ブログ

  • C63 / C63S – W205【V8最後の咆哮を放つAMGの凶器】

    C63 / C63S – W205【V8最後の咆哮を放つAMGの凶器】

    AMG C63という名前を聞いて、多くの人がまず思い浮かべるのはV8の咆哮でしょう。

    ただ、そのV8が「最も完成されていた」のはいつかと聞かれたら、答えはおそらくこのW205世代です。先代W204の6.2リッター自然吸気が持っていた荒々しさとは違う方向に進化し、ツインターボ化によって速さと扱いやすさを同時に手に入れた。

    そしてこの世代が、C63にV8が載る最後の世代になりました。

    なぜV8は変わらなければならなかったのか

    W204世代のC63が搭載していたM156型6.2リッターV8は、AMGファンにとって神話的なエンジンです。高回転まで一気に吹け上がる自然吸気の快感は、この排気量でしか出せないものでした。ただ、2010年代に入ると状況は一変します。欧州の排ガス規制は年々厳しくなり、CO2排出量ベースの課税も強化されていきました。

    メルセデスAMGとしても、大排気量NAをそのまま次世代に持ち込む選択肢は現実的ではなかった。かといって、C63のアイデンティティであるV8を捨てるわけにもいかない。ここで選ばれたのが、M177型4.0リッターV8ツインターボという回答でした。排気量を大幅に下げつつ、ターボで出力を確保する。いわゆるダウンサイジングターボの考え方ですが、AMGはそれをV8で実行したわけです。

    このM177型は、AMG GTにも搭載されるユニットをベースにしています。つまりスーパースポーツ用のエンジンを、Cクラスという日常的なボディに詰め込んだ。この判断自体が、W205世代C63の性格を決定づけています。

    C63とC63S、その差は数字以上に大きい

    W205世代では、C63に加えてC63Sという上位グレードが新設されました。C63が476馬力、C63Sが510馬力。数字だけ見れば34馬力差ですが、実際の違いはもう少し根が深いです。

    C63Sには電子制御リミテッドスリップデフが標準装備され、ダイナミックエンジンマウントも採用されています。つまり、パワーだけでなく「そのパワーをどう路面に伝えるか」というところまで手が入っている。サーキットでの限界域はもちろん、ワインディングでのコントロール性にも明確な差が出ます。

    逆に言えば、C63(無印)は日常使いの快適性をより重視した仕立てです。機械式LSDと組み合わされたC63は、やや穏やかな味付けで、街乗りメインのユーザーにとってはこちらのほうがバランスが良いという声もありました。AMGが「同じV8で二つの世界観を提示した」のは、この世代の巧みな商品企画です。

    ホットVとハンドクラフト

    M177型エンジンの設計で特筆すべきは、ホットインサイドVと呼ばれるレイアウトです。通常、V型エンジンのターボチャージャーはバンクの外側に配置されますが、AMGはこれをV バンクの内側に収めました。吸気は外側から、排気は内側へ。これによってターボへの排気経路が短くなり、レスポンスが改善されています。

    加えて、エンジンの冷却効率も上がる。ターボ本体がエンジンの谷間に収まることで、車両全体のパッケージングにも余裕が生まれます。この構造はAMG GTで先に実用化されたものですが、C63にも惜しみなく投入されました。

    もうひとつ、AMGが誇る「One Man, One Engine」の哲学もこの世代で健在です。一人のマイスターが一基のエンジンを組み上げ、完成したエンジンにはそのマイスターのサインプレートが貼られる。量産車でこれをやっているメーカーは、世界的に見てもほぼAMGだけです。この手法が性能に直結するかどうかは議論がありますが、少なくとも品質管理の厳格さと、ブランドとしての矜持を示す象徴であることは間違いありません。

    シャシーが追いついた世代

    W205世代のCクラス自体が、先代から大きく進化したプラットフォームを持っていました。アルミニウムの使用比率が大幅に増え、ボディ剛性を上げながら軽量化を達成しています。この素性の良さが、C63のシャシー性能に直接効いています。

    先代W204のC63は、正直に言えばシャシーがエンジンに振り回されている感がありました。6.2リッターNAの暴力的なパワーに対して、足回りやボディがやや力不足だった。それが「荒々しくて楽しい」という評価にもつながっていたのですが、洗練されていたかと言われると微妙です。

    W205世代では、その関係が逆転しています。シャシーの懐が深くなったことで、V8ツインターボのパワーを余裕を持って受け止められるようになった。結果として、速さだけでなく「安心して速い」という領域に到達しています。AMGライドコントロールによる可変ダンパーも、コンフォートからスポーツ+まで幅広いレンジをカバーしており、日常の乗り心地とサーキット走行を一台でこなせる懐の広さを実現しました。

    後期型で何が変わったか

    2018年のマイナーチェンジで、W205 C63は後期型へ移行します。外観ではパナメリカーナグリルが採用され、見た目の迫力が増しました。ただ、変更の本質はそこではありません。

    最も大きな変化は、電子制御まわりの刷新です。AMGダイナミクスと呼ばれる統合制御システムが導入され、ESP(横滑り防止装置)の介入度合いをより細かく調整できるようになりました。9速ATのシフトロジックも改良され、特にマニュアルモードでのレスポンスが向上しています。

    エンジン自体のスペックは変わっていませんが、制御の洗練によって「同じエンジンなのに乗り味が違う」という印象を与えるアップデートでした。後期型を選ぶ理由は、まさにこの熟成にあります。

    BMW M3という永遠のライバル

    C63を語るうえで、BMW M3(F80)との比較は避けて通れません。同時期のF80 M3は直列6気筒ツインターボという選択をしました。軽量で回頭性に優れるM3に対して、C63はV8の圧倒的なトルクとサウンドで勝負する。アプローチがまったく違います。

    サーキットのラップタイムでは、軽さとバランスで勝るM3が有利な場面もありました。一方、高速域でのスタビリティや加速の力強さではC63、とりわけC63Sに分があった。どちらが優れているかというよりも、「何を重視するか」で選ぶ車が変わる、という関係です。

    ただ、一つだけ明確にC63が勝っていた領域があります。サウンドです。V8のバブリングサウンド、アクセルオフ時のパチパチという破裂音。これは直6では絶対に出せない音で、C63を選ぶ理由としてこれだけで十分だという人も少なくありませんでした。

    V8の終焉が意味すること

    2023年に登場した後継のW206世代C63Sは、2.0リッター直列4気筒ターボにプラグインハイブリッドを組み合わせた仕様に変わりました。システム出力は680馬力と数字だけ見れば圧倒的ですが、V8は消えました。これは時代の要請であり、メルセデスAMGの判断としては合理的です。

    ただ、この変化があったからこそ、W205世代C63/C63Sの価値は逆説的に高まっています。「V8が載る最後のC63」という事実は、単なるノスタルジーではなく、もう二度と作られないという物理的な希少性です。

    中古市場でもW205 C63、特にC63Sの価格は高止まりしています。走行距離の少ない後期型は、新車価格に迫る個体すら存在する。これは投機的な動きというよりも、「この種のクルマはもう出てこない」という認識が市場に浸透した結果でしょう。

    W205世代のC63/C63Sは、AMGが「V8をCクラスに載せる」という贅沢を、最も高い完成度で実現した世代です。荒削りだった先代の魅力を否定するつもりはありませんが、速さ・快適性・サウンド・日常性のすべてを高い次元でまとめたのは、間違いなくこの世代でした。V8最後の咆哮は、同時に最も洗練された咆哮だった。それがこの車の存在意義です。

  • C63 AMG – W204【NAの咆哮を最後に刻んだ、AMGの転換点】

    C63 AMG – W204【NAの咆哮を最後に刻んだ、AMGの転換点】

    Cクラスに6.2リッターのV8を載せる。冷静に考えれば、正気の沙汰ではありません。けれどメルセデス・ベンツのAMG部門は、2007年にそれをやってのけました。W204型C63 AMGは、コンパクトセダンの皮をかぶったモンスターであると同時に、AMGが自然吸気エンジンに別れを告げる直前に生まれた、ある意味で最も純粋なモデルでもあります。

    Cクラスに「63」が必要だった理由

    C63 AMGの前身にあたるのは、W203型に設定されたC55 AMGです。5.4リッターV8のM113エンジンを搭載し、367馬力を発揮したこのモデルは、BMWのE46型M3に対するメルセデスの回答でした。ただ、C55はあくまで「AMGチューンのCクラス」という印象が強く、M3のような専用設計のスポーツカーとは少し毛色が違っていました。

    W204世代のCクラスが登場するにあたり、AMGは明確に方針を変えます。新型には、AMGが独自に開発したM156型6.2リッターV8を搭載する。これは量産車としては異例の大排気量自然吸気ユニットで、「One Man, One Engine」──ひとりの職人がひとつのエンジンを組み上げるというAMGの哲学を体現したものでした。

    なぜ6.2リッターだったのか。当時のAMGは、スーパーチャージャー付き5.4リッターV8(M113K)を上位モデルに使っていましたが、レスポンスの鋭さと高回転の伸びを重視する新世代のAMGエンジンとして、過給に頼らない大排気量NAを選んだのです。型式名は「63」ですが、実際の排気量は6,208cc。名前の数字はかつてのメルセデスの名機「6.3」へのオマージュとされています。

    457馬力のNAが生む、理屈を超えた快感

    M156型エンジンのスペックは、最高出力457馬力、最大トルク600Nm。これをFRレイアウトのCクラスに積むわけですから、当然ながら速いです。0-100km/h加速は4.5秒。ただ、C63 AMGの本質はタイムではありません。

    このエンジンの真価は、スロットルを開けた瞬間のレスポンスと、7,200rpmまで一気に駆け上がる回転フィールにあります。ターボラグという概念が存在しない。アクセルペダルと排気音が直結しているかのような感覚は、大排気量NAでしか味わえないものです。

    サウンドも特筆すべき要素でした。V8特有の低く太い咆哮は、街中でもサーキットでも圧倒的な存在感を放ちます。後継のW205型C63がツインターボV8に移行したとき、多くのファンが「音が違う」と嘆いたのは、このNAサウンドがいかに強烈だったかの証明です。

    足回りとボディの仕立て

    エンジンばかりが語られがちですが、W204型C63 AMGのシャシーもかなり手が入っています。フロントサスペンションは専用ジオメトリーで設計され、リアにはマルチリンクを採用。スプリングレート、ダンパー、スタビライザーはすべてAMG専用品です。

    ただし、このモデルが「完璧なスポーツセダン」だったかというと、少し留保が必要です。車両重量は約1,730kg。6.2リッターV8をフロントに抱えている以上、ノーズヘビーは避けられません。特に初期モデルはリアの接地感に対して批判的な声もありました。

    この点はメルセデスも認識していたようで、2011年のマイナーチェンジ(通称「フェイスリフト」)では、AMGスポーツサスペンションの再チューニングに加え、リミテッドスリップデフの改良やトルクベクタリング的な制御が導入されました。後期型は明らかにバランスが良くなっており、中古市場でも後期型の評価が高いのはこのためです。

    ブラックシリーズという「やりすぎ」の美学

    W204型C63 AMGを語るうえで、ブラックシリーズの存在は外せません。2012年に登場したC63 AMG Coupé Black Seriesは、M156エンジンを510馬力まで引き上げ、ワイドボディ化、カーボンパーツの多用、リアシートの撤去といった徹底的な軽量化が施されたモデルです。

    車両重量は約1,635kgまで削られ、0-100km/h加速は4.2秒。AMGの市販車としては当時最も過激なCクラスベースの車両でした。ニュルブルクリンクでのタイムアタックでも好記録を残しており、単なる限定モデルではなく、AMGの技術的なショーケースとしての役割を果たしています。

    ブラックシリーズは、AMGが「やりすぎ」を公式に肯定した車です。コンパクトセダンの派生モデルがここまで振り切れるという事実そのものが、W204世代のC63 AMGがどれほどポテンシャルを持った素材だったかを物語っています。

    BMW M3との終わらない対話

    C63 AMGの競合は、言うまでもなくBMW M3です。W204世代のC63が戦った相手は、E90/E92型M3。あちらは4リッターV8のS65エンジンで、最高出力420馬力、レッドゾーンは8,300rpm。高回転型NAという点では共通していますが、アプローチはまるで違いました。

    M3は軽さと回転フィール、シャシーバランスで勝負する「ドライバーズカー」。対するC63は、圧倒的なトルクとサウンドで力技で押し切る「パワーカー」。どちらが優れているかは好みの問題ですが、この二台が同時代に存在したことは、スポーツセダン史にとって幸運だったと言えます。

    興味深いのは、両者ともに次世代でターボ化されたことです。M3はS55型直6ツインターボへ、C63はM177型V8ツインターボへ。大排気量NAのスポーツセダンという選択肢は、環境規制の波の中で同時に消えていきました。

    NAの終わり、AMGの転換点

    W204型C63 AMGの生産は2014年に終了し、後継のW205型C63にバトンが渡されます。新型は4リッターV8ツインターボのM177エンジンを搭載し、出力は476馬力(C63 Sは510馬力)に向上。性能面では確実に進化しました。

    しかし、多くのAMGファンにとってW204型C63は特別な存在であり続けています。理由は明確です。AMGがCクラスにNAのV8を載せたのは、このモデルが最初で最後だからです。しかもそのエンジンは、6.2リッターという現代の基準では考えられない排気量でした。

    さらに言えば、W205以降のAMGは電子制御の介入が増え、4MATIC(四輪駆動)の採用も進みました。純粋なFR、大排気量NA、機械式LSD。W204型C63 AMGが持っていたこれらの要素は、今のAMGからは失われたものばかりです。

    W204型C63 AMGは、AMGの歴史における転換点に立つ車です。それは「最後のNA」という肩書きだけの話ではありません。エンジニアが排気量と回転数で性能を追求し、ドライバーが右足ひとつでその全てを引き出せた時代の、最も濃密な結晶です。だからこそこの車は、スペックシートの数字以上に、乗った人の記憶に残り続けるのだと思います。

  • C63S E PERFORMANCE – W206【AMGがV8を捨てた日】

    C63S E PERFORMANCE – W206【AMGがV8を捨てた日】

    AMGのC63といえば、V8だった。それはもう、ほぼ同義語と言ってよかった。ところが2022年に登場したW206世代のC63S E PERFORMANCEは、そのV8を完全に捨てています。載っているのは2.0リッター直列4気筒ターボと、リアアクスルに組み込まれた電動モーター。合計システム出力680PS。数字だけ見れば歴代最強です。ただ、この車が巻き起こした議論の本質は、馬力の多寡ではありませんでした。

    V8という「約束」が消えた衝撃

    歴代C63を振り返ると、W204では6.2LのM156型自然吸気V8、W205ではM177型4.0L V8ツインターボ。どちらもAMGが自社で手組みしたV8エンジンを心臓に据えていました。C63にとってV8は単なるパワーユニットではなく、Eクラス以上のAMGと同じ心臓を持つCクラスという、ある種の「格上げの証明書」だったわけです。

    それがW206世代で、A45 AMGと基本設計を共有するM139型の直列4気筒に置き換わった。排気量は4.0Lから2.0Lへ、気筒数は8から4へ。これは単なるダウンサイジングという言葉では片づけられません。AMGのヒエラルキーそのものを書き換える判断でした。

    なぜ4気筒になったのか

    理由は複合的ですが、最大の要因はEUの排出ガス規制です。2020年代に入り、メーカー平均CO2排出量の規制は年々厳しくなっています。大排気量V8をCセグメントの量販モデルに載せ続けることは、企業としての排出枠を圧迫する。AMGがどれほどV8を愛していても、規制の算術には勝てません。

    もうひとつは、メルセデス全体のEV・電動化戦略との整合性です。W206のCクラス自体がMRA2プラットフォームへ移行し、48Vマイルドハイブリッドや高電圧PHEVを前提とした設計になっています。AMGだけが旧来のV8レイアウトに固執すれば、プラットフォーム設計全体に無理が出る。つまりC63のパワートレイン変更は、1車種の問題ではなくブランド全体の構造転換の一部だったということです。

    AMGの開発責任者だったヨッヘン・ヘルマン氏は、発表時に「電動化はAMGのDNAを否定するものではなく、パフォーマンスの新しい表現方法だ」と語っています。この発言は額面通りに受け取れば前向きですが、裏を返せば「V8を残す選択肢はもうなかった」という現実認識の表明でもあります。

    M139lの異常な作り込み

    搭載されるエンジンはM139l。A45 AMGのM139型をベースにしつつ、専用のターボチャージャー、電動ウェイストゲート、新設計のクランクシャフトなどを投入した大幅改良版です。単体で476PSを発生しますが、これは量産2.0L 4気筒エンジンとしては世界最高出力です。リッターあたり238PS。数字だけ見れば、もはやレーシングエンジンの領域に踏み込んでいます。

    注目すべきは、電動アシスト付きターボ(eターボ)の採用です。排気タービンと吸気コンプレッサーの間に薄型の電動モーターを組み込み、排気エネルギーが立ち上がる前から強制的にコンプレッサーを回す。いわゆるターボラグをほぼ消し去る技術で、これはメルセデスAMGがF1で培った技術のフィードバックとされています。

    ただし、4気筒である以上、V8のような低回転域からのトルクの厚みや、回転上昇に伴う音の重層感は物理的に再現できません。ここを補うのが、リアアクスルに搭載された電動モーターです。

    P3ハイブリッドという選択

    C63S E PERFORMANCEのハイブリッドレイアウトは、リアアクスルに電動モーターと2速トランスミッション、そして6.1kWhの小型バッテリーを配置するP3方式です。フロントにエンジン、リアに電動モーター。この配置により、物理的な四輪駆動が成立します。AMGが「パフォーマンスハイブリッド」と呼ぶのは、燃費改善よりも動力性能の向上を主目的としているからです。

    電動モーター単体で204PS/320Nmを発生し、エンジンと合算したシステム出力は680PS、最大トルクは1,020Nm。0-100km/h加速は3.4秒。先代W205型C63S(510PS、4.0秒)を大きく凌駕しています。

    ただし、バッテリー容量は6.1kWhと小さく、EV走行距離は13km程度。これは明確に「長距離をEVで走る」ためのものではありません。加速時の瞬間的なトルク補填と、減速時のエネルギー回生、そしてリアアクスルのトルク配分制御のためのバッテリーです。ここにメルセデスAMGの割り切りが見えます。電動化はしたが、あくまで走りのための電動化であると。

    重さという代償

    この構造には、当然ながらトレードオフがあります。車両重量は約2,111kg。先代W205のC63Sが約1,740kgだったことを考えると、370kg以上の増加です。バッテリー、電動モーター、2速ギヤボックス、冷却系統。電動化のために追加されたハードウェアの重量は、どうしても積み上がります。

    2.1トンを超えるCクラスというのは、率直に言って違和感があります。Eクラスより重いCクラスのスポーツセダン。AMGはこの重量増をリアアクスルステアリングや電子制御ダンパー、トルクベクタリングで相殺しようとしていますが、物理的な重さは完全には消せません。

    実際、メディアの試乗記でも「直線の速さは圧倒的だが、ワインディングでの軽快さは先代に及ばない」という評価が少なくありません。これはAMG自身も想定していたはずで、だからこそサーキット指向のブラックシリーズではなく、「E PERFORMANCE」というネーミングを選んだのだとも読み取れます。

    サウンドと感情の問題

    もうひとつ、避けて通れないのがエキゾーストサウンドです。V8のC63は、始動時の咆哮からして特別でした。あの低く太い排気音は、C63というクルマの情緒的価値の大きな部分を占めていた。4気筒ターボになったW206では、当然ながらその音は出ません。

    AMGはアクティブエキゾーストシステムや室内のサウンドエンハンスメントで補おうとしていますが、V8の物理的な振動と音圧を電子的に再現するのは不可能です。ここは好みの問題であると同時に、ブランドのアイデンティティに関わる問題でもあります。

    ただし、冷静に考えれば、W204のM156型自然吸気V8からW205のM177型ツインターボV8に変わったときも、「音が変わった」「NAの方がよかった」という声はありました。AMGは常にパワートレインの転換期に感情的な反発を受けてきた。その意味では、今回の反応もAMGの歴史の中では既視感のある風景とも言えます。

    C63が示した「AMGの次」

    W206型C63S E PERFORMANCEは、単にC63の新型というだけではありません。AMGというブランドが、電動化時代にどうやって存在理由を維持するかという問いに対する、最初の本格的な回答です。

    V8を手放す代わりに、F1由来のeターボ技術とリアアクスル電動モーターで歴代最高の出力を実現した。四輪駆動化によって全天候性能も手に入れた。一方で、重量増とサウンドの喪失という代償も背負っています。

    この車を「V8を失った堕落」と見るか、「規制時代のパフォーマンスの再定義」と見るかは、おそらく10年後に答えが出るでしょう。ただ、ひとつ確かなのは、AMGが「何もしない」という選択肢を取らなかったということです。V8にしがみつくのではなく、新しいパワートレインで「速さ」を再構築する道を選んだ。その判断の是非はともかく、覚悟の重さだけは疑いようがありません。

    C63は、AMGにとって常に「次の時代の入口」でした。W204でNAの大排気量V8を世に問い、W205でツインターボの効率を証明し、W206で電動化との融合に踏み出した。この系譜が何を意味するのか。それは、C63の次の世代が出たときに、はっきり見えてくるはずです。

  • FTO – DE2A / DE3A【三菱が本気で仕掛けた、忘れられたFFスポーツ】

    FTO – DE2A / DE3A【三菱が本気で仕掛けた、忘れられたFFスポーツ】

    三菱のスポーツカーといえば、多くの人がランサーエボリューションを思い浮かべるでしょう。あるいはGTOかもしれません。けれど1994年、三菱はもうひとつ、かなり本気のスポーツカーを世に出しています。それがFTOです。日本カー・オブ・ザ・イヤーまで受賞しておきながら、今ではすっかり語られる機会が減ってしまった。なぜこの車は生まれ、なぜ埋もれたのか。そこには三菱というメーカーの事情と、1990年代という時代の空気が絡んでいます。

    FTOという名前の来歴

    FTOという車名には、実は前史があります。1971年に登場した初代ギャランFTOがそれです。「フレッシュ・ツーリング・オリジナル」の頭文字を取ったこの名前は、若者向けのスポーティクーペとして一時代を築きました。ただし初代FTOと1994年のFTOの間には20年以上のブランクがあり、車としての直接的な血縁関係はほとんどありません。

    つまり1994年のFTOは、名前こそ復活ですが、中身はまったくの新規開発車です。三菱がこのタイミングで「FTO」の名を引っ張り出してきたこと自体に、ある種の意思表示が読み取れます。ランエボやGTOとは違う路線で、もう一本スポーツの柱を立てたかった。そういう企画意図です。

    なぜ三菱はFFスポーツを作ったのか

    1990年代前半の三菱は、スポーツカーのラインナップがかなり偏っていました。GTOは3リッターV6ツインターボの4WDで、重量級グランドツアラー。ランエボはラリーベースの4WDセダン。どちらもハイパワー・ハイコストで、気軽に手を出せる存在ではありません。

    一方、当時の市場にはインテグラやプレリュード、セリカといったFFクーペが元気よく走り回っていました。手頃な価格で、日常使いもでき、それでいてスポーツ走行もしっかり楽しめる。このゾーンに三菱は空白を抱えていたわけです。

    FTOはまさにその穴を埋めるために企画されました。プラットフォームはギャラン系のものをベースとしつつ、ホイールベースを切り詰め、全長を抑えたコンパクトなクーペに仕立てています。駆動方式はFF。4WDに強いイメージの三菱が、あえてFFで勝負に出たところに、このプロジェクトの性格がよく表れています。

    V6エンジンという選択の意味

    FTOの最大の特徴は、トップグレードに搭載された6A12 MIVECエンジンです。2.0リッターV6のDOHC24バルブで、自然吸気ながら200馬力を発生しました。型式でいえばDE3Aがこの2.0リッターV6搭載モデルにあたります。

    MIVECは三菱の可変バルブタイミング&リフト機構で、ホンダのVTECに対する三菱なりの回答でした。低回転域ではおとなしく、高回転に入ると一気にカムが切り替わって吹け上がる。この「変身感」は当時のスポーツエンジンの醍醐味そのものです。リッターあたり100馬力という数字は、1994年の自然吸気2リッターとしてはトップクラスでした。

    一方、エントリーグレードのDE2Aには1.8リッター直4の4G93エンジンが搭載されています。こちらは125馬力と控えめですが、車両重量が1,100kg台に収まっていたため、日常の足としては十分以上の動力性能を持っていました。

    ここで注目すべきは、三菱がFFクーペにわざわざV6を載せたという判断です。直4のほうがコスト的にもレイアウト的にもシンプルなのに、あえてV6を選んだ。これはFTOをただの廉価スポーツではなく、質感のある上級FFクーペとして位置づけたかったからでしょう。V6特有の滑らかな回転フィールは、直4では出せない味です。

    INVECS-IIという飛び道具

    FTOを語るうえで外せないのが、INVECS-IIと呼ばれたスポーツモード付きATの存在です。これはドライバーの運転パターンを学習し、シフトスケジュールを自動的に最適化するファジー制御のオートマチックでした。さらにマニュアルモード付きで、ステアリングから手を離さずにシフト操作ができる。

    1994年という時点でこの機構を量産車に載せたのは、かなり先進的でした。今でこそパドルシフトやマニュアルモード付きATは珍しくありませんが、当時はATといえば「スポーツカーには不向き」という認識が根強かった時代です。FTOのINVECS-IIは、ATでもスポーツ走行を楽しめるという提案を、かなり早い段階で市場に投げかけていたことになります。

    もちろん5速MTも設定されており、走りを突き詰めたいユーザーはそちらを選びました。ただ、FTOの販売台数においてAT比率が高かったのは、INVECS-IIの出来が良かったことの裏返しでもあります。

    カー・オブ・ザ・イヤー、そして静かな退場

    FTOは1994-1995年の日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞しています。三菱車としては初の受賞であり、しかもスポーツクーペがこの賞を取ること自体が珍しい。審査員が評価したのは、V6 MIVECの動力性能、INVECS-IIの先進性、そしてFFクーペとしてのトータルバランスでした。

    デザインも当時としてはかなり評価が高かった。丸みを帯びたボディラインは、角張ったデザインが主流だった三菱車の中では異質で、欧州的な色気がありました。実際、イギリスなど海外市場でも一定の人気を得ています。

    しかし、FTOの商業的な寿命は長くありませんでした。1990年代後半に入ると、クーペ市場そのものが急速に縮小していきます。ミニバンやSUVへの需要シフトが加速し、2ドアクーペは「実用性がない」と敬遠されるようになった。FTOは2000年に生産を終了しています。フルモデルチェンジはなく、一代限りで姿を消しました。

    三菱自身も、この時期は経営的に余裕がなくなっていきます。リコール隠し問題が表面化する前夜であり、スポーツカーの開発に資源を割く体力が失われつつあった。FTOの後継が生まれなかったのは、車の出来が悪かったからではなく、メーカーと市場の両方が別の方向を向いてしまったからです。

    FFスポーツ史における立ち位置

    1990年代のFFスポーツクーペといえば、ホンダ・インテグラタイプRが圧倒的な存在感を持っています。あるいはトヨタ・セリカ、日産・シルビアのFR勢も含めれば、FTOの競合環境はかなり厳しかった。その中でFTOが独自のポジションを確保できたのは、V6エンジンの質感とATの先進性という、他にはない武器を持っていたからです。

    インテグラタイプRが「FFの限界をMTで突き詰める」方向に振り切ったのに対し、FTOは「FFスポーツをもう少し大人っぽく、幅広い層に届ける」という方向を選びました。どちらが正解かという話ではなく、アプローチが根本的に違う。FTOは硬派なスポーツカーというよりも、スポーティなパーソナルクーペとしての完成度が高かった車です。

    中古車市場では長らく手頃な価格で流通していましたが、近年は90年代スポーツカーの再評価の波を受けて、程度の良い個体は値上がり傾向にあります。特にV6 MIVEC搭載のGPX系グレードは、走行距離の少ない個体が減りつつあります。

    三菱が一瞬だけ見せた、もうひとつの可能性

    FTOは、三菱がランエボやパジェロとは別の文脈で、スポーツカーを作れるメーカーだったことを証明した一台です。V6 MIVECの官能性、INVECS-IIの先見性、デザインの洗練。どれも「三菱らしくない」と言われがちですが、むしろ「三菱にもこういう引き出しがあった」と読むべきでしょう。

    一代限りで終わったことを惜しむ声は、今でも少なくありません。ただ、だからこそFTOには独特の純度があります。後継モデルとの比較も、マイナーチェンジの繰り返しによる薄まりもない。1994年に三菱が「こういうスポーツカーを作りたい」と思った、その一発の結晶がそのまま残っている。それがFTOという車の、少し切なくて、でも確かに魅力的なところです。

    (30年越しに、もう一度だけFTO出してみませんか?)

  • ギャランクーペFTO – A61/A62/A63【三菱が若者に振り向いてほしかった時代の証】

    ギャランクーペFTO – A61/A62/A63【三菱が若者に振り向いてほしかった時代の証】

    三菱がまだ「スポーツの三菱」と呼ばれる前の話です。1970年代初頭、国内自動車メーカーはこぞって若年層向けのスペシャルティカーを模索していました。トヨタにはセリカがあり、日産にはシルビアがあった。では三菱はどうしたか。その答えが、1971年に登場したギャランクーペFTOでした。

    「FTO」という名前の意味

    まず名前の話から入りましょう。FTOとは「Fresco Turismo Omologato」の略とされています。直訳すれば「新鮮なグランツーリスモの公認車」。GTOが「Gran Turismo Omologato」なら、FTOは「フレッシュなGTO」というわけです。つまり、兄貴分であるギャランGTOの弟という位置づけが、名前の時点で明確に宣言されていました。

    ギャランGTOが1970年に登場し、三菱初のスペシャルティカーとして注目を集めていた時期です。ただしGTOは1.6L以上のエンジンを積んだ、やや上級志向のモデルでした。もう少し手が届きやすい価格帯で、もう少し若い層に訴求できるクルマが欲しい。FTOはそういう企画意図から生まれています。

    コルトギャランから何を削り、何を足したのか

    ベースとなったのは、当時の三菱の屋台骨だったコルトギャランです。型式でいえばA60系のセダンをベースに、2ドアのファストバッククーペとして仕立て直したのがFTOでした。型式はA61(1.2L)、A62(1.4L)、A63(1.6L)と排気量によって分かれています。

    ここで注目すべきは、FTOが単にセダンのドアを減らしただけのクルマではなかったという点です。ルーフラインはセダンとは明確に異なり、リアに向かって流れるファストバックスタイルが与えられました。全長はセダンより短く、ホイールベースも詰められています。つまり、見た目だけでなくボディの骨格レベルで「小さく、軽く、スポーティに」という意図が貫かれていたわけです。

    エンジンは三菱の4G系直列4気筒。1.2Lの4G42型から1.6Lの4G32型まで3種類が用意されました。特に注目されたのは1.4Lと1.6Lで、当時の自動車税制における区分を意識したラインナップです。1.6LのMCA仕様は最高出力100psを発揮し、車重が800kg台だったFTOにとっては十分以上のパワーでした。

    GTOとの棲み分けと、三菱の事情

    ギャランGTOとFTOの関係は、単純な上下関係ではありません。GTOはダイナミックなコークボトルラインを持つ、いかにもマッスルカー的な存在でした。対してFTOは、もう少しコンパクトで、もう少し日常的で、もう少し「最初の一台」に近い存在です。

    この棲み分けは、当時の三菱の販売網の事情とも関係しています。三菱は1970年に三菱自動車工業として独立したばかりで、ディーラー網の整備やブランド認知の構築がまだ途上にありました。GTOだけでは届かない客層に対して、FTOという入口を用意する。これは商品戦略として極めて合理的な判断でした。

    ただ、正直に言えばFTOはGTOほどの強烈な個性を持っていたわけではありません。GTOのあのアクの強いスタイリングに比べると、FTOはやや地味に映った。これは弱点というより、役割の違いです。派手さではなく、手堅さで勝負するクルマでした。

    レースとラリーが育てた実力

    FTOの評価を語るうえで外せないのが、モータースポーツでの活躍です。三菱は1960年代からラリーへの参戦を続けており、FTOもまたその系譜に連なるクルマでした。特にツーリングカーレースの1.6Lクラスでは、軽量なボディを武器に好成績を残しています。

    この時期の三菱のモータースポーツ活動は、後のランサー1600GSRによるサザンクロスラリー制覇(1973年)へとつながっていきます。FTOそのものが伝説的な戦績を残したわけではありませんが、三菱がコンパクトなスポーツモデルで競技に挑むという文化の、ひとつの起点にはなっていました。

    短命に終わった理由

    FTOの生産期間は1971年から1975年まで。わずか4年ほどで姿を消しています。その理由はいくつかあります。

    まず、1973年のオイルショックです。スペシャルティカー市場そのものが急速に冷え込みました。燃費や実用性が重視される時代に、2ドアクーペは逆風を受けやすい存在です。加えて、排出ガス規制の強化がエンジンの出力を削ぎ、スポーティさという商品価値を維持することが難しくなりました。

    もうひとつは、三菱自身の商品戦略の変化です。1973年にランサーが登場し、コンパクトスポーツの役割はランサーが引き受けることになります。FTOの居場所は、内外の事情によって急速に失われていったのです。

    20年後の「FTO」との関係

    FTOという名前は、1994年に復活しています。DE2A/DE3A型の三菱FTOです。ただし、この2台の間に直接的な技術的系譜はありません。プラットフォームもエンジンも、設計思想もまるで異なります。

    それでも三菱が「FTO」という名前を20年越しで引っ張り出してきたことには、意味があります。「若い層に向けた、手の届くスポーツクーペ」というコンセプトそのものが、三菱の中でひとつの原型として記憶されていたということです。1994年のFTOが「日本カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞したことを思えば、その種を最初に蒔いたのは間違いなくこのA60系のギャランクーペFTOでした。

    三菱が「入口」を作ろうとした記録

    ギャランクーペFTOは、華々しいヒーローカーではありません。GTOほど語られることもなく、ランサーほど戦績を残したわけでもない。けれどこのクルマは、三菱が「スポーツを身近にする」ことに初めて本気で取り組んだ記録です。

    自動車メーカーにとって、フラッグシップを作ることよりも「入口」を作ることのほうが実は難しい。性能を誇示するのではなく、手が届く価格で、日常の延長線上にスポーティさを置く。FTOが担ったのは、まさにその役割でした。

    短命ではあったけれど、このクルマが三菱のスポーツモデル史の中に確かな一歩を刻んだことは、覚えておいて損はないと思います。

  • C43 AMG – W202【AMGが「特注屋」をやめた最初の一歩】

    C43 AMG – W202【AMGが「特注屋」をやめた最初の一歩】

    AMGという名前に、いまどんなイメージを持っているでしょうか。メルセデスの高性能グレード、カタログに載っている選択肢のひとつ、あるいはサーキット由来のブランド。どれも間違いではありません。

    ただ、そのイメージが成立する出発点には、ある1台の存在があります。1997年に登場したW202型C43 AMG。これが、AMGが「外部の特注屋」から「メルセデスの正規ライン」へと変わる、最初の具体的な一歩でした。

    AMGが「社内化」された時代

    1990年代半ばのAMGは、まだ微妙な立ち位置にありました。1993年にメルセデス・ベンツとの協業契約が結ばれ、1999年には完全子会社化されるわけですが、C43 AMGが企画された時期はちょうどその過渡期にあたります。

    つまり、AMGはもう単なるアフターマーケットチューナーではないけれど、まだメルセデスそのものでもない。そんな曖昧な時期です。

    それまでのAMGモデルは、基本的にメルセデスの完成車をベースに少量生産で仕立てるスタイルでした。エンジンを手組みし、足回りを専用セッティングにし、内外装を仕上げる。言ってしまえば「高級な改造車」の延長線上にあったわけです。しかしC43 AMGは違いました。メルセデスの正規工場ラインで生産される、初めてのAMGコンプリートカーだったのです。

    この違いは、単に生産方法の話にとどまりません。メーカー保証がつく、ディーラーで普通に買える、カタログに載る。AMGが「知る人ぞ知る存在」から「ブランド内グレード」へと移行する、その商品企画上の転換点がC43 AMGでした。

    V8をCクラスに押し込むという企画

    C43 AMGの心臓部は、4.3リッターV8エンジン(M113型)です。最高出力は306馬力。当時のCクラスは直4や直6が主力でしたから、そこにV8を載せるというのは、かなり大胆な判断でした。

    ただし、ここがAMGらしいところで、このエンジンはゼロから専用設計されたものではありません。M113型はEクラスやSクラスにも搭載される汎用V8ユニットで、C43 AMGではそれをチューニングして搭載しています。排気系の最適化、ECUのリマップ、吸気系の見直しなどが施されていますが、ベースはあくまで量産エンジンです。

    これは弱点ではなく、むしろ戦略です。専用エンジンを起こせばコストが跳ね上がり、少量生産のままでは「量産AMG」という企画自体が成立しません。既存の量産V8をうまく活かすことで、性能と生産性の両立を図った。要するに、AMGが量産ブランドとして成立するための現実的な解だったわけです。

    組み合わされるトランスミッションは5速AT。マニュアルの設定はありません。ここにも「スパルタンなスポーツカー」ではなく「速いメルセデス」を目指すという方向性が見えます。

    走りの性格と、Cクラスの枠の中での仕上げ

    C43 AMGの走りは、一言で言えば「上質な速さ」です。306馬力のV8は低回転から豊かなトルクを発生し、高回転まで回して絞り出すタイプではありません。街中でも高速でも、アクセルを踏めば太いトルクがすっと立ち上がる。このフィーリングは、後のAMGモデルにも通じる「AMGらしさ」の原型と言えます。

    足回りはAMG専用のスプリングとダンパー、スタビライザーで固められ、ブレーキも強化されています。ただし、当時のBMW M3(E36)のようにサーキット志向で詰めた車ではありません。あくまでメルセデスの快適性を維持しながら、動力性能を大幅に引き上げるというアプローチです。

    ここが評価の分かれるところでもあります。ピュアスポーツとしての切れ味を求める層からすれば、C43 AMGはやや「ぬるい」と映ったかもしれません。しかしメルセデスが目指したのは、M3のような尖った存在ではなく、メルセデスオーナーが自然に選べる高性能グレードでした。その意味では、狙い通りの仕上がりだったと言えます。

    BMWとの距離感

    1990年代後半、高性能セダン市場で最も存在感があったのは間違いなくBMW M3です。E36型M3は直6の高回転エンジンとFRレイアウトで、スポーツセダンの基準を作っていました。C43 AMGは、その市場に対するメルセデスからの回答でもあります。

    ただし、回答の仕方がまったく違う。M3が「エンジニアが作ったスポーツカー」だとすれば、C43 AMGは「ブランド戦略が生んだ高性能車」です。M3は専用エンジン、専用ボディパネル、専用サスペンションジオメトリーと、車両全体を競技指向で再設計しています。一方のC43 AMGは、量産Cクラスのプラットフォームとボディをほぼそのまま使い、パワートレインと足回りの味付けで差別化しています。

    どちらが正しいという話ではありません。ただ、この違いが後のAMGとMの方向性の違い──AMGは「メルセデスの延長線上にある速さ」、Mは「BMWとは別軸のスポーツ性」──を決定づけたとも言えます。C43 AMGは、AMGブランドの性格を定義した車でもあるのです。

    後のAMGに残したもの

    C43 AMGの生産期間は短く、W202型の末期にあたる1997年から2000年までの約3年間です。後継のW203型ではC32 AMGへとバトンが渡され、スーパーチャージャー付きV6という別のアプローチに切り替わりました。C43 AMGが確立した「V8×Cクラス」という組み合わせは、その後C55 AMGで復活し、さらにC63 AMGへと発展していきます。

    ちなみに現行世代では「C43」の名前が復活していますが、こちらは4気筒ターボ+電動化という、まったく異なるパッケージです。名前は同じでも、中身の思想はかなり違います。ただ、「AMGをカタログモデルとして成立させる」という企画の根本は、1997年のC43 AMGがつくった道の上にあります。

    もうひとつ重要なのは、C43 AMGの成功が、AMGの完全子会社化(1999年)を後押ししたという点です。量産ラインで作れる、ディーラーで売れる、ちゃんと利益が出る。その実績がなければ、メルセデスがAMGを完全に取り込む判断には至らなかったかもしれません。

    「最初の量産AMG」が意味すること

    C43 AMGは、スペックだけを見れば飛び抜けた存在ではありません。306馬力のV8は速いけれど、驚異的ではない。足回りも専用だけれど、革新的ではない。内外装の差別化も、後のAMGモデルほど大胆ではありません。

    しかし、この車の本当の意味は性能の数字にはありません。AMGというブランドが、少量生産の職人仕事から、メルセデスの商品戦略の柱へと変わる転換点。それがC43 AMGです。いまや年間10万台以上を売るAMGブランドの出発点が、このW202の控えめなセダンだったというのは、なかなか味わい深い事実ではないでしょうか。

  • プレリュード – BB5/BB6/BB7/BB8【最後のプレリュードが背負った、デートカーの終焉】

    プレリュード – BB5/BB6/BB7/BB8【最後のプレリュードが背負った、デートカーの終焉】

    プレリュードという名前を聞いて、何を思い浮かべるかは世代で分かれます。3代目のリトラクタブルライトを思い出す人もいれば、4代目の4WSを語る人もいる。ただ、5代目──BB5/BB6/BB7/BB8型のことを語ろうとすると、少し空気が変わります。「あれ、最後のやつだよね」という一言が、たいてい先に出てくるからです。

    1996年に登場したこの5代目は、ホンダが持てる技術を惜しみなく投入した意欲作でした。にもかかわらず、販売は振るわず、2001年に生産終了。プレリュードという車名は、ここで途絶えます。なぜこの車は「最後」になったのか。それはクルマの出来とは別の次元で、時代が大きく動いていたからです。

    スペシャルティクーペの黄昏

    5代目プレリュードが世に出た1996年という年は、日本の自動車市場にとって明確な転換点でした。RVブームが本格化し、ミニバンやSUVが売れ筋の主役に躍り出ていた時期です。2ドアクーペ、とりわけ「デートカー」と呼ばれたスペシャルティクーペの市場は、急速にしぼんでいました。

    プレリュードが全盛だったのは3代目(BA系)から4代目(BA8/BB1〜BB4)にかけてです。特に3代目は月販1万台を超えるヒットを記録し、デートカーの代名詞とまで言われました。しかし4代目の時点ですでに販売は下降線をたどっており、5代目はその流れを覆さなければならない──という、かなり厳しい立場で開発がスタートしています。

    同時期のライバルを見ても状況は似ていました。トヨタ・セリカは同じく苦戦し、日産・シルビアも次世代を模索していた時代です。スペシャルティクーペというジャンルそのものが、存続を問われていたわけです。

    ATTSという回答

    そんな逆風の中でホンダが出した答えが、ATTS(アクティブ・トルク・トランスファー・システム)でした。これは前輪の左右にトルク配分を可変させる機構で、要するに「曲がるときに外側の前輪へ多くの駆動力を送ることで、FF車の限界を引き上げる」という技術です。

    FF車はその構造上、アンダーステア──つまりハンドルを切っても外へ膨らみやすい傾向を持っています。ATTSはこの弱点を機械的に抑え込もうとしたもので、当時としてはかなり先進的な発想でした。SH-AWDへとつながるホンダの左右トルク配分技術の原点は、まさにここにあります。

    搭載されたのはBB6型(SiR系のATTS仕様)とBB8型(Type S)で、エンジンは2.2LのH22A型DOHC VTEC。最高出力は220ps(Type S)に達し、FFスペシャルティとしてはかなりの高出力でした。BB5型には2.2LのH22A(200ps仕様)、BB7型には2.0LのF20Bが搭載され、グレード構成はそれなりに幅を持たせていました。

    走りの評価と、売れなかった理由

    走りの評価は、当時のメディアでも高いものでした。ATTSの効果は明確で、コーナーでのノーズの入り方がFF車の常識を超えていると評されています。ダブルウィッシュボーンの4輪独立懸架も健在で、足回りの質感は歴代プレリュードの中でも最上とする声がありました。

    ただ、走りが良いことと売れることは、この時代においてはまったく別の話でした。5代目プレリュードのデザインは、先代のシャープさからやや丸みを帯びた方向へシフトしています。これは好みの分かれるところで、「プレリュードらしくない」という意見も少なくありませんでした。

    さらに言えば、ホンダ自身がこの時期インテグラ・タイプRという強烈なFFスポーツを持っていたことも、プレリュードの立ち位置を難しくしていました。スポーツ性を求めるならインテグラ、ラグジュアリー寄りのクーペならアコードクーペがある。では、プレリュードは何なのか。この問いに対する明確な答えを、5代目は最後まで打ち出しきれなかったように見えます。

    ボディ設計の真面目さ

    売れなかったからといって、手を抜いたクルマだったわけではありません。むしろ5代目プレリュードは、ホンダらしい真面目さが随所に出ています。

    ボディ剛性は先代比で大幅に向上しており、衝突安全性も当時の基準を高いレベルでクリアしていました。全幅は1,740mmとやや拡大されましたが、全高は1,315mmに抑えられ、低く構えたプロポーションは維持されています。ホイールベースは2,585mmで、2ドアクーペとしては余裕のある数値です。

    室内も、スペシャルティクーペとしては実用的な広さが確保されていました。後席はさすがに大人が長時間座るには厳しいものの、2ドアであることを考えれば十分なレベルです。トランク容量も日常使いに不便のない水準でした。

    つまり、このクルマは「走り」「技術」「パッケージング」のどれをとっても破綻がない。ただ、それだけでは時代の空気に勝てなかった。そこにこの世代のプレリュードの悲劇があります。

    1998年のマイナーチェンジ

    1998年にはマイナーチェンジが実施されています。外観ではフロントバンパーやリアコンビランプのデザインが変更され、やや精悍な印象になりました。内装の質感も向上し、装備面でも細かな改良が加えられています。

    ただ、このマイナーチェンジで販売が大きく回復することはありませんでした。市場全体がクーペから離れていく流れは、一車種の改良で止められるものではなかったのです。

    Type Sの220psという出力は維持され、ATTSも継続搭載。走りの方向性はブレていません。しかし、ホンダ社内でもプレリュードの後継開発は事実上凍結されていたとされ、このマイナーチェンジが実質的な最終仕様となりました。

    プレリュードが残したもの

    2001年、プレリュードは生産を終了します。1978年の初代から数えて23年、5世代にわたる歴史に幕が下りました。後継車は出ていません。

    ただ、技術的な遺産は確実に残っています。ATTSの左右トルク配分という考え方は、その後レジェンドやインスパイアに搭載されたSH-AWDへと発展しました。FFの限界を機構で超えるというアプローチは、5代目プレリュードが市販車として最初に実証したものです。この技術的な系譜を考えると、BB5〜BB8型は単なる「売れなかった最終型」ではなく、ホンダの駆動技術における重要な実験場だったと言えます。

    プレリュードという車名は、音楽用語で「前奏曲」を意味します。皮肉なことに、5代目は何かの前奏ではなく、ひとつの時代の終奏になりました。けれども、その終奏の中にこそ、次の時代の技術が仕込まれていた。そう考えると、最後のプレリュードは、名前の意味を別の形でまっとうしていたのかもしれません。

  • PRELUDE – BF1【24年ぶりの前奏曲は、ハイブリッドで何を語るか】

    PRELUDE – BF1【24年ぶりの前奏曲は、ハイブリッドで何を語るか】

    プレリュードという名前が、まさか2025年に新車のカタログに戻ってくるとは。

    5代目が生産を終えた2001年から数えて、じつに24年。その間、ホンダのラインナップにスペシャリティクーペは存在しませんでした。

    復活した6代目プレリュード(BF1)は、かつてのデートカーの面影を残しつつも、ハイブリッド専用車という、まったく新しい文法で書かれた一台です。

    「復活」ではなく、結果的にプレリュードになった

    この車の出自を語るうえで、いちばん面白いのは「最初からプレリュードを作ろうとしていたわけではない」という事実です。

    ホンダCEOの三部敏宏氏は、開発の経緯について「このプロジェクトは、別のスポーティなモデルを市場に投入するために設計されたもの」で、「開発にちなんで名付けられた」と明かしています。

    つまり出発点は、電動車時代に「こんなスポーツカーがあったらいいな」というユーザーの潜在需要に応えること。開発責任者の山上智行氏も、新しいハイブリッドスポーツの実現が最初の目的だったと語っています。

    開発が進む中で、常に時代の先端技術を搭載してきたプレリュードの系譜と親和性が見えてきた。だから「前奏曲」の名を冠した、という流れです。

    ここが重要なポイントでしょう。ノスタルジーで車名を引っ張り出したのではなく、中身が先にあって、名前が後からついてきた。これは単なる復刻モデルとは根本的に違う成り立ちです。

    グライダーという着想

    6代目プレリュードのグランドコンセプトは「UNLIMITED GLIDE」。大空を滑空するグライダーをイメージしたものです。開発チームは実際にグライダーを体験し、「非日常のときめき」を追求したといいます。

    このコンセプトは、デザインにもはっきりと反映されています。全長4,520mm、全幅1,880mm、全高1,355mmというボディサイズは、ワイド&ローでありながら全長は4.5mクラスに収まり、街中での取り回しも意識されたバランスです。

    低くシャープなフロントノーズ、抑揚のあるボディライン。歴代プレリュードが守ってきた「低く、伸びやかに」というスタイリングの文法は、しっかり受け継がれています。

    ただ、かつてのリトラクタブルヘッドライトはもちろんありません。代わりに、外側上方に伸びるストライプを成形したマルチファンクションライトが、新しい時代の顔つきを作っています。2025年に「2025〜2026 日本自動車殿堂カーデザインオブザイヤー」を受賞したことからも、このデザインの完成度がうかがえます。

    S+ Shiftという「矛盾」への回答

    パワートレインはホンダの2モーターハイブリッドシステム「e:HEV」。2.0リッター直列4気筒エンジンと2基の高出力モーターを組み合わせ、システム全体で200PS、315Nmを発生します。駆動方式はFFで、プレリュードの伝統を踏襲しています。

    ここで注目すべきは、ホンダ車として初搭載となった制御技術「Honda S+ Shift」です。モーター駆動でありながら、仮想の8段変速で加減速時にエンジン回転数を緻密にコントロールし、有段変速機があるかのようなダイレクトな駆動レスポンスを実現する。要するに、CVT的な滑らかさではなく、「ギアが切り替わる感触」をあえて演出する技術です。

    これは一見すると矛盾に思えます。効率を追求するハイブリッドに、わざわざ非効率な有段変速の「感覚」を載せるわけですから。しかしホンダが解こうとした問いは明確です。電動化時代に「操る喜び」をどう残すか。S+ Shiftはパフォーマンスを上げるための装置ではなく、ドライバーの感覚に応えるための装置なのです。

    ただし、0-100km/h加速が7秒台という数字に対して「600万円台の車としては遅い」という声もあります。ここは評価が分かれるところで、絶対的な速さを求める層にとっては物足りないかもしれません。しかしこの車が目指しているのは、直線番長ではなく、ワインディングや日常の運転で「気持ちいい」と感じられる走りです。

    タイプRの足回りを持つ「非タイプR」

    シャシーまわりの構成は、かなり本気です。フロントサスペンションには、シビック TYPE Rと同じデュアルアクシス・ストラットを採用。トルクステアを抑え、アクセル全開時でも自然なステアリングフィールを確保します。

    さらにアダプティブダンパーシステムで路面状況や走行モードに応じて減衰力を制御し、ブレーキにはBrembo製のフロント大径ベンチレーテッド2ピースディスク(φ350mm)を装備。7パターンの走行モードが選べる仕様も含め、足回りの充実ぶりはスポーツカーそのものです。

    ただ、これはタイプRのような限界性能を追うためではありません。快適性とスポーツ性を高い次元で両立させるための選択です。開発責任者の山上氏が「Hondaらしい」ではなく「Hondaにしかできない」クルマを目指したと語っている通り、ハイブリッドスポーツとしてシビック TYPE Rとは明確に異なる方向性が設定されています。

    617万円という価格が問いかけるもの

    新型プレリュードの価格は617万9,800円(税込)。月販計画は300台。この数字は、かつてデートカーとして大量に売れた時代のプレリュードとは、完全に異なるポジショニングを示しています。

    量販スポーツではなく、限定的かつ象徴的な立ち位置。初期ロット2,000台の抽選販売が行われたことからも、ホンダがこの車を「広く薄く売る」のではなく「深く届ける」つもりであることがわかります。

    価格に対する批判は少なくありません。600万円台でハイブリッド、MTなし、0-100km/hが7秒台。スペックシートだけ見れば割高に映るのは事実です。しかし、Brembo製ブレーキ、アダプティブダンパー、Honda SENSING標準装備、BOSEサウンドシステムといった装備内容を積み上げると、単純に高いとも言い切れない。このあたりは、実際に乗ってみないと評価しにくい領域でしょう。

    「前奏曲」が示す次の楽章

    歴代プレリュードは、つねにホンダの先端技術を世に問う実験台でした。初代は日本初の電動サンルーフ、2代目は日本初の4輪ABS、3代目は世界初の機械式4WS。技術のショーケースであると同時に、ホンダのブランドイメージを牽引する存在でもありました。

    6代目がその系譜に載せたのは、S+ Shiftという「ハイブリッドでも走りの感動を諦めない」技術です。派手なスペックではないけれど、電動化時代における「操る喜び」の定義を、ホンダなりに提示しようとしている。

    プレリュードとは「前奏曲」。この車が前奏であるならば、本編はこれから始まるはずです。ホンダが電動化の時代にどんなスポーツカーを描いていくのか。BF1は、その最初の一音なのだと思います。

  • プレリュード – BA8/BA9/BB1/BB4【バブルの全部入りが、時代に届かなかった4代目】

    プレリュード – BA8/BA9/BB1/BB4【バブルの全部入りが、時代に届かなかった4代目】

    プレリュードの全5世代のなかで、もっとも贅沢に作られたのはどれか。答えは、4代目です。

    ただしこの「贅沢」は、売れ行きには直結しませんでした。バブルの絶頂期に企画・開発され、崩壊直後の1991年に世に出た4代目プレリュード。

    新開発エンジン、電子制御4WS、3ナンバー専用のワイド&ローボディ——。技術と意欲をすべて詰め込んだ一台が、なぜ歴代モデルほどのヒットにならなかったのか。

    その背景を掘り下げると、「時代と車の関係」がよく見えてきます。

    バブルが生んだ、バブル崩壊後のクルマ

    4代目プレリュードが発表されたのは1991年9月。まさにバブルがはじけた直後です。ただ、ここで大事なのは「クルマは発売のタイミングで作られるわけではない」ということ。3代目が1987年に登場しているので、4代目の開発はそのころからスタートしています。つまり、バブル発生とともに開発が始まり、絶頂期に熟成されたクルマなのです。

    先代の3代目は、バブル絶頂期の1988年に約5万8000台を売り上げ、日産シルビア(S13)とともに「デートカー」と呼ばれた時代の寵児でした。今では信じられないほど、2ドアクーペに人気があった時代です。

    その成功を受けて開発された4代目は、当然ながら「もっと上を目指す」という空気のなかで生まれています。開発陣に予算の制約を感じさせない、バブルの空気がそのまま凝縮されたクルマ。ただ、完成した頃には市場の風向きが完全に変わっていました。

    デートカーから、走りのクーペへ

    4代目で最も大きかったのは、コンセプトの転換です。初代から3代目まで、プレリュードは「FFスペシャルティカー」として、スタイルや快適性で勝負するクルマでした。ところが4代目は、路線を大幅に変更します。スペシャルティカーからスポーティカーへ、明確に軸足を移したのです。

    背景にあったのは、1990年に登場したNSXの存在です。NSXが牽引するホンダのスポーツイメージと、同年のレジェンド2ドアハードトップに見られるラグジュアリー性。4代目プレリュードは、その両方をうまく取り込もうとした印象があります。

    外観も一新されました。2代目・3代目の象徴だったリトラクタブルヘッドライトを廃止し、丸みの強い砲弾型のフォルムに。当時ホンダは北米市場で高い評価を得ており、1988年に逆輸入で発売した初代アコードクーペの好評もあって、この北米テイストのデザイン変更は日本市場でも受け入れられました。ただし、リトラの廃止を惜しむ声は少なくありませんでした。

    3ナンバー専用ボディという決断

    4代目プレリュードで見逃せないのは、全車3ナンバーになったことです。ボディサイズは全長4440mm×全幅1765mm×全高1290mm。先代より全長を80mm縮め、全幅を70mm拡大、全高を5mm下げています。いわゆるワイド&ショートのプロポーションです。

    当時のホンダ自身の言葉を借りれば、「新しいプレリュードが最も重視したのは、スポーツ性能を高めること」。全幅を広げた理由は、クルマを大きく見せるためではなく、前席のゆったり感とトレッドの拡大による走行安定性を両立させるためでした。

    面白いのは、発売当初の乗車定員が4名だったこと。リヤシートのセンターに大型コンソールを配置し、あえて5人乗りにしなかった。効率より贅沢さを優先する設計思想は、まさにバブル期の産物です。この後席コンソールは不評で、1993年のマイナーチェンジで廃止されて5名乗車に変更されています。

    ただし、3ナンバー化と2.2Lへの排気量拡大は、日本の税制上はデメリットでもありました。5ナンバー枠を超えたことで自動車税が跳ね上がり、若年層には手が届きにくい存在になってしまったのです。

    H22Aという名機の誕生

    4代目プレリュードの心臓部には、2種類のエンジンが用意されました。Si系に搭載されたF22B型2.2L DOHC(160馬力)と、Si VTEC系に搭載されたH22A型2.2L DOHC VTEC(200馬力)です。

    とりわけH22Aは、ホンダのエンジン史においても特筆すべき存在です。ボア87.0mm×ストローク90.7mmのロングストローク設計ながら、VTECの恩恵で高回転域まで鋭く吹け上がる。200馬力/6800rpm、最大トルク22.3kgm/5500rpm。2.2LのNAでこの数値は、当時としてはかなりのハイスペックでした。

    このH22Aは「エンジンだけで80万円」とも言われたほど、細部にまでホンダの技術が凝縮されたユニットです。FRM(繊維強化金属)シリンダーライナーやクローズドデッキ構造のシリンダーブロックなど、レーシングエンジンに通じる贅沢な作り。後にフォーミュラ3やスーパー・ツーリングカーのベースエンジンとしても採用されています。

    H22Aはその後、5代目プレリュードでは220馬力にまでチューンされ、アコードユーロR(CL1)にも搭載されるなど、ホンダの2.2L系を代表する名機として長く活躍しました。その原点が、この4代目プレリュードなのです。

    電子制御4WSとセナのCM

    4代目のもうひとつの目玉が、ハイパー4WSと呼ばれた電子制御式の四輪操舵システムです。3代目で世界初の量産機械式4WSを実現したプレリュードですが、4代目ではその考え方自体を変えています。

    従来の機械式は、前輪の操舵角に応じて後輪の切れ角が決まるシンプルな仕組みでした。4代目では電子制御化により、操舵角だけでなく車速やハンドル操作の速さも検知して後輪を制御するようになった。高速時の同位相の切れ角を抑えるいっぽう、低速走行時の逆位相の切れ角を拡大し、取り回しのよさと高速安定性を高次元で両立させています。

    足まわりは前後ともダブルウィッシュボーン式で、構成部品を全面刷新。ボディのワイド化と合わせて、走行安定性と乗り心地の質感が大幅に向上しました。当時の自動車ジャーナリストが「90年前後のフルモデルチェンジのなかでも、特に印象に残る」と評したほどです。

    そしてCMには、アイルトン・セナが起用されました。第二期ホンダF1の絶頂期、マクラーレン・ホンダで総合優勝を重ねていたセナが「さあ、走ろうか。」のキャッチコピーとともにプレリュードをドライブする姿は、当時大きな話題になりました。F1の勢いとプレリュードのスポーティ路線は、見事にシンクロしていたのです。

    売れなかった理由、残したもの

    これだけの内容を持ちながら、4代目プレリュードの販売は振るいませんでした。モデル全体の販売台数は約8万5000台。2代目・3代目が年間5万台以上を記録した時代と比べると、明らかに低迷しています。

    理由は複合的です。まず、バブル崩壊によるクーペ市場そのものの縮小。さらに3ナンバー化と2.2Lエンジンによる維持費の増加。リトラクタブルヘッドライトの廃止による従来ファンの離反もあったでしょう。1990年代中盤以降はオデッセイやステップワゴンなどRV系が台頭し、2ドアクーペという選択肢自体が急速に存在感を失っていきました。

    ただ、走りの実力は本物でした。N1耐久シリーズ(現スーパー耐久)では、4WS非搭載のBB4型をベースにしたレース車両が参戦し、無敵を誇ったR32 GT-Rを脅かすほどの戦闘力を発揮しています。改造範囲が極めて狭いN1規定で好成績を残したということは、市販車としてのポテンシャルの高さを証明するものでした。

    型式の整理もしておきましょう。日本仕様では、SiがBA8型、Si 4WSがBA9型、Si VTEC 4WSがBB1型、Si VTECがBB4型。BB4はサンルーフや4WSを省いた軽量志向のモデルで、レースベースにもなった「走り」に振り切ったグレードです。

    4代目プレリュードは、プレリュード全5世代のなかで「ミッシングリンク」と呼ばれることがあります。初代のサンルーフ、2代目のABS、3代目の4WS、5代目の「最後のプレリュード」——。それぞれに語られるエピソードがあるなかで、4代目だけが印象の薄い世代として扱われがちです。

    しかし実態は真逆で、技術的にはもっとも意欲的で、もっとも贅沢に作られた世代でした。H22Aエンジンはその後のホンダスポーツの基幹ユニットとなり、電子制御4WSの知見は5代目のATTS(アクティブ・トルク・トランスファー・システム)へと発展しています。デートカーの殻を破り、本格的なスポーティクーペとして再定義されたのも、この4代目からです。

    時代に恵まれなかったことは事実です。けれど、バブルの熱量がそのまま封じ込められた4代目プレリュードは、ホンダが「全部やりたいことをやった」結果として生まれた、純度の高い一台だったと思います。売れたかどうかではなく、何を目指して何を実現したか。その視点で見ると、この世代のプレリュードは、歴代でもっとも「ホンダらしい」クルマだったのかもしれません。

  • C32/C55 AMG – W203【Cクラスに本気のAMGが宿った転換点】

    C32/C55 AMG – W203【Cクラスに本気のAMGが宿った転換点】

    AMGのCクラスといえば、いまではC63の名前が真っ先に浮かぶかもしれません。ただ、その系譜の「直前」にあたるW203世代のC32 AMGとC55 AMGは、ちょっと独特な存在です。

    AMGがメルセデスの正式な一部門として量産体制を確立しつつあった時期に、Cクラスという「ちょうどいいサイズ」のセダンに本気のパワートレインを載せた。

    ここには、ただの高性能バージョンでは片づけられない転換の匂いがあります。

    W203という器の時代背景

    W203型Cクラスは2000年に登場しました。先代W202が築いた「小さなメルセデス」の市場をさらに広げるべく、デザインも装備も一段モダンになった世代です。ただ、このW203は品質面での評価がやや割れたモデルでもありました。内装の質感やスイッチ類の耐久性について、従来のメルセデスユーザーからは厳しい声もあったのが正直なところです。

    一方で、プラットフォームとしてのポテンシャルは高かった。フロントにマルチリンク、リアにもマルチリンクという贅沢な足回りは、BMWの3シリーズに対抗するために本気で設計されたものです。つまりW203は、AMGが「載せ甲斐のある」シャシーを手にした世代でもあったわけです。

    C32 AMG──スーパーチャージャーという選択

    2001年に登場したC32 AMGは、3.2リッターV6にスーパーチャージャー(インタークーラー付きリショルムコンプレッサー)を組み合わせ、354馬力を発生させました。当時のAMGとしてはやや珍しい過給V6という構成です。なぜV8ではなかったのか。ここにはパッケージングの制約と、AMGの当時の戦略が見えます。

    W203のエンジンルームは、先代W202と比べても劇的に広くなったわけではありません。AMGの主力だった5.4リッターV8をそのまま押し込むには、補機類の取り回しや重量バランスの面でかなりの無理がありました。そこでAMGは、M112型V6をベースにスーパーチャージャーで武装するという手法を選んだのです。

    この判断は結果的に、C32 AMGに独自のキャラクターを与えました。V8のような太いトルクの出方ではなく、スーパーチャージャー特有の低回転からリニアに立ち上がる過給感。レスポンスの良さはターボとは明確に違い、アクセルを踏んだ瞬間から力が出る感覚は、コンパクトなCクラスのボディサイズと相性が良かった。0-100km/h加速は5.2秒。2001年のCクラスとしては、かなり速い部類です。

    トランスミッションは5速ATのみ。マニュアルの設定がなかったことを惜しむ声は当時もありましたが、AMGのCクラスはあくまで「速いセダン」であって、ピュアスポーツカーとは違う立ち位置です。日常の使い勝手と高速域の余裕を両立させるという意味では、ATオンリーの判断は理にかなっていました。

    C55 AMG──ついにV8を載せた意味

    2004年、W203のマイナーチェンジに合わせてC55 AMGが登場します。搭載されたのはM113型5.4リッターV8、367馬力。C32 AMGのスーパーチャージャーV6から、自然吸気V8へのスイッチです。たった13馬力の上乗せに見えますが、この変更の意味はスペックの数字だけでは語れません。

    まず、トルク特性がまったく違います。C32の450Nmに対して、C55は510Nm。しかもそのトルクがNAらしく幅広い回転域で出る。過給のブースト感ではなく、排気量で押し出す力強さ。これはAMGが長年「ハウスルール」としてきた哲学──排気量こそ正義──への回帰でもありました。

    技術的には、W203のエンジンルームにV8を収めるために相当な苦労があったとされています。エキゾーストマニホールドの取り回し、ステアリング系との干渉回避、冷却系の再設計。C55 AMGは単なるエンジン換装ではなく、フロント周りの設計をかなりの部分でやり直した結果です。

    足回りもC32から進化しています。AMG専用のスプリングとダンパーに加え、ブレーキもフロント345mmのドリルドディスクへ強化。車重は1,630kg前後と決して軽くはありませんが、V8のトルクで車体を引っ張る感覚は、C32とはまったく別の乗り物でした。

    2台を分けたもの、つないだもの

    C32 AMGとC55 AMGは、同じW203という箱に載りながら、エンジニアリングの方向性がかなり異なります。C32は「限られたスペースで最大の出力を得る」ための過給戦略。C55は「AMGらしさを妥協せずにCクラスへ落とし込む」ためのV8搭載。どちらが正解というよりも、AMGがCクラスという車格でどこまでやるかを模索していた過程そのものです。

    興味深いのは、この2台がAMGの量産化の歩みと完全にリンクしている点です。1999年にAMGはダイムラー・クライスラーの完全子会社となり、少量生産のチューナーから「メーカー内のパフォーマンスブランド」へと明確に舵を切りました。C32 AMGはその体制転換後、最初期に企画されたモデルのひとつです。

    つまりC32/C55 AMGは、AMGが「外注のスペシャリスト」から「社内の正規部門」になっていく過程で生まれた車です。後のC63 AMG(W204)で確立される「Cクラス+AMG=コンパクトハイパフォーマンスセダンの定番」という図式の、最初の実験がここにあったと言えます。

    中古市場での立ち位置

    現在、W203のC32/C55 AMGは中古市場で比較的手の届きやすい価格帯にあります。ただし、安いからといって気軽に手を出せるかというと、そう単純ではありません。W203世代特有のウィークポイント──電装系のトラブル、サブフレームのブッシュ劣化、ATの制御ユニット不良──は、AMGモデルでも例外ではないからです。

    特にC32 AMGのスーパーチャージャーは、経年でインタークーラーのパイプ接合部やプーリー周辺に注意が必要です。C55 AMGのM113エンジン自体は堅牢ですが、補機類のゴム部品やセンサー類は年式なりの劣化を覚悟する必要があります。

    それでも、この世代のAMGには数字では測れない魅力があります。現行のAMGモデルと比べると電子制御の介入が圧倒的に少なく、ドライバーの操作がダイレクトに車の挙動に出る。よくも悪くも「素の感触」が残っている最後の世代に近いのです。

    Cクラス×AMGの原型として

    W203のC32 AMGとC55 AMGは、華やかなモータースポーツの文脈で語られることは多くありません。DTMベースのCLK-DTM AMGのような派手さもなければ、後継C63のようなアイコン的地位も得ていない。ある意味、系譜の中で「通過点」として扱われがちなモデルです。

    しかし、通過点にこそ意味がある場合があります。AMGがCクラスに何を載せるべきか、どこまでやるべきか、どんなキャラクターを与えるべきか。その試行錯誤の結果がC32とC55という2つの異なる回答でした。

    スーパーチャージャーV6で切り拓き、自然吸気V8で回帰する。この振れ幅こそが、AMGがCクラスという枠組みの中で「自分たちのやり方」を見つけていく過程そのものだったのです。後にC63 AMGが6.2リッターV8で圧倒的な存在感を示せたのは、W203世代の試行があったからこそ。最初の一歩は、いつも地味に見えるものです。