カテゴリー: クラウン

  • クラウン – S180系【ゼロクラウンという名の全否定と再構築】

    クラウン – S180系【ゼロクラウンという名の全否定と再構築】

    「過去のクラウンを、全部やめる」

    メーカー自身がそう言い切った車は、そうそうありません。

    2003年に登場した12代目クラウン、型式S180系。通称「ゼロクラウン」。

    このあだ名は、トヨタ自身がキャッチコピーとして打ち出した「ZERO CROWN」に由来します。

    つまりこれは後から付いた愛称ではなく、メーカーが最初から「原点回帰」ではなく「リセット」を宣言した、かなり異例のモデルでした。

    なぜ「ゼロ」にする必要があったのか

    12代目を語るには、まず11代目・S170系の置かれていた状況を知る必要があります。S170系は2000年前後のクラウンですが、当時のクラウンは正直なところ、じわじわと存在感を失いつつありました。

    理由はいくつかあります。まず、ユーザーの高齢化。クラウンの購買層は年々上がり続け、「若い人が欲しがらない車」という印象が定着しつつありました。加えて、輸入車の攻勢。BMWの3シリーズやメルセデスのCクラスが日本市場で確実にシェアを伸ばしていた時代です。

    さらに厄介だったのが、トヨタ自身のラインナップです。セルシオ(レクサスLS)が上にいて、マークIIの系譜が下から突き上げる。クラウンは「高級車だけど最上級ではない」「スポーティでもない」という、どっちつかずのポジションに追い込まれていました。

    要するに、マイナーチェンジの延長線上では、もうどうにもならない。そういう危機感が、「ゼロからやり直す」という判断の背景にあったわけです。

    プラットフォームもエンジンも全部変えた

    ゼロクラウンの「ゼロ」は、言葉だけではありませんでした。実際に、ほぼすべての主要コンポーネントが新設計です。

    まずプラットフォーム。S180系では新世代の「Nプラットフォーム」を採用しています。これはクラウン専用に開発されたもので、先代までのプラットフォームとは設計思想からして別物です。ホイールベースを延長しながらも、車体剛性を大幅に引き上げ、重心を下げる。走りの質を根本から変えようとした設計でした。

    サスペンションも刷新されています。フロントはダブルウィッシュボーン、リアはマルチリンク。先代のストラット式フロントサスから変更したことで、操舵時のフィーリングが明確に変わりました。クラウンといえば「ふわふわした乗り心地」のイメージが根強かったのですが、S180系はそこに明確にメスを入れています。

    エンジンもまったくの新開発です。搭載されたのはGRエンジンシリーズ。2.5Lの4GR-FSE、3.0Lの3GR-FSE、そしてロイヤルサルーン系の上位やアスリート系に積まれた3.0Lの3GR-FSEに加え、後に2GR-FSEという3.5L V6も追加されます。いずれも直噴技術(D-4S)を採用し、先代のJZエンジン系列から完全に世代交代しました。

    特に注目すべきは、直列6気筒からV型6気筒への転換です。クラウンといえば長らく直6が定番でしたが、S180系でV6に統一されました。これはエンジンルームのレイアウト自由度や衝突安全性の確保といった実利的な理由が大きいのですが、「クラウンの直6」に思い入れのあるファンにとっては、まさに象徴的な決別でした。

    アスリートという回答

    S180系を語るうえで外せないのが、「クラウン アスリート」の存在感です。アスリート自体はS150系(10代目)から設定されていましたが、本格的に「走りのクラウン」として市場に刺さったのは、このS180系からだと言っていいでしょう。

    アスリートには専用のサスペンションセッティングが施され、18インチタイヤが標準装備されるグレードもありました。ロイヤル系がショーファードリブン的な快適性を残す一方で、アスリートは「自分で運転して楽しいクラウン」を明確に打ち出しています。

    これは単なるグレード戦略ではなく、クラウンの顧客層を若返らせるための切り札でした。実際、S180系のアスリートは30〜40代のオーナーを相当数取り込むことに成功しています。BMW 3シリーズやメルセデスCクラスに流れていた層を、国産セダンで引き戻す。それがアスリートに課されたミッションであり、S180系はそのミッションを初めて本気で遂行した世代です。

    内装と電子装備の世代交代

    走りだけでなく、室内の設計思想もS180系では大きく変わっています。先代までのクラウンの内装は、良く言えば重厚、悪く言えば古典的でした。木目パネルにベロア生地、いかにも「偉い人の車」という空気感です。

    S180系ではインパネのデザインがモダンになり、メーターまわりにはオプティトロンメーターが採用されました。ナビゲーションシステムもHDDナビが標準的に設定され、当時としてはかなり先進的な情報系装備を備えています。

    地味ですが重要なのが、ステアリングフィールの改善です。電動パワーステアリングの採用により、速度域に応じたアシスト量の変化がより緻密になりました。「クラウンのハンドルは軽すぎて何も伝わらない」という従来の批判に対して、S180系はかなり意識的に応えています。

    弱点がなかったわけではない

    ただし、すべてが絶賛されたわけではありません。直噴エンジンの初期モデルでは、カーボン堆積による不調が報告されるケースがありました。D-4S直噴はトヨタにとっても新しい技術であり、初期ロットにはそれなりの課題があったのは事実です。

    また、「ゼロクラウン」というコンセプト自体に対して、従来のクラウンユーザーからは戸惑いの声もありました。乗り味が引き締まったことを「硬い」と感じる層は確実にいましたし、V6への転換を「クラウンらしさの喪失」と受け取る人もいました。

    つまりS180系は、新しい顧客を獲得する代わりに、旧来のファンの一部を手放すリスクを取ったモデルです。そしてトヨタはそのリスクを承知のうえで踏み切った。その判断の是非は、後の販売実績が証明しています。S180系は登場直後から好調な販売を記録し、クラウンの世代交代を成功させました。

    ゼロクラウンが残したもの

    S180系が系譜上で持つ意味は、非常に大きいです。このモデルで確立された「ロイヤルとアスリートの二本柱」という構造は、後継のS200系(13代目)、S210系(14代目)にもそのまま引き継がれています。

    V6エンジンへの統一、走行性能の本格的な引き上げ、輸入車を意識した商品企画。これらはすべてS180系で方向が定まり、以降のクラウンはその延長線上で進化していきました。2018年に登場した15代目S220系でクラウンが再び大きな転換を迎えるまで、S180系が敷いた路線は約15年間にわたって基本骨格であり続けたことになります。

    「ゼロ」と名乗ることは、過去の蓄積を否定することでもあります。50年近い歴史を持つ車種でそれをやるのは、相当な覚悟がいる。けれどS180系は、その覚悟に見合うだけの中身を伴っていました。だからこそ「ゼロクラウン」という呼び名は、揶揄ではなく敬意をもって語り継がれているのだと思います。

  • 7代目 クラウン – S120系【「いつかはクラウン」が生まれた世代】

    7代目 クラウン – S120系【「いつかはクラウン」が生まれた世代】

    「いつかはクラウン」。日本の自動車CMの歴史において、これほど広く長く記憶されたコピーはそう多くありません。

    このフレーズが生まれたのが、1983年に登場した7代目クラウン、S120系です。

    ただ、この言葉がなぜこの世代で生まれたのかを考えると、単なる広告の話では済まない。

    クラウンという車種が、日本の高級車市場のなかで自分の立ち位置を明確に定義し直した、そういう転換点だったからです。

    バブル前夜、高級車の定義が変わりはじめた時代

    S120系が登場した1983年は、日本経済がまさに上昇気流に乗りはじめた時期にあたります。プラザ合意は1985年ですから、まだ円高・バブルの本番は先。しかし、国内の消費意欲は確実に高まりつつあり、「いい車に乗ること」が社会的なステータスとして強い意味を持っていた時代です。

    この頃、クラウンの競合環境も変わりつつありました。日産はセドリック/グロリアのY30系を同年に投入し、V6エンジンで攻勢をかけています。さらに輸入車の存在感も少しずつ増していた。クラウンは「日本の高級車の代名詞」であり続けるために、ただモデルチェンジするだけでは足りない。もう一段、格を上げる必要があったわけです。

    先代の課題を引き受けた開発

    先代にあたる6代目・S110系は、クラウン史上でもやや評価が割れるモデルでした。4ドアピラードハードトップを新設するなど意欲的な試みはあったものの、デザイン面では保守的すぎるという声と、新しさが足りないという声が入り混じっていた。つまり、クラウンの伝統を守りながらどう新しさを出すかという永遠の課題が、7代目にはより切実に突きつけられていたのです。

    トヨタがこの世代で選んだ方向性は、「品格の再定義」でした。外観は直線基調のシャープなラインで構成されつつも、押し出しの強さと端正さを両立させたデザインに仕上がっています。特に4ドアハードトップは、Bピラーを廃したすっきりとしたサイドビューが当時の高級車像にぴたりとはまり、大きな人気を集めました。

    「ロイヤル」と「アスリート」の原型

    S120系を語るうえで外せないのが、グレード体系の整理です。この世代でロイヤルサルーンというグレード名が確立され、クラウンの最上級仕様としての地位を明確にしました。後に「ロイヤル系」「アスリート系」という二本柱に発展していくクラウンのグレード戦略は、このS120系が出発点と言っていいでしょう。

    つまり、「クラウンとはどういう車か」をグレード名の段階から定義しにいった世代なのです。それまでのクラウンは、上位グレードと下位グレードの差はあっても、キャラクターの方向性は基本的にひとつでした。ロイヤルサルーンという名前を冠することで、「フォーマルで上質な高級車」という軸を言語化した。これは商品企画として非常に大きな一歩です。

    エンジンと技術の見どころ

    パワートレインでは、直列6気筒の1G-GEU型(2.0L、ツインカム24バルブ)が話題を集めました。クラウンにツインカムという組み合わせは、当時としてはかなり攻めた選択です。高級車に走りの性能を持ち込むという発想は、のちのアスリート系に通じる伏線でもあります。

    もちろん、主力はあくまで5M-GEU型の2.8L直6や、後に追加される3.0Lの6M-GEU型です。とくに3.0Lモデルは、排気量による余裕のある走りと静粛性で、「クラウンらしさ」を体現していました。ディーゼルエンジンも設定されており、法人需要やタクシー用途にもしっかり対応するあたりは、クラウンの実用車としての側面を忘れていない証拠です。

    足回りでは、上級グレードにエアサスペンションが採用されました。電子制御で車高や減衰力を調整するこのシステムは、当時の国産車としては先進的な装備です。乗り心地の良さを技術で裏付けるという姿勢が、この世代のクラウンには一貫して感じられます。

    「いつかはクラウン」が刺さった理由

    冒頭で触れた「いつかはクラウン」というコピーに、もう少し踏み込んでおきます。このフレーズが秀逸だったのは、クラウンを「今すぐ買える車」としてではなく、「人生の到達点に置かれるべき車」として位置づけた点です。

    これは裏を返せば、クラウンの顧客層が明確に上の世代であることを認めたうえで、若い層にも「いつかは」と思わせるブランド戦略です。実際にこの時代、30代のサラリーマンがクラウンを新車で買うのは簡単ではなかった。でも「いつかは」と思わせることで、ブランドへの憧れを長期的に醸成する。これは自動車マーケティングとして極めて巧みでした。

    そしてこのコピーが機能したのは、S120系という車自体に「憧れるに足る品格」があったからです。デザイン、装備、乗り味、グレード体系。すべてが「日本のフォーマルセダンの頂点」を自認する水準に仕上がっていたからこそ、あの言葉は空疎なスローガンにならずに済んだのです。

    クラウン史における分水嶺

    S120系は、販売面でも大きな成功を収めました。4ドアハードトップの人気は特に高く、この世代以降、クラウンといえばハードトップという認識が定着していきます。セダンとハードトップの二本立てというボディ構成も、この世代で完全に確立されました。

    後継のS130系(8代目)は、このS120系の路線をさらに洗練させる形で進化しています。つまりS120系は、クラウンが「伝統の高級車」から「戦略的に設計された高級ブランド」へと変わるターニングポイントだった。ロイヤルサルーンの確立、ハードトップ人気の定着、そしてあのキャッチコピー。どれもこの世代で生まれたものです。

    7代目クラウンは、クラウンが「なんとなく偉い車」だった時代を終わらせ、「なぜ偉いのか」を自ら言語化した世代です。

    それは車としての完成度だけでなく、ブランディングという概念を日本の自動車史に持ち込んだという意味でも、記憶されるべきモデルだと思います。

  • クラウン – S60/70系【「白いクラウン」が壊した常識】

    クラウン – S60/70系【「白いクラウン」が壊した常識】

    クラウンといえば黒塗りの法人車。

    1960年代後半まで、その印象は揺るぎないものでした。

    ところが4代目クラウン、通称S60/70系は「白いクラウン」という衝撃的なキャッチコピーとともに登場し、クラウンの客層そのものを塗り替えようとしました。

    保守的であることがブランドの根幹だったクラウンが、なぜこのタイミングで攻めに転じたのか。

    その背景を読み解くと、1960年代後半の日本の自動車産業が直面していた構造変化が見えてきます。

    黒から白へ──商品企画の大転換

    1971年に登場した4代目クラウンは、「白いクラウン」のキャッチコピーで世に出ました。当時のクラウンは法人需要が圧倒的で、ボディカラーは黒が常識。タクシーやハイヤー、官公庁の公用車として使われることが多く、個人オーナーが自分の趣味で選ぶクルマという印象は薄かったのです。

    トヨタがここで白を打ち出したのは、単なるカラーバリエーションの話ではありません。「クラウンを個人ユーザーのクルマにしたい」という、商品企画の根本的な方向転換でした。日本のモータリゼーションが急速に進み、個人の所得水準が上がっていた時代です。法人需要だけに頼っていては、いずれ成長の天井にぶつかる。その危機感が、クラウンの「脱・黒塗り」を後押ししました。

    結果として、この戦略は大きく当たります。白いクラウンは個人オーナー層に刺さり、クラウンのイメージを「偉い人が乗せてもらうクルマ」から「成功した人が自分で選ぶクルマ」へと変えていきました。後のクラウンが個人ユーザー比率を高めていく流れは、この4代目が起点だったといっていいでしょう。

    ペリメーターフレームという構造的な決断

    商品企画だけでなく、技術面でもS60/70系は大きな転換を遂げています。最も重要なのは、ペリメーターフレームの採用です。従来のはしご型フレームに代わり、車体の外周に沿ってフレームを配置する構造に切り替えました。

    ペリメーターフレームの狙いは明快です。フロア面を低くできるため、室内空間が広がる。同時に、フレームとボディの結合点が増えるため、剛性も向上する。乗用車としての快適性を高めつつ、フレーム構造の堅牢さも維持するという、いわば「いいとこ取り」の設計思想です。

    当時、日産のセドリック/グロリアはすでにモノコック構造に移行していました。トヨタがあえてフレーム構造を残したのは、クラウンの用途──つまり法人車やタクシーとしての耐久性要求──を無視できなかったからです。ただし、旧来のはしご型のままでは乗用車としての進化に限界がある。ペリメーターフレームは、その両方の要求に応えるための現実的な解でした。

    スピンドルシェイプと新しいデザイン言語

    4代目クラウンのスタイリングは、スピンドルシェイプと呼ばれる紡錘形のボディラインが特徴です。ウエストラインを絞り、フェンダーを張り出させることで、それまでの箱型セダンとは明確に異なるシルエットを作り出しました。

    このデザインには賛否がありました。保守的なクラウンユーザーからすれば、急に派手になったように見えたはずです。しかしトヨタの狙いは、まさにそこにありました。「白いクラウン」のコンセプトと同じく、若い個人オーナーに「欲しい」と思わせるためには、見た目からして変えなければならなかったのです。

    また、ハードトップモデルが設定されたのも4代目の大きなトピックです。ピラーレスのスタイリッシュなシルエットは、まさに個人ユーザー向けの商品。セダンとハードトップの二本立てという構成は、以降のクラウンでも長く続く定番のフォーマットになりました。

    エンジンラインナップと実用性の幅

    パワートレインは、直列6気筒のM型系エンジンが中心でした。2.0リッターのM型、2.3リッターの2M型、そして2.6リッターの4M型といったラインナップが揃えられ、用途に応じた選択肢が用意されています。

    特に4M型の2.6リッターSOHCは、当時の国産セダンとしてはかなり余裕のある排気量でした。高速道路網の整備が進んでいた時代、長距離を快適に移動するための動力性能は重要なセールスポイントだったのです。

    一方で、タクシー向けにはLPG仕様も設定されるなど、法人需要を切り捨てたわけではありません。個人向けに華やかなイメージを打ち出しつつ、実需もしっかり押さえる。このあたりのバランス感覚は、トヨタらしいと言えます。

    3代目の反省と4代目の挑戦

    4代目の方向性を理解するには、先代である3代目クラウン(S50系)の経緯を知っておく必要があります。3代目は1967年に登場しましたが、当初の評価は必ずしも高くありませんでした。特にフロントサスペンションの問題が指摘され、マイナーチェンジで大幅な改良を余儀なくされています。

    この経験がトヨタに与えた教訓は大きかったはずです。4代目では足回りの設計が見直され、フロントにダブルウィッシュボーン、リアにはトレーリングアーム式の4リンクが採用されました。乗り心地と操縦安定性の両立を、フレーム構造の中でどこまで追求できるか。その回答が、ペリメーターフレームと新しいサスペンション設計の組み合わせだったわけです。

    つまり4代目クラウンは、3代目での躓きを踏まえた「リベンジ」の側面も持っていました。商品企画で攻めると同時に、基本性能では確実に前進する。攻守のバランスが取れていたからこそ、4代目は成功を収めることができたのです。

    クラウン史における分水嶺

    S60/70系クラウンは、クラウンの歴史において明確な分水嶺です。それまでの「保守と格式」から、「個人の豊かさの象徴」へ。この転換がなければ、後の「いつかはクラウン」というキャッチコピーも生まれなかったでしょう。

    技術的にも、ペリメーターフレームの導入はクラウンのフレーム構造を延命させる重要な判断でした。モノコック化を選ばなかったことで、クラウンは他の国産高級セダンとは異なる乗り味──重厚で、どっしりとした走り──を長く維持することになります。良くも悪くも、クラウンらしさの骨格がここで固まったのです。

    「白いクラウン」という一見キャッチーなだけのフレーズの裏には、商品企画の大転換、構造設計の刷新、先代の反省という三つの重い決断が重なっていました。

    4代目クラウンは、クラウンが「国民車の頂点」になるための土台を築いた、地味だけれど決定的に重要な一台です。