カテゴリー: Honda

  • インテグラとは

    インテグラは、ホンダが「スポーティであること」を量産の土俵に載せるために作ったシリーズです。

    1985年のDA1/DA2が出発点でした。クイントインテグラとして登場したこの世代は、DOHCエンジンとリトラクタブルヘッドライトを備え、実用車の価格帯で走りの体裁を整えています。特別なスポーツカーではなく、普通に買えるスポーティカー。ホンダが得意とする領域が、ここで形になりました。

    1989年のDA5〜DA9で、その完成度が一段上がります。ダブルウィッシュボーンの足まわり、高回転まで気持ちよく回るエンジン、そして4ドアと3ドアを揃えた実用性。のちにタイプRという頂点が成立するのは、この世代で土台が固まっていたからです。

    その後インテグラの名前は一度日本市場から消え、長い空白が続きます。

    復活したのは2024年のDE5、インテグラ タイプSでした。北米ホンダの車種として企画され、中身はシビック タイプRと多くを共有しています。名前が戻ってきた一方で、かつてのインテグラらしさをどこに見るかは議論の分かれるところでしょう。

    DA1からDE5まで。インテグラの歴史は、「速いホンダ」を特別扱いせずに売り続けようとした試みの記録です。

  • ホンダの小さなスポーツとは

    ホンダの四輪の原点は、実用車ではなく小さな2人乗りオープンでした。

    1962年のSPORTS 360は、鈴鹿で発表されながら市販されずに終わります。それでもこの車の存在は重要です。二輪メーカーだったホンダが四輪へ出ていくとき、最初に見せたのがトラックでもセダンでもなく、軽自動車枠のスポーツカーだったからです。

    実際に売られたのは1963年のS500でした。531ccの直列4気筒DOHCで44PS、8000rpmまで回るエンジンを、後輪へチェーンで伝える。二輪で培った高回転技術を、そのまま四輪に持ち込んだ構成です。排気量あたりの出力は当時の常識を大きく超えていました。

    続くS600、そしてS800で排気量を広げ、輸出にも本格的に乗り出します。小さくて速い、そして精密に回る。この時期に作られたホンダらしさの定義は、その後も何度も参照されることになります。

    その血が軽自動車の枠へ戻ってきたのが1991年のPP1、ビートでした。エンジンを運転席の後ろへ置くミッドシップで、自然吸気の660ccを8100rpmまで回す。バブル期のホンダだからできた、採算度外視の遊びです。

    そして2015年のJW5、S660。同じくミッドシップの軽オープンで、こちらはターボと6速MTを組み合わせています。速さの絶対値は限られていても、車体が小さいぶん、扱いきれる楽しさは濃い。2022年の生産終了時には、大量の受注が短時間で埋まりました。

    SPORTS 360からS660まで。この系譜は、ホンダという会社がいちばん機嫌のいいときに何を作るのかを示す記録です。

  • プレリュードとは

    プレリュードは、ホンダが新しい技術を試すのに「色気」という名目を使ったクルマです。

    1978年のSNは、ホンダが初めて「格好で選ばれるクルマ」を狙った一台でした。実用性ではシビックに勝てません。それでも2ドアクーペを出したのは、自社の商品が全部合理性で説明できてしまうことへの危機感だったのでしょう。

    その狙いが完全に当たったのが1982年のAB/BA1です。ボンネットを極端に低く抑えるためにリトラクタブルヘッドライトを採用し、四輪独立懸架と四輪ディスクブレーキを与える。日本で「デートカー」と呼ばれる商品類型は、事実上この世代が作りました。売れた理由は雰囲気ですが、中身は当時のホンダの技術の見本市です。

    1987年のBA4/BA5/BA7では、その性格が露骨になります。世界初の機械式四輪操舵、つまり4WSを市販車に載せたのです。後輪も曲がるという機構を、スポーツカーではなくデートカーで実用化した。ホンダらしい順番の狂い方でした。

    1991年のBA8/BA9はバブル期の全部入りで、H22A型の200PSと大型化した車体を持ちます。ただし時代は変わりつつありました。1996年のBB5/BB6ではATTSという左右輪のトルク配分機構まで用意しますが、クーペ市場そのものが縮み、2001年に生産を終えます。

    そして2025年のBF1。24年ぶりに復活したプレリュードは、e:HEVのハイブリッドを積むクーペです。速さの数字ではなく、走らせたときの気持ちよさをどう作るかという問いに、電動化の側から答えようとしています。名目が「色気」であることは、初代から変わっていません。

    SNからBF1まで。プレリュードの歴史は、ホンダが実験したい技術に、いつも一番おしゃれな服を着せてきた記録です。

  • シビック Type Rとは

    シビックにType Rが与えられたのは、実はType Rの中でいちばん最後です。

    NSX、インテグラと続いた赤バッジがシビックへ降りてきたのは1997年、EK9から。それ以前のEF9・EG6はまだ「SiR」を名乗っていました。ただ、B16Aで生まれた「回してパワーを取る」という思想はこの2台で完成していて、歴代Type Rの原型は事実上ここにあります。

    面白いのは、この系譜が一度日本を出ていることです。2001年のEP3は英国生産の3ドア。2007年には日本向けの4ドアFD2と、欧州向けの3ドアFN2が並走しました。同じ名前で中身の違うType Rが、同時に2台あったわけです。FD2はK20Aの自然吸気で8,400rpmまで回り、FN2は欧州の道と法規に合わせて別の答えを出していました。

    そして2015年のFK2で、Type Rはターボになります。

    自然吸気の高回転こそType Rだと信じてきた層には、これは裏切りに見えました。ホンダの回答は数字でした。K20C1型2.0L VTECターボで310PS。ニュルブルクリンク北コースで7分50秒63を記録し、FF量産車最速の座を獲得します。日本仕様が750台限定だったのは、このタイムの「750」から取られたものです。記録そのものを商品名にしたわけです。

    その座は翌年フォルクスワーゲン・ゴルフGTIクラブスポーツSに明け渡しますが、2017年のFK8が7分43秒80で奪還。FL5へと続く現在の流れは、あのターボ化の決断の先にあります。

    型式ごとに、生まれた国も、エンジンの答えも、ドアの数さえ違う。それがこのシリーズの厄介で、面白いところです。

  • 「本田技研工業」は、いつ「Honda」になったのか

    「本田技研工業」は、いつ「Honda」になったのか

    「本田技研工業」と「Honda」

    もちろん、同じ会社です。

    正式な社名は今も本田技研工業株式会社ですし、昔の会社が途中でHondaへ社名変更したわけでもありません。

    それでも、この二つの名前から受ける印象は、少し違う気がします。

    本田宗一郎。藤澤武夫。町工場。マン島TT。F1。VTEC。高回転エンジン。

    そんな時代を思い浮かべるとき、「本田技研工業」という少し堅い名前が妙によく似合います。

    一方、現在のHondaは世界中で二輪車と四輪車を販売し、航空機を飛ばし、ロボットを研究し、電動化や宇宙領域まで手を伸ばす巨大グローバル企業です。

    では、「本田技研工業」は、いつ現在のHondaになったのでしょうか。

    そして、その過程で「ホンダらしさ」は消えてしまったのでしょうか。

    この話を考えるうえで、まず見ておきたいのがクルマではありません。

    株主です。

    Hondaの株主構成——いまや、ほとんど「誰の会社でもない」

    N-BOX/N-BOX カスタム/N-BOX ジョイ(2026年)
    画像:本田技研工業

    2026年3月末現在、Hondaの筆頭株主は日本マスタートラスト信託銀行で17.5%。

    2位が日本カストディ銀行で7.1%、3位がADRの預託機関名義であるMoxley & Co.で5.7%。その後も生命保険会社や海外金融機関が続きます。

    そこに「本田家」の名前はありません。

    これはかなり重要です。

    現在のHondaは、本田宗一郎の子孫が大量の議決権を握り、「本田家がやりたいこと」を押し通せる会社ではありません。

    株式市場から資本を預かり、世界中に従業員と顧客を抱え、巨額の研究開発費と設備投資を動かす上場企業です。

    当然、経営には説明責任があります。

    「この技術に投資すると、どの市場で勝てるのか」

    「何台売れるのか」

    「利益率はどうなるのか」

    「その開発費は回収できるのか」

    規模が大きくなるほど、こうした問いは重くなります。

    そして、これはHondaだけの問題ではありません。

    巨大メーカーが変なクルマを作りづらくなる理由のひとつです。

    ただし。

    昔のホンダは、本当に違いました。

    本田宗一郎は、本当に大株主だった——1957年の持株比率16.41%

    Honda 1300(1969年)。本田宗一郎が主導した空冷エンジンを積む
    画像:本田技研工業

    本田技研工業が東京証券取引所へ上場した1957年度。

    本田宗一郎の持株比率は16.41%。

    藤澤武夫は9.07%。

    二人だけで約25.5%を保有していました。

    本田宗一郎は、単に強烈な個性を持った社長だったわけではありません。

    創業者であり、経営者であり、大株主でもあった。

    そこに、経営と財務を担った藤澤武夫がいる。

    現代の巨大メーカーとは、そもそも意思決定の前提が違います。

    そして1957年、本田宗一郎は株主総会で研究開発について説明しています。

    研究や試作というものは、すぐに貸借対照表へ成果として現れるものではない。

    しかし、それでも重要なのだ、と。

    当時すでに研究部門には約200人を置き、毎月最大2000万円を投じていました。

    これ、今読んでもかなり象徴的です。

    「数字としてすぐ説明できないものにも、会社の金を使う」

    本田宗一郎時代のホンダを語るうえで、ここはかなり重要な気がします。

    初代シビックとCVCC——その思想がクルマになった1972年

    初代シビック 2ドア DX(1972年)
    画像:本田技研工業

    初代シビックが登場したのは1972年。

    今ではHondaを代表する世界的な車名ですが、当時のホンダ四輪事業はかなり危うい状態でした。

    その前に投入したHonda 1300は販売面で苦戦。

    ホンダ自身の75年史でも、次の新型車が失敗すれば四輪事業への本格参入そのものが難しくなるのではないか、という危機感の中でシビックが開発されたとされています。

    そこでホンダが作ったのは、単純に「他社より馬力のあるクルマ」ではありませんでした。

    小さなFFの2ボックス。

    タイヤを四隅へ置き、人が使える空間を確保する。

    そして翌1973年には、厳しい米国排出ガス規制をクリアしたCVCCエンジンを投入します。

    規制が厳しくなった。

    なら、規制をクリアする技術を作る。

    しかもCVCCの公害対策技術は他メーカーにも公開されました。

    ここには、後のホンダにも何度も現れる考え方があります。

    スペック競争だけではない。

    「世の中がこうなるなら、技術で別の答えを出す」

    という姿勢です。

    シビックは、その思想を最も長く観察できるクルマでもあります。

    本田宗一郎は「本田宗一郎の会社」を、自分で終わらせた

    https://kuruma-dna.com/suzuki-india-strategy

    ここからが、この会社の少し変わったところです。

    普通、強烈な創業者がいて、大量の株を持ち、会社が成功したなら、その影響力を残そうと考えても不思議ではありません。

    ホンダは逆でした。

    1960年、本田技術研究所の分離

    1960年、ホンダは研究部門を本体から切り離し、本田技術研究所を独立させます。

    その狙いとしてホンダ自身が残しているのが、

    一人の天才・本田宗一郎だけに依存するのではなく、多くの専門家の力を使う

    という考え方です。

    さらに1970年には、すでに4人の専務による集団指導体制への移行を進めていました。

    1973年、藤澤武夫とともに退任

    そして1973年。

    藤澤武夫が退任を決めると、本田宗一郎も同時に退きます。

    後継社長は河島喜好。

    45歳。

    本田家でも、藤澤家でもありません。

    ホンダ自身も、この人事について「典型的な同族企業ではないことを示した」と振り返っています。

    つまり現在のHondaが「本田家の会社」ではないのは、創業者の力がいつの間にか失われたからではありません。

    本田宗一郎と藤澤武夫自身が、そういう会社を作ったのです。

    これはものすごく立派な判断だと思います。

    でも同時に、少し怖い判断でもあります。

    創業者への依存をなくすということは、

    創業者にしか説明できなかった価値を、組織として説明できるようにしなければならない

    ということでもあるからです。

    VTECとシビックType R EK9——それでもしばらく「変なホンダ」は残った

    https://kuruma-dna.com/ek9

    もちろん、本田宗一郎が退任した1973年を境にホンダが突然普通の会社になったわけではありません。

    むしろ、その後も技術者集団としての色はかなり濃く残りました。

    その象徴のひとつがVTECです。

    1989年に登場したVTECは、低回転側と高回転側で異なるバルブ特性を使い分けることで、日常域の扱いやすさと高回転域の性能を両立しようとした技術でした。(この記事を読む人で知らない人はいないと思いつつ)

    最初にこれを積んだのがシビックSiR(EF9)で、そこからシビックにもこの技術が入っていきます。

    やがて1997年には初代シビック TYPE R、EK9が登場。

    1.6L自然吸気のB16Bは185PSを8,200rpmで発生し、車重は約1,050kg。

    ホンダが狙ったのは、単なる最高出力だけではなく、高回転まで回したときの伸びやアクセルレスポンスでした。

    シビック TYPE R・X のアルミ製ペダル(1999年)
    画像:本田技研工業

    もちろん185PSという数字そのものも、当時としては十分にすごい。

    でも、あの時代のホンダ車を好きな人が語るものは、それだけではありません。

    回していく。

    音が変わる。

    エンジンの表情が変わる。

    もう一度そこまで回したくなる。

    速く走るためだけなら、必ずしも必要ではない感覚です。

    でも、運転する人間にとっては大きな価値になる。

    かつての本田技研工業が得意だったのは、こういう「スペック表には最後まで書き切れない価値」をクルマへ入れることだったのかもしれません。

    巨大企業になるほど、「説明できる性能」が強くなる——2020年の組織再編

    ところがホンダは、その後さらに巨大になります。

    二輪、四輪、パワープロダクツ、航空機。

    世界中で事業を展開し、研究開発費も設備投資も桁違いになる。

    株主も創業者中心ではなく、機関投資家や市場の株主へ分散していきます。

    これは会社として成功した結果です。

    そして企業が大きくなるほど、商品開発にも事業としての合理性が求められます。

    象徴的なのが2020年の組織再編です。

    Hondaはそれまで本田技術研究所が担っていた四輪の商品開発機能の多くを本田技研工業本体へ統合。

    営業、生産、開発、購買を一体化し、企画から量産までをより効率的に運営する体制へ変更しました。

    一見すると、かつて独立させた研究所を元へ戻したようにも見えます。

    ただ、Hondaの説明はもう少し面白い。

    量産車の商品開発は、失敗できない。

    一方、将来技術の研究は、99%失敗するようなテーマにも挑まなければならない。

    だから両者を分ける。

    本田技術研究所には、ロボティクスやエネルギー、新しいモビリティなど、未知の領域を改めて任せることになりました。

    つまりこれは、昔の思想を完全に捨てたというより、

    巨大企業になったHondaなりに、挑戦と事業を仕分け直した

    と見る方が正しいでしょう。

    FL5型シビックType Rは、ものすごく良いクルマです

    https://kuruma-dna.com/fl5

    ここで現代のシビックを見てみます。

    現行FL5型シビック TYPE R。

    2.0L VTEC TURBO。

    330PS。

    420Nm。

    6速MT。

    Hondaが積み上げてきたFFスポーツの技術を使い、ニュルブルクリンクでも圧倒的な速さを証明してきたクルマです。

    シビックType R(FL5)
    画像:本田技研工業

    性能だけ見れば、昔のシビックとは比較になりません。

    シャシーも空力もタイヤも電子制御も、遥かに高度です。

    そしてHonda自身も、FL5では速さだけでなく、ドライバーの感情に訴える「driving pleasure」を追求したと説明しています。

    だから、「昔のHondaには技術があったけど今のHondaにはない」という話ではありません。

    そんなものは数字を見ればすぐ否定できます。

    今のHondaの技術力は、間違いなく高い。

    でも、ここで少し別の疑問が残ります。

    「すごい性能」と「欲しくなる理由」は、同じなのか

    330PS。

    420Nm。

    ニュルブルクリンクのラップタイム。

    高剛性ボディ。

    大型ブレーキ。

    シビック TYPE R(FL5)の加速性能グラフ
    画像:本田技研工業

    こういう性能には、大きな強みがあります。

    価値を説明しやすいのです。

    なぜこのクルマに高い金額を払うのか。

    なぜこの部品を開発するのか。

    なぜこの性能が必要なのか。

    数字で示せます。

    一方、

    「高回転まで回したくなる」

    「シフトを一段落として、もう一度加速したくなる」

    「速くなくても、このクルマで遠回りしたくなる」

    という価値は、かなり説明しづらい。

    何馬力分なのか。

    何秒短縮できるのか。

    何台多く売れるのか。

    測ることが難しい。

    それでも本田宗一郎時代の本田技研工業は、そういうものへ平然と金を使いました。

    そもそも創業者本人が、研究開発について「すぐ貸借対照表に成果が出るものではない」と株主へ説明していた会社です。

    だから、昔のHondaと今のHondaの違いを考えるなら、

    「技術力が落ちた」

    ではなく、

    「説明しづらい価値に、会社としてどこまで賭けられるのか」

    という問いの方が近いのかもしれません。

    そして、これはHondaだけの問題ではありません。

    創業者企業が巨大な上場企業へ成長するとき、ほとんどの会社が一度は直面する問題です。

    それを望んだのは、本田宗一郎本人だった

    だから、現在のHondaを見て、

    「昔のHondaは良かった」

    だけで終わるのも少し違います。

    今の資本構成も。

    プロ経営者による経営も。

    創業家に依存しない組織も。

    ある意味では全部、本田宗一郎と藤澤武夫が望んだHondaの姿だからです。

    NS-X(1989年発表時のNSX)の走行イメージ
    画像:本田技研工業

    二人は自分たちの子供へ会社を継がせませんでした。

    自分たちがいなくても研究できる仕組みを作りました。

    若い後継者へ会社を渡し、自分たちは経営から退きました。

    「本田宗一郎という天才がいなくなったら終わる会社」にしないためです。

    その実験は成功しました。

    本田宗一郎が亡くなってから30年以上。

    経営から退いてからなら半世紀以上が経っています。

    それでもHondaは世界最大級のモビリティ企業として残っている。

    その事実だけでも、創業者の設計は恐ろしく優秀だったと言えます。

    ただ。

    会社を残すことと、

    創業者が持っていた狂気まで残すことは、同じではありません。

    Super-ONEのBOOSTモード——2026年、少しだけ「本田技研工業」が戻ってきた

    そんなことを考えていたら、2026年。

    Hondaから少し妙なクルマが出てきました。

    皆さんもご存知、Super-ONEです。

    小型EV。

    ベースはN-ONE e:。

    ここまでなら、時代に合わせた普通の電気自動車にも見えます。

    ところがHondaは、このEVに専用の「BOOSTモード」を入れました。

    通常47kWの最高出力を70kWまで引き上げる。

    ここまでは分かります。

    速くなるからです。

    でも、その先がおかしい。

    7段の仮想有段シフト制御。

    さらに、

    アクセル操作に合わせて鳴る仮想エンジンサウンド。

    Super-ONEのパドルシフト(7段の仮想有段シフト制御を操作する)
    画像:本田技研工業

    EVには本来、どちらも必要ありません。

    モーターは変速しなくても走れます。

    エンジンもないので、エンジン音も必要ありません。

    効率だけを考えるなら、なくてもいい。

    それでもHondaは作りました。

    理由も、かなり分かりやすい。

    Honda自身がBOOSTモードについて、

    カーボンニュートラルの時代でも「操る喜び」を届けるためのものだと説明しています。

    これです。

    最高出力なら数字にできます。

    航続距離も数字にできます。

    充電時間も数字にできます。

    でも、

    「変速しないEVを、わざわざ変速しているように感じさせた方が楽しい」

    は、かなり説明しづらい価値です。

    そのためだけに制御を作る。

    音を作る。

    演出を作る。

    効率の世界から少しだけはみ出して、人間がどう感じるかに開発費を使う。

    なんだか、ずいぶん昔の会社に似ています。

    https://kuruma-dna.com/super-one

    本田技研工業は、まだHondaの中に残っている

    本田宗一郎の本田技研工業は、もうありません。

    それでいいのだと思います。

    そもそも本田宗一郎本人が、自分なしでも続く会社を作ろうとしたのですから。

    現在のHondaは、世界中の株主から資本を預かり、何十万人もの生活と巨大な事業を背負って動く企業です。

    1950年代の会社と同じ意思決定ができるはずもありません。

    そして、するべきでもないでしょう。

    ただ、その巨大な組織のどこかで、

    「これ、必要ではないけど楽しくない?」

    と言う人がいて、

    それに会社の金を使うことが許されて、

    本当に商品になって出てくる。

    Super-ONE フロント7:3スタイリング(ブーストバイオレット・パール)
    画像:本田技研工業

    Super-ONEを見る限り、

    どうやらHondaの中には、まだ少しだけ「本田技研工業」が残っているようです。

    この記事に出てきたクルマの系譜

    参考

  • アコード ユーロR – CL7【最後の自然吸気VTECセダンが背負ったもの】

    アコード ユーロR – CL7【最後の自然吸気VTECセダンが背負ったもの】

    ホンダが「速いセダン」を本気で作ると、こうなる。

    そういう一台がありました。アコード ユーロR、型式CL7。

    2002年に登場したこの車は、自然吸気の高回転エンジンをセダンに載せるという、当時すでに絶滅しかけていた思想の最終形です。

    ターボ全盛の時代に、なぜホンダはNAにこだわったのか。そしてなぜ、それがアコードだったのか。この車の成り立ちを追っていくと、ホンダという会社の「譲れなかった部分」が見えてきます。

    7代目アコードという土台

    ホンダ・アコード ユーロR CL7
    画像:先従隗始/CC0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/cl1

    CL7のベースとなった7代目アコード(CL系)は、2002年にデビューしました。先代の6代目CF系から大きくキャラクターを変えた世代です。北米向けの大型アコードと日本・欧州向けを明確に分離し、日本仕様は3ナンバーながらも比較的コンパクトにまとめられました。

    この判断の背景には、先代で起きたある問題がありました。6代目アコードは北米市場を強く意識して大型化し、日本では「大きすぎる」という声が少なくなかった。結果として国内販売は伸び悩み、ホンダは日本向けアコードのサイズ感を見直す必要に迫られたのです。

    7代目の日本仕様は全幅1,760mm。決して小さくはありませんが、北米仕様とは別物のボディで、欧州車的なタイトさを意識した設計でした。プラットフォームの剛性も大幅に引き上げられ、走りの質を根本から底上げしようという意図が明確に見えます。

    つまりCL7ユーロRは、「走りのために再設計されたアコード」という土台があったからこそ成立した車です。ベースがぬるければ、いくらエンジンが良くても成立しません。

    K20A型という心臓

    https://kuruma-dna.com/dc5

    CL7ユーロRの核心は、何といってもK20A型2.0L直列4気筒i-VTECエンジンです。最高出力220ps/8,000rpm、最大トルク21.0kgf·m/6,000rpm。レッドゾーンは8,400rpmから。この数値だけで、このエンジンがどういう性格かはだいたい伝わるでしょう。

    リッターあたり110ps。自然吸気でこの数字を出すには、高回転まできれいに回る設計が不可欠です。K20Aはそれを、VTECの可変バルブタイミング・リフト機構とVTC(連続可変バルブタイミング・コントロール)の組み合わせで実現しました。低回転域ではおとなしく、カムが切り替わる高回転域で一気に本性を見せる。あの「VTECが入る瞬間」の加速感は、ターボのブースト立ち上がりとはまったく別種の快感です。

    同じK20Aは、DC5型インテグラ タイプRにも搭載されていました。ただしCL7への搭載にあたっては、セダンボディとの相性を考慮したセッティングが施されています。エンジン自体のスペックはほぼ同等ですが、車両重量が約100kg重い分、駆動系やギア比で調整が入っています。

    重要なのは、ホンダがこの時代にあえてターボ化せず、NAの高回転路線を貫いたことです。2002年といえば、三菱ランサーエボリューションやスバル・インプレッサWRX STIがターボ4WDで圧倒的な動力性能を誇っていた時代。その中でFF・NA・220psという選択は、数字の競争では明らかに不利でした。

    しかしホンダにとって、高回転NAは単なるスペック上の選択ではなく、アイデンティティそのものだったのです。エンジン屋としての矜持と言ってしまえばそれまでですが、それが製品として成立していたことに意味があります。

    セダンでスポーツを成立させた設計

    https://kuruma-dna.com/ep3

    ユーロRがただの「速いエンジンを積んだセダン」で終わらなかったのは、足回りとボディの仕上げがエンジンに見合っていたからです。専用チューニングのサスペンション、レカロ製バケットシート、専用のブレーキ、そしてMOMO製ステアリング。内装の質感も含めて、「走るための道具」として一貫した設計がされていました。

    トランスミッションは6速MTのみ。ATの設定はありません。この割り切りが、ユーロRというグレードの性格を端的に示しています。ホンダは「この車を選ぶ人は、自分でシフトする人だ」と決めていたわけです。

    FFセダンで220psとなると、トルクステアの問題が当然出てきます。CL7はフロントサスペンションにダブルウィッシュボーン式を採用し、ドライブシャフトの等長化やLSD(ヘリカル式)の装備で、この課題にかなり真正面から取り組んでいました。完全に消し去れたわけではありませんが、「FFでここまでやるか」という水準には達していたと思います。

    車両重量は約1,390kg。セダンとしては軽い部類です。DC5インテグラ タイプRほどの軽さはありませんが、4ドアで後席も実用的に使える車としては十分に軽量でした。この「日常性を捨てずにスポーツする」というバランスが、ユーロRの最大の美点だったと言えます。

    誰のための車だったのか

    https://kuruma-dna.com/ap1

    ユーロRの立ち位置は、少し説明が必要です。タイプRではない。かといって、ただのスポーティグレードでもない。「ユーロR」という名前が示す通り、欧州的なスポーツセダンの文脈に乗せた車でした。

    当時のホンダには、タイプRという絶対的なブランドがありました。NSX、インテグラ、シビック。いずれもタイプRの名を冠した車は、サーキット走行を視野に入れた硬派な仕上がりが身上です。一方でユーロRは、そこまで尖らせず、日常の快適性とスポーツ性を高い次元で両立させることを狙っていました。

    ターゲットは明確です。「家族がいるけど、走りは諦めたくない」という層。あるいは「BMWの3シリーズやアルファロメオ156に興味はあるが、ホンダのエンジンが好きだ」という層。ニッチといえばニッチですが、そこに確実に需要があることをホンダは知っていました。

    実際、先代のCL1型アコード ユーロR(6代目ベース)が2000年に登場した際、想定以上の反響があったことがCL7の企画を後押ししたと言われています。CL1はH22A型2.2L VTECを搭載し、こちらも高回転NA路線でした。CL7はその路線を新世代のK20Aで引き継いだ、正統な後継です。

    時代が許さなくなった存在

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    CL7ユーロRは2008年に生産を終了しました。後継の8代目アコード(CU系)にユーロRの設定はありません。つまり、CL7は「最後のアコード ユーロR」であり、同時に「最後の高回転NAセダン」と呼べる存在になりました。

    なぜ続かなかったのか。理由は複合的です。まず排出ガス規制の強化。高回転型NAエンジンは、燃費と排ガスの両面で不利になりつつありました。次に市場の変化。セダン市場そのものが縮小し、スポーツセダンという商品企画が成立しにくくなっていきます。

    さらに、ホンダ自身の戦略転換もありました。2000年代後半以降、ホンダはハイブリッド技術への投資を加速させ、高回転NAという路線は徐々に優先度を下げていきます。K20A型エンジンの系譜は、後にシビック タイプR(FD2)へと引き継がれましたが、それも2010年には終了。ホンダのNA高回転時代は、ここで一つの区切りを迎えます。

    もちろん、その後FK8型シビック タイプRがターボ化して復活し、新しい時代のスポーツモデルとして高い評価を得ています。しかしそれは、CL7やFD2が守ろうとした「NAで回して楽しむ」という価値観とは、本質的に異なるものです。どちらが優れているという話ではなく、時代が変わったということです。

    系譜の中のCL7

    アコード ユーロRという車は、ホンダの歴史の中で少し変わった位置にいます。タイプRほどの知名度はない。シビックやインテグラほどの台数も出ていない。しかし、「4ドアセダンに高回転NAを載せて、MTだけで売る」という企画を二世代にわたって続けたこと自体が、ホンダのある種の意地を示しています。

    CL7の中古車市場での評価は、年々上がっています。K20Aの官能的な回転フィールと、セダンとしての実用性を両立した車は、もう新車では手に入りません。その希少性が価格に反映されているのは、市場がこの車の価値を正しく認識している証拠でしょう。

    振り返ってみると、CL7ユーロRは「ホンダがNAで作れた最良のスポーツセダン」だったと思います。もっと速い車はあった。もっと売れた車もあった。でも、8,000回転まで回して気持ちいいセダンは、この車以外にほとんど存在しなかった。

    それだけで、この車が生まれた意味は十分にあります。

  • アコード ユーロR – CL1【セダンにタイプRの血を入れた異端児】

    アコード ユーロR – CL1【セダンにタイプRの血を入れた異端児】

    タイプRではない。けれど、明らかにタイプRの血が流れている。アコード ユーロR(CL1)は、そういう立ち位置の車でした。

    2000年に登場したこのセダンは、ホンダが「走れるセダン」をどう定義するかに本気で取り組んだ結果生まれた、かなり特殊な一台です。

    タイプRではなく「ユーロR」を名乗った理由

    2000年当時、ホンダにはすでにタイプRの系譜がありました。NSX-R、インテグラ タイプR(DC2)、シビック タイプR(EK9)。いずれもストイックに走りを削ぎ落とした、ある意味で「引き算の美学」で成立していたクルマたちです。

    ところがアコードという車格で同じことをやると、話がややこしくなります。アコードはホンダのミドルセダンであり、ある程度の快適性や実用性を前提にしたクルマです。遮音材を剥がしてエアコンレスにするわけにはいかない。

    だからホンダは「タイプR」ではなく「ユーロR」という名前を選びました。欧州的なスポーツセダンの文法、つまり快適性と走行性能を両立させる方向です。引き算ではなく、足し算と掛け算で走りを成立させる。この命名には、ホンダなりの明確な意図がありました。

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    H22A型VTEC——このエンジンが載ったことの意味

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    CL1の心臓部は、H22A型2.2L直列4気筒DOHC VTECです。最高出力220ps/7,200rpm、最大トルク22.5kgf·m/6,700rpm。自然吸気の2.2Lとしては、当時かなり高い水準でした。

    このエンジン、実はプレリュード タイプS(BB6)にも搭載されていたユニットのチューニング版です。ただしユーロR用は専用のECUセッティングが施され、吸排気系も見直されています。レブリミットは7,600rpmまで引き上げられ、高回転域での伸びが明確に違いました。

    ここで重要なのは、インテグラ タイプRのB18C型とは設計思想が異なるという点です。B18Cは1.8Lで200psという「リッターあたり出力」の極致を狙ったエンジンでしたが、H22Aは排気量の余裕を活かして中回転域のトルクも確保しています。セダンに載せるエンジンとして、これは正しい選択でした。日常の扱いやすさと高回転の快感が両立している。

    足回りとボディ——走りのための仕込み

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    CL1のベースとなったのは6代目アコード(CF系)です。ユーロRはこのプラットフォームに対して、かなり手の込んだチューニングを施しています。

    サスペンションは前後ともダブルウィッシュボーン。これはこの時代のホンダの強みでもありました。ユーロR専用のスプリングとダンパーが奢られ、スタビライザーも強化されています。車高はノーマルのアコードより約15mm低く設定され、重心の低さが走りの安定感に直結していました。

    トランスミッションは5速MTのみ。ATの設定はありません。ここにホンダの割り切りが見えます。快適性は残す。でも、運転する意志のない人には売らない。この線引きが、ユーロRというクルマの性格を決定づけていました。

    ブレーキもフロントに大径ディスクを採用し、制動力を底上げしています。タイヤは215/45R17。当時のセダンとしてはかなり攻めたサイズです。見た目の変化は控えめですが、走りに関わる部分には確実にコストがかけられていました。

    レカロとMOMO——内装が語る本気度

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    ユーロRの室内に座ると、まず目に入るのがレカロ製のフロントシートです。純正装着のレカロというだけで、当時はかなりのインパクトがありました。ホールド性が高く、長距離でも疲れにくい。スポーツ走行と日常使いの両方を見据えた、まさにユーロRのコンセプトを体現するパーツです。

    ステアリングはMOMO製の本革巻き。シフトノブはチタン製。こうした装備は、カタログ上の華やかさだけでなく、実際にドライバーが触れる部分の質感を上げるという意味で効いていました。

    一方で、後席の居住性やトランク容量は通常のアコードとほぼ同等です。家族を乗せて走れるし、荷物も積める。ここがタイプRとの決定的な違いです。「走れるけど、暮らせる」。ユーロRはそのバランスの上に成り立っていました。

    競合不在という幸運と不運

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    2000年前後の国産ミドルセダン市場で、CL1ユーロRに直接ぶつかるライバルはほぼいませんでした。トヨタのアルテッツァ(SXE10)はFRという異なるアプローチでしたし、三菱のギャランVR-4はすでに終息に向かっていました。スバルのレガシィB4 RSKはターボ4WDで、方向性がまるで違います。

    つまりCL1は、「FF・自然吸気・高回転型・MTオンリーのスポーツセダン」という、かなりニッチなポジションにいたわけです。競合がいないということは、比較されにくいという利点がある反面、そもそもこのジャンル自体の市場規模が小さいという問題も抱えていました。

    販売台数は決して多くありません。ただ、それは商品の出来が悪かったからではなく、こういうクルマを欲しがる層が限られていたからです。むしろ、買った人の満足度は極めて高かった。中古市場での根強い人気が、それを証明しています。

    CL7へ——ユーロRが残したもの

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    CL1ユーロRは2002年に7代目アコード(CL7系)へとバトンを渡します。後継のCL7ユーロRはK20A型2.0L i-VTECを搭載し、エンジンの世代が切り替わりました。排気量は小さくなりましたが、220psという出力は維持され、レスポンスはさらに鋭くなっています。

    CL1が切り拓いた「ユーロR」という概念は、CL7で完成度を高めました。しかしその後、アコードは大型化・高級化の道を進み、ユーロRという名前は消えていきます。市場がミニバンやSUVに流れていく中で、スポーツセダンという商品企画自体が成立しにくくなったのです。

    ただ、CL1が示した「セダンでも本気で走れる」という命題は、その後のホンダ車にも形を変えて受け継がれています。シビック タイプR(FD2)がセダンボディで登場したとき、その源流にCL1ユーロRの存在を感じた人は少なくなかったはずです。

    CL1アコード ユーロRは、タイプRの系譜には属さない。でも、ホンダが「走ること」に対して妥協しなかった時代の空気を、セダンという器に閉じ込めた一台です。派手さはない。

    でも、ステアリングを握ればわかる。

    このクルマは、本気で作られたセダンでした。

  • Super-ONE【令和のブルドッグ、軽EVの枠を壊して生まれたホットハッチ】

    Super-ONE【令和のブルドッグ、軽EVの枠を壊して生まれたホットハッチ】

    EVに「笑顔」は似合わないと思っていた人にこそ、知ってほしい一台があります。

    ホンダ Super-ONE(スーパーワン)。

    軽自動車のEVをベースにしながら、あえてその規格を飛び出し、ワイドボディとブーストモードで武装した小型EVスポーツです。

    市場調査から生まれたのではなく、開発者の「おもしろいクルマを作りたい」という衝動から始まったこの企画は、約40年前のあるクルマの記憶を呼び覚ましました。

    「おもしろいクルマ作りたいよね」から始まった企画

    https://kuruma-dna.com/aa-city-turbo

    Super-ONEの出自は、かなり異例です。

    通常の新車開発では、まず市場調査があり、ターゲットユーザーの設定があり、収益計画があって……という手順を踏みます。ところがこのクルマは違いました。

    ホンダ社内のとある部署が、2025年9月に発売された軽EV「N-ONE e:」の試作車両を手にしたとき、ひとつの仮説を立てたそうです。「軽自動車規格の制約を取り払ってチューニングしたら、おもしろいクルマになるのではないか」。つまり、マーケットインではなくプロダクトアウトの発想です。

    しかも、社内の合意を取り付けるために使ったのはドライビングシミュレーターではなく、実際にN-ONE e:ベースで仕立てた先行試作車でした。乗った人はみな笑顔が絶えなかったといいます。社内試乗した役員たちからは「これは発明だ」という声まで上がったとか。

    この「乗ればわかる」式の社内プレゼンで企画にゴーサインが出たというのは、なかなかホンダらしいエピソードです。数字やプレゼン資料ではなく、体験で人を動かす。そういう文化がまだ残っていることに、少しだけ安心します。

    ブルドッグの記憶が蘇った瞬間

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    先行試作車に乗った役員たちが口を揃えて言ったのが、「ブルドッグだ!」という一言でした。ブルドッグとは、1983年に登場したホンダ シティターボIIの愛称です。

    シティターボIIは、初代シティのトールボーイボディにインタークーラー付きターボを搭載し、1.2Lの排気量から110PSを絞り出した超ホットハッチでした。ワイドトレッド化に伴うダイナミックフェンダー、大型パワーバルジなど、小さな車体に筋肉がみなぎるようなスタイリングが特徴で、当時の価格は約124万円。若者が手を伸ばせるボーイズレーサーの代名詞でした。

    開発途中で「令和版ブルドッグ」と呼ばれるようになったことで、デザインにも変化が生まれました。製作途中から非対称グリルや、インテリアに青い挿し色を入れるなど、オリジナルのブルドッグをオマージュした要素が組み込まれていったのです。

    つまりSuper-ONEは、最初からブルドッグの後継を狙ったわけではなく、作っているうちに自然とそこへ収束していった。これは系譜として、なかなか面白い成り立ちです。

    軽の枠を壊す、という設計判断

    https://kuruma-dna.com/de5

    Super-ONEのベースは、軽自動車EVのN-ONE e:です。ただし、ここからの変更は多岐にわたります。まず、トレッドをフロントで50mm拡幅し、全幅を100mm広げています。これによって軽自動車規格を超え、普通車登録になります。

    「軽のままでいいじゃないか」という声は当然あったでしょう。でも、軽規格には全幅1,480mm以下という制約があります。この制約を外すことで、185/55R15サイズのヨコハマ ADVAN FLEVAタイヤを履けるようになり、接地面積が大幅に増えました。接地点横剛性はN-ONE RS比でフロント約37%、リア約57%も向上しています。

    車両重量は1,090kgで、国内乗用EVクラスでは最軽量レベル。薄型バッテリーを床下中央に配置したことで、重心高はN-ONE RSの約590mmから約520mmへと大幅に下がりました。この70mmの差は、走りの世界では相当な意味を持ちます。

    要するにSuper-ONEは、軽自動車の「小さくて軽い」という美点を活かしつつ、規格の枠だけを外すことで走行性能を一気に引き上げた、というわけです。足し算ではなく、制約を引き算した設計。このアプローチは、なかなか巧みです。

    BOOSTモードという「発明」

    https://kuruma-dna.com/fl5

    Super-ONEの最大の目玉は、専用開発されたBOOSTモードです。通常モードでの最高出力は47kW(約64馬力)。これはN-ONE e:と同じで、軽自動車の自主規制枠です。ところがBOOSTモードに切り替えると、出力が70kW(約95馬力)まで一気に引き上げられます。出力1.5倍。この「解放感」こそが、軽規格を超えた普通車であることの最大の意味です。

    ただ、パワーアップだけなら他のEVでもやっています。Super-ONEが異質なのは、そこに仮想有段シフト制御とアクティブサウンドコントロールを組み合わせたことです。BOOSTモードに入ると、7速DCTのようなシフトチェンジの感覚が再現され、4気筒エンジンのようなサウンドが車内に響きます。

    EVの無音・無段変速という特性を、あえて「有段・有音」に変換する。これは一見すると退行のように見えるかもしれません。でも、開発者の意図は明快です。アクセルを踏んだときの高揚感、シフトアップの「抜け」の気持ちよさ、回転が上がっていく昂り。そういった運転の快楽を、EVでも再現したかったのです。

    仮想エンジンサウンドの開発では、音に含ませる「雑味の塩梅」がポイントだったそうです。きれいすぎる音では高揚感につながらない。このあたりの感覚的なチューニングは、ホンダのエンジン屋としてのDNAが生きている部分でしょう。

    さらに、ワインディング脱出時に最適なギアを選ぶ「アーリーDOWN制御」や、旋回中にギアを保持する「コーナリングホールド制御」といったスポーツアダプティブ制御も搭載されています。仮想のシフトなのに、制御はかなり本気です。

    BOSEと低重心が支える「体験の質」

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    仮想サウンドを「本物」に聴かせるために、Super-ONEはBOSEと共同開発した8スピーカーのプレミアムサウンドシステムを標準装備しています。ホンダの小型モデルにBOSEを搭載するのはこれが初めてです。荷室には13.1Lの大容量サブウーファーが収まっており、低音域の迫力も確保されています。

    音響にここまでコストをかけた理由は、単に音楽を良い音で聴くためだけではありません。仮想エンジンサウンドの説得力を担保するためです。スピーカーの配置も緻密で、低回転域の低周波はドアスピーカーが、高回転域の高周波はダッシュボード中央のセンタースピーカーが受け持つことで、リアルな音場を再現しています。

    走りの面では、前述の低重心設計が効いています。試乗したジャーナリストの多くが「レーシングカートに似ている」と評しており、コンパクトなボディが手の内に収まる感覚が際立っているようです。ハンドリングは、キビキビ系というよりも、幅広い速度域で特性変化が少ない安定志向。神経質さがなく、誰でも楽しめるバランスに仕上がっているとの評価が多いのが印象的です。

    ターゲットは「50代と20代」

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    Super-ONEのメインターゲットは、かつてホンダのスポーツハッチに親しんだ50代と、1980〜90年代のモノに「エモさ」を感じる20代前半の若者だとされています。その両世代のコミュニケーションのきっかけになるという狙いがあるそうです。

    これは面白い設定です。50代にとっては、ブルドッグやCR-Xで青春を過ごした記憶の延長線上にある一台。20代にとっては、レトロフューチャーな佇まいがむしろ新鮮に映る一台。同じクルマなのに、世代によって見え方が違う。そういう多層的な魅力を狙っているわけです。

    航続距離はWLTCモードで274km。ベースのN-ONE e:の295kmからはわずかに減少していますが、片道20kmの通勤なら充電は週1回で足りる計算です。日常の足としての実用性は十分に確保されています。

    2025年10月のジャパンモビリティショー2025でプロトタイプが世界初公開され、2025年7月にはコンセプトモデル「スーパーEVコンセプト」として英国グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードのヒルクライムも走破。2026年4月10日に先行予約が開始され、5月下旬の発売が発表されました。日本を皮切りに、英国では「Super-N」の名で、アジア各国でも順次展開される予定です。

    「おもしろいクルマ」がEV時代にも存在できるか

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    Super-ONEの車名には、「これまでのEVの常識や軽自動車規格の枠を超越する存在(Super)」として、「ホンダならではの唯一無二(One and Only)の価値を届けたい」という想いが込められています。グランドコンセプトは「e: Dash BOOSTER」。日常の移動を、刺激的で気持ちの高ぶる体験へと進化させるという宣言です。

    正直に言えば、課題もあります。EVに仮想エンジン音を載せることへの賛否は分かれるでしょうし、軽自動車ベースの普通車という立ち位置は価格面でのハードルを生みます。300万円台と予想される価格帯は、同じ金額で買えるガソリンスポーツと比較されることになります。

    それでも、このクルマが持つ意味は大きいと思います。ホンダはかつて、シティターボIIで「小さくて安くて速くて楽しい」というボーイズレーサーの理想を体現しました。あれから約40年。パワートレインはエンジンからモーターに変わり、ブーストの手段はターボからソフトウェアに変わりました。でも、「小さなクルマで笑顔になれる」という本質は、驚くほど変わっていません。

    Super-ONEは、EVの時代にも「おもしろいクルマ」が成立することを証明しようとする、ホンダなりの回答です。それが市場に受け入れられるかどうかは、まだわかりません。

    ただ、マーケティングではなく「作りたい」から始まったクルマが、令和の時代にもちゃんと世に出てくること自体が、クルマ好きにとっては希望だと思うのです。

  • シティターボII ブルドッグ – AA【過剰こそが正義だった時代の突然変異】

    シティターボII ブルドッグ – AA【過剰こそが正義だった時代の突然変異】

    ブルドッグ、という愛称がすべてを物語っています。

    小さな体に不釣り合いなほどの力を詰め込み、ずんぐりしたボディで路面に噛みつくように走る。

    1983年に登場したホンダ・シティターボII(AA型)は、コンパクトカーの枠を完全に踏み越えた一台でした。

    ただの過激グレードではなく、当時のホンダが持っていた「やりすぎる体質」が最も鮮やかに表れたクルマです。

    ターボ戦争のど真ん中で

    ホンダ・シティターボII
    画像:Rikita/CC BY 4.0(Wikimedia Commons)

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    1980年代前半の日本車マーケットは、ターボチャージャーに取り憑かれていました。

    日産マーチターボ、スズキ・アルトワークス(少し後ですが)、そしてダイハツ・シャレードのディーゼルターボまで。

    排気量の大小を問わず「ターボを載せれば正義」という空気が、業界全体を覆っていた時代です。

    ホンダはもともとターボに対して慎重なメーカーでした。NAの高回転で馬力を稼ぐのがホンダの流儀であり、過給に頼ることへの抵抗感は社内に確実にあったはずです。しかし1982年、初代シティ(AA型)にターボモデルを追加したあたりから風向きが変わります。

    初代シティターボは100psを発揮し、車重約770kgの軽い車体と組み合わさることで十分以上に速いクルマでした。ところが、マーケットはすぐに「もっと」を求めます。ライバルたちが次々とパワーを上乗せしてくる中、ホンダが出した回答がシティターボIIでした。

    インタークーラーという飛び道具

    https://kuruma-dna.com/ab

    シティターボIIの最大のトピックは、インタークーラー付きターボの採用です。排気量わずか1,231ccのER型エンジンに、空冷インタークーラーを組み合わせて110psを絞り出しました。リッターあたり約89ps。1983年の量産コンパクトカーとしては、かなり攻めた数字です。

    インタークーラーとは、ターボで圧縮されて高温になった吸気を冷やす装置です。空気の温度を下げれば密度が上がり、より多くの酸素をエンジンに送り込める。つまり同じ過給圧でもパワーが上乗せできるわけです。当時はまだインタークーラーターボが珍しく、これを小さなシティに載せたこと自体がニュースでした。

    トルクも15.0kgf·mに達しており、数字だけ見れば当時の1.6Lクラスに匹敵します。車重は約810kgですから、パワーウェイトレシオは約7.4kg/ps。現代の感覚でも十分に「速い部類」に入る水準です。

    あの異形のスタイリングの理由

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    ブルドッグの名を決定づけたのは、あの独特の外観です。ボンネット上の大きなパワーバルジ、前後に追加されたオーバーフェンダー、そしてルーフ後端のスポイラー。ノーマルのシティが持っていた「トールボーイ」の愛嬌あるプロポーションは、完全に別の生き物に変貌しています。

    ただ、これは見た目のハッタリだけではありません。パワーバルジはインタークーラーの搭載スペースを確保するために必要でした。オーバーフェンダーも、ワイド化されたトレッドとタイヤを収めるための機能的な処理です。

    つまり「速くするために必要な変更をすべてやったら、こうなった」というのが正確な表現でしょう。機能がデザインを規定した結果、あのブルドッグ顔が生まれた。意図せず生まれた迫力というのは、狙って作ったアグレッシブさよりも説得力があるものです。

    足まわりも当然強化されています。スプリングレート、ダンパー減衰力ともに引き上げられ、フロントにはベンチレーテッドディスクブレーキを装備。小さなボディに大きなパワーを受け止めるための備えが、一通り施されていました。

    「マンマキシマム・メカミニマム」の極北

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    ホンダにはかつて本田宗一郎が掲げた「マンマキシマム・メカミニマム」という思想があります。メカニズムの占有スペースを最小にし、人間のための空間を最大にする、という考え方です。初代シティのトールボーイデザインは、まさにその思想の申し子でした。

    シティターボIIは、その思想を守りながら性能を極端に引き上げたクルマです。全長3,380mm、ホイールベース2,220mmという極めてコンパクトなパッケージは変えない。室内空間もほぼそのまま。でもパワーは110ps。この「小さいまま速くする」という方針が、ブルドッグの本質です。

    当時のホンダは、F1参戦を控えてエンジン技術に対する自信と野心が膨らんでいた時期でもあります。1983年はホンダが第2期F1に復帰した年。ターボエンジンの技術を市販車にフィードバックする──という物語は、多少マーケティング的な脚色を含むとしても、社内の空気としてはリアルだったはずです。

    速さの代償と、時代の限界

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    もちろん、ブルドッグには弱点もありました。ターボラグは当時の技術では避けられず、低回転域のトルクの谷は明確に存在していました。ブースト圧が立ち上がった瞬間に一気にパワーが押し寄せる、いわゆる「ドッカンターボ」の特性です。

    ショートホイールベースに110psという組み合わせは、腕のあるドライバーには楽しくても、一般ユーザーにとっては少々扱いにくいものでした。特にウェット路面でのトラクション不足は、当時のオーナーたちが口を揃えて指摘するポイントです。

    また、トールボーイゆえの高い重心は、ハードコーナリング時に不利に働きます。ワイドトレッド化やサスペンション強化である程度カバーしてはいるものの、物理的な制約は消しきれません。「速いけど、ちょっと怖い」──それがブルドッグの正直な乗り味だったと言えるでしょう。

    系譜の中での意味

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    シティターボIIは、後継車に直接つながるモデルではありません。

    2代目シティ(GA型)はターボを廃止し、よりオーソドックスなコンパクトカーへと方向転換しました。ある意味、ブルドッグは初代シティという器の中でしか成立し得なかった、一代限りの突然変異です。

    20260410追記:まさか令和にSuper-ONEのようなクルマが出るとは…

    しかし、このクルマが残したものは小さくありません。「ホンダは小さいクルマでも本気で速くする」というブランドイメージは、後のシビックSiR、そしてタイプRシリーズへと確実に接続しています。コンパクトなボディに高出力エンジンを組み合わせるという発想の原型が、ここにあります。

    さらに言えば、ブルドッグは「モータースポーツとの接点を持つ市販車」としても重要です。ワンメイクレースが開催され、若いドライバーの登竜門としても機能しました。クルマ好きの裾野を広げるという意味で、このクルマが果たした役割は過小評価されるべきではありません。

    シティターボII ブルドッグは、パワーウォーズという時代の熱狂と、ホンダという企業の体質が掛け合わさって生まれた、極めて時代的な一台です。

    冷静に見れば過剰で、合理的に考えれば無茶で、でもだからこそ面白い。「小さいクルマは退屈」という常識を、力ずくで壊した。

    それがブルドッグの存在意義です。

  • NSX – NC1【スーパーカーの正解を、ホンダなりに再定義した一台】

    NSX – NC1【スーパーカーの正解を、ホンダなりに再定義した一台】

    NSXが帰ってきた、と言われたとき、多くの人が期待したのは「あの頃のNSX」の再来だったかもしれません。軽くて、自然吸気で、人間の手に馴染むスーパーカー。

    でもホンダが実際に出してきたのは、ツインターボとモーター3基を積んだ四輪駆動のハイブリッドマシンでした。裏切りだと感じた人もいたでしょう。

    ただ、この選択にはホンダなりの筋が通っています。

    復活までに何が起きていたのか

    https://kuruma-dna.com/na1

    初代NSX(NA1/NA2)が生産を終えたのは2005年。そこから2代目NC1の発売まで、実に約10年の空白がありました。この間、ホンダの内部では何度もNSX復活の企画が浮かんでは消えています。

    2008年のリーマン・ショックは大きな転換点でした。当時すでに開発が進んでいたV10自然吸気のFRスーパーカー構想は、この経済危機を受けて白紙撤回されています。ホンダの経営判断として、大排気量NAのスーパーカーをこの時代に出すことは現実的でないと判断されたわけです。

    その後、2012年のデトロイトモーターショーで「NSXコンセプト」が発表されます。ここで示されたのが、ミッドシップV6ツインターボにハイブリッドシステムを組み合わせるという方向性でした。つまり、NC1の基本構想は「V10 NAの夢を捨てた後」に再構築されたものです。

    3モーターという異端の構成

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    NC1の最大の特徴は、Sport Hybrid SH-AWDと呼ばれるパワートレインです。3.5L V6ツインターボエンジンに加え、エンジン直結の駆動用モーター1基、そして前輪左右にそれぞれ独立したモーターを1基ずつ配置しています。合計3モーター。システム総出力は581PS。

    この構成がなぜ選ばれたのか。単にパワーを稼ぐためではありません。前輪の左右モーターを独立制御することで、コーナリング中に内輪と外輪のトルクを個別に配分できます。つまり、デフの代わりにモーターで曲がる力を作り出しているわけです。

    ホンダはこれを「新しい操る喜び」と表現しました。初代NSXが人間の感覚に忠実なアナログの操縦性を追求したのに対し、NC1は電子制御で操縦性そのものを再設計するというアプローチです。方向性はまるで違いますが、「ドライバーが意のままに操れること」というゴール自体は共通しています。

    開発拠点と生産体制が語ること

    https://kuruma-dna.com/fk8

    NC1の開発と生産は、アメリカ・オハイオ州のパフォーマンス・マニュファクチュアリング・センター(PMC)で行われました。これは日本のファンにとって少し複雑な話かもしれません。「ホンダのフラッグシップなのに日本製じゃないのか」と。

    ただ、この判断にも理由があります。NC1の最大市場は北米であり、開発主導もホンダR&Dアメリカズが担いました。栃木研究所も関わっていますが、プロジェクトの軸足はアメリカ側にあったのです。グローバルなスーパーカー市場で戦うなら、その市場に近い場所で開発・生産するという合理的な判断でした。

    PMCでは1日あたりの生産台数がごく少数に限られ、多くの工程が手作業で行われています。量産車の工場とはまったく異なる体制で、ここにはホンダなりの「スーパーカーの作り方」に対する意地が見えます。

    初代NSXの影と、NC1が背負ったもの

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    NC1を語るうえで避けて通れないのが、初代NSXとの比較です。初代は「日常的に使えるスーパーカー」という概念を発明した車でした。オールアルミボディ、自然吸気VTEC、人間中心の設計思想。アイルトン・セナがテストドライバーを務めたという逸話も含めて、初代は伝説になっています。

    NC1はその伝説を背負いながら、まったく違う時代に生まれました。2016年の発売時点で、スーパーカーの世界はすでにハイブリッド化が始まっていました。フェラーリ・ラフェラーリ、マクラーレン・P1、ポルシェ918スパイダー。いわゆる「ハイパーカー御三家」がモーターアシストの有効性を証明した直後です。

    NC1の価格帯は約2,370万円からで、これらハイパーカーとは直接競合しません。むしろアウディR8やマクラーレン570Sあたりが実質的なライバルでした。ただ、ハイブリッドスーパーカーという構成自体が「次の時代のスポーツカーとは何か」という問いへのホンダなりの回答だったことは間違いありません。

    評価が割れた理由

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    NC1に対する評価は、正直なところ割れました。走行性能に関しては高い評価を受けています。とくにSH-AWDによるコーナリングの自在さ、ブレーキング時の安定感、そしてモーターによる瞬発的なトルクの立ち上がりは、多くのジャーナリストが驚きをもって伝えています。

    一方で、「エモーショナルさが足りない」という声も少なくありませんでした。V6ツインターボのサウンドはV8やV10の咆哮とは異質で、ハイブリッドシステムの介入が運転の「生っぽさ」を薄めているという指摘です。初代NSXが持っていた、機械と人間が直に対話しているような感覚とは確かに違います。

    ただ、これは設計思想の違いであって、欠陥ではありません。NC1は「人間が直接触れる」のではなく、「電子制御を通じて人間の意図を増幅する」という方向に踏み出した車です。その是非は好みの問題であり、技術的な挑戦としては極めて真摯なものでした。

    販売面では苦戦しました。年間数百台規模の生産で、スーパーカーとしては珍しくないペースではあるものの、ホンダのブランド力でこの価格帯を支え続けることの難しさは否めません。2022年に最終モデル「Type S」が発表され、NC1は生産を終了しています。

    NC1が系譜に残したもの

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    NC1の生産期間は約6年。初代の15年に比べると短命でした。しかし、この車がホンダの技術史に刻んだ意味は小さくありません。

    SH-AWDの制御技術、とくに左右独立モーターによるトルクベクタリングは、今後のホンダのEVスポーツカーにとって重要な基盤技術になり得ます。実際、ホンダが将来の電動スポーツモデルを開発する際、NC1で蓄積した知見は確実に活きるはずです。

    初代NSXは「スーパーカーは日常でも使える」という常識を作りました。NC1は「スーパーカーは電動化しても面白くできる」という命題に、量産車として最初期に答えを出した一台です。その答えが万人に受け入れられたかどうかは別として、問いを立てたこと自体に価値があります。

    NSXという名前が三度目の復活を遂げるかどうかは、まだ誰にもわかりません。ただ、もしその日が来たとき、NC1が切り拓いた「電動で走りを作る」という思想は、確実にその土台の一部になっているはずです。

    ホンダがスーパーカーを作る理由は、いつの時代も「技術で常識を書き換えること」にあります。

    NC1は、その役割をきちんと果たした車でした。