投稿者: hodzilla51

  • BMW M2 / CS – F87【Mの入口にして、Mの本質】

    BMW M2 / CS – F87【Mの入口にして、Mの本質】

    BMWのMモデルといえば、M3やM5がまず思い浮かぶ方が多いでしょう。

    でも2010年代後半、Mの世界に小さな爆弾が投げ込まれました。

    F87型M2です。

    これは全くもって廉価版Mではありません。

    むしろ「Mとは何か」を最も純粋に体現したクルマだった、と言ったほうが正確です。

    1Mクーペの記憶と、その空白

    M2の話をするなら、まず1Mクーペ(E82)に触れないわけにはいきません。2011年に限定的に生産されたこのモデルは、1シリーズクーペにM3のパーツを惜しみなく投入した、ほとんど実験作のようなクルマでした。

    コンパクトなボディに直6ツインターボ、後輪駆動。出来上がったのは、乗る人を選ぶけれど、選ばれた人には忘れられない一台です。

    ただ、1Mクーペは正式な「Mナンバー」を冠していませんでした。

    M GmbHが手がけたモデルではあるものの、あくまで「1シリーズM」という位置づけ。生産台数も約6,300台と少なく、すぐに中古価格が高騰しました。つまり、コンパクトMへの需要はあるのに、正規のラインナップには穴が空いていた。M2はその空白を埋めるために生まれたモデルです。

    なぜM2が必要だったのか

    2010年代半ば、BMWのMラインナップはある種の肥大化に直面していました。M3(F80)は直6ツインターボで先代のV8から路線変更し、M4(F82)はクーペ専用の名前を得て独立。M5やM6は快適性とパフォーマンスの両立を志向し、車重は増える一方でした。どれも速い。でも「軽くて小さくて楽しい」という、かつてのMの原点に近いモデルがなかったのです。

    2シリーズクーペ(F22)は、BMWのラインナップの中で最後のFR・コンパクトクーペという貴重な存在でした。ホイールベースは約2,690mm。M3/M4より100mm以上短い。この器にMのエンジンとシャシーを詰め込めば、1Mクーペが示した「小さなMの歓び」を正規ラインナップとして成立させられる。M2の企画は、そういう判断から始まっています。

    初期型M2 ── N55エンジンという選択

    2015年末に発表されたM2(F87)は、ひとつ意外な選択をしています。エンジンがN55B30だったことです。当時のM3/M4が搭載していたのはS55という専用ユニット。M2にはそれではなく、M235iなどにも使われていたN55系の直列6気筒ターボをベースに、専用チューニングを施したものが載りました。

    最高出力370ps、最大トルク465Nm(オーバーブースト時500Nm)。数字だけ見ればM4の431psに届きませんが、これには理由があります。まず価格。M2はMラインナップの入口として、M4より明確に安くなければならなかった。S55を載せればコストが跳ね上がります。もうひとつは、N55のほうがトルク特性が穏やかで扱いやすいという判断です。

    結果として、初期型M2は「速さで圧倒する」タイプではなく、「ドライバーが自分の腕で引き出す」タイプのMに仕上がりました。車重は約1,495kg。決して軽量とは言えませんが、ショートホイールベースと後輪駆動の組み合わせが、数字以上の俊敏さを生んでいます。

    Competition ── S55搭載で本性が変わる

    2018年、M2は大きなアップデートを受けます。M2 Competitionの登場です。最大の変更点は、エンジンがM3/M4と同じS55B30に換装されたこと。最高出力は410ps、最大トルクは550Nm。初期型から40psの上乗せですが、変わったのは数字だけではありません。

    S55はN55とは根本的にキャラクターが違います。ツインスクロールターボを2基備え、高回転域での伸びが明らかに鋭い。レスポンスも段違いです。初期型M2が「扱いやすさの中に潜む速さ」だったとすれば、Competitionは「最初から本気のM」でした。

    シャシー側も手が入っています。フロントのストラットタワーバーが追加され、サスペンションのブッシュも強化。ブレーキはM4と同じ大径ローターに変更されました。要するに、エンジンだけでなく足回りも含めて「M3/M4の弟」から「M3/M4の凝縮版」に格上げされたわけです。

    ただし、この変更を歓迎しない声もありました。N55時代のM2には、少し荒削りだけど親しみやすいキャラクターがあった。Competitionは確かに速いけれど、その「ちょうどよさ」が薄れたのではないか、と。この評価の割れ方自体が、M2というクルマの面白さを物語っています。

    CS ── F87の到達点

    2020年、F87型M2の最終進化形としてM2 CSが登場しました。世界限定2,200台。S55エンジンはさらにチューニングされ、最高出力450psを発生します。これはM4 Competitionと同等の数値です。コンパクトMの器に、フルサイズMと同じ心臓。冷静に考えると、かなり過激な仕様です。

    CSの特徴はエンジンだけではありません。ボンネット、ルーフ、リアスポイラー、フロントスプリッターにCFRP(炭素繊維強化プラスチック)を採用し、車重を約1,470kgまで削っています。アダプティブMサスペンション、機械式LSD、専用セッティングのDSC(横滑り防止装置)。すべてが「サーキットで速く走る」ために最適化されています。

    インテリアも簡素化の方向に振られました。アルカンターラ巻きのステアリング、軽量バケットシート。華美な装飾ではなく、機能に直結する要素だけを残すという思想が貫かれています。

    M2 CSは、F87型が持っていたポテンシャルの上限を示すモデルでした。限定生産ゆえに新車価格も高く、中古市場でもプレミアがついています。1Mクーペと同じ道をたどっている、と言えるかもしれません。

    小さなMが証明したこと

    F87型M2は、3つのグレードを通じて一貫したメッセージを発していました。それは「Mの本質はサイズではない」ということです。

    M3やM5が大型化・高性能化・電子制御の高度化に向かう中で、M2は逆方向のベクトルを持っていました。短いホイールベース、後輪駆動、マニュアルトランスミッションの設定(DCTも選択可能)。現代のMモデルとしては異例なほど、ドライバーとクルマの距離が近い。

    そしてこの「小さなM」の成功は、BMWに対してひとつの事実を突きつけました。エンスージアストが求めているのは、必ずしも最大出力や最新テクノロジーではない。運転する歓びの密度こそが、Mの価値の核心なのだ、と。

    後継のG87型M2は、さらにパワフルになり、ボディも大きくなりました。それが正しい進化なのかどうかは、まだ評価が定まっていません。

    ただ、F87型が残した基準——コンパクトなMはこうあるべきだ、という基準は、今後も長くベンチマークであり続けるはずです。

    M2は、Mの入口として企画されました。でも結果的に、Mの本質に最も近い場所にいたのかもしれません。

  • M3 – E90 / E92 / E93【V8を積んだ、最も異端のM3】

    M3 – E90 / E92 / E93【V8を積んだ、最も異端のM3】

    M3といえば直列6気筒。

    そう思っている人にとって、4代目は少し居心地の悪い存在かもしれません。なにしろこの世代だけが、V型8気筒を積んでいます。しかも自然吸気の高回転型。

    歴代M3の中でも明らかに毛色が違う1台ですが、だからこそ語るべきことが多い車でもあります。

    直6の伝統を断ち切った理由

    2007年に登場した4代目M3(セダンがE90、クーペがE92、カブリオレがE93)は、先代E46 M3の直列6気筒S54エンジンから一転、4.0L V8のS65エンジンを搭載しました。最高出力420ps、レッドゾーンは8,400rpm。数字だけ見ても、これが普通のV8ではないことがわかります。

    なぜ直6を捨てたのか。

    背景にはいくつかの事情があります。まず、当時のBMW Mが強く意識していたのはモータースポーツとの技術的な接続でした。S65エンジンは、当時のBMW M5(E60)に搭載されたV10・S85ユニットと基本設計を共有しており、そのS85はF1用エンジンの知見をフィードバックしたものです。つまりS65は、F1由来の技術を6気筒ではなく8気筒という形で3シリーズに降ろしてきた、という構図になります。

    もうひとつの理由は、出力とレスポンスの両立です。先代S54の343psから一気に420psへ引き上げるにあたって、直6のままでは排気量の拡大かターボ化が必要になります。しかしMの開発陣は、当時の段階では自然吸気・高回転というキャラクターを崩したくなかった。ならば気筒数を増やして1気筒あたりの排気量を小さくし、回転で稼ぐ。その結論がV8だったわけです。

    S65B40という心臓の正体

    S65B40は、排気量3,999cc、90度バンクのV8です。個別スロットルバルル(1気筒に1バタフライ)を備え、レスポンスの鋭さは自然吸気としては最高峰の部類でした。最大トルク400Nmの発生回転数は3,900rpm。決して低回転トルク型ではなく、回せば回すほど本領を発揮するタイプです。

    注目すべきは、このエンジンが乾燥重量で約202kgと、V8としてはかなり軽量だったことです。アルミニウムブロックの採用に加え、鍛造クランクシャフトなど細部まで軽量化が徹底されていました。BMW Mの開発陣は「パワーウェイトレシオだけでなく、エンジン単体の重量配分への影響まで考えた」と語っています。

    ただし、このエンジンには弱点もありました。高回転常用を前提とした設計ゆえに、ロッドベアリング(コンロッドの軸受け)の摩耗問題が一部で報告されています。定期的なオイル管理と、場合によっては予防的なベアリング交換が推奨されるという点は、中古で手に入れようとする人にとっては知っておくべき情報です。

    ボディが3種類ある意味

    4代目M3のもうひとつの特徴は、セダン・クーペ・カブリオレの3ボディが同時期にラインナップされたことです。歴代M3はクーペが主役というイメージが強いですが、この世代ではセダン(E90)が正式にM3として設定されました。これはE36以来、久しぶりのことです。

    この判断には、市場の変化が関係しています。2000年代後半、スポーツセダンの需要は確実に拡大していました。アウディRS4がセダンで成功を収め、メルセデスのAMG C63も4ドアが主力。BMWとしても、M3をクーペだけに閉じ込めておく理由がなくなっていたのです。

    実際、E90セダンは実用性とM3の走りを両立させたモデルとして、特にヨーロッパ市場で高い支持を受けました。後席に人を乗せられるM3という選択肢は、当時としてはかなり合理的でした。一方でE93カブリオレは、電動リトラクタブルハードトップの採用により車重が増加し、走りの純度という点ではやや評価が分かれます。

    シャシーとトランスミッションの進化

    E90/E92世代のM3は、足まわりにも手が入っています。フロントにアルミ製ダブルジョイント・ストラット、リアには5リンク式を採用。先代E46 M3から大幅にワイド化されたトレッドと、専用のサブフレームによって、V8の重量増を相殺するだけの横方向の安定性を確保していました。

    トランスミッションは6速MTが標準。加えて、この世代からM DCT(7速デュアルクラッチトランスミッション)がオプション設定されました。これはM3としては初のDCT採用であり、変速速度の速さと効率の高さから、サーキットユーザーを中心に支持を集めました。

    もっとも、M DCTの導入は「M3にATなんて」という反発も一部で生みました。ただ結果的に、このDCTは次世代以降のMモデルにおけるトランスミッション戦略の布石になっています。現行のM3/M4がトルコン8速ATを標準としつつMTも残すという構成になったのは、この世代での経験が下地にあるといえます。

    限定モデルが語る到達点

    E90/E92世代のM3には、いくつかの特別仕様が存在します。中でも象徴的なのがM3 GTSです。2010年に限定150台で販売されたこのモデルは、排気量を4.4Lに拡大して450psを発生。さらにロールケージの装備、リアシートの撤去、車重の大幅削減と、完全にサーキット志向に振り切った仕様でした。

    もうひとつ、M3 CRT(Carbon Racing Technology)というセダンベースの限定車も存在します。こちらは67台のみという極少数生産で、カーボンルーフやカーボンドライブシャフトなど軽量化技術を集中投入したモデルです。セダンボディでここまでやるのか、という驚きがありました。

    これらの限定車は、S65エンジンと自然吸気V8というパッケージの可能性を最後まで追求した存在です。言い換えれば、BMW M自身がこの方向性に一定の手応えを感じていた証拠でもあります。

    V8 M3が系譜に残したもの

    次の世代、F80/F82 M3/M4では、エンジンは直列6気筒ターボ(S55)に戻りました。つまりV8を積んだM3は、この世代だけです。一代限りの実験だった、と言ってしまうこともできます。

    しかし、この世代が系譜に残した影響は小さくありません。M DCTの導入、セダンボディの本格復活、カーボン素材の積極活用、そしてモータースポーツ技術の市販車への直接的なフィードバック。どれも、後のMモデルに引き継がれた要素です。

    そしてなにより、8,000rpm以上を常用域とする自然吸気V8を3シリーズサイズのボディに詰め込んだという事実そのものが、この車の最大の遺産です。ターボ全盛の現在、こんなエンジンはもう二度と作られないでしょう。

    E90/E92/E93のM3は、M3の系譜の中で最も異端でありながら、最も純粋に「回して楽しい」を追求した世代でもありました。

    直6の伝統から外れたことで賛否はありますが、だからこそ代替不可能な存在になっている。そういう車です。

  • MINI Cooper S – R53【スーパーチャージャーが吠えた、復活のホットハッチ】

    MINI Cooper S – R53【スーパーチャージャーが吠えた、復活のホットハッチ】

    2002年、「MINI」という名前が復活しました。

    ただし、それはもうBMCの小さな箱ではありません。BMWが設計し、英国オックスフォードの工場で組み立てる、まったく新しいプレミアム・コンパクトカーです。

    そのラインナップの頂点に立ったのが、R53型クーパーS。スーパーチャージャー付きの1.6リッターエンジンを積んだこのクルマは、「MINIとは何か」を現代に再定義する、最初の回答でした。

    BMWが引き受けた「遺産」の重さ

    そもそも新生MINIの開発は、BMWがローバー・グループを傘下に収めていた1990年代半ばに始まっています。

    当時のBMWは、ローバーの経営再建に苦しみながらも、MINIというブランドの価値だけは手放すつもりがなかった。結局、2000年にローバーは切り離されますが、MINIの商標とその新型車の開発プロジェクトはBMWの手元に残りました。

    つまりR53は、BMWがローバーという「お荷物」を抱えた時代の産物でありながら、最終的にはBMW単独の意志で世に出たクルマです。この経緯が重要なのは、新生MINIが単なるレトロ趣味のリバイバルではなく、BMWにとって新しい市場を開拓するための戦略車だったということを意味するからです。

    デザインを主導したのはフランク・ステファンソン。オリジナルMINIのアイコニックな丸目ヘッドライトや台形のシルエットを現代的に翻訳しつつ、全長3.6メートル超、全幅1.69メートルという、往年のMINIとは比較にならないサイズ感に仕上げました。ノスタルジーを入り口にしつつ、中身は完全に21世紀のクルマ。そのギャップこそが、新生MINIの核心でした。

    なぜスーパーチャージャーだったのか

    R53のエンジンは、クライスラーとの共同開発で生まれたトライテック製の1.6リッター直4。

    ベースのクーパー(R50)が116馬力だったのに対し、クーパーSはイートン製のルーツ式スーパーチャージャーとインタークーラーを組み合わせて170馬力を絞り出しました。後期型では163馬力に改められていますが、いずれにしても1.6リッターとしてはかなり元気な数字です。

    ここで気になるのは、「なぜターボではなくスーパーチャージャーだったのか」という点です。

    2000年代初頭、ホットハッチの過給といえばターボが主流になりつつありました。しかしMINIの開発陣は、低回転からリニアにトルクが立ち上がるスーパーチャージャーの特性を選んでいます。

    理由はおそらく複合的です。まず、MINIのキャラクターとして「アクセルを踏んだ瞬間に反応する」即応性が求められたこと。ターボラグは、ゴーカートフィーリングと呼ばれるMINI特有のダイレクト感を損なうリスクがありました。

    そしてもうひとつ、当時のトライテックエンジンの設計上、ターボ化よりもスーパーチャージャーのほうが成立しやすかったという現実的な事情もあったと考えられます。

    結果として、R53のスーパーチャージャーは独特の「ヒューン」という過給音を生み出しました。これが単なるエンジニアリング上の副産物ではなく、R53の強烈な個性になったのは面白いところです。

    後継のR56がターボに切り替わったとき、多くのオーナーがこの音を惜しんだという事実が、R53のキャラクターの濃さを物語っています。

    ゴーカートフィーリングの正体

    MINIを語るとき、必ず出てくるのが「ゴーカートフィーリング」というフレーズです。これはメーカー自身がマーケティングで使った言葉でもありますが、R53に関しては単なるキャッチコピーではありませんでした。

    R53のサスペンションは、フロントがマクファーソンストラット、リアがマルチリンク。特別に珍しい形式ではありません。しかし、ホイールベースに対して広めに取られたトレッド幅、低い重心、そしてかなり硬めに設定されたブッシュ類とスプリングレートの組み合わせが、独特の接地感を生んでいます。

    ステアリングは電動パワーアシスト付きのラック&ピニオン。切り始めからノーズがスッと入っていく応答性は、このクラスのFF車としてはかなり鋭い部類でした。ただし、その代償として乗り心地は相応に硬い。日常使いでは路面の荒れを拾いやすく、長距離ではやや疲れるという声も少なくありませんでした。

    要するに、R53のゴーカートフィーリングとは「快適性をある程度犠牲にしてでも、ドライバーとクルマの距離を詰めた」結果のものです。これを楽しいと感じるか、しんどいと感じるかは人によります。ただ、BMWがプレミアムブランドとしてこの割り切りをやったこと自体が、R53の面白さだと思います。

    競合とポジション──2000年代ホットハッチ地図の中で

    R53が登場した2002年前後は、欧州ホットハッチの当たり年でした。ルノー・クリオRS、プジョー206RC、シトロエン・サクソVTS、そしてフォルクスワーゲン・ルポGTI。いずれも小排気量で走りを楽しむクルマたちです。

    ただ、R53のポジションはこれらとは少し違いました。価格帯がワンランク上だったのです。日本市場での新車価格は約300万円台。同時期のスイフトスポーツ(HT81S)が150万円前後だったことを考えると、R53は明らかに「走りの道具」ではなく「走れるプレミアム」として売られていました。

    この価格設定が成立したのは、MINIというブランドの持つファッション性とライフスタイル訴求の力です。R53は、走りの楽しさだけでなく、「このクルマに乗っている自分」を買うという消費構造を、ホットハッチの世界に持ち込んだ先駆者的な存在でした。良くも悪くも、走行性能だけでは語れないクルマだったわけです。

    限界と、残したもの

    R53に弱点がなかったかといえば、もちろんそんなことはありません。トライテックエンジンはBMW製ではなくクライスラーとの共同開発品で、回転フィールの精緻さという点ではBMW本体のエンジンに及びませんでした。スーパーチャージャーの補機ベルトやテンショナーの経年劣化も、中古市場では定番のウィークポイントです。

    また、初期型では電装系のトラブルやパワーステアリングポンプの不具合が報告されており、英国車的な「味」と言えば聞こえはいいものの、信頼性の面でドイツ車の水準に達していたかは疑問が残ります。BMWの品質管理とローバー時代のサプライチェーンが混在していた過渡期の産物、という見方もできるでしょう。

    それでも、R53が残したものは大きい。2006年に登場した後継のR56型クーパーSは、エンジンをPSAとの共同開発によるツインスクロールターボに変更し、パワーも175馬力に引き上げました。洗練度は明らかに上がりましたが、R53にあった荒削りな楽しさ、スーパーチャージャーの甲高い唸り、そしてどこかアナログな手応えは薄まりました。

    R53は、新生MINIが「走れるクルマ」であることを最初に証明したモデルです。BMWがMINIブランドで本気のホットハッチを作れるのだと世界に示した、最初の一台。スーパーチャージャーという選択も、硬めの足回りも、やや粗い仕上がりも、すべてが「まだ固まりきっていない時代の熱量」を感じさせます。

    完成度で言えば後継モデルのほうが上でしょう。でも、「MINIらしさとは何か」を身体で語れるのは、案外このR53なのかもしれません。

    復活したブランドの最初の本気は、たいてい一番濃いものです。

  • M3 – E30【ツーリングカーに勝つためだけに生まれたBMW】

    M3 – E30【ツーリングカーに勝つためだけに生まれたBMW】

    「レースに勝つために市販車を作る」。

    言葉にすると簡単ですが、本当にそれをやったメーカーは、歴史を振り返っても多くはありません。

    BMW M3のE30型は、まさにその数少ない実例です。

    しかもこの車は、単にモータースポーツの道具として終わらず、その後30年以上続く「M3」という名前の起点になりました。

    なぜBMWは「勝てる市販車」を必要としたのか

    1980年代前半、ツーリングカーレースの世界は大きな転換期にありました。

    FIAが1982年に新しいグループA規定を導入し、1987年からヨーロッパツーリングカー選手権(ETC)に本格適用されることが決まっていたのです。

    グループAのルールは明快で、同時に厳しいものでした。12か月間に5,000台以上生産された市販車をベースにしなければならず、改造範囲も大幅に制限されます。

    つまり、速い車でレースに勝ちたければ、速い市販車を作るしかない。

    当時BMWがレースに投入していたのは635CSiでしたが、大きく重いグランドツアラーでは新規定下で競争力を維持するのは困難でした。

    一方、最大のライバルであるメルセデス・ベンツは190E 2.3-16をすでに市販しており、コスワースが手がけた16バルブヘッドを武器にグループAへの布石を打っていました。

    BMWにとって、これは放置できない状況です。ツーリングカーレースはヨーロッパ市場でのブランドイメージに直結する舞台であり、メルセデスに主導権を渡すわけにはいきませんでした。

    モータースポーツ部門が主導した異例の開発

    E30 M3の開発を率いたのは、BMW Motorsport GmbH(現BMW M GmbH)でした。

    通常の量産車開発とは異なり、最初からレースでの勝利を最終目標に据えた、いわば逆算の車づくりです。

    ベースとなったのは3シリーズ(E30)の2ドアセダンですが、M3はそのボディの多くを専用設計に変更しています。

    ルーフラインは低められ、トランクリッドにはリップスポイラーが一体化され、前後フェンダーはブリスター状に膨らんでいます。一見するとE30の派生に見えますが、外板パネルの約半分が専用部品だったとされています。

    エンジンはBMW M社が手がけたS14型。ベースはM1やM635CSiに搭載されたM88系の直列6気筒ではなく、あえて直列4気筒が選ばれました。排気量2,302cc、DOHC16バルブで、市販仕様では200馬力を発生します。

    なぜ4気筒だったのか。これにはグループAの規定が深く関わっています。排気量区分の関係で、2.5リッター以下の4気筒エンジンを使うことが競技上有利だったのです。6気筒のままでは重量やクラス区分の面で不利になりかねませんでした。レースで勝つための判断が、市販車のエンジンレイアウトまで決定した好例です。

    このS14型エンジンは、鋳鉄ブロックにアルミ合金のクロスフロー式シリンダーヘッドを組み合わせたもので、高回転域での伸びと信頼性を両立する設計でした。レース仕様では300馬力を超え、後のエボリューションモデルでは排気量を2,467ccに拡大して市販でも215〜238馬力まで引き上げられています。

    レースでの圧倒的な戦績

    E30 M3は1987年にデビューするやいなや、ツーリングカーレースの世界を席巻しました。ヨーロッパツーリングカー選手権、ドイツツーリングカー選手権(DTM)、世界ツーリングカー選手権(WTCC)、さらにはマカオギアレースやスパ24時間まで、あらゆる舞台で勝利を積み重ねます。

    特にDTMでの強さは圧倒的でした。ロベルト・ラヴァーリア、ジョニー・チェコット、エマニュエル・ピロといったドライバーたちがM3を駆り、シリーズチャンピオンを獲得しています。1987年から1992年にかけて、M3はツーリングカーレースにおける最も成功した車両の一つとなりました。

    この成功は偶然ではありません。ホモロゲーション取得のために5,000台を超える生産が求められた結果、多くのプライベーターもM3を手に入れることができ、世界中のローカルレースにまでM3が行き渡ったのです。ワークスだけでなく、草の根レベルまで勝てる車だったことが、戦績の厚みにつながりました。

    公道でのM3はどんな車だったのか

    レースのための車と聞くと、公道では扱いにくい荒削りな車を想像するかもしれません。しかしE30 M3は、そこが少し違いました。

    確かに乗り心地は硬めで、S14型エンジンは低回転域のトルクが太いとは言えません。ただ、ステアリングの正確さ、車体の軽さ(車両重量は約1,200kg)、そしてエンジンが回転を上げたときの鋭いレスポンスは、当時の他のスポーツセダンとは明確に一線を画していました。

    特筆すべきは、車全体のバランスの良さです。前後重量配分はほぼ50:50に近く、リミテッドスリップデフを標準装備し、サスペンションジオメトリーはレースで得た知見がフィードバックされています。速さだけでなく、ドライバーが車と対話できる感覚がある。これが後のM3シリーズに受け継がれる本質的な価値観になりました。

    一方で、快適装備は当時の3シリーズ相応であり、パワーウィンドウやエアコンはオプションだったグレードもあります。あくまで走りに振った車であり、ラグジュアリーを求める車ではありませんでした。

    エボリューションモデルという進化の階段

    E30 M3の歴史を語るうえで、エボリューションモデルの存在は外せません。グループA規定では、500台以上の追加生産で進化型のホモロゲーションが取得できたため、BMWはこの制度を最大限に活用しました。

    1987年の「エボリューションI」ではエンジンの圧縮比向上やカムプロフィールの変更で220馬力に。1988年の「エボリューションII」ではさらにインテーク系の改良と排気量微増で220馬力のまま中間トルクを改善。そして1989年の「スポーツエボリューション」では排気量を2,467ccに拡大し、238馬力を達成しています。

    スポーツエボリューションはわずか600台の限定生産で、調整式のリアウイングや軽量化されたウィンドウなど、より競技寄りの装備が与えられました。現在では中古市場で極めて高い価値を持つ、コレクターズアイテムとなっています。

    こうした段階的な進化は、単なるマイナーチェンジとは本質的に異なります。すべてはレースレギュレーションへの対応であり、公道用の車がレースの要請によって進化していくという、グループA時代ならではの現象でした。

    M3という系譜の出発点

    E30 M3の生産は1991年に終了し、総生産台数は約17,970台とされています。ホモロゲーション用に5,000台を作るつもりが、結果的にその3倍以上売れた。これは、レースのために作った車が市場でも受け入れられたことの証です。

    後継のE36 M3は直列6気筒エンジンに回帰し、より洗練されたグランドツーリング的な性格を強めました。E30のような「レースありき」の荒削りさは薄れましたが、M3という名前が持つ「高性能3シリーズ」というブランドイメージは、E30が確立したものです。

    E46、E90、F80、そして現行のG80に至るまで、M3は世代を重ねるごとにパワーも装備も増えていきました。しかし、「なぜM3が特別なのか」という問いの答えは、常にE30に立ち返ります。レースに勝つために市販車を本気で作り、実際に勝ち、そしてその車が公道でも魅力的だった。この原体験が、M3の核にあるDNAです。

    E30 M3は、BMWが「駆けぬける歓び」を最も純粋な形で証明した一台でした。

    マーケティングのためではなく、勝負のために生まれた車。

    だからこそ、30年以上経った今でも、この車の存在感は色褪せないのです。

  • 1シリーズMクーペ – E82【最後のFR直6コンパクトが纏った、Mの暴力】

    1シリーズMクーペ – E82【最後のFR直6コンパクトが纏った、Mの暴力】

    BMWのMモデルといえば、M3やM5のように既存モデルの頂点として君臨する存在が思い浮かびます。

    ところが2011年に登場した1シリーズMクーペ(通称1M)は、その図式からやや外れた車でした。

    正式な「M1」ではなく「1シリーズMクーペ」。

    ネーミングからして、どこか間に合わせのような、あるいは確信犯的な匂いがする。

    実際、この車の成り立ちをたどると、計画的に生まれたというよりは「やれる条件が揃ったから、やった」という空気が見えてきます。

    E82という器が先にあった

    まず前提として、1シリーズMクーペのベースとなったE82型1シリーズクーペの立ち位置を押さえておく必要があります。

    E87系の1シリーズは2004年に登場したBMWのエントリーモデルでしたが、そのクーペ版であるE82は2007年にデビューしています。

    ここで重要なのは、E82がFR(後輪駆動)レイアウトを採用していたことです。BMWにとってFRは伝統ですが、コンパクトセグメントでFRを維持するのは、パッケージング的にもコスト的にも楽ではありません。実際、次世代の2シリーズ以降ではFFベースに移行するモデルも出てきます。つまりE82は、BMWがコンパクトクラスでFRを貫いた最後の世代のひとつだったわけです。

    ホイールベースはおよそ2,660mm。3シリーズ(E90)より短く、車重も軽い。この「小さくて軽いFRクーペ」という器が、後にMディビジョンの手に渡ることになります。

    M3のエンジンを積まなかった理由

    1シリーズMクーペの心臓は、N54型3.0L直列6気筒ツインターボです。

    最高出力340ps、最大トルク450Nm。これは当時のM3(E90/E92)に搭載されていたS65型4.0L V8自然吸気とはまったく別のエンジンです。

    なぜM3のエンジンを載せなかったのか。理由はいくつかあります。

    まずS65型V8は物理的にE82のエンジンベイに収めるのが困難でした。さらに、専用エンジンの搭載は開発コストを跳ね上げます。1シリーズベースの限定的な生産台数では、その投資を回収しにくい。

    そこで白羽の矢が立ったのが、135iにも搭載されていたN54型でした。このエンジンは「Ward’s 10 Best Engines」を3年連続で受賞した名機で、チューニングの伸びしろも十分。Mディビジョンはこのエンジンに専用のチューニングを施し、出力を340psまで引き上げました。135iの306psからの上乗せ幅は数字だけ見ると控えめですが、トルク特性の味付けやレスポンスの改善が効いています。

    要するに、既存の量産エンジンをベースにしながら、Mらしい走りの質を成立させるという、ある種の「やりくり」がこの車の出発点でした。ただ、この制約がむしろ結果的に車の性格を際立たせることになります。

    足回りとボディの仕立て

    エンジンだけでなく、シャシーにも既存パーツの流用と専用設計の組み合わせが見られます。フロントサスペンションのナックルやアクスルにはM3(E92)の部品が使われ、トラック幅はベースの1シリーズクーペより明確に広げられました。リアにはM3用のディファレンシャルが収まっています。

    結果として、前後トレッドが拡大され、ワイドフェンダーが与えられました。あの独特の張り出したリアフェンダーは、見た目のためだけではなく、M3のサスペンションジオメトリを成立させるために必要だったわけです。機能が形を決めた、という順番です。

    トランスミッションは6速MTのみ。DCTやATの設定はありません。これもコスト的な判断が大きかったとされていますが、結果としてMT限定という割り切りが、この車のキャラクターを決定づけました。340psを右足と左足で御す、という体験が1Mの核です。

    車重は約1,495kg。同時代のM3クーペ(E92)が約1,655kgだったことを考えると、150kg以上軽い。パワーウェイトレシオではM3に及びませんが、コンパクトなボディに十分すぎるトルクを詰め込んだことで、体感的な速さ、というよりも「暴れ感」はむしろ1Mのほうが強烈だったという声が多いです。

    限定生産という現実と熱狂

    1シリーズMクーペの生産台数は、全世界で約6,309台とされています。当初BMWは限定台数を明確にアナウンスしていませんでしたが、E82自体のモデルライフが終盤に差しかかっていたため、生産期間は2011年から2012年のごく短い期間に限られました。

    日本への正規導入台数はさらに少なく、新車価格は約635万円。当時のM3クーペが約900万円台だったことを考えると、Mの走りをより手頃な価格で手に入れられるという訴求がありました。ただ「手頃」とはいっても、ベースの135iクーペからは大幅に高い。この価格差に見合う価値があるかどうかは、当時も議論がありました。

    結果的に、中古市場での評価がその答えを出しています。1Mの中古価格は年々上昇し、現在では新車価格を大きく上回る取引が珍しくありません。生産台数の少なさ、MT限定、FR直6ターボ、コンパクトボディ——これらの要素がすべて「もう二度と出ない」方向に作用しているからです。

    Mディビジョンの実験、あるいは本気の遊び

    1シリーズMクーペの開発を主導したのは、当時Mディビジョンの責任者だったルートヴィヒ・ヴィリッシュ氏だったとされています。彼自身がモータースポーツ畑の出身で、「小さくて軽くて速い車」への信念を持っていた人物です。

    この車が正式に「M1」と名乗らなかったのは、かつてのBMW M1(1978年のミッドシップスーパーカー)との混同を避けるためという説明がされています。ただ、それだけではなく、M3やM5のような「フルスペックのMモデル」とは開発プロセスが異なっていたことも関係しているでしょう。既存パーツの組み合わせで成立させた車であり、ゼロから専用設計したわけではない。その出自を正直に反映したネーミングだったとも読めます。

    しかし、だからこそ面白い。制約の中で最大限の走りを引き出すという姿勢は、むしろ古典的なホモロゲーションモデルや、少量生産のスペシャルモデルに通じるものがあります。すべてが専用設計である必要はない。手持ちの武器を最良の組み合わせで投入する、という発想です。

    系譜の中の1M、その後の行方

    1シリーズMクーペの後継は、2016年に登場したM2(F87)です。M2はより正式なMモデルとして開発され、専用チューニングの度合いも深まりました。エンジンもN55型、後にS55型へと進化し、最終的にはM2 CS、M2コンペティションといった派生モデルも展開されています。

    つまり1Mは、BMWが「M3の下にもうひとつMモデルを置く」という商品戦略を本格化させるきっかけになった車です。市場の反応が良かったからこそ、M2という正式な後継が生まれた。1Mがなければ、M2の企画は通らなかったかもしれません。

    ただし、1MとM2は似ているようで性格が違います。1Mは「ありもので組んだ、荒削りだけど濃い車」。M2は「最初からMモデルとして設計された、完成度の高い車」。どちらが良いかは好みの問題ですが、1Mにしかない生々しさがあるのは確かです。

    FR、直列6気筒、マニュアルトランスミッション、コンパクトボディ。

    これらの要素がすべて揃う車は、電動化とダウンサイジングが進む現在、ほぼ絶滅危惧種です。

    1シリーズMクーペは、その最後の組み合わせが偶然のように成立した一台でした。計画的な傑作というよりは、条件が揃った瞬間に生まれた幸運な車。

    だからこそ、時間が経つほどにその存在感が増しているのだと思います。

  • M3 Competition Touring / CS Touring – G81【ついに実現した、M3初のワゴン】

    M3 Competition Touring / CS Touring – G81【ついに実現した、M3初のワゴン】

    M3にワゴンはない。それは長らく、BMWファンにとって「そういうもの」でした。初代E30から数えて30年以上、M3は常にセダンとクーペだけの世界で生きてきた。ところが2022年、ついにその常識が崩れます。G81型M3 Competition Touring。M3史上初の、正規のワゴンボディです。

    なぜ30年間、M3にワゴンは存在しなかったのか

    理由はシンプルで、「M3はサーキットを見据えたスポーツセダンだから」という思想が根っこにあったからです。ワゴンボディは重くなる。リアの剛性バランスも変わる。Mの開発陣にとって、それはパフォーマンスの妥協を意味していました。

    実際、E46世代あたりからファンの間では「M3ツーリングが欲しい」という声がずっとありました。しかしBMW Mはそのたびに首を横に振り続けてきた。少量生産でペイしないという事業的な理由もあったとされますが、それ以上に「Mの名にふさわしいかどうか」という哲学的な判断が大きかったようです。

    では、なぜG80/G81世代でそれが変わったのか。ここが面白いところです。

    M3ツーリングを可能にした構造と時代の変化

    最大の技術的な転機は、G80世代のM3が最初から4WD(M xDrive)を前提に設計されたことです。歴代M3は基本的にFR(後輪駆動)でしたが、G80では全輪駆動システムが標準的に組み込まれました。これにより、ワゴンボディの重量増やリア荷重の変化を、駆動配分で吸収しやすくなったわけです。

    もうひとつは市場の空気です。2020年前後、欧州ではメルセデスAMGがC63にワゴンを用意し、アウディRS4アバントは「速いワゴン」の代名詞として確固たる地位を築いていました。BMW Mだけがこのセグメントに不在だった。ファンの声だけでなく、競合環境がようやくMの背中を押した格好です。

    BMW M社の開発責任者だったフランク・ファン・ミール氏は、G81の発表に際して「ようやくこの車を世に出せることを誇りに思う」と語っています。この「ようやく」という言葉に、長年の葛藤がにじんでいます。単に作れなかったのではなく、作るべきタイミングを待っていた、という意味合いです。

    Competition Touringの中身──セダンとどこが違うのか

    G81のパワートレインは、セダンのG80 M3 Competitionとほぼ共通です。3.0リッター直列6気筒ツインターボ(S58型)で、最高出力510PS、最大トルク650Nm。トランスミッションは8速ATのみで、MTの設定はありません。駆動方式はM xDriveの4WDが標準です。

    ただし「ほぼ共通」と書いたのには理由があります。ツーリング専用のチューニングがリアサスペンションに施されています。ワゴンボディはリアオーバーハングが長くなり、荷室の荷重変動も大きい。そのため、リアのアダプティブダンパーやスプリングレートはセダンとは異なるセッティングが与えられています。

    車両重量はセダン比で約75kg増の1,910kg前後。この数字だけ見ると「やっぱり重いじゃないか」と思うかもしれません。しかし510PSと650Nmの前では、この差は実用上ほとんど体感できないレベルです。0-100km/h加速は3.6秒で、セダンの3.4秒と比べてもわずか0.2秒差。数字上の差よりも、実際の走りの仕上がりで勝負している車です。

    荷室容量は通常時500リッター、後席を倒せば1,510リッター。M3のバッジを付けた車に、ベビーカーもゴルフバッグも犬も載る。これがG81の最大の価値です。

    CS Touring──さらに研ぎ澄ませた存在

    2024年には、そのG81にさらにCS(Competition Sport)グレードが追加されました。M3 CS Touringです。CSはMモデルの中でも「通常のCompetitionよりさらに一段上、ただしGTSほど割り切っていない」という立ち位置のグレードで、歴代M3でもセダンには設定されてきましたが、ツーリングに与えられたのはもちろん初めてです。

    エンジンは同じS58型ですが、出力は550PSまで引き上げられています。40PSの上乗せは、主にブースト圧の最適化とECUのリマッピングによるもの。最大トルクは650Nmで据え置きですが、トルクの立ち上がりがより鋭くなっています。

    軽量化にも手が入っています。カーボン製のフロントバケットシート、ボンネット、リアディフューザーなどを採用し、Competitionツーリングから約20〜30kgの軽量化を実現。さらに足回りはCSセダンと同様のチューニングが施され、リアのスタビリティがより高められています。

    ここで注目すべきは、CS Touringが単なる「パワーアップ版」ではないという点です。BMWは内装の一部を簡素化し、遮音材も一部削っている。つまり快適性をわずかに削ってでも、走りの純度を上げる方向に振っている。ワゴンなのに、です。この矛盾こそがCS Touringの面白さであり、Mの本気度を示すポイントでもあります。

    速いワゴンの系譜における立ち位置

    「速いワゴン」というジャンルは、欧州では長い歴史を持っています。アウディRS2アバント(1994年)が切り拓き、RS4アバント、RS6アバント、メルセデスAMG Cクラスワゴン、Eクラスワゴンが続いた。BMWだけが、このフィールドに長く不在だったのです。

    M5ツーリング(E34/E61)という前例はありましたが、M3ではなかった。M3はBMW Mのアイデンティティそのものであり、「M3にワゴンを出す」ことは、「Mの哲学をどこまで広げるか」という問いに直結していました。

    G81はその問いに対する、ひとつの明確な回答です。パフォーマンスを犠牲にしない。ただし実用性は加える。その両立を、xDriveの技術とS58エンジンの余裕、そしてプラットフォームの進化が可能にした。つまりG81は「妥協の産物」ではなく、「技術が追いついた結果」として生まれた車です。

    M3ツーリングが意味するもの

    G81の存在は、M3という車の定義を静かに、しかし確実に書き換えました。M3はもはや「サーキットを目指すセダン」だけではない。家族を乗せて高速道路を走り、週末にはワインディングを楽しみ、必要なら大きな荷物も運べる。そういう車にもなれる、ということを証明したのがG81です。

    しかも、それを「M3の名前を借りただけの別物」ではなく、セダンと同等の走行性能を維持したまま実現している。ここにBMW Mの意地と技術力が凝縮されています。

    さらにCS Touringの追加は、「ワゴンだから少しマイルドに」という発想を完全に否定しました。ワゴンでもCSを名乗れる。ワゴンでも走りの純度を追求できる。G81とそのCS版は、M3の系譜において「初めてのツーリング」であると同時に、「ワゴンボディの可能性を証明した実験」でもあります。

    30年越しの答えは、待った甲斐のある仕上がりでした。

  • マークX – GRX130【マークIIの名を捨てた、最後のFRセダン】

    マークX – GRX130【マークIIの名を捨てた、最後のFRセダン】

    トヨタのミドルセダンといえば、長らく「マークII」でした。

    その名前が持つブランド力は絶大で、日本の乗用車ヒエラルキーの中核を何十年も担い続けていた。

    ところが2004年、トヨタはその看板を下ろし、「マークX」という新しい名前で再出発します。そして2009年に登場した2代目・GRX130系は、結果的にこの系譜の最終章となりました。

    FRセダンが商品として成立しにくくなった時代に、なぜこの車は2019年まで生き延びたのか。そこには、数字だけでは見えない事情があります。

    マークIIからマークXへ、名前が変わった理由

    マークIIは1968年の初代から数えて9世代、実に36年にわたって続いたトヨタの基幹車種です。ただ、2000年代に入ると状況は変わっていました。セダン市場そのものが縮小し、かつての「いつかはクラウン」に至る階段の途中にあったマークIIの存在意義が薄れていたのです。

    2004年に登場した初代マークX・GRX120系は、この流れを受けて車名を刷新しました。「II」という序列を感じさせる名前を捨て、未知数を意味する「X」を冠することで、若返りとイメージの転換を図った。プラットフォームも一新され、ゼロクラウンと共通のNプラットフォームを採用しています。

    つまりマークXとは、マークIIの正統後継でありながら、「マークIIであること」から意図的に距離を取った車だったわけです。この判断が正しかったかどうかは議論がありますが、少なくとも初代マークXは一定の成功を収めました。

    GRX130の開発背景──「続ける」という判断の重さ

    2009年に登場した2代目マークX・GRX130系は、初代の路線を継承しつつも、より明確に「走り」を打ち出したモデルです。開発の背景には、セダン離れがさらに加速するなかで、この車をどう差別化するかという切実な問題がありました。

    プラットフォームは初代から引き続きNプラットフォームの発展型を使用。ただし、ボディ剛性の向上やサスペンションジオメトリの見直しなど、走行性能に関わる部分にはかなり手が入っています。エンジンは2.5L V6の4GR-FSEと3.5L V6の2GR-FSEを搭載し、全車FR(一部4WD)を貫きました。

    2009年という時期は、リーマンショック直後です。各メーカーがコスト削減に走り、プラットフォームの統合やFF化が進んでいた時代に、トヨタがFRのミドルセダンを新規開発したこと自体、実はかなり意志のある判断でした。クラウンより下の価格帯で、FRの走りを味わえる車。その枠を守ること自体が、GRX130の最大の役割だったとも言えます。

    走りに振った味付け、その中身

    GRX130系のマークXは、見た目以上にスポーティな車です。特に2012年に追加された「GRMN」仕様は、トヨタのスポーツブランドであるGAZOO Racingが手がけた本格的なチューニングモデルで、専用サスペンション、LSD、6速MT、トルセンデフなどを装備していました。

    ただ、標準モデルでも乗ると印象は悪くありません。V6エンジンの滑らかな回転フィールと、FRならではの素直なハンドリング。電動パワステではなく油圧パワステを採用していた点も、走り好きには評価されていました。この時代のトヨタ車としては、ドライバーに対して正直な味付けがされていたと思います。

    2GR-FSE型3.5L V6は最高出力318馬力を発揮し、車重1,500kg台のボディを軽々と加速させます。この数字だけ見れば十分にスポーツセダンの領域です。ただ、6速ATのみという選択肢は、スポーツ性を求めるユーザーにとってはやや物足りなかった。MTが欲しければGRMNを選ぶしかなく、そのGRMNは限定販売。ここに、量販車としてのマークXの限界が見えます。

    売れなかったのか、役目を終えたのか

    GRX130系マークXの販売台数は、正直に言えば右肩下がりでした。2009年の発売当初こそ月販5,000台を超える時期もありましたが、2010年代半ばには月販1,000台を切ることも珍しくなくなります。

    ただ、これをもって「失敗」と断じるのは少し乱暴です。そもそもセダン市場全体が縮小していたわけで、マークXだけが沈んだわけではありません。同時期のスカイラインやアテンザも、かつてのような台数は出ていませんでした。

    むしろ注目すべきは、トヨタがこの車を10年間も生産し続けたという事実のほうです。2019年12月の生産終了まで、大きなフルモデルチェンジなしに販売を継続しました。途中で何度かの改良は入りましたが、基本設計は2009年のまま。これは、後継車を出すほどの市場がもう存在しなかったことを意味しています。

    トヨタ社内では、TNGAプラットフォームへの移行が進み、FRセダンの枠はクラウンが担う方向に収束していきました。マークXのポジションは、カムリ(FF)とクラウン(FR)の間に挟まれ、商品企画上の居場所を失っていったのです。

    「最後のFRセダン」という称号の重み

    GRX130系マークXが生産終了した2019年、多くのメディアが「手の届くFRセダンの終焉」と報じました。実際、マークXの価格帯──新車で約265万円から──でFR・V6という組み合わせを提供する国産車は、この車の退場をもって消滅しています。

    クラウンはある。レクサスISもある。でも、それらはもう一段上の価格帯です。マークXが担っていたのは、普通に買えるFRセダンという、かつては当たり前だった選択肢そのものでした。

    中古市場では、生産終了後にじわじわと相場が上がる傾向が見られます。特にMT仕様のGRMNや、最終特別仕様車は人気が高い。これは単なるノスタルジーではなく、この価格帯でFRセダンに乗れるという実利的な価値が再評価されている結果でしょう。

    系譜の終わりが意味すること

    マークII/マークXの系譜は、GRX130をもって完全に途絶えました。1968年から2019年まで、半世紀にわたって続いたトヨタのミドルFRセダンの歴史が、ここで終わったのです。

    後継車は存在しません。トヨタのラインナップにおいて、マークXが占めていた場所は空白のままです。カムリはFFですし、クラウンは2022年にクロスオーバー化しました。「普通のFRセダン」というジャンル自体が、少なくともトヨタの商品戦略からは消えています。

    GRX130系マークXは、華やかなヒット作ではありませんでした。でも、存在し続けたこと自体に意味があった車です。FRの走り、V6の滑らかさ、セダンという形式。それらが「当たり前」だった時代の最後の残り香を、2019年まで届けてくれた。派手さはなくとも、この車がいたことで救われたドライバーは、きっと少なくなかったはずです。

  • コロナ マークII – T60/T70【「コロナの上」が独り立ちするまでの助走】

    コロナ マークII – T60/T70【「コロナの上」が独り立ちするまでの助走】

    「コロナの上位版」

    コロナ マークIIの出自を一言で言えば、そうなります。

    ただ、この車が面白いのは、最初から独立した車格を与えられたわけではなく、あくまで「コロナの延長線上」として世に出たという点です。にもかかわらず、後にマークIIはトヨタの屋台骨を支える独立シリーズへと育っていく。

    その最初の一歩が、1968年に登場したT60/T70系でした。

    コロナでは届かない層がいた

    1960年代後半、日本のモータリゼーションは急速に進んでいました。大衆車としてのカローラやサニーが爆発的に売れる一方で、もう少し上のクラス、つまり「いい車に乗りたいけどクラウンは大げさだ」という層が確実に膨らんでいたのです。

    当時のトヨタのラインナップには、大衆車のカローラ、中堅のコロナ、そして高級車のクラウンがありました。問題は、コロナとクラウンの間にかなりの空白地帯があったこと。日産がブルーバードの上にローレルを投入する動きを見せていた時期でもあり、トヨタとしてはこの隙間を放置するわけにはいきませんでした。

    ただ、ゼロから新しい車格のクルマを開発するのは時間もコストもかかります。そこでトヨタが選んだのが、すでに市場で信頼を得ていたコロナをベースに、車格を一段引き上げた派生モデルを作るという手法でした。これがコロナ マークIIの出発点です。

    コロナの皮を被った別のクルマ

    1968年に登場した初代コロナ マークII(T60/T70系)は、名前こそ「コロナ」を冠していますが、中身はかなり別物です。ホイールベースはコロナ(T40系)より延長され、ボディも一回り大きくなっています。要するに、コロナの部品や設計資産を活用しながらも、居住性と走りの質感を明確に上げてきたクルマでした。

    エンジンは直列4気筒の1.5Lおよび1.6Lからスタートし、後に1.9Lの直列4気筒も追加されています。T60系が4気筒モデル、T70系が6気筒モデルという棲み分けで、特に注目すべきは直列6気筒エンジン(M型)の搭載です。コロナには載っていなかった6気筒を積んだことで、コロナとは明らかに違う滑らかさと余裕を手に入れました。

    6気筒の搭載は単なるパワーアップではありません。当時、6気筒エンジンは「上級車の証」として強い訴求力を持っていました。クラウンと同じ系統のエンジンを小さなボディに積むという構成は、「小さな高級車」という新しい価値を提示するものだったのです。

    セダンだけでは終わらない展開力

    初代マークIIの特徴のひとつに、ボディバリエーションの豊富さがあります。4ドアセダンを基本としつつ、2ドアハードトップ、ワゴン、さらにはバンまで用意されていました。これはコロナ譲りの実用車としての性格を残しつつ、幅広い顧客層をカバーしようという商品企画の意図がはっきり見えます。

    特に2ドアハードトップは、当時のアメリカ車の影響を受けたスタイリッシュなデザインで、若い層にも訴求しました。実用性と見栄えの両方を一台のシリーズで賄おうとする発想は、後のマークII三兄弟(マークII/チェイサー/クレスタ)の原型とも言えるかもしれません。

    「コロナの上」から「マークII」へ

    初代マークIIは商業的に成功しました。コロナでは物足りないが、クラウンには手が届かない——その層をきっちり捕まえたのです。ただ、成功したからこそ、ひとつの矛盾が浮かび上がります。

    それは「コロナの名前がむしろ足かせになる」という問題です。マークIIを買う人は、コロナより上のクルマが欲しくて選んでいる。なのに名前に「コロナ」がついていると、どうしてもコロナの延長に見えてしまう。この微妙な心理的ギャップは、後の世代で「コロナ」の名前が外れ、単に「マークII」として独立していく伏線になっています。

    実際、2代目(X10/X20系、1972年〜)ではまだ「コロナ マークII」の名を残しますが、車格の独立性はさらに強まり、4代目(X60系、1980年〜)でついに「コロナ」が外れます。つまり初代T60/T70系は、マークIIが「コロナの派生」から「独立した上級セダン」へと歩み始めた、まさに第一歩だったわけです。

    時代が求めた「ちょうどいい上質」

    1960年代末の日本は、高度経済成長の真っただ中にありました。所得が上がり、クルマに対する要求も「走ればいい」から「少しでもいいものに乗りたい」へと変わりつつあった時代です。コロナ マークIIは、まさにその空気を読んで生まれたクルマでした。

    振り返ってみると、T60/T70系の設計そのものに革新的な技術があったかと言えば、正直そこまでではありません。コロナの資産を活かした堅実な設計であり、飛び道具はない。

    しかし、6気筒エンジンの搭載、ボディの拡大、内装の質感向上という「わかりやすい格上げ」を的確に積み重ねたことで、市場のニーズにぴたりとはまったのです。

    派手さはなくても、商品企画の精度が高い。これは後のマークIIシリーズ全体に通じる特徴でもあります。初代T60/T70系は、その遺伝子の出発点として、トヨタの車種戦略を語るうえで外せない一台です。

  • マークII – JZX90【バブルの残り香を纏った、最後の「豊かなセダン」】

    マークII – JZX90【バブルの残り香を纏った、最後の「豊かなセダン」】

    バブルが弾けたのに、クルマだけはまだ夢の続きを見ていた。JZX90型マークIIは、そういう時代の空気をそのまま閉じ込めたようなセダンです。

    1992年に登場したこの7代目マークIIは、開発の大半がバブル景気のさなかに進められていました。つまり、企画も設計も「景気がいい時代」の価値観で固められている。それが世に出たときには、すでに日本経済は冷え込み始めていた。

    この時間差が、JZX90というクルマの性格をかなり特殊なものにしています。

    バブル崩壊直後に現れた「バブルの申し子」

    先代のJZX81型(6代目)は、まさにバブル絶頂期のクルマでした。ハイソカーブームの真っ只中、マークII三兄弟(マークII、チェイサー、クレスタ)はトヨタの屋台骨を支える存在で、月販1万台を超えるような売れ方をしていた時期もあります。

    JZX90はその成功体験を正統に引き継いだモデルです。ボディは丸みを帯びた流線型に変わり、内装の質感も一段上がった。「上質なセダンに乗ること」がまだステータスだった時代の最終形と言ってもいいかもしれません。

    ただ、発売された1992年10月という時期がポイントです。バブル崩壊からおよそ1年半。消費マインドは急速に冷えていたのに、このクルマは「お金をかけて丁寧に作りました」という空気を全身から漂わせていた。結果として、先代ほどの爆発的な販売台数にはなりませんでした。

    1JZ-GTE──ツインターボ直6の完成形

    JZX90を語るうえで外せないのが、1JZ-GTE型エンジンです。2.5リッター直列6気筒ツインターボ、最高出力280馬力。当時の自主規制上限いっぱいの数値で、先代JZX81の後期型から搭載が始まったこのユニットが、JZX90でさらに熟成されました。

    直6ターボを4ドアセダンに積むという構成自体は、日産のスカイラインやローレルも同じ路線を取っていました。ただ、マークIIの場合はFR(後輪駆動)レイアウトとの組み合わせが効いている。フロントに縦置きされた直6が後輪を駆動するという、いわば古典的だけれど素性のいいパッケージです。

    この1JZ-GTEは、ノーマルでも十分に速い。しかしそれ以上に重要なのは、チューニングベースとしてのポテンシャルでした。タービン交換やブーストアップで400馬力、500馬力と引き上げていける懐の深さがあり、これが後にドリフトシーンでJZX90が重宝される最大の理由になります。

    「走り」と「上質」の同居という企画

    JZX90のグレード構成を見ると、トヨタがこのクルマに何を求めていたかがよく分かります。エントリーの「GL」から上級の「グランデ」、そしてスポーツグレードの「ツアラーV」まで、一台の車種で「落ち着いた大人のセダン」と「280馬力のFRスポーツ」を両立させようとしていました。

    ツアラーVには1JZ-GTEに加えて、TEMS(電子制御サスペンション)やトルセンLSD、ビスカスLSDなどが奢られています。足回りもフロントがダブルウィッシュボーン、リアがセミトレーリングアームという構成で、当時のセダンとしてはかなり走りに振った仕様です。

    一方で、ツアラーVであっても内装はきちんと「マークII」でした。ウッド調パネル、電動シート、オートエアコン。スポーツカーのような割り切りはなく、あくまで「速くて快適なセダン」という立ち位置を崩さなかった。この二面性こそがJZX90の本質であり、後にチューニングカーとして愛される理由でもあります。

    要するに、走りたい人にとっては「普段使いできるベース車」であり、普通に乗りたい人にとっては「ちょっとだけ速い上質なセダン」だった。どちらの入口からも入れる間口の広さが、このクルマの強みでした。

    ドリフト文化が見出した「セダンの可能性」

    JZX90が現役だった1990年代半ば、日本のドリフトシーンは急速に盛り上がっていました。シルビアやRX-7といった2ドアクーペが主役の世界に、4ドアセダンのマークIIが割り込んでいったのは、冷静に考えるとかなり異例のことです。

    なぜマークIIだったのか。理由はシンプルです。FRで、直6ターボで、パワーが出て、中古で安く買えた。バブル崩壊後の中古車市場では、かつての高級セダンが驚くほど安く流通していました。新車では手が届かなかった若い世代が、中古のツアラーVを手に入れてサーキットに持ち込む。そういう流れが自然に生まれたわけです。

    ボディ剛性はスポーツカー専用設計には及びませんが、ホイールベースが長い分、挙動の変化が穏やかで扱いやすいという声もありました。4ドアだから仲間を乗せてサーキットに行ける、という実用的な理由もあったでしょう。こうしてJZX90は、メーカーが想定していなかったであろう「ドリフトベース」という第二の人生を歩み始めます。

    三兄弟という構造と、その終わりの始まり

    JZX90世代でも、マークII・チェイサー・クレスタの三兄弟体制は維持されていました。プラットフォームとエンジンを共有しながら、フロントマスクやリアまわりのデザインで差別化するという手法です。

    この三兄弟戦略は、販売チャネルが複数存在したトヨタならではのやり方でした。マークIIはトヨペット店、チェイサーはトヨタオート店(現ネッツ店)、クレスタはトヨタビスタ店。同じクルマを別の顔で売り分けることで、チャネル間の競争を生み、結果として販売台数を最大化する。バブル期にはこの戦略が見事にハマっていました。

    しかしJZX90の時代には、すでにこの構造にほころびが見え始めています。セダン離れが進み、三兄弟を維持するだけの販売規模が怪しくなってきた。次世代のJZX100ではまだ三兄弟が続きますが、その次のJZX110世代でクレスタは「ヴェロッサ」に改名され、チェイサーは消滅します。JZX90は、三兄弟が完全な形で成立していた最後から二番目の世代です。

    「ちょうどよかった時代」の記録

    JZX90型マークIIは、突出した革新性を持つクルマではありません。先代JZX81の正常進化であり、技術的なブレイクスルーがあったわけでもない。しかし、だからこそ完成度が高い。バブル期に投入された開発費と、トヨタの量産技術が噛み合った結果としての「よくできたセダン」です。

    280馬力の直6ターボ、FRレイアウト、上質な内装、4ドアの実用性。これらが一台に収まっていたこと自体が、実は贅沢な話でした。この後、日本の自動車市場はミニバンとSUVの時代に移行し、「FRの直6セダン」という選択肢そのものが急速に細っていきます。

    まだセダンが「普通の憧れ」だった時代。エンジンに手を入れれば際限なくパワーが出た時代。そしてクルマに夢を見ることが、まだ当たり前だった時代。JZX90は、そういう空気の最後のあたりを走っていた一台です。

    バブルの残り香、と書きました。でもそれは決してネガティブな意味ではありません。あの時代の「クルマにお金をかけることは正しい」という空気が生んだ、ある種の豊かさの結晶。

    それがJZX90型マークIIという存在なのだと思います。

  • ポルシェ ケイマン – 981【911を守るために、本気を封じられたMR】

    ポルシェ ケイマン – 981【911を守るために、本気を封じられたMR】

    ポルシェには、昔から厄介な問題がひとつあります。

    ミッドシップのほうが速くなりすぎると、911の立場がなくなる、という問題です。(身も蓋もない話ですが…)

    981型ケイマンは、まさにその矛盾が最も先鋭化した世代でした。

    素性の良さで言えば歴代ケイマンの中でも頭ひとつ抜けていて、それゆえに「なぜこれが911より下なのか」という問いを、多くの人に突きつけた一台です。

    987の成功が生んだ、次の課題

    981型ケイマンが登場したのは2013年。先代にあたる987型は、2005年の初代ケイマンとしてデビューし、ボクスターの屋根を塞いだだけのクルマという先入観を見事に覆していました。

    クーペ化による剛性の向上がもたらすハンドリングの正確さは、多くのドライバーズカー好きを唸らせたものです。

    ただ、987型には明確な「天井」がありました。エンジンのパワーは911カレラに届かないよう意図的に抑えられ、装備面でも差がつけられていた。つまり、商品として成功しつつも、ポルシェ社内のヒエラルキーの中に収まるよう設計されていたわけです。

    981型の開発は、この成功と制約の両方を引き継ぐところから始まっています。走りの素性はもっと良くできる。でも、911を超えてはいけない。この二律背反が、981型の性格を決定づけました。

    フルモデルチェンジの中身

    981型は、987型のマイナーチェンジではなく、完全な新設計です。プラットフォームはボクスターと共用ですが、シャシーの約8割が新規設計とされ、ホイールベースは60mm延長されました。この延長は安定性のためだけでなく、ミッドシップとしてのバランスをさらに煮詰めるための設計判断です。

    ボディ剛性は先代比で約40%向上しています。数字だけ見ると地味に思えるかもしれませんが、もともと高剛性だったクーペボディをさらに4割上げるというのは、相当な構造の見直しを意味します。アルミとスチールのハイブリッド構造を採用し、車両重量は先代より約30kg軽くなりました。

    エンジンは2.7リッター水平対向6気筒が275馬力、上位のケイマンSは3.4リッターで325馬力。数字だけ見ると、同時期の991型911カレラの350馬力に対して控えめです。ここがまさに「天井」の存在を感じさせる部分で、パワーで911を超えることは許されていません。

    しかし、車重が約1,300kg台に収まっているケイマンのパワーウェイトレシオは、実際にはかなり優秀でした。

    そしてミッドシップレイアウトがもたらす低い慣性モーメントと相まって、ワインディングでの身のこなしは911カレラを凌ぐ場面すらあったのです。

    走りの素性が911を脅かす

    981型ケイマンの本質は、シャシーの出来が良すぎるという一点に集約されます。ミッドシップの物理的な利点──エンジンが重心近くにあることで旋回時の慣性が小さく、前後の荷重バランスが均一に近い──を、981型はほぼ理想的な形で実現していました。

    ポルシェ自身もこの点は認識していたはずです。当時のメディア試乗会では、開発陣が「ケイマンはポルシェのラインナップの中で最もピュアなドライビングマシン」と発言しています。この言葉は、裏を返せば「911よりも運転して楽しい」と読めてしまう。実際、多くの自動車ジャーナリストがそう受け取りました。

    電動パワーステアリングの導入も981型からです。油圧式の喪失を嘆く声は当然ありましたが、ポルシェの電動ステアリングは他社に比べてフィードバックの質が高く、大きな批判には至りませんでした。むしろ、軽量化と燃費改善への貢献が評価されています。

    PDK(デュアルクラッチトランスミッション)との組み合わせも洗練されていましたが、6速マニュアルを選べたことが981型の大きな魅力でした。この時代、マニュアルトランスミッションがまだカタログに残っていたことの意味は、年を追うごとに大きくなっています。

    ケイマンGT4という「事件」

    981型世代で最も語られるべきモデルは、2015年に登場したケイマンGT4です。これはポルシェが自ら張った「天井」を、ほぼ突き破ってしまったクルマでした。

    エンジンは991型911カレラSと同じ3.8リッター水平対向6気筒で、385馬力。トランスミッションは6速マニュアルのみ。サスペンションは911 GT3の部品を流用し、足回りの設計思想そのものがGTカーのそれでした。

    ニュルブルクリンク北コースのラップタイムは7分40秒。これは当時の991型カレラSに匹敵する数値です。ミッドシップの軽量ボディに、911カレラS相当のエンジンを載せたらどうなるか。答えは明白で、速いに決まっています。

    ポルシェがなぜこのモデルを出したのか。

    ひとつには、ケイマンの顧客層がよりハードコアな走りを求めていたという市場の声があります。もうひとつは、ポルシェのモータースポーツ部門がミッドシップのポテンシャルを証明したかったという内部の意志です。結果として、GT4は発売直後に完売し、中古市場では新車価格を上回るプレミアムがつきました。

    ただし、GT4にもPDKは設定されませんでした。これを「ピュアリスト向けの英断」と見るか、「911 GT3との差別化のための制約」と見るかは、立場によって分かれます。

    …まあ、おそらく両方が正解です。

    ヒエラルキーの中の矛盾

    981型ケイマンを語るとき、避けて通れないのが「ポルシェは意図的にケイマンを抑えているのか」という問いです。答えは、おそらくイエスです。ただし、それは悪意ではなく、ブランド経営の論理によるものです。

    911はポルシェのアイデンティティそのものであり、最も利益率の高い商品でもあります。

    ケイマンが911を完全に凌駕してしまったら、911を買う理由が薄れる。ポルシェにとってそれは、自社の根幹を揺るがす事態です。

    だからこそ、ケイマンにはパワーの上限が設けられ、後席のない2シーターという制約が維持され、装備面でも911との差がつけられてきました。

    981型はその制約の中で、シャシー性能という「抑えにくい領域」で911に肉薄してしまった。ある意味で、エンジニアリングの誠実さがマーケティングの意図を超えた世代だったと言えます。

    この矛盾は、次世代の718ケイマン(982型)で4気筒ターボエンジンが採用されたことで、さらに複雑になります。コスト効率と環境規制への対応という合理的な理由はありつつも、「6気筒を911専用にすることでヒエラルキーを明確にした」という読み方も成り立つからです。

    981型が系譜に残したもの

    981型ケイマンは、ポルシェのミッドシップスポーツカーが到達したひとつの頂点です。自然吸気の水平対向6気筒、軽量高剛性のボディ、そしてマニュアルトランスミッションという組み合わせは、この世代が最後になりました。

    後継の718ケイマンは、4気筒ターボ化によってトルク特性や燃費では進化しましたが、NAフラット6の回転フィールを失ったことへの惜別の声は今も絶えません。

    981型、とりわけGT4の中古車価格が高止まりしている事実が、それを雄弁に物語っています。

    もう少し広い視点で見れば、981型はポルシェが「ミッドシップのほうが速い」という物理的真実と、「911が頂点でなければならない」というブランドの論理を、ギリギリのところで両立させた最後のモデルだったのかもしれません。

    速さだけがクルマの価値ではありません。

    でも、速さの素性がここまで良いクルマが、あえて抑えられていたという事実は、逆説的にこのクルマの凄みを証明しています。

    981型ケイマンは、ポルシェが自ら生み出した「最も危険な身内」でした。

    抑えられてなお傑出していたという事実そのものが、このクルマの価値を何より雄弁に物語っています。