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  • プレリュード – BB5/BB6/BB7/BB8【最後のプレリュードが背負った、デートカーの終焉】

    プレリュード – BB5/BB6/BB7/BB8【最後のプレリュードが背負った、デートカーの終焉】

    プレリュードという名前を聞いて、何を思い浮かべるかは世代で分かれます。3代目のリトラクタブルライトを思い出す人もいれば、4代目の4WSを語る人もいる。ただ、5代目──BB5/BB6/BB7/BB8型のことを語ろうとすると、少し空気が変わります。「あれ、最後のやつだよね」という一言が、たいてい先に出てくるからです。

    1996年に登場したこの5代目は、ホンダが持てる技術を惜しみなく投入した意欲作でした。にもかかわらず、販売は振るわず、2001年に生産終了。プレリュードという車名は、ここで途絶えます。なぜこの車は「最後」になったのか。それはクルマの出来とは別の次元で、時代が大きく動いていたからです。

    スペシャルティクーペの黄昏

    5代目プレリュードが世に出た1996年という年は、日本の自動車市場にとって明確な転換点でした。RVブームが本格化し、ミニバンやSUVが売れ筋の主役に躍り出ていた時期です。2ドアクーペ、とりわけ「デートカー」と呼ばれたスペシャルティクーペの市場は、急速にしぼんでいました。

    プレリュードが全盛だったのは3代目(BA系)から4代目(BA8/BB1〜BB4)にかけてです。特に3代目は月販1万台を超えるヒットを記録し、デートカーの代名詞とまで言われました。しかし4代目の時点ですでに販売は下降線をたどっており、5代目はその流れを覆さなければならない──という、かなり厳しい立場で開発がスタートしています。

    同時期のライバルを見ても状況は似ていました。トヨタ・セリカは同じく苦戦し、日産・シルビアも次世代を模索していた時代です。スペシャルティクーペというジャンルそのものが、存続を問われていたわけです。

    ATTSという回答

    そんな逆風の中でホンダが出した答えが、ATTS(アクティブ・トルク・トランスファー・システム)でした。これは前輪の左右にトルク配分を可変させる機構で、要するに「曲がるときに外側の前輪へ多くの駆動力を送ることで、FF車の限界を引き上げる」という技術です。

    FF車はその構造上、アンダーステア──つまりハンドルを切っても外へ膨らみやすい傾向を持っています。ATTSはこの弱点を機械的に抑え込もうとしたもので、当時としてはかなり先進的な発想でした。SH-AWDへとつながるホンダの左右トルク配分技術の原点は、まさにここにあります。

    搭載されたのはBB6型(SiR系のATTS仕様)とBB8型(Type S)で、エンジンは2.2LのH22A型DOHC VTEC。最高出力は220ps(Type S)に達し、FFスペシャルティとしてはかなりの高出力でした。BB5型には2.2LのH22A(200ps仕様)、BB7型には2.0LのF20Bが搭載され、グレード構成はそれなりに幅を持たせていました。

    走りの評価と、売れなかった理由

    走りの評価は、当時のメディアでも高いものでした。ATTSの効果は明確で、コーナーでのノーズの入り方がFF車の常識を超えていると評されています。ダブルウィッシュボーンの4輪独立懸架も健在で、足回りの質感は歴代プレリュードの中でも最上とする声がありました。

    ただ、走りが良いことと売れることは、この時代においてはまったく別の話でした。5代目プレリュードのデザインは、先代のシャープさからやや丸みを帯びた方向へシフトしています。これは好みの分かれるところで、「プレリュードらしくない」という意見も少なくありませんでした。

    さらに言えば、ホンダ自身がこの時期インテグラ・タイプRという強烈なFFスポーツを持っていたことも、プレリュードの立ち位置を難しくしていました。スポーツ性を求めるならインテグラ、ラグジュアリー寄りのクーペならアコードクーペがある。では、プレリュードは何なのか。この問いに対する明確な答えを、5代目は最後まで打ち出しきれなかったように見えます。

    ボディ設計の真面目さ

    売れなかったからといって、手を抜いたクルマだったわけではありません。むしろ5代目プレリュードは、ホンダらしい真面目さが随所に出ています。

    ボディ剛性は先代比で大幅に向上しており、衝突安全性も当時の基準を高いレベルでクリアしていました。全幅は1,740mmとやや拡大されましたが、全高は1,315mmに抑えられ、低く構えたプロポーションは維持されています。ホイールベースは2,585mmで、2ドアクーペとしては余裕のある数値です。

    室内も、スペシャルティクーペとしては実用的な広さが確保されていました。後席はさすがに大人が長時間座るには厳しいものの、2ドアであることを考えれば十分なレベルです。トランク容量も日常使いに不便のない水準でした。

    つまり、このクルマは「走り」「技術」「パッケージング」のどれをとっても破綻がない。ただ、それだけでは時代の空気に勝てなかった。そこにこの世代のプレリュードの悲劇があります。

    1998年のマイナーチェンジ

    1998年にはマイナーチェンジが実施されています。外観ではフロントバンパーやリアコンビランプのデザインが変更され、やや精悍な印象になりました。内装の質感も向上し、装備面でも細かな改良が加えられています。

    ただ、このマイナーチェンジで販売が大きく回復することはありませんでした。市場全体がクーペから離れていく流れは、一車種の改良で止められるものではなかったのです。

    Type Sの220psという出力は維持され、ATTSも継続搭載。走りの方向性はブレていません。しかし、ホンダ社内でもプレリュードの後継開発は事実上凍結されていたとされ、このマイナーチェンジが実質的な最終仕様となりました。

    プレリュードが残したもの

    2001年、プレリュードは生産を終了します。1978年の初代から数えて23年、5世代にわたる歴史に幕が下りました。後継車は出ていません。

    ただ、技術的な遺産は確実に残っています。ATTSの左右トルク配分という考え方は、その後レジェンドやインスパイアに搭載されたSH-AWDへと発展しました。FFの限界を機構で超えるというアプローチは、5代目プレリュードが市販車として最初に実証したものです。この技術的な系譜を考えると、BB5〜BB8型は単なる「売れなかった最終型」ではなく、ホンダの駆動技術における重要な実験場だったと言えます。

    プレリュードという車名は、音楽用語で「前奏曲」を意味します。皮肉なことに、5代目は何かの前奏ではなく、ひとつの時代の終奏になりました。けれども、その終奏の中にこそ、次の時代の技術が仕込まれていた。そう考えると、最後のプレリュードは、名前の意味を別の形でまっとうしていたのかもしれません。

  • PRELUDE – BF1【24年ぶりの前奏曲は、ハイブリッドで何を語るか】

    PRELUDE – BF1【24年ぶりの前奏曲は、ハイブリッドで何を語るか】

    プレリュードという名前が、まさか2025年に新車のカタログに戻ってくるとは。

    5代目が生産を終えた2001年から数えて、じつに24年。その間、ホンダのラインナップにスペシャリティクーペは存在しませんでした。

    復活した6代目プレリュード(BF1)は、かつてのデートカーの面影を残しつつも、ハイブリッド専用車という、まったく新しい文法で書かれた一台です。

    「復活」ではなく、結果的にプレリュードになった

    この車の出自を語るうえで、いちばん面白いのは「最初からプレリュードを作ろうとしていたわけではない」という事実です。

    ホンダCEOの三部敏宏氏は、開発の経緯について「このプロジェクトは、別のスポーティなモデルを市場に投入するために設計されたもの」で、「開発にちなんで名付けられた」と明かしています。

    つまり出発点は、電動車時代に「こんなスポーツカーがあったらいいな」というユーザーの潜在需要に応えること。開発責任者の山上智行氏も、新しいハイブリッドスポーツの実現が最初の目的だったと語っています。

    開発が進む中で、常に時代の先端技術を搭載してきたプレリュードの系譜と親和性が見えてきた。だから「前奏曲」の名を冠した、という流れです。

    ここが重要なポイントでしょう。ノスタルジーで車名を引っ張り出したのではなく、中身が先にあって、名前が後からついてきた。これは単なる復刻モデルとは根本的に違う成り立ちです。

    グライダーという着想

    6代目プレリュードのグランドコンセプトは「UNLIMITED GLIDE」。大空を滑空するグライダーをイメージしたものです。開発チームは実際にグライダーを体験し、「非日常のときめき」を追求したといいます。

    このコンセプトは、デザインにもはっきりと反映されています。全長4,520mm、全幅1,880mm、全高1,355mmというボディサイズは、ワイド&ローでありながら全長は4.5mクラスに収まり、街中での取り回しも意識されたバランスです。

    低くシャープなフロントノーズ、抑揚のあるボディライン。歴代プレリュードが守ってきた「低く、伸びやかに」というスタイリングの文法は、しっかり受け継がれています。

    ただ、かつてのリトラクタブルヘッドライトはもちろんありません。代わりに、外側上方に伸びるストライプを成形したマルチファンクションライトが、新しい時代の顔つきを作っています。2025年に「2025〜2026 日本自動車殿堂カーデザインオブザイヤー」を受賞したことからも、このデザインの完成度がうかがえます。

    S+ Shiftという「矛盾」への回答

    パワートレインはホンダの2モーターハイブリッドシステム「e:HEV」。2.0リッター直列4気筒エンジンと2基の高出力モーターを組み合わせ、システム全体で200PS、315Nmを発生します。駆動方式はFFで、プレリュードの伝統を踏襲しています。

    ここで注目すべきは、ホンダ車として初搭載となった制御技術「Honda S+ Shift」です。モーター駆動でありながら、仮想の8段変速で加減速時にエンジン回転数を緻密にコントロールし、有段変速機があるかのようなダイレクトな駆動レスポンスを実現する。要するに、CVT的な滑らかさではなく、「ギアが切り替わる感触」をあえて演出する技術です。

    これは一見すると矛盾に思えます。効率を追求するハイブリッドに、わざわざ非効率な有段変速の「感覚」を載せるわけですから。しかしホンダが解こうとした問いは明確です。電動化時代に「操る喜び」をどう残すか。S+ Shiftはパフォーマンスを上げるための装置ではなく、ドライバーの感覚に応えるための装置なのです。

    ただし、0-100km/h加速が7秒台という数字に対して「600万円台の車としては遅い」という声もあります。ここは評価が分かれるところで、絶対的な速さを求める層にとっては物足りないかもしれません。しかしこの車が目指しているのは、直線番長ではなく、ワインディングや日常の運転で「気持ちいい」と感じられる走りです。

    タイプRの足回りを持つ「非タイプR」

    シャシーまわりの構成は、かなり本気です。フロントサスペンションには、シビック TYPE Rと同じデュアルアクシス・ストラットを採用。トルクステアを抑え、アクセル全開時でも自然なステアリングフィールを確保します。

    さらにアダプティブダンパーシステムで路面状況や走行モードに応じて減衰力を制御し、ブレーキにはBrembo製のフロント大径ベンチレーテッド2ピースディスク(φ350mm)を装備。7パターンの走行モードが選べる仕様も含め、足回りの充実ぶりはスポーツカーそのものです。

    ただ、これはタイプRのような限界性能を追うためではありません。快適性とスポーツ性を高い次元で両立させるための選択です。開発責任者の山上氏が「Hondaらしい」ではなく「Hondaにしかできない」クルマを目指したと語っている通り、ハイブリッドスポーツとしてシビック TYPE Rとは明確に異なる方向性が設定されています。

    617万円という価格が問いかけるもの

    新型プレリュードの価格は617万9,800円(税込)。月販計画は300台。この数字は、かつてデートカーとして大量に売れた時代のプレリュードとは、完全に異なるポジショニングを示しています。

    量販スポーツではなく、限定的かつ象徴的な立ち位置。初期ロット2,000台の抽選販売が行われたことからも、ホンダがこの車を「広く薄く売る」のではなく「深く届ける」つもりであることがわかります。

    価格に対する批判は少なくありません。600万円台でハイブリッド、MTなし、0-100km/hが7秒台。スペックシートだけ見れば割高に映るのは事実です。しかし、Brembo製ブレーキ、アダプティブダンパー、Honda SENSING標準装備、BOSEサウンドシステムといった装備内容を積み上げると、単純に高いとも言い切れない。このあたりは、実際に乗ってみないと評価しにくい領域でしょう。

    「前奏曲」が示す次の楽章

    歴代プレリュードは、つねにホンダの先端技術を世に問う実験台でした。初代は日本初の電動サンルーフ、2代目は日本初の4輪ABS、3代目は世界初の機械式4WS。技術のショーケースであると同時に、ホンダのブランドイメージを牽引する存在でもありました。

    6代目がその系譜に載せたのは、S+ Shiftという「ハイブリッドでも走りの感動を諦めない」技術です。派手なスペックではないけれど、電動化時代における「操る喜び」の定義を、ホンダなりに提示しようとしている。

    プレリュードとは「前奏曲」。この車が前奏であるならば、本編はこれから始まるはずです。ホンダが電動化の時代にどんなスポーツカーを描いていくのか。BF1は、その最初の一音なのだと思います。

  • プレリュード – BA8/BA9/BB1/BB4【バブルの全部入りが、時代に届かなかった4代目】

    プレリュード – BA8/BA9/BB1/BB4【バブルの全部入りが、時代に届かなかった4代目】

    プレリュードの全5世代のなかで、もっとも贅沢に作られたのはどれか。答えは、4代目です。

    ただしこの「贅沢」は、売れ行きには直結しませんでした。バブルの絶頂期に企画・開発され、崩壊直後の1991年に世に出た4代目プレリュード。

    新開発エンジン、電子制御4WS、3ナンバー専用のワイド&ローボディ——。技術と意欲をすべて詰め込んだ一台が、なぜ歴代モデルほどのヒットにならなかったのか。

    その背景を掘り下げると、「時代と車の関係」がよく見えてきます。

    バブルが生んだ、バブル崩壊後のクルマ

    4代目プレリュードが発表されたのは1991年9月。まさにバブルがはじけた直後です。ただ、ここで大事なのは「クルマは発売のタイミングで作られるわけではない」ということ。3代目が1987年に登場しているので、4代目の開発はそのころからスタートしています。つまり、バブル発生とともに開発が始まり、絶頂期に熟成されたクルマなのです。

    先代の3代目は、バブル絶頂期の1988年に約5万8000台を売り上げ、日産シルビア(S13)とともに「デートカー」と呼ばれた時代の寵児でした。今では信じられないほど、2ドアクーペに人気があった時代です。

    その成功を受けて開発された4代目は、当然ながら「もっと上を目指す」という空気のなかで生まれています。開発陣に予算の制約を感じさせない、バブルの空気がそのまま凝縮されたクルマ。ただ、完成した頃には市場の風向きが完全に変わっていました。

    デートカーから、走りのクーペへ

    4代目で最も大きかったのは、コンセプトの転換です。初代から3代目まで、プレリュードは「FFスペシャルティカー」として、スタイルや快適性で勝負するクルマでした。ところが4代目は、路線を大幅に変更します。スペシャルティカーからスポーティカーへ、明確に軸足を移したのです。

    背景にあったのは、1990年に登場したNSXの存在です。NSXが牽引するホンダのスポーツイメージと、同年のレジェンド2ドアハードトップに見られるラグジュアリー性。4代目プレリュードは、その両方をうまく取り込もうとした印象があります。

    外観も一新されました。2代目・3代目の象徴だったリトラクタブルヘッドライトを廃止し、丸みの強い砲弾型のフォルムに。当時ホンダは北米市場で高い評価を得ており、1988年に逆輸入で発売した初代アコードクーペの好評もあって、この北米テイストのデザイン変更は日本市場でも受け入れられました。ただし、リトラの廃止を惜しむ声は少なくありませんでした。

    3ナンバー専用ボディという決断

    4代目プレリュードで見逃せないのは、全車3ナンバーになったことです。ボディサイズは全長4440mm×全幅1765mm×全高1290mm。先代より全長を80mm縮め、全幅を70mm拡大、全高を5mm下げています。いわゆるワイド&ショートのプロポーションです。

    当時のホンダ自身の言葉を借りれば、「新しいプレリュードが最も重視したのは、スポーツ性能を高めること」。全幅を広げた理由は、クルマを大きく見せるためではなく、前席のゆったり感とトレッドの拡大による走行安定性を両立させるためでした。

    面白いのは、発売当初の乗車定員が4名だったこと。リヤシートのセンターに大型コンソールを配置し、あえて5人乗りにしなかった。効率より贅沢さを優先する設計思想は、まさにバブル期の産物です。この後席コンソールは不評で、1993年のマイナーチェンジで廃止されて5名乗車に変更されています。

    ただし、3ナンバー化と2.2Lへの排気量拡大は、日本の税制上はデメリットでもありました。5ナンバー枠を超えたことで自動車税が跳ね上がり、若年層には手が届きにくい存在になってしまったのです。

    H22Aという名機の誕生

    4代目プレリュードの心臓部には、2種類のエンジンが用意されました。Si系に搭載されたF22B型2.2L DOHC(160馬力)と、Si VTEC系に搭載されたH22A型2.2L DOHC VTEC(200馬力)です。

    とりわけH22Aは、ホンダのエンジン史においても特筆すべき存在です。ボア87.0mm×ストローク90.7mmのロングストローク設計ながら、VTECの恩恵で高回転域まで鋭く吹け上がる。200馬力/6800rpm、最大トルク22.3kgm/5500rpm。2.2LのNAでこの数値は、当時としてはかなりのハイスペックでした。

    このH22Aは「エンジンだけで80万円」とも言われたほど、細部にまでホンダの技術が凝縮されたユニットです。FRM(繊維強化金属)シリンダーライナーやクローズドデッキ構造のシリンダーブロックなど、レーシングエンジンに通じる贅沢な作り。後にフォーミュラ3やスーパー・ツーリングカーのベースエンジンとしても採用されています。

    H22Aはその後、5代目プレリュードでは220馬力にまでチューンされ、アコードユーロR(CL1)にも搭載されるなど、ホンダの2.2L系を代表する名機として長く活躍しました。その原点が、この4代目プレリュードなのです。

    電子制御4WSとセナのCM

    4代目のもうひとつの目玉が、ハイパー4WSと呼ばれた電子制御式の四輪操舵システムです。3代目で世界初の量産機械式4WSを実現したプレリュードですが、4代目ではその考え方自体を変えています。

    従来の機械式は、前輪の操舵角に応じて後輪の切れ角が決まるシンプルな仕組みでした。4代目では電子制御化により、操舵角だけでなく車速やハンドル操作の速さも検知して後輪を制御するようになった。高速時の同位相の切れ角を抑えるいっぽう、低速走行時の逆位相の切れ角を拡大し、取り回しのよさと高速安定性を高次元で両立させています。

    足まわりは前後ともダブルウィッシュボーン式で、構成部品を全面刷新。ボディのワイド化と合わせて、走行安定性と乗り心地の質感が大幅に向上しました。当時の自動車ジャーナリストが「90年前後のフルモデルチェンジのなかでも、特に印象に残る」と評したほどです。

    そしてCMには、アイルトン・セナが起用されました。第二期ホンダF1の絶頂期、マクラーレン・ホンダで総合優勝を重ねていたセナが「さあ、走ろうか。」のキャッチコピーとともにプレリュードをドライブする姿は、当時大きな話題になりました。F1の勢いとプレリュードのスポーティ路線は、見事にシンクロしていたのです。

    売れなかった理由、残したもの

    これだけの内容を持ちながら、4代目プレリュードの販売は振るいませんでした。モデル全体の販売台数は約8万5000台。2代目・3代目が年間5万台以上を記録した時代と比べると、明らかに低迷しています。

    理由は複合的です。まず、バブル崩壊によるクーペ市場そのものの縮小。さらに3ナンバー化と2.2Lエンジンによる維持費の増加。リトラクタブルヘッドライトの廃止による従来ファンの離反もあったでしょう。1990年代中盤以降はオデッセイやステップワゴンなどRV系が台頭し、2ドアクーペという選択肢自体が急速に存在感を失っていきました。

    ただ、走りの実力は本物でした。N1耐久シリーズ(現スーパー耐久)では、4WS非搭載のBB4型をベースにしたレース車両が参戦し、無敵を誇ったR32 GT-Rを脅かすほどの戦闘力を発揮しています。改造範囲が極めて狭いN1規定で好成績を残したということは、市販車としてのポテンシャルの高さを証明するものでした。

    型式の整理もしておきましょう。日本仕様では、SiがBA8型、Si 4WSがBA9型、Si VTEC 4WSがBB1型、Si VTECがBB4型。BB4はサンルーフや4WSを省いた軽量志向のモデルで、レースベースにもなった「走り」に振り切ったグレードです。

    4代目プレリュードは、プレリュード全5世代のなかで「ミッシングリンク」と呼ばれることがあります。初代のサンルーフ、2代目のABS、3代目の4WS、5代目の「最後のプレリュード」——。それぞれに語られるエピソードがあるなかで、4代目だけが印象の薄い世代として扱われがちです。

    しかし実態は真逆で、技術的にはもっとも意欲的で、もっとも贅沢に作られた世代でした。H22Aエンジンはその後のホンダスポーツの基幹ユニットとなり、電子制御4WSの知見は5代目のATTS(アクティブ・トルク・トランスファー・システム)へと発展しています。デートカーの殻を破り、本格的なスポーティクーペとして再定義されたのも、この4代目からです。

    時代に恵まれなかったことは事実です。けれど、バブルの熱量がそのまま封じ込められた4代目プレリュードは、ホンダが「全部やりたいことをやった」結果として生まれた、純度の高い一台だったと思います。売れたかどうかではなく、何を目指して何を実現したか。その視点で見ると、この世代のプレリュードは、歴代でもっとも「ホンダらしい」クルマだったのかもしれません。

  • C32/C55 AMG – W203【Cクラスに本気のAMGが宿った転換点】

    C32/C55 AMG – W203【Cクラスに本気のAMGが宿った転換点】

    AMGのCクラスといえば、いまではC63の名前が真っ先に浮かぶかもしれません。ただ、その系譜の「直前」にあたるW203世代のC32 AMGとC55 AMGは、ちょっと独特な存在です。

    AMGがメルセデスの正式な一部門として量産体制を確立しつつあった時期に、Cクラスという「ちょうどいいサイズ」のセダンに本気のパワートレインを載せた。

    ここには、ただの高性能バージョンでは片づけられない転換の匂いがあります。

    W203という器の時代背景

    W203型Cクラスは2000年に登場しました。先代W202が築いた「小さなメルセデス」の市場をさらに広げるべく、デザインも装備も一段モダンになった世代です。ただ、このW203は品質面での評価がやや割れたモデルでもありました。内装の質感やスイッチ類の耐久性について、従来のメルセデスユーザーからは厳しい声もあったのが正直なところです。

    一方で、プラットフォームとしてのポテンシャルは高かった。フロントにマルチリンク、リアにもマルチリンクという贅沢な足回りは、BMWの3シリーズに対抗するために本気で設計されたものです。つまりW203は、AMGが「載せ甲斐のある」シャシーを手にした世代でもあったわけです。

    C32 AMG──スーパーチャージャーという選択

    2001年に登場したC32 AMGは、3.2リッターV6にスーパーチャージャー(インタークーラー付きリショルムコンプレッサー)を組み合わせ、354馬力を発生させました。当時のAMGとしてはやや珍しい過給V6という構成です。なぜV8ではなかったのか。ここにはパッケージングの制約と、AMGの当時の戦略が見えます。

    W203のエンジンルームは、先代W202と比べても劇的に広くなったわけではありません。AMGの主力だった5.4リッターV8をそのまま押し込むには、補機類の取り回しや重量バランスの面でかなりの無理がありました。そこでAMGは、M112型V6をベースにスーパーチャージャーで武装するという手法を選んだのです。

    この判断は結果的に、C32 AMGに独自のキャラクターを与えました。V8のような太いトルクの出方ではなく、スーパーチャージャー特有の低回転からリニアに立ち上がる過給感。レスポンスの良さはターボとは明確に違い、アクセルを踏んだ瞬間から力が出る感覚は、コンパクトなCクラスのボディサイズと相性が良かった。0-100km/h加速は5.2秒。2001年のCクラスとしては、かなり速い部類です。

    トランスミッションは5速ATのみ。マニュアルの設定がなかったことを惜しむ声は当時もありましたが、AMGのCクラスはあくまで「速いセダン」であって、ピュアスポーツカーとは違う立ち位置です。日常の使い勝手と高速域の余裕を両立させるという意味では、ATオンリーの判断は理にかなっていました。

    C55 AMG──ついにV8を載せた意味

    2004年、W203のマイナーチェンジに合わせてC55 AMGが登場します。搭載されたのはM113型5.4リッターV8、367馬力。C32 AMGのスーパーチャージャーV6から、自然吸気V8へのスイッチです。たった13馬力の上乗せに見えますが、この変更の意味はスペックの数字だけでは語れません。

    まず、トルク特性がまったく違います。C32の450Nmに対して、C55は510Nm。しかもそのトルクがNAらしく幅広い回転域で出る。過給のブースト感ではなく、排気量で押し出す力強さ。これはAMGが長年「ハウスルール」としてきた哲学──排気量こそ正義──への回帰でもありました。

    技術的には、W203のエンジンルームにV8を収めるために相当な苦労があったとされています。エキゾーストマニホールドの取り回し、ステアリング系との干渉回避、冷却系の再設計。C55 AMGは単なるエンジン換装ではなく、フロント周りの設計をかなりの部分でやり直した結果です。

    足回りもC32から進化しています。AMG専用のスプリングとダンパーに加え、ブレーキもフロント345mmのドリルドディスクへ強化。車重は1,630kg前後と決して軽くはありませんが、V8のトルクで車体を引っ張る感覚は、C32とはまったく別の乗り物でした。

    2台を分けたもの、つないだもの

    C32 AMGとC55 AMGは、同じW203という箱に載りながら、エンジニアリングの方向性がかなり異なります。C32は「限られたスペースで最大の出力を得る」ための過給戦略。C55は「AMGらしさを妥協せずにCクラスへ落とし込む」ためのV8搭載。どちらが正解というよりも、AMGがCクラスという車格でどこまでやるかを模索していた過程そのものです。

    興味深いのは、この2台がAMGの量産化の歩みと完全にリンクしている点です。1999年にAMGはダイムラー・クライスラーの完全子会社となり、少量生産のチューナーから「メーカー内のパフォーマンスブランド」へと明確に舵を切りました。C32 AMGはその体制転換後、最初期に企画されたモデルのひとつです。

    つまりC32/C55 AMGは、AMGが「外注のスペシャリスト」から「社内の正規部門」になっていく過程で生まれた車です。後のC63 AMG(W204)で確立される「Cクラス+AMG=コンパクトハイパフォーマンスセダンの定番」という図式の、最初の実験がここにあったと言えます。

    中古市場での立ち位置

    現在、W203のC32/C55 AMGは中古市場で比較的手の届きやすい価格帯にあります。ただし、安いからといって気軽に手を出せるかというと、そう単純ではありません。W203世代特有のウィークポイント──電装系のトラブル、サブフレームのブッシュ劣化、ATの制御ユニット不良──は、AMGモデルでも例外ではないからです。

    特にC32 AMGのスーパーチャージャーは、経年でインタークーラーのパイプ接合部やプーリー周辺に注意が必要です。C55 AMGのM113エンジン自体は堅牢ですが、補機類のゴム部品やセンサー類は年式なりの劣化を覚悟する必要があります。

    それでも、この世代のAMGには数字では測れない魅力があります。現行のAMGモデルと比べると電子制御の介入が圧倒的に少なく、ドライバーの操作がダイレクトに車の挙動に出る。よくも悪くも「素の感触」が残っている最後の世代に近いのです。

    Cクラス×AMGの原型として

    W203のC32 AMGとC55 AMGは、華やかなモータースポーツの文脈で語られることは多くありません。DTMベースのCLK-DTM AMGのような派手さもなければ、後継C63のようなアイコン的地位も得ていない。ある意味、系譜の中で「通過点」として扱われがちなモデルです。

    しかし、通過点にこそ意味がある場合があります。AMGがCクラスに何を載せるべきか、どこまでやるべきか、どんなキャラクターを与えるべきか。その試行錯誤の結果がC32とC55という2つの異なる回答でした。

    スーパーチャージャーV6で切り拓き、自然吸気V8で回帰する。この振れ幅こそが、AMGがCクラスという枠組みの中で「自分たちのやり方」を見つけていく過程そのものだったのです。後にC63 AMGが6.2リッターV8で圧倒的な存在感を示せたのは、W203世代の試行があったからこそ。最初の一歩は、いつも地味に見えるものです。

  • C43 AMG – W202【AMGが「特注屋」をやめた最初の一歩】

    C43 AMG – W202【AMGが「特注屋」をやめた最初の一歩】

    AMGという名前に、いまどんなイメージを持っているでしょうか。メルセデスの高性能グレード、カタログに載っている選択肢のひとつ、あるいはサーキット由来のブランド。どれも間違いではありません。

    ただ、そのイメージが成立する出発点には、ある1台の存在があります。1997年に登場したW202型C43 AMG。これが、AMGが「外部の特注屋」から「メルセデスの正規ライン」へと変わる、最初の具体的な一歩でした。

    AMGが「社内化」された時代

    1990年代半ばのAMGは、まだ微妙な立ち位置にありました。1993年にメルセデス・ベンツとの協業契約が結ばれ、1999年には完全子会社化されるわけですが、C43 AMGが企画された時期はちょうどその過渡期にあたります。

    つまり、AMGはもう単なるアフターマーケットチューナーではないけれど、まだメルセデスそのものでもない。そんな曖昧な時期です。

    それまでのAMGモデルは、基本的にメルセデスの完成車をベースに少量生産で仕立てるスタイルでした。エンジンを手組みし、足回りを専用セッティングにし、内外装を仕上げる。言ってしまえば「高級な改造車」の延長線上にあったわけです。しかしC43 AMGは違いました。メルセデスの正規工場ラインで生産される、初めてのAMGコンプリートカーだったのです。

    この違いは、単に生産方法の話にとどまりません。メーカー保証がつく、ディーラーで普通に買える、カタログに載る。AMGが「知る人ぞ知る存在」から「ブランド内グレード」へと移行する、その商品企画上の転換点がC43 AMGでした。

    V8をCクラスに押し込むという企画

    C43 AMGの心臓部は、4.3リッターV8エンジン(M113型)です。最高出力は306馬力。当時のCクラスは直4や直6が主力でしたから、そこにV8を載せるというのは、かなり大胆な判断でした。

    ただし、ここがAMGらしいところで、このエンジンはゼロから専用設計されたものではありません。M113型はEクラスやSクラスにも搭載される汎用V8ユニットで、C43 AMGではそれをチューニングして搭載しています。排気系の最適化、ECUのリマップ、吸気系の見直しなどが施されていますが、ベースはあくまで量産エンジンです。

    これは弱点ではなく、むしろ戦略です。専用エンジンを起こせばコストが跳ね上がり、少量生産のままでは「量産AMG」という企画自体が成立しません。既存の量産V8をうまく活かすことで、性能と生産性の両立を図った。要するに、AMGが量産ブランドとして成立するための現実的な解だったわけです。

    組み合わされるトランスミッションは5速AT。マニュアルの設定はありません。ここにも「スパルタンなスポーツカー」ではなく「速いメルセデス」を目指すという方向性が見えます。

    走りの性格と、Cクラスの枠の中での仕上げ

    C43 AMGの走りは、一言で言えば「上質な速さ」です。306馬力のV8は低回転から豊かなトルクを発生し、高回転まで回して絞り出すタイプではありません。街中でも高速でも、アクセルを踏めば太いトルクがすっと立ち上がる。このフィーリングは、後のAMGモデルにも通じる「AMGらしさ」の原型と言えます。

    足回りはAMG専用のスプリングとダンパー、スタビライザーで固められ、ブレーキも強化されています。ただし、当時のBMW M3(E36)のようにサーキット志向で詰めた車ではありません。あくまでメルセデスの快適性を維持しながら、動力性能を大幅に引き上げるというアプローチです。

    ここが評価の分かれるところでもあります。ピュアスポーツとしての切れ味を求める層からすれば、C43 AMGはやや「ぬるい」と映ったかもしれません。しかしメルセデスが目指したのは、M3のような尖った存在ではなく、メルセデスオーナーが自然に選べる高性能グレードでした。その意味では、狙い通りの仕上がりだったと言えます。

    BMWとの距離感

    1990年代後半、高性能セダン市場で最も存在感があったのは間違いなくBMW M3です。E36型M3は直6の高回転エンジンとFRレイアウトで、スポーツセダンの基準を作っていました。C43 AMGは、その市場に対するメルセデスからの回答でもあります。

    ただし、回答の仕方がまったく違う。M3が「エンジニアが作ったスポーツカー」だとすれば、C43 AMGは「ブランド戦略が生んだ高性能車」です。M3は専用エンジン、専用ボディパネル、専用サスペンションジオメトリーと、車両全体を競技指向で再設計しています。一方のC43 AMGは、量産Cクラスのプラットフォームとボディをほぼそのまま使い、パワートレインと足回りの味付けで差別化しています。

    どちらが正しいという話ではありません。ただ、この違いが後のAMGとMの方向性の違い──AMGは「メルセデスの延長線上にある速さ」、Mは「BMWとは別軸のスポーツ性」──を決定づけたとも言えます。C43 AMGは、AMGブランドの性格を定義した車でもあるのです。

    後のAMGに残したもの

    C43 AMGの生産期間は短く、W202型の末期にあたる1997年から2000年までの約3年間です。後継のW203型ではC32 AMGへとバトンが渡され、スーパーチャージャー付きV6という別のアプローチに切り替わりました。C43 AMGが確立した「V8×Cクラス」という組み合わせは、その後C55 AMGで復活し、さらにC63 AMGへと発展していきます。

    ちなみに現行世代では「C43」の名前が復活していますが、こちらは4気筒ターボ+電動化という、まったく異なるパッケージです。名前は同じでも、中身の思想はかなり違います。ただ、「AMGをカタログモデルとして成立させる」という企画の根本は、1997年のC43 AMGがつくった道の上にあります。

    もうひとつ重要なのは、C43 AMGの成功が、AMGの完全子会社化(1999年)を後押ししたという点です。量産ラインで作れる、ディーラーで売れる、ちゃんと利益が出る。その実績がなければ、メルセデスがAMGを完全に取り込む判断には至らなかったかもしれません。

    「最初の量産AMG」が意味すること

    C43 AMGは、スペックだけを見れば飛び抜けた存在ではありません。306馬力のV8は速いけれど、驚異的ではない。足回りも専用だけれど、革新的ではない。内外装の差別化も、後のAMGモデルほど大胆ではありません。

    しかし、この車の本当の意味は性能の数字にはありません。AMGというブランドが、少量生産の職人仕事から、メルセデスの商品戦略の柱へと変わる転換点。それがC43 AMGです。いまや年間10万台以上を売るAMGブランドの出発点が、このW202の控えめなセダンだったというのは、なかなか味わい深い事実ではないでしょうか。

  • プレリュード – AB/BA1【”デートカー”の原点にして、ホンダの技術実験場】

    プレリュード – AB/BA1【”デートカー”の原点にして、ホンダの技術実験場】

    「デートカー」という言葉を聞いて、真っ先にこのクルマを思い浮かべる人は少なくないでしょう。

    1982年に登場した2代目ホンダ・プレリュード、型式AB/BA1。ただ、この車をただの「モテるためのクルマ」として片づけてしまうのは、かなりもったいない話です。中身を見ていくと、ホンダがこの1台にどれだけの技術的野心を詰め込んでいたかがわかります。

    初代の課題を超えるために

    2代目プレリュードを語るには、まず初代の立ち位置を押さえておく必要があります。初代プレリュードは1978年、ホンダの新販売チャンネル「ベルノ店」の発足と同時に専売モデルとして登場しました。シビック、アコードに続くホンダ第3のモデルであり、日本車初の電動サンルーフを標準装備した意欲作です。

    ただ、初代にはひとつ弱点がありました。パワートレーンをアコードから譲り受けていたため、「アコードのクーペ版」と見られがちだったのです。サスペンションやブレーキは専用設計で、海外では走りの評価も高かったのですが、エンジンが流用であるという指摘は開発陣にとって悔しいものだったようです。

    実際、初代は約4年間で累計約31万3,000台を生産したものの、そのうち約8割が海外向けでした。国内での存在感は正直、薄かった。2代目はこの状況を変えなければならなかったわけです。

    低さへの執念が生んだ構造

    1982年11月26日、「FFスーパーボルテージ」というキャッチコピーとともに2代目プレリュードが登場します。CMのBGMにはラヴェルのボレロが使われました。まず目を引くのは、その異様なまでに低いシルエットです。全高はわずか1,295mm。リトラクタブルヘッドライトを採用し、先代よりボンネットを80〜100mmも下げています。

    この低さを実現した立役者が、フロントのダブルウィッシュボーン式サスペンションです。FF車、つまり横置きエンジンの前輪駆動車にダブルウィッシュボーンを組み込むのは、当時としてはかなり異例でした。横置きエンジンがあるとアッパーアームを長く取れないという物理的な制約があるからです。

    ホンダの解決策はユニークでした。通常タイヤの下方にあるアッパーアームを、あえてタイヤの上方に配置したのです。これによってロアアームとの間隔を大きく取り、スペース効率を確保しつつ、コーナリング時のアッパーアームへの負担も軽減しました。低いボンネットのためにストラットが使えない、でもダブルウィッシュボーンも普通には入らない。その制約を逆手に取った設計思想は、のちにホンダの足回りの代名詞となるダブルウィッシュボーンの原点とも言えるものです。

    先端技術の見本市

    2代目プレリュードに投入された新技術は、サスペンションだけではありません。グレード構成は上からXX、XZ、受注生産のXCという3本立てで、XXとXZには日本初の4輪アンチロックブレーキ(4W A.L.B.)がオプション設定されました。XXにはさらに、カラーフィルター式液晶デジタルメーターもオプションで用意されています。

    トランスミッションは5速MTとロックアップ機構付き4速AT「ホンダマチック」の2種類。ホンダ車として初めて180km/hの速度リミッターが搭載されたのもこのモデルです。

    搭載エンジンは1.8L直列4気筒SOHCのES型。1気筒あたり吸気2・排気1の計12バルブという独特な構成で、2連装CVキャブレターとの組み合わせで5速MT車が125ps、4速AT車が120psを発揮しました。この12バルブ構成は、2つの吸気バルブの開弁時期をずらすことでスワール効果と急速燃焼を実現するもので、のちのVTECの萌芽とも言える発想が含まれていました。

    B20A搭載の2.0Si──BA1の意味

    2代目プレリュードの物語には、重要な「第二幕」があります。1985年6月、2.0L直列4気筒DOHCのB20A型エンジンを搭載した新グレード「2.0Si」が追加されたのです。型式はBA1。ここが少しややこしいポイントで、BA型という型式は本来1987年登場の3代目プレリュード全般を指すのですが、2代目のこのグレードだけが先行してBA1を名乗っています。

    B20A型は3代目アコード譲りの2L DOHC 16バルブユニットで、PGM-FI(電子制御燃料噴射)を採用。5速MT車・4速AT車ともに160ps/19.0kgmという、当時のFFスペシャルティカーとしてはかなりのハイスペックを叩き出しました。2.0Siのボンネット左側にはパワーバルジが設けられていますが、これは大きくなったDOHCエンジンが元のボンネットに収まりきらなかったためです。

    このB20A型エンジンの開発思想は、のちの3代目プレリュードの開発記録からも読み取れます。開発責任者は「過給に頼らず、2L自然吸気の枠の中で最大級の出力と使いやすさを両立する」ことにこだわったとされています。エンジンを後方に18度傾けて搭載し、クランクシャフトの位置を従来の1.8Lエンジンより33mm下げることで、低重心化と低ボンネットの両立を図りました。

    なぜ「デートカー」になったのか

    ここまで技術的な話を並べてきましたが、世間がこのクルマに付けたあだ名は「デートカー」でした。横幅が広く車高が低い、当時の日本車離れしたスタイリングが女性にも好評で、運転席側から助手席のリクライニングを操作できるという装備も話題を呼びました。

    1982年という時代を思い出してください。バブルはまだ来ていませんが、その前夜の空気が漂い始めていた頃です。クルマはモテのための必須アイテムであり、若者たちはオヤジ臭いセダンよりカッコいいクーペを求めていました。リトラクタブルライトを閉じたときの、のっぺりと低いノーズ。ブラックアウトされたフロントマスク。この佇まいが、時代の気分にぴたりとはまったのです。

    ただ、皮肉なことに、ホンダが本当に誇りたかったのはデザインだけではなく、その下に隠された技術の塊だったはずです。FF用ダブルウィッシュボーン、日本初の4輪ABS、12バルブの独自エンジン。先進メカニズムよりもスタイルが評価されたことについて、当時の記事でも「皮肉」と表現されています。

    累計60万台、そして3代目へ

    2代目プレリュードは1987年の生産終了までに約16万6,910台が国内で生産されました。海外を含めた累計では60万台を超えたとされ、FFスペシャルティカーとして異例の大ヒットを記録しています。

    そして1987年4月、3代目プレリュード(BA4/BA5型)にバトンが渡されます。3代目はエンジンの後傾レイアウトをさらに進め、2代目より30mm低いボンネットを実現。量産車世界初の機械式4WSを搭載し、欧州カー・オブ・ザ・イヤーで3位に入るなど、国際的にも高い評価を得ました。この3代目の技術的飛躍は、2代目で蒔かれた種が花開いたものと言ってよいでしょう。

    2代目プレリュードのBA1型は、グループAレースのホモロゲーションも取得しており、1986〜1987年の全日本ツーリングカー選手権にも参戦しています。デートカーの皮をかぶったレーシングベースという、なんとも不思議な二面性を持っていたわけです。

    2代目プレリュードは、ホンダにとって単なるヒット商品ではありませんでした。ダブルウィッシュボーンの量産FF車への採用、DOHCエンジンのスペシャルティカーへの展開、先進安全装備の市販化。ここで試みられた技術の数々は、その後のアコードやシビック、そしてプレリュード自身の後継モデルへと受け継がれていきます。「前奏曲」を意味するプレリュードという車名は、まさにこの世代にこそふさわしいものだったのかもしれません。

  • プレリュード – SN 【ホンダが初めて「色気」を設計した車】

    プレリュード – SN 【ホンダが初めて「色気」を設計した車】

    ホンダという会社は、長いあいだ「実用」と「技術」の会社でした。シビック、アコード、ライフ。

    どれも真面目で、合理的で、道具として優秀。

    けれど1970年代後半、ホンダはひとつの問いに直面します。「技術だけで、人はクルマに惚れるのか?」。

    その答えとして生まれたのが、1978年登場の初代プレリュード、SN型です。

    ホンダに「スペシャルティ」がなかった時代

    1970年代のホンダは、まだ四輪メーカーとしての歴史が浅い会社でした。軽自動車のN360で市場に食い込み、シビックで世界に名を売り、アコードで北米市場を切り拓いた。けれどそのラインナップは、どこまでいっても「暮らしの道具」の域を出ていなかったんです。

    同じ時代、トヨタにはセリカがあり、日産にはシルビアがありました。いわゆるスペシャルティカー、つまり「実用性よりも雰囲気やスタイルで選ばれるクーペ」という市場が、1970年代の日本では確実に育っていた。ホンダにはそれがなかった。技術屋としての信頼は得ていたけれど、「カッコいいから欲しい」と言わせるクルマがなかったわけです。

    アコードの上に載せた「もうひとつの意味」

    初代プレリュードの開発は、アコードのプラットフォームを活用する形で進められました。型式はSN型。エンジンはアコードと共通のEK型1.8L直列4気筒SOHCで、出力は90馬力。スペックだけを見れば、特別に速い車ではありません。

    ただ、このクルマの本質はスペックにはありません。ホンダが初めて「スタイルで選ばれること」を設計の中心に据えた、という事実にあります。低く構えたノーズ、リトラクタブルヘッドライト、ロングノーズ・ショートデッキのプロポーション。当時のホンダ車にはなかった色気が、このクルマには意図的に込められていました。

    リトラクタブルヘッドライトは、日本車としてはかなり早い採用例です。これは空力的な合理性もありますが、それ以上に「見た目のインパクト」として効いていた。ホンダが機能だけでなく、情緒的な魅力を設計要素として真正面から扱った最初の証拠と言っていいでしょう。

    走りよりも「佇まい」で勝負した理由

    SN型プレリュードの走行性能は、正直に言えば突出したものではありませんでした。1.8LのSOHCエンジンに、トランスミッションは5速MTまたはホンダマチック(2速AT)。車重は約1,000kg前後で、軽快さはあったものの、スポーツカーと呼ぶには少し穏やかです。

    でも、それはおそらく意図的な選択でした。ホンダがこのクルマで狙ったのは、セリカやシルビアのような「走りのクーペ」ではなく、もう少し大人びた、パーソナルクーペとしてのポジションです。デートカーという言葉が定着するのはもう少し先ですが、SN型はその原型に近い空気をすでに持っていました。

    インテリアにも、その意図は表れています。当時としては上質な仕立てで、運転席まわりの造形にも「見せる」意識がある。実用車の延長ではなく、「この車に乗っている自分」を演出するための空間設計が、SN型にはすでに存在していたんです。

    北米市場という隠れた主戦場

    SN型プレリュードを語るうえで見落とせないのが、北米市場の存在です。1970年代後半のホンダは、アコードの成功によって北米での地盤を急速に固めていた時期でした。プレリュードは、その北米市場で「ホンダにもスタイリッシュなクーペがある」と示すための戦略的な一手でもあったんです。

    実際、北米ではアコードのユーザー層よりやや若い、あるいはライフスタイル志向の強い層にプレリュードは受け入れられました。日本国内だけを見ると販売台数は控えめでしたが、北米での評価がこのモデルの存続を支え、後の2代目・3代目へとつながる道を開いたと言えます。

    「速さ」ではなく「在り方」を提示した初代

    SN型プレリュードは、1982年に2代目(AB/BA型)へバトンを渡します。2代目以降、プレリュードは世界初の4WS(四輪操舵)を搭載するなど、技術的なトピックで語られることが増えていきます。けれど、初代が果たした役割はそれとは少し違います。

    初代がやったのは、「ホンダにもこういうクルマが作れる」という宣言です。技術で勝つのではなく、存在の仕方そのもので市場にメッセージを送った。それまで実用車メーカーとして見られていたホンダが、「感性に訴えるクルマ」を自分たちの手で形にできると証明した。それがSN型の最大の功績です。

    プレリュードという名前は「前奏曲」を意味します。初代SN型は、まさにその名の通り、ホンダのスペシャルティカーの歴史における序曲でした。派手なスペックはなくとも、この一台がなければ、後のプレリュード神話も、ホンダのデートカー文化も、おそらく存在しなかった。静かに、しかし確実に、ホンダの四輪史に新しい回路を開いた車です。

  • プレリュード – BA4/BA5/BA7【デートカーの王が本気で走りを仕込んだ世代】

    プレリュード – BA4/BA5/BA7【デートカーの王が本気で走りを仕込んだ世代】

    「デートカー」という言葉に、少しバカにしたニュアンスを感じる人は多いかもしれません。

    でも1987年に登場した3代目プレリュードは、その称号を背負いながら、世界初の量産4WS(四輪操舵)を市販車に載せてきた車です。

    見た目で売れた車が、なぜそこまで技術に踏み込んだのか。この世代のプレリュードには、バブル期のホンダが持っていた独特の野心が詰まっています。

    バブルの空気と、プレリュードの立ち位置

    3代目プレリュード(BA4/BA5型、後期追加のBA7型)が世に出たのは1987年4月。日本経済はまさにバブルの上昇気流のまっただ中で、若者がクルマに求めるものは「速さ」だけではなく、「スタイル」と「先進性」の両方でした。プレリュードはその空気を完璧に読み取った1台です。

    初代・2代目で築いた「ホンダのスペシャルティクーペ」という立ち位置を、この3代目は一気に押し上げました。2代目(AB/BA1型)がリトラクタブルヘッドライトの低いノーズで人気を博していたところに、3代目はさらに低く、さらにワイドに、そしてさらに洗練されたデザインで登場します。全高はわずか1,295mm。当時の日本車としては異例の低さで、これは「低いことが正義」だった時代の価値観をストレートに反映しています。

    競合はシルビア(S13)、セリカ(ST160系からST180系へ移行する時期)といったスペシャルティクーペ群。ただ、プレリュードが他と違ったのは、FFでありながらスポーツ性を追求し、しかもそこに世界初の技術を惜しげもなく投入してきた点です。

    4WSという賭け

    3代目プレリュードを語るうえで、4WS(機械式四輪操舵)は絶対に外せません。ホンダはこの車で、世界で初めて量産車に舵角応動型の4WSを搭載しました。正式名称は「ホンダ・4WS」。前輪の操舵角に応じて後輪も同位相・逆位相に転舵する、純粋に機械式のシステムです。

    仕組みを簡単に言えば、低速域ではハンドルを大きく切ると後輪が前輪と逆方向に切れて小回りが利き、高速域ではハンドルを小さく切ると後輪が前輪と同じ方向に切れて安定性が増す、というものです。電子制御ではなく、ステアリングギアボックスからの機械的なリンケージで後輪を動かしていたのが当時としては画期的でした。

    なぜホンダがこの技術をプレリュードに載せたのか。ひとつには、FFスペシャルティクーペという商品の弱点を技術で克服しようとした意図があります。FFは構造上、フロントヘビーになりやすく、高速コーナリングではアンダーステア(前輪が外に逃げる傾向)が出やすい。4WSはその弱点を補い、FF車でありながら旋回性能を高める手段として合理的でした。

    もうひとつは、当時のホンダが持っていた「技術で驚かせたい」という企業体質です。F1で連勝を重ねていた時代のホンダにとって、市販車に世界初の技術を載せることは、ブランドの説得力を高める最良の方法でした。プレリュードはその発信装置として最適だったわけです。

    エンジンと走りの中身

    搭載エンジンは、主にB20A型の2.0L直列4気筒。グレードによってキャブレター仕様(BA4型、110ps)とPGM-FI(電子制御燃料噴射)仕様(BA5型、145ps)に分かれます。上級グレードのSiやSi 4WSに載るPGM-FI仕様のB20A型は、DOHC16バルブで最高出力145ps。リッターあたり72.5psは、当時のNAエンジンとしてはなかなかの水準です。

    1989年のマイナーチェンジでは、Si系のエンジンが改良されて最高出力が150psに引き上げられました。さらに注目すべきは、後期型で追加されたBA7型の存在です。BA7にはB21A型の2.1Lエンジンが搭載され、排気量アップによってトルク特性が改善されています。これは北米市場を意識した展開でもありましたが、国内でも「Si VTEC」としてラインナップされ、後のVTEC時代を予感させる布石になりました。

    足回りはフロントがダブルウィッシュボーン、リアもダブルウィッシュボーン。当時のホンダが全車種に展開しつつあった4輪ダブルウィッシュボーンサスペンションを、プレリュードでも惜しみなく採用しています。この足回りの質の高さは、FF車とは思えないコーナリングの素直さにつながっていました。

    ただし、4WSについては評価が割れたのも事実です。高速レーンチェンジでの安定感は確かに印象的でしたが、低速での逆位相転舵に慣れないドライバーからは「動きが唐突に感じる」という声もありました。技術としては正しいのに、人間の感覚との擦り合わせが完全ではなかった。この経験は、次世代の4代目プレリュード(BB1/BB4型)で電子制御式に進化する際の重要な教訓になっています。

    デザインという武器

    3代目プレリュードの商品力を語るとき、走りの話だけでは片手落ちです。この車が圧倒的に売れた最大の理由は、やはりデザインでした。

    ロー&ワイドなプロポーション、フラッシュサーフェス化されたボディ、リトラクタブルヘッドライト。2代目で確立された「低くてカッコいいホンダクーペ」の文法を、3代目はさらに洗練させています。特にサイドビューのウェッジシェイプは、当時の日本車デザインの中でも群を抜いて美しいと評価されました。

    インテリアも凝っています。運転席まわりのデザインは、コクピット感を強調しつつも上質さを両立。当時としては珍しいデジタルメーターの採用や、助手席側まで回り込むダッシュボードのデザインなど、「乗る人を特別な気分にさせる」ことへの執着が随所に見えます。

    この「見た目の良さ」と「中身の先進性」の組み合わせが、バブル期の若者に刺さりました。月販1万台を超えるヒットを記録し、プレリュードはホンダの中でもアコードに次ぐ重要な収益源になっています。デートカーと呼ばれたことを揶揄する向きもありますが、あの時代に若い層を大量にホンダに引き込んだ功績は、冷静に見れば非常に大きいものです。

    系譜の中での意味

    3代目プレリュードが残したものは、販売台数だけではありません。この世代で実用化された4WSは、ホンダにとって四輪操舵技術の原点になりました。4代目では電子制御化され、さらに洗練された形で継承されています。そして現在、ホンダが電動化時代に向けて再び四輪操舵に注目していることを考えると、BA4/BA5世代の挑戦は決して一過性のものではなかったと言えます。

    また、4輪ダブルウィッシュボーンサスペンションによるFF車の走りの質の追求は、同時期のアコード(CA型)やシビック(EF型)とも共鳴するホンダ全体の設計思想でした。プレリュードはその旗艦的な役割を担い、「FFでもここまで走れる」という証明をスペシャルティクーペの形で世に示したわけです。

    一方で、この世代の成功があまりに大きかったことが、次の4代目に過大な期待をかける原因にもなりました。4代目BB1/BB4型は技術的にはさらに進化しましたが、バブル崩壊後の市場環境の変化もあり、3代目ほどの商業的成功は収められていません。つまり3代目は、プレリュードというモデルの頂点であると同時に、スペシャルティクーペ市場そのものの頂点でもあったのです。

    技術と色気の両立した遺産

    3代目プレリュードを一言で表すなら、「色気のある技術実験車」でしょう。世界初の4WSを載せ、4輪ダブルウィッシュボーンで足回りを固め、DOHCエンジンで走りを担保する。それでいて、見た目は文句なしにカッコいい。技術と商品性を高い次元で両立させた、バブル期ホンダの理想形のような車です。

    デートカーという呼び名は、ある意味ではこの車の本質を矮小化しています。確かにデートに使われたでしょう。でもその裏側には、FFの限界を技術で押し広げようとしたエンジニアの意地と、世界初を市販車に載せるというホンダの企業としての覚悟がありました。見た目だけの車なら、わざわざ4WSなんて開発しません。

    BA4/BA5/BA7型プレリュードは、あの時代の空気を吸って生まれた車です。ただ、その中身は時代に流されたのではなく、時代を利用して技術を世に問うた車でした。そこがこの世代のプレリュードの、いちばん面白いところだと思います。

  • スイフトスポーツ – ZC31S【踏み切れる、回し切れる、振り回せる】

    スイフトスポーツ – ZC31S【踏み切れる、回し切れる、振り回せる】

    初代スイフトスポーツ(HT81S)は、スズキがコンパクトスポーツという市場に放った実験弾のような存在でした。

    面白いけど粗い。楽しいけど足りない。そんな評価が正直なところだったと思います。

    では二代目はどうだったのか。

    ZC31Sは、その「足りない」を一つずつ潰しにかかったクルマです。しかも、ただ改善しただけではなく、走りの質そのものを一段上に引き上げた。ここにこそ、このモデルの本当の意味があります。

    スイフト自体が変わった

    ZC31Sを語るなら、まずベースとなったスイフト(ZC11S/ZC21S/ZC71S系)の話をしないわけにはいきません。

    2004年に登場した二代目スイフトは、初代とはまるで別のクルマでした。欧州市場を強く意識した開発で、プラットフォームは新設計。ボディ剛性は大幅に向上し、足回りのジオメトリーもゼロから見直されています。

    つまり、スイフトスポーツが良くなった最大の理由は、「土台が根本的に変わった」ことにあります。初代HT81Sは旧世代のカルタス系プラットフォームがベースでしたから、いくらスポーツチューンを施しても構造的な限界がありました。ZC31Sでは、その制約がまるごと外れたわけです。

    スズキの開発陣は、欧州のBセグメント市場で戦えるシャシーを作るという明確な目標を持っていました。結果として生まれたプラットフォームは、標準のスイフトですら「このクラスにしては走りがいい」と言われるほどの完成度。スポーツ版がそこに乗るなら、悪くなるはずがありません。

    M16A──自然吸気の正攻法

    ZC31Sの心臓部は、1.6L直列4気筒のM16A型エンジンです。最高出力は125馬力、最大トルクは15.1kgf·m。数字だけ見ると、飛び抜けて速いわけではありません。ただ、このエンジンの本質は最高出力ではなく、回し方の気持ちよさにあります。

    M16Aは可変バルブタイミング機構(VVT)を採用した自然吸気エンジンで、低回転域のトルクを確保しつつ、高回転まで素直に回る特性を持っていました。ターボのようなドラマチックな加速はない代わりに、アクセル操作に対するレスポンスが非常にリニアです。踏んだ分だけ、遅れなく応える。この感触が、車重1,060kg前後の軽い車体と組み合わさると、数字以上に「速い」と感じさせるわけです。

    当時の競合を見ると、フィットRSは直噴1.5Lで120馬力、コルトラリーアートは1.5Lターボで163馬力。ZC31Sの125馬力はちょうど中間あたりですが、パワーウェイトレシオで見ると、軽さのおかげで十分に戦える水準でした。しかもスズキは、このエンジンにわざわざターボを載せるという選択をしなかった。自然吸気でまとめたことで、整備性やコスト、そして何より「アクセルで操れる感覚」を優先したと見るのが自然です。

    シャシーの説得力

    ZC31Sの走りを語るとき、エンジン以上に評価されたのが足回りです。フロントにストラット、リアにトーションビームという形式自体はコンパクトカーの定番ですが、チューニングの方向性が明確でした。

    ダンパーの減衰力、スプリングレート、スタビライザーの設定は、標準スイフトに対してかなりスポーツ寄りに振られています。それでいて、日常域でゴツゴツと突き上げるような不快さは抑えられていた。この「締まっているけど硬すぎない」バランスは、当時の自動車メディアでも繰り返し評価されたポイントです。

    特にリアのトーションビームは、構造がシンプルなぶん軽量で、セッティング次第では素直な挙動を作りやすいという利点があります。ZC31Sはその特性をうまく活かして、リアが粘りながら旋回する感覚を実現していました。独立懸架ではないことを弱点と見る向きもありますが、この車格・この価格帯では、むしろ合理的な選択です。

    ステアリングは電動パワステ。油圧に比べるとフィードバックの面で不利とされることが多い方式ですが、ZC31Sでは操舵の正確さと軽快さのバランスが取れていて、大きな不満が出にくい仕上がりでした。

    価格という最大の武器

    ZC31Sが発売当時の価格は、5速MT仕様で約159万円。これは2005年当時としても、スポーツモデルとしては破格と言っていい水準でした。

    同時期のライバルを見ると、シビックタイプR(FD2)は約283万円、インテグラタイプR(DC5)は約250万円。もちろん車格もパワーも違いますが、「スポーツカーに乗りたい」という動機を持つ人にとって、ZC31Sの価格は圧倒的に低いハードルでした。しかも安いだけでなく、走りの質がちゃんと伴っている。これが重要です。

    安くて楽しい、という評価は、裏を返せば「安いなりの楽しさでしょ」と軽く見られるリスクも含んでいます。ZC31Sがそう見られなかったのは、実際にサーキットやジムカーナで結果を出したからです。モータースポーツの入門カテゴリでは定番車種となり、ワンメイクレースも開催されました。「安いけど本物」という評価が、ユーザーの実体験を通じて定着していったわけです。

    初代が蒔いた種を育てた

    初代HT81Sは、スズキにとっての「コンパクトスポーツをやってみる」という宣言でした。市場の反応を見る実験的な側面が強く、完成度よりも意欲が先に立っていた部分があります。

    ZC31Sは、その実験結果を受けて「次はちゃんと作る」と決めたクルマです。プラットフォームを刷新し、エンジンを専用設計に近いレベルで仕上げ、足回りのセッティングも詰めた。初代で見えた課題──ボディ剛性の不足、エンジンの線の細さ、足回りの煮詰め不足──を、一つずつ解決しています。

    そしてこのZC31Sが築いた「安くて速くて楽しい」というブランドイメージは、後継のZC32S、さらにZC33Sへとそのまま引き継がれていきます。特にZC33Sでターボ化に踏み切れたのは、ZC31Sの時代に「スイフトスポーツは本気のスポーツカーである」という信頼が確立されていたからこそでしょう。

    「ちゃんとしたスポーツカー」の価値

    ZC31Sは、何か一つが飛び抜けて凄いクルマではありません。エンジンは125馬力、車体は普通のコンパクトカーベース、内装も質素。カタログ上のスペックだけを見れば、地味と言われても仕方がない。

    でも、このクルマの本当の価値は「全部がちょうどいい」ところにあります。パワーと車重のバランス、シャシーの素性の良さ、アクセルとステアリングの応答性、そして手が届く価格。どれか一つを突出させるのではなく、すべてを高い水準で揃えたことが、ZC31Sの設計思想そのものです。

    2000年代半ば、スポーツカーは高性能化と高価格化の一途をたどっていました。その流れの中で、「普通の人が普通に買えて、でも走りは本物」というクルマを出したこと。それ自体が、スズキのスイフトスポーツというシリーズの存在意義を決定づけた判断だったと思います。ZC31Sは、スイフトスポーツが「シリーズ」として続いていく理由を、走りで証明した一台です。

  • ロードスター – ND5RC/NDERC 【もう一度、原点に戻ってきた四代目】

    ロードスター – ND5RC/NDERC 【もう一度、原点に戻ってきた四代目】

    NDはNCで一度現代化したロードスターを、少しだけ原点側へ引き戻すためのモデルでした。

    マツダ自身も四代目の開発テーマを「Innovate in order to preserve」と説明しており、環境性能や安全性能の要求がはるかに厳しくなった時代でも、初代が持っていた軽量スポーツの純粋な楽しさを守ることを狙っていました。

    しかもNDは歴代で最もコンパクトなロードスターで、先代NCより100kg以上軽いと発表されています。

    つまりNDは、進化のために足していく世代ではなく、守るために削っていった世代でした。  

    「もっと立派」ではなく「もっと本質」

    NDの面白さはここです。

    普通なら世代が進むほど、ボディは大きく、装備は増え、スポーツカーもどんどん重くなっていく。でもNDは逆をやった。

    主査の山本修弘氏はwebCGのインタビューで、開発の途中でいろいろ見つめ直し、「本当に欲しいものだけにしよう。不要なものはそぎ落とそう」と考えたと語っています。

    しかもリーマンショックによる開発の停滞すら、ロードスターは本来どうあるべきかを考え直す機会になったとも振り返っている。

    NDは、苦しい状況の中で原点回帰を選び直したクルマでした。  

    だからNDは、軽いだけじゃなく小さい

    NDを語るとき、つい「100kg以上軽量化」に目が行きます。

    でも本質はそこだけじゃない。

    マツダは四代目を「歴代で最もコンパクト」だと説明していて、実際にNDは全体の寸法感からしてかなり凝縮されています。ロードスターは昔からパワーの数字で勝負するクルマではなく、ドライバーがクルマを使い切れることに価値があった。

    NDはそこに真正面から戻っていて、サイズ、重量、着座感、視界、操作感まで含めて「人が主役」のスポーツカーとして組み直されている。単なるダイエットではなく、クルマ全体を小さく濃くしたのがNDなのです。  

    SKYACTIV世代の「人馬一体」

    NDは新世代マツダの商品群の一員でもありました。つまり魂動デザインとSKYACTIV技術の文脈の中で作られたロードスターです。

    ただし、ここで面白いのは、ロードスターが単にその新世代技術の実験台になったわけではないこと。

    マツダは四代目について、SKYACTIV技術を採り入れつつも、感覚や感性を通じて味わう楽しさを高めることに開発の焦点を置いたと説明しています。

    要するにNDは、新技術を見せびらかすためのロードスターではなく、新技術で人馬一体を磨き直したロードスターだったわけです。  

    大事なのは「削る勇気」だった

    山本修弘氏の話を追うと、NDの開発思想はかなりはっきりしています。

    世界市場からは当然いろいろな要求が来る。もっと大きく、もっと豪華に、もっと強く、という方向です。

    でも山本氏はそれを全部そのまま飲み込まず、ロードスターは何を残すべきかを見極めた。webCGのインタビューで語っている「本当に欲しいものだけ」「不要なものはそぎ落とそう」という一節は、NDのすべてをかなり正確に表しています。

    NDが高性能化一辺倒にならず、あくまで「軽快で、使い切れて、楽しい」側に踏みとどまったのは、この判断があったからです。  

    ND5RCは、四代目の核そのもの

    まずソフトトップのND5RC。

    これは四代目ロードスターの思想をいちばんストレートに表しているモデルです。軽く、小さく、開けて、FRで走る。その原点が最も濃い。

    2015年にグローバル導入が始まったNDは、「2015-2016日本カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞し、さらに2016年には「World Car of the Year」と「World Car Design of the Year」も獲得しました。

    評価されたのは単なるデザインの美しさだけではなく、現代の条件の中でライトウェイトスポーツの価値をこれだけ鮮明に提示したことだったと見ていいです。

    ND5RCは、四代目の本命というより、ロードスターという思想の再提示そのものでした。  

    速さより反応の良さ

    NDの美点は、スペック表よりもドライバーへのフィードバックにあります。

    アクセルに対する車体の出方、ステアに対する回頭の軽さ、座った瞬間から感じるコンパクトさ。そういう一つひとつの反応が薄まっていない。

    マツダが四代目で繰り返し打ち出したのも、絶対性能ではなく「pure driving fun」でした。だからNDは大排気量の速さや高級GT的な重厚さではなく、操作に対してクルマがすぐ返事をしてくることが強みになっている。

    ロードスターらしさがいちばん解像度高く見える世代の一つです。  

    RFで出た、また別の答え

    2016年に追加されたロードスターRFもかなり重要です。

    RFは「Retractable Fastback」の名の通り、単なる電動ハードトップではなく、ファストバックの美しいシルエットそのものを商品価値にしたモデルでした。

    マツダは、先代のリトラクタブルハードトップが目指した「オープンカーの楽しさを身近に」という価値を引き継ぎながら、従来の考え方にとらわれず、さらに進化させたと説明しています。

    しかもRFはファストバックスタイルでありながら、トランク容量をソフトトップと同等に維持し、限られたスペースにルーフを効率よく収納する仕組みまで実現していた。

    ただの屋根付きではなく、クーペっぽい美しさとオープンの楽しさを両立させた別解だったわけです。  

    NDERCのオトナさ

    RFことNDERCの意味は、ロードスターの世界を少し広げたことにあります。

    ソフトトップの軽快さとは違う、静粛性や包まれ感やファストバックならではの雰囲気を加えながら、それでも「Lots of Fun」の価値からは外れない。

    マツダもRFを、ロードスターが26年間守ってきた価値を体現する一員だと説明しており、さらに日本導入時には「オープンカーの楽しさを、より多くのお客様にお届けするために」と明言しています。

    つまりRFは、ロードスターを別物にしたのではなく、ロードスターにもう一つの入口を増やしたモデルでした。  

    2018年改良で、NDはさらに熟した

    NDは原点回帰だけで終わっていません。

    2018年の商品改良では、マツダ自身が四代目のコンセプトを「人生を楽しもう ― Joy of the Moment, Joy of Life」と説明し、ロードスター/RFの両方で人馬一体の走りの楽しさをさらに深める方向を打ち出しました。

    海外向けリリースでは2.0Lエンジンの高回転化と出力向上も公表されていて、NDは「軽いからこれで十分」に留まらず、ドライバーの反応にさらに気持ちよく応える方向へ磨かれていt他のです。

    原点回帰のまま止まるのではなく、原点を現代の技術で熟成させたのが後期NDです。  

    NDらしさの象徴、『990S』

    NDの思想がどれだけ本気だったかは、2021年の990Sを見るとよく分かります。

    マツダはこの特別仕様車について、「ロードスターの原点に立ち返り、『軽いことによる楽しさ』を追求した最軽量グレード」と説明しています。

    つまり四代目は、世代後半になってもなお「もっと軽さへ」「もっと原点へ」という方向に掘り進められていた。普通は世代後半になるほど装備追加や商品力の底上げに寄るものですが、NDはそこでさえ軽さの価値を掘り返してくる。

    これはかなりロードスターらしいし、かなりNDらしいです。  

    だからこそ、原点回帰でありながら懐古ではない

    これがNDの惚れ惚れするほど上手い設計です。

    軽くした。小さくした。オープンの楽しさを前に出した。だから一見すると昔へ戻ったように見える。

    でも実際には、SKYACTIV世代の技術、現代の安全要求、デザインの完成度、RFのような新しい選択肢まで全部持ち込んだ上で、それでも原点に着地している。懐古趣味ではなく、現代の条件で初代の理想をもう一回成立させたのがNDでした。

    2016年に累計生産100万台を達成できたのも、ロードスターが単なる昔の名車でなく、今も更新される存在であり続けたからです。  

    まとめ

    ND5RC/NDERCロードスターを一言でいえば、

    現代の技術で、もう一度ロードスターの原点を作り直した四代目です。

    NAみたいな発明でも。

    NBみたいな定着でも。

    NCみたいな現代化でもない。

    NDはその全部を踏まえた上で、「じゃあ今、ロードスターはどうあるべきか」にきっちり答えた世代です。