1989年という年は、日本の自動車史において異常な年です。
R32 GT-R、NA1 NSX、そしてこのZ32型フェアレディZ。国産スポーツカーがほぼ同時に、世界水準を本気で狙いにいった。
その中でもZ32は、Zという看板を背負いながら「もうGTカーの延長ではいられない」と宣言した、ある意味で最もドラスティックな転換を遂げたモデルでした。
先代Z31が抱えていた「重さ」
Z32を語るには、まず先代のZ31型が何だったかを押さえる必要があります。
Z31は1983年に登場し、V6ターボを搭載した快速GTとして一定の評価を得ました。
ただ、初代S30から続いてきた「ロングノーズ・ショートデッキ」のプロポーションをそのまま引きずっていたこともあり、車体は大きく、重く、スポーツカーとしてのキレには欠ける面がありました。
北米市場では「300ZX」として堅実に売れていたものの、ポルシェ944やシボレー・コルベットC4といった競合と比べると、走りの質で語られることは少なかった。
要するに「速いけど、スポーツカーとしてのブランド力が足りない」という課題を、日産は自覚していたわけです。
ゼロから描き直す、という決断
Z32の開発にあたって、日産は明確な方針を打ち出しました。
先代のプラットフォームを流用しない。これは当時としてはかなり大胆な判断です。通常、スポーツカーのフルモデルチェンジでも基本骨格は共有するのが常識でした。
しかしZ32では、ホイールベースもトレッドもサスペンション形式もすべて新設計としています。
開発を率いたのは、当時の第2商品企画室。「ポルシェ911に匹敵するスポーツカーを作る」という目標が掲げられたと伝えられています。バブル期の日産には、それを口にするだけの予算と、実現するだけの技術者がいました。
プロポーションも一新されました。歴代Zの象徴だったロングノーズを捨て、ワイド&ローのスタンスを優先した。全幅は1,790mmに達し、全高は1,245mmまで下げられています。数字だけ見ると地味に思えるかもしれませんが、1989年の国産車でこの数値は相当に攻めています。当時の日本の道路事情や駐車場規格を考えれば、「国内市場の都合に合わせない」という意志表示でもありました。
VG30DETTという心臓
Z32のパワートレインの中核は、VG30DETT。3.0リッターV6にツインターボを組み合わせた、当時の日産が持てる技術を注ぎ込んだユニットです。最高出力は280馬力。これは当時の運輸省による自主規制値の上限にぴったり張りついた数字で、R32 GT-Rと並んで「280馬力時代」の幕を開けたエンジンのひとつです。
ただし、Z32にはNA(自然吸気)モデルも用意されていました。こちらはVG30DE、同じ3.0リッターV6ながらターボなしで230馬力。このNAモデルの存在は意外と重要です。北米市場ではNAの方が販売の主力であり、ターボに頼らない素性のよさを示す役割を担っていました。
トランスミッションは5速MTと4速ATが用意されましたが、走りを語る文脈ではやはりMTが主役です。ツインターボ+MTの組み合わせは、当時の試乗記でも「踏んだ瞬間に景色が変わる」と表現されるほどの加速力を見せました。
足回りと車体設計の本気度
Z32の走りを語るうえで、エンジン以上に注目すべきはシャシーです。サスペンションは前後ともマルチリンク式を採用。これは当時のスポーツカーとしては先進的な選択で、日産がR32スカイラインの開発で培った技術が直接活かされています。
さらに上級グレードにはスーパーHICAS(4輪操舵)が装備されました。後輪がわずかに操舵されることで、高速域での安定性とコーナリングの回頭性を両立させる仕組みです。この技術自体は賛否が分かれるもので、「電子制御が介入しすぎる」という声もありました。ただ、当時の日産がスポーツカーの操縦性を電子制御で底上げしようとしていた姿勢は、後のスポーツカー開発に確実に影響を与えています。
ブレーキも本格的でした。フロントに対向4ポットキャリパーを奢り、リアにも対向2ポットを採用。この制動系の充実ぶりは、同時代の国産スポーツカーの中でもトップクラスです。「止まる」ことへの投資を惜しまなかった点に、開発陣の本気度が見えます。
評価されたこと、されなかったこと
Z32は北米市場で高い評価を受けました。米国の自動車メディア『Motor Trend』は1990年の「インポート・カー・オブ・ザ・イヤー」にZ32を選出しています。ポルシェやBMWと真正面から比較されて勝ったという事実は、日産にとって大きな勲章でした。
一方で、国内市場での評価はやや複雑です。車両重量は1,500kgを超え、ツインターボの2シーターでも約1,530kg。280馬力という数字は華やかですが、パワーウェイトレシオではR32 GT-Rに及ばず、軽量スポーツとしてのキレを求める層には「重い」と映りました。
価格も課題でした。ツインターボの2by2で約400万円台後半。バブル期とはいえ、国産スポーツカーとしてはかなり高価格帯に位置しており、R32 GT-Rやスープラ(A70後期〜A80)との競合の中で、Z32は「ラグジュアリー寄りのスポーツ」というポジションに落ち着いていった感があります。
もうひとつ、Z32の弱点として語られがちなのが整備性です。3.0リッターV6ツインターボをあのコンパクトなエンジンルームに押し込んだ結果、プラグ交換すら困難という状況が生まれました。これはオーナーの間では半ば伝説化しており、「Z32のプラグ交換はインテークマニホールドを外すところから始まる」という話は、冗談ではなく事実です。
長すぎた現役生活
Z32は1989年に登場し、2000年まで生産が続きました。11年間です。これは歴代Zの中でも最長であり、途中で何度かのマイナーチェンジを受けたものの、基本設計は最後まで1989年のままでした。
なぜこれほど長寿になったのか。理由は明快で、バブル崩壊後の日産に後継車を開発する体力がなかったからです。1990年代後半の日産は深刻な経営危機に陥っており、スポーツカーの新規開発どころではありませんでした。結果的にZ32は、日産が最も元気だった時代の遺産を、最も苦しい時代まで引きずり続けることになったわけです。
2000年に生産終了を迎えた後、フェアレディZの名前は一度途絶えます。復活するのは2002年のZ33型。カルロス・ゴーン体制下で「Zを復活させる」という経営判断がなされ、北米市場を強く意識した新型として蘇りました。Z33がZ32から何を引き継ぎ、何を捨てたかを見ると、Z32という車の功罪がより鮮明に浮かび上がります。
バブルの夢、ではなく到達点
Z32を「バブルの産物」と片づけるのは簡単です。実際、あの時代の潤沢な予算がなければ、ここまでの作り込みは不可能だったでしょう。ただ、Z32が示したのは単なる贅沢ではなく、日本のスポーツカーが世界基準で設計される時代が来たという事実でした。
ポルシェと比較されること自体が、それ以前のZでは考えられなかった。Z32はその土俵に立つことを自らに課し、少なくとも部分的にはそれを達成しました。エンジン、シャシー、ブレーキ、空力。どれかひとつが突出しているのではなく、全方位的に水準を引き上げたところに、このモデルの本質があります。
バブルが弾けた後、日本の自動車メーカーは長い間スポーツカーに本気の投資をしなくなりました。
Z32は、その「本気の時代」の最後の空気を閉じ込めたタイムカプセルのような車です。
だからこそ、30年以上経った今でも、この車を語る人の声には熱がこもるのでしょう。

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