投稿者: hodzilla51

  • チェロキー – KL【フィアットの血で蘇った、らしくないチェロキー】

    チェロキー – KL【フィアットの血で蘇った、らしくないチェロキー】

    チェロキーという名前を聞いて、多くの人が思い浮かべるのは四角くて武骨なXJか、あるいはそのイメージの延長線にある何かでしょう。

    ところが2014年に登場したKL型は、その期待をまるごとひっくり返すような顔をしていました。細く裂けたようなヘッドライト、流れるようなボディライン。

    「これがチェロキー?」という反応は、むしろメーカーの狙い通りだったのかもしれません。

    チェロキー不在の時代と、復活の背景

    ジープ・チェロキー KL
    画像:Dinkun Chen/CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/kj-cherokee

    KL型を語るには、まずその前に「チェロキーが存在しなかった時代」を押さえる必要があります。

    先代にあたるKJ型リバティ(北米ではリバティ、海外市場ではチェロキーの名も使用)が2012年に生産終了して以降、ジープのラインナップからチェロキーの名は一時的に消えていました。

    その間にクライスラーを取り巻く環境は激変しています。2009年の経営破綻、そしてフィアットによる段階的な買収。2014年にはフィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)として正式に統合されます。KL型チェロキーは、まさにこの再編のさなかに企画・開発された車です。

    つまりKLは、単なるモデルチェンジではありません。フィアット傘下で「ジープ」というブランドをどう再構築するか、その回答の一つとして生まれた車です。ジープにとってのグランドチェロキーが上位、レネゲードが入門編だとすれば、チェロキーはその中間を埋める「ど真ん中」の存在として位置づけられました。

    9速ATという野心と、その現実

    ジープ・チェロキー KL
    画像:Dinkun Chen/CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/xj-cherokee

    KL型チェロキーの技術的な目玉は、ZF製の9速オートマチックトランスミッション(9HP)でした。当時、乗用車ベースのSUVに9速ATを載せること自体がかなり先進的で、世界初の量産搭載例のひとつです。

    狙いは明確で、多段化によって高速巡航時のエンジン回転数を下げ、燃費を改善すること。2010年代前半のアメリカ市場では、CAFE規制(企業平均燃費基準)の強化が迫っており、SUVといえども燃費性能を無視できない時代に入っていました。9速ATはその回答として合理的だったわけです。

    ただし、デビュー直後の評価は手放しで褒められるものではありませんでした。変速ロジックのぎこちなさ、低速域でのシフトハンティングなど、ソフトウェアの熟成不足を指摘する声は少なくなかった。後にアップデートで改善されていきますが、「新しい技術を最初に載せる車」が背負うリスクを、KLはそのまま引き受けた格好です。

    あのデザインは、なぜああなったのか

    ジープ・チェロキー KL
    画像:Dinkun Chen/CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/cherokee-sj

    KL型チェロキーの最大の話題は、やはりあのフロントフェイスでしょう。ヘッドライトを上下に分割し、細いデイタイムランニングライトを上段に、メインのプロジェクターランプを下段に配置するという、当時としてはかなり攻めたデザインでした。

    このデザインを手がけたのは、FCA傘下でジープブランドのデザインを統括していたマーク・アレン氏です。彼の意図は「ジープらしさを残しつつ、都市型SUVとしてのモダンさを打ち出す」こと。7スロットグリルというジープのアイコンは残しつつ、それ以外の要素で従来のジープ像を意図的に崩しにかかっています。

    賛否は当然ありました。というより、否のほうが目立ったと言ってもいいかもしれません。「チェロキーらしくない」「ジープに見えない」という声は根強かった。ただ、これはKLが担っていた役割を考えれば理解できます。

    KLが狙っていたのは、トヨタ・RAV4やホンダ・CR-V、フォード・エスケープといったミドルサイズSUVの顧客層です。つまり、従来のジープファンだけでなく、都市部でSUVを日常の足として使う層にリーチする必要があった。そのためには「武骨で男臭い」だけでは足りない、という判断があったのでしょう。

    プラットフォームと走りの実力

    KL型のプラットフォームは、フィアット由来のCUSWプラットフォームをベースにしています。これはダッジ・ダートやクライスラー200とも共有する、FCA再編の産物です。ジープ専用設計ではなく、グループ内での共用プラットフォーム戦略の一環でした。

    ただし、ジープとして仕立てるにあたって手は抜いていません。4WDシステムには「Jeep Active Drive」および「Jeep Active Drive Lock」を用意し、後者にはリアデフロックも備えています。上位グレードのTrailhawkでは、さらにオフロード性能を引き上げた専用セッティングが施されました。

    Trailhawkというグレードの存在は重要です。これは「都市型SUVだけど、ジープである以上オフロードも走れます」という宣言であり、KLがただのクロスオーバーではないことを示すためのアンカーでした。実際、Trailhawk仕様はJeepの「Trail Rated」バッジを取得しており、一定のオフロード性能が公式に保証されています。

    エンジンは2.4L直4のタイガーシャークと、3.2L V6のペンタスターの2本立て。日本市場には当初2.4Lが導入され、後に3.2Lも追加されました。2.4Lは日常使いには十分ですが、車重約1,700kgに対してはやや非力という評もあり、3.2L V6のほうが車格に見合ったゆとりがあると感じる人が多かったようです。

    マイナーチェンジで「普通」に近づいた後期型

    2018年のマイナーチェンジで、KL型チェロキーは大きくフェイスリフトされます。あの上下分割ヘッドライトは廃止され、より一般的な一体型のヘッドライトデザインに変更されました。フロントマスクは一気に「普通のSUV」に近づいた印象です。

    これをどう見るかは、立場によって分かれます。「ようやくまともになった」という声もあれば、「結局あのデザインは失敗だったと認めたのか」という見方もある。ただ、メーカーとしてはマーケットの反応を受けて軌道修正したという、ごく合理的な判断だったのでしょう。

    後期型ではエンジンラインナップにも変更があり、北米市場では2.0Lターボ直4が追加されました。これもFCAグループ内で展開されていたGMEエンジンで、ダウンサイジングターボの流れに沿ったものです。時代の要請に応じてパワートレインを刷新できたのは、グループ経営の恩恵と言えます。

    KLチェロキーが系譜に残したもの

    KL型チェロキーは2023年に生産を終了しました。後継モデルは明確にはアナウンスされておらず、ジープのラインナップ再編の中でチェロキーの名前がどうなるかは不透明なままです。

    振り返ると、KLは「ジープがグローバルブランドとして生き残るための実験台」だったように見えます。フィアットの技術とプラットフォームを使い、都市型SUV市場に本格参入し、デザインでも大胆に冒険した。その結果、成功も失敗も両方経験した車です。

    ただ、KLが切り開いた道は確実にあります。ジープが「ラングラーとグランドチェロキーだけのブランド」から脱却し、レネゲードやコンパスといった都市型モデルを展開する流れの中で、KLチェロキーはその先陣を切った存在でした。

    「らしくない」と言われたチェロキー。

    でも、その「らしくなさ」こそが、ジープというブランドの生存戦略そのものだったのです。好き嫌いは別として、KLがなければ今のジープのポートフォリオは成立していなかった。

    そう考えると、この車の存在意義は見た目以上に大きいものがあります。

  • セドリック – Y33【VQの時代に、直6の4WDも加わった】

    セドリック – Y33【VQの時代に、直6の4WDも加わった】

    1995年、セドリックのハードトップはY32からY33へ移りました。

    新型に載ったVQ型V6は、次の時代を担うエンジンです。ところが、後期の4WDには直列6気筒のRB25DETも現れます。新しいV6だけで終わらなかったところに、Y33の面白さがあります。

    一つの高級ハードトップの中に、異なる考え方のエンジンが並んだ。9代目は、選択肢の多さで記憶したいセドリックです。

    変わったのは、ハードトップの方だった

    モデルチェンジしたのは4ドアハードトップ。Y31のセダンは同じセドリックの名で生産が続きました。ハードトップだけが先へ進む形は、先代Y32からの続きです。

    では、新しいハードトップは何を受け継いだのか。エンジンだけを新しくして、セドリックの選び方を捨てたわけではありません。

    Y33のハードトップには、上質さを押し出すブロアムと、走りの表情を持つグランツーリスモが残りました。二つの系列名はY32から受け継がれます。名札を守りながら、その下のエンジンを新しくしていく世代でした。

    VQが入って、上級車の走りが変わる

    Y33で加わったVQ型は、新開発のV型6気筒でした。従来のVG型もセドリックの歴史を長く支えてきましたが、Y33はVQを上級ハードトップの新しい動力として迎えます。

    アルミ製ブロックによる軽量化に加え、日産が磨いたのはアクセルに対する反応、静粛性、燃費、排出ガスでした。高級車に載せる新型エンジンには、力だけでなく、日々の移動を支える幅広い仕事が求められます。

    3.0LのVQには自然吸気とターボ付きがあり、VQ30DETはその高出力側を担いました。新しいV6を入れたことで、Y33は出力を求める仕様と、軽さや静けさを重んじる仕様を同じ系列の中に置けるようになります。

    同じY33の兄弟車グロリアでは、車体を強め、装備を増やしながら、VQの軽さによって車両全体の軽量化も実現しました。エンジンの材質が変わったことは、上級車を一台としてどう作るかにまでつながっていたのです。

    従来からのVG系も、仕様によってはカタログに残りました。新型エンジンを迎えながら、長く使ってきたものも続ける。Y33のエンジン構成には、その移り変わりがそのまま表れています。

    二つの顔を残したまま、次へ進む

    Y33セドリック・グランツーリスモを後方から見た姿
    Y33型セドリック・グランツーリスモ。写真:TTTNIS/Wikimedia Commons、パブリックドメイン。Commonsの縮小版を使用

    ブロアムとグランツーリスモを一つの名前へまとめなかったことも、Y33らしさです。落ち着いた上級車として乗るか、外観から走りの性格を選ぶか。日産はこの違いを、Y33でも残しました。

    写真のグランツーリスモは、後ろからでも車名と系列名が分かります。前だけでなく後ろ姿にも、セドリックの中の一つの系統として名前が刻まれていました。

    1995年の仕様には、マルチAVを備えたブロアムVIPと、電動スーパーHICAS付きのグランツーリスモ・アルティマもありました。一方は室内の装備を厚くし、もう一方は後輪の向きまで制御する。同じY33でも、名前ごとに力を入れる場所が違います。

    二つの系列は、エンジンの数字だけで分けられたものではありません。外から見える表情も、室内に求める雰囲気も違う。Y33では新しい動力を受け入れながら、セドリックを二つの名前で選ぶ形を守りました。

    1997年、4WDにはRB25DET

    1997年6月のカタログには、グランツーリスモFOURという4WD仕様が載っています。E-ENY33型に搭載されたのは2.5LのRB25DET。こちらはV6ではなく、直列6気筒ターボです。最高出力は235PSでした。

    3.0L VQのターボとは排気量も気筒の並び方も違います。しかも駆動するのは後輪だけでなく4輪。Y33の後期には、エンジンと駆動方式をひと組で変えた選択肢がありました。

    車両重量1,700kgのグランツーリスモFOURは、前がストラット式、後ろがマルチリンク式のサスペンションを備えます。直6ターボと4WDを組み合わせ、Y33の後期にもう一つの走り方を用意していました。

    4速ATを介して常時4輪を駆動し、16インチのアルミホイールを履きました。グランツーリスモの名前はそのままでも、前輪まで力を送る仕組みが車の中身を変えています。外から一目で分かる違いだけが、後期Y33の変化ではありません。

    一つの世代の中でVQの新しさとRBの4WDを両立させたことは、Y33が一枚岩のクルマではなかったことをよく表しています。

    直6ターボと4WDの組み合わせは、次のY34にも引き継がれます。1999年の新型発表では、4WDの「250LV FOUR」にRB25DETが指定されました。Y33後期の変わり種で終わらず、次代へ渡った一つの選択だったのです。

    ブロアムとグランツーリスモの最後

    1999年に登場するY34セドリックでは、ブロアムとグランツーリスモという長年の系列名が廃止されます。セドリックとグロリア、それぞれの車名そのものへ性格を与える構成に変わりました。

    そう考えると、Y33は二つの名前を最後まで同じセドリックの中に置いた世代です。新しいVQを受け入れ、後から直6の4WDも加えながら、ブロアムとグランツーリスモを選ぶ楽しさは残した。

    次のセドリックは、もっと大きく整理されます。Y33には、その直前まで続いた「一つの車名の中に、いくつもの上級車を用意する」という作り方が残っていたのです。

  • チェロキー – XJ【SUVの常識を壊したモノコックの異端児】

    チェロキー – XJ【SUVの常識を壊したモノコックの異端児】

    SUVにモノコックボディを持ち込んだのは、トヨタでもメルセデスでもありません。

    1984年、ジープ・チェロキーXJがそれをやりました。ラダーフレームにボディを載せるのが当たり前だった時代に、ボディそのものを構造体にするという発想。

    これがどれほど異端だったか、当時のオフロード業界の空気を知るほどに驚かされます。

    ラダーフレームが正義だった時代

    ジープ・チェロキー XJ
    画像:Thomas Vogt from Paderborn, Deutschland/CC BY-SA 2.0(Wikimedia Commons)

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    1980年代初頭、四輪駆動車といえばラダーフレーム構造が大前提でした。頑丈なはしご型フレームの上にボディを載せる。悪路走破性と耐久性を最優先にした設計で、ジープもランドクルーザーもランドローバーも、基本的にはこの思想の上にありました。

    ただ、この構造には明確な弱点があります。重いのです。フレームとボディが別体なぶん車両重量はかさみ、重心も高くなる。舗装路での乗り心地やハンドリングは犠牲になりがちで、燃費も悪い。オフロードでの信頼性と引き換えに、日常の使い勝手を差し出していたわけです。

    1970年代のオイルショックを経て、アメリカ市場でも燃費への関心は確実に高まっていました。大排気量・大重量のトラックベースSUVは、時代の風向きと少しずつずれ始めていた。その空気の中で、AMC(アメリカン・モーターズ)が仕掛けたのがチェロキーXJでした。

    AMCとルノーが生んだ異端の設計

    ジープ・チェロキー XJ
    画像:Alexander-93/CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/kj-cherokee

    チェロキーXJの開発背景を語るには、AMCという会社の立ち位置を知る必要があります。ビッグスリー(GM、フォード、クライスラー)に次ぐ第四のメーカーでありながら、経営は常に苦しかった。1970年代末にはフランスのルノーと資本提携し、技術と資金の両面で支援を受けていました。

    XJの設計にはこのルノーの影響が色濃く出ています。開発を主導したのはAMCのエンジニアたちですが、モノコック構造の採用という判断には、乗用車設計に長けたルノーの知見が背景にあったとされています。当時のAMC単独では、ここまで大胆な構造転換に踏み切れたかどうか。

    デザインを手がけたのは、後にクライスラーでも活躍するAMCのチーフデザイナーたち。特筆すべきはそのプロポーションです。従来のSUVより明らかに車高が低く、全幅もコンパクト。見た目からして「これはトラックではない」と主張していました。

    モノコックが変えたもの

    ジープ・チェロキー XJ
    画像:Noah Wulf/CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

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    XJが採用したユニボディ(モノコック)構造は、フレームとボディを一体化させたものです。乗用車では当たり前の手法ですが、本格的な四輪駆動車に使うのは当時としては極めて異例でした。

    この構造がもたらした最大の恩恵は軽量化です。ラダーフレームを廃したことで、同クラスのSUVと比べて数百ポンド(100kg以上)軽くなりました。軽いということは、加速がいい。燃費がいい。ブレーキが効く。舗装路でのハンドリングが素直になる。つまり、日常の道で普通に気持ちよく走れるSUVになったということです。

    しかも、オフロード性能を大きく犠牲にしたわけではありません。ジープの伝統であるパートタイム4WDシステム(コマンドトラック)を搭載し、悪路での走破性もしっかり確保していました。後に追加されたフルタイム4WDの「セレクトラック」も含め、用途に応じた駆動系の選択肢が用意されていたのも見逃せません。

    要するにXJは、「オフロード車だから舗装路はガマンしてください」という従来の常識を拒否した車です。両方やる、という宣言でした。

    直6・4.0Lという心臓

    ジープ・チェロキー XJ
    画像:CZmarlin — Christopher Ziemnowicz, a photo credit would be a/CC0(Wikimedia Commons)

    XJの長い生産期間を通じて、最も重要なパワートレインはAMC製の直列6気筒4.0Lエンジンです。初期には2.5L直4や2.8L V6(GM製)も設定されていましたが、1987年に登場した4.0L直6こそがXJの本質を定義したエンジンでした。

    190馬力前後の出力は、数字だけ見れば控えめに映るかもしれません。しかしこのエンジンの真価はトルク特性にあります。低回転域から太いトルクが立ち上がり、街中でも山道でも扱いやすい。直列6気筒ならではの振動の少なさと滑らかさも相まって、日常使いの快適さに大きく貢献していました。

    このエンジンは驚くほど頑丈だったことでも知られています。20万マイル(約32万km)を超えても平気で走る個体が珍しくなく、整備性の良さも含めて北米のジープファンからは伝説的な評価を受けています。AMCがクライスラーに吸収された後も、この4.0Lはしばらく生産が続きました。それ自体が、このエンジンの完成度を物語っています。

    17年間という異例の長寿

    XJは1984年に登場し、2001年まで生産されました。17年間です。途中でフェイスリフトは受けていますが、基本骨格は最後まで変わっていません。これは自動車の世界では異例の長さです。

    なぜこれほど長く作られたのか。理由はいくつかあります。まず、設計の基本が優れていたこと。モノコック+直6+コンパクトなボディという組み合わせは、年月を経ても古びにくいパッケージでした。

    もうひとつは、後継車の開発が難航したことです。1993年にグランドチェロキー(ZJ)が登場しましたが、これはXJの上位モデルという位置づけであり、XJの直接的な後継ではありませんでした。XJのポジションを正式に引き継ぐリバティ(KJ)が出たのは2002年。つまり、後を継ぐ車がなかなか現れなかったのです。

    結果として、XJは1990年代のSUVブーム全体をその身で駆け抜けることになりました。RAV4やCR-Vといった乗用車ベースのSUV(いわゆるクロスオーバー)が台頭する時代まで、第一線にいたわけです。

    SUVの地殻変動はここから始まった

    XJチェロキーの歴史的な意義は、「SUVを日常の乗り物にした」という一点に集約されます。それまでSUVは、悪路を走る人のための道具でした。XJはそこに「普通の道を普通に走る快適さ」を持ち込んだ。

    この発想は、後のSUV市場全体を方向づけています。トヨタ・ハリアー(1997年)が「高級クロスオーバー」という概念を打ち出したとき、あるいはポルシェ・カイエン(2002年)がスポーツカーメーカーのSUVとして登場したとき、その根底にあるのは「SUVは舗装路でも快適であるべきだ」という思想です。XJがその最初の大きな一歩だったと言っていいでしょう。

    もちろん、XJひとりで世界が変わったわけではありません。しかし、ラダーフレームの呪縛を最初に断ち切り、「SUVとはこういうものだ」という固定観念に風穴を開けたのは、まぎれもなくこの車です。

    モノコックのジープ。それは1984年には異端でした。しかし今、世界中のSUVの大半がモノコック構造を採用しています。

    異端は、いつの間にか標準になっていた。それを切り拓いた一台なのです。

  • セドリック – Y31【グランツーリスモを加えた7代目】

    セドリック – Y31【グランツーリスモを加えた7代目】

    1987年6月17日、7代目セドリックY31が登場しました。Y30からV6を受け継ぎながら、新たに「グランツーリスモ」を加えます。ブロアムと並ぶ、走りを前に出したセドリックです。

    この世代には、もう一つ大事な顔があります。4ドアハードトップが次のY32へ進んだ後も、Y31のセダンは営業車として生き続けました。Y31を一つの終了年で語れないのは、同じ型式の中に二つの時間があるからです。

    ブロアムの隣に、グランツーリスモ

    ブロアムの名前には、セドリックの上級車らしさがありました。Y31はそこへグランツーリスモを並べます。日産が掲げたのは、上級車にも「運転する楽しさ」を持たせることでした。

    黒いY31型セドリック・グランツーリスモSVを斜め前から見た写真
    Y31型セドリック V20ツインカムターボ・グランツーリスモSV。写真:TTTNIS/撮影者によるパブリックドメイン公開。Commonsの縮小版を使用

    写真のグランツーリスモSVを見ると、低く見えるフロントと、車体を長く見せる側面の線が目に入ります。同じセドリックでも、後席の落ち着きを想像させる名前だけでは終わらない。自分でハンドルを握る人へも、車の性格を示したのです。

    走りを見せるグランツーリスモ、上級装備を重ねるブロアム。その横には、後に営業用として長く残るセダンもあります。Y31は最初から、一つの性格に収まらない世代でした。

    VG20DETは185PSから210PSへ

    グランツーリスモの走りを支えた一つが、VG20DET型の2.0L V6ツインカムターボです。4バルブDOHCにセラミックターボを組み合わせました。

    このエンジンの最高出力は、初期型で185PS。1989年以降は210PSとなり、日産が保存する1991年式グランツーリスモSVも210PSです。同じVG20DETの名前のまま、登場時から25PS上積みされました。

    1991年式保存車のホイールベースは2,735mm。足回りは前ストラット、後ろはセミトレーリングアームの独立懸架です。ターボエンジンと足回りを合わせて見ると、グランツーリスモが動力だけでなく、曲がるときの車の動きにも目を向けていたことが分かります。

    それは「大きなセダンだから運転を任せる」という発想から一歩出ることでした。上級車の静けさや装備を保ちながら、自分で走らせる楽しさも選べる。Y31はその選択肢を、ブロアムの隣に置きました。

    1991年、ハードトップだけが先へ進む

    1991年、セドリックの4ドアハードトップは8代目Y32へモデルチェンジします。でも、街からY31の姿が消えたわけではありません。セダンはY31型のまま生産を続けました。

    Y31にとって1991年は、終わりではなく分岐点でした。華やかなグランツーリスモを持つハードトップは次へ渡り、別の仕事を担うセダンは自分の時間を続けます。

    後席のために変わったセダン

    黒いY31型セドリック・セダンのタクシーを斜め前から見た写真
    諏訪交通のY31型セドリック・セダン。写真:Mr.choppers/CC BY-SA 4.0。Commonsの縮小版を使用

    Y31のセダンは、タクシーにも使われました。写真では、後席の窓まで続く太い屋根の柱と、独立したトランクがよく分かります。前の写真のグランツーリスモと見比べると、同じY31でも車体の役割が違うことが見えてきます。

    1991年の改良では、後席の頭上を広げるためにルーフの形が変わりました。後ろの小さなオペラウインドーも廃止されます。外から見える変更ですが、理由は後ろに乗る人の空間でした。

    フォグランプ一体型のハロゲンヘッドライト、高い位置のブレーキランプ、ドア側面の補強材、運転席の上下調整機構も標準装備に加わりました。ハードトップが次の世代へ移っても、セダンには使われ方に合わせた改良が続いていたのです。

    V6だけではなかった長い後半

    営業用セダンのエンジンは、グランツーリスモのVG20DETとは別です。日産の資料では、当初のタクシー向けにLPGのRB20PとディーゼルのRD28が挙げられ、1991年には4気筒LPGのNA20Pが加わっています。

    1996年式の保存車「オリジナル」は、そのNA20Pを載せたタクシー仕様です。1,998ccで82PS、変速機はコラム式の4段MT。同じY31でも、210PSのグランツーリスモSVとは、エンジンも車内の使い方もまるで違います。

    人を乗せて日々走るセダンには、V6ターボとは別のエンジンと装備が選ばれました。Y31の長い後半は、上級ハードトップの続編ではなく、セダン自身の歩みです。

    2014年まで続いた車名

    日産車体の資料では、Y31系セドリックの生産終了は2014年9月。日産の案内では、販売終了は同年11月です。1991年にハードトップがY32へ進んでからも、セダンは20年以上つくり続けられました。

    セドリックのハードトップ系は、その間にY32、Y33、Y34へ進み、2004年に生産を終えます。Y31セダンはそこからも約10年走り続け、同じ車名の年表をさらに先へ延ばしました。

    1987年に生まれたY31は、走りを掲げたグランツーリスモで新しい顔を見せ、後には営業用セダンとして長く働きました。速さを見せた前半と、使われ続けた後半。二つを合わせて初めて、Y31の時間がつながります。

  • ストーリア X4 – M112S【軽自動車メーカーが本気で作ったラリーの道具】

    ストーリア X4 – M112S【軽自動車メーカーが本気で作ったラリーの道具】

    「ダイハツがラリーカーを作っていた」と聞いて、すぐにピンとくる人はそう多くないかもしれません。

    軽自動車とコンパクトカーのメーカーというイメージが強いダイハツですが、1990年代末に送り出したストーリア X4は、そのイメージを根底から覆す一台でした。型式M112S。

    排気量わずか713ccの直列4気筒DOHCターボを積み、車重は約770kg。これは市販車の皮をかぶった、ほぼ競技専用マシンです。

    なぜダイハツがラリーに挑んだのか

    ダイハツ・ストーリア
    画像:Jason Lawrence from New York/CC BY 2.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/m312s

    ストーリア X4の話をするには、まずダイハツのモータースポーツへの姿勢を知る必要があります。

    ダイハツは1960年代から小排気量クラスのレースやラリーに参戦してきたメーカーです。シャレードでのラリー活動は特に有名で、1980年代にはWRC(世界ラリー選手権)のグループBにシャレード926ターボを投入した実績もあります。

    つまり、ダイハツにとってラリーは突発的な思いつきではなく、小さなクルマで大きな相手に挑むという企業文化の延長線上にあるものでした。シャレードが生産終了を迎えた後、その競技活動の受け皿となったのが、1998年に登場したストーリアだったわけです。

    713ccという排気量の意味

    ダイハツ・ストーリア
    画像:Jason Lawrence from New York/CC BY 2.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/l880k

    ストーリア X4のエンジン、JC-DET型は排気量713ccの直列4気筒DOHCインタークーラーターボです。この「713cc」という半端な数字には、明確な理由があります。当時のラリー競技規定では、ターボ車の排気量に1.7倍の係数をかけて排気量クラスを決定していました。713cc × 1.7 ≒ 1,212cc。これでちょうどA6クラス(1,400cc以下)の枠内に収まる計算です。

    要するに、競技レギュレーションから逆算してエンジンの排気量を決めているんです。市販車としての使い勝手なんて、正直なところ二の次。最初からラリーで勝つための排気量設計でした。

    このエンジンが生み出す最高出力は、市販状態で120ps。リッターあたり約168psという数字は、当時の市販車としては異常な領域です。しかも車重は約770kgですから、パワーウェイトレシオは6.4kg/ps前後。同時代の2リッタースポーツカーと比較しても遜色ない、というよりむしろ上回る水準でした。

    市販車としての異質さ

    ダイハツ・ストーリア
    画像:Retired electrician/CC0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/la400k

    ストーリア X4は、FIAのホモロゲーション(競技参加のための公認)を取得するために一定数を市販する必要がありました。そのため一般のお客さんも買うことができたのですが、中身はほとんど競技車両のベースマシンです。

    装備は極めて簡素でした。エアコンはオプション、パワーウインドウもなし。ABSすら非装着です。内装は必要最低限で、快適装備を削ることで軽量化を徹底しています。通常のストーリアが「普通に使える小さなクルマ」として設計されていたのとは、完全に別物と言っていい仕立てです。

    ミッションは5速MTのみ。駆動方式はFFで、フロントにLSD(リミテッド・スリップ・デフ)を装備していました。足回りもラリーでの使用を前提にセッティングされており、日常の乗り心地は相当に硬い。これを街中で普段使いするには、それなりの覚悟が必要だったはずです。

    ただ、この割り切りこそがX4の本質でもあります。快適性を犠牲にしてでも、競技で勝てるクルマを市販する。その姿勢は、三菱のランサーエボリューションやスバルのインプレッサWRXと根本的には同じ発想です。規模もクラスもまったく違いますが、思想は共通していました。

    ラリーでの実績と評価

    ダイハツ・ストーリア
    画像:Retired electrician/CC0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/la400a

    ストーリア X4は、全日本ラリー選手権のAクラスで実際に活躍しました。小排気量ターボの圧倒的なパワーウェイトレシオと、軽量コンパクトなボディによる機敏なハンドリングは、狭い林道やツイスティな山岳路で大きなアドバンテージとなりました。

    特にダートラ(ダートトライアル)やジムカーナといった国内競技でも人気を集め、プライベーターにとって「小さくて速くて、ベース車両として手が届く」存在として重宝されました。ランエボやインプレッサのような4WDターボ勢とは戦うフィールドが違いますが、自分のクラスでは圧倒的な競争力を持っていたのです。

    2000年代に入ると、ストーリアのマイナーチェンジに合わせてX4も改良を受けています。2004年にはストーリアの後継であるブーンの登場により生産を終了しましたが、その後もブーン X4として競技用ベース車両の系譜は引き継がれました。ダイハツの「小さなクルマでモータースポーツに挑む」というDNAは、ストーリアで途切れたわけではなかったのです。

    シャレードからブーンへ続く系譜の中で

    ストーリア X4を語るうえで外せないのは、この一台がダイハツのモータースポーツ史における「つなぎ役」であると同時に、ある意味で最も純粋な競技ベース車両だったという点です。

    シャレードの時代は、まだ市販車とラリーカーの距離がそこまで離れていませんでした。後継のブーン X4は、ブーンというより成熟した市販車をベースにしている分、やや「普通のクルマ」寄りになっています。ストーリア X4は、そのちょうど間に位置する時代に、最も妥協なく競技のために作られた市販車でした。

    生産台数も多くなく、現存する個体はかなり限られています。中古市場で見かけること自体が珍しく、競技ベース車両としての役目を終えた今では、その存在を知らない世代も増えています。

    小さなメーカーの、小さくない意地

    ストーリア X4は、売れ筋モデルではありません。ダイハツの経営を支えたクルマでもありません。ただ、このクルマが存在したという事実そのものが、ダイハツというメーカーの性格を雄弁に語っています。

    軽自動車やコンパクトカーで生計を立てるメーカーが、わざわざ競技専用に近いエンジンを新たに設計し、ホモロゲーションのために市販車として世に出す。採算だけで考えれば、やらない方が合理的でしょう。それでもやったのは、「小さいクルマだからこそ速くできる」という信念があったからだと思います。

    713ccで120ps、車重770kg。数字だけ見れば異常ですが、その異常さの裏にはきちんとした計算と、モータースポーツへの執念がありました。

    ストーリア X4は、ダイハツが「ただの実用車メーカー」ではなかったことの、最も鮮烈な証拠です。

  • セドリック – Y30【V6が主役になった6代目】

    セドリック – Y30【V6が主役になった6代目】

    1983年6月22日、6代目セドリックのY30が登場しました。四角い430型の次も直線を使った姿ですが、ボンネットの中は大きく変わります。長く親しんだ直列6気筒に代わり、VG型のV6を主力に据えたのです。

    しかもY30は、エンジンだけを替えた車ではありません。静かな室内、雨を見て動くワイパー、後席まで調整できる電動シート。上級車の快適さを、機械と電子装備の両方でつくろうとした世代です。

    直列6気筒からV6へ

    先代430型の2.0Lターボは、L型の直列6気筒でした。6つのシリンダーが一列に並ぶ、長く使ってきた形です。Y30で前面に出たVG型は、それを左右3本ずつに分けたV6。日産はY30を、国産乗用車で初めてV6を採用したモデルと紹介しています。

    登場時のV6には3.0LのVG30Eと2.0LのVG20Eがありました。日産のY30セダン資料には、2.0LターボのVG20ETもラインアップとして挙げられています。3.0Lだけの車ではなく、排気量と過給の選び方を残しながら、エンジンの基本の形を変えたのです。

    淡い色のY30型セドリック・セダンを斜め前から見た写真
    日産ヘリテージコレクションに展示されたY30型セドリック・セダン。写真:M.rJirapat/CC BY-SA 4.0。Commonsの縮小版を使用

    写真のセダンでは、広いグリルの両端にライトを置き、車体側面をまっすぐ伸ばしています。430型からの角張った輪郭を残しつつ、中身は新しいV6へ。外観の継続とエンジンの転換が、同じ車に収まっています。

    静かさを数字の外でもつくる

    Y30のホイールベースは先代より40mm長くなりました。長さだけで室内の良し悪しは決まりませんが、日産はエンジン音を抑える工夫や、サスペンションから伝わる振動を減らす構造も説明しています。

    さらに車体表面の段差を抑え、走行中の空気の流れにも気を配りました。上級車を「大きなエンジンと豪華な内装」で終わらせず、乗っている間に聞こえる音や伝わる揺れまで整える。Y30が目指した快適さは、こうした見えにくい部分にもありました。

    それは運転する人だけの話ではありません。後席に人を乗せるセドリックでは、エンジンの静かさも、車体から伝わる振動の少なさも、移動中の居心地を左右します。Y30はV6の新しさを、車内で感じる変化につなげようとしました。

    雨を見て動くワイパー

    Y30には雨滴を感知して間欠作動するワイパーが用意されました。日産はこれを、当時の世界初の自動ワイパーシステムと説明しています。雨が降り始めるたびに手で間隔を調整する、その小さな操作を車に任せる装備です。

    電子装備はワイパーだけではありません。ターボ車には選曲表示や番組予約のできる電子式ラジオチューナーがあり、室内の空調にもコンピューター制御が使われました。ボンネット先端のマスコットを光らせる仕組みまであります。

    雨、音、室温。電子技術の出番は運転席から客室まで広がりました。速く走るためだけでなく、移動中に人が繰り返す操作を減らすことにも使う。Y30の装備には、1980年代の上級車が考えた「便利」が詰まっています。

    1984年、VIPに3.0Lターボが加わる

    3.0Lターボは、Y30の登場から約1年後に加わりました。まず1984年1月に「V30EブロアムVIP」が最上級仕様として登場。同年6月18日に、VG30ET型V6ターボの「ターボブロアムVIP」と「ターボブロアム」が加わります。

    1985年式のターボブロアムVIP保存車は、2,960ccで230PS、最大トルク34.0kgmです。同じVG30ETはフェアレディZにも使われました。2.0LのV6や営業用セダンとは、エンジンも力の出し方も違います。

    1984年1月のV30EブロアムVIPには、前後4席の位置を記憶する電動シートが用意されました。後から加わるターボVIPには、車高を保つ装置も備わります。運転席で力を感じるエンジンと、乗る人に合わせる室内装備。Y30は、上級車の価値を二つの方向から広げていました。

    ワゴンも、LPGのセダンもいた

    木目調の側面を持つ白いY30型セドリック・ワゴンを斜め前から見た写真
    沖縄で撮影された1985年式とされるY30型セドリック・ワゴン。写真:User3204/CC BY-SA 4.0。Commonsの縮小版を使用

    Y30には4ドアハードトップ、セダンのほか、ワゴンとバンもありました。写真のワゴンは、長いルーフと荷室側の窓がはっきり見えます。ハードトップの短い後部と比べると、同じセドリックでも車体の役割が違います。

    エンジンもV6だけではありません。日産の資料には、直列6気筒ディーゼルのLD28、セダンやバン向けの4気筒ガソリンCA20S、セダン向けLPGのCA20Pが載っています。1984年式NY30型セダンGLの保存車は、CA20Pを使った1,973ccのLPG車です。

    V6はY30の大きな変化です。その一方で、ワゴンや営業用セダンには別のエンジンも残りました。車体と燃料を用途に合わせて選べることも、この世代の広さでした。

    Y31へ渡した二つの流れ

    1987年、ハードトップとセダンは7代目Y31へ進みます。VG型V6はその後も活躍し、上級装備と走りの組み合わせは、次のセドリックでさらに違う顔を見せます。

    Y30で始まったのは、単に「直列6気筒をV6に替えた」という話ではありません。静かな車内をつくり、電子装備を増やし、3.0Lターボを後から加える。同時に、セダンやワゴン、LPG車も残した。新しい技術と幅広い使い道を、同じ車名の中に抱えた6代目でした。

  • チェロキー – KJ【XJの後継が背負った「モダン」という十字架】

    チェロキー – KJ【XJの後継が背負った「モダン」という十字架】

    「チェロキー」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、おそらく四角くて武骨なXJ型のほうでしょう。

    1984年から2001年まで、基本設計を大きく変えずに売り続けられたあのモデルは、コンパクトSUVというジャンルそのものを作った存在でした。

    では、その後を継いだKJ型とは何だったのか。

    答えを先に言えば、「正しくアップデートしようとしたのに、正しさゆえに愛されにくかった車」です。

    XJという巨大な影

    ジープ・チェロキー KJ
    画像:SsmIntrigue/CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/kl-cherokee

    KJ型チェロキーを語るには、まず先代XJの存在感を理解しておく必要があります。XJチェロキーは17年間という異例の長寿モデルでした。モノコックボディにストレート6を積み、フルタイム4WDを備えたコンパクトSUVとして、北米でも日本でも圧倒的な支持を得ていました。

    しかし2001年、さすがに設計の古さは限界に達していました。衝突安全基準の強化、排ガス規制の厳格化、そして乗用車的な快適性を求める市場の変化。XJをそのまま延命させる選択肢は、もう残っていなかったのです。

    ただ、後継車を作る側にとってこれは厄介な状況でした。XJは「古いからこそ良い」と愛されていた車です。モダンにすればするほど、XJファンからは「これじゃない」と言われるリスクがある。KJ型の開発は、最初からこのジレンマを抱えていました。

    ダイムラー・クライスラーが描いた新設計

    ジープ・チェロキー KJ
    画像:SsmIntrigue/CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/xj-cherokee

    KJ型の開発が進んだのは、1998年のダイムラー・ベンツとクライスラーの合併直後の時期です。当時のクライスラー側には、ジープブランドを「もっとグローバルに、もっと洗練された方向へ持っていく」という意志がありました。KJ型はその方針を体現する最初の一台だったと言えます。

    プラットフォームは完全新設計です。XJのようなストレート6ではなく、3.7L V6エンジンを新たに搭載しました。このパワーユニットはクライスラーの「パワーテック」系列で、210馬力前後を発生します。直6の滑らかさとは異なるキャラクターですが、出力と搭載性のバランスを考えた現実的な選択でした。

    足回りも大きく変わりました。フロントにダブルウィッシュボーン、リアにマルチリンクという、SUVとしてはかなり乗用車寄りのサスペンション構成です。XJのリーフスプリングとは完全に決別し、オンロードでの乗り心地と操縦安定性を大幅に改善しています。

    4WD システムには「セレクトラック」と呼ばれるパートタイム/フルタイム切り替え式を採用しました。2WD、フルタイム4WD、パートタイム4WD、4WD Lowの4モードを選べる仕組みで、日常使いからオフロードまでカバーする設計です。ジープとしての本分は、ここでしっかり守られていました。

    北米では「リバティ」、世界では「チェロキー」

    ジープ・チェロキー KJ
    画像:MercurySable99/CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/cherokee-sj

    ここでややこしいのが車名の問題です。KJ型は北米市場では「ジープ・リバティ」として販売されました。「チェロキー」の名称は、ネイティブ・アメリカンの部族名を商品名に使うことへの配慮から、北米では一時的に使用を控えたのです。

    一方、日本を含む北米以外の市場では従来どおり「チェロキー」の名前が継続されました。つまり同じ車が地域によって別の名前で売られていたわけです。この車名の分裂は、KJ型のアイデンティティをやや曖昧にした面があります。

    日本市場には2001年末から導入が始まりました。当時の日本ではSUVブームがまだ続いており、ハリアーやCR-Vといった都市型SUVが台頭していた時期です。KJ型チェロキーは、そうした日本車の都市型SUVとガチのオフローダーの中間に位置する、やや独特なポジションでした。

    モダンになった代償

    KJ型の乗り味は、XJと比べると明らかに洗練されていました。高速道路での安定感、段差を越えたときの収まりの良さ、室内の静粛性。どれをとっても世代が違うことがはっきりわかります。

    ボディサイズもXJとほぼ同等に収めながら、室内空間はやや拡大されました。全長約4,500mm、全幅約1,840mmというサイズ感は、日本の都市部でもギリギリ扱える範囲です。この「大きすぎない」というのは、グランドチェロキーとの棲み分けとしても重要なポイントでした。

    ただ、ここからが難しいところです。XJチェロキーが持っていた「道具感」「無骨さ」「飾らなさ」は、KJ型では明らかに薄まりました。丸みを帯びたデザイン、整ったインテリア、静かになったエンジン音。どれも進化なのですが、XJに惚れ込んでいた層にとっては「ジープらしさが減った」と映ったのです。

    これは設計の失敗というより、時代の要請と既存ファンの期待が真正面からぶつかった結果です。2000年代初頭のSUV市場は、快適性と安全性を求める方向に急速に動いていました。KJ型はその流れに正しく対応した車でしたが、「正しい」ことと「愛される」ことは必ずしも一致しません。

    品質と信頼性という課題

    KJ型にはもうひとつ、避けて通れない話題があります。信頼性です。ダイムラー・クライスラー時代のジープ全般に言えることですが、電装系のトラブルやオイル漏れ、ウィンドウレギュレーターの故障など、細かい不具合の報告が少なくありませんでした。

    3.7L V6エンジン自体は頑丈な設計でしたが、補機類やセンサー周りの耐久性には課題がありました。これは当時のクライスラー全体のコスト管理の問題とも関係しており、KJ型だけの話ではありません。ただ、XJの「壊れても直しやすい」というシンプルさと比べると、KJ型の電子制御の多さは整備のハードルを上げた面があります。

    2005年のマイナーチェンジでは内外装のリフレッシュとともに、こうした品質面の改善も図られました。後期型は初期型に比べて安定しているという評価が多く、中古で選ぶなら後期型を勧める声が今でも根強くあります。

    KJ型が系譜に残したもの

    KJ型チェロキーの生産は2007年に終了し、後継はKK型リバティ(北米外ではチェロキーの名称が途絶え、後にKL型で復活)に引き継がれました。KJ型は一代限りのプラットフォームとなり、直接的な後継設計には発展していません。

    しかしKJ型が果たした役割は、単なる「つなぎ」ではありませんでした。XJという偉大な先代から、現代的なSUVへとジープのコンパクトモデルを移行させる橋渡し役です。乗用車的な快適性とジープとしてのオフロード性能を両立させようとした試みは、後のKL型チェロキー(2014年〜)にも確実に受け継がれています。

    KJ型を「名車か」と問われれば、正直なところ即答は難しいです。XJのような伝説にはなりませんでしたし、KL型のような商業的成功も収めていません。ただ、「古典から現代へ」という最も難しい世代交代を引き受けた車であったことは間違いありません。

    時代が求めた「モダン」を誠実に追い求め、その結果として先代の影に隠れがちになった。KJ型チェロキーとは、そういう車です。正しかったけれど、派手ではなかった。でもこの車がなければ、ジープのコンパクトSUVは次の時代に進めなかった。

    系譜の中で、そういう存在こそが実は一番大事だったりするのです。

  • ブーン X4 – M312S【軽の血が生んだリッターカー最強の異端児】

    ブーン X4 – M312S【軽の血が生んだリッターカー最強の異端児】

    コンパクトカーの世界に、突然ラリーマシンのベースモデルが現れる。しかもそれを作ったのは、軽自動車を本業とするダイハツだった。

    ブーン X4(M312S)は、そんな「なぜこのメーカーが、なぜこの車で」という問いを抱えたまま誕生した、極めて特殊な一台です。

    ストーリアの後継という宿命

    https://kuruma-dna.com/m112s

    ブーン X4を語るには、まずその前身であるストーリア X4(M112S)に触れないわけにはいきません。ダイハツは2000年代初頭、WRC(世界ラリー選手権)のスーパー1600クラスやJWRC(ジュニアWRC)に参戦するため、ストーリアをベースにした競技向けモデルを市販していました。

    ストーリア X4は713ccの直列4気筒ターボ(JC-DET)を搭載し、わずか120psながら車重が約840kgという軽さで、国内ラリーやダートトライアルで猛威を振るいました。ただ、ストーリアは2004年に生産終了を迎えます。後継のコンパクトカーがブーンであり、X4の系譜もそこへ引き継がれることになったわけです。

    1.3L・4気筒ターボ・4WDという構成

    https://kuruma-dna.com/l880k

    2006年に登場したブーン X4(M312S)は、ストーリア X4から大きくキャラクターを変えました。最大のポイントは、エンジンが直列4気筒1.3Lターボ(K3-VET)になったことです。排気量でいえばストーリアの713ccからほぼ倍増。出力は133ps/17.3kgmに達しました。

    この数字だけ見ると「まあそこそこ」と思うかもしれません。しかし、車重が約910kgしかないことを考えると話は変わります。パワーウェイトレシオは約6.8kg/ps。これは同時代のスイフトスポーツ(ZC31S)の約8.5kg/psを大きく上回る水準です。

    駆動方式はセンターデフ付きのフルタイム4WD。トランスミッションは5速MTのみ。ABSすら装備されないグレードが用意されるなど、明確に競技ユースを前提とした割り切りが見えます。

    軽自動車技術の応用という発想

    https://kuruma-dna.com/la400k

    ブーン X4の面白さは、ダイハツという会社の文脈で見たときに際立ちます。ダイハツの本丸は軽自動車です。ムーヴやタント、コペンといった軽規格の中で、軽量化やターボ技術、限られた排気量での効率追求を磨いてきたメーカーです。

    その軽自動車づくりの思想が、リッタークラスのコンパクトカーに持ち込まれたのがX4シリーズの本質です。車体は極限まで軽く、エンジンは小排気量ターボで効率よくパワーを出す。「大きなエンジンを積めばいい」という発想の対極にある設計哲学です。

    K3-VETエンジン自体は、ブーンの通常グレードに積まれるK3-VE型をベースにターボ化したもので、ダイハツが得意とするDVVT(可変バルブタイミング)も備えていました。小さく、軽く、でも速い。それはまさにダイハツが軽自動車で追求してきた価値そのものです。

    競技の世界での存在感

    https://kuruma-dna.com/la400a

    ブーン X4は、国内ラリーやダートトライアルの現場で確かな支持を得ました。特にJAF公認競技のPN・N車両規定において、1.5L以下・4WDターボという希少なカテゴリに属する車両として、ほぼ唯一の選択肢だった時期があります。

    競技車両としての評価が高かった理由は、やはり車重の軽さとターボ4WDの組み合わせです。ダートでは軽さがそのままトラクションの良さにつながりますし、ターボのレスポンスも小排気量ゆえに比較的素直でした。

    ただし、競技ベース車としての宿命で、一般ユーザーが日常使いするにはかなり割り切った仕様です。遮音材は最低限、快適装備は乏しく、内装も簡素そのもの。「これで通勤するんですか?」と聞かれたら、少し言葉に詰まるかもしれません。

    生産台数の少なさと終焉

    ブーン X4は受注生産に近い形で販売されていました。正確な生産台数は公表されていませんが、年間の販売台数は極めて少なかったとされています。ダイハツのラインナップの中でも、完全に「知る人ぞ知る」存在でした。

    2010年にブーンがフルモデルチェンジを迎えた際、X4は後継モデルが設定されませんでした。ダイハツがモータースポーツ活動を縮小していく流れの中で、ホモロゲーション取得のためのベース車両を市販する意義が薄れたことが大きな理由と考えられます。

    つまり、ブーン X4はダイハツがラリーに本気だった時代の最後の証です。ストーリア X4から受け継いだ「小さくて速い4WDターボ」の系譜は、ここで途絶えました。

    軽メーカーだからこそ生まれた一台

    振り返ってみると、ブーン X4の存在意義は「ダイハツが作った」という点に集約されます。トヨタでもスバルでもなく、軽自動車を主戦場とするダイハツだからこそ、900kg台の車体にターボ4WDを詰め込むという発想が自然に出てきた。

    大排気量で押すのではなく、小さなエンジンと軽い車体で戦う。それは軽自動車規格という制約の中で鍛えられた思想の延長線上にあるものです。ブーン X4は、その思想がリッターカーの枠で花開いた、稀有な一台だったと言えます。

    後継は生まれず、系譜は途切れました。けれど、国内ダートラやラリーの現場では今もM312Sが走り続けています。カタログから消えた車が、競技場で生き続けている。

    それ自体が、この車の本質を物語っているのではないでしょうか。

  • ランドクルーザー – BJ60/FJ60/FJ62【「働くクルマ」が高級車になった転換点】

    ランドクルーザー – BJ60/FJ60/FJ62【「働くクルマ」が高級車になった転換点】

    ランドクルーザーが「高級車」として語られるようになったのは、いつからでしょうか。100系? 80系? いや、その萌芽はもっと前にあります。

    1980年に登場した60系こそが、ランクルの性格を根本から書き換えた最初の一台です。

    それまでのランドクルーザーは、端的に言えば「道なき道を走るための道具」でした。40系は世界中の僻地で酷使され、壊れにくさと走破性で圧倒的な信頼を築いていた。けれど、乗り心地や快適性は二の次。それが当たり前の時代でした。

    60系は、その前提をひっくり返しにかかったモデルです。角型ヘッドライト、エアコン、パワーウィンドウ、オートマチックトランスミッション。並べるとただの装備リストですが、当時の四輪駆動車にこれらが載ること自体が事件でした。

    40系の限界と、変わりゆく市場

    https://kuruma-dna.com/fj80

    60系を理解するには、まず先代にあたる55系と、ランクルの屋台骨だった40系の関係を押さえておく必要があります。40系は1960年から20年以上にわたって生産された、ランクル史上最も長寿なモデルです。世界中の軍や政府機関、鉱山、農場で使われ、「どこでも走れて、壊れない」という評判を確立しました。

    一方で、1967年に登場した55系は、40系のシャシーをベースにしながらワゴンボディを架装し、ファミリーユースへの橋渡しを試みたモデルでした。ただし、55系はあくまで40系の延長線上にあり、快適性はまだ限定的だった。乗用車として見ると、正直なところ粗削りな部分が残っていました。

    1970年代後半、四駆を取り巻く市場は大きく動き始めます。アメリカではレクリエーション用途の四輪駆動車が急速に人気を集め、シボレー・ブレイザーやフォード・ブロンコといったモデルが「週末の遊び道具」として売れていた。日本国内でも、RVブームの萌芽がありました。

    つまり、四駆に求められるものが変わり始めていたのです。「過酷な現場で生き残る道具」だけでなく、「日常でも快適に使える乗り物」としての四駆。トヨタがその流れに応えようとした結果が、60系でした。

    設計思想の転換──道具から乗り物へ

    https://kuruma-dna.com/fj55

    60系の開発で最も大きかったのは、「誰が乗るのか」という問いの再定義です。40系の顧客はプロフェッショナルでした。整備士がいる環境で使われ、乗り心地よりも耐久性が絶対だった。60系が想定したのは、それとはまったく違う層です。

    家族を乗せて長距離を走る人。舗装路を主に走りながら、週末にはダートにも入りたい人。そういうユーザーに向けて、60系は設計されました。

    外観の変化は象徴的です。40系や55系の丸型ヘッドライトから、角型ヘッドライトへ。これは単なるデザインの流行ではなく、「このクルマは乗用車と同じ文脈で見てほしい」というメッセージでした。ボディラインも直線基調に整理され、都市部の駐車場に停まっていても違和感のない佇まいになっています。

    室内の変化はさらに劇的でした。エアコン、AM/FMラジオ、パワーステアリング、そしてオプションながらパワーウィンドウ。今の感覚では当たり前の装備ですが、1980年の四駆にこれらが揃っていたのは、かなり先進的だったと言えます。

    シートの座り心地も改善され、ダッシュボードのデザインも乗用車に近づきました。要するに60系は、「四駆に乗ること=我慢すること」という等式を崩しにかかったモデルだったのです。

    パワートレインの選択肢と、それぞれの性格

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    60系を語るうえで外せないのが、型式の多さです。BJ60、HJ60、FJ60、FJ62──これらは搭載エンジンの違いで分かれています。そしてこの選択肢の幅が、60系の市場戦略そのものを映し出しています。

    BJ60は3.4リッター直列4気筒ディーゼル(3B型)を搭載。後にHJ60では4.0リッター直列6気筒ディーゼル(2H型、後に12H-T型ターボ)へと発展しました。ディーゼルモデルは燃費と低速トルクに優れ、海外市場、特にオーストラリアや中東で強い支持を得ます。

    一方、FJ60は4.2リッター直列6気筒ガソリンエンジン(2F型)を搭載し、北米市場を主戦場としました。そして1988年に登場したFJ62では、エンジンが電子制御燃料噴射の3F-E型に換装され、4速ATが組み合わされます。

    このFJ62の存在が、60系の性格を決定的にしました。オートマで乗れるランドクルーザー。これは当時としては画期的なことです。マニュアルトランスミッションを操る技術がなくても、ランクルの走破性を享受できる。ユーザー層を一気に広げる選択でした。

    ただし、AT化にはトレードオフもありました。マニュアル車に比べて燃費は落ち、エンジンブレーキの効きも変わる。オフロードの急勾配では、MTの方が細かい制御が効くという声も根強かった。快適性と走破性のバランスをどこに置くか──60系はその問いに最初に向き合ったランクルだったとも言えます。

    世界市場での評価と、ランクルの「格」の変化

    https://kuruma-dna.com/fj40

    60系が最も大きなインパクトを与えたのは、北米市場でしょう。1980年代のアメリカでは、四輪駆動車の高級化が急速に進んでいました。レンジローバーが「高級SUV」という概念を提示し、ジープ・グランドワゴニアがウッドパネル外装で富裕層に訴求していた時代です。

    60系ランドクルーザーは、そうした流れの中に自然と入り込みました。トヨタの四駆としての信頼性に、乗用車的な快適性が加わったことで、「高くても買う価値がある四駆」というポジションを獲得したのです。

    価格も上昇しました。55系まではあくまで実用車としての価格帯に収まっていましたが、60系、特に後期のFJ62は装備の充実とともに価格が引き上げられ、トヨタのラインナップの中でも上位に位置するようになります。ランクルが「高い車」になり始めたのは、まさにこの時期です。

    国内でも、60系は従来のランクルユーザーとは異なる層を取り込みました。それまでランクルに縁がなかった都市部のユーザーが、60系をきっかけに四駆の世界に入ってきた。1980年代後半のRVブームの下地を作った一台と言っても過言ではありません。

    弱点と、時代の制約

    https://kuruma-dna.com/fj25

    もちろん、60系にも限界はありました。プラットフォームはラダーフレームで、サスペンションは前後リジッドアクスル。乗用車的な快適性を目指したとはいえ、舗装路での乗り心地は当時のセダンやワゴンとは比較になりません。高速道路でのロードノイズや、コーナリング時のロールは、乗用車から乗り換えた人には驚きだったはずです。

    また、燃費の問題も無視できませんでした。特にガソリンの2F型エンジンは、4.2リッターの排気量に対して出力はおよそ135馬力程度。2トンを超える車重を動かすには十分でも、効率が良いとは言えなかった。1970年代のオイルショックの記憶がまだ新しい時代に、この燃費は弱点として意識されていました。

    さらに、1980年代後半になると三菱パジェロが登場し、より軽快で都会的なSUV像を提示します。60系は「重厚で頼れるが、やや鈍重」という印象を持たれるようになり、後継の80系への世代交代が求められていきました。

    80系への橋渡し、そして今なお残る意味

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    60系が1990年に80系へバトンを渡したとき、ランクルの方向性はすでに明確でした。「本格的な走破性を持ちながら、高級乗用車としても成立する四駆」。80系はコイルスプリングサスペンションを採用し、フルタイム4WDを導入して、その方向性をさらに推し進めます。

    しかし、そのすべての起点は60系にあります。40系の「壊れない道具」という遺産を受け継ぎながら、「快適に乗れるクルマ」への転換を最初に決断したのが60系だったからです。

    興味深いのは、60系が今もなお北米やオーストラリアで根強い人気を持っていることです。中古車市場での価格は年々上昇しており、特にFJ62は「クラシックランクルの中で最も実用的に乗れるモデル」として評価されています。レストアベースとしての需要も高く、エンジンスワップを施して現代的に仕上げる文化も定着しています。

    60系ランドクルーザーは、ランクルが「世界で最も信頼される四駆」から「世界で最も欲しがられる四駆」へと変貌していく、その最初の一歩でした。

    高級化という言葉だけでは足りません。

    四駆というカテゴリーそのものの価値を引き上げた──それが60系の本質的な功績です。

  • ランドクルーザー – FJ25/BJ25【軍用車が民間に歩み寄った最初の一歩】

    ランドクルーザー – FJ25/BJ25【軍用車が民間に歩み寄った最初の一歩】

    ランドクルーザーという名前を聞いて、多くの人がイメージするのは巨大で豪華なSUVかもしれません。

    でもその原点は、どう見ても軍用車の延長線上にある無骨な四輪駆動車でした。そんなランクルが初めて「民間のお客さんに買ってもらう」ことを本気で意識した形跡が見えるのが、1955年に登場したFJ25/BJ25です。

    20系の発展形として生まれた背景

    https://kuruma-dna.com/bj-fj20

    FJ25/BJ25を理解するには、まずその前身であるBJ型とFJ25の直接の兄にあたる20系の存在を押さえておく必要があります。

    1951年に登場した初代BJ型は、警察予備隊(のちの自衛隊)への納入を主眼に開発された車両でした。トヨタが当時のジープ需要に食い込むために作った、言ってみれば「国産ジープ」です。

    その後1955年にかけて、トヨタはBJ型をベースにエンジンをB型からF型に換装したFJ型を展開し、型式名も20系へと整理されていきます。この20系がランドクルーザーとしての基盤を築いたわけですが、基本的にはまだ官公庁や自衛隊、林業・建設業といった「仕事の道具」としての性格が色濃い車でした。

    FJ25/BJ25は、この20系のバリエーションとして登場します。型式の数字が20から25に変わった最大の理由は、ホイールベースの延長です。20系の短いホイールベースでは乗り心地も積載性も限界がある。それを伸ばすことで、より多くの用途に対応しようとしたのがこのモデルでした。

    ホイールベース延長が意味したこと

    https://kuruma-dna.com/fj40

    ホイールベースを伸ばすというのは、単に車体を長くするという話ではありません。直進安定性が上がり、室内空間に余裕が生まれ、荷台や後席のスペースが広がる。つまり「人を乗せる」「荷物を積む」という民間ユースの基本要件に、ようやく正面から応えられるようになったということです。

    20系のショートホイールベースは、悪路走破性という点では有利でした。短い方が回転半径は小さくなりますし、障害物を乗り越えるときの対地角度にも余裕が出る。ただ、その代償として乗り心地はかなり荒く、長距離移動や複数人の乗車には向いていなかった。

    25系でホイールベースを延ばしたことは、ランドクルーザーが「走破性最優先」から「実用性とのバランス」へと軸足を動かし始めたことを示しています。これは些細な変更に見えて、ランクルの商品としての方向性を決定づける重要な転換点でした。

    ソフトトップという選択肢

    https://kuruma-dna.com/fj55

    もうひとつ見逃せないのが、ソフトトップの追加です。それまでのランドクルーザーは基本的に幌なしか、あっても簡易的な幌を被せる程度。軍用車やヘビーデューティーな作業車にとって、屋根は「あればいい」程度のものでした。

    しかし民間ユーザーにとって、雨風をしのげるかどうかは購入判断に直結します。ソフトトップの設定は、快適装備というよりも「この車は一般の人にも使えますよ」というトヨタからのメッセージだったと読むべきでしょう。

    もちろん、1955年当時の日本でソフトトップの四駆を「快適」と呼ぶのは無理があります。それでも、屋根があるかないかは心理的なハードルとして大きい。ランクルが一般市場に向けて間口を広げた、最初の具体的なアクションがこのソフトトップだったと言えます。

    FJとBJの違い、そしてエンジンの話

    https://kuruma-dna.com/bj60

    FJ25とBJ25の違いは、端的に言えばエンジンです。FJ25にはF型直列6気筒ガソリンエンジンが搭載され、BJ25にはB型エンジンが載っていました。

    F型エンジンは排気量約3.9リッターで、当時としては十分以上のパワーを持つユニットです。もともとトヨタの大型車向けに開発されたもので、トルクに余裕があり、重い車体を動かすには適していました。一方のB型はF型より排気量が小さく、扱いやすさとコストのバランスで選ばれる存在でした。

    この二本立てのエンジン構成は、ランドクルーザーがその後も長く続ける「複数のエンジンを併売する」という商品戦略の原型です。用途や地域によってエンジンを選べるという柔軟性は、のちにランクルが世界中で売れる基盤になっていきます。

    1955年という時代の中で

    https://kuruma-dna.com/fj80

    1955年の日本は、戦後復興がようやく一段落し、経済成長の入り口に立ったタイミングです。トヨタ自身もこの年にクラウンの初代モデルを発売しており、乗用車市場への本格参入を果たしています。

    つまりトヨタは、乗用車では「一般消費者に買ってもらえる車」を作り始め、四駆の分野でも同じ方向に舵を切ろうとしていた。FJ25/BJ25は、その四駆側の最初の動きだったわけです。

    ただし、当時の日本の道路事情を考えれば、四駆が本当に必要だったのは依然として山間部や未舗装路が多い地方です。都市部の一般消費者がランクルを買う時代はまだ先の話でした。FJ25/BJ25の民間対応は、あくまで「農林業や建設業の現場で使う人が、もう少し快適に使えるように」という範囲の改良だったと見るのが妥当でしょう。

    40系への橋渡し

    https://kuruma-dna.com/fzj100

    FJ25/BJ25の存在を語るうえで外せないのが、この後に控える40系との関係です。1960年に登場するFJ40は、ランドクルーザー史上もっとも長く作られ、もっとも広く世界に輸出された伝説的モデルになります。

    40系が最初から複数のホイールベースを設定し、ソフトトップからハードトップ、さらにはワゴンボディまで展開できたのは、25系で「ホイールベースを変えて用途を広げる」という発想がすでに試されていたからです。25系は40系のための実験台だった、と言い切るのは少し乱暴かもしれません。でも、25系で得た知見が40系の商品企画に反映されたことは間違いないでしょう。

    ランドクルーザーという車種が、軍用・官公庁向けの特殊車両から世界的なブランドへと成長していく過程には、いくつかの転換点があります。

    FJ25/BJ25は、その最初の転換点です。派手さはありません。革新的な新技術が投入されたわけでもない。しかし「誰のために作るのか」という問いに対する答えが、ここで初めて変わり始めた。

    その意味で、ランクルの系譜を語るなら絶対に飛ばしてはいけない一台です。