カテゴリー: Honda

  • S2000とは

    S2000は、ホンダ創立50周年という理由がなければ成立しなかったクルマです。

    1999年に登場したAP1は、当時の量産エンジンとして異常な仕立てでした。2.0LのF20C型は自然吸気で250PS、許容回転数は9000rpm。1リッターあたり125PSという値は、レース用ではない市販車として突出しています。骨格にはX-BONEフレームと呼ばれる高剛性の構造を与え、開いた屋根でも歪まないようにしました。

    エンジンを前車軸より後ろに置くフロントミッドシップ配置で、前後重量配分はほぼ50対50。変速機は6速MTのみです。オープンカーでありながら、優雅に流すための道具ではありませんでした。

    2005年からのAP2では、排気量が2.2LのF22C型へ拡大されます。最高回転数は8200rpmへ下がり、代わりに中回転域のトルクが増えました。速さの絶対値ではなく、扱いやすさに寄せた変更です。初期型で指摘されていた限界域の唐突さも、足まわりの見直しで穏やかになりました。

    そして2009年、後継を出さないまま生産を終えます。この構成のクルマを新しく企画するのが難しくなった、という以上の説明は必要ないでしょう。

    AP1からAP2まで。S2000は、記念という名目がなければ通らない企画が、実際に通ってしまった記録です。

  • シティターボとは

    シティターボは、実用車に過剰なものを積むというホンダの悪癖が、最もよく出たクルマです。

    1983年のAA、シティターボIIは通称ブルドッグと呼ばれました。もとは背の高い実用的な小型車です。そこへターボと空冷式インタークーラーを与え、フェンダーを膨らませ、足まわりを固める。実用性のために作られた寸法を、走るためだけに作り替えてしまったわけです。

    いま見ると異様なのは、この改造がメーカー自身の手で、正規の商品として行われたことです。バブル前夜の日本には、こういう振り切り方を許す空気がありました。

    その系譜が現代に戻ってきたのが、2026年のSuper-ONEです。軽自動車規格の電気自動車をベースにしながら、ホットハッチとして仕立てる。動力の作り方はまったく違っても、「実用の枠に収まる寸法で、過剰なものを積む」という発想は同じです。

    AAからSuper-ONEまで。この系譜は、ホンダという会社の悪ふざけが本気になる瞬間の記録です。

  • N-ONEとは

    N-ONEは、売れる軽自動車の作り方から一歩外れたホンダの答えです。

    いまの軽自動車で数が出るのは、背の高いスライドドアの車です。ホンダもN-BOXでその答えを出し、圧倒的な販売台数を得ました。にもかかわらず2012年、JG1/JG2として登場したN-ONEは、背の低い丸目のハッチバックでした。参照したのは1967年のN360です。

    売れ筋から外れた形を選んだのは、Nシリーズを台数だけのブランドにしないためでしょう。実際、走りの素性はよく、ターボ車には手応えのある性格が与えられています。

    2020年のJG3/JG4では、外観がほとんど変わりませんでした。ヘッドライトの形も基本のシルエットも、意図して引き継いでいます。中身は骨格も足まわりも刷新されているにもかかわらず、です。ロングライフデザインを掲げ、見た目を変えないことを価値にした判断でした。

    そしてRSには、軽自動車として希少になった6速MTが残されています。数が出る仕様ではありません。それでも用意するところに、この車の立ち位置がよく出ています。

    JG1からJG3まで、2世代。N-ONEの歴史は、いちばん売れる形が正解とは限らないという主張の記録です。

  • アコード ユーロRとは

    アコード ユーロRは、実用セダンにタイプRの中身を移植した異端児です。

    2000年のCL1は、家族向けの4ドアセダンに、2.2LのH22A型を220PSまで高めて積み込みました。ヘリカルLSD、専用の足まわり、レカロシート、そして5速MTのみという構成。後席もトランクもあるのに、中身は完全にスポーツモデルです。

    なぜこんな車が成立したのかと言えば、当時のホンダに「セダンでも走りで選ばれるはずだ」という信念があったからでしょう。実際、この種のクルマを求める層は確実に存在しました。

    2002年のCL7では、エンジンがK20A型へ替わります。出力は同じく220PS、6速MTを組み合わせ、車体の剛性と快適性も上がりました。結果として、これが日本市場における最後の自然吸気VTECセダンの一つになります。

    以後、この価格帯のセダンは走りではなく快適性と燃費で語られるようになりました。市場が変わったのであって、車が悪かったわけではありません。

    CL1からCL7まで、2世代。アコード ユーロRの歴史は、実用車に本気の走りを入れるという商売が成立した、最後の時期の記録です。

  • インテグラタイプRとは

    インテグラタイプRは、FFスポーツの頂点を定義したクルマです。

    1995年のDC2は、いま振り返っても異常な仕立てでした。1.8LのB18C型は、吸排気ポートを手作業で磨き上げ、8000rpmを超えて回る。車体側では鋼板の追加による補強、遮音材の削減、専用のヘリカルLSD。量産車の枠内で、これだけの手数を掛けた例はそう多くありません。

    その結果として得られたのは、絶対的な速さというより、前輪駆動でどこまで気持ちよく曲がれるかという到達点でした。以後、FFスポーツはこの車を基準に語られるようになります。

    2001年のDC5は、その続編として難しい立場に置かれました。K20A型は220PSに達し、車体も大きく、装備も現代的になっています。数値だけなら明らかに進歩しているのに、DC2の粗削りな手応えを求める人からは物足りないと言われました。洗練は、この種のクルマでは必ずしも褒め言葉になりません。

    DC2からDC5まで、2世代。インテグラタイプRの歴史は、「速さ」と「気持ちよさ」が同じものではないと教えてくれる記録です。

  • NSXとは

    NSXは、スーパーカーに「毎日乗れること」を持ち込んだクルマです。

    1990年のNA1が登場するまで、この価格帯のミッドシップは、視界が悪く、暑く、壊れやすいのが当たり前でした。ホンダはそこへ、量産車として初めてのオールアルミモノコックと、戦闘機の風防を参考にした前方視界、そしてVTECを備えるC30A型V6を持ち込みます。速さの数字だけならもっと速い車はありました。それでも評価されたのは、性能と実用性を同時に成立させたからです。

    この一台がフェラーリの作り方まで変えたと言われるのは、誇張ではありません。壊れずに毎日乗れるという条件が、スーパーカーの評価軸に加わったのはこの世代からです。

    2016年のNC1は、その思想を現代の技術で組み直しました。V6ツインターボに3基のモーターを組み合わせ、前輪を左右独立したモーターで駆動する。曲がるための駆動力配分を電気で作るという答えは、初代とは正反対の手法でありながら、目的は同じです。誰が乗っても速く、そして扱える。

    NA1からNC1まで、2世代。NSXの歴史は、ホンダが「スーパーカーとはこうあるべきだ」と二度提案した記録です。

  • インテグラとは

    インテグラは、ホンダが「スポーティであること」を量産の土俵に載せるために作ったシリーズです。

    1985年のDA1/DA2が出発点でした。クイントインテグラとして登場したこの世代は、DOHCエンジンとリトラクタブルヘッドライトを備え、実用車の価格帯で走りの体裁を整えています。特別なスポーツカーではなく、普通に買えるスポーティカー。ホンダが得意とする領域が、ここで形になりました。

    1989年のDA5〜DA9で、その完成度が一段上がります。ダブルウィッシュボーンの足まわり、高回転まで気持ちよく回るエンジン、そして4ドアと3ドアを揃えた実用性。のちにタイプRという頂点が成立するのは、この世代で土台が固まっていたからです。

    その後インテグラの名前は一度日本市場から消え、長い空白が続きます。

    復活したのは2024年のDE5、インテグラ タイプSでした。北米ホンダの車種として企画され、中身はシビック タイプRと多くを共有しています。名前が戻ってきた一方で、かつてのインテグラらしさをどこに見るかは議論の分かれるところでしょう。

    DA1からDE5まで。インテグラの歴史は、「速いホンダ」を特別扱いせずに売り続けようとした試みの記録です。

  • ホンダの小さなスポーツとは

    ホンダの四輪の原点は、実用車ではなく小さな2人乗りオープンでした。

    1962年のSPORTS 360は、鈴鹿で発表されながら市販されずに終わります。それでもこの車の存在は重要です。二輪メーカーだったホンダが四輪へ出ていくとき、最初に見せたのがトラックでもセダンでもなく、軽自動車枠のスポーツカーだったからです。

    実際に売られたのは1963年のS500でした。531ccの直列4気筒DOHCで44PS、8000rpmまで回るエンジンを、後輪へチェーンで伝える。二輪で培った高回転技術を、そのまま四輪に持ち込んだ構成です。排気量あたりの出力は当時の常識を大きく超えていました。

    続くS600、そしてS800で排気量を広げ、輸出にも本格的に乗り出します。小さくて速い、そして精密に回る。この時期に作られたホンダらしさの定義は、その後も何度も参照されることになります。

    その血が軽自動車の枠へ戻ってきたのが1991年のPP1、ビートでした。エンジンを運転席の後ろへ置くミッドシップで、自然吸気の660ccを8100rpmまで回す。バブル期のホンダだからできた、採算度外視の遊びです。

    そして2015年のJW5、S660。同じくミッドシップの軽オープンで、こちらはターボと6速MTを組み合わせています。速さの絶対値は限られていても、車体が小さいぶん、扱いきれる楽しさは濃い。2022年の生産終了時には、大量の受注が短時間で埋まりました。

    SPORTS 360からS660まで。この系譜は、ホンダという会社がいちばん機嫌のいいときに何を作るのかを示す記録です。

  • プレリュードとは

    プレリュードは、ホンダが新しい技術を試すのに「色気」という名目を使ったクルマです。

    1978年のSNは、ホンダが初めて「格好で選ばれるクルマ」を狙った一台でした。実用性ではシビックに勝てません。それでも2ドアクーペを出したのは、自社の商品が全部合理性で説明できてしまうことへの危機感だったのでしょう。

    その狙いが完全に当たったのが1982年のAB/BA1です。ボンネットを極端に低く抑えるためにリトラクタブルヘッドライトを採用し、四輪独立懸架と四輪ディスクブレーキを与える。日本で「デートカー」と呼ばれる商品類型は、事実上この世代が作りました。売れた理由は雰囲気ですが、中身は当時のホンダの技術の見本市です。

    1987年のBA4/BA5/BA7では、その性格が露骨になります。世界初の機械式四輪操舵、つまり4WSを市販車に載せたのです。後輪も曲がるという機構を、スポーツカーではなくデートカーで実用化した。ホンダらしい順番の狂い方でした。

    1991年のBA8/BA9はバブル期の全部入りで、H22A型の200PSと大型化した車体を持ちます。ただし時代は変わりつつありました。1996年のBB5/BB6ではATTSという左右輪のトルク配分機構まで用意しますが、クーペ市場そのものが縮み、2001年に生産を終えます。

    そして2025年のBF1。24年ぶりに復活したプレリュードは、e:HEVのハイブリッドを積むクーペです。速さの数字ではなく、走らせたときの気持ちよさをどう作るかという問いに、電動化の側から答えようとしています。名目が「色気」であることは、初代から変わっていません。

    SNからBF1まで。プレリュードの歴史は、ホンダが実験したい技術に、いつも一番おしゃれな服を着せてきた記録です。

  • シビック Type Rとは

    シビックにType Rが与えられたのは、実はType Rの中でいちばん最後です。

    NSX、インテグラと続いた赤バッジがシビックへ降りてきたのは1997年、EK9から。それ以前のEF9EG6はまだ「SiR」を名乗っていました。ただ、B16Aで生まれた「回してパワーを取る」という思想はこの2台で完成していて、歴代Type Rの原型は事実上ここにあります。

    面白いのは、この系譜が一度日本を出ていることです。2001年のEP3は英国生産の3ドア。2007年には日本向けの4ドアFD2と、欧州向けの3ドアFN2が並走しました。同じ名前で中身の違うType Rが、同時に2台あったわけです。FD2はK20Aの自然吸気で8,400rpmまで回り、FN2は欧州の道と法規に合わせて別の答えを出していました。

    そして2015年のFK2で、Type Rはターボになります。

    自然吸気の高回転こそType Rだと信じてきた層には、これは裏切りに見えました。ホンダの回答は数字でした。K20C1型2.0L VTECターボで310PS。ニュルブルクリンク北コースで7分50秒63を記録し、FF量産車最速の座を獲得します。日本仕様が750台限定だったのは、このタイムの「750」から取られたものです。記録そのものを商品名にしたわけです。

    その座は翌年フォルクスワーゲン・ゴルフGTIクラブスポーツSに明け渡しますが、2017年のFK8が7分43秒80で奪還。FL5へと続く現在の流れは、あのターボ化の決断の先にあります。

    型式ごとに、生まれた国も、エンジンの答えも、ドアの数さえ違う。それがこのシリーズの厄介で、面白いところです。