。

    デザインと走りの評価は割れた

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    P610のエクステリアデザインは、510の端正さとはかなり趣が異なります。丸みを帯びたボディラインに大型のグリル。好き嫌いが分かれるデザインだったのは確かです。510のシャープさを愛したファンからは「太った」「鈍くなった」という声もありました。

    走りの面でも、大型化と重量増は隠しようがありません。510のSSSが持っていた軽快なハンドリングを期待した層にとっては、やや物足りなさがあったでしょう。もちろんSSSグレードは引き続き設定されており、L18型エンジンとの組み合わせで動力性能自体は向上しています。ただ、「速さ」と「軽快さ」は別物です。P610は速くなったけれど、軽くはなかった。

    一方で、ファミリーユースの観点から見れば、室内の広さや乗り心地の向上は明確な進歩です。後席の居住性、トランク容量、静粛性。こうした実用面での改善は、実際に家族を乗せて走るオーナーには歓迎されました。評価が割れたのは、ブルーバードに何を求めるかによって、見え方がまるで違ったからです。

    「U」へ続く高級化の起点

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    P610の後継として1976年に登場した810型は、さらに高級化を推し進めます。そしてその次の910型(1979年)で「ブルーバードは実用セダンとしての完成度で勝負する車」という路線が定着していきました。つまりP610は、ブルーバードが「走りのセダン」から「上質な中型車」へと軸足を移す、最初の一歩だったわけです。

    後年、U12やU13の世代で「ブルーバードらしさとは何か」が繰り返し問われることになりますが、その問いの原点はP610にあると言ってもいいかもしれません。510が作った「走りのブルーバード」像を手放し、別の価値で勝負すると決めた世代。それがP610です。

    もちろん、大型化と高級化が「正解だったか」は一概には言えません。ただ、1971年という時代に立ってみれば、日産がその選択をした理由は十分に理解できます。マーケットが上を求め、規制が走りを制限し、競合が隙間を埋めてくる。そのなかで、ブルーバードは「大きくなる」と決めた。P610は、その決断が形になった最初の車です。