フィアット 124 スポーツスパイダー – AS【ピニンファリーナが描き、アバルトが鍛えた一台】

フィアットが作ったセダンに、ピニンファリーナがボディを架せ、アバルトがエンジンを磨いた。

こう書くと夢のようなコラボレーションですが、これは限定モデルでも記念車でもありません。

1966年から約20年にわたって量産された、れっきとしたカタログモデルの話です。

フィアット 124 スポーツスパイダー。型式で言えばAS型。イタリアの大衆車メーカーが、なぜこんな贅沢な座組でオープンスポーツを作り続けることができたのか。その背景には、1960年代のイタリア自動車産業が持っていた独特の構造がありました。

大衆セダンから始まった企画

話の出発点は、1966年に登場したフィアット 124です。これはヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した堅実なファミリーセダンで、後にソ連でライセンス生産されてラーダ(VAZ-2101)になったことでも知られています。つまり、根っこは完全に実用車です。

ただ、当時のフィアットには「ベースモデルからスポーツ派生を作る」という確立された手法がありました。124にも最初からクーペとスパイダーの派生が計画されていて、クーペはフィアット社内でデザインされた一方、スパイダーのボディデザインはピニンファリーナに委託されています。

ここがまず面白いところです。同じ124ベースなのに、クーペとスパイダーで設計の担い手が違う。しかもスパイダーの方は、デザインだけでなく生産自体もピニンファリーナのグルリアスコ工場で行われました。フィアットのバッジが付いていながら、実質的にはピニンファリーナが作ったクルマだったわけです。

アバルトの手が入ったDOHCエンジン

124スポーツスパイダーを語るうえで外せないのが、エンジンの出自です。ベースの124セダンに載っていたのはOHVの1.2リッター。実用車としては十分でも、スポーツカーに積むには物足りない。そこで白羽の矢が立ったのがアバルトでした。

アバルトは124セダン用のOHVエンジンをベースに、ツインカム(DOHC)ヘッドを新設計しています。排気量は1,438ccに拡大され、初期型で90馬力前後を発生しました。数字だけ見れば控えめに思えるかもしれませんが、重要なのはその回り方です。高回転まで気持ちよく伸びるDOHCの特性は、当時の同クラスのオープンカーとは明らかに一線を画していました。

このDOHCユニットはアバルトが開発を主導したもので、後に排気量を1.6リッター、1.8リッター、最終的には2.0リッターまで拡大されていきます。つまり124スポーツスパイダーのエンジンは、フィアット製というよりアバルト製と呼ぶ方が正確です。AS型の「A」がアバルトを指すとも言われるのは、こうした経緯があるからです。

ラリーでの実績が裏付けた実力

124スポーツスパイダーがただの洒落たオープンカーで終わらなかった理由のひとつが、モータースポーツでの活躍です。アバルトが手がけたラリー仕様の124は、1970年代前半のヨーロッパラリー選手権やWRC(世界ラリー選手権)で本格的に戦っています。

ラリー仕様は「アバルト 124 ラリー」として知られ、市販車とはかなり異なるチューニングが施されていました。ただ、ベースとなるシャシーやエンジンの基本設計が市販の124スポーツスパイダーと共有されていたことは重要です。量産オープンカーの骨格がラリーで通用したという事実が、このクルマの設計の筋の良さを物語っています。

1972年のヨーロッパラリー選手権ではマニュファクチャラーズタイトルを獲得。ランチア・ストラトスやフィアット131アバルトといった後継のラリーマシンに道を譲るまで、フィアット=アバルト陣営の主力として機能しました。

アメリカ市場が支えた長寿命

124スポーツスパイダーの生産期間は異例の長さです。1966年のデビューから、最終的には1985年まで生産が続きました。約20年。同時代のイタリア製スポーツカーとしては飛び抜けた長寿モデルです。

この長寿を支えたのは、間違いなくアメリカ市場でした。手頃な価格のイタリアンオープンスポーツとして北米で根強い人気があり、排ガス規制や安全基準の変更に対応しながら販売が継続されたのです。バンパーが大型化し、エンジンにインジェクションが導入され、見た目も中身も初期型とはかなり変わっていきましたが、基本骨格は最後まで124ベースのままでした。

末期にはフィアットのバッジが外れ、「ピニンファリーナ・スパイダー」や「ピニンファリーナ・アズーラ」という名前で販売されています。フィアットが自社ブランドでの販売をやめた後も、ピニンファリーナが自社名義で売り続けたという事実は、このクルマがいかにピニンファリーナにとっても重要な製品だったかを示しています。

三社の役割分担が生んだ特異な存在

改めて整理すると、124スポーツスパイダーの成り立ちはかなり特殊です。プラットフォームとセダンのエンジンブロックはフィアット。DOHCヘッドの設計とチューニングはアバルト。ボディデザインと生産はピニンファリーナ。三社がそれぞれの得意領域を持ち寄って一台のクルマを成立させていました。

これは当時のイタリア自動車産業の構造だからこそ可能だったやり方です。カロッツェリア(車体製造を請け負うデザインハウス)が独立した産業として存在し、チューナーであるアバルトもフィアットと密接な関係を保ちながら独自の技術力を持っていた。こうしたエコシステムがなければ、大衆車メーカーのフィアットがこれほど魅力的なスポーツカーを量産し続けることは難しかったでしょう。

系譜の中での意味

124スポーツスパイダーは、後継車という意味では直接的な後釜を持ちません。フィアットのオープンスポーツという系譜で見れば、その後バルケッタやフィアット版のマツダ ロードスター(現行の124スパイダー)に至りますが、いずれも124スポーツスパイダーの直系というよりは、精神的な後継と呼ぶべき存在です。

ただ、このクルマが残したものは大きい。アバルトが量産車のエンジンを本格的にスポーツチューンするという手法は、後の131アバルトやリトモ・アバルトにも引き継がれました。ピニンファリーナにとっても、フェラーリ以外で最も長く手がけた量産スポーツカーのひとつであり、同社の生産能力を支える重要な柱でした。

フィアット 124 スポーツスパイダーとは、イタリアの自動車産業が持っていた分業と協業の文化が、一台のクルマの中にそのまま結晶化した存在です。大衆車の骨格に、一流のデザインと一流のエンジニアリングを載せる。その仕組みが20年間も機能し続けたこと自体が、このクルマの最大の価値だったのかもしれません。

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