投稿者: hodzilla51

  • フェラーリV8ミッドシップとは

    フェラーリのV8ミッドシップは、「一番安いフェラーリ」が本流になっていく歴史です。

    1975年の308 GTBが出発点でした。12気筒が本流だった時代に、8気筒を運転席の後ろへ積んだ小型のベルリネッタ。作りはまだ荒く、扱いも神経を使いますが、そのぶん形は生々しい。ピニンファリーナが描いた曲面は、いまも歴代で最も美しいと言う人が多い一台です。

    1985年の328でその路線が落ち着きます。排気量を広げ、仕上げを整え、日常でも壊れにくくする。フェラーリが「普通に良いクルマ」を作れると示した最初の世代です。1989年の348は、その次に進むための痛みを引き受けました。車体構造を根本から作り直した過渡期のモデルで、当時の評価は厳しかったものの、後年の完成度はこの土台の上にあります。

    1994年のF355が、その果実でした。1気筒あたり5バルブの高回転型V8、洗練された空力、そして誰が乗っても速い操縦性。官能という言葉がこれほど似合う世代はありません。1999年のF131、360 Modenaではアルミの骨格に全面刷新し、フェラーリは近代的な工業製品としての作りを手に入れます。

    2004年のF430でE-Diffとマネッティーノが加わり、電子制御が「速さの質」を決める時代に入りました。そして2009年の458 Italia。自然吸気4.5LのV8を9000rpmまで回すこの世代は、多くの人にとって一つの完成形です。

    2015年の488 GTBでついにターボ化されます。規制への対応であると同時に、トルクの出方まで設計できるようになった転換点でした。2019年のF8 Tributoは、その系譜の締めくくりとして自然吸気時代からの積み重ねを回収しています。

    308からF8まで、9モデル。V8ミッドシップの歴史は、フェラーリが「入門モデル」を看板車種へ育て上げていく過程そのものです。

  • BMW M3とは

    M3は、レースの都合で生まれた特殊な一台が、会社の看板になっていく物語です。

    1986年のE30に、商品としての狙いはほとんどありませんでした。グループAのツーリングカーレースに出るには、決められた台数を市販しなければならない。だから作った。2.3Lの直列4気筒S14型、大きく張り出したフェンダー、専用の空力部品。すべてレースの規則から逆算された形です。結果としてこの車は、ツーリングカーレース史上で最も勝ったモデルの一つになりました。

    1992年のE36で性格が変わります。エンジンは直列6気筒になり、車格も快適性も上がりました。ホモロゲーションのための特殊な道具ではなく、速くて上質な日常のクーペ/セダンへ。熱心なファンからは物足りないと言われましたが、M3が商品として成立したのはこの世代からです。

    その両立に一度だけ極端な答えを出したのが、2003年のE46 CSLでした。カーボンのルーフ、薄いガラス、内装の削減。追加したのではなく、引き算だけで速さを作っています。いまもM3の最高到達点として語られるのは、この潔さゆえでしょう。

    2007年のE90/E92/E93は歴代で唯一のV8です。自然吸気4.0Lで8400rpmまで回るS65型は、規制が厳しくなる直前だからこそ許された贅沢でした。そして2014年のF80で直列6気筒ツインターボへ移行します。速さは明確に増し、同時に「Mらしい音と回り方」を巡る議論が始まりました。

    2020年のG80はその路線を突き詰めた世代です。出力を上げ、四輪駆動も選べるようにし、それでも後輪駆動と6速MTを残しました。2022年にはG81としてツーリング、つまりワゴンが初めて加わっています。実用性の側からMを求める人が、確かにいたということです。

    E30からG81まで。M3の歴史は、レースのための特例が、どうやって一つのブランドの中心になっていったかの記録です。

  • ランドクルーザーとは

    ランドクルーザーが70年以上守ってきたのは、「必ず帰ってこられること」の一点です。速さでも豪華さでもなく、行った先から生きて戻れること。この優先順位が、どの世代でも動きません。

    始まりは1951年のBJ/FJ20でした。警察予備隊向けの車両の選定に応えて作られた四駆で、当初はトヨタジープBJという名前です。「ジープ」を名乗れなくなったため、1954年にランドクルーザーへ改称されました。名前のほうが後から付いてきたクルマなのです。

    1955年のFJ25/BJ25では、軍用の匂いを残しながらも民間用途への歩み寄りが始まります。荷台や幌の仕様が整理され、働く車として売れる形になりました。

    世界に広めたのは1960年のFJ40です。頑丈な骨格と単純な機構、そして直せる構造。中東やアフリカ、南米で「壊れない日本車」という評価を作ったのは、この世代でした。信頼性が商品性能として通用することを、トヨタはここで学んでいます。

    1967年のFJ55は、初めて家族を乗せることを想定した4ドアワゴンでした。用途が仕事から生活へ広がり、1980年のBJ60では内装や快適装備が本格的に整えられます。働くクルマが、乗用車として売れるようになった転換点です。

    1989年のFJ80、そして1998年のFZJ100で、その方向は決定的になりました。サスペンションの近代化と大排気量エンジンによって、高速道路でも快適に走る高級SUVへ変わっていきます。2007年のURJ200は、その頂点でした。豪華さも重さも、歴代で最大級です。

    そして2021年のGRJ300。14年ぶりの全面刷新で選ばれたのは、V8をやめてV6ツインターボにし、車体を軽くするという方向でした。豪華さの上乗せをやめ、走破性能と信頼性へ戻す。原点に近い判断です。

    BJからJ300まで。ランドクルーザーの歴史は、「壊れない」という性能が商品としてどこまで通用するかを70年かけて証明し続けた記録です。

  • カローラの走り系とは

    カローラは世界一売れた大衆車ですが、その裏でトヨタは、この名前を使って何度も過激なクルマを出してきました

    最初の一台が1972年のTE27、レビン/トレノです。カローラのボディにDOHCの2T-G型を積み、オーバーフェンダーを付ける。大衆車の外皮を借りたスポーツモデルという商売が、ここで成立しました。1979年のTE71は、その系統の最後のFR直4となります。

    1983年のAE86は、いまさら説明の必要がないでしょう。4A-GEU型の高回転DOHCと軽い車体、そして後輪駆動。当時としては特別なクルマではなく、あくまで「安いスポーツグレード」だったことが、後に伝説になった理由でもあります。

    1984年のAE82、カローラFXでカローラは前輪駆動の走り系を試し、1987年のAE92でレビン/トレノ自体がFF化されました。ここで系譜は分岐します。1991年のAE101、1995年のAE111は技術的にはむしろ進化していましたが、AE86が背負ってしまった物語には勝てませんでした。

    面白いのは、その後もトヨタが諦めなかったことです。2001年のZZT231、ランクス/アレックスは2ZZ-GE型を積み、8500rpmまで回るエンジンをカローラの顔で売りました。2006年のE150、オーリスは名前ごと替えて欧州向けの走りを狙い、2007年のGRE156H、ブレイドマスターにいたってはCセグメントの車体に3.5LのV6を押し込んでいます。

    2018年のNRE210H、カローラスポーツで「普通のカローラ」の水準そのものを引き上げ、2022年のGZEA14H、GRカローラで再び本気の競技用ベース車が戻ってきました。300PSの3気筒ターボと四輪駆動。TE27がやったことを、50年後に同じ名前でやり直したわけです。

    カローラの走り系の歴史は、「いちばん普通のクルマ」だからこそ許された、トヨタの実験の記録です。

  • プリウスとは

    プリウスは、無謀と言われた技術を25年かけて当たり前にしたクルマです。

    1997年のNHW10は、はっきり言って早すぎました。エンジンとモーターを組み合わせて走る量産車など前例がなく、電池の寿命も、コストも、修理体制も、何ひとつ確立していません。それでもトヨタは「21世紀に間に合いました」という言葉とともに市場へ出します。採算は合っていなかったと言われますが、実際に売って走らせない限り、この技術は育たなかったはずです。

    2003年のNHW20で、プリウスは特別なクルマであることをやめます。5ドアハッチバックの実用的な形になり、動力性能も普通のセダンと遜色ない水準に到達しました。北米で受け入れられたのもこの世代からで、ハイブリッドは「変わり者の選択」ではなくなります。

    2009年のZVW30は、その延長で一気に普及しました。価格を抑えたグレードを用意し、燃費の数字が分かりやすく効いた結果、日本の販売台数で長く首位を占め続けます。街のどこを見てもプリウスがいる、という光景はこの世代が作りました。

    そこで新しい問題が生まれます。売れすぎたことで、プリウスは「燃費だけのクルマ」という記号になってしまったのです。2015年のZVW50が造形で強く自己主張したのは、その記号から抜け出そうとした結果でした。評価は割れましたが、意図ははっきりしています。

    2023年のMXWH60は、その課題に別の角度から答えました。空力を優先した低い姿勢と、明確に速くなった動力性能。燃費で選ばれるのではなく、格好とドライブフィールで選ばれるハイブリッドへ性格を移したわけです。

    NHW10からMXWH60まで、5世代。プリウスの歴史は、新しい技術が「特別なもの」から「当たり前」になり、その先で改めて魅力を問われるまでの全過程の記録です。

  • クラウンとは

    クラウンは、日本人にとっての「上がり」が何かを、時代ごとに定義し直してきたクルマです。

    1971年のS60/70系が、その転換点でした。それまで黒塗りの社用車だったクラウンに白いボディを与え、個人で買う高級車という市場を作りにいったのです。「白いクラウン」という呼び方が広まったこと自体が、この判断の成果でした。誰の車かではなく、誰が買うかで高級車を定義し直したわけです。

    1983年のS120系で、そのイメージが完成します。「いつかはクラウン」という一言が、日本人の出世観と車の階級をそのまま結びつけました。買えるようになったら買う。それが目標として機能する時代のクルマです。

    1991年のS140系はバブルの絶頂で企画された世代で、重厚さと装備の充実を極限まで押し進めます。そして、その方向の限界も同時に露呈しました。上質さを足していくやり方は、バブルが弾けた瞬間に説得力を失ったからです。

    だから2003年のS180系、ゼロクラウンは自己否定から始まりました。「ZERO CROWN。すべてを、変えた。」という宣言のとおり、骨格もエンジンも操縦性も刷新し、若い世代に売れる高級車へ組み替えます。それまで積み上げたものを捨てる判断ができたことが、クラウンという商品の強さでした。

    2012年のS210系は、ピンクのクラウンまで用意して話題を取りにいきます。ただ、この頃には高級セダンという形式自体が縮んでいました。「いつかはクラウン」という物語の到達点であると同時に、その物語が通じなくなった時期でもあります。

    2022年のS230系は、その状況に対する答えでした。セダンだけでなくクロスオーバー、スポーツ、エステートと複数の車型を同じ名前で展開する。クラウンは車種名ではなくブランドになったわけです。

    クラウンの型式の並びは、日本の「いい車」の定義が、どこで誰の手に移っていったかの記録そのものです。

  • インプレッサ WRXとは

    WRXは、ラリーで勝つために生まれ、ラリーをやめてからも走り続けたクルマです。

    1992年のGC8が始まりでした。レガシィで戦っていたスバルが、より短く軽い車体を求めて用意したのがインプレッサです。水平対向4気筒ターボのEJ20型と四輪駆動という構成はそのまま持ち込み、車体だけを小さくした。狙いは明確で、WRCで勝つことでした。

    結果はご存じのとおりです。1995年から3年連続でマニュファクチャラーズタイトルを獲り、青と金の塗り分けは日本車のラリー像そのものになりました。1998年には400台限定の22B STiという、ワイドボディの記念碑まで生まれています。

    2000年のGDBは、その戦績を引き継いだ世代でした。丸目、涙目、鷹目と、一代のうちに顔を三度変えた珍しいクルマでもあります。市販車としての完成度はGC8より明らかに上で、STiが手を入れたモデルは日本のスポーツセダンの基準になりました。

    2007年のGRBでハッチバックへ移行し、賛否が割れます。ラリーの現場でも、市販車の売り方でも、ここが転換点でした。そして2008年末、スバルはWRCからの撤退を発表します。勝つために作るという前提が、ここで消えました。

    2014年のVABでは、車名から「インプレッサ」が外れて独立します。EJ20型を積む最後の世代となり、2019年のファイナルエディションで、四半世紀続いたこのエンジンの歴史が終わりました。

    2021年のVBH、WRX S4はFA24型へ切り替わり、STIの名を持つモデルは用意されていません。ラリーという目的も、STIという記号も失ったうえで、それでも四駆ターボのセダンを出し続ける。いまのWRXが背負っているのは、そういう問いです。

    GC8からVBHまで、5世代。WRXの歴史は、モータースポーツで得た評判を、その舞台を降りたあとにどう使うかという課題の記録です。

  • RXシリーズとは

    ロータリーエンジンは、有利な点がほとんど無くなってからも作られ続けたエンジンです。RXシリーズの歴史は、そのまま「なぜマツダはやめなかったのか」の記録になります。

    1967年のL10A、コスモスポーツが出発点でした。世界初の量産ロータリー搭載車。三角形のローターが回るだけで動力を生む機構は、往復運動を回転に変える普通のエンジンと比べて部品が少なく、小さく、そして滑らかでした。当時のマツダにとっては、他社と同じ土俵で戦わないための切り札だったわけです。

    ところが1973年のオイルショックで、この切り札は弱点に変わります。燃費で不利という性格が、そのまま商品力の欠点になりました。

    それでもマツダは、1978年のSA22Cでロータリーをスポーツカーへ集約します。低くて軽いエンジンを前車軸より後ろへ積めるという、この機構だけが持つ利点に賭けたのです。1985年のFC3Sではターボと本格的な足まわりで走りを研ぎ澄まし、1991年のFD3Sでシーケンシャルツインターボと徹底した軽量化に到達しました。FD3Sの造形と重量配分は、いまも国産スポーツの一つの基準です。

    2003年のSE3P、RX-8は違う答えを出しました。ターボをやめて自然吸気とし、観音開きの後席ドアで4人乗りにする。ロータリーが小さいからこそ成立する車体構成を、走りではなく実用性の側から使ったわけです。

    そして2012年、RX-8の生産終了とともに、ロータリー搭載車はいったん市場から消えます。排出ガス規制と燃費規制の前に、この機構の不利は覆せませんでした。近年は発電機として復活していますが、それは別の話です。

    L10AからSE3Pまで、5世代。RXシリーズの歴史は、一つの機構に賭けた会社が、その不利を承知で45年間言い訳をしなかった記録です。

  • ロードスターとは

    ロードスターは、他社が全部やめた形式を、35年間ひとりで作り続けているクルマです。

    1989年のNA6Cが世に出た当時、小さくて軽い2人乗りオープンという商品はほぼ絶滅していました。イギリスのメーカーが作っていた市場は、安全基準と収益性の前に消えています。そこへマツダは、1.6Lのエンジンを前に置き、後輪を駆動し、幌を手で開ける、装備の乏しいクルマを持ち込みました。速さの数字では何一つ勝てません。それでも売れたのは、運転そのものが目的になる乗り物を、当時の誰も供給していなかったからです。

    1998年のNB6C/NB8Cは、その方向をそのまま磨いた世代でした。リトラクタブルヘッドライトは安全基準の関係でやめましたが、車重も大きさもほとんど変えていません。無邪気さを保ったまま、細部の完成度だけを上げています。

    2005年のNC1で、初めて路線が揺れます。衝突安全と快適性の要求に応えるため、車体は明確に大きく重くなりました。それでも電動格納式ハードトップを用意し、乗り味の素直さは残しています。大きくなったのは、この形式を絶やさないための代償でした。

    2015年のND5RCでは、その代償を返しにいきます。徹底した軽量化で初代に近い重量へ戻し、全長も短くしました。排気量はむしろ小さくなり、1.5Lが基本。数字を追わずに、運転する人が主役でいられる状態を作り直したわけです。

    NAからNDまで、4世代。累計生産台数は100万台を超え、2人乗り小型オープンとして世界で最も多く作られたクルマになりました。ロードスターの歴史は、「誰も作らなくなったもの」を作り続けると何が起きるかという、35年分の答えです。

  • スープラとは

    スープラは、セリカの派生として生まれ、名前を捨てて独立し、最後は自社だけでは作れなくなったクルマです。

    出発点は1978年のA40/A50、セリカXXでした。セリカのノーズを延ばし、直列6気筒を押し込む。北米で売られていた大排気量のスペシャルティカーに、日本のメーカーが正面から挑むための構成です。1981年のA60ではデザインも中身もセリカから距離を取り、GTカーとしての性格を強めました。

    名前が変わったのは1986年のA70からです。日本でも「スープラ」を名乗り、セリカとの関係を完全に切りました。3.0Lの7M-GTEU型ターボ、電子制御サスペンション、そして重量級のボディ。ポルシェ944やBMWと同じ土俵で戦うグランドツアラーを、トヨタは本気で作ろうとしていました。

    1993年のA80が、その到達点です。2JZ-GTE型の3.0L直6ツインターボは自主規制上限の280PSを掲げながら、素の設計に余裕がありすぎました。強度の高い鋳鉄ブロックのおかげで、後年の改造車が桁違いの出力に耐えてしまう。トヨタが意図したのはあくまで上質なGTでしたが、結果として世界で最も改造されたエンジンの一つになりました。

    そして2002年、日本での生産が終わります。排出ガス規制と、大型GTという商品自体の縮小が理由でした。

    17年後の2019年、A90として復活します。ただし骨格もエンジンもBMWとの共同開発で、直6のB58型はドイツ製です。自社だけでは、直6FRのスポーツカーを成立させられなかった。それでもトヨタは「直列6気筒・後輪駆動・2人乗り」という形式そのものを守ることを選びました。

    A40からA90まで、5世代。スープラの歴史は、直6FRという贅沢な形式が、どれだけ守りにくいものかを示し続けた記録です。