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  • S660 – JW5【軽自動車枠で本気を出した、最後のミッドシップ】

    S660 – JW5【軽自動車枠で本気を出した、最後のミッドシップ】

    軽自動車でミッドシップ。

    この時点で、だいぶ変なクルマです。しかもそれを2015年に、しかもホンダが本気で市販した。

    S660という車は、冷静に見るほど「なぜこれが世に出たのか」が気になる一台です。

    ビートの後継ではなく、ビートの精神の続き

    https://kuruma-dna.com/pp1

    S660を語るとき、どうしても1991年のビートが引き合いに出されます。

    ホンダが軽自動車枠で作ったミッドシップオープンスポーツ。自然吸気の高回転エンジンを背中に積んだ、あの小さな名車です。

    ただ、S660はビートの直接の後継というよりも、「ビートが証明したこと」を引き継いだクルマと言ったほうが正確です。

    つまり、軽自動車の枠の中にも本気のスポーツカーは成立する、という命題。ビートの生産終了から約20年、ホンダがその命題にもう一度答えを出したのがS660でした。

    26歳の開発責任者が通した企画

    https://kuruma-dna.com/honda-s500

    S660の開発経緯は、ホンダの中でもかなり異例です。2010年に社内公募で行われた新商品企画コンテスト「Nプロジェクト」で、当時26歳だった椋本陵氏が提案したコンセプトが出発点になっています。

    若手が出したアイデアが、そのまま市販車の開発責任者に繋がるという流れ自体が、ホンダらしいと言えばホンダらしい。

    ただ、これを「若い情熱が会社を動かした美談」だけで片づけるのは少し表面的です。

    当時のホンダは、Nシリーズで軽自動車市場に本格的に再参入し、Nボックスが爆発的に売れていた時期。

    軽のプラットフォームやパワートレインの開発資産が社内に蓄積されていたからこそ、ミッドシップスポーツという変化球にもゴーサインが出せた。

    企画の情熱と、タイミングの両方が揃っていたわけです。

    660ccターボをリアミッドに積む意味

    https://kuruma-dna.com/s600

    S660のエンジンは、S07A型の直列3気筒ターボ。

    64馬力という数字は軽自動車の自主規制上限そのもので、数字だけ見ると特別なものではありません。でも、このエンジンをどこに積んだかが決定的に重要です。

    運転席のすぐ後ろ、リアアクスルの手前にエンジンを横置きするミッドシップレイアウト。

    これによって前後重量配分はほぼ45:55。

    軽自動車としては異例の、駆動輪にしっかり荷重が乗る設計です。フロントにエンジンがないぶんノーズは低く、重心も低い。結果として、660ccとは思えないほど回頭性が鋭く、コーナリングの手応えが濃いクルマになっています。

    トランスミッションは6速MTとCVTの2本立て。CVTにはパドルシフトが付き、MTを選ばない層にもスポーツ走行の入口を用意しました。ここにも「間口を広げたい」という企画意図が見えます。

    オープンだが、トランクがない

    https://kuruma-dna.com/sports360

    S660はタルガトップ式のオープンカーです。

    ルーフは手動で脱着するロールトップ方式で、外したルーフはフロントのボンネット内に収納します。ここで気づくのが、このクルマには実質的にトランクがないということ。フロントはルーフ収納用、リアはエンジンが占領している。荷物を積む場所が、ほぼありません。

    これを不便と見るか割り切りと見るかで、このクルマへの評価は分かれます。ただ、ホンダは最初からS660を「日常の足」として設計していません。走ることそのものが目的のクルマに、積載性を求めること自体がずれている。そういう企画判断を、軽自動車という最も実用性が問われるカテゴリで通したことに意味があります。

    足まわりの本気度

    https://kuruma-dna.com/fk2

    S660のサスペンションは前後ともにマクファーソンストラット式。形式だけ見れば一般的ですが、注目すべきはその専用設計の徹底ぶりです。フロントのロアアームはスポーツカー的なワイドトレッドを確保するために新設計され、リアサスもミッドシップレイアウトに合わせて専用のジオメトリが与えられています。

    ボディ剛性にもかなり手が入っています。軽自動車の規格寸法の中で、オープンボディの剛性を確保するのは構造的に難しい。S660ではフロア下にセンタートンネルを通し、サイドシル断面を大きく取ることで、オープンでありながら不快なボディのよじれを抑え込んでいます。

    結果として、街乗りでは「ちょっと硬いかな」と感じる場面もありますが、ワインディングに持ち込むと路面との対話が一気に濃くなる。そういう味付けです。

    2024年のAttack筑波にはJW5型のS660も出走しました。ミッドシップの軽をコースで走らせると、街中とは違う荷重の移り方やリアの動きに向き合えます。

    https://kuruma-dna.com/sutututu-laptime

    限界と、それでも残したもの

    https://kuruma-dna.com/nc1-nsx

    もちろん、S660に弱点がないわけではありません。

    64馬力というパワーは、高速道路の合流や追い越しでは明確に不足します。ミッドシップゆえの室内の狭さ、エンジン音の侵入、前述のトランクレス。

    実用車としてはまったく成立しません。

    価格も軽自動車としては高めで、発売時の車両本体価格は約198万円から。上級グレードのαは約218万円。

    同じ予算でコンパクトカーのスポーツモデルが買える価格帯です。「軽にこの値段を出すのか」という声は、当然ありました。

    それでも、S660は2015年の発売直後からバックオーダーを抱え、ホンダの想定を上回る反響を得ています。

    数字だけでは測れない「運転する楽しさの密度」に、確かに応えたクルマだったということです。

    生産終了という結末

    https://kuruma-dna.com/jg1

    S660は2022年3月をもって生産を終了しました。

    最終モデルとして特別仕様車「Modulo X Version Z」が設定され、即完売。直接的な後継車は発表されていません。

    生産終了の背景には、軽自動車の安全基準・環境規制の強化があります。ミッドシップのオープン2シーターという形式を、今後の規制に適合させながら軽自動車の価格帯に収めるのは現実的に困難だった。これはホンダだけの問題ではなく、ダイハツ・コペンも含めた軽スポーツ全体の構造的な課題です。

    ただ、S660が残した意味は小さくありません。

    このクルマは「軽自動車でもスポーツカーの本質は成立する」というビート以来の命題に、現代の技術と規格で改めて答えを出しました。

    そしてその答えが、規制と市場の変化によって再び封じられた。

    S660は、ある時代にだけ許されたクルマです。

    だからこそ、今振り返る価値がある一台だと思います。

  • SPORTS 360【市販されなかったホンダの原点】

    SPORTS 360【市販されなかったホンダの原点】

    ホンダが初めて世に問うた四輪スポーツカーは、実は市販されていません。

    1962年、まだ二輪メーカーとしてしか認知されていなかったホンダが全日本自動車ショーに出展した小さなオープンカー。

    それがSPORTS 360です。

    型式もつかず、量産もされなかった。

    けれどこの車がなければ、S500もS600もS800も、おそらく存在しなかった。

    ホンダの四輪史を語るなら、ここから始めるのが筋というものです。

    これ、便宜上S660の系譜に入っていますが、実際はもっと広い血統の始祖と言えるようなクルマです。

    二輪屋が四輪を作る、という挑戦

    https://kuruma-dna.com/honda-s500

    1960年代初頭の日本は、通産省(現・経済産業省)が自動車産業の再編を進めようとしていた時代です。

    新規参入を制限する方向の政策が議論されており、二輪メーカーであるホンダが四輪に乗り出すこと自体が、行政との摩擦を伴う決断でした。

    本田宗一郎はそれでも四輪をやると決めていました。

    有名な話ですが、「私が何を作ろうと自由だ」という趣旨の発言を残しています。この言葉は単なる反骨精神ではなく、二輪で培った高回転エンジン技術を四輪に転用できるという技術的な確信に裏打ちされたものでした。

    ただ、いきなり大排気量のセダンで既存メーカーに挑むのは現実的ではありません。ホンダが選んだのは、自分たちの得意領域──小排気量・高回転・高出力──を最大限に活かせる軽自動車規格のスポーツカーという土俵でした。

    356ccで33馬力という異常値

    https://kuruma-dna.com/s600

    SPORTS 360の心臓部は、排気量わずか356ccの直列4気筒DOHCエンジンです。この数字だけ見ても、当時としては相当に異質だったことがわかります。軽自動車に4気筒、しかもDOHC。1960年代初頭の軽自動車といえば、2気筒や空冷の実用エンジンが当たり前の世界です。

    最高出力は33馬力、回転数は8,500rpmに達したとされています。リッターあたり約93馬力。この数字は、二輪レースで鍛えたホンダの高回転エンジン技術がそのまま持ち込まれた結果です。バイクのエンジン屋が四輪を作ると、こうなる。SPORTS 360はその証明のような存在でした。

    車両重量は約380kgと極めて軽量で、最高速度は130km/hを超えたとも言われています。当時の軽自動車としては破格の性能です。ただし、これらのスペックはプロトタイプ段階のものであり、量産仕様として確定した数値ではない点には注意が必要です。

    なぜ市販されなかったのか

    https://kuruma-dna.com/pp1

    全日本自動車ショーで大きな注目を集めたSPORTS 360ですが、結局そのまま市販には至りませんでした。理由として最も有力なのは、開発の過程でエンジン排気量を拡大する判断がなされたことです。

    360ccという軽自動車枠に収めるよりも、排気量を500ccに引き上げたほうが商品として成立する──そう判断されたと考えられています。実際、SPORTS 360の発表からわずか半年ほどで、排気量を531ccに拡大したS500が発表されます。エンジンの基本設計はSPORTS 360から引き継がれており、4気筒DOHC、チェーン駆動という構成は共通です。

    つまりSPORTS 360は、開発途上で「もっといける」と判断された結果、自らが進化形に道を譲った車です。打ち切りというよりは、発展的解消に近い。ホンダの四輪開発が驚くほどのスピードで進んでいたことの証拠でもあります。

    チェーン駆動という選択

    https://kuruma-dna.com/jw5

    SPORTS 360の駆動系には、後輪をチェーンで駆動する方式が採用されていました。これは後のS500にも引き継がれた特徴です。通常の四輪車であればプロペラシャフトとデファレンシャルギアで後輪に動力を伝えますが、ホンダはバイクの技術をそのまま応用するかたちで、チェーンドライブを選びました。

    この方式には、軽量化やレイアウトの自由度といったメリットがある一方で、耐久性やメンテナンス性では従来の駆動方式に劣る面もあります。実際、チェーン駆動が廃止されて一般的なドライブシャフト方式に変わるのは、1966年5月以降のS800からです。S500もS600も、そして初期のS800の一部も、チェーンで後輪を駆動していました。

    ただ、この判断をネガティブに捉えるのはやや短絡的です。ホンダには四輪の量産経験がなかった。二輪で実績のある技術を使って最短距離で四輪を成立させる、という合理的な選択だったとも読めます。完成度よりもスピードと独自性を優先した、スタートアップ的な判断です。

    S500、S600、S800への系譜

    https://kuruma-dna.com/sn

    SPORTS 360が切り拓いた道は、そのままホンダの四輪スポーツカーの系譜へと繋がります。S500は1963年に市販され、ホンダ初の量産四輪車となりました。続くS600は1964年に登場し、国内外で高い評価を獲得。さらにS800へと排気量を拡大しながら、ホンダは「小さくて速いスポーツカーを作るメーカー」というイメージを確立していきます。

    この系譜の起点にあるのがSPORTS 360です。小排気量DOHCエンジン、軽量ボディ、オープン2シーターという構成。ホンダが四輪で何をやりたかったのかは、すべてこの1台に凝縮されていました。

    さらに長い目で見れば、この「高回転・高出力の小排気量エンジンをスポーツカーに載せる」という思想は、ビートやS2000にまで通じるホンダの遺伝子です。SPORTS 360はその最初の発現でした。

    市販されなかった車が持つ意味

    https://kuruma-dna.com/aa-city-turbo

    SPORTS 360は1台も一般ユーザーの手に渡っていません。カタログスペックも量産仕様として確定していない。にもかかわらず、ホンダの四輪史を語るときにこの車の名前が必ず出てくるのは、それが単なるコンセプトカーではなく、実際に走る状態で完成していたプロトタイプだったからです。

    ショーモデルとして飾られただけの張りぼてではなく、エンジンが回り、走行できる実車として存在した。だからこそS500への発展が半年という短期間で実現できた。SPORTS 360は「作りかけの夢」ではなく、「完成した出発点」だったと言えます。

    市販されなかったことで、この車は商品としての評価を受ける機会を永遠に失いました。

    けれどその代わりに、ホンダが四輪メーカーとして歩み始めた瞬間の純粋な意志を、そのまま封じ込めた存在として残り続けています。

    売れたかどうかではなく、何を目指していたかが見える。

    それがSPORTS 360という車の、唯一無二の価値です。

  • BEAT – PP1【軽自動車にミッドシップを積んだ、ホンダの本気の遊び】

    BEAT – PP1【軽自動車にミッドシップを積んだ、ホンダの本気の遊び】

    軽自動車でミッドシップ。

    この言葉だけで、もう普通じゃないことはわかります。

    1991年、ホンダが世に送り出したビート(PP1)は、660ccの自然吸気エンジンをドライバーの背後に置き、フルオープンで走るという、どう考えても「売れ筋を狙った商品」ではありません。

    でも、だからこそ30年以上経った今でも語られ続けている。

    この車には、ホンダという会社がある時期に持っていた「やってみたかったからやった」という空気が、そのまま形になっています。

    バブルが許した「遊びの本気」

    ホンダ・ビート PP1
    画像:Guyon from Richmond, VA, United States of America/CC BY 2.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/jw5

    ビートが登場した1991年5月は、日本経済がバブルの余韻をまだ引きずっていた時期です。

    NSXが1990年に発売され、ホンダの技術的威信は頂点にありました。

    F1では連勝を重ね、社内の士気も高い。そんな時期に、軽自動車の枠でスポーツカーをやろうという企画が通ったこと自体が、時代の空気を物語っています。

    ただ、ビートは単なるバブルの浮かれ仕事ではありません。

    企画の発端は1980年代半ばに遡ります。ホンダ社内で「軽で本格的なオープンスポーツを作れないか」というアイデアが動き始め、若手エンジニアを中心としたチームが開発を担いました。

    当時のホンダには、LPL(ラージ・プロジェクト・リーダー)制と呼ばれる開発責任者制度があり、比較的若い技術者にも大きな裁量が与えられていました。

    この時代のホンダには、もうひとつ重要な背景があります。

    1990年の軽自動車規格改正です。排気量上限が550ccから660ccに引き上げられ、ボディサイズもわずかに拡大されました。

    この新規格への移行が、ビートのようなチャレンジングな企画に現実的な余地を与えたのは間違いありません。

    ミッドシップという選択の必然

    https://kuruma-dna.com/honda-s500

    ビート最大の特徴は、言うまでもなくミッドシップレイアウトです。エンジンを後輪車軸の前方、運転席の背後に横置きで搭載しています。

    軽自動車でこの配置を選ぶのは、コスト的にも設計的にも明らかに不利です。フロントにエンジンを置いたほうが、はるかに簡単に作れます。

    それでもミッドシップを選んだのは、走りの質を本気で追求したからです。

    重量物を車体中央に集めることで、ヨー慣性モーメント——つまり車が向きを変えるときの「もたつき」を小さくできます。軽い車体にこのレイアウトを組み合わせれば、ステアリングを切った瞬間にスッと向きが変わる、軽快な回頭性が得られます。

    ホンダにはアクティやバモスといったミッドシップ(リアエンジン寄りですが)レイアウトの軽商用車の知見がありました。

    まったくのゼロからミッドシップを作ったわけではなく、社内に蓄積された技術があったことも、この選択を後押ししています。ただし、ビートのためにフロアやサスペンションは専用設計されており、商用車の流用で済ませたような安易な作りではありません。

    NAで回して楽しむという哲学

    https://kuruma-dna.com/s600

    同時期のライバルを見ると、スズキ・カプチーノ(1991年)はターボ付き、ダイハツ・コペンはまだ登場前(2002年)。

    ABCトリオと呼ばれたオートザム AZ-1(1992年)もターボでした。軽スポーツの世界では、ターボで馬力を稼ぐのがほぼ常識だった時代です。

    ビートはそこに背を向けました。搭載されたE07Aエンジンは、自然吸気の直列3気筒SOHC 656cc。最高出力は64馬力で、軽自動車の自主規制上限に達しています。

    ただしその64馬力は、8,100rpmという高回転域で絞り出すもの。ホンダ独自のMTREC(Multi Throttle Responsive Engine Control)と呼ばれる3連スロットルシステムを採用し、各気筒に独立したスロットルボディを与えています。

    3連スロットルというのは、要するにアクセル操作に対するエンジンの反応を極限まで鋭くするための仕組みです。

    通常の1スロットルに比べて吸気の応答が速く、右足の動きにエンジンが即座に追従します。これはNSXやタイプRの系譜にも通じる、ホンダの「回して楽しい」という思想そのものです。

    トルクは絶対的に細い。最大トルクは6.1kgf·m/7,000rpmで、日常域では決して力強くはありません。

    でも、それがビートの狙いでもあります。エンジンを高回転まで回し切って走ることが前提の設計であり、低速トルクで楽をさせる車ではないのです。

    回さなければ遅い。回せば気持ちいい。

    この割り切りが、ビートの走りの核心です。

    オープンであることの意味

    https://kuruma-dna.com/sports360

    ビートはフルオープンボディです。ソフトトップの幌を手動で開閉する方式で、電動格納のような豪華さはありません。ただ、このオープン構造は単に「気持ちいいから」だけで選ばれたわけではありません。

    ミッドシップのオープンカーという構成は、エンジン音を直接ドライバーに届けるための装置でもあります。背後で回る3気筒の吸排気音が、幌を開けた瞬間にダイレクトに聞こえてくる。この体験は、屋根のある車では絶対に再現できません。ビートの開発陣が「五感で楽しむ車」を標榜していたことは、各種メディアでのインタビューでも繰り返し語られています。

    車重は760kg。軽自動車としても特別に軽いわけではありませんが、ミッドシップかつオープンという構造を考えれば十分に軽量です。ボディ剛性の確保には相応の苦労があったはずですが、サイドシルを太くするなどの構造的な工夫で対応しています。

    売れたのか、売れなかったのか

    https://kuruma-dna.com/pp1/used

    ビートは1991年5月の発売直後、予想を超える受注を集めました。初年度の販売は好調で、バックオーダーを抱えるほどだったと言われています。ただ、その勢いは長くは続きませんでした。

    バブル崩壊後の景気後退が直撃したこと、そして2シーターのオープン軽スポーツという商品がそもそもニッチであること。この二重の壁に、ビートは直面します。1996年に生産終了となるまでの総生産台数は約33,600台。数字だけ見れば大ヒットとは言えません。

    しかし、この台数を「少ない」と断じるのは少し違います。ビートは最初から大量に売ることを目的とした車ではありません。ホンダが自社のスポーツブランドとしてのアイデンティティを、軽自動車という最も身近なカテゴリーで表現するための車でした。その意味では、33,600台という数字は、むしろ健闘と言えます。

    ビートが残したもの

    https://kuruma-dna.com/ba8

    ビートの直接的な後継車は、長い間存在しませんでした。ホンダが再び軽オープンスポーツを世に出すのは、2015年のS660(JW5)まで待たなければなりません。実に19年のブランクです。

    S660はビートの精神的後継と位置づけられ、ミッドシップレイアウトを踏襲しました。ただしS660はターボエンジンを採用しており、ビートのNA高回転型という哲学はそのまま受け継がれたわけではありません。それでも「軽でミッドシップのオープンスポーツ」という系譜は、ビートなしには存在しなかったものです。

    もうひとつ、ビートが残した遺産があります。それは「軽自動車でも本気のスポーツカーが成立する」という証明です。カプチーノやAZ-1とともに、1990年代初頭の軽スポーツブームを形成したこの3台は、後のコペンやS660に至る道を切り開きました。ビートは、その中でも最も「走りの質」にこだわった一台だったと言っていいでしょう。

    660ccの自然吸気エンジンを8,000回転以上まで回し、ミッドシップの旋回性能を味わい、オープンエアの中でエンジン音を全身に浴びる。ビートが提供したのは、速さではなく「運転している実感」そのものでした。

    それは、数値では測れない価値です。

    だからこそ、PP1は今でも中古市場で根強い人気を保ち続けているのだと思います。

  • シビックタイプR(EP3)の中古車は買い?【タイプR一族の異端児は、今こそ狙い目かもしれない】

    シビックタイプR(EP3)の中古車は買い?【タイプR一族の異端児は、今こそ狙い目かもしれない】

    歴代シビックタイプRのなかで、EP3はずっと日陰の存在でした。

    同時期のDC5インテグラタイプRに人気を持っていかれ、イギリス生産という出自も「本物のタイプRなのか」という疑念を招きました。

    でも、あの8,000回転まで淀みなく吹け上がるK20Aと、インパネから生えた6速シフトのクイックな操作感は、触れた人にしかわからない中毒性があります。

    そんなEP3に今、惹かれている人がいるとすれば、正直それはかなり筋のいい選択だと思います。

    ただし、この車には「知らずに買うと痛い目を見る」ポイントがいくつか確実にあります。ここから先は、その現実を正直に整理していきます。

    まず警戒すべきは「部品が手に入らない」という現実

    https://kuruma-dna.com/ep3

    EP3を中古で買ううえで、最初に知っておくべきことがあります。それは、壊れたときに直せるかどうかが、他のホンダ車とはまるで違うということです。

    このクルマ、日本国内での販売台数は5,000台に届きません。

    しかもイギリスのスウィンドン工場で生産された逆輸入車です。

    ドア、バンパー、ヘッドライト、フェンダー、ドアミラーといった外装部品の中古品は、市場にほとんど流通していません。タイプRという希少車ゆえに、事故車や廃車が出てもショップが車両ごと引き取ってしまうことが多く、部品単体ではまず見つからないのが実情です。

    とくに注意したいのがリアゲートです。

    ハッチバック特有の大きな一枚パネルで、リアバンパーも薄い設計のため、後ろからの軽い追突でもゲートまでダメージが及びやすい構造になっています。

    ここを壊すと、代替パーツの入手がきわめて困難で、修理費が車両価格に迫ることすらあり得ます。

    新品パーツもメーカーで生産終了になっているものが増えています。

    エアコン関連部品でディーラーに持ち込んでも「部品がないので修理できない」と断られた事例も出ています。

    EP3を買うということは、この部品事情を受け入れるということです。外装にダメージのない個体を選ぶことが、他のどの車種よりも重要になります。

    頻出する不具合と、地味に嫌なトラブル

    シビックタイプR(EP3)のリア/サイド
    画像:Tokumeigakarinoaoshima/CC0(Wikimedia Commons)

    EP3で最も報告が多いトラブルのひとつが、エアコンのコンプレッサーです。

    経年劣化による焼き付きや異音が春から秋にかけて集中的に発生します。コンプレッサーが壊れるとエアコンが完全に効かなくなるだけでなく、ひどい場合にはアイドリング時にエンジンが止まるという症状まで出ます。

    修理にはコンプレッサー本体だけでなく、エキスパンションバルブやコンデンサーの交換、配管の洗浄まで必要になることがあり、費用は10万円を軽く超えます。

    しかもFF車でエンジンルームに余裕がないため、フロントバンパーやラジエターを外さないとコンプレッサーにアクセスできず、工賃もかさみます。

    真夏にエアコンが死ぬのは精神的にも相当きついので、購入前にエアコンの動作確認は必須です。

    次に気をつけたいのが、前期型のオイル消費問題です。

    K20AのR-specエンジンは本来タフなユニットですが、前期型ではサーキット走行レベルの高速コーナリング時にオイルパン内のオイルが偏り、オイルストレーナーがオイルを吸えなくなるという構造的な弱点がありました。

    後期型ではストレーナーの位置変更などの対策が施されていますが、後期型は約1,000台しか売れておらず、流通量がきわめて少ないのが現実です。

    前期型を選ぶ場合は、オイル管理の履歴が特に重要になります。

    できればオイルフィラーキャップを外してエンジン内部を覗き、スラッジ(黒い汚れ)が溜まっていないかを確認してあげてください。距離が少なくても内部が汚れている個体は、オイル交換をサボっていた可能性が高いです。

    補機類では、ベルトのアイドラプーリーとテンショナーのベアリング劣化にも注意が必要です。

    エンジンから「ゴー」という大きな雑音が出始めたら、プーリーのベアリングが焼き付きかけているサインです。放置するとベルト切れに至り、走行不能になります。エンジンをかけたときに異音がないか、耳を澄ませて確認してください。

    SRSエアバッグの警告灯が点灯するという報告も散見されます。

    シート下のコネクターの接触不良が原因であることが多く、コネクターを抜き差しするだけで直る場合もありますが、警告灯が点いたままでは車検に通りません。小さなことですが、中古車としての印象を確実に悪くするポイントです。

    リアのテールランプ内部に結露や浸水が見られるという声もあります。

    走行に直接影響はないものの、見た目の印象が悪く、放置すると電球の接触不良にもつながります。現車確認の際、テールランプの内側が曇っていないかもチェックしておきたいところです。

    逆に、ここはかなり強い

    https://kuruma-dna.com/fl5

    弱点ばかり並べてきましたが、EP3には安心材料もしっかりあります。

    まず、心臓部であるK20Aエンジンそのものは、オイル管理さえまともなら非常にタフです。15万km走ってもエンジン内部がきれいな個体が存在するほどで、ホンダの高回転NAエンジンとしての基本設計の良さは折り紙つきです。

    6速ミッションの信頼性も高い部類に入ります。クロスレシオのギアは入りが良く、シフトフィーリングの評価はオーナーの間でも極めて高いです。

    インパネシフトという独特のレイアウトに抵抗を感じる人もいますが、実際に操作すると「ステアリングから近くてクイック」という利点が体感できます。

    レカロ製バケットシートとMOMO製ステアリングは、タイプR伝統の装備です。ホールド性が高く、長距離でも疲れにくいシートは、20年以上経った今でも十分に機能します。ヘタリが少ない個体であれば、これだけで購入動機になるレベルです。

    意外なところでは、実用性の高さも強みです。

    フラットフロアの採用で後席の足元は広く、リアシートを倒せばタイヤ1セットが積めるほどのラゲッジスペースが確保されています。3ドアハッチバックのタイプRでありながら、4人乗車で荷物を積んで長距離ドライブに出られる実用性は、EK9にはなかった美点です。

    燃費も2リッターのハイオク仕様としては優秀で、街乗りで11〜12km/L程度が期待できます。クロスレシオゆえに低回転で流すと速度が出にくい反面、回さなければ意外と燃料を食わないという性格です。

    現車確認で見るべきポイント

    https://kuruma-dna.com/fk8

    EP3の中古車を見に行くとき、まず確認すべきは外装のダメージの有無です。

    前述のとおり、外装パーツの入手が極端に困難なので、バンパー、フェンダー、リアゲートに補修痕や歪みがないかを入念にチェックしてください。

    修復歴ありの個体は、リアゲート周辺の板金状態を特に注意深く見る必要があります。

    エンジンは、まず冷間時に始動してアイドリングの安定性を確認します。異音がないか、排気に白煙が混じっていないか。オイルフィラーキャップを開けて内部の汚れ具合を見ることも忘れないでください。

    エアコンは実際にオンにして、冷風がしっかり出るか、コンプレッサーから異音がしないかを確認します。エアコンをオンにした状態でアイドリングが不安定にならないかも重要なチェック項目です。

    前期型か後期型かの確認も大切です。外観ではバンパー形状とヘッドライトの意匠が異なります。後期型はイモビライザーが標準装備され、オイル消費の対策も施されています。ただし後期型の流通量は極めて少ないため、前期型を選ぶ場合はオイル管理の履歴をより重視する必要があります。

    社外パーツへの交換状況も見ておきましょう。

    EP3はワンメイクレースが行われていなかったこともあり、ゴリゴリにチューニングされた個体は比較的少ないとされています。

    逆に言えば、ノーマルに近い状態の個体が見つかりやすいのはEP3の利点です。

    マフラー、エアクリーナー、車高調などが交換されている場合は、その理由と整備状態を確認できれば最高です。

    この車に手を出してよい人、やめた方がよい人

    https://kuruma-dna.com/fk2

    EP3が向いているのは、「タイプRの名前やブランドではなく、運転そのものの気持ちよさに価値を感じる人」です。8,000回転まで回るNAエンジンの快感、クイックな6速インパネシフト、軽快なハッチバックの身のこなし。この三拍子が揃ったクルマは、もう新車では手に入りません。

    部品の入手難を理解したうえで、外装をぶつけない自信がある人。あるいは、多少の修理費を覚悟できる人。そういう人にとっては、EK9やFD2よりもはるかに手が届きやすい価格で「本物のタイプR体験」ができる、非常にコスパの高い選択肢です。

    一方で、やめた方がよいのは、「壊れたらすぐディーラーに持ち込んで直してもらいたい」という人です。

    部品の廃番が進んでおり、ディーラーでは対応できないケースが増えています。EP3に強いショップや、リビルト部品のルートを自分で探す覚悟がない人には、正直おすすめしにくいです。

    また、サーキット走行を前提に考えている人も注意が必要です。

    前期型のオイル消費問題に加え、リアサスペンションのストロークが短い設計のため、車高調を入れると乗り心地が極端に悪化しやすいという特性があります。

    ノーマルの足回りで街乗りとワインディングを楽しむ、という使い方が最もEP3の良さを引き出せるスタイルです。

    結局、EP3は買いなのか

    https://kuruma-dna.com/fn2

    結論から言えば、条件付きで買いです。

    EP3は、歴代タイプRのなかで最も過小評価されてきた一台です。EK9のようなカリスマ性もなければ、FD2のような戦闘力もない。

    でも、K20Aの回転フィールとインパネ6速シフトの組み合わせは、運転する楽しさという一点において、他のどのタイプRにも負けていません。

    最大のリスクは部品供給です。外装をぶつけたら終わり、エアコンが壊れたら高額修理。

    この現実を受け入れられるかどうかが、EP3を買うかどうかの分水嶺になります。

    価格面では、EK9やFD2がプレミア化して300万〜400万円超の世界に行ってしまったのに対し、EP3はまだ100万円台から手が届きます。

    高回転NAのVTECを味わえるタイプRとしては、最後の「現実的な価格帯」にいる車です。

    ただ、この価格がいつまで続くかはわかりません。

    現存台数は確実に減っており、再評価の波はすでに始まっています。「いつか乗りたい」ではなく、「今、程度の良い個体があるなら動く」。

    EP3に関しては、そういうタイミングに来ていると言えるでしょう。

    早く買わないと無くなっちゃいますよ…!

  • レビン/トレノ – AE101 【名前は同じでも、もう86じゃない】

    レビン/トレノ – AE101 【名前は同じでも、もう86じゃない】

    AE86の正統後継──と呼ぶべきかどうか、いまだに意見が割れる1台です。

    型式こそ「AE」の系譜を引き継ぎ、エンジンも4A-GEの名を冠していますが、駆動方式はFF。ボディもプラットフォームもまるで違います。

    それでもこの車には、トヨタが1990年代前半に出せた「スポーティコンパクトの最適解」がきちんと詰まっていました。

    AE101型レビン/トレノとは何だったのか。名前の連続性と中身の断絶、その両方を見ていきます。

    FRを捨てた理由

    レビン/トレノのエクステリア
    画像:OSX/Public domain(Wikimedia Commons)

    AE86が1983年に登場したとき、すでにカローラ本体はFF化を済ませていました。86はいわば「旧世代のFRシャシーにDOHCエンジンを載せた最後の一台」であり、設計思想としてはむしろ例外的な存在だったわけです。つまり、FFへの移行はAE92(1987年)の時点で既定路線でした。

    AE101が登場した1991年、トヨタにとってFRのコンパクトスポーツを維持する理由はほぼありませんでした。コスト、室内空間、生産効率、すべてがFF有利。MR2やスープラといった専用スポーツカーが別に存在する以上、カローラ派生のクーペにFRを残す商品企画上の根拠が立たなかったのです。

    これは「トヨタがスポーツを捨てた」という話ではありません。むしろ逆で、FFという制約の中でどこまでスポーティに仕立てられるかに本気で取り組んだ結果が、AE101でした。

    4A-GEの到達点、20バルブ

    https://kuruma-dna.com/ae82

    AE101最大のトピックは、エンジンです。搭載された4A-GE 20バルブ──1気筒あたり吸気3・排気2の5バルブ構成を採用した1.6L直4は、自然吸気で160ps/7,400rpmを発生しました。リッターあたり100psという数字は、当時の1.6Lクラスとしては突出しています。

    5バルブという構成は、ヤマハが開発に深く関わったことで実現しています。吸気バルブを3つに増やすことで低中速のトルクを犠牲にしすぎずに高回転域の充填効率を稼ぐ、という狙いでした。実際、このエンジンはレッドゾーンの手前まで気持ちよく回る特性を持っており、回して楽しいユニットとして高く評価されています。

    ただし、5バルブの恩恵を体感するには相応に回す必要がありました。街乗り領域ではごく普通の1.6Lであり、高回転まで引っ張って初めて「ああ、これか」と分かるタイプのエンジンです。ここが好みの分かれるところでもありました。

    なお、廉価グレードには4A-FEも用意されていましたが、AE101を語る文脈では基本的に4A-GE搭載車が主役です。スーパーチャージャー付きの4A-GZEが先代AE92にはありましたが、AE101では廃止されています。過給に頼らず、NAの高回転で勝負する方向にトヨタは舵を切ったわけです。

    シャシーとボディの性格

    https://kuruma-dna.com/te71

    プラットフォームはE100系カローラと共有。ホイールベースは2,465mmで、先代AE92から若干拡大されています。ストラット式のフロントとリアの足回りは、スポーツカー専用設計ではなくカローラベースの延長線上にありますが、BZ-Gなどのスポーツグレードではサスペンションのチューニングが明確に引き締められていました。

    ボディは先代よりやや大きく、やや重くなっています。車重は4A-GE搭載のMT車で約1,080〜1,100kg程度。AE86の約940kgと比べれば明らかに重い。ただしこれは装備の充実や衝突安全性の向上、ボディ剛性の確保といった時代の要請によるもので、AE101だけが特別に重かったわけではありません。

    レビンは固定式ヘッドライト、トレノはリトラクタブルヘッドライト、という外観上の差別化は先代から踏襲されています。ただし、このAE101がトレノとしてリトラを採用した最後の世代になりました。時代はすでにリトラ廃止の方向に動いていたのです。

    ライバルと市場での立ち位置

    https://kuruma-dna.com/gzea14h

    1991年という年は、日本のスポーツカー市場がまだ熱を持っていた時期です。ホンダ・シビック(EG6型SiR)はB16A VTECで170psを叩き出しており、1.6Lクラスの頂上争いは熾烈でした。AE101の160psは数字の上ではわずかに及びませんが、5バルブNAの独自性と、トヨタブランドの安心感で一定のポジションを確保しています。

    日産パルサーGTI-Rのようなターボ4WDという飛び道具もこの時代には存在しましたが、AE101が狙っていたのはそういう過激な方向ではありません。あくまで「日常的に使えるコンパクトクーペの中で、走りの質が高いもの」という立ち位置です。

    販売面では、バブル崩壊後の市場縮小の影響を受けつつも、カローラの名前が持つ販売網の強さに支えられて堅実に売れました。ただし「スポーツカーとして熱狂的に支持された」というよりは、「よくできたスポーティクーペとして選ばれた」という表現のほうが実態に近いでしょう。

    モータースポーツでの存在感

    https://kuruma-dna.com/nre210h

    AE101は、ワンメイクレースやグループAなどの競技シーンでも活躍しています。特にN1耐久(のちのスーパー耐久)では、4A-GE 20バルブの高回転特性を活かした戦い方が可能で、プライベーターにも広く使われました。

    また、TRD(トヨタ・レーシング・デベロップメント)からは競技向けパーツが豊富に供給されており、AE86ほどの「草の根チューニング文化」とは少し異なりますが、メーカー公認のモータースポーツ基盤がしっかり整備されていた点は見逃せません。

    海外、とくに東南アジアやオセアニアではAE101のレース人気が高く、日本国内よりもむしろ競技ベース車両として長く重宝された地域もあります。

    86の影に隠れた、正当な進化

    https://kuruma-dna.com/gre156h

    AE101の評価は、どうしてもAE86との比較から逃れられません。「FRじゃない」「軽さがない」「あの頃のレビンじゃない」──そういう声は当時からありましたし、今でもあります。

    ただ、冷静に見ればAE101は「1991年のトヨタが、1.6Lコンパクトクーペとして出せる最善手」をきちんと形にした車です。5バルブ4A-GEという尖ったエンジンを載せ、FFの制約の中で足回りを煮詰め、モータースポーツにも対応できるだけの素性を持たせた。やるべきことはやっています。

    AE86が伝説になったのは、あの車が「最後のFRカローラ」だったからです。つまり、後から振り返って意味が生まれた部分が大きい。AE101はその「後から来た側」なので、どうしても比較の中で割を食います。でも、それはAE101の出来が悪かったからではありません。

    4A-GEという名機の最終進化形を味わえること。5バルブNAの高回転フィールは、ターボ全盛の時代にあって独自の価値を持っていたこと。そして、次のAE111で4A-GEが最後を迎えることを考えると、AE101は「4A-GEが最も洗練された世代」として記憶される資格がある1台です。名前の重さに押しつぶされがちですが、中身はちゃんと進化していました。

  • レビン/トレノ – AE92 【FFになった日、伝説が分岐した】

    レビン/トレノ – AE92 【FFになった日、伝説が分岐した】

    AE86の次がFFになる——。

    1987年、そのニュースはある種の衝撃をもって受け止められました。ハチロクという圧倒的なアイコンの直後に登場したAE92型カローラレビン/スプリンタートレノは、駆動方式の転換という決断を背負った世代です。

    「裏切り」と見るか「進化」と見るか。

    その評価は、30年以上経った今もきれいには割り切れません。ただ、当時のトヨタがなぜその選択をしたのか、そしてAE92が実際にどんなクルマだったのかを丁寧に見ていくと、単純な「FRを捨てた失敗作」という語りでは収まらない姿が浮かんできます。

    FRを捨てた理由

    レビン/トレノのエクステリア
    画像:先従隗始/CC0(Wikimedia Commons)

    まず前提として、AE86がFRだったこと自体がすでに例外的だったという事実があります。1983年にAE86が登場した時点で、カローラ本体はすでにFF化(E80系)を済ませていました。つまりAE86は、カローラのプラットフォームがFFに移行するなかで、レビン/トレノだけが旧世代のFRシャシーを使い続けたモデルだったわけです。

    あの時点でFRだったのは「あえて残した」というより、「スポーツモデルにはまだFRが必要」という判断と、タイミング的にFR用シャシーがまだ使えたという事情の合流でした。要するに、AE86のFRは確信犯的な設計思想というよりも、過渡期の産物という面があったのです。

    AE92の世代になると、もはやFR用のシャシーを維持する合理性がなくなっていました。カローラ系のプラットフォームは完全にFF前提で設計されており、レビン/トレノだけのためにFRシャシーを残すのは、コスト的にも生産ライン的にも現実的ではありません。

    加えて、1980年代後半はFF車の走行性能が急速に向上していた時代です。サスペンション設計やタイヤの進化によって、FFでも十分にスポーティな走りが成立するようになっていました。トヨタとしては、「FFでもスポーツカーは作れる」という確信があったはずです。少なくとも、カタログスペックと商品性の両面で、FFの方が合理的だという判断は十分に成り立つ状況でした。

    4A-GEの第二章

    https://kuruma-dna.com/ae82

    AE92の心臓部は、AE86から引き続き搭載された4A-GE型エンジンです。ただし、中身は大幅にアップデートされています。AE86時代の4A-GEが1,587ccで130馬力だったのに対し、AE92に搭載されたのはハイメカツインカムと呼ばれる新設計のヘッド構造を持つ進化版でした。

    特に注目すべきは、1989年のマイナーチェンジで追加されたスーパーチャージャー付き4A-GZEです。過給によって165馬力を発生するこのエンジンは、1.6リッタークラスとしては当時かなりの高出力でした。AE86が自然吸気の気持ちよさで勝負したのに対して、AE92はスーパーチャージャーという飛び道具を手にしたことになります。

    スーパーチャージャーを選んだのにはFFとの相性もあります。ターボに比べて低回転域からトルクが立ち上がるスーパーチャージャーは、前輪駆動との組み合わせでトラクションを稼ぎやすい。つまり、FFであることを前提にしたパワートレインの最適化が、ちゃんと行われていたわけです。

    自然吸気の4A-GEも、AE86時代から比べれば確実に洗練されていました。レスポンスや回転フィールの良さは健在で、日常域での扱いやすさは明らかに向上しています。「回して楽しい4A-GE」というキャラクターは、AE92でもしっかり受け継がれていました。

    シャシーと走りの質

    https://kuruma-dna.com/ae86

    AE92のサスペンション形式は、フロントがストラット、リアも同じくストラットという構成です。AE86のリアがリジッドアクスル(4リンク)だったことを考えると、足回りの設計思想はまったく別物になっています。

    4輪独立懸架になったことで、乗り心地と路面追従性は明確に向上しました。高速域での安定感もAE86とは比較にならないレベルです。まあ、これは当然といえば当然で、設計年次が4年新しく、プラットフォームの基本骨格がまるごと変わっているのですから。

    ただ、ここがAE92の評価が割れるポイントでもあります。FR+リジッドアクスルという構成だったAE86は、リアの挙動が掴みやすく、ドライバーが意図的にテールを流すような操作がしやすかった。一方、AE92のFFシャシーは基本的にアンダーステア傾向で、AE86的な「振り回す楽しさ」とは性質が異なります。

    これを「つまらなくなった」と感じた層がいたのは事実です。しかし、当時のモータースポーツシーンではAE92はグループAレースで活躍し、FFならではの速さを見せました。楽しさの質が変わった、というのがフェアな表現でしょう。

    デザインとキャラクターの分化

    https://kuruma-dna.com/te71

    AE92世代でも、レビンとトレノの差別化はきちんと行われていました。レビンが固定式ヘッドライトを採用したのに対し、トレノはリトラクタブルヘッドライトを継続。この違いは見た目の印象をかなり変えていて、トレノの方がよりスポーティでシャープな顔つきに見えます。

    ボディ全体のフォルムは、AE86の角張ったデザインから一転して、丸みを帯びた流線型になりました。1980年代後半の空力意識の高まりを反映した形状で、Cd値(空気抵抗係数)の低減が意識されています。好みは分かれるところですが、時代の空気を正直に映したデザインではあります。

    車体サイズはAE86から若干拡大し、車重も増加しました。FFレイアウトによる室内空間の効率化は進んだものの、軽さという点ではAE86に及びません。AE86の車重が約940kgだったのに対し、AE92は約1,050〜1,100kg程度。この差は、走りの軽快感に確実に影響しています。

    売れたけど、語られなかった

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    商業的に見れば、AE92は成功したモデルです。販売台数はAE86を上回り、一般ユーザーからの評価も悪くありませんでした。スーパーチャージャーモデルの追加もあって、スポーティなコンパクトカーとしての訴求力は十分にあったのです。

    それでもAE92が「名車」として語られる頻度がAE86に比べて圧倒的に低いのは、やはり駆動方式の転換が大きい。AE86は「最後のFRレビン/トレノ」という物語性を持っており、その後のドリフト文化やチューニング文化との結びつきが強烈でした。AE92にはそうした「物語の磁力」が弱かったのです。

    ただ、これはAE92の罪ではありません。むしろ、AE86の神話が強すぎたというべきでしょう。冷静に見れば、AE92は同時代のFFスポーツとして十分に高い完成度を持っていました。ホンダのEF型シビック/CR-Xと並んで、1.6リッターFFスポーツの水準を引き上げた1台です。

    系譜の中のAE92

    https://kuruma-dna.com/nre210h

    AE92の後には、AE101、AE111と世代が続きます。AE101では可変バルブタイミング機構を備えた4A-GE(通称シルバーヘッド)が登場し、AE111では名機と呼ばれる4A-GE 20バルブが搭載されました。こうした4A-GEの進化の系譜を考えると、AE92はFRからFFへの転換点であると同時に、エンジン進化の中継地点でもあったことがわかります。

    スーパーチャージャーという選択肢はAE92限りで終わり、後継モデルでは自然吸気の高回転路線に回帰しました。この意味でも、AE92は「いろいろ試した世代」という性格が強い。FFスポーツとしての方向性を模索し、過給という手段まで試みた実験的なモデルだったと言えます。

    レビン/トレノという車名自体が消滅するのは、AE111の後のことです。AE92は、その長い系譜の中で最も大きな転換を担った世代でした。FRからFFへ、リジッドから4独へ、自然吸気からスーパーチャージャーへ。変化の量だけで言えば、歴代レビン/トレノの中で最も多くのものを一度に変えたモデルです。

    だからこそ、評価が難しい。変えすぎたのか、変えるべくして変えたのか。答えは立場によって変わります。ただ一つ言えるのは、AE92がなければ、AE101もAE111も存在しなかったということです。FFレビン/トレノという新しい道を最初に切り拓いたのは、このクルマでした。その功績は、もう少し正当に評価されてもいいのではないかと思います。

  • マーチ – K13【タイで生まれた日産の賭け】

    マーチ – K13【タイで生まれた日産の賭け】

    歴代マーチの中で、最も評価が割れたモデルはどれか。

    おそらく多くの人が、この4代目・K13を挙げるでしょう。

    2010年に登場したこのクルマは、日産のグローバル戦略を象徴する存在でした。

    ただしその「象徴」は、称賛だけでなく、失望や戸惑いも含んでいます。

    先代が残したもの

    日産マーチ K13
    画像:Dinkun Chen/CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

    https://kuruma-dna.com/k14

    3代目マーチ、K12型は国内外で高く評価されたモデルでした。

    丸みを帯びたデザインは欧州でも受け入れられ、日本国内では「おしゃれなコンパクト」というポジションを確立しています。追浜工場で生産される品質への信頼も厚く、マーチというブランドの価値を一段引き上げた世代だったと言えます。

    ただ、その成功の裏で日産が直面していた課題は明確でした。

    コンパクトカーは利幅が薄い。

    国内生産を続ける限り、新興国市場での価格競争力は出せない。カルロス・ゴーン体制下の日産は、この構造問題に正面から答えを出そうとしました。

    タイ生産という決断

    https://kuruma-dna.com/k12

    K13型マーチの最大の特徴は、日本向けモデルをタイで生産し逆輸入するという枠組みを採用したことです。

    日産はこの決断を「グローバルコンパクトカー戦略」の柱として位置づけました。Vプラットフォームと呼ばれる新しい車台を開発し、マーチだけでなくノートやラティオなど複数車種への展開を見据えた設計です。

    狙いは明快でした。新興国で大量に売れるクルマを、新興国で作る。そのスケールメリットで原価を下げ、先進国市場にも供給する。理屈としては合理的です。実際、タイ工場の品質管理には相当な投資が行われたと言われています。

    しかし、日本のユーザーにとって「マーチが日本製ではなくなった」というインパクトは大きかった。これは感情の問題だけではありません。実際に乗ったときの質感が、先代K12と比較して後退したと感じる人が少なくなかったのです。

    エンジンと走りの変化

    https://kuruma-dna.com/k11

    パワートレインも一新されました。

    K13に搭載されたのはHR12DE型、1.2リッター3気筒エンジンです。先代のCR14DE(1.4L 4気筒)やCR12DE(1.2L 4気筒)から、気筒数がひとつ減っています。これはコストと燃費の両面を狙った判断でした。

    3気筒エンジンは今でこそ珍しくありませんが、2010年当時の日本市場では「格落ち」と受け取られやすい選択でした。

    実際、振動や音の面で4気筒に劣る部分はあり、特にアイドリング時の微振動を気にする声は多く聞かれました。最高出力79PS、最大トルク106N・mというスペック自体は日常使いに不足ないものの、数字以上に「回して楽しい」感覚が薄れたという評価が目立ちます。

    トランスミッションは副変速機付きCVTを採用。

    燃費性能ではJC08モードで最大26.0km/L(後に改良で更に向上)を達成しており、この点は当時のライバルであるフィットやヴィッツと十分に戦える数値でした。

    ただ、CVT特有のラバーバンドフィールが走りの印象をさらに薄味にしていた面は否めません。

    デザインと室内の評価

    https://kuruma-dna.com/k10

    エクステリアデザインは、先代の個性的な丸さから一転して、ややおとなしい造形になりました。グローバル展開を前提にしたデザインは、どの市場でも受け入れられる反面、どの市場でも強く刺さらないという両刃の剣です。日本市場では「没個性」と言われることもありました。

    インテリアの質感については、率直に言って厳しい評価が多かった部分です。ダッシュボードやドアトリムの樹脂パーツは硬質で、触ったときの感触が先代より明らかにコストダウンを感じさせるものでした。「100万円を切る価格設定」を実現するためのトレードオフだったとはいえ、K12の質感を知るユーザーには落差が大きかったのです。

    一方で、室内空間そのものは先代より広くなっています。ホイールベースの延長により後席の足元にはゆとりが生まれ、ラゲッジスペースも実用的な容量を確保しました。「道具としての実力」は確実に上がっていた。ただ、それが評価に直結しなかったのは、コンパクトカーに求められる価値が「合理性」だけではなかったことを示しています。

    市場での現実

    https://kuruma-dna.com/z34

    K13マーチの国内販売は、発売直後こそ月販1万台を超える好調なスタートを切りました。価格の安さは確かに武器でした。エントリーグレードで100万円を切る設定は、当時の登録車としては破格です。

    しかし、販売は徐々に失速します。最大の要因は、同じ日産のノート(E12型、2012年登場)に顧客を奪われたことでしょう。e-POWER登場前のノートですら、マーチより一回り大きく、質感も上で、価格差はそこまで大きくなかった。マーチを選ぶ積極的な理由が薄れていったのです。

    さらに、軽自動車の高性能化・高品質化も逆風でした。N-BOXやタントといった軽スーパーハイトワゴンが室内空間で圧倒し、デイズのような日産自身の軽自動車も商品力を高めていく。「安いコンパクト」というポジションは、上からも下からも挟撃される形になりました。

    グローバルでは事情が異なります。新興国市場ではマイクラ(マーチの海外名)として堅調に販売され、日産の戦略自体が失敗だったわけではありません。ただ、日本市場に限って言えば、K13は「日本のユーザーが求めるもの」と「グローバル最適化」のギャップを露呈したモデルでした。

    長すぎたモデルライフ

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    K13マーチは2010年から2022年まで、実に12年間販売されました。途中でマイナーチェンジや特別仕様車の投入はあったものの、基本設計は大きく変わっていません。これは日産がマーチの後継モデルを日本市場に投入しなかったことを意味します。

    欧州では2016年に5代目マイクラ(K14型)が登場し、ルノー・クリオのプラットフォームを使った意欲的なモデルに生まれ変わりました。しかし、このK14は日本には導入されませんでした。日産の日本市場戦略の中で、マーチというセグメントの優先度が下がっていたことは明白です。

    結果として、K13は晩年になるほど商品力の陳腐化が進み、販売台数は月に数百台レベルまで落ち込みました。2022年の販売終了をもって、日本市場における「マーチ」という名前の歴史は、少なくとも一度途切れることになります。

    K13が問いかけたもの

    K13マーチを「失敗作」と切り捨てるのは簡単です。しかし、このクルマが突きつけた問いは、日産だけでなく日本の自動車産業全体にとって本質的なものでした。コンパクトカーをグローバルで最適化したとき、日本市場の期待値とどう折り合いをつけるのか。コストを下げることと、ブランドの信頼を維持することは両立するのか。

    初代K10から続いてきたマーチの系譜は、「小さくても楽しい、小さくても上質」という価値観を積み重ねてきました。K13はその蓄積を、グローバル戦略という大きな力学の中で手放さざるを得なかったモデルだったと言えます。

    それでも、K13が担った役割を無視することはできません。このクルマがなければ、日産のグローバルコンパクト戦略は成立しなかった。新興国での販売網拡大も、Vプラットフォームの知見蓄積も、このモデルが起点です。

    日本市場では報われなかったけれど、日産という企業の生存戦略の中では確かに意味があった。

    K13マーチは、そういうクルマです。

  • マーチ – K11【日産が「世界で通用する小型車」を本気で作った結果】

    マーチ – K11【日産が「世界で通用する小型車」を本気で作った結果】

    初代マーチ(K10)は、1982年に「日産が作るリッターカー」として登場し、国内市場で確かな存在感を築きました。

    ただ、あのクルマはあくまで国内向けの実用小型車という色合いが強かった。

    では2代目のK11はどうだったのか。結論から言えば、これは日産が「世界で売れるコンパクトカー」を本気で作りにいった一台です。

    そしてその狙いは、かなりの精度で当たりました。

    1992年という時代の空気

    https://kuruma-dna.com/k10

    K11が登場した1992年は、日本の自動車メーカーにとって微妙な転換点でした。

    バブル経済の余韻はまだ残っていたものの、市場はすでに冷え始めている。

    一方で欧州市場では、コンパクトカーの競争が激化していました。

    フィアット・プント、ルノー・クリオ(日本名ルーテシア)、プジョー106といった強力なライバルが次々と世代交代を進めていた時期です。

    日産はこの2代目マーチを、国内だけでなく欧州でも戦える「グローバルコンパクト」として開発しています。実際、欧州では「マイクラ」の名前で販売され、1993年には欧州カー・オブ・ザ・イヤーを受賞しました。

    日本車としてこの賞を獲ったのは、当時まだ非常に珍しいことでした。

    なぜK11はああいう形になったのか

    https://kuruma-dna.com/k12

    K11を語るうえで外せないのが、あの丸みを帯びたデザインです。初代K10の角張ったボディとはまるで別物で、当時の日本車の流れからしてもかなり大胆な造形でした。デザインを手がけたのは日産社内チームですが、明確に欧州市場のテイストを意識しています。

    1990年代初頭は、自動車デザインが全体的に「丸く」なっていく過渡期でした。フォード・Ka、フィアット・プント、ルノー・トゥインゴなど、欧州のコンパクトカーが次々と曲面的なデザインに移行していた時代です。K11のデザインはその潮流に乗りつつも、どこか日本的なおっとりした愛嬌がある。攻撃的ではなく、親しみやすい。この塩梅が、国内でも欧州でも受け入れられた理由のひとつです。

    ボディサイズは全長3,720mm程度。先代より少し大きくなりましたが、それでも十分にコンパクトです。3ドアと5ドアが用意され、欧州では3ドアの人気が高く、日本では5ドアが主流でした。市場ごとにニーズが違うことを、日産はちゃんと織り込んでいたわけです。

    CGエンジンとCVTという二本柱

    https://kuruma-dna.com/k13

    K11の技術的な核は、新開発のCGエンジンとCVT(無段変速機)の本格採用の2点に集約されます。

    CGエンジンは、先代のMA型に代わって搭載された新世代のユニットです。CG10DE(1.0L)とCG13DE(1.3L)の2本立てで、いずれもDOHC16バルブ。1リッタークラスのコンパクトカーにDOHC16バルブを標準で積むというのは、当時としてはかなり意欲的な選択でした。実用域のトルクを重視しつつ、回せばそれなりに気持ちよく伸びる。このバランスが、日常使いのクルマとして非常に使いやすかった。

    そしてもうひとつの柱がCVTです。K11は日産のCVT普及戦略の先兵ともいえる存在で、エクストロイドCVTではなく、ジヤトコ製のスチールベルト式CVTを搭載しました。当時のCVTはまだ「変わり種のトランスミッション」という認識が強く、信頼性に疑問を持つ声もありました。しかし日産はK11でこれを大量に市場に送り出し、CVTという技術を「普通のもの」にしていく足がかりを作ったのです。

    もちろん4速ATや5速MTも選べましたが、CVTの滑らかな加速感はK11の穏やかなキャラクターとよく合っていました。結果的に、CVTの搭載比率はかなり高かったと言われています。

    「足がいい」という評価の裏側

    https://kuruma-dna.com/k14

    K11はコンパクトカーとしては足回りの評価が高い一台でした。フロントがストラット、リアがトーションビームという構成自体はこのクラスの定番ですが、セッティングが丁寧だったのです。

    欧州市場で売ることを前提にしているため、アウトバーンでの高速巡航やヨーロッパの石畳・荒れた路面を想定したチューニングが施されています。日本国内だけを見ていたら、ここまで足回りに手間をかける必要はなかったかもしれません。つまり「欧州を見据えた開発」が、結果的に国内ユーザーにとっても乗り味の良さとして返ってきたわけです。

    ステアリングのフィールも、このクラスとしては正確で、軽すぎず重すぎない。街乗りがメインのクルマでありながら、ワインディングに持ち込んでもそれなりに楽しめる。この「ちゃんと走る感」が、K11を単なる買い物グルマ以上の存在にしていました。

    バリエーション展開と長寿の理由

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    K11は1992年の登場から2002年のK12へのモデルチェンジまで、約10年間にわたって販売されました。コンパクトカーとしてはかなりの長寿モデルです。この間、1997年にマイナーチェンジを受けてフロントフェイスが変更されていますが、基本骨格は変わっていません。

    長寿の理由はいくつかあります。ひとつは、基本設計の完成度が高く、大幅な改良を必要としなかったこと。もうひとつは、1990年代後半の日産の経営危機です。新車開発に十分な投資ができない状況で、K11は「まだ戦えるクルマ」として延命されました。皮肉な話ですが、設計の良さが経営難の時代を支えた側面があるのです。

    バリエーションも豊富でした。ベーシックなグレードから、ボレロやコレットといった内外装を差別化した特別仕様車、さらにはオーテックジャパンが手がけたマーチBOXやマーチカブリオレといった派生モデルまで。ひとつのプラットフォームからこれだけ多彩な展開を生み出せたのは、基本設計に余裕があった証拠です。

    欧州カー・オブ・ザ・イヤーが意味したこと

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    1993年の欧州カー・オブ・ザ・イヤー受賞は、K11にとって、そして日産にとって大きな出来事でした。この賞は欧州の自動車ジャーナリストによる投票で決まるもので、地元メーカーが圧倒的に有利な土俵です。そこで日本のコンパクトカーが選ばれたというのは、単に「いいクルマだった」では説明しきれません。

    当時の審査員のコメントを見ると、パッケージングの合理性、走りの質感、そして価格とのバランスが高く評価されています。要するに、「安いから仕方ない」という妥協が少なかった。欧州のユーザーが日常的に使うクルマとして、真正面から勝負できるレベルにあったということです。

    この受賞は、日産が欧州で「安くて壊れにくい日本車」から「ちゃんと選ばれるクルマを作るメーカー」へと認識を変えていくきっかけのひとつになりました。K11の功績は、単なる販売台数だけでは測れないものがあります。

    K11が残したもの

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    後継のK12マーチは、ルノーとのアライアンスを経て開発されたクルマで、設計思想もプラットフォームもK11とは大きく異なります。ただ、「小さくても走りの質を落とさない」「グローバルで通用するコンパクトカーを作る」という方向性は、K11が敷いたレールの上にあると言っていいでしょう。

    K11は、日産が経営的に最も苦しかった時代を支えた実用車であり、同時に欧州市場で日本車の評価を一段引き上げた戦略車でもありました。派手さはありません。スポーツカーのような語られ方もされにくい。でも、自動車メーカーが「世界で通用する小さなクルマ」を本気で作るとどうなるか、その答えがこのクルマには詰まっています。

    丸くて小さくて、どこか愛嬌のあるあのシルエット。見た目の柔らかさとは裏腹に、K11の中身はかなり芯の通ったクルマでした。

  • マーチ – K12【「かわいい」を設計思想にした日産の転換点】

    マーチ – K12【「かわいい」を設計思想にした日産の転換点】

    「かわいい車」という言葉は、褒めているようで何も言っていない——ふつうはそうです。でも3代目マーチ、K12型に限っては、その「かわいい」がちゃんと設計思想として成立していました。しかもその裏側には、日産という会社がまるごと変わろうとしていた時代の力学が詰まっています。

    ゴーン改革の「作品」

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    K12型マーチが登場したのは2002年。カルロス・ゴーンが日産の経営を立て直し始めてから約3年後のことです。このタイミングが重要で、K12はルノーとのアライアンスによって生まれたBプラットフォームを初めて採用した日産車でした。つまり、提携の成果が最初に形になった量産車のひとつです。

    先代のK11型マーチは1992年登場で、10年選手。途中でマイナーチェンジを重ねながらよく売れていましたが、プラットフォームもエンジンも設計が古くなっていました。日産がリバイバルプランで工場閉鎖やプラットフォーム統合を進めるなか、マーチは「次世代の小型車はどうあるべきか」を問い直す格好のテーマだったわけです。

    ルノーのクリオ(欧州名ルーテシア)と基本骨格を共有しつつ、日本市場向けに独自のボディとキャラクターを与える。この方程式が、K12の出発点でした。

    丸さの理由

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    K12のデザインを語るなら、あの丸っこいフォルムを避けて通れません。当時のチーフデザイナーだったフランス人デザイナー、ステファン・シュヴォレが手がけたエクステリアは、先代K11の柔らかさを受け継ぎつつ、もっと大胆に「球体」に寄せたものでした。

    ただ、これは単なるスタイリングの好みではありません。当時の日産デザイン部門は、ゴーン体制のもとで「ブランドアイデンティティの再構築」を進めていました。フェアレディZの復活やスカイラインの刷新と同じ流れのなかで、マーチには「親しみやすさ」と「存在感」の両立が求められていたのです。

    結果として生まれたのが、どこから見てもマーチだとわかる、あのアイコニックな顔つきです。丸いヘッドライト、短いオーバーハング、ぷっくりとしたフェンダー。街中で埋もれない個性を持ちながら、威圧感はゼロ。この塩梅は、計算されたものでした。

    中身はかなり真面目に作ってある

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    見た目の印象が強いK12ですが、メカニズムも世代交代にふさわしい内容です。エンジンは新開発のCRシリーズ。1.0LのCR10DEと1.2LのCR12DE、さらに1.4LのCR14DEが用意されました。いずれも全アルミブロックの直列4気筒で、先代のCGエンジンから大幅に近代化されています。

    特に注目すべきは、CVT(無段変速機)との組み合わせです。日産はこの世代から小型車にもCVTを本格的に展開し始めており、K12マーチはその先兵でした。燃費と街乗りの扱いやすさを両立させるうえで、CVTの採用は合理的な選択です。

    足回りはフロントがストラット、リアがトーションビーム。コンパクトカーとしてはごく標準的な構成ですが、欧州市場でも販売されることを前提にチューニングされていたため、日本の軽自動車的なフワフワ感とは一線を画していました。高速道路での直進安定性や、コーナーでの落ち着きは、同クラスのなかでは上質な部類です。

    売れ方と、その意味

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    K12マーチは、発売直後から好調に売れました。2002年度のカー・オブ・ザ・イヤーのノミネートにも名を連ね、日本国内だけでなく欧州やアジアでも幅広く展開されています。日産にとっては、リバイバルプランの成功を象徴するモデルのひとつだったと言えます。

    ただ、K12が果たした役割はもう少し深いところにあります。それは、「日産がルノーと組んで車を作ること」が実際にうまくいくと証明した点です。プラットフォーム共有というのは、言うのは簡単ですが実行するのは難しい。設計基準の違い、品質管理の考え方の差、デザインの方向性のすり合わせ——それらを乗り越えて、ちゃんと魅力的な車が出てきた。この事実は、その後のアライアンス戦略に大きな自信を与えたはずです。

    12SRという異端児

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    K12マーチを語るうえで外せないのが、オーテックジャパンが手がけた12SRです。1.2Lエンジンをベースに専用チューニングを施し、5速マニュアルを組み合わせた、いわば「走れるマーチ」。先代K11にもオーテック版はありましたが、12SRはより本格的なスポーツコンパクトとして仕上げられていました。

    専用サスペンション、専用マフラー、レカロシートのオプション設定。見た目はほぼノーマルのまま、中身だけきっちり締め上げるというアプローチは、まさにオーテックらしいものです。生産台数は限られていましたが、コンパクトカーで走りを楽しみたい層には刺さりました。

    この12SRの存在は、K12というプラットフォームの懐の深さを示してもいます。かわいいだけじゃない、ちゃんと走りの素性もある。そういう基礎体力が、ルノーとの共同開発で得られた設計の余裕から来ていたのは間違いありません。

    K12が残したもの

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    K12マーチは2010年まで販売され、後継のK13型にバトンを渡します。ただ、K13はタイ生産に切り替わり、内外装の質感やキャラクターの方向性が大きく変わりました。結果として「K12のほうがよかった」という声は、今でも根強く残っています。

    振り返ると、K12は日産にとって単なるコンパクトカーではありませんでした。ルノーとの提携がもたらす可能性を最初に形にし、日本市場に「グローバル設計のコンパクトカー」という新しい基準を持ち込んだモデルです。

    デザインで個性を出し、プラットフォームで効率を取り、走りの質で欧州基準に近づく。この三つを同時にやってのけたことが、K12マーチの本当の価値です。「かわいい」の裏側に、会社の命運をかけた構造改革があった。そう思って見ると、あの丸い顔がちょっと違って見えてきませんか。

  • マイクラ – K14【日産が欧州で勝負し続けたグローバルコンパクトの到達点】

    マイクラ – K14【日産が欧州で勝負し続けたグローバルコンパクトの到達点】

    日産マイクラといえば、日本では「マーチ」の名前のほうが馴染み深いかもしれません。

    ただ、2016年に登場した5代目・K14型マイクラは、日本のマーチとはまったく別の文脈で語るべきクルマです。

    なぜなら、このクルマは最初から「欧州で戦うためだけに設計されたコンパクトカー」だからです。

    マーチではなく「マイクラ」である理由

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    マイクラという名前は、日本国外での日産マーチの呼称として長く使われてきました。

    初代K10から4代目K13まで、基本的にはマーチの海外版という位置づけでした。

    ところがK14では、その関係が完全に断ち切られます。日本市場にはK13マーチがしばらく継続販売され、K14は欧州専売モデルとして投入されました。

    つまりK14は、日本のマーチの後継車ではありません。欧州Bセグメント市場、すなわちルノー・クリオやフォルクスワーゲン・ポロ、プジョー・208といった強豪がひしめく戦場に、日産が本気で送り込んだ専用兵器です。

    この割り切りが、K14型マイクラの性格をすべて決定づけています。

    CMF-Bプラットフォームという選択

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    K14の開発を語るうえで外せないのが、ルノー・日産アライアンスの存在です。このクルマはルノーと共同開発したCMF-Bプラットフォームを採用しています。CMFとは「コモン・モジュール・ファミリー」の略で、要するにエンジン、車体前部、車体後部、電装系などをモジュール化して複数車種で共有する仕組みです。

    これにより、日産は単独では到底ペイしないような欧州専用の小型車を、ルノーとの部品共有によってコスト的に成立させることができました。生産もフランスのルノー・フラン工場で行われています。日産のバッジがついていながら、フランスの工場でルノーのプラットフォームを使って作られる。このこと自体が、アライアンスの深化を象徴する事例でした。

    ただし、プラットフォームを共有しているからといって「中身はクリオと同じ」というわけではありません。サスペンションのチューニング、ボディ剛性の設定、ステアリングフィールなどは日産側が独自に煮詰めています。欧州の自動車メディアからは「クリオより運転が楽しい」という評価が出ることもあり、日産のシャシー開発陣がアライアンスの枠内でどこまで独自性を出せるかに腐心した跡が見えます。

    デザインの転換点

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    K14のデザインは、2015年のジュネーブモーターショーで公開されたコンセプトカー「Sway」に端を発しています。Swayが示した方向性は、従来のマイクラ/マーチが持っていた丸っこくて愛嬌のあるイメージとは明確に異なるものでした。シャープなVモーショングリル、切れ長のヘッドライト、フローティングルーフ。要するに「かわいい」から「鋭い」への転換です。

    この方向転換には理由があります。K13型マーチ/マイクラは、欧州市場で販売が低迷していました。タイ生産による低コスト戦略を採ったK13は、価格競争力はあったものの、質感やデザインの面で欧州の競合に見劣りするという評価が定着してしまっていたのです。

    K14では、その反省を踏まえて内外装の質感を大幅に引き上げています。インテリアにはソフトタッチ素材が増え、ボディパネルの合わせ精度も向上しました。日産としては「安いから買う」ではなく「欲しいから買う」クルマにしたかった。デザインの刷新は、その意思表明でもあったわけです。

    パワートレインと走りの狙い

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    エンジンラインナップは欧州市場の嗜好を反映したものでした。発売当初のメインユニットは0.9リッター直3ターボ(IG-T 90)で、これはルノー由来のエンジンです。最高出力90馬力と聞くと控えめに感じるかもしれませんが、車両重量が約1,000〜1,100kg程度に収まっているため、街中での動力性能としては十分に実用的でした。

    後に追加された1.0リッター直3ターボ(IG-T 100)は、日産が新たに開発したユニットで、こちらは100馬力を発生します。低回転域のトルクが厚くなり、日常域での扱いやすさが一段上がりました。欧州では5速MTが標準で、CVTではなくトルコン式のXトロニックATも選べるという構成です。日本市場向けのマーチがCVT一択だったことを考えると、ここにも「欧州専用」の色が濃く出ています。

    足まわりはフロントがストラット、リアがトーションビームという形式で、このクラスとしてはオーソドックスです。ただ、欧州仕様らしくダンパーのセッティングはやや硬めで、高速巡航時の安定感を重視した味付けになっています。日本の軽自動車やコンパクトカーに慣れた人が乗ると「思ったより硬い」と感じるかもしれませんが、これはアウトバーンやオートルートを日常的に走る欧州ユーザーにとっては当然の要件です。

    日本に来なかったことの意味

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    K14マイクラが日本で発売されなかったことは、当時それなりに話題になりました。出来のいいクルマなのに、なぜ日本に持ってこないのか。その理由はいくつか考えられます。

    まず、日本のコンパクトカー市場がすでに軽自動車とハイブリッド車に支配されていたこと。1.0リッターターボのガソリン車を日本で売ろうとしても、ノートe-POWERやフィットハイブリッドと正面からぶつかることになります。燃費性能で勝ち目がないうえ、軽自動車の税制優遇という壁もある。商品力の問題ではなく、市場構造の問題です。

    もうひとつは、フランス生産というコスト構造。日本に輸入するとなると関税や輸送コストが上乗せされ、価格競争力がさらに落ちます。日産としては、限られたリソースを欧州での販売強化に集中させるほうが合理的だったのでしょう。

    結果として、K14マイクラは「日産が日本市場を見ずに作ったコンパクトカー」という、ある意味で珍しい存在になりました。これは日産の日本市場軽視と批判されることもありましたが、グローバル戦略としては理にかなった判断でもあります。すべての市場に同じクルマを投入する時代は、とっくに終わっていたのです。

    欧州Bセグメントの中での立ち位置

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    K14マイクラの欧州での評価は、おおむね好意的でした。特にデザインと走りの質感については、K13時代からの大幅な進歩が認められています。英国の自動車メディアは「ようやくポロやクリオと同じ土俵に立てるマイクラが来た」と評しました。

    一方で、販売台数という面では苦戦が続きました。欧州Bセグメントは競争が極めて激しく、クリオ、208、ポロ、フィエスタといった定番モデルがそれぞれ数十年の顧客基盤を持っています。K14がどれほど良くなっても、ブランドの信頼貯金という点では追いつけない部分がありました。

    さらに2020年代に入ると、欧州市場全体がBEV(バッテリー電気自動車)へと急速にシフトし始めます。日産は欧州でのコンパクトカー戦略をEV方向に再編する必要に迫られ、K14マイクラの後継は内燃機関モデルではなく、ルノーとの協業による電動モデルへと移行する方針が示されています。

    K14が残したもの

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    K14マイクラは、日産がルノーとのアライアンスをフル活用して欧州市場に食い込もうとした、その試行錯誤の結晶のようなクルマです。プラットフォーム共有によるコスト合理化、欧州専用設計による商品力の最大化、そしてデザインと質感の大幅な引き上げ。やるべきことはほぼすべてやった、と言っていいでしょう。

    それでも欧州市場での存在感を決定的なものにできなかったのは、クルマの出来とは別の次元の話です。ブランド力、ディーラー網、顧客のロイヤリティ。そうした長年の蓄積が効く市場で、短期間に逆転するのは容易ではありません。

    ただ、K14が証明したことがひとつあります。

    それは、日産がアライアンスの力を借りれば、欧州の一線級と互角に渡り合えるコンパクトカーを作れるという事実です。この知見と開発経験は、次の世代の電動コンパクトカーに確実に引き継がれていくはずです。

    マイクラという名前が今後も残るかどうかはわかりませんが、K14が切り拓いた道筋は、日産の欧州戦略の中にしっかりと刻まれています。