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  • シルビア – S10【大衆スペシャルティの出発点】

    シルビア – S10【大衆スペシャルティの出発点】

    シルビアという名前を聞いて、多くの人が思い浮かべるのはS13以降のドリフトマシンでしょう。あるいは少し詳しい人なら、初代CSP311の端正なクーペを挙げるかもしれません。

    では、その間にあった「S10型」はどうか。

    正直なところ、影が薄い存在です。

    でも、この車がなければ後のシルビア系譜は成立しなかった。そう言い切れるだけの意味が、このモデルにはあります。

    初代とのつながりは、実はほとんどない

    1965年に登場した初代シルビア・CSP311は、フェアレディ用のシャシーにクリスプカットの美しいボディを載せた、少量生産の高級スペシャルティカーでした。価格は当時のブルーバードの倍近く、わずか554台しか作られていません。要するに、ごく限られた人のための工芸品のような車です。

    そこから約10年の空白を経て、1975年に登場したのが2代目シルビア・S10型です。ただし、初代との技術的な連続性はほぼありません。シャシーもエンジンも設計思想もまるで違う。名前こそ同じ「シルビア」ですが、実質的にはまったく別のプロジェクトから生まれた車です。

    では、なぜ「シルビア」の名が復活したのか。それは日産が、この名前に込められた「スペシャルティ」という響きを、もっと広い層に届けたかったからです。

    サニーベースで「買えるスペシャルティ」をつくる

    S10型の成り立ちを理解するには、まずベースとなった車を知る必要があります。この車のプラットフォームは、B210系サニーのものです。つまり日産のラインナップの中でもかなり下のほう、大衆車のシャシーを使っています。

    エンジンは直列4気筒のL18型、排気量1,770cc。サニーよりは上のクラスのエンジンを積んでいますが、スポーツカーと呼べるほどの出力ではありません。最高出力は105馬力程度で、車重とのバランスを考えれば「そこそこ走る」という水準です。

    ここが重要なポイントです。S10型シルビアは、最初からスポーツカーとして企画されたわけではありません。狙いは、若い層やパーソナルユース志向のユーザーに向けた「ちょっと特別な2ドアクーペ」でした。いわゆるスペシャルティカーというジャンルです。

    1970年代前半、アメリカではフォード・マスタングIIが登場し、「小さくて手頃なスペシャルティ」という市場が明確に存在していました。日本でもトヨタがセリカで先行し、大きな成功を収めていた。日産がこの市場を放置しておくわけにはいかなかったのです。

    北米市場が最大のターゲットだった

    S10型シルビアを語るうえで外せないのが、北米市場の存在です。この車は北米では「ダットサン200SX」として販売されました。むしろ北米での販売が主軸だったと言ってもいいくらいです。

    当時の日産にとって、北米は最も重要な輸出先でした。ダットサンブランドで展開していた小型車群の上に、もう少しパーソナルな選択肢を置きたい。セリカに対抗できるポジションの車が必要だった。S10型シルビアは、まさにその穴を埋めるために生まれています。

    実際、北米での販売台数は日本国内を大きく上回りました。日本市場ではセリカの牙城を崩すには至りませんでしたが、北米ではダットサン200SXとして一定の存在感を確保しています。この「北米主導のスペシャルティ」という構図は、後のS110型やS12型にもそのまま引き継がれていきます。

    デザインと装備の割り切り

    S10型のエクステリアは、1970年代中盤らしいウェッジシェイプの2ドアハードトップです。直線基調でありながら、フロントの処理やリアの絞り込みにはそれなりの個性があります。ただ、同時代のセリカやスカイラインと比べると、デザインの華やかさではやや控えめだったのも事実です。

    インテリアは、当時のスペシャルティカーとしては標準的な仕立てでした。メーターまわりにドライバー志向の演出はありますが、あくまでサニーベースの範囲内で「少し上質に見せる」という方向性です。豪華さで勝負する車ではなく、価格を抑えたうえでの「雰囲気づくり」が主眼でした。

    この割り切りは、良くも悪くもS10型の性格を決定づけています。高級でもなく、速くもない。でも2ドアクーペとしてのスタイルは持っている。まさに「手の届くスペシャルティ」という企画意図がそのまま形になった車です。

    排ガス規制という逆風の中で

    S10型が登場した1975年は、日本の自動車産業にとって非常に厳しい時期でした。昭和50年排出ガス規制、いわゆる「50年規制」への対応が全メーカーに求められていたのです。

    この規制対応のため、エンジンの出力は軒並み低下していました。S10型に搭載されたL18型エンジンも例外ではありません。NAPS(日産排気浄化システム)と呼ばれる排ガス対策が施され、本来のポテンシャルよりも抑えられた状態で市場に出ています。

    つまりS10型は、スペシャルティカーとしての華やかさを求められながら、パワートレインには大きな制約がかかっていた。この矛盾が、当時の評価をやや地味なものにしてしまった一因です。走りの楽しさで語られることが少ないのは、時代の制約によるところが大きいのです。

    系譜の中で果たした役割

    S10型シルビアは、1979年にS110型へバトンを渡します。S110型はより洗練されたデザインと、ターボエンジンの追加によって存在感を増していきました。そしてその先には、S12、S13と続く系譜が待っています。

    S10型が残した最大の遺産は、「シルビア=大衆向けスペシャルティクーペ」という定義を確立したことです。初代CSP311の少量生産・高価格路線ではなく、サニークラスのプラットフォームを使って量産し、若い層に届ける。この方向転換がなければ、後のシルビアの歴史はまったく違ったものになっていたはずです。

    また、北米市場を主戦場として意識した商品企画も、S10型が始めたことです。200SXという名前で海を渡ったこの車の経験が、後の世代の北米展開に直接つながっています。

    華やかな戦績があるわけではありません。カルト的な人気を誇るわけでもない。

    でもS10型シルビアは、シルビアという名前が「特別な少数のための車」から「多くの人が選べるスペシャルティ」へと変わる、その転換点に立っていた車です。

    系譜の起点としての意味は、もっと語られていいはずです。

  • フェアレディZ(Z33)の中古車ガイド【弱点は小物に集中、心臓部は意外と頑丈】

    ロングノーズに3.5リッターV6。2002年に復活した5代目フェアレディZは、今なお「国産FRスポーツに乗りたい」という人の選択肢に入り続けています。

    中古相場は一時の底値から上昇傾向にありますが、それでもこのパワーとスタイリングを考えれば、まだ手が届く部類です。

    ただ、最も新しい個体でも2008年式。

    20年選手に片足を突っ込んだ車と向き合うには、「どこが怖くて、どこはそこまで怖がらなくてよいのか」を事前に整理しておく必要があります。

    結論を先に言えば、Z33の弱点はエンジン本体ではなく、その周辺の補機類と内外装の小物に集中しています。

    そこさえ押さえれば、この車は十分に付き合えます

    まず警戒すべきは「熱」と「樹脂」

    Z33を中古で買うとき、最初に意識してほしいのはエンジンルームの熱害です。3.5リッターV6をタイトなエンジンルームに押し込んだ構造のため、エンジンルーム内の温度が非常に高くなりやすく、センサー類や補機類へのダメージが蓄積されやすい設計になっています。走行不能に直結するような壊れ方をする部品が、この熱の影響を受けている点がZ33の最大の特徴です。

    もうひとつは樹脂部品の経年劣化。ドアハンドル、内装パネル、ラジエーターのタンクなど、Z33では樹脂が使われている箇所の弱さが目立ちます。走行性能には直接関係しないものも含まれますが、中古車としての印象を一気に悪くする不具合がここに集中しています。

    走行不能につながる重めのトラブル

    クランク角・カム角センサーの故障は、Z33で最も怖いトラブルのひとつです。エンジンの回転位置を検知するセンサーで、これが壊れるとエンジンが突然止まる、あるいはかかっても即座にストールするという症状が出ます。10万kmを超えた車両で報告が増えており、前兆なく起きることが多いのが厄介です。予防交換の費用はそこまで高くありませんが、出先で止まるリスクを考えると、購入後早めに手を打ちたい部品です。

    ラジエーター電動ファンの故障も深刻です。Z33にはラジエーターの冷却用に左右2基の電動ファンが付いていますが、片方、あるいは両方が動かなくなる症状がよく見られます。夏場の渋滞でファンが回らなければ、水温は一気に上がります。最悪の場合、オーバーヒートからエンジン本体にダメージが及ぶこともあります。購入前にエアコンを最低温度・最大風量にして、ファンが強制的に回るかどうかを確認するのが簡易的なチェック方法です。

    MT車のクラッチ周りにも注意が必要です。前期型ではクラッチペダルの根元にあるピボットボルトが折れてクラッチが切れなくなるトラブルが知られています。後期型ではクラッチの油圧を伝えるレリーズシリンダーからオイルが漏れ、ペダルが戻らなくなる症状が出ることがあります。いずれも社外品の対策部品が出ていますが、クラッチ周りの修理はミッションを降ろす作業になることが多く、工賃が高くつきます。後期型についてはリコール対象になっている個体もあるので、購入前にリコール対応の履歴を必ず確認してください。

    エアコンのコンプレッサー故障も修理代が重いトラブルです。焼き付きや異音が出た場合、コンプレッサー単体の交換では済まず、配管内の洗浄やエキスパンションバルブの交換など、システム全体の整備が必要になるケースがあります。部品代と工賃を合わせると10万円を超えることも珍しくなく、夏場に効かないエアコンは精神的にもかなりこたえます。

    小さいが印象を確実に悪くする不具合

    ドアの外側ハンドルの破損は、Z33で最も有名な「小さいけれど嫌な不具合」です。ハンドル内部の支点がプラスチック製で、経年劣化で脆くなると、ある日ドアを開けようとした瞬間にポキッと折れます。前兆がほとんどなく、予防も難しい。片側が壊れればもう片方もそう遠くないうちに壊れるパターンが多く報告されています。部品代は片側で1万円以上、両側で2万円台半ばと、ドアを開けるためだけの出費としては地味に痛い。しかも新品に交換しても設計は同じなので、いつかまた壊れる可能性があるというのが精神的に嫌なところです。

    内装のソフトタッチ塗装のベタつきも、Z33の中古車を見たときに真っ先に目に入る劣化ポイントです。中期型以降で特に顕著ですが、スイッチ周りやエアコン吹き出し口、ドアの内側ハンドル付近など、手が触れる場所の塗装が加水分解でネチネチとベタつき、触ると指に黒い塗料カスが付きます。走行には関係ありませんが、同乗者にも不快感を与えるため、中古車としての印象を一気に落とします。社外パネルへの交換や専門業者による再塗装で対処できますが、分解が必要な箇所も多く、手間はそれなりにかかります。

    パワーウインドウの故障も散見されます。窓が上がらない、下がらないという症状で、原因はモーターの劣化であることが多いです。リビルト品の設定がなく中古品も見つかりにくいため、純正新品での交換になりがちで、部品代だけで3万円以上、工賃込みで5万円コースになります。助手席側のウインドウが勝手に開くという報告もあり、放置している人もいますが、雨の日に窓が閉まらないのは実害として大きいです。

    リアハッチのダンパー抜けも定番です。リアハッチ(トランクのガラスゲート)を開けたまま荷物を出し入れしていると、ダンパーのガスが抜けた個体では重いハッチが頭めがけて落ちてきます。寒い時期に症状が悪化しやすく、指を挟めば骨折しかねない重さです。ダンパー自体は社外品も含めて入手しやすく、交換もそこまで難しくありませんが、放置されている個体が多いので現車確認時に必ずチェックしてください。

    三連メーターの液晶欠けも地味に気になるポイントです。センターコンソール上部にある油圧計・電圧計・トリップのデジタル表示部分で、液晶のドット欠けや表示の一部が消える症状が出ることがあります。実用上は大きな問題ではありませんが、Z33のコクピットの象徴ともいえる部分だけに、欠けていると所有満足度が下がります。

    給油口のオープナーボタンの反応が悪くなるという報告も複数あります。連打してようやく開くという状態で、ガソリンスタンドでもたつく程度の話ではありますが、細かいストレスが積もります。

    走行系では、デフマウントブッシュの劣化がZ33特有の弱点として知られています。デフ(後輪に駆動力を伝える装置)を車体に固定しているゴムのブッシュが破れ、中のグリスが飛び出してしまう症状です。サーキット走行をしていない車両でも起きます。Z33のデフは約40kgと重いのに対して固定は3点支持で、このクラスとしてはやや心もとない設計です。放置すると異音や振動の原因になり、最悪の場合はデフ固定ボルトの破断にもつながります。交換費用は6万円前後で、予防的に早めに手を打つのが賢明です。

    逆にここは強い

    エンジン本体の耐久性は、Z33の最大の安心材料です。VQ35DEエンジンは世界的に高い評価を受けたユニットで、オイル管理さえまともにしていれば、エンジン内部が致命的に壊れるという話はほとんど聞きません。高走行車でオイル消費が増える傾向はありますが、通常の街乗り・ロングドライブ用途であれば、エンジンそのものが原因で乗れなくなる心配は小さいです。

    ボディ剛性の高さもZ33の美点です。トランクルーム内にフレームを追加するなど、剛性確保に徹底的にこだわった設計で、20年経った今でもボディのヤレを感じにくいという声が多くあります。この骨格構造の完成度は後継のZ34にも受け継がれたほどで、長く乗っても「ボディがグニャグニャしてきた」という不満が出にくい車です。

    AT(5速オートマ)の信頼性も高い部類です。ジヤトコ製の5速ATは大きなトラブルの報告が少なく、MT車のクラッチ周りのような車種固有の弱点がありません。ATで探している人にとっては、駆動系の心配が少ないのは大きなメリットです。

    足回りの基本設計も優秀です。前後マルチリンク式のサスペンションにはアルミ合金製のアームが使われており、発売当時は世界トップレベルのバネ下重量の軽さを誇っていました。ブッシュ類は経年で劣化しますが、構造そのものが破綻するような弱さはなく、リフレッシュすればしっかり走りが戻ってきます。

    アフターパーツの豊富さも見逃せません。世界中で16万台以上が販売された車種だけに、純正部品・社外部品ともに流通量が多く、修理や整備で部品が見つからないという事態にはなりにくいです。ただし一部の純正部品は値上がり傾向にあるので、早めの確保が吉です。

    現車確認で見るべきポイント

    まずドアハンドルを丁寧に操作して、ガタや遊びがないか確認してください。すでに交換済みであれば、いつ交換したかを聞いておくと安心です。

    内装は、スイッチ周り・エアコン吹き出し口・ドア内側ハンドル付近を指で触ってみてください。ベタつきがあるかどうかは一瞬でわかります。すでに再塗装や社外パネルに交換されている車両は、前オーナーが内装にも気を使っていた証拠として好材料です。

    エンジンをかけたら、アイドリングが安定しているか、始動時にクランキングが異常に長くないかを確認します。冷間時に2000回転付近で回転が不安定になるハンチング症状が出る場合、オイル粘度の問題か可変バルブタイミング機構の不調の可能性があります。

    エアコンを最低温度・最大風量にして、ボンネットを開けた状態でラジエーター電動ファンが2基とも回っているか目視確認してください。片方だけ回っていない個体は要注意です。

    リアハッチを開けて手を離し、自力で開いた状態を保持できるか確認します。ゆっくりでも落ちてくるようならダンパー交換が必要です。

    MT車の場合は、クラッチペダルの踏み心地とペダルの戻りに違和感がないかを確認してください。ペダルが重い、戻りが悪い、踏み込んだときにスカスカする、といった症状があればクラッチ系統の不具合が疑われます。

    タイヤサイズが純正から変更されている場合は、前後の外径比率が純正と大きくずれていないか確認してください。Z33はタイヤの前後外径比率が純正から変わるとABSが誤作動するという既知の問題があり、ホイール交換済みの個体では特に注意が必要です。

    整備記録簿があるかどうかは最重要です。センサー類やファンモーターの交換履歴、クラッチ周りの整備歴が記録に残っている車両は、それだけで安心度が段違いに上がります。

    この車に手を出してよい人、やめた方がよい人

    Z33に向いているのは、「3.5リッターNAのトルク感とFRの走りを、日常の延長で楽しみたい人」です。サーキットでタイムを削るというよりも、ワインディングや高速道路でV6の余裕あるパワーを味わう使い方が、この車の本領です。GTカー的な性格が強いので、コンフォートに寄ったスポーツカーが好きな人にはよく合います。

    ある程度の整備費用を「想定内のコスト」として受け入れられる人にも向いています。購入後にセンサー類やファンモーター、デフマウントブッシュなどを予防交換するリフレッシュ整備を一通りやると、20〜30万円程度は見ておく必要があります。ただ、それを済ませてしまえば、その後は安定して乗れる車です。

    逆にやめた方がよいのは、「買ったらそのまま何も整備せずに乗りたい人」です。20年前後の車である以上、買ってすぐノートラブルで乗り続けられる保証はありません。購入価格が安くても、整備費を含めた総額で考える必要があります。

    また、サーキット走行を前提に考えている人は、Z33の熱問題・ブレーキ容量・ABS誤作動・車重といった特性を十分に理解したうえで判断してください。ストリートやワインディングで楽しむ分には問題ありませんが、本格的なスポーツ走行には相応の追加投資と知識が求められます。

    チューニングカーやカスタム済みの中古車を買う場合は、車検対応の確認と純正部品の残存状況を必ずチェックしてください。社外パーツが付いていても純正部品が手元にない場合、車検時に困る可能性があります。

    結局、Z33は買いなのか

    このクルマはぶっちゃけかなり買いです。

    Z33の弱点は、エンジンやミッションといった心臓部ではなく、その周辺の補機類と内外装の樹脂部品に集中しています。つまり、「壊れると車が終わる」タイプの致命傷ではなく、「直せば済む」タイプの不具合が多い。これは中古スポーツカーとしては、かなり付き合いやすい部類です。

    3.5リッターNAのV6は今の時代に新車で手に入る選択肢がほぼなく、このトルク感と排気音を味わえるだけでも価値があります。ボディ剛性の高さ、足回りの基本設計の良さ、アフターパーツの豊富さも含めて、「長く乗れる素性の良さ」を持った車です。

    狙い目は、整備記録がしっかり残っている中期型(2005年9月〜2006年12月)のVQ35DE搭載車です。前期型の粗削りな部分が改善され、後期型ほど複雑でもないバランスの良い世代です。もちろん、後期型のVQ35HRの高回転の気持ちよさを求めるなら、センサー類が多い分だけ整備コストは上がることを覚悟のうえで選んでください。

    購入価格だけでなく、納車後のリフレッシュ整備費まで含めた総予算を組めるなら、Z33は「かなり買い」の一台です。

    この車の弱点は、愛情と整備で十分にカバーできる範囲に収まっています。

  • フェアレディZ – RZ34【「らしさ」を携えた不死鳥Z】

    フェアレディZ – RZ34【「らしさ」を携えた不死鳥Z】

    フェアレディZが帰ってきた。

    しかも、ほとんどの人が「もう次はないだろう」と思っていたタイミングで。

    2022年に発売された7代目・RZ34は、先代Z34の登場から実に12年以上を経ての刷新です。

    この長すぎるブランクそのものが、このクルマの成り立ちを理解するうえで最大のヒントになります。

    12年の空白が意味すること

    先代のZ34が登場したのは2008年。

    リーマンショックの直前というタイミングでした。その後、日産はEVシフトの旗手としてリーフを世に送り出し、経営資源はグローバル販売台数の拡大と電動化に注がれていきます。

    カルロス・ゴーン体制のもとで、スポーツカーの優先順位が下がったのは想像に難くありません。

    Z34はマイナーチェンジを重ねつつ、北米市場では「370Z」として一定の存在感を保っていました。ただ、プラットフォームもエンジンも基本設計は2000年代のまま。2010年代後半には、さすがに商品力の限界が見えていたのも事実です。

    つまりRZ34は、「作りたくても作れなかった時代」を経て、ようやく実現にこぎつけたモデルです。

    日産の経営が混乱を極めた2018〜2019年を越え、新体制のもとで「Zを絶やさない」という判断がなされた。その背景には、北米でのブランドイメージ維持という極めて現実的な理由がありました。

    新しいのに、懐かしい理由

    RZ34のデザインを初めて見たとき、多くの人が「S30っぽい」と感じたはずです。

    丸みを帯びたヘッドライト、ロングノーズ・ショートデッキのシルエット、リアの処理にはZ32の面影もある。

    これは偶然ではなく、明確な意図のもとに設計されたものです。

    チーフデザイナーの入江慎一郎氏は、歴代Zのアイコンを現代の文法で再構成するというアプローチを取ったと語っています。単なるレトロデザインではなく、「Zらしさとは何か」を分解し、それを新しいプロポーションの中に組み直す作業だったわけです。

    この手法は、ポルシェが911で長年やってきたことに近いとも言えます。ただし日産の場合、Zは世代ごとにデザインの方向性がかなり変わってきた歴史があります。S30、S130、Z31、Z32、Z33、Z34と、統一されたデザインDNAがあったかというと正直怪しい。だからこそRZ34では、あえて初代に立ち返ることで「Zの原点」を再定義しようとした。これはデザイン上の判断であると同時に、ブランド戦略上の判断でもあります。

    VR30DDTTという選択

    パワートレインの核は、3.0リッターV6ツインターボのVR30DDTT。これはインフィニティQ50やQ60にも搭載されているユニットで、RZ34では最高出力405PS、最大トルク475N・mを発生します。先代Z34のVQ37VHRが336PSだったことを考えると、数字上の飛躍はかなりのものです。

    ここで重要なのは、日産があえて新規開発のエンジンを用意しなかったという点です。VR30DDTTは既存のユニットであり、プラットフォームもZ34のFMプラットフォームを改良したものがベースになっています。つまりRZ34は、完全な新設計ではなく、既存資産の高度な再構築によって成立したクルマです。

    これを「手抜き」と見るか「合理的判断」と見るかで、評価は分かれます。ただ、現実問題として、年間数万台規模のスポーツカーのためにゼロからプラットフォームとエンジンを新造するのは、今の日産の経営体力では現実的ではなかった。むしろ、既存の資産をうまく使うことで「Zを存続させる」という判断を下したこと自体に意味があります。

    結果として、VR30DDTTの出力特性はZの性格によく合っています。低回転から太いトルクが立ち上がり、高回転まで気持ちよく回る。ターボのレスポンスも先代のNAほどダイレクトではないにせよ、日常域での扱いやすさは明らかに上です。

    6速MTを残した意志

    RZ34のトランスミッションは、6速MTと9速ATの2本立てです。9速ATはメルセデス・ベンツとの協業で得たユニットで、先代の7速ATから段数も制御も大幅に進化しました。ただ、このクルマの存在意義を語るうえで外せないのは、MTが残されたという事実のほうです。

    2020年代のスポーツカー市場において、MTの設定はもはや当たり前ではありません。トヨタGRスープラも当初はATのみでスタートし、MTは後から追加されました。ポルシェですら、GT3以外のモデルではPDKが主流です。そんな中で、日産がZの新型に最初からMTを用意したのは、「Zとはそういうクルマだ」という宣言にほかなりません。

    田村宏志チーフ・プロダクト・スペシャリストは、開発にあたって「Zはドライバーが主役であるべき」という考えを繰り返し語っていました。MTの存続は、その思想の最もわかりやすい表現です。効率や速さだけを追えばATに軍配が上がる時代に、あえて「操る楽しさ」を選択肢として残した。

    GRスープラという存在

    RZ34の立ち位置を理解するには、同時代の競合を無視するわけにはいきません。最大のライバルは、言うまでもなくトヨタ・GRスープラ(A90)です。

    スープラはBMW Z4とプラットフォームを共有し、直列6気筒ターボのB58エンジンを搭載するという、ある意味で割り切った成り立ちのクルマでした。走りの完成度は高い。ただ、「トヨタが作ったクルマなのか、BMWが作ったクルマなのか」というアイデンティティの議論がずっとつきまとっていたのも事実です。

    対するRZ34は、エンジンもプラットフォームも日産の内製です。借り物ではない。この「自前であること」は、スペックシートには現れないけれど、Zというブランドの純度を保つうえでは決定的に重要なポイントでした。日産のファンがRZ34に感じる安心感の根っこは、おそらくここにあります。

    一方で、シャシーの洗練度やボディ剛性の絶対値では、新設計のスープラに分がある場面もあります。RZ34は改良型プラットフォームゆえの限界を、セッティングの妙で補っている部分がある。このあたりは、試乗した多くのジャーナリストが指摘しているところです。

    価格と入手性という現実

    RZ34の日本での発売は2022年8月。

    価格は524万円からと発表されました。先代Z34の末期が約400万円台だったことを考えると上昇していますが、400PS超のFRスポーツとしては依然として戦略的な価格設定です。GRスープラの6気筒モデルが700万円台であることを考えれば、なおさらです。

    ただし、発売直後から深刻な納車待ちが発生しました。半導体不足やサプライチェーンの混乱に加え、想定以上の受注が重なった結果、一時は新規注文の受付が停止される事態にまでなっています。「買えるけど届かない」という状況は、クルマの商品力とは別の次元でユーザーのフラストレーションを生みました。

    この供給問題は、RZ34が少量生産モデルであるがゆえの構造的な課題でもあります。栃木工場のラインで、GT-Rと並んで生産されるZの台数には物理的な上限がある。

    日産としても、Zの生産を急拡大するインセンティブは薄い。スポーツカーとはそういうビジネスです。

    「存続させた」という最大の功績

    RZ34を冷静に見れば、完全新設計ではないこと、プラットフォームが旧世代の改良であること、電動化の要素がまったくないことなど、「次の時代」を見据えた設計とは言いがたい部分もあります。

    でも、それでいいのだと思います。このクルマの最大の価値は、「FRスポーツカーとしてのZを、2020年代にちゃんと存在させた」ということそのものにあるからです。

    日産がZを終わらせなかったこと。V6ツインターボとMTという組み合わせを、電動化の波の中で世に出したこと。

    歴代のデザインを引用しながら、新しいZの顔をつくったこと。どれも、やらなくても済んだ選択です。それをあえてやった。

    RZ34は、おそらく内燃機関だけで走る最後のフェアレディZになるかもしれません。

    だとすれば、このクルマは「終わり」ではなく、「純粋なガソリンスポーツカーとしてのZの集大成」として記憶されるべき一台です。

    50年以上続いてきたZの系譜が、ここでひとつの到達点を迎えた。そう考えると、12年待った甲斐はあったのではないでしょうか。

  • フェアレディZ – Z32【バブルが本気で作らせた、国産スポーツの到達点】

    フェアレディZ – Z32【バブルが本気で作らせた、国産スポーツの到達点】

    1989年という年は、日本の自動車史において異常な年です。

    R32 GT-R、NA1 NSX、そしてこのZ32型フェアレディZ。国産スポーツカーがほぼ同時に、世界水準を本気で狙いにいった。

    その中でもZ32は、Zという看板を背負いながら「もうGTカーの延長ではいられない」と宣言した、ある意味で最もドラスティックな転換を遂げたモデルでした。

    先代Z31が抱えていた「重さ」

    Z32を語るには、まず先代のZ31型が何だったかを押さえる必要があります。

    Z31は1983年に登場し、V6ターボを搭載した快速GTとして一定の評価を得ました。

    ただ、初代S30から続いてきた「ロングノーズ・ショートデッキ」のプロポーションをそのまま引きずっていたこともあり、車体は大きく、重く、スポーツカーとしてのキレには欠ける面がありました。

    北米市場では「300ZX」として堅実に売れていたものの、ポルシェ944やシボレー・コルベットC4といった競合と比べると、走りの質で語られることは少なかった。

    要するに「速いけど、スポーツカーとしてのブランド力が足りない」という課題を、日産は自覚していたわけです。

    ゼロから描き直す、という決断

    Z32の開発にあたって、日産は明確な方針を打ち出しました。

    先代のプラットフォームを流用しない。これは当時としてはかなり大胆な判断です。通常、スポーツカーのフルモデルチェンジでも基本骨格は共有するのが常識でした。

    しかしZ32では、ホイールベースもトレッドもサスペンション形式もすべて新設計としています。

    開発を率いたのは、当時の第2商品企画室。「ポルシェ911に匹敵するスポーツカーを作る」という目標が掲げられたと伝えられています。バブル期の日産には、それを口にするだけの予算と、実現するだけの技術者がいました。

    プロポーションも一新されました。歴代Zの象徴だったロングノーズを捨て、ワイド&ローのスタンスを優先した。全幅は1,790mmに達し、全高は1,245mmまで下げられています。数字だけ見ると地味に思えるかもしれませんが、1989年の国産車でこの数値は相当に攻めています。当時の日本の道路事情や駐車場規格を考えれば、「国内市場の都合に合わせない」という意志表示でもありました。

    VG30DETTという心臓

    Z32のパワートレインの中核は、VG30DETT。3.0リッターV6にツインターボを組み合わせた、当時の日産が持てる技術を注ぎ込んだユニットです。最高出力は280馬力。これは当時の運輸省による自主規制値の上限にぴったり張りついた数字で、R32 GT-Rと並んで「280馬力時代」の幕を開けたエンジンのひとつです。

    ただし、Z32にはNA(自然吸気)モデルも用意されていました。こちらはVG30DE、同じ3.0リッターV6ながらターボなしで230馬力。このNAモデルの存在は意外と重要です。北米市場ではNAの方が販売の主力であり、ターボに頼らない素性のよさを示す役割を担っていました。

    トランスミッションは5速MTと4速ATが用意されましたが、走りを語る文脈ではやはりMTが主役です。ツインターボ+MTの組み合わせは、当時の試乗記でも「踏んだ瞬間に景色が変わる」と表現されるほどの加速力を見せました。

    足回りと車体設計の本気度

    Z32の走りを語るうえで、エンジン以上に注目すべきはシャシーです。サスペンションは前後ともマルチリンク式を採用。これは当時のスポーツカーとしては先進的な選択で、日産がR32スカイラインの開発で培った技術が直接活かされています。

    さらに上級グレードにはスーパーHICAS(4輪操舵)が装備されました。後輪がわずかに操舵されることで、高速域での安定性とコーナリングの回頭性を両立させる仕組みです。この技術自体は賛否が分かれるもので、「電子制御が介入しすぎる」という声もありました。ただ、当時の日産がスポーツカーの操縦性を電子制御で底上げしようとしていた姿勢は、後のスポーツカー開発に確実に影響を与えています。

    ブレーキも本格的でした。フロントに対向4ポットキャリパーを奢り、リアにも対向2ポットを採用。この制動系の充実ぶりは、同時代の国産スポーツカーの中でもトップクラスです。「止まる」ことへの投資を惜しまなかった点に、開発陣の本気度が見えます。

    評価されたこと、されなかったこと

    Z32は北米市場で高い評価を受けました。米国の自動車メディア『Motor Trend』は1990年の「インポート・カー・オブ・ザ・イヤー」にZ32を選出しています。ポルシェやBMWと真正面から比較されて勝ったという事実は、日産にとって大きな勲章でした。

    一方で、国内市場での評価はやや複雑です。車両重量は1,500kgを超え、ツインターボの2シーターでも約1,530kg。280馬力という数字は華やかですが、パワーウェイトレシオではR32 GT-Rに及ばず、軽量スポーツとしてのキレを求める層には「重い」と映りました。

    価格も課題でした。ツインターボの2by2で約400万円台後半。バブル期とはいえ、国産スポーツカーとしてはかなり高価格帯に位置しており、R32 GT-Rやスープラ(A70後期〜A80)との競合の中で、Z32は「ラグジュアリー寄りのスポーツ」というポジションに落ち着いていった感があります。

    もうひとつ、Z32の弱点として語られがちなのが整備性です。3.0リッターV6ツインターボをあのコンパクトなエンジンルームに押し込んだ結果、プラグ交換すら困難という状況が生まれました。これはオーナーの間では半ば伝説化しており、「Z32のプラグ交換はインテークマニホールドを外すところから始まる」という話は、冗談ではなく事実です。

    長すぎた現役生活

    Z32は1989年に登場し、2000年まで生産が続きました。11年間です。これは歴代Zの中でも最長であり、途中で何度かのマイナーチェンジを受けたものの、基本設計は最後まで1989年のままでした。

    なぜこれほど長寿になったのか。理由は明快で、バブル崩壊後の日産に後継車を開発する体力がなかったからです。1990年代後半の日産は深刻な経営危機に陥っており、スポーツカーの新規開発どころではありませんでした。結果的にZ32は、日産が最も元気だった時代の遺産を、最も苦しい時代まで引きずり続けることになったわけです。

    2000年に生産終了を迎えた後、フェアレディZの名前は一度途絶えます。復活するのは2002年のZ33型。カルロス・ゴーン体制下で「Zを復活させる」という経営判断がなされ、北米市場を強く意識した新型として蘇りました。Z33がZ32から何を引き継ぎ、何を捨てたかを見ると、Z32という車の功罪がより鮮明に浮かび上がります。

    バブルの夢、ではなく到達点

    Z32を「バブルの産物」と片づけるのは簡単です。実際、あの時代の潤沢な予算がなければ、ここまでの作り込みは不可能だったでしょう。ただ、Z32が示したのは単なる贅沢ではなく、日本のスポーツカーが世界基準で設計される時代が来たという事実でした。

    ポルシェと比較されること自体が、それ以前のZでは考えられなかった。Z32はその土俵に立つことを自らに課し、少なくとも部分的にはそれを達成しました。エンジン、シャシー、ブレーキ、空力。どれかひとつが突出しているのではなく、全方位的に水準を引き上げたところに、このモデルの本質があります。

    バブルが弾けた後、日本の自動車メーカーは長い間スポーツカーに本気の投資をしなくなりました。

    Z32は、その「本気の時代」の最後の空気を閉じ込めたタイムカプセルのような車です。

    だからこそ、30年以上経った今でも、この車を語る人の声には熱がこもるのでしょう。

  • フェアレディZ – Z33【10年の沈黙を破った、復活のZ】

    フェアレディZ – Z33【10年の沈黙を破った、復活のZ】

    フェアレディZが「死んだ」時代があったことを、覚えている人はどれくらいいるでしょうか。

    1996年にZ32型が生産を終了してから、次のZが出るまでおよそ6年。

    その間、日産自体が経営危機に陥り、ルノーとの提携を経てようやく息を吹き返すという、メーカーの存亡に関わるドラマがありました。

    Z33は「Zを復活させる」という行為そのものが、日産の再生を象徴するプロジェクトだったのです。

    なぜZは一度消えたのか

    Z32型フェアレディZは、1989年に登場した時点ではまぎれもなく先進的なスポーツカーでした。

    ツインターボのVG30DETT、4輪マルチリンクサスペンション、Tバールーフ。

    ただ、世代を重ねるごとに車重は増え、価格も上がり、初代S30が持っていた「手の届くスポーツカー」という本質からはどんどん遠ざかっていきました。

    加えて、1990年代半ばの日産は深刻な経営不振のさなかにありました。

    スポーツカーに開発リソースを割く余裕などなく、Z32は改良もほとんどないまま長期間販売され、1996年に北米向け、2000年に国内向けが生産終了。フェアレディZという名前は、カタログから消えました。

    つまりZが消えた理由は、商品としての魅力が薄れたことと、メーカー自体の体力が尽きたことの二重苦です。

    Zの復活には、その両方を同時に解決する必要がありました。

    ゴーンが「やる」と決めた意味

    1999年、日産の最高執行責任者に就任したカルロス・ゴーンは、リバイバルプランの中で大規模なコスト削減と車種整理を断行します。多くの不採算モデルが切られる中、Zの復活はむしろ「やるべきプロジェクト」として位置づけられました。

    ゴーンがZの復活を決断した背景には、明確なビジネス上の理由があります。北米市場において、フェアレディZは日産ブランドの象徴であり、ディーラーネットワークの求心力そのものでした。

    Zがない日産は、アメリカでは「顔のないメーカー」に等しかったのです。

    ゴーン自身も後に「Zは日産のDNAそのものだ」と語っています。

    この発言は単なるリップサービスではなく、ブランド再建の戦略としてZが不可欠だったことを示しています。経営者が「このクルマは必要だ」と判断したからこそ、経営再建の真っ只中でも開発GOが出た。

    ここがZ33の出発点です。

    FMプラットフォームという選択

    Z33の開発で最も重要な技術的決定は、新開発のFMプラットフォームを採用したことです。

    FMとはフロントミッドシップの略で、エンジンをフロントアクスルより後方に搭載することで前後重量配分を最適化する設計思想を指します。このプラットフォームはV35スカイライン(北米名インフィニティG35)と共有されています。

    ここが面白いところで、Z33はスカイラインとプラットフォームを共有しながら、ホイールベースを100mm短縮しています。

    V35のホイールベースが2,850mmなのに対し、Z33は2,750mm。この短縮によって、セダンベースの鷹揚さではなく、スポーツカーとしての凝縮感と回頭性を確保しました。

    プラットフォーム共有はコスト面でも合理的でした。

    経営再建中の日産が、Zのためだけに専用シャシーを新規開発する余裕はありません。ただし、共有しつつもスポーツカーとしての本質を損なわないよう、ホイールベースやサスペンションジオメトリーはきちんと専用設計されています。

    「使えるものは使う、でも妥協はしない」というバランス感覚が、Z33の骨格には宿っています。

    VQ35DEという心臓

    搭載エンジンは3.5リッターV型6気筒自然吸気のVQ35DE。

    最高出力は初期型で280ps(当時の国内自主規制値上限)、最大トルクは363N・m。Z32の後期ターボモデルと比較すると、ターボを捨てて自然吸気に回帰したことが大きな違いです。

    なぜターボを捨てたのか。これにはいくつかの理由が重なっています。まず、VQ型エンジンは日産が1990年代半ばから量産してきた主力ユニットであり、信頼性と生産効率の面で圧倒的な実績がありました。専用のターボエンジンを新規開発するよりも、熟成されたVQをベースにする方が合理的だったのです。

    もうひとつ重要なのは、Z33が目指した走りの方向性です。ターボ特有のドッカンとしたパワーデリバリーではなく、アクセル操作に対してリニアに応答する自然吸気のフィーリング。これは初代S30型Zが持っていた「素直に走る楽しさ」への原点回帰でもありました。

    2005年のマイナーチェンジでは、VQ35DEの改良型であるRev-Up仕様が投入され、最高出力は294psに向上。さらに2007年のモデル後期にはVQ35HRへと換装され、最高出力は313psに達しています。段階的にエンジンを進化させていったあたりに、日産がこのモデルを長く育てる意志を持っていたことが読み取れます。

    デザインに込められた「原点回帰」

    Z33のエクステリアデザインを担当したのは、日産のデザインチームです。ロングノーズ・ショートデッキという古典的なFRスポーツカーのプロポーションを明確に打ち出しつつ、S30型Zのモチーフを現代的に再解釈したデザインが採用されました。

    特にヘッドライトの造形は、S30のそれを強く意識しています。Z32が当時のトレンドに沿ったフラッシュサーフェスのデザインだったのに対し、Z33はあえて「Zらしさとは何か」を形にしようとしました。これはデザイン上の懐古趣味ではなく、ブランドのアイデンティティを視覚的に再定義するという、きわめて戦略的な判断です。

    インテリアも同様に、ドライバーオリエンテッドな設計が徹底されています。センターコンソールがドライバー側に傾斜した3連メーターのレイアウトは、S30以来のZの伝統を受け継いだものです。こうした「記憶の中のZらしさ」を随所に配置することで、新しいクルマでありながら「これはたしかにZだ」と感じさせる仕掛けが施されていました。

    北米での成功と、日本市場の温度差

    Z33は2002年7月に日本で、同年8月に北米で発売されました。北米での販売名は「350Z」。価格は北米で約26,000ドルからと、ポルシェ・ボクスターやBMW Z4よりも大幅に安い設定でした。これは初代S30型が北米で成功した理由──「高性能なのに手が届く」──をそのまま再現する価格戦略です。

    結果、350Zは北米で大ヒットしました。発売初年度から販売目標を上回り、日産ディーラーに客足を呼び戻す効果は絶大でした。ゴーンの読みは正しかったのです。

    一方で、日本市場での反応はやや温度差がありました。国内価格は約315万円からで、決して安くはありません。また、2002年当時の日本はスポーツカー氷河期の真っ只中。若者のクルマ離れが叫ばれ始めた時期であり、Z33が国内で爆発的に売れたとは言いがたい状況でした。

    ただ、これはZ33の商品力の問題というよりも、市場環境の問題です。日本ではスポーツカーそのものの居場所が狭くなっていた時代に、Z33はむしろ「それでもスポーツカーを作り続ける」という日産の意志表明として存在していたと見るべきでしょう。

    Zを「再起動」した一台

    Z33が残したものは、単に「フェアレディZの新型を出した」ということにとどまりません。このクルマは、経営危機を乗り越えた日産が「自分たちは何のメーカーなのか」を問い直した結果として生まれています。

    S30の精神に立ち返り、手の届くFRスポーツカーとしてのZを再定義したこと。ターボではなく自然吸気を選び、素直な走りの楽しさを優先したこと。プラットフォーム共有でコストを抑えながらも、スポーツカーとしての骨格は妥協しなかったこと。これらすべてが、「限られたリソースの中で最善のZを作る」という覚悟の産物です。

    後継のZ34は2008年に登場し、さらにその先のRZ34(新型Z)は2022年に発売されました。どちらもZ33が敷いた「原点回帰」の路線を引き継いでいます。つまり、現在に至るZの方向性を決定づけたのがZ33だったということです。

    10年の空白を経て復活したZは、ノスタルジーの産物ではありませんでした。

    それは、メーカーの再生とブランドの再定義が重なった、きわめて実践的な一台だったのです。

  • フェアレディZ – Z31【スポーツカーが「快適」を選んだ転換点】

    フェアレディZ – Z31【スポーツカーが「快適」を選んだ転換点】

    フェアレディZの歴史を語るとき、Z31はどうしても微妙な位置に置かれがちです。

    初代S30の伝説、Z32の華やかな復活。

    その間に挟まれた3代目は、語られる機会が少ない。

    でも、このモデルが担った役割を知ると、Zという車種の進化がぐっと立体的に見えてきます。

    1983年、Zが変わらなければならなかった理由

    Z31が登場したのは1983年。

    先代のS130型は、初代S30の正常進化として1978年にデビューしていましたが、正直なところ設計思想はS30の延長線上にありました。

    直列6気筒のL型エンジンを積み、ロングノーズ・ショートデッキの古典的なプロポーションを守る。それ自体は悪いことではありませんが、時代は確実に動いていました。

    1980年代に入ると、ポルシェ924/944が示した「快適に速いスポーツカー」という方向性が市場の空気を変えつつありました。

    アメリカ市場では、Zの最大の顧客層が「若者」から「少し余裕のある大人」にシフトしていた。つまり、荒削りなスポーツカーではなく、長距離を快適に走れるGTスポーツが求められていたのです。

    日産がZ31で大きく舵を切った背景には、この市場の変化があります。単に「丸くなった」のではなく、売れる場所で売れる形を模索した結果でした。

    V6への転換という決断

    Z31最大のトピックは、エンジンです。

    歴代Zの象徴だった直列6気筒を捨て、新開発のVG型V6エンジンを搭載しました。VG30E(3.0L・自然吸気)とVG30ET(3.0L・ターボ)の2本立てで、日本仕様には2.0LのVG20ET・ターボも用意されています。

    なぜV6だったのか。理由は明快で、エンジン全長の短縮です。直列6気筒はどうしても全長が長くなり、フロントオーバーハングが伸びる。V6にすればエンジンをコンパクトに収められ、重量配分の改善とノーズの短縮が同時に実現できます。実際、Z31はS130に比べてフロントオーバーハングが短くなり、見た目にもシャープな印象になりました。

    ただ、この判断はZファンの間で議論を呼びました。L型直6の「回して気持ちいい」フィーリングに惚れ込んでいた層にとって、VG型V6はどこかそっけなく感じられた。エンジンの性格としては、低回転からトルクが太く扱いやすい反面、高回転域の伸びやかさでは直6に一歩譲る、という評価が一般的です。

    ここは好みの問題でもありますが、日産としては「より多くの人が日常的に速さを感じられるエンジン」を選んだ、ということでしょう。スポーツカーの快適化という大方針と、エンジン選択は完全に一致していました。

    デザインの冒険と、時代の空気

    Z31のエクステリアデザインは、歴代Zの中でもかなり攻めた部類に入ります。特徴的なのはセミリトラクタブルヘッドライト。完全に格納するリトラクタブルではなく、パラレルライズ式と呼ばれる、ライトユニットが少しだけ持ち上がる方式を採用しました。

    このデザインは当時の空力志向を反映したものです。1980年代前半は、自動車デザイン全体がウェッジシェイプ——くさび形のシャープなラインに傾倒していた時期。Z31のフラットなノーズと鋭角的なフェンダーラインは、まさにその時代の最先端でした。Cd値(空気抵抗係数)は0.31を達成しており、当時のスポーツカーとしてはかなり優秀な数字です。

    ただし、S30が持っていた「色気」とは明らかに方向が違います。Z31のデザインは理知的で、どちらかというとクールで無機質。これもまた評価が分かれるポイントですが、1980年代半ばという時代を考えれば、この選択には十分な合理性がありました。

    走りの性格——GTとスポーツの間で

    Z31のシャシーは、フロントがストラット、リアがセミトレーリングアームという構成。先代からの大きな刷新とは言いにくいですが、ボディ剛性の向上や足まわりのセッティング変更で、高速域での安定性は明確に進化しています。

    特にターボモデルの加速性能は当時としてはかなりのもので、VG30ETは230ps(日本仕様)を発生。0-400mは14秒台半ばと、国産スポーツカーのトップクラスに位置していました。1986年のマイナーチェンジでは日本仕様にもフルスケールの3.0Lモデルが追加され、商品力をさらに強化しています。

    一方で、車重は1,300kg台後半から1,400kg台に達しており、S30時代の軽快さとは無縁です。ステアリングのダイレクト感やコーナリング時の一体感よりも、直進安定性や乗り心地を重視したセッティングが施されていました。まさに「速いGT」であり、「鋭いスポーツカー」ではない。この性格を好むかどうかで、Z31への評価は大きく分かれます。

    北米市場での成功と、日本での複雑な立ち位置

    Z31が最も輝いたのは、間違いなく北米市場です。300ZXの名前で販売されたZ31は、アメリカのGTカー市場で確固たる地位を築きました。快適な室内、十分な動力性能、そして日本車ならではの信頼性。これらが組み合わさって、ポルシェやコルベットに手が届かない層の受け皿として機能したのです。

    しかし日本では事情が異なりました。1980年代後半に向けて国内スポーツカー市場は急速に活気づき、ライバルたちがどんどん先鋭化していきます。トヨタ・スープラ(A70)、マツダ・RX-7(FC3S)といった強力な競合が登場し、Z31の「快適寄り」の性格はやや中途半端に映ることもありました。

    特にFC3Sの登場は痛かった。ロータリーエンジンの独特な回転フィールと、1,200kg台の軽量ボディが生み出す俊敏さは、Z31にはないものでした。日産社内でも「次のZはもっとスポーツに振らなければ」という空気が醸成されていったと言われています。

    Z32への橋渡しとして

    Z31の生産は1989年まで続きました。後継のZ32は、まるでZ31への反省のように、「官能性」と「走りの質」を全面に押し出したモデルとして登場します。ツインターボ化されたVG30DETT、ワイド&ローのプロポーション、マルチリンクサスペンション。Z32が「スポーツカーとしてのZ」を取り戻したと評価されたのは、裏を返せば、Z31がその路線から一歩離れていたことの証でもあります。

    ただ、Z31がなければZ32は生まれなかった。

    これは単に時系列の話ではありません。Z31がV6エンジンへの転換を果たしたからこそ、Z32でVG30DETTという傑作エンジンが実現した。

    Z31が北米市場でZブランドの存在感を維持したからこそ、Z32に巨額の開発投資が認められた。地味に見えるかもしれませんが、Z31はZの系譜を途切れさせなかった、という点で決定的な役割を果たしています。

    Z31は、スポーツカーが「速さ」だけでは売れなくなった時代に、Zというブランドをどう存続させるかという問いに対する、日産なりの回答でした。

    その答えが100点だったかどうかは議論の余地がありますが、少なくとも的外れではなかった。

    快適さを選んだことで失ったものはあるけれど、守ったものも確かにあった。そういう車です。

  • フェアレディZ – Z34【6年の沈黙を経て、Zは身軽になった】

    フェアレディZ – Z34【6年の沈黙を経て、Zは身軽になった】

    フェアレディZが一度、消えたことがある。正確には「消えた」というより「出せなくなった」と言ったほうが近いかもしれません。

    1990年代後半、日産は深刻な経営危機のさなかにあり、スポーツカーを作り続ける余裕などなかった。

    Z32型の生産終了が2000年。そこから次のZが出るまで、実に6年の空白がありました。

    2008年に登場したZ34型は、その沈黙のあとに生まれた「復帰作の、さらに次」です。

    つまり、ただの新型ではなく、Zというブランドをどう再定義するかという問いへの、日産なりの二度目の回答でした。

    Z33が残した宿題

    Z34を語るには、まず先代のZ33に触れないわけにはいきません。2002年に登場したZ33は、カルロス・ゴーン体制下の日産リバイバルプランの象徴的モデルでした。「Zを復活させる」というメッセージは強烈で、ブランド再生の旗印としては見事に機能しました。

    ただ、クルマとしての評価は少し複雑です。プラットフォームはFMパッケージと呼ばれるスカイラインと共用の設計で、ホイールベースは2,650mm。これはスポーツカーとしてはやや長い。車重も1,500kgに迫り、「軽快に走る」というよりは「パワーで押し切る」タイプのGT寄りの性格でした。

    もちろんそれが悪いわけではありません。ただ、Zの名を冠するクルマとしては「もう少し身軽であってほしい」という声が、発売当初からずっとあった。Z34の開発は、まさにこの宿題に向き合うところから始まっています。

    100mm短くした意味

    Z34の最大のトピックは、ホイールベースをZ33比で100mm短縮して2,550mmにしたことです。

    数字だけ見ると地味に思えるかもしれませんが、これはかなり大きな決断でした。同じFMプラットフォームを使いながら、わざわざホイールベースを詰めている。共用化でコストを下げたいのが本音の自動車メーカーにとって、専用設計に近い変更を加えるのは簡単な判断ではありません。

    当時の開発陣は「Zらしい俊敏さを取り戻す」ことを明確に掲げていました。ホイールベースの短縮は回頭性に直結します。ノーズの入り方、コーナーでの身のこなし、ドライバーの操作に対する応答の速さ。そういった感覚的な部分を変えるために、100mmを削った。

    全長も4,250mmとZ33より短くなり、全体のプロポーションがぎゅっと凝縮されました。見た目にも「短く、低く、幅広い」印象が強まり、スポーツカーとしての存在感がはっきりしています。

    VQ37VHRという選択

    エンジンはVQ37VHR型の3.7リッターV6自然吸気。最高出力336PS、最大トルク365Nm。Z33後期の3.5リッターVQ35HRから排気量を拡大し、VVELと呼ばれる連続可変バルブリフト機構を新たに採用しました。

    VVELは吸気バルブのリフト量を無段階に制御する技術で、スロットルバルブに頼らずに吸入空気量を調整できます。要するに、アクセル操作に対するエンジンの反応がダイレクトになる。低回転域のトルクを確保しつつ、高回転まで気持ちよく回る特性を両立させるための仕掛けです。

    この時代、ターボ化の流れはすでに始まっていましたが、Z34はあえて自然吸気を選んでいます。レスポンスの良さ、リニアなパワーの出方、そしてZらしいフィーリングを優先した結果でしょう。7,000rpm超まで回るエンジンの伸びやかさは、ターボとは違う種類の快感があります。

    走りの質感と、GT的な懐の深さ

    Z34の走りは、先代と比べて明らかにシャープになりました。ホイールベース短縮の効果は大きく、特にワインディングでの身のこなしは別物です。ステアリングを切った瞬間のノーズの反応が早く、ドライバーの意図とクルマの動きの間にあったわずかなズレが小さくなっている。

    一方で、完全なピュアスポーツかというと、そこは少し違います。車重は依然として1,480〜1,540kg程度あり、ロータスやポルシェ・ケイマンのような軽さとは別の世界にいます。ただ、これは欠点というより性格の問題です。Z34は高速巡航も快適にこなせるGT的な懐の深さを持っていて、長距離を走っても疲れにくい。日常使いとスポーツ走行を一台で両立させるという、Zの伝統的な立ち位置をきちんと守っています。

    トランスミッションは6速MTと7速ATの二本立て。7速ATはマニュアルモードでのシフトレスポンスも悪くなく、ATでスポーツカーに乗るという選択肢をきちんと成立させていました。MTのシフトフィールは世代を追うごとに改善され、シンクロレブマッチと呼ばれる自動ブリッピング機能も搭載。これは賛否が分かれましたが、「MTに乗りたいけどヒール&トゥは苦手」という層の間口を広げる意味がありました。

    13年売り続けた異例のロングセラー

    Z34は2008年のデビューから2022年の生産終了まで、実に13年以上にわたって販売されました。途中で何度かの年次改良はあったものの、フルモデルチェンジは行われていません。これは現代の自動車としてはかなり異例の長寿命です。

    背景にはいくつかの事情があります。まず、日産自身の経営状況が再び厳しくなり、スポーツカーの後継開発に十分なリソースを割けなかったこと。そして、排ガス規制や安全基準の強化に対応しながら既存モデルを延命させる必要があったこと。Z34が長く売られたのは、人気があったからというだけでなく、次を出す余裕がなかったからでもあります。

    ただ、裏を返せば、13年間売り続けられるだけの基本設計の良さがあったとも言えます。デザインは年月を経ても古びにくく、VQ37VHRの動力性能も最後まで第一線で通用するレベルでした。ニスモバージョンでは350PSまで引き上げられ、足回りもさらに締め上げられています。

    Zの系譜における位置づけ

    Z34は、初代S30から数えて6代目にあたります。S30が切り拓いた「手の届くスポーツカー」という思想は、時代ごとに解釈を変えながら受け継がれてきました。Z34の場合、それは「肥大化したZを、もう一度スポーツカーの方向に引き戻す」という仕事だったと言えます。

    後継のRZ34型、つまり現行Zが2022年に登場した際、エンジンはついにV6ツインターボへと切り替わりました。Z34の自然吸気V6は、Zの歴史の中で最後のNA大排気量エンジンということになります。環境規制の流れを考えれば、この先同じようなエンジンが載ることはまずないでしょう。

    Z34は派手な革新を打ち出したクルマではありません。

    プラットフォームは先代の改良型だし、エンジンもVQファミリーの延長線上にある。けれど、100mmのホイールベース短縮に象徴されるように、「何を削り、何を残すか」という判断の精度が高かった。

    限られたリソースの中で、Zらしさとは何かを問い直し、きちんと形にした一台です。

    それが13年間、多くのオーナーに選ばれ続けた理由なのだと思います。

  • フェアレディZ – S30【日本車が世界を驚かせた最初の一撃】

    フェアレディZ – S30【日本車が世界を驚かせた最初の一撃】

    1969年、日産がひとつの車を世に出します。

    フェアレディZ、型式S30。

    この車が何を変えたかというと、「日本車がスポーツカーの世界で本気で戦える」という事実を、世界に突きつけたことです。

    それも、理屈や技術論ではなく、圧倒的な販売台数という形で。

    ジャガーを半額で買えるという衝撃

    S30が登場した1969年、北米のスポーツカー市場にはジャガーEタイプやポルシェ911といった名車がひしめいていました。

    どれも魅力的ですが、どれも高い。

    当時の北米の若者やスポーツカー好きにとって、「速くてカッコいい車が欲しいけど手が届かない」というのはごく普通の悩みだったわけです。

    そこにフェアレディZが3,526ドルという価格で投入されます。ジャガーEタイプの約半額。ポルシェ911と比べても大幅に安い。

    しかもロングノーズ・ショートデッキのスタイリングは欧州GTに引けを取らない。これは衝撃でした。

    北米では「Datsun 240Z」の名で販売され、発売直後からバックオーダーが積み上がったといいます。

    片山豊という存在

    S30の誕生を語るとき、避けて通れない人物がいます。

    米国日産の社長だった片山豊(ミスターK)氏です。

    片山氏は北米市場で「日本製の本格スポーツカーを売りたい」という強い信念を持っていました。先代にあたるフェアレディ(SP/SR型)はオープンボディの小型スポーツでしたが、北米では「もっとパワーがあって、もっとGTらしい車が欲しい」という声が大きかった。

    片山氏は本社に対して、繰り返しクローズドボディのGTカーの必要性を訴えます。

    当時の日産社内では「スポーツカーなんて売れるのか」という慎重論も根強かったとされますが、片山氏の熱意と北米市場のデータが後押しとなり、プロジェクトが動き始めます。

    デザインを手がけたのは松尾良彦氏を中心とするチームです。

    ロングノーズに流れるようなファストバックライン。このプロポーションは当時の欧州GTの文法を踏まえつつ、日産独自の解釈を加えたものでした。

    よく「ジャガーEタイプに似ている」と言われますが、実際にはホイールベースとオーバーハングのバランスが異なり、より凝縮感のあるシルエットになっています。

    直6エンジンという選択

    S30の心臓部に据えられたのは、L20型およびL24型の直列6気筒SOHCエンジンです。

    国内向けのS30には2.0リッターのL20が、北米向けの240Zには2.4リッターのL24が搭載されました。

    L24は最高出力151馬力。数字だけ見れば飛び抜けたパワーではありませんが、車両重量が約1,000kgと軽量だったため、パワーウェイトレシオは十分に優秀でした。

    なぜ直列6気筒だったのか。これは日産がセドリックやスカイラインで培ってきたL型エンジンの資産を活用できるという実利的な理由が大きい。専用エンジンを新開発するのではなく、既存の信頼性あるユニットを最適にチューニングして載せる。このアプローチが、結果的にS30の「安くて壊れにくい」という美点につながっています。

    足回りはフロントがストラット、リアがセミトレーリングアームという構成。当時としてはオーソドックスですが、しっかりとチューニングされており、ワインディングでの操縦性は高く評価されました。とくに北米のモータージャーナリストたちが「この価格でこのハンドリングは信じがたい」と書いたことが、240Zの評判を一気に押し上げます。

    売れすぎた車の功罪

    240Zは北米で爆発的に売れました。初年度から供給が追いつかず、ディーラーには長い待ちリストができたといいます。最終的にS30系(240Z/260Z/280Zを含む)は北米だけで50万台以上を販売。日本車のスポーツカーとしては前例のない数字です。

    ただ、この成功には副作用もありました。売れすぎたがゆえに、モデルライフの後半では排ガス規制への対応と市場の要求に引っ張られ、車は徐々に重く、マイルドになっていきます。1974年の260Z(L26搭載)、1975年の280Z(L28搭載)と排気量は上がりましたが、これは規制対応でパワーが落ちた分を排気量で補う側面が強かった。

    とくに280Zの時代になると、インジェクション化や安全装備の追加で車両重量は初期型から100kg以上増加しています。「初期の240Zが一番良かった」という声は、こうした変化への反動でもあります。ただし公平に見れば、280Zは快適性と信頼性では初期型を上回っており、「GTとしての完成度」は着実に上がっていました。

    レースでも証明された実力

    S30はサーキットでも結果を残しています。北米のSCCA(スポーツカークラブ・オブ・アメリカ)のCプロダクションクラスでは、240Zが1970年から1974年まで5年連続でチャンピオンを獲得。プライベーターにとっても扱いやすく、パーツが安く手に入り、チューニングの幅が広い。この「レースでも使える実用性」が、S30のブランド価値をさらに高めました。

    サファリラリーでも240Zは活躍しています。1971年と1973年に総合優勝を果たしており、耐久性の高さを過酷な環境で証明しました。スポーツカーとしての速さだけでなく、「壊れない」という信頼。これは当時の欧州スポーツカーにはなかなか真似できない強みでした。

    日本車の「ここから」を作った車

    S30の意義は、単に「売れたスポーツカー」という枠には収まりません。

    この車が証明したのは、日本のメーカーが欧州の伝統的なスポーツカー市場に対して、価格と品質のバランスという武器で真正面から切り込めるということでした。

    後継のS130、Z31、Z32、Z33、Z34、そして現行のRZ34に至るまで、フェアレディZというシリーズは50年以上にわたって続いています。その起点にあるのがS30です。

    Zという名前が世界中で通じるのは、この初代が築いた信頼と記憶があるからにほかなりません。よく「名車」と呼ばれる車がありますが、S30の場合、それは懐古趣味だけで語られるべきものではないでしょう。

    安くて、速くて、美しくて、壊れない。

    その4つを同時に成立させたことが、この車の本当の凄みです。しかもそれを、1969年の日本のメーカーがやってのけた。

    S30フェアレディZは、日本の自動車産業が世界と対等に渡り合えることを最初に示した車のひとつです。

  • フェアレディZ – S130【Zが世界戦略車として完成した第2章】

    フェアレディZ – S130【Zが世界戦略車として完成した第2章】

    初代S30型フェアレディZが残したものは、販売台数だけではありませんでした。

    「日本車でもスポーツカーが作れる」という事実を世界に証明したこと。それ自体が、次の世代にとっては祝福であると同時に、とんでもなく重い宿題だったわけです。

    S130型フェアレディZは、その宿題にどう答えたのか。結論から言えば、この車は「もっと速く」ではなく「もっと広く届ける」ほうに舵を切りました。

    S30の後継という重荷

    1978年に登場したS130型フェアレディZは、初代S30の正統後継モデルです。

    S30は1969年のデビューから約10年間で、北米だけで50万台以上を売り上げた化け物でした。日産にとってZは単なるスポーツカーではなく、北米市場における最大のブランド資産だったのです。

    ただ、1970年代後半の自動車業界は、S30が生まれた頃とはまるで違う風景になっていました。排ガス規制の強化、安全基準の厳格化、そして1973年のオイルショック以降に根付いた燃費意識。スポーツカーにとっては逆風しか吹いていない時代です。

    そのうえ、北米のユーザー層が変わっていました。S30を買った人たちは、10年経ってもう少し大人になっている。家族が増えた人もいれば、快適性を求めるようになった人もいる。「次のZは、あの頃の興奮をそのまま再現すればいい」という単純な話ではなかったのです。

    設計思想の転換点

    S130の開発にあたって日産が選んだ方向性は、GTカー寄りへのシフトでした。

    ホイールベースを延長し、室内空間を広げ、乗り心地を改善する。S30が持っていたライトウェイトスポーツ的な身軽さよりも、長距離を快適に走れるグランドツアラーとしての性格を前面に出したのです。

    これは妥協ではなく、明確な戦略でした。北米市場で「2シーターのスポーツカー」として戦い続けるには、コルベットやポルシェ924といった競合と正面からぶつかることになる。日産が選んだのは、価格と快適性のバランスで独自のポジションを築く道でした。

    S130では2シーターに加えて、2by2(2+2)と呼ばれる4座仕様が大きな柱になっています。後席は実用的とは言い難いものの、「スポーツカーだけど後ろにも人が乗れる」という事実が、北米の購買層には強く響きました。実際、北米での販売比率は2by2のほうが高かったとされています。

    エンジンと走りの実像

    パワートレインは、国内仕様ではL20E型の直列6気筒2.0Lが基本で、上級グレードにL28E型の2.8Lを搭載。

    北米仕様はL28E型が標準でした。いずれもSOHCの直列6気筒で、S30時代からの系譜を引き継いでいます。

    ただし、排ガス規制対応のために出力は抑えられていました。とくに北米仕様のL28E型は、触媒や各種デバイスの追加で本来のポテンシャルをフルに発揮しているとは言い難い状態です。当時のカー雑誌でも「もう少しパンチが欲しい」という声は少なくありませんでした。

    この状況を大きく変えたのが、1982年に追加されたL20ET型ターボエンジン搭載モデルです。国内仕様で145馬力。数字だけ見れば控えめですが、当時の国産スポーツカーにとってターボの搭載は大きなニュースでした。日産はこのZターボで、規制時代のパワーダウンを技術で取り返しにかかったのです。

    北米向けにもターボモデルは投入され、こちらはZXターボとして展開されました。ブーストがかかったときの加速感は、NA仕様とは明確に違うもので、Zのスポーツカーとしての存在感を取り戻す役割を果たしています。

    Tバールーフという発明

    S130を語るうえで外せないのが、Tバールーフの採用です。ルーフの左右に脱着式のガラスパネルを設けたこの構造は、フルオープンのコンバーチブルほどボディ剛性を犠牲にせず、開放感を味わえるという折衷案でした。

    これはアメリカ市場の嗜好を強く意識した装備です。カリフォルニアの陽射しの下でルーフを外して走る。そういう使い方が、Zのライフスタイルイメージと完璧に噛み合いました。実際、Tバールーフ仕様は北米で爆発的に売れています。

    ただし、ルーフを切り欠いたことによる剛性低下は避けられません。走りの純度を重視するユーザーからは賛否が分かれた部分でもあります。それでも、商品としての魅力を大幅に高めたという点では、Tバールーフは間違いなくS130の成功を支えた要素のひとつです。

    売れた、でも語られにくい世代

    S130型フェアレディZは、北米市場を中心に商業的には大きな成功を収めました。生産期間中の累計販売台数は約44万台。S30の記録には及ばないものの、スポーツカーとしては十分すぎる数字です。

    それでも、S130は歴代Zの中で語られる機会が少ない世代でもあります。理由はおそらくはっきりしていて、S30ほどの衝撃もなければ、次のZ31ほどの技術革新もない。「つなぎの世代」と見なされやすいのです。

    しかし、それは少し不公平な見方かもしれません。S130がやったことは、Zというブランドを「一発屋」で終わらせず、継続的に売れる商品として定着させることでした。初代の熱狂だけでは、シリーズは続きません。市場の変化に対応しながら、Zの名前を守り、次の世代に渡す。地味に見えるけれど、それはとても難しい仕事です。

    世界戦略車としてのZを確立した世代

    S130型フェアレディZの本質的な功績は、Zを「日産の世界戦略車」として確立したことにあります。S30が切り拓いた市場を、S130が制度化した。快適性、ターボ技術、Tバールーフといった要素は、すべて「より多くの人に、より長く選ばれるZを作る」という一貫した思想から生まれています。

    その後のZ31、Z32へと続く進化の土台は、S130の時代に固められました。Zがスポーツカーであると同時にGTカーであるという二面性。北米市場を最重要ターゲットとする商品設計。ターボによるパフォーマンスの底上げ。これらはすべて、S130が最初に形にしたものです。

    派手さでは初代に譲ります。技術的なインパクトでは後継に譲るかもしれません。でも、S130がなければ、Zは「伝説の一台」で終わっていた可能性がある。

    シリーズを「続けられるもの」にした功労者として、もう少し正当に評価されていい世代だと思います。

  • マーチ – K13【タイで生まれた日産の賭け】

    マーチ – K13【タイで生まれた日産の賭け】

    歴代マーチの中で、最も評価が割れたモデルはどれか。

    おそらく多くの人が、この4代目・K13を挙げるでしょう。

    2010年に登場したこのクルマは、日産のグローバル戦略を象徴する存在でした。

    ただしその「象徴」は、称賛だけでなく、失望や戸惑いも含んでいます。

    先代が残したもの

    3代目マーチ、K12型は国内外で高く評価されたモデルでした。

    丸みを帯びたデザインは欧州でも受け入れられ、日本国内では「おしゃれなコンパクト」というポジションを確立しています。追浜工場で生産される品質への信頼も厚く、マーチというブランドの価値を一段引き上げた世代だったと言えます。

    ただ、その成功の裏で日産が直面していた課題は明確でした。

    コンパクトカーは利幅が薄い。

    国内生産を続ける限り、新興国市場での価格競争力は出せない。カルロス・ゴーン体制下の日産は、この構造問題に正面から答えを出そうとしました。

    タイ生産という決断

    K13型マーチの最大の特徴は、日本向けモデルをタイで生産し逆輸入するという枠組みを採用したことです。

    日産はこの決断を「グローバルコンパクトカー戦略」の柱として位置づけました。Vプラットフォームと呼ばれる新しい車台を開発し、マーチだけでなくノートやラティオなど複数車種への展開を見据えた設計です。

    狙いは明快でした。新興国で大量に売れるクルマを、新興国で作る。そのスケールメリットで原価を下げ、先進国市場にも供給する。理屈としては合理的です。実際、タイ工場の品質管理には相当な投資が行われたと言われています。

    しかし、日本のユーザーにとって「マーチが日本製ではなくなった」というインパクトは大きかった。これは感情の問題だけではありません。実際に乗ったときの質感が、先代K12と比較して後退したと感じる人が少なくなかったのです。

    エンジンと走りの変化

    パワートレインも一新されました。

    K13に搭載されたのはHR12DE型、1.2リッター3気筒エンジンです。先代のCR14DE(1.4L 4気筒)やCR12DE(1.2L 4気筒)から、気筒数がひとつ減っています。これはコストと燃費の両面を狙った判断でした。

    3気筒エンジンは今でこそ珍しくありませんが、2010年当時の日本市場では「格落ち」と受け取られやすい選択でした。

    実際、振動や音の面で4気筒に劣る部分はあり、特にアイドリング時の微振動を気にする声は多く聞かれました。最高出力79PS、最大トルク106N・mというスペック自体は日常使いに不足ないものの、数字以上に「回して楽しい」感覚が薄れたという評価が目立ちます。

    トランスミッションは副変速機付きCVTを採用。

    燃費性能ではJC08モードで最大26.0km/L(後に改良で更に向上)を達成しており、この点は当時のライバルであるフィットやヴィッツと十分に戦える数値でした。

    ただ、CVT特有のラバーバンドフィールが走りの印象をさらに薄味にしていた面は否めません。

    デザインと室内の評価

    エクステリアデザインは、先代の個性的な丸さから一転して、ややおとなしい造形になりました。グローバル展開を前提にしたデザインは、どの市場でも受け入れられる反面、どの市場でも強く刺さらないという両刃の剣です。日本市場では「没個性」と言われることもありました。

    インテリアの質感については、率直に言って厳しい評価が多かった部分です。ダッシュボードやドアトリムの樹脂パーツは硬質で、触ったときの感触が先代より明らかにコストダウンを感じさせるものでした。「100万円を切る価格設定」を実現するためのトレードオフだったとはいえ、K12の質感を知るユーザーには落差が大きかったのです。

    一方で、室内空間そのものは先代より広くなっています。ホイールベースの延長により後席の足元にはゆとりが生まれ、ラゲッジスペースも実用的な容量を確保しました。「道具としての実力」は確実に上がっていた。ただ、それが評価に直結しなかったのは、コンパクトカーに求められる価値が「合理性」だけではなかったことを示しています。

    市場での現実

    K13マーチの国内販売は、発売直後こそ月販1万台を超える好調なスタートを切りました。価格の安さは確かに武器でした。エントリーグレードで100万円を切る設定は、当時の登録車としては破格です。

    しかし、販売は徐々に失速します。最大の要因は、同じ日産のノート(E12型、2012年登場)に顧客を奪われたことでしょう。e-POWER登場前のノートですら、マーチより一回り大きく、質感も上で、価格差はそこまで大きくなかった。マーチを選ぶ積極的な理由が薄れていったのです。

    さらに、軽自動車の高性能化・高品質化も逆風でした。N-BOXやタントといった軽スーパーハイトワゴンが室内空間で圧倒し、デイズのような日産自身の軽自動車も商品力を高めていく。「安いコンパクト」というポジションは、上からも下からも挟撃される形になりました。

    グローバルでは事情が異なります。新興国市場ではマイクラ(マーチの海外名)として堅調に販売され、日産の戦略自体が失敗だったわけではありません。ただ、日本市場に限って言えば、K13は「日本のユーザーが求めるもの」と「グローバル最適化」のギャップを露呈したモデルでした。

    長すぎたモデルライフ

    K13マーチは2010年から2022年まで、実に12年間販売されました。途中でマイナーチェンジや特別仕様車の投入はあったものの、基本設計は大きく変わっていません。これは日産がマーチの後継モデルを日本市場に投入しなかったことを意味します。

    欧州では2016年に5代目マイクラ(K14型)が登場し、ルノー・クリオのプラットフォームを使った意欲的なモデルに生まれ変わりました。しかし、このK14は日本には導入されませんでした。日産の日本市場戦略の中で、マーチというセグメントの優先度が下がっていたことは明白です。

    結果として、K13は晩年になるほど商品力の陳腐化が進み、販売台数は月に数百台レベルまで落ち込みました。2022年の販売終了をもって、日本市場における「マーチ」という名前の歴史は、少なくとも一度途切れることになります。

    K13が問いかけたもの

    K13マーチを「失敗作」と切り捨てるのは簡単です。しかし、このクルマが突きつけた問いは、日産だけでなく日本の自動車産業全体にとって本質的なものでした。コンパクトカーをグローバルで最適化したとき、日本市場の期待値とどう折り合いをつけるのか。コストを下げることと、ブランドの信頼を維持することは両立するのか。

    初代K10から続いてきたマーチの系譜は、「小さくても楽しい、小さくても上質」という価値観を積み重ねてきました。K13はその蓄積を、グローバル戦略という大きな力学の中で手放さざるを得なかったモデルだったと言えます。

    それでも、K13が担った役割を無視することはできません。このクルマがなければ、日産のグローバルコンパクト戦略は成立しなかった。新興国での販売網拡大も、Vプラットフォームの知見蓄積も、このモデルが起点です。

    日本市場では報われなかったけれど、日産という企業の生存戦略の中では確かに意味があった。

    K13マーチは、そういうクルマです。