投稿者: hodzilla51

  • セドリック – 30/31型【縦四灯から横四灯へ、初代の二つの顔】

    セドリック – 30/31型【縦四灯から横四灯へ、初代の二つの顔】

    初代セドリックには、二つの顔があります。

    1960年に登場した30型は縦四灯。1962年の31型では、四つのヘッドライトが横に並びます。写真を見比べると、同じ車名とは思えても、同じ顔とは思えません。

    ここが初代の面白いところです。31型は2代目ではない。初代のまま、見た目も中身も手を入れ続けたのです。

    オースチンの次を、日産の名前でつくる

    日産は1952年、英国オースチンと技術提携を結びました。翌1953年にA40の国内組立を始め、A50では1956年に全部品を国産化します。英国車を組み立てるところから、少しずつ自分たちでつくるところまで進んだのです。

    1960年3月にその提携は終わります。そして翌4月、オースチンA40・A50の後を受ける車として、セドリック30型が登場しました。最初は1,500ccのセダンです。

    提携が終わった途端に、何もないところから高級車が生まれたのではありません。外から学んだ技術を土台に、今度は自分たちの車名を持つ上級セダンを出した。初代セドリックは、その切り替わりの中にいます。

    縦四灯と、日産初のモノコック

    30型のフロントには、ヘッドライトが縦に二つずつ並んでいます。左右まで回り込むフロントガラスも含め、姿は当時のアメリカ車を思わせるものでした。

    見た目は華やかですが、注目したいのはその下です。30型は日産初のモノコックボディを採用しました。車体そのものが骨格を担う構造で、セドリックは上級車としての姿だけでなく、日産の乗用車づくりの新しい一歩も背負っていたのです。

    発売から半年後の1960年10月には、1.9Lのカスタムが加わります。1961年5月には1.9Lデラックスも追加されました。最初の1.5Lだけでラインアップを固定せず、上の仕様を増やしていきます。

    1961年式G30カスタムでは、H型1,883ccの直列4気筒が88PSを発生。全長4,510mm、ホイールベース2,630mmです。セドリックは登場からわずか1年で、エンジンも装備も選べる上級セダンになっていました。

    一方、最初の1.5Lエンジンにも意外な続きがあります。1962年登場のダットサン・フェアレディ1500は、ブルーバードの車台とセドリック30型のエンジンをもとに生まれました。上級セダンの心臓が、小さなスポーツカーにも渡ったのです。

    31型は、顔だけの化粧直しではない

    1963年式セドリック1900デラックスを斜め前から見た写真。横並びの四灯が見える
    1963年式セドリック1900デラックス。31型の時代に横並びとなった四灯。TTTNIS、CC0 1.0。画像加工なし

    1962年11月、30型は31型へ改良されます。縦四灯を横に置き直すと、フロントは低く、どっしりと見えるようになりました。

    この横四灯は、日産自身が後の高級車にも影響を与えたデザインと振り返っています。初代の途中で選んだ顔が、その後の上級車を考える手がかりにもなりました。

    それだけなら、印象を変えるための改良だったと言えるかもしれません。でも、ホイールベースも60mm延びて2,690mmになりました。当時の国産中型車では最長クラスです。室内のゆとりも増しています。

    1964年式H31カスタムの全長は4,650mm。先ほどの1961年式G30カスタムと比べると、140mm長くなりました。一方で、H型1,883cc・88PSというエンジンの数字は、この2台のカスタムで変わっていません。

    出力の数字を増やさず、乗る人の空間を広げる。31型は外観の印象だけでなく、上級セダンとしての中身を磨いた改良でした。

    3段ATが加わった意味

    31型では、前進3段のトルクコンバーター式ATも採用されました。日産はこれを国産車初の前進3段式完全自動変速機と紹介しています。

    運転手がクラッチを踏み、ギヤを選ぶ。その操作をクルマに任せられるようになることは、馬力を上げるのとは違う快適さです。運転する人の負担まで減らせるなら、上級車としての価値は後席の広さだけでは決まりません。

    横四灯と長いホイールベース、そしてAT。31型は初代の改良型でありながら、初代の可能性をかなり先まで押し広げた車でした。

    初代には、さらに大きなスペシャルもいた

    黒い50型セドリック・スペシャルを斜め前から見た写真
    50型セドリック・スペシャルの現存車。TTTNIS、CC0 1.0。画像加工なし

    30型から31型へと続く頃、もう一つの方向へ伸びたセドリックがあります。50型のセドリック・スペシャルです。

    1964年式の50型は、全長4,855mm、ホイールベース2,835mm。K型2,825ccの直列6気筒で115PSを発生します。31型カスタムより、さらに145mm長いホイールベースです。

    「スペシャル」という名前だけでは、装備を豪華にした仕様にも聞こえます。でも、1.9Lの直列4気筒から2.8Lの直列6気筒へ。車体もエンジンも大きくし、セドリックの名前を大型乗用車の領域まで広げた一台でした。

    1964年の東京オリンピックでは、その一台が聖火搬送車を務めました。車体側面に「TOKYO 1964」の文字を記した車が、いまも日産のヘリテージコレクションに残っています。上級セダンとして始まった車名が、国を挙げた行事にも使われたのです。

    50型が担った大型乗用車の位置は、1965年以降、プレジデントへ引き継がれていきます。初代セドリックは一つの車体、一つの排気量だけで終わったシリーズではありません。

    2代目へ渡したもの

    1965年、セドリックは130型へモデルチェンジします。ピニンファリーナが手がけた欧州的な外観を持つ、ここからが2代目です。

    初代の5年間で、セドリックは「オースチンの後継」という役目を脱ぎました。モノコックの30型を起点に、31型では室内と運転の快適さを磨く。50型が担った大型車の役割はプレジデントへ渡す。130型が受け継いだのは、日産が自分たちの上級車を育て続けるための土台でした。

  • セドリック – 130型【流れる線と、新しい直列6気筒】

    セドリック – 130型【流れる線と、新しい直列6気筒】

    1965年10月、セドリックは2代目の130型になります。初代の縦四灯、そして横四灯を見てきたあとでは、流れるような側面の線が目を引きます。

    この世代を外観だけで覚えるのは、少しもったいない。3種類の2Lエンジンを選べ、途中で前後の姿を大きく変え、サファリラリーも走ったセドリックです。

    31型の次が、130型

    初代の30/31型から続くセドリックは、1965年に130型へ交代しました。31型は初代の改良型。130型が、世代を改めた2代目です。

    初代には、ひと回り大きな50型セドリック・スペシャルもいました。K型2,825ccの直列6気筒を積む車です。大きな車体と6気筒を先に手にした50型の役割は、プレジデントへとつながっていきます。130型は、その傍らで日産の上級セダンを受け継ぎました。

    名前に現れる数字だけを並べると、30、31、50、130。けれどセドリック本流の世代は、30/31型から130型へ進みます。50型で広げた大型車の領域とは、ここで別の道を歩き始めたのです。

    ピニンファリーナが引いた「フローイングライン」

    130型のデザインを手がけたのは、イタリアのピニンファリーナです。日産はその外観を「フローイングライン」と呼びました。初代のアメリカ車を思わせる姿から、長いボンネットと車体側面が滑らかにつながる姿へ変わります。

    当時、高速道路の整備が進んでいました。日産は130型で、高速走行性能だけでなく、静粛性と安全性も高めたと記しています。線の引き直しと同じタイミングで、上級セダンとして走る場面も広がっていたのです。

    ただ、この流れる線が最初から広く受け入れられたわけではありません。日産自身、初期の意匠は市場で苦戦したと振り返っています。写真に残る前期型と後期型の顔つきが大きく違うのも、130型を語るうえで外せない話です。

    同じ2Lでも、4気筒と二つの6気筒

    発売当初に用意されたのは、H20型の直列4気筒、J20型の直列6気筒、そして新開発のL20型直列6気筒。いずれも約2Lですが、H20とJ20はOHV、L20はOHCです。排気量だけでは、この3つの違いは見えません。

    日産が保存する1966年式P130カスタム6には、J20型1,973ccの直列6気筒が載り、最高出力は100PS。コラムシフトのMT車です。一方、同じく1966年式のH130スペシャル6は、L20型1,998ccの直列6気筒で105PSを発生します。

    両車とも全長4,680mm、ホイールベース2,690mm。同じ大きさの車体に、100PSのJ20型と105PSのL20型がそれぞれ収まっています。数字の差は5PSでも、片方はOHV、もう片方はOHC。130型の中に、新旧二つの6気筒が並んでいました。

    ブレーキにも違いがあります。日産が保存するP130カスタム6は前後ともドラム、H130スペシャル6は前輪ディスク・後輪ドラムです。エンジンだけでなく、止まるための装備にもグレードの違いが表れています。

    この世代で初めて載ったL20型は、その後も長く日産車の中核を担います。フローイングラインは次の世代で姿を変えても、直列6気筒のL型は走り続ける。その対照も、130型から見える歴史です。

    尾灯が変わり、前後の姿も変わる

    1966年の改良では、後ろに大きな長方形のテールランプが付きました。その後もほぼ毎年秋に手を入れ、1968年9月にはフロントとリアを大きく変えます。日産は、この前後で前期型と後期型を分けています。

    1968年のセドリック130型スペシャル6を後方から見た写真。長方形のテールランプが見える
    130型スペシャル6の後ろ姿。TTTNIS、CC0 1.0。画像加工なし

    写真のテールランプは、初代31型の横四灯とは別の方向に、車幅を強調します。後期にはフロントグリルとリアの造形も、より四角く平らな印象になりました。「フローイングライン」で始まった130型の6年間は、一枚の写真だけでは語れません。

    上級セダンが、東アフリカを完走した

    日産のヘリテージコレクションには、130型が1967年と1968年の東アフリカ・サファリラリーに出場し、両年とも完走したという記録があります。

    ふだんは人をゆったり運ぶ高級乗用車が、長距離の過酷なラリーにも姿を現した。130型には、街で見せる端正な顔のほかに、そんな一面があります。ピニンファリーナの線だけを追っていると、見逃してしまう足跡です。

    115PSの後期型から、230型へ

    1968年の大きな外観変更の後も、改良は続きます。日産が保存する1969年式H130カスタム6は、同年10月の改良で115PSとなったL20型1,998ccを搭載。6人乗りで、全長は4,690mmです。1966年式スペシャル6の105PSと並べると、同じL20型でも3年の間に数字が変わったことが見えてきます。

    写真に写る後期型のスペシャル6は、130型の最上級グレード。日産に残る1969年10月改良後のスペシャル6も、L20型の115PSです。全長はカスタム6と同じ4,690mmですが、最上級の名が付く車には、同じ器の中で別の位置が与えられていました。

    1969~1971年型セドリック130型スペシャル6を斜め前から見た写真
    130型後期のスペシャル6。TTTNIS、CC0 1.0。画像加工なし

    そして1971年、セドリックは3代目230型へ。130型で登場したL20型直列6気筒は、次の世代にも続きます。一方で、ピニンファリーナの流れる線はここで一区切り。230型ではグロリアと基本構造を共有し、セドリックは別の時代に入っていきます。

  • ブルーバード – U14【名門の看板を下ろした最後の一台】

    ブルーバード – U14【名門の看板を下ろした最後の一台】

    「ブルーバード」という名前に、どれくらいの重みを感じるかは世代によってかなり違うはずです。1959年の初代310型から数えれば、日産の屋台骨を支え続けた看板車種。トヨタ・コロナとの「BC戦争」は日本の自動車史そのものでした。そのブルーバードが、最後に名乗りを上げたのが1996年登場のU14型です。

    ただ、この最終型は華々しいフィナーレとはちょっと違いました。むしろ静かに、粛々と、次の時代への橋渡しを済ませて退場していった。その経緯を追うと、1990年代後半の日産が置かれた状況がよく見えてきます。

    1990年代後半、日産が抱えていた事情

    https://kuruma-dna.com/u13

    U14型が登場した1996年は、日産にとって非常に厳しい時期でした。バブル崩壊後の販売不振に加え、車種の乱立による開発コストの肥大化が経営を圧迫していた時代です。プリメーラ、ブルーバード、セフィーロ、ローレルといったミドルセダンが社内で食い合いを起こしている状態で、「そもそもこんなに似たクラスの車を何車種も抱えて大丈夫なのか」という問いが、すでに社内でも避けられなくなっていました。

    結果的に1999年にはルノーとの資本提携、カルロス・ゴーンの着任という大きな転機を迎えます。U14型ブルーバードは、まさにその「嵐の前」に生まれた車です。名門の名を冠してはいるものの、開発の自由度や投入できるリソースは、かつてのブルーバードとは比べものにならなかったはずです。

    先代U13からの継承と変化

    https://kuruma-dna.com/u12

    U14型は、先代U13型のプラットフォームを引き継いで開発されています。U13型は1991年に登場し、丸みを帯びたデザインで当時の日産デザインの方向性を示したモデルでした。ただ、そのデザインが保守的なブルーバードユーザー層にはやや不評だったという声もあり、U14型では全体的に落ち着いた、端正な方向へ軌道修正されています。

    エンジンラインナップは直列4気筒のSR18DE(1.8L)とSR20DE(2.0L)が中心で、SR20DETのターボモデルは設定されませんでした。先代U13にはターボのSSS系があったことを考えると、U14ではスポーティ路線を明確に縮小しています。

    これは単にコストの問題だけではなく、市場の変化も大きかったと考えられます。1990年代後半のミドルセダン市場では、走りの刺激よりも快適性や経済性が重視されるようになっていました。ブルーバードSSSの「走れるセダン」というキャラクターは、もはやこのクラスの主流ではなくなりつつあったのです。

    「名門」の看板が重荷になるとき

    https://kuruma-dna.com/u11

    U14型のポジションを考えるうえで重要なのは、同時期のプリメーラ(P11型)との関係です。P11プリメーラは欧州市場を強く意識した走行性能と質感を持ち、日産のミドルセダンとしてはむしろこちらが「本命」に近い扱いを受けていました。

    一方のブルーバードは、国内の既存顧客層、とくに法人需要や年配のリピーターを受け止める役割が色濃くなっていました。つまり、攻めの商品企画ではなく、守りの商品企画です。これは悪い意味ではなく、当時の日産にとっては確実に売れる台数を確保するための現実的な判断でした。

    ただ、その結果として「ブルーバードらしさとは何か」がぼやけてしまったのも事実です。かつてのBC戦争時代には、ブルーバードは技術的な挑戦の象徴でもありました。510型のサスペンション設計しかり、910型の直線基調デザインしかり。U14型にはそうした「これがブルーバードだ」と言い切れる強い個性が見当たりません。

    名門であるがゆえに存続させなければならない。でも、そこに注ぎ込めるリソースは限られている。この矛盾が、U14型の佇まいをどこか控えめなものにしていたように思えます。

    実用車としての完成度

    https://kuruma-dna.com/p910

    とはいえ、U14型が悪い車だったかというと、そんなことはありません。むしろ実用セダンとしての完成度は高く、SR20DEエンジンの信頼性、取り回しのよいボディサイズ、そつのない乗り心地は、日常の道具として十分以上の水準でした。

    室内空間もこのクラスとしては十分に確保されており、後席の居住性やトランク容量に不満を覚えることはほとんどなかったはずです。CVT(無段変速機)の設定もあり、燃費面での配慮も見られました。1990年代後半のCVTはまだ発展途上でしたが、日産はこの時期から積極的にCVTを展開しており、U14型もその流れの中にあります。

    要するに、地味だけど真面目に作られた車だったのです。ただ、真面目さだけでは車の名前を語り継ぐ理由にはなりません。それが、この車の宿命でもありました。

    シルフィへの橋渡し、そしてブルーバードの終焉

    https://kuruma-dna.com/p810

    U14型ブルーバードは2001年に生産を終了し、後継として登場したのがブルーバード シルフィ(G10型)です。車名にはまだ「ブルーバード」が残されていましたが、実質的には新しいブランドへの移行でした。そして2012年のモデルチェンジでは「ブルーバード」の名が完全に外れ、ただの「シルフィ」になります。

    この流れは、日産がゴーン体制のもとで進めた車種整理の一環でもありました。リバイバルプランの中で、重複する車種は統廃合され、ブランドの選択と集中が進められた。ブルーバードという名前は、その過程で静かに役目を終えたのです。

    ただ、U14型の存在がなければ、シルフィへの移行はもっと唐突なものになっていたかもしれません。U14型は「ブルーバードの顧客を次の時代に受け渡す」という、地味だけれど欠かせない仕事をこなしていた。その意味では、最終型にふさわしい実直さを持った車だったと言えます。

    名前が消えることの意味

    https://kuruma-dna.com/p610

    40年以上にわたって続いた車名が消えるというのは、単なるモデルチェンジとはまったく違う出来事です。ブルーバードという名前には、日産の成長期の記憶、日本のモータリゼーションの記憶、そして「セダンが主役だった時代」の記憶が染みついています。

    U14型は、その記憶の最後の器でした。派手さはなく、語り継がれるような伝説もありません。でも、名門が名門として終わるためには、こういう車が必要だったのだと思います。暴れて退場するのではなく、きちんと後始末をして、次の世代にバトンを渡す。

    ブルーバードU14は、そういう仕事を黙々とやり遂げた、最後の一台でした。

  • ヴァンテージ – V8 Vantage (2005)【アストンマーティンが大衆に手を伸ばした日】

    ヴァンテージ – V8 Vantage (2005)【アストンマーティンが大衆に手を伸ばした日】

    アストンマーティンというブランドに、どんな印象を持っていますか。

    ジェームズ・ボンド、英国貴族の嗜み、手の届かない高級GT——おそらくそのあたりでしょう。

    ところが2005年、このブランドは自ら「手が届く」ところまで降りてきました。それがV8ヴァンテージです。

    アストンマーティン史上もっとも安価なモデルとして登場したこの車は、単なる廉価版ではありませんでした。

    むしろ、ブランドの存続そのものを賭けた戦略の中核だったのです。

    フォード傘下で起きた「再建」の本質

    アストンマーティン V8ヴァンテージ
    画像:Calreyn88/CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/am310-vantage-s

    V8ヴァンテージの話をするには、まずアストンマーティンが2005年当時どういう状態にあったかを知る必要があります。1987年にフォードが株式の75%を取得し、1994年には完全子会社化。以降、アストンマーティンはフォードのプレミア・オートモーティブ・グループ(PAG)の一員として、ジャガーやランドローバー、ボルボと並ぶ存在になっていました。

    ここで重要なのは、フォードが単にカネを出しただけではないという点です。フォードは開発プロセス、品質管理、サプライチェーンといった「自動車メーカーとしての基盤」をアストンマーティンに注入しました。それまでのアストンマーティンは、率直に言えば少量生産の工房に近い存在で、品質のばらつきも大きく、経営も不安定でした。

    フォード傘下で最初に生まれた大きな成果が、2001年のV12ヴァンキッシュ、そして2003年のDB9です。特にDB9は、新設されたVH(バーティカル・ホリゾンタル)プラットフォームという接着アルミニウム構造を採用し、アストンマーティンのモノづくりを根本から変えました。V8ヴァンテージは、このVHプラットフォームを短縮して使った、いわば「DB9の弟分」にあたります。

    なぜ「小さなアストン」が必要だったのか

    アストンマーティン V8ヴァンテージ
    画像:Calreyn88/CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/am310

    DB9やヴァンキッシュは確かに素晴らしい車でしたが、年間販売台数は限られていました。アストンマーティンがブランドとして持続的に存続するには、もう少しボリュームのあるモデルが不可欠だったのです。つまりV8ヴァンテージは、「ポルシェ911に対抗するエントリースポーツ」という商品企画であると同時に、ブランドの経営基盤を支える量販モデルという役割を背負っていました。

    価格帯も象徴的です。英国での発売時、V8ヴァンテージの価格は約79,000ポンド。DB9の半額近い水準でした。日本市場でも1,500万円台からのスタートで、「アストンマーティンとしては」という但し書きつきではあるものの、それまでとは明らかに異なる客層にリーチできる設定でした。

    ターゲットとして意識されていたのは、ポルシェ911やジャガーXK、そしてメルセデスAMG SLクラスあたりの購買層です。これらの車を検討する人に「同じ予算でアストンマーティンが買える」と提案すること。それ自体が、このブランドにとっては革命的なことでした。

    ジャガー由来のV8と、アストンの味付け

    アストンマーティン V8ヴァンテージ
    画像:Calreyn88/CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

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    V8ヴァンテージの心臓部は、4.3リッターV8エンジンです。このエンジンはジャガーAJ-V8をベースにしていますが、アストンマーティンのエンジニアリングチームが大幅に手を入れています。ドライサンプ化、吸排気系の再設計、ECUの専用チューニングなどを経て、最高出力は385ps(後に400psに向上)、最大トルクは410Nmを発生しました。

    数字だけ見ると、同時代の911カレラS(355ps)を上回っています。ただ、V8ヴァンテージの車重は約1,570kgと911より200kg近く重く、パワーウェイトレシオでは若干不利でした。0-100km/h加速は約5.0秒。絶対的な速さで勝負するタイプではありません。

    しかし、このエンジンの真価は数字ではなく音と回り方にありました。自然吸気V8特有の乾いた咆哮は、ポルシェのフラット6ともフェラーリのV8とも違う、独特の荒々しさと品の同居する音色です。アストンマーティンはこのサウンドを非常に重視しており、排気系の設計にはかなりの開発リソースが割かれたと言われています。

    VHプラットフォームがもたらしたもの

    アストンマーティン V8ヴァンテージ
    画像:Calreyn88/CC0(Wikimedia Commons)

    シャシーはDB9と共通のVHアーキテクチャを短縮したものです。接着アルミニウム構造というのは、アルミ製の押出材や鋳造部品をエポキシ系接着剤とリベットで結合する工法で、従来のスチールモノコックに比べて軽量かつ高剛性を実現できます。

    ホイールベースはDB9より約65mm短い2,600mm。全長は4,380mmで、これはポルシェ911(997型)の4,427mmよりわずかに短い数値です。つまりサイズ感としてはかなりコンパクトで、アストンマーティンのラインナップの中では明確に「スポーツカー」寄りのポジションでした。

    トランスミッションはフロントミッドシップに搭載されたエンジンから、トルクチューブを介してリアのトランスアクスルに接続される構成です。前後重量配分は49:51とほぼ理想的な数値を実現しています。この配置はDB9と同様ですが、短いホイールベースと軽い車重のおかげで、よりダイレクトなハンドリングが得られました。

    当初は6速MTのみの設定で、これも大きな特徴でした。後に「スポーツシフト」と呼ばれるセミATが追加されますが、初期のMTモデルにこだわるファンは今でも多くいます。アストンマーティンでマニュアルを操るという体験そのものが、一種の特権だったわけです。

    デザインという最大の武器

    アストンマーティン V8ヴァンテージ
    画像:Calreyn88/CC0(Wikimedia Commons)

    V8ヴァンテージを語るうえで、デザインを外すわけにはいきません。スタイリングを手がけたのはヘンリック・フィスカー。DB9のデザインも担当した人物で、後に自身のブランド「フィスカー」を立ち上げることになります。

    V8ヴァンテージのプロポーションは、ロングノーズ・ショートデッキという古典的なスポーツカーの文法に忠実です。しかし、ディテールは極めてモダンでした。DB9で確立された「現代のアストンマーティン顔」——横に広がるグリル、切れ上がったヘッドライト、筋肉質なフェンダーライン——を、よりタイトなボディに凝縮しています。

    正直に言えば、このデザインこそがV8ヴァンテージ最大の競争力だったと思います。同価格帯でこれほど美しい車は、当時ほとんど存在しませんでした。ポルシェ911は機能美の極致ですが、「美しい」というよりは「正しい」デザインです。V8ヴァンテージは、見た瞬間に感情を動かす力を持っていました。

    進化と派生、そして限界

    アストンマーティン V8ヴァンテージ
    画像:Calreyn88/CC0(Wikimedia Commons)

    V8ヴァンテージは2005年の登場以降、長いモデルライフの中で着実に進化しました。2008年にはV12ヴァンテージが追加され、DB9用の6.0リッターV12を搭載。510psを1,680kgのボディに押し込んだこのモデルは、アストンマーティン史上もっとも過激なロードカーのひとつとなりました。

    2011年にはV8エンジンが4.7リッターに拡大され、420psに出力が向上。2014年にはV12ヴァンテージSが登場し、565psまでパワーを引き上げています。ロードスター(コンバーチブル)やレース仕様のGT4/GT3も展開され、ヴァンテージの名はモータースポーツの世界でも存在感を示しました。

    一方で、長いモデルライフゆえの課題もありました。インテリアの質感やインフォテインメントシステムは、2010年代に入ると明らかに時代遅れになっていきます。フォードが2007年にアストンマーティンを売却した後は、開発投資の制約もあり、大規模なアップデートが難しかったという事情もあります。

    それでも、基本設計の良さとデザインの普遍性のおかげで、V8ヴァンテージは2017年まで12年間にわたって生産されました。累計生産台数は約16,000台。アストンマーティンの歴史の中で、これは圧倒的な数字です。

    「買えるアストン」が残したもの

    アストンマーティン V8ヴァンテージ
    画像:MrWalkr/CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

    V8ヴァンテージの最大の功績は、アストンマーティンというブランドを「存続可能な規模」に押し上げたことです。それまでのアストンマーティンは、年間数百台を手作りする超少量メーカーでした。V8ヴァンテージの登場により、年間生産台数は数千台規模に拡大し、ディーラーネットワークも世界的に整備されました。

    2018年に登場した後継の第2世代ヴァンテージ(メルセデスAMG製4.0リッターV8ツインターボ搭載)は、初代が築いた「エントリーアストン」というポジションをそのまま引き継いでいます。つまり、V8ヴァンテージが定義した「手の届くアストンマーティン」という概念は、今もブランド戦略の柱であり続けているのです。

    もうひとつ見逃せないのは、この車が「アストンマーティンのオーナーになる」という体験を民主化したということです。大げさに聞こえるかもしれませんが、それまでアストンマーティンのオーナーになるには、文字通り特別な富裕層である必要がありました。V8ヴァンテージは、成功したビジネスパーソンや情熱的なカーエンスージアストが「頑張れば手が届く」最初のアストンだったのです。

    速さでは911に及ばず、信頼性ではドイツ車に劣り、実用性ではGTカーに負ける。そういう見方もできるでしょう。しかしV8ヴァンテージには、スペックシートでは測れない「所有する歓び」がありました。エンジンをかけた瞬間の音、バックミラーに映る自分の車のシルエット、すれ違う人の視線。それらすべてが、この車の価値でした。合理性だけでは説明できない何かを、きちんと形にして売った。それがV8ヴァンテージという車の本質だったのだと思います。

  • ヴァンテージ – AM701【アストンがAMGの心臓で再起動した一台】

    ヴァンテージ – AM701【アストンがAMGの心臓で再起動した一台】

    アストンマーティンが他社のエンジンを積む

    それだけ聞くと、なんだか身売りのような印象を受けるかもしれません。

    でも2018年に登場した2代目ヴァンテージ(AM701)は、その先入観をきれいにひっくり返した一台でした。メルセデスAMG製の4.0L V8ツインターボを心臓に据えながら、走りの味はまぎれもなくアストンマーティン。

    この車を語るには、まず「なぜ自社製エンジンを手放したのか」から始める必要があります。

    アストンが迫られていた選択

    アストンマーティン・ヴァンテージ AM701
    画像:Matti Blume/CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/am310

    2010年代のアストンマーティンは、率直に言って苦しい時期でした。

    主力のV8ヴァンテージは2005年デビューのまま大幅な刷新がなく、DB9系のプラットフォームも長寿化が進んでいました。ブランドとしての魅力は健在でも、商品としての鮮度は確実に落ちていたのです。

    そこに追い打ちをかけたのが、排ガス規制と燃費規制の厳格化です。自然吸気の大排気量エンジンを自社で開発し続けるには、莫大な投資が必要になります。年間数千台規模のメーカーにとって、それは現実的な選択肢ではありませんでした。

    2013年にメルセデス・ベンツ(ダイムラー)がアストンマーティンの株式を取得し、技術提携が始まります。この提携の柱のひとつが、AMG製パワートレインの供給でした。ただし、これは単なるエンジンの「お下がり」ではありません。アストン側はエンジンの搭載位置、セッティング、補機類の配置まで自社で設計し直しています。

    V8ヴァンテージからの断絶と継承

    アストンマーティン・ヴァンテージ AM701
    画像:Matti Blume/CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/am310-vantage-s

    先代のV8ヴァンテージ(2005〜2017年)は、フォード傘下時代に開発されたモデルです。ジャガー由来のアルミプラットフォームに、アストン自社製の4.3L(後に4.7L)V8自然吸気エンジンを搭載。ポルシェ911を意識した「エントリー・アストン」として、ブランドの販売台数を支えた功労者でした。

    ただ、12年間の長期生産の間に、ライバルたちは世代交代を重ねています。ポルシェ991、ジャガーFタイプ、そしてAMG GTという強敵が次々に現れる中、先代ヴァンテージはどうしても古さを隠せなくなっていました。

    2代目ヴァンテージに求められたのは、単なるモデルチェンジではなく、アストンマーティンという会社が次の時代に進めることの証明でした。新CEOアンディ・パーマーのもとで策定された「セカンド・センチュリー・プラン」の中核モデル。DB11に続く、新世代アストンの第2弾という位置づけです。

    AMGの心臓、アストンの味つけ

    アストンマーティン・ヴァンテージ AM701
    画像:Yu Chu Chin/CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/vantage-2005

    搭載されるのは、メルセデスAMGが開発したM177型4.0L V8ツインターボ。AMG GTやC63にも使われるユニットですが、ヴァンテージ用にはアストン独自のチューニングが施されています。最高出力510PS、最大トルク685Nm。数字だけ見ればAMG GT Sとほぼ同等ですが、出力特性やレスポンスはかなり異なります。

    アストンのエンジニアリングチームは、ターボのブースト制御やエキゾーストのサウンドチューニングを自社で詰め直しています。AMG GTがどちらかといえば「ドカン」と来る暴力的な加速感を持つのに対し、ヴァンテージは中回転域のトルクの出方がよりなめらかで、GT的な余裕を残しているのが特徴です。

    トランスミッションはZF製8速ATをリアトランスアクスルとして搭載。つまりエンジンはフロントミッドに、ギアボックスは後軸側に配置する、いわゆるトランスアクスル方式です。これにより前後重量配分は50:50に近い数値を実現しています。この構造自体は先代から受け継いだものですが、新設計のアルミ接着構造ボディとの組み合わせで、剛性と軽量化の両立が大幅に進みました。

    デザインが語るもの

    アストンマーティン・ヴァンテージ AM701
    画像:Calreyn88/CC0(Wikimedia Commons)

    エクステリアデザインを手がけたのは、当時アストンのデザインディレクターだったマレク・ライヒマン。DB10(映画『007 スペクター』用のワンオフ)の流れを汲むアグレッシブな造形は、先代のクラシカルなたたずまいから大きく舵を切っています。

    特に印象的なのは、大きく口を開けたフロントグリルと、ボンネットからリアに向かって絞り込まれるボディラインです。先代ヴァンテージが「小さなDB9」だったとすれば、2代目は「DB11の弟」ではなく「独立したスポーツカー」として自分の顔を持とうとしたデザインだと言えます。

    好みは分かれたかもしれません。特に発表直後は「アストンらしくない」という声もありました。ただ、時間が経つにつれて評価は安定し、現在ではアストンの新世代を象徴するデザインとして定着しています。

    走りの評価と立ち位置

    アストンマーティン・ヴァンテージ AM701
    画像:Calreyn88/CC0(Wikimedia Commons)

    ヴァンテージAM701の走りについて、多くの自動車ジャーナリストが共通して指摘したのは「想像以上にスポーツカーだった」ということです。アストンマーティンといえばグランドツアラーのイメージが強いですが、このヴァンテージはかなり攻めた足回りのセッティングで登場しました。

    ステアリングはシャープで、ノーズの入りが速い。リアの追従性も高く、コーナリング中の姿勢変化が読みやすい。ポルシェ911やAMG GTと真正面から張り合えるハンドリングを持っています。一方で、乗り心地はやや硬め。GTカーとしてのんびり流すには少しストイックすぎるという評価もありました。

    ここは意図的な割り切りだったはずです。DB11がグランドツアラーの役割を担う以上、ヴァンテージはスポーツ寄りに振らなければラインナップとして意味がない。その判断は正しかったと思います。ただ、初期モデルではZF製8速ATの変速フィールに若干の洗練不足が指摘され、後のアップデートで改善されています。

    2024年の大幅改良、そしてV12の復活

    アストンマーティン・ヴァンテージ AM701
    画像:Calreyn88/CC0(Wikimedia Commons)

    2024年、ヴァンテージは大幅なアップデートを受けました。エンジンは同じM177型ベースながら、出力は665PSまで引き上げられています。先代比で155PSの上乗せ。これはもう「改良」というより別物に近い変化です。

    シャシーも全面的に見直され、ダンパー、スプリング、スタビライザーがすべて新設計に。電子制御ディファレンシャルの制御ロジックも刷新されています。デザインもフロントまわりを中心にリフレッシュされ、より精悍な顔つきになりました。

    さらに注目すべきは、V12ヴァンテージの限定生産です。5.2L V12ツインターボを搭載した最終限定モデルは、ヴァンテージという車名の振れ幅の大きさを象徴する存在でした。V8で始まった2代目が、V12で頂点を打つ。この構図はアストンマーティンらしいドラマチックさがあります。

    「借り物のエンジン」が証明したこと

    アストンマーティン・ヴァンテージ AM701
    画像:Thomas Vogt from Paderborn, Deutschland/CC BY 2.0(Wikimedia Commons)

    ヴァンテージAM701を振り返ると、この車が証明したのは「エンジンの出自はブランドの本質を決めない」ということだったのではないでしょうか。

    AMG製V8を積んでいても、ヴァンテージはAMG GTとはまったく違う車です。ボディ設計、シャシーセッティング、サウンドチューニング、そして何よりドライバーに伝わる「味」が違う。エンジンはあくまで素材であり、料理の味を決めるのはシェフの腕だということを、この車はきっちり示しました。

    経営的に苦しい時期を経て、技術提携という現実的な選択をしながらも、自分たちの車を作り続ける。ヴァンテージAM701は、アストンマーティンが「生き延びるためだけ」ではなく「次に進むため」に作った車です。

    だからこそ、このモデルには単なるエントリーモデル以上の意味があるのだと思います。

  • セドリック – Y34【最後のハードトップは、名前の使い方まで変えた】

    セドリック – Y34【最後のハードトップは、名前の使い方まで変えた】

    1999年、セドリックのハードトップがY34へ変わりました。これが、その系統では最後のモデルチェンジになります。

    ただ、Y34は最後を待つだけの車ではありません。ブロアムとグランツーリスモの名を外し、外観、エンジン、足回り、車内の情報表示まで、新しい上級車の形を探りました。

    それまでのセドリックが持っていた何を残し、何を変えたのか。最後のハードトップを、そこから見ていきます。

    ブロアムも、グランツーリスモも名乗らない

    Y33までは、セドリックの中に「ブロアム」と「グランツーリスモ」がありました。豪華な系列と走りの系列を、同じ車名の下で選ぶ作り方です。

    1999年6月に登場したY34セドリックでは、その二つの系列名を廃止します。日産は、セドリックとグロリアのそれぞれに一つの性格を与える方針を示しました。セドリックは落ち着いた風格、兄弟車のグロリアは動きのある表情。上級車の選び方を、グレード系列ではなく車名の違いへ移したのです。

    Y34セドリックの長い後部とテールランプを斜め後ろから見た姿
    Y34型セドリックの後方。写真:TTTNIS/Wikimedia Commons、パブリックドメイン。Commonsの縮小版を使用

    写真の後ろ姿では、トランクまで大きな面が続き、角は丸く処理されています。日産が発表時に強調したのも、陰影によって表情が変わる外観でした。ブロアムとグランツーリスモの名前を外し、まず一台のセドリックとして見せる。Y34のデザインと車名の整理は、同じ方向を向いています。

    直噴V6と二つのターボ

    Y34のエンジンは一種類ではありません。3.0Lと2.5Lの直噴V6、VQ30DDとVQ25DD。さらに3.0LターボのVQ30DET、4WD用の直列6気筒ターボRB25DETが並びました。

    直噴V6では、燃料をシリンダーへ直接噴射します。日産の1999年発表では、VQ30DDとVQ25DDのそれぞれが従来型の対応エンジンに比べ、10・15モード燃費を約23%向上させ、出力も20PS上げました。上級車に必要な余裕を保ちながら、燃料の使い方にも手を入れたわけです。

    VQ30DETは最高280PS。4WD車に載るRB25DETもターボ付きの直列6気筒で、260PSでした。直噴V6を選ぶか、二つのターボのどちらを選ぶか。同じハードトップでも、エンジンと駆動方式の組み合わせは一つではありません。

    発売時の「300VIP」はVQ30DET、「300LV」はVQ30DD、4WDの「250LV FOUR」はRB25DET。同じセドリックのカタログでも、グレード名をたどれば、走りの中身は一台ずつ違いました。系列の名札を外した分だけ、個々の仕様を見ることが大切になります。

    先代までの系列名はなくなっても、買う人が求める走りを一つに絞ったわけではありません。Y34は名前の構成を整理しながら、動力の選び方には幅を残しました。

    滑らかさは、車体と足回りから作る

    新しいLLクラスのプラットフォームを採用し、日産は従来型に対して車体剛性を約23%高めたと発表しました。頑丈な車体に足回りを取り付ければ、段差を越えたときの揺れも、ハンドルを切ったときの反応も、より正確に整えられます。

    前輪はストラット式、後輪には新開発のマルチリンク式サスペンション。後輪のサスペンションにはアルミ材を使い、片側で約6kg軽くしています。車体だけでなく、路面に触れる足回りにも手が入りました。

    大きな上級車は、運転席だけが快適でも足りません。後席で継ぎ目の衝撃をどう受けるか、長距離で車体がどう落ち着くか。エンジンの数字だけでは分からない乗り味を、Y34は車体とサスペンションの両方から詰めていました。

    メーターと画面を、一つの場所へ

    Y34の室内では、メーターと液晶モニターを一体にした「トータルインフォメーションディスプレイ」が目を引きます。オーディオやエアコンの表示に加え、車両の警告や対処法、燃費、整備に関する情報も示す仕組みです。

    運転席に必要な情報を、計器の間に集めて見せる。ナビゲーションの画面を置いただけではありません。日産が「ドライバーとクルマのコミュニケーション」と呼んだものを、室内の設計へ入れたのです。

    2001年12月のマイナーチェンジでは、7インチワイド液晶モニターとFM多重VICSが全車標準になりました。出たときの仕様だけで固定せず、情報装備を更新しながら売り続けたことも、Y34の約5年間を形づくっています。

    セドリックはこのとき、フロントグリルとバンパーグリルも新しくし、リアランプの配色を変えました。画面で見える情報と、街で見える車の表情。その両方に手を入れた改良でした。

    同じ改良では、SRSカーテンエアバッグも加わります。セドリックの300LX VIP-Zと300LV VIPでは標準、そのほかのグレードではオプション。画面の新しさと、衝突時に乗員を守る装備の積み重ねが、並行して進んだ時期でした。

    2004年で終わったのは、ハードトップ

    2004年、Y34のハードトップは生産を終えます。日産が同年に新しい上級セダンへ与えた名は「フーガ」でした。セドリックのハードトップは、ここで次の車名に道を譲ります。

    それでも「セドリック」はすぐには消えません。別の系統として残ったY31セダンは営業車などに使われ、日産車体は2014年9月まで生産を続けました。ハードトップが止まってから、さらに約10年です。

    国内の年表だけでも、二つの終点があります。しかもY34のセドリックは中東向けの販売地域表にも名前が載る車でした。日本の街で見た最後の姿だけで、その歩みを閉じることはできません。

    Y34は、ハードトップという一つの作り方を締めくくった世代です。車名は別のセダンに残り、上級車の役目はフーガへ渡る。三つの線が同じ年に終わったわけではない。そのずれまで含めて、セドリックの最後のハードトップだったのです。

  • セドリック – 430型【直線基調とターボを得た5代目】

    セドリック – 430型【直線基調とターボを得た5代目】

    1979年6月、セドリックは430型へ変わりました。5代目の姿は、ひと目で分かります。丸みの残る先代330型に対し、ボンネットも窓も、車体を通る線がまっすぐになったのです。

    けれど、430型の変化は外観だけではありません。エンジンの制御を電子化し、発売後にはターボと6気筒ディーゼルも加えました。四角い車体の中で、上級車の動かし方まで変え始めた世代です。

    曲線をやめたら、セドリックはどう見えたか

    先代の330型には、長いボンネットや車体側面に曲線が残っていました。430型はそこから離れ、フロントグリルも窓の輪郭も、水平と垂直の線で整理します。

    濃紺の430型セドリック・セダンを斜め前から見た写真
    1979~1981年式とされる430型セドリック・セダン。写真:TTTNIS/CC0 1.0。Commonsの縮小版を使用

    写真のセダンを見ると、四角いヘッドライトの横にグリルがまっすぐ伸び、ルーフからトランクまでも角を意識した形です。ただ「角張った」だけではなく、車体の前から後ろまで、同じ線の使い方を通しました。

    日産の資料も、先行する二世代の姿から430型が直線的な形へ転じたと振り返っています。型式を知らなくても、330型と並べれば世代の境目が分かる。430型の顔は、それほどはっきり変わりました。

    セダン、ハードトップ、戻ってきたワゴン

    430型には4ドアセダンと4ドアハードトップがあり、ワゴンも復活しました。一方、2ドアハードトップは用意されませんでした。

    ハードトップは、同じ4枚のドアを持ちながら、後席まで続く窓の見え方でセダンと違う印象をつくります。セダンは窓枠と柱を残した落ち着いた形。車名は同じでも、車体の選び方で見せたいセドリックの姿が変わるのです。

    セダンとハードトップでは、同じ4ドアでも窓の形が違います。そこに、長いルーフと荷室を持つワゴンも並ぶ。人を乗せる形の違いに、荷物を積む形も加わりました。

    黒い1981年式430型セドリック・ハードトップ2800ブロアムを斜め後ろから見た写真
    1981年式430型セドリック・ハードトップ2800ブロアム。写真:TTTNIS/撮影者によるパブリックドメイン公開。Commonsの縮小版を使用

    この2800ブロアムの写真では、長い後部ガラスとトランクまで続く低い線がよく見えます。正面の角張った印象だけでは分からない、430型のもう一つの姿です。2.8Lのブロアムがあったように、ハードトップも後で加わる2.0Lターボだけの車ではありませんでした。

    ECCSがエンジンを見張る

    430型の2.8Lガソリンエンジン車には、ECCSと呼ぶエンジン集中電子制御システムが採用されました。点火の時期やアイドリングをコンピューターで集中管理する仕組みで、日産はこれを日本初の採用と説明しています。

    それまでのセドリックも、330型でNAPSによる排出ガス対策を進めていました。430型では、エンジンの働きをより細かく制御する方法が加わったわけです。

    大きなグリルや豪華な室内は、見れば分かります。ECCSは外から見えません。アクセルを踏んだときや信号待ちで止まったとき、エンジンを適切に働かせるための技術です。上級車の価値を車体の大きさだけでなく、機械の制御にも求めたところに、430型の新しさがあります。

    2.8L車に載ったECCSと2.0L車のターボは、対象のエンジンが違います。同じ430型の中で、それぞれ別の方法が力と扱いやすさを支えました。

    発売後に加わった2.0Lターボ

    L20E・T型ターボ搭載車は、430型の登場から半年後の1979年12月に発売されました。日産はこれを国産乗用車初のターボエンジンと位置づけています。角張った新型が出たあとに、エンジンの選択肢が増えたのです。

    1980年式の4ドアハードトップ「ターボSGLエクストラ」には、1,998ccの直列6気筒ターボが載ります。最高出力は145PS、最大トルクは21.0kgm。日産が残す同年式の自然吸気2.0L「200E SGLエクストラ」は130PSです。車体の形と仕様は違いますが、2.0Lという排気量を保ちながら、ターボが力を上積みしたことが数字にも表れています。

    当時は第二次石油危機のさなか。日産は、小さめの排気量で出力と燃費性能を両立するための技術としてターボを位置づけています。単に一番大きいエンジンを載せるのではなく、別の方法で力を引き出す答えでした。

    1982年式の「ターボブロアム」にも2.0Lターボが載ります。保存車は145PSで、ロックアップ付き3段ATを組み合わせていました。発売後に加わったエンジンが、上級仕様の中でも使われ続けたことが分かります。

    6気筒ディーゼルも選べるように

    1979年10月、日産はセドリックとグロリアへの6気筒ディーゼル搭載を発表しました。日産のエンジン資料では、そのエンジンはLD28型です。発売順に並べると、6月に430型、10月にディーゼル、12月にターボ。半年ほどの間に、車の選び方が増えていきました。

    ターボは2.0Lのまま力を求める選択肢。ディーゼルは、同じ車名を異なる燃料と使い方へ開く選択肢でした。2.8Lガソリン車の電子制御、2.0Lターボ、6気筒ディーゼル。それぞれは別の仕様ですが、一つの430型の中に並びました。外観の直線だけでは、この世代を言い尽くせません。

    次はV6のY30へ

    1983年、セドリックは6代目Y30へ進みます。そこで主役になるのはVG型V6。430型で使われたL型の直列6気筒から、エンジンの基本の形まで変わります。

    430型を振り返ると、角張ったデザインがまず目に入ります。でも、その内側ではECCSが働き、登場後にターボとディーゼルが加わっていました。形を変えながら、次のセドリックに渡す技術も増やした5代目だったのです。

  • ブルーバード – U13【バブルの余熱が生んだ最も上質なブルーバード】

    ブルーバード – U13【バブルの余熱が生んだ最も上質なブルーバード】

    ブルーバードという名前に、どんな印象を持つでしょうか。

    堅実、実直、サラリーマンの足。おそらくそんなイメージが多いはずです。

    ところが1991年に登場したU13型は、その「堅実な日産のセダン」が最も華やかだった瞬間を切り取ったようなクルマでした。

    バブル経済の余熱をたっぷり吸い込んで企画・開発されたこの世代は、歴代ブルーバードの中でもっとも上質で、もっとも野心的で、そしてもっとも時代に翻弄された存在だったと言えます。

    バブルが企画書に残した痕跡

    https://kuruma-dna.com/u12

    U13型の開発が本格化したのは1980年代後半、まさにバブル経済の絶頂期です。この時期の日産は、あらゆる車種で「もう一段上」を目指す空気に満ちていました。セフィーロ、プリメーラ、インフィニティQ45。ラインナップ全体が高級化・高品質化へと舵を切っていた時代です。

    ブルーバードもその流れの中にいました。先代のU12型は直線基調の端正なデザインと、アテーサ(ATTESA)と呼ばれるフルタイム4WDシステムで一定の評価を得ていました。SSS系のスポーティグレードも人気があり、商品としてのバランスは悪くなかった。ただ、時代が求めていたのは「もっと上質に、もっと滑らかに」という方向でした。

    U13型の企画意図を一言でまとめるなら、ブルーバードを「ミドルセダンの上限」まで引き上げること。それはバブル期ならではの、潤沢な開発予算と高い目標設定があってこそ可能だった挑戦です。

    丸くなったのには理由がある

    https://kuruma-dna.com/u14

    U13型を見てまず気づくのは、先代までとはまるで違う丸みを帯びたボディラインです。U12型の角張ったシルエットから一転して、曲面で構成された流麗なフォルムに変わりました。この変化には、ちゃんとした背景があります。

    1990年前後、自動車デザインの世界ではエアロダイナミクスへの関心が急速に高まっていました。空気抵抗係数(Cd値)を下げることが燃費改善にも走行安定性にも効くという認識が広がり、各社が競うように曲面デザインを採用し始めた時期です。U13型のCd値は0.30を切る水準に達しており、当時のセダンとしてはかなり優秀な数字でした。

    ただし、デザインの狙いは空力だけではありません。丸みのあるフォルムは「柔らかさ」「上品さ」を視覚的に伝える手段でもありました。角張ったクルマが「硬派」「実用的」に見えるのに対して、曲面は「余裕」「豊かさ」を暗示します。バブル期の空気を反映するなら、この方向は必然だったとも言えます。

    ただ、この大胆なデザイン変更は賛否を分けました。従来のブルーバードユーザーの中には「らしくない」と感じた人も少なくなかったようです。堅実さを美徳としてきたブランドにとって、上質さへの振り切りは諸刃の剣でした。

    中身に注がれたバブルの恩恵

    https://kuruma-dna.com/u11

    U13型の真価は、むしろ走らせてみたときに感じる質感の高さにあります。プラットフォームは先代から大幅に改良され、ボディ剛性が引き上げられました。サスペンションはフロントがストラット、リアがマルチリンクという構成で、乗り心地と操縦安定性の両立が図られています。

    エンジンは直列4気筒のSR18DE(1.8L)とSR20DE(2.0L)を中心にラインナップ。SR20DEは自然吸気で140馬力を発生し、日常域のトルク感と回転フィールのバランスに優れたユニットでした。スポーティグレードのSSS系にはSR20DETターボも用意され、こちらは200馬力オーバー。アテーサ4WDとの組み合わせも継続されました。

    特筆すべきは内装の仕上げです。ソフトパッドの質感、シートの座り心地、スイッチ類の操作感。当時のこのクラスとしては明らかにワンランク上の作り込みがされていました。これは開発時期がバブル真っ只中だったからこそ実現できた贅沢です。コストダウンの圧力がまだ本格化する前に、やれることを全部やった。そういう世代のクルマです。

    また、静粛性への配慮も丁寧でした。遮音材の追加やボディの制振処理が施され、高速巡航時の快適性は先代から明確に向上しています。このあたりの地道な積み上げが、U13型の「乗ると違いがわかる」という評価につながっていました。

    時代の変わり目に立たされた不運

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    U13型が市場に出た1991年は、バブル崩壊が始まった年でもあります。企画・開発はバブルの空気の中で進められましたが、販売はバブル後の冷え込んだ市場で戦わなければなりませんでした。この時間差が、U13型の商業的な運命を大きく左右します。

    景気が後退すると、消費者の目は一気にシビアになります。「上質なセダン」に対する需要そのものが縮小し、代わりに求められたのはコストパフォーマンスや実用性でした。さらに1990年代前半はRVブーム(レクリエーショナル・ビークル)の台頭期でもあり、セダン市場全体が縮小に向かい始めていた時期です。

    加えて、日産社内での立ち位置も微妙でした。同時期に存在したプリメーラ(P10型)がヨーロッパ仕込みのシャープなハンドリングで高い評価を得ており、「走りの日産」を体現する役割はプリメーラに持っていかれた感があります。ブルーバードは「プリメーラほど尖っていないが、ローレルほど上級でもない」という、やや中途半端なポジションに置かれてしまいました。

    販売台数は先代U12型を下回り、ブルーバードの存在感は徐々に薄れていきます。クルマの出来が悪かったわけではない。むしろ質感では歴代最高と言ってもいい。ただ、時代がそれを正当に評価する余裕を失っていたのです。

    SSS-Zという最後の輝き

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    U13型を語るうえで外せないのが、スポーツグレードのSSS系、とりわけ後期に追加されたSSS-Zの存在です。SR20DETターボエンジンに5速マニュアル、ビスカスLSD、専用サスペンション。このあたりの装備を見ると、日産がブルーバードのスポーツ性を最後まで諦めていなかったことがわかります。

    SSS(スーパー・スポーツ・セダン)というグレード名は、1960年代の410型ブルーバードから続く由緒ある名前です。U13型のSSSは、その系譜の中でも最も洗練されたパッケージだったと言えるでしょう。先代のようなラリーイメージの荒々しさは薄れましたが、代わりに日常の中で楽しめるスポーツセダンとしての完成度は高かった。

    ただ、この時期のスポーツセダン市場はシビックSiRやランサー、インプレッサWRXといった強力なライバルが台頭してきた時期でもあります。U13型SSSは「大人のスポーツセダン」としての魅力はあったものの、話題性という点では新興勢力に押され気味でした。

    ブルーバードが最も豊かだった時代

    https://kuruma-dna.com/p610

    U13型の後継であるU14型を最後に、ブルーバードという車名は単独では消滅します。2000年に登場したブルーバードシルフィへと名前は引き継がれましたが、それはもはや別のクルマ、別のコンセプトでした。ブルーバードという「日産の基幹セダン」としての役割は、実質的にU13〜U14型の時代に終わりを迎えたと見るのが自然です。

    U13型は、ブルーバードの長い歴史の中で最も贅沢に作られた世代です。バブルという特殊な時代の空気が、開発陣に「妥協しなくていい」という自由を与えた。その結果、デザインも質感も走りも、従来のブルーバード像を超えるものが生まれました。

    しかし、その豊かさが市場に届いたとき、受け手の側はすでに豊かさを手放し始めていた。U13型ブルーバードとは、バブルが自動車に残した最良の遺産と、その遺産が報われなかった現実の両方を体現するクルマです。だからこそ、今振り返ると妙に味わい深い。

    時代を映す鏡としてのセダンの姿が、ここにはっきりと残っています。

  • セドリック – Y32【セダンを残し、ハードトップだけを次へ】

    セドリック – Y32【セダンを残し、ハードトップだけを次へ】

    1991年、セドリックの4ドアハードトップがY32へ変わりました。角を立てた先代に比べると、輪郭は丸く、顔つきもやわらかい。

    けれど、穏やかになったのは外側だけ。ブロアムVIPには255PSのターボ、グランツーリスモ・アルティマには後輪の向きも制御するスーパーHICASが用意されます。大きな上級車をどう走らせるか、Y32にはいくつもの答えがありました。

    丸みを帯びた、ハードトップの8代目

    Y31までのセドリックには、ハードトップとセダンがありました。1991年に新しくなったのはピラードハードトップだけ。営業車などにも使われるセダンは、Y31型のまま続きます。

    先代のハードトップと写真を見比べると、Y32はフロントから屋根、後ろまで線がなめらかにつながります。同じセドリックの名前を持ちながら、角張ったY31セダンと、この丸いY32ハードトップが街に並んでいたのです。

    車名は一つでも、車体の歩みは一つではありません。Y32はハードトップが進んだ8代目。この違いを頭に置くと、次の世代へ続くセドリックの姿が見えてきます。

    一つの車体に、ブロアムとグランツーリスモ

    Y32にも、上質さを前面に出す「ブロアム」と、走りを印象づける「グランツーリスモ」が並びました。同じピラードハードトップでも、フロントの表情は一つではありません。

    グランツーリスモは丸型4灯のヘッドライトを採用します。ブロアムの落ち着いた顔と比べると、ライトだけで印象が大きく変わる。同じY32の中で性格を選べるようにしたわけです。

    四つの丸いライトを置いたグランツーリスモは、なめらかな輪郭の中でもひときわはっきりした顔を持っていました。車体の形は共有しても、前から近づいてくる姿はまるで違います。

    255PSを持つブロアムVIP

    1991年式Y32セドリック・ブロアムVIPの斜め前から見た姿
    1991年式セドリック・ブロアムVIP(PAY32型)。写真:TTTNIS/Wikimedia Commons、CC0 1.0。Commonsの縮小版を使用

    ブロアムという名から、静かに後席へ乗るクルマを想像するかもしれません。ところが、その最上級に置かれたブロアムVIPは、力も持っていました。

    写真の1991年式ブロアムVIPは、全長4,780mm、全幅1,745mm、ホイールベース2,760mm。長いボンネットと後席まで続くルーフを一枚の姿にまとめた、大きなハードトップです。

    1991年式のPAY32型ブロアムVIPには、3.0LのVG30DET型V6ツインカムターボが載ります。最高出力は255PS、最大トルクは35.0kgm、車両重量は1,680kg。ブロアムの名を掲げる大きな車体に、Y32の中でも力のあるエンジンが組み合わされていました。

    Y32には、このターボのほかにも2.0LのVG20E、3.0LのVG30EやVG30DE、ディーゼルのRD28がありました。同じハードトップのボンネットの下でも、エンジンの幅は広い。255PSのVG30DETはブロアムVIPだけでなく、グランツーリスモ・アルティマにも載りました。

    ブロアムVIPの電動格納ドアミラー、フルオートエアコン、速度を一定に保つASCD、運転席エアバッグ。速いだけで上級車を名乗ったわけではありません。移動中に何を運転者へ任せ、何をクルマに任せるかまで考えた仕様です。

    このPAY32型ブロアムVIPは、前がストラット式、後ろがマルチリンク式のサスペンション。前後ともベンチレーテッドディスクブレーキを備えます。大きな車体の中で255PSを生かすには、止まり方と路面に対する姿勢も大切でした。華やかな数字の後ろに、そうした足回りが控えています。

    グランツーリスモには、後輪を操る選択肢

    一方、グランツーリスモ・アルティマのPBY32型には、スーパーHICASが設定されました。前輪を切るだけでなく、後輪の向きも制御する仕組みです。丸型4灯の顔の奥に、曲がり方へ踏み込む装備がありました。

    角を曲がるときも、高速で車線を移すときも、クルマの後ろ側はただ引きずられているわけではない。後輪まで動きに加えるという発想は、大きな上級ハードトップにも操る楽しさを求めた、この仕様の性格をよく示しています。

    先代Y31は、セドリックにグランツーリスモの名を加え、上級車にも「運転する楽しさ」を掲げました。Y32のアルティマは、外観だけでその言葉を受け継いだのではありません。後輪の動きにまで踏み込んだ選択肢を、同じグランツーリスモの系列へ用意したのです。

    アルティマはVIPと同じ255PSのV6ターボを持ちながら、スーパーHICASという選択肢も用意しました。力の数字を共にする二台でも、外から見える顔と、選べる装備が違う。この幅もY32の面白さです。

    二つの顔を次へ渡す

    1995年、ハードトップはY33へ交代します。ブロアムとグランツーリスモという二つの系列は、次のハードトップにも受け継がれました。

    丸みを帯びた姿の中に、静かに乗るための装備と、後輪まで使って曲がる仕組みをそろえたY32。同じ255PSでも、どんな顔と装備で乗るかを選べるところに、この世代らしさがあります。

    Y31セダンはその後も残ります。一方のハードトップは姿を変え、上級車の中で走り方を選べる道を、Y33へ渡していきました。

  • チェロキー – SJ【SUVという言葉が生まれる前の本格派】

    チェロキー – SJ【SUVという言葉が生まれる前の本格派】

    SUVという言葉が世の中に定着するのは、1990年代に入ってからのことです。

    では、その前史にあたる時代に「本格的な四輪駆動車を、もう少しスタイリッシュに、もう少し日常的に乗れるようにしよう」と考えたメーカーはどこだったのか。

    答えは、ジープブランドを擁していたAMC(アメリカン・モーターズ・コーポレーション)でした。

    1974年に登場したチェロキーSJは、その試みの最初の一手です。

    ワゴニアの弟として生まれた2ドア

    ジープ・チェロキー SJ
    画像:Thomas Vogt from Paderborn, Deutschland/CC BY 2.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/xj-cherokee

    チェロキーSJの出自を理解するには、まずフルサイズ・ワゴニアの存在を知る必要があります。1963年に登場したワゴニアは、「高級な4WDワゴン」という当時としては異例のコンセプトを持つクルマでした。ウッドパネルの外装、エアコン、オートマチックトランスミッション。それまで作業車・軍用車のイメージが強かった四駆の世界に、初めて「快適さ」を持ち込んだモデルです。

    ただ、ワゴニアはいかんせん大きかった。全長5メートル超、4ドアのフルサイズボディは堂々たるものでしたが、もう少し身軽に、もう少しスポーティに4WDを楽しみたいという層には重すぎたわけです。

    そこで1974年、ワゴニアのプラットフォームをベースに2ドア化して登場したのがチェロキーSJです。基本的なシャシーやドライブトレインはワゴニアと共有しつつ、ドアを2枚にしてホイールベースはそのまま。見た目の印象はかなりスポーティになりました。ワゴニアが「紳士の4WD」なら、チェロキーは「少しやんちゃな弟」という位置づけです。

    AMCという会社の事情

    ジープ・チェロキー SJ
    画像:Thomas Vogt from Paderborn, Deutschland/CC BY 2.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/kj-cherokee

    チェロキーSJが生まれた背景には、AMCの経営的な苦しさも無関係ではありません。1970年代のAMCは、ビッグ3(GM、フォード、クライスラー)に対して乗用車市場で劣勢を強いられていました。規模の経済で勝てない以上、ニッチを攻めるしかない。その最大の武器が、1970年にカイザー・ジープ社から買収したジープブランドだったのです。

    つまりAMCにとって、ジープ系のラインナップを広げることは生存戦略そのものでした。ワゴニアという成功モデルがある以上、そこから派生車種を作って市場を広げるのは合理的な判断です。チェロキーSJは、いわば「持てるカードで最大限の手を打つ」という発想から生まれたクルマでもあります。

    中身はまぎれもない本格派

    ジープ・チェロキー SJ
    画像:Greg Gjerdingen from Willmar, USA/CC BY 2.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/kl-cherokee

    2ドアでスポーティな見た目とはいえ、チェロキーSJの中身はまぎれもないフルフレーム構造の本格4WDです。ラダーフレームにリーフスプリングのリジッドアクスル、パートタイム4WDのトランスファーケース。このあたりの基本構成は、当時のジープ車に共通するものでした。

    エンジンは時代とともに変遷しますが、初期にはAMC製の直列6気筒やV8が搭載されています。特にAMC製の360cu.in.(5.9リッター)V8は、トルクフルで悪路走破性を支える心臓部として信頼を集めました。高速道路でもそれなりに走れて、ダートでもしっかり仕事をする。そのバランスが、チェロキーSJの持ち味だったと言えます。

    足まわりは決して洗練されたものではありません。リーフスプリングのリジッドアクスルですから、舗装路での乗り心地は現代の基準で言えばかなり硬い。ただ、それは当時の四駆としてはごく標準的な仕様であり、むしろオフロードでの耐久性と整備性を優先した結果です。

    「SUV以前」の時代が求めたもの

    1974年という登場年は、ちょうど第一次オイルショックの直後にあたります。ガソリン価格が高騰し、燃費の悪い大型車には逆風が吹いていた時代です。フルサイズのV8を積んだ4WDなど、本来なら売りにくいはずでした。

    しかしチェロキーSJは、そこそこ堅調に売れ続けます。理由はシンプルで、このクルマを必要としていた層は「燃費で選ぶ人たち」ではなかったからです。農場や牧場のオーナー、雪深い地域の住民、アウトドア愛好家。彼らにとって4WDは趣味ではなく実用であり、代替手段がそもそも少なかった。

    加えて、チェロキーSJには「ワゴニアほど高くない」という価格面のメリットもありました。ワゴニアが高級路線に振っていた分、チェロキーはもう少し手の届きやすい存在だったのです。本格4WDの走破性は欲しいけれど、ウッドパネルやフル装備までは要らない。そういう実直な需要に応えたモデルでした。

    長寿モデルとしてのSJ世代

    チェロキーSJは、1974年の登場から1983年まで、約10年にわたって生産されました。途中で4ドアモデルが追加されたり、エンジンラインナップが整理されたり、細かなフェイスリフトは受けていますが、基本設計は大きく変わっていません。

    この「長く作り続けた」という事実自体が、SJ世代の性格をよく表しています。革新的な技術で世代交代を繰り返すタイプのクルマではなく、堅実な基本設計を時代に合わせて微調整しながら使い続ける。ジープというブランドが持つ「道具としての信頼性」が、そのまま商品寿命の長さにつながったわけです。

    ただし、1980年代に入ると状況は変わります。燃費規制の強化、ダウンサイジングの潮流、そして何より消費者の嗜好の変化。フルフレームのフルサイズ4WDは、さすがに時代遅れになりつつありました。

    XJへの橋渡し、そして系譜の意味

    1984年、チェロキーはXJ型へとフルモデルチェンジします。このXJこそが、ユニボディ構造を採用した画期的なコンパクトSUVとして歴史に名を残すモデルです。ラダーフレームを捨て、車体を一回り以上小さくし、乗用車的な乗り味を実現した。まさに「SUVの原型」と呼ばれるにふさわしい一台でした。

    では、SJ世代は単なる「古い前任者」だったのかというと、そうではありません。SJが証明したのは、「本格4WDにも、もっと幅広い顧客がいる」という市場の存在です。ワゴニアの高級路線とは別に、もう少しカジュアルに、もう少し手軽に四駆を楽しみたい層がいる。その仮説を実証したのがSJ世代のチェロキーでした。

    XJが大胆な設計革新に踏み切れたのは、SJが「四駆=作業車」というイメージを少しずつ崩し、一般ユーザーへの間口を広げていたからです。いきなりユニボディの四駆を出しても、市場が受け入れる土壌がなければ意味がない。SJは、その土壌を耕した世代だったと言えます。

    初代チェロキーSJは、派手な革新者ではありません。しかし、SUVという巨大な市場が生まれる前夜に、「四駆をもっと身近に」という方向性を静かに、しかし確実に示した一台です。

    その地味な功績は、もう少し語られてもいいのではないでしょうか。