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  • ロードスター – ND5RC/NDERC 【もう一度、原点に戻ってきた四代目】

    ロードスター – ND5RC/NDERC 【もう一度、原点に戻ってきた四代目】

    NDはNCで一度現代化したロードスターを、少しだけ原点側へ引き戻すためのモデルでした。

    マツダ自身も四代目の開発テーマを「Innovate in order to preserve」と説明しており、環境性能や安全性能の要求がはるかに厳しくなった時代でも、初代が持っていた軽量スポーツの純粋な楽しさを守ることを狙っていました。

    しかもNDは歴代で最もコンパクトなロードスターで、先代NCより100kg以上軽いと発表されています。

    つまりNDは、進化のために足していく世代ではなく、守るために削っていった世代でした。  

    「もっと立派」ではなく「もっと本質」

    NDの面白さはここです。

    普通なら世代が進むほど、ボディは大きく、装備は増え、スポーツカーもどんどん重くなっていく。でもNDは逆をやった。

    主査の山本修弘氏はwebCGのインタビューで、開発の途中でいろいろ見つめ直し、「本当に欲しいものだけにしよう。不要なものはそぎ落とそう」と考えたと語っています。

    しかもリーマンショックによる開発の停滞すら、ロードスターは本来どうあるべきかを考え直す機会になったとも振り返っている。

    NDは、苦しい状況の中で原点回帰を選び直したクルマでした。  

    だからNDは、軽いだけじゃなく小さい

    NDを語るとき、つい「100kg以上軽量化」に目が行きます。

    でも本質はそこだけじゃない。

    マツダは四代目を「歴代で最もコンパクト」だと説明していて、実際にNDは全体の寸法感からしてかなり凝縮されています。ロードスターは昔からパワーの数字で勝負するクルマではなく、ドライバーがクルマを使い切れることに価値があった。

    NDはそこに真正面から戻っていて、サイズ、重量、着座感、視界、操作感まで含めて「人が主役」のスポーツカーとして組み直されている。単なるダイエットではなく、クルマ全体を小さく濃くしたのがNDなのです。  

    SKYACTIV世代の「人馬一体」

    NDは新世代マツダの商品群の一員でもありました。つまり魂動デザインとSKYACTIV技術の文脈の中で作られたロードスターです。

    ただし、ここで面白いのは、ロードスターが単にその新世代技術の実験台になったわけではないこと。

    マツダは四代目について、SKYACTIV技術を採り入れつつも、感覚や感性を通じて味わう楽しさを高めることに開発の焦点を置いたと説明しています。

    要するにNDは、新技術を見せびらかすためのロードスターではなく、新技術で人馬一体を磨き直したロードスターだったわけです。  

    大事なのは「削る勇気」だった

    山本修弘氏の話を追うと、NDの開発思想はかなりはっきりしています。

    世界市場からは当然いろいろな要求が来る。もっと大きく、もっと豪華に、もっと強く、という方向です。

    でも山本氏はそれを全部そのまま飲み込まず、ロードスターは何を残すべきかを見極めた。webCGのインタビューで語っている「本当に欲しいものだけ」「不要なものはそぎ落とそう」という一節は、NDのすべてをかなり正確に表しています。

    NDが高性能化一辺倒にならず、あくまで「軽快で、使い切れて、楽しい」側に踏みとどまったのは、この判断があったからです。  

    ND5RCは、四代目の核そのもの

    まずソフトトップのND5RC。

    これは四代目ロードスターの思想をいちばんストレートに表しているモデルです。軽く、小さく、開けて、FRで走る。その原点が最も濃い。

    2015年にグローバル導入が始まったNDは、「2015-2016日本カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞し、さらに2016年には「World Car of the Year」と「World Car Design of the Year」も獲得しました。

    評価されたのは単なるデザインの美しさだけではなく、現代の条件の中でライトウェイトスポーツの価値をこれだけ鮮明に提示したことだったと見ていいです。

    ND5RCは、四代目の本命というより、ロードスターという思想の再提示そのものでした。  

    速さより反応の良さ

    NDの美点は、スペック表よりもドライバーへのフィードバックにあります。

    アクセルに対する車体の出方、ステアに対する回頭の軽さ、座った瞬間から感じるコンパクトさ。そういう一つひとつの反応が薄まっていない。

    マツダが四代目で繰り返し打ち出したのも、絶対性能ではなく「pure driving fun」でした。だからNDは大排気量の速さや高級GT的な重厚さではなく、操作に対してクルマがすぐ返事をしてくることが強みになっている。

    ロードスターらしさがいちばん解像度高く見える世代の一つです。  

    RFで出た、また別の答え

    2016年に追加されたロードスターRFもかなり重要です。

    RFは「Retractable Fastback」の名の通り、単なる電動ハードトップではなく、ファストバックの美しいシルエットそのものを商品価値にしたモデルでした。

    マツダは、先代のリトラクタブルハードトップが目指した「オープンカーの楽しさを身近に」という価値を引き継ぎながら、従来の考え方にとらわれず、さらに進化させたと説明しています。

    しかもRFはファストバックスタイルでありながら、トランク容量をソフトトップと同等に維持し、限られたスペースにルーフを効率よく収納する仕組みまで実現していた。

    ただの屋根付きではなく、クーペっぽい美しさとオープンの楽しさを両立させた別解だったわけです。  

    NDERCのオトナさ

    RFことNDERCの意味は、ロードスターの世界を少し広げたことにあります。

    ソフトトップの軽快さとは違う、静粛性や包まれ感やファストバックならではの雰囲気を加えながら、それでも「Lots of Fun」の価値からは外れない。

    マツダもRFを、ロードスターが26年間守ってきた価値を体現する一員だと説明しており、さらに日本導入時には「オープンカーの楽しさを、より多くのお客様にお届けするために」と明言しています。

    つまりRFは、ロードスターを別物にしたのではなく、ロードスターにもう一つの入口を増やしたモデルでした。  

    2018年改良で、NDはさらに熟した

    NDは原点回帰だけで終わっていません。

    2018年の商品改良では、マツダ自身が四代目のコンセプトを「人生を楽しもう ― Joy of the Moment, Joy of Life」と説明し、ロードスター/RFの両方で人馬一体の走りの楽しさをさらに深める方向を打ち出しました。

    海外向けリリースでは2.0Lエンジンの高回転化と出力向上も公表されていて、NDは「軽いからこれで十分」に留まらず、ドライバーの反応にさらに気持ちよく応える方向へ磨かれていt他のです。

    原点回帰のまま止まるのではなく、原点を現代の技術で熟成させたのが後期NDです。  

    NDらしさの象徴、『990S』

    NDの思想がどれだけ本気だったかは、2021年の990Sを見るとよく分かります。

    マツダはこの特別仕様車について、「ロードスターの原点に立ち返り、『軽いことによる楽しさ』を追求した最軽量グレード」と説明しています。

    つまり四代目は、世代後半になってもなお「もっと軽さへ」「もっと原点へ」という方向に掘り進められていた。普通は世代後半になるほど装備追加や商品力の底上げに寄るものですが、NDはそこでさえ軽さの価値を掘り返してくる。

    これはかなりロードスターらしいし、かなりNDらしいです。  

    だからこそ、原点回帰でありながら懐古ではない

    これがNDの惚れ惚れするほど上手い設計です。

    軽くした。小さくした。オープンの楽しさを前に出した。だから一見すると昔へ戻ったように見える。

    でも実際には、SKYACTIV世代の技術、現代の安全要求、デザインの完成度、RFのような新しい選択肢まで全部持ち込んだ上で、それでも原点に着地している。懐古趣味ではなく、現代の条件で初代の理想をもう一回成立させたのがNDでした。

    2016年に累計生産100万台を達成できたのも、ロードスターが単なる昔の名車でなく、今も更新される存在であり続けたからです。  

    まとめ

    ND5RC/NDERCロードスターを一言でいえば、

    現代の技術で、もう一度ロードスターの原点を作り直した四代目です。

    NAみたいな発明でも。

    NBみたいな定着でも。

    NCみたいな現代化でもない。

    NDはその全部を踏まえた上で、「じゃあ今、ロードスターはどうあるべきか」にきっちり答えた世代です。

  • プレリュード – BA4/BA5/BA7【デートカーの王が本気で走りを仕込んだ世代】

    プレリュード – BA4/BA5/BA7【デートカーの王が本気で走りを仕込んだ世代】

    「デートカー」という言葉に、少しバカにしたニュアンスを感じる人は多いかもしれません。

    でも1987年に登場した3代目プレリュードは、その称号を背負いながら、世界初の量産4WS(四輪操舵)を市販車に載せてきた車です。

    見た目で売れた車が、なぜそこまで技術に踏み込んだのか。この世代のプレリュードには、バブル期のホンダが持っていた独特の野心が詰まっています。

    バブルの空気と、プレリュードの立ち位置

    3代目プレリュード(BA4/BA5型、後期追加のBA7型)が世に出たのは1987年4月。日本経済はまさにバブルの上昇気流のまっただ中で、若者がクルマに求めるものは「速さ」だけではなく、「スタイル」と「先進性」の両方でした。プレリュードはその空気を完璧に読み取った1台です。

    初代・2代目で築いた「ホンダのスペシャルティクーペ」という立ち位置を、この3代目は一気に押し上げました。2代目(AB/BA1型)がリトラクタブルヘッドライトの低いノーズで人気を博していたところに、3代目はさらに低く、さらにワイドに、そしてさらに洗練されたデザインで登場します。全高はわずか1,295mm。当時の日本車としては異例の低さで、これは「低いことが正義」だった時代の価値観をストレートに反映しています。

    競合はシルビア(S13)、セリカ(ST160系からST180系へ移行する時期)といったスペシャルティクーペ群。ただ、プレリュードが他と違ったのは、FFでありながらスポーツ性を追求し、しかもそこに世界初の技術を惜しげもなく投入してきた点です。

    4WSという賭け

    3代目プレリュードを語るうえで、4WS(機械式四輪操舵)は絶対に外せません。ホンダはこの車で、世界で初めて量産車に舵角応動型の4WSを搭載しました。正式名称は「ホンダ・4WS」。前輪の操舵角に応じて後輪も同位相・逆位相に転舵する、純粋に機械式のシステムです。

    仕組みを簡単に言えば、低速域ではハンドルを大きく切ると後輪が前輪と逆方向に切れて小回りが利き、高速域ではハンドルを小さく切ると後輪が前輪と同じ方向に切れて安定性が増す、というものです。電子制御ではなく、ステアリングギアボックスからの機械的なリンケージで後輪を動かしていたのが当時としては画期的でした。

    なぜホンダがこの技術をプレリュードに載せたのか。ひとつには、FFスペシャルティクーペという商品の弱点を技術で克服しようとした意図があります。FFは構造上、フロントヘビーになりやすく、高速コーナリングではアンダーステア(前輪が外に逃げる傾向)が出やすい。4WSはその弱点を補い、FF車でありながら旋回性能を高める手段として合理的でした。

    もうひとつは、当時のホンダが持っていた「技術で驚かせたい」という企業体質です。F1で連勝を重ねていた時代のホンダにとって、市販車に世界初の技術を載せることは、ブランドの説得力を高める最良の方法でした。プレリュードはその発信装置として最適だったわけです。

    エンジンと走りの中身

    搭載エンジンは、主にB20A型の2.0L直列4気筒。グレードによってキャブレター仕様(BA4型、110ps)とPGM-FI(電子制御燃料噴射)仕様(BA5型、145ps)に分かれます。上級グレードのSiやSi 4WSに載るPGM-FI仕様のB20A型は、DOHC16バルブで最高出力145ps。リッターあたり72.5psは、当時のNAエンジンとしてはなかなかの水準です。

    1989年のマイナーチェンジでは、Si系のエンジンが改良されて最高出力が150psに引き上げられました。さらに注目すべきは、後期型で追加されたBA7型の存在です。BA7にはB21A型の2.1Lエンジンが搭載され、排気量アップによってトルク特性が改善されています。これは北米市場を意識した展開でもありましたが、国内でも「Si VTEC」としてラインナップされ、後のVTEC時代を予感させる布石になりました。

    足回りはフロントがダブルウィッシュボーン、リアもダブルウィッシュボーン。当時のホンダが全車種に展開しつつあった4輪ダブルウィッシュボーンサスペンションを、プレリュードでも惜しみなく採用しています。この足回りの質の高さは、FF車とは思えないコーナリングの素直さにつながっていました。

    ただし、4WSについては評価が割れたのも事実です。高速レーンチェンジでの安定感は確かに印象的でしたが、低速での逆位相転舵に慣れないドライバーからは「動きが唐突に感じる」という声もありました。技術としては正しいのに、人間の感覚との擦り合わせが完全ではなかった。この経験は、次世代の4代目プレリュード(BB1/BB4型)で電子制御式に進化する際の重要な教訓になっています。

    デザインという武器

    3代目プレリュードの商品力を語るとき、走りの話だけでは片手落ちです。この車が圧倒的に売れた最大の理由は、やはりデザインでした。

    ロー&ワイドなプロポーション、フラッシュサーフェス化されたボディ、リトラクタブルヘッドライト。2代目で確立された「低くてカッコいいホンダクーペ」の文法を、3代目はさらに洗練させています。特にサイドビューのウェッジシェイプは、当時の日本車デザインの中でも群を抜いて美しいと評価されました。

    インテリアも凝っています。運転席まわりのデザインは、コクピット感を強調しつつも上質さを両立。当時としては珍しいデジタルメーターの採用や、助手席側まで回り込むダッシュボードのデザインなど、「乗る人を特別な気分にさせる」ことへの執着が随所に見えます。

    この「見た目の良さ」と「中身の先進性」の組み合わせが、バブル期の若者に刺さりました。月販1万台を超えるヒットを記録し、プレリュードはホンダの中でもアコードに次ぐ重要な収益源になっています。デートカーと呼ばれたことを揶揄する向きもありますが、あの時代に若い層を大量にホンダに引き込んだ功績は、冷静に見れば非常に大きいものです。

    系譜の中での意味

    3代目プレリュードが残したものは、販売台数だけではありません。この世代で実用化された4WSは、ホンダにとって四輪操舵技術の原点になりました。4代目では電子制御化され、さらに洗練された形で継承されています。そして現在、ホンダが電動化時代に向けて再び四輪操舵に注目していることを考えると、BA4/BA5世代の挑戦は決して一過性のものではなかったと言えます。

    また、4輪ダブルウィッシュボーンサスペンションによるFF車の走りの質の追求は、同時期のアコード(CA型)やシビック(EF型)とも共鳴するホンダ全体の設計思想でした。プレリュードはその旗艦的な役割を担い、「FFでもここまで走れる」という証明をスペシャルティクーペの形で世に示したわけです。

    一方で、この世代の成功があまりに大きかったことが、次の4代目に過大な期待をかける原因にもなりました。4代目BB1/BB4型は技術的にはさらに進化しましたが、バブル崩壊後の市場環境の変化もあり、3代目ほどの商業的成功は収められていません。つまり3代目は、プレリュードというモデルの頂点であると同時に、スペシャルティクーペ市場そのものの頂点でもあったのです。

    技術と色気の両立した遺産

    3代目プレリュードを一言で表すなら、「色気のある技術実験車」でしょう。世界初の4WSを載せ、4輪ダブルウィッシュボーンで足回りを固め、DOHCエンジンで走りを担保する。それでいて、見た目は文句なしにカッコいい。技術と商品性を高い次元で両立させた、バブル期ホンダの理想形のような車です。

    デートカーという呼び名は、ある意味ではこの車の本質を矮小化しています。確かにデートに使われたでしょう。でもその裏側には、FFの限界を技術で押し広げようとしたエンジニアの意地と、世界初を市販車に載せるというホンダの企業としての覚悟がありました。見た目だけの車なら、わざわざ4WSなんて開発しません。

    BA4/BA5/BA7型プレリュードは、あの時代の空気を吸って生まれた車です。ただ、その中身は時代に流されたのではなく、時代を利用して技術を世に問うた車でした。そこがこの世代のプレリュードの、いちばん面白いところだと思います。

  • プレリュード – SN 【ホンダが初めて「色気」を設計した車】

    プレリュード – SN 【ホンダが初めて「色気」を設計した車】

    ホンダという会社は、長いあいだ「実用」と「技術」の会社でした。シビック、アコード、ライフ。

    どれも真面目で、合理的で、道具として優秀。

    けれど1970年代後半、ホンダはひとつの問いに直面します。「技術だけで、人はクルマに惚れるのか?」。

    その答えとして生まれたのが、1978年登場の初代プレリュード、SN型です。

    ホンダに「スペシャルティ」がなかった時代

    1970年代のホンダは、まだ四輪メーカーとしての歴史が浅い会社でした。軽自動車のN360で市場に食い込み、シビックで世界に名を売り、アコードで北米市場を切り拓いた。けれどそのラインナップは、どこまでいっても「暮らしの道具」の域を出ていなかったんです。

    同じ時代、トヨタにはセリカがあり、日産にはシルビアがありました。いわゆるスペシャルティカー、つまり「実用性よりも雰囲気やスタイルで選ばれるクーペ」という市場が、1970年代の日本では確実に育っていた。ホンダにはそれがなかった。技術屋としての信頼は得ていたけれど、「カッコいいから欲しい」と言わせるクルマがなかったわけです。

    アコードの上に載せた「もうひとつの意味」

    初代プレリュードの開発は、アコードのプラットフォームを活用する形で進められました。型式はSN型。エンジンはアコードと共通のEK型1.8L直列4気筒SOHCで、出力は90馬力。スペックだけを見れば、特別に速い車ではありません。

    ただ、このクルマの本質はスペックにはありません。ホンダが初めて「スタイルで選ばれること」を設計の中心に据えた、という事実にあります。低く構えたノーズ、リトラクタブルヘッドライト、ロングノーズ・ショートデッキのプロポーション。当時のホンダ車にはなかった色気が、このクルマには意図的に込められていました。

    リトラクタブルヘッドライトは、日本車としてはかなり早い採用例です。これは空力的な合理性もありますが、それ以上に「見た目のインパクト」として効いていた。ホンダが機能だけでなく、情緒的な魅力を設計要素として真正面から扱った最初の証拠と言っていいでしょう。

    走りよりも「佇まい」で勝負した理由

    SN型プレリュードの走行性能は、正直に言えば突出したものではありませんでした。1.8LのSOHCエンジンに、トランスミッションは5速MTまたはホンダマチック(2速AT)。車重は約1,000kg前後で、軽快さはあったものの、スポーツカーと呼ぶには少し穏やかです。

    でも、それはおそらく意図的な選択でした。ホンダがこのクルマで狙ったのは、セリカやシルビアのような「走りのクーペ」ではなく、もう少し大人びた、パーソナルクーペとしてのポジションです。デートカーという言葉が定着するのはもう少し先ですが、SN型はその原型に近い空気をすでに持っていました。

    インテリアにも、その意図は表れています。当時としては上質な仕立てで、運転席まわりの造形にも「見せる」意識がある。実用車の延長ではなく、「この車に乗っている自分」を演出するための空間設計が、SN型にはすでに存在していたんです。

    北米市場という隠れた主戦場

    SN型プレリュードを語るうえで見落とせないのが、北米市場の存在です。1970年代後半のホンダは、アコードの成功によって北米での地盤を急速に固めていた時期でした。プレリュードは、その北米市場で「ホンダにもスタイリッシュなクーペがある」と示すための戦略的な一手でもあったんです。

    実際、北米ではアコードのユーザー層よりやや若い、あるいはライフスタイル志向の強い層にプレリュードは受け入れられました。日本国内だけを見ると販売台数は控えめでしたが、北米での評価がこのモデルの存続を支え、後の2代目・3代目へとつながる道を開いたと言えます。

    「速さ」ではなく「在り方」を提示した初代

    SN型プレリュードは、1982年に2代目(AB/BA型)へバトンを渡します。2代目以降、プレリュードは世界初の4WS(四輪操舵)を搭載するなど、技術的なトピックで語られることが増えていきます。けれど、初代が果たした役割はそれとは少し違います。

    初代がやったのは、「ホンダにもこういうクルマが作れる」という宣言です。技術で勝つのではなく、存在の仕方そのもので市場にメッセージを送った。それまで実用車メーカーとして見られていたホンダが、「感性に訴えるクルマ」を自分たちの手で形にできると証明した。それがSN型の最大の功績です。

    プレリュードという名前は「前奏曲」を意味します。初代SN型は、まさにその名の通り、ホンダのスペシャルティカーの歴史における序曲でした。派手なスペックはなくとも、この一台がなければ、後のプレリュード神話も、ホンダのデートカー文化も、おそらく存在しなかった。静かに、しかし確実に、ホンダの四輪史に新しい回路を開いた車です。

  • プレリュード – AB/BA1【”デートカー”の原点にして、ホンダの技術実験場】

    プレリュード – AB/BA1【”デートカー”の原点にして、ホンダの技術実験場】

    「デートカー」という言葉を聞いて、真っ先にこのクルマを思い浮かべる人は少なくないでしょう。

    1982年に登場した2代目ホンダ・プレリュード、型式AB/BA1。ただ、この車をただの「モテるためのクルマ」として片づけてしまうのは、かなりもったいない話です。中身を見ていくと、ホンダがこの1台にどれだけの技術的野心を詰め込んでいたかがわかります。

    初代の課題を超えるために

    2代目プレリュードを語るには、まず初代の立ち位置を押さえておく必要があります。初代プレリュードは1978年、ホンダの新販売チャンネル「ベルノ店」の発足と同時に専売モデルとして登場しました。シビック、アコードに続くホンダ第3のモデルであり、日本車初の電動サンルーフを標準装備した意欲作です。

    ただ、初代にはひとつ弱点がありました。パワートレーンをアコードから譲り受けていたため、「アコードのクーペ版」と見られがちだったのです。サスペンションやブレーキは専用設計で、海外では走りの評価も高かったのですが、エンジンが流用であるという指摘は開発陣にとって悔しいものだったようです。

    実際、初代は約4年間で累計約31万3,000台を生産したものの、そのうち約8割が海外向けでした。国内での存在感は正直、薄かった。2代目はこの状況を変えなければならなかったわけです。

    低さへの執念が生んだ構造

    1982年11月26日、「FFスーパーボルテージ」というキャッチコピーとともに2代目プレリュードが登場します。CMのBGMにはラヴェルのボレロが使われました。まず目を引くのは、その異様なまでに低いシルエットです。全高はわずか1,295mm。リトラクタブルヘッドライトを採用し、先代よりボンネットを80〜100mmも下げています。

    この低さを実現した立役者が、フロントのダブルウィッシュボーン式サスペンションです。FF車、つまり横置きエンジンの前輪駆動車にダブルウィッシュボーンを組み込むのは、当時としてはかなり異例でした。横置きエンジンがあるとアッパーアームを長く取れないという物理的な制約があるからです。

    ホンダの解決策はユニークでした。通常タイヤの下方にあるアッパーアームを、あえてタイヤの上方に配置したのです。これによってロアアームとの間隔を大きく取り、スペース効率を確保しつつ、コーナリング時のアッパーアームへの負担も軽減しました。低いボンネットのためにストラットが使えない、でもダブルウィッシュボーンも普通には入らない。その制約を逆手に取った設計思想は、のちにホンダの足回りの代名詞となるダブルウィッシュボーンの原点とも言えるものです。

    先端技術の見本市

    2代目プレリュードに投入された新技術は、サスペンションだけではありません。グレード構成は上からXX、XZ、受注生産のXCという3本立てで、XXとXZには日本初の4輪アンチロックブレーキ(4W A.L.B.)がオプション設定されました。XXにはさらに、カラーフィルター式液晶デジタルメーターもオプションで用意されています。

    トランスミッションは5速MTとロックアップ機構付き4速AT「ホンダマチック」の2種類。ホンダ車として初めて180km/hの速度リミッターが搭載されたのもこのモデルです。

    搭載エンジンは1.8L直列4気筒SOHCのES型。1気筒あたり吸気2・排気1の計12バルブという独特な構成で、2連装CVキャブレターとの組み合わせで5速MT車が125ps、4速AT車が120psを発揮しました。この12バルブ構成は、2つの吸気バルブの開弁時期をずらすことでスワール効果と急速燃焼を実現するもので、のちのVTECの萌芽とも言える発想が含まれていました。

    B20A搭載の2.0Si──BA1の意味

    2代目プレリュードの物語には、重要な「第二幕」があります。1985年6月、2.0L直列4気筒DOHCのB20A型エンジンを搭載した新グレード「2.0Si」が追加されたのです。型式はBA1。ここが少しややこしいポイントで、BA型という型式は本来1987年登場の3代目プレリュード全般を指すのですが、2代目のこのグレードだけが先行してBA1を名乗っています。

    B20A型は3代目アコード譲りの2L DOHC 16バルブユニットで、PGM-FI(電子制御燃料噴射)を採用。5速MT車・4速AT車ともに160ps/19.0kgmという、当時のFFスペシャルティカーとしてはかなりのハイスペックを叩き出しました。2.0Siのボンネット左側にはパワーバルジが設けられていますが、これは大きくなったDOHCエンジンが元のボンネットに収まりきらなかったためです。

    このB20A型エンジンの開発思想は、のちの3代目プレリュードの開発記録からも読み取れます。開発責任者は「過給に頼らず、2L自然吸気の枠の中で最大級の出力と使いやすさを両立する」ことにこだわったとされています。エンジンを後方に18度傾けて搭載し、クランクシャフトの位置を従来の1.8Lエンジンより33mm下げることで、低重心化と低ボンネットの両立を図りました。

    なぜ「デートカー」になったのか

    ここまで技術的な話を並べてきましたが、世間がこのクルマに付けたあだ名は「デートカー」でした。横幅が広く車高が低い、当時の日本車離れしたスタイリングが女性にも好評で、運転席側から助手席のリクライニングを操作できるという装備も話題を呼びました。

    1982年という時代を思い出してください。バブルはまだ来ていませんが、その前夜の空気が漂い始めていた頃です。クルマはモテのための必須アイテムであり、若者たちはオヤジ臭いセダンよりカッコいいクーペを求めていました。リトラクタブルライトを閉じたときの、のっぺりと低いノーズ。ブラックアウトされたフロントマスク。この佇まいが、時代の気分にぴたりとはまったのです。

    ただ、皮肉なことに、ホンダが本当に誇りたかったのはデザインだけではなく、その下に隠された技術の塊だったはずです。FF用ダブルウィッシュボーン、日本初の4輪ABS、12バルブの独自エンジン。先進メカニズムよりもスタイルが評価されたことについて、当時の記事でも「皮肉」と表現されています。

    累計60万台、そして3代目へ

    2代目プレリュードは1987年の生産終了までに約16万6,910台が国内で生産されました。海外を含めた累計では60万台を超えたとされ、FFスペシャルティカーとして異例の大ヒットを記録しています。

    そして1987年4月、3代目プレリュード(BA4/BA5型)にバトンが渡されます。3代目はエンジンの後傾レイアウトをさらに進め、2代目より30mm低いボンネットを実現。量産車世界初の機械式4WSを搭載し、欧州カー・オブ・ザ・イヤーで3位に入るなど、国際的にも高い評価を得ました。この3代目の技術的飛躍は、2代目で蒔かれた種が花開いたものと言ってよいでしょう。

    2代目プレリュードのBA1型は、グループAレースのホモロゲーションも取得しており、1986〜1987年の全日本ツーリングカー選手権にも参戦しています。デートカーの皮をかぶったレーシングベースという、なんとも不思議な二面性を持っていたわけです。

    2代目プレリュードは、ホンダにとって単なるヒット商品ではありませんでした。ダブルウィッシュボーンの量産FF車への採用、DOHCエンジンのスペシャルティカーへの展開、先進安全装備の市販化。ここで試みられた技術の数々は、その後のアコードやシビック、そしてプレリュード自身の後継モデルへと受け継がれていきます。「前奏曲」を意味するプレリュードという車名は、まさにこの世代にこそふさわしいものだったのかもしれません。

  • スイフトスポーツ – ZC31S【踏み切れる、回し切れる、振り回せる】

    スイフトスポーツ – ZC31S【踏み切れる、回し切れる、振り回せる】

    初代スイフトスポーツ(HT81S)は、スズキがコンパクトスポーツという市場に放った実験弾のような存在でした。

    面白いけど粗い。楽しいけど足りない。そんな評価が正直なところだったと思います。

    では二代目はどうだったのか。

    ZC31Sは、その「足りない」を一つずつ潰しにかかったクルマです。しかも、ただ改善しただけではなく、走りの質そのものを一段上に引き上げた。ここにこそ、このモデルの本当の意味があります。

    スイフト自体が変わった

    ZC31Sを語るなら、まずベースとなったスイフト(ZC11S/ZC21S/ZC71S系)の話をしないわけにはいきません。

    2004年に登場した二代目スイフトは、初代とはまるで別のクルマでした。欧州市場を強く意識した開発で、プラットフォームは新設計。ボディ剛性は大幅に向上し、足回りのジオメトリーもゼロから見直されています。

    つまり、スイフトスポーツが良くなった最大の理由は、「土台が根本的に変わった」ことにあります。初代HT81Sは旧世代のカルタス系プラットフォームがベースでしたから、いくらスポーツチューンを施しても構造的な限界がありました。ZC31Sでは、その制約がまるごと外れたわけです。

    スズキの開発陣は、欧州のBセグメント市場で戦えるシャシーを作るという明確な目標を持っていました。結果として生まれたプラットフォームは、標準のスイフトですら「このクラスにしては走りがいい」と言われるほどの完成度。スポーツ版がそこに乗るなら、悪くなるはずがありません。

    M16A──自然吸気の正攻法

    ZC31Sの心臓部は、1.6L直列4気筒のM16A型エンジンです。最高出力は125馬力、最大トルクは15.1kgf·m。数字だけ見ると、飛び抜けて速いわけではありません。ただ、このエンジンの本質は最高出力ではなく、回し方の気持ちよさにあります。

    M16Aは可変バルブタイミング機構(VVT)を採用した自然吸気エンジンで、低回転域のトルクを確保しつつ、高回転まで素直に回る特性を持っていました。ターボのようなドラマチックな加速はない代わりに、アクセル操作に対するレスポンスが非常にリニアです。踏んだ分だけ、遅れなく応える。この感触が、車重1,060kg前後の軽い車体と組み合わさると、数字以上に「速い」と感じさせるわけです。

    当時の競合を見ると、フィットRSは直噴1.5Lで120馬力、コルトラリーアートは1.5Lターボで163馬力。ZC31Sの125馬力はちょうど中間あたりですが、パワーウェイトレシオで見ると、軽さのおかげで十分に戦える水準でした。しかもスズキは、このエンジンにわざわざターボを載せるという選択をしなかった。自然吸気でまとめたことで、整備性やコスト、そして何より「アクセルで操れる感覚」を優先したと見るのが自然です。

    シャシーの説得力

    ZC31Sの走りを語るとき、エンジン以上に評価されたのが足回りです。フロントにストラット、リアにトーションビームという形式自体はコンパクトカーの定番ですが、チューニングの方向性が明確でした。

    ダンパーの減衰力、スプリングレート、スタビライザーの設定は、標準スイフトに対してかなりスポーツ寄りに振られています。それでいて、日常域でゴツゴツと突き上げるような不快さは抑えられていた。この「締まっているけど硬すぎない」バランスは、当時の自動車メディアでも繰り返し評価されたポイントです。

    特にリアのトーションビームは、構造がシンプルなぶん軽量で、セッティング次第では素直な挙動を作りやすいという利点があります。ZC31Sはその特性をうまく活かして、リアが粘りながら旋回する感覚を実現していました。独立懸架ではないことを弱点と見る向きもありますが、この車格・この価格帯では、むしろ合理的な選択です。

    ステアリングは電動パワステ。油圧に比べるとフィードバックの面で不利とされることが多い方式ですが、ZC31Sでは操舵の正確さと軽快さのバランスが取れていて、大きな不満が出にくい仕上がりでした。

    価格という最大の武器

    ZC31Sが発売当時の価格は、5速MT仕様で約159万円。これは2005年当時としても、スポーツモデルとしては破格と言っていい水準でした。

    同時期のライバルを見ると、シビックタイプR(FD2)は約283万円、インテグラタイプR(DC5)は約250万円。もちろん車格もパワーも違いますが、「スポーツカーに乗りたい」という動機を持つ人にとって、ZC31Sの価格は圧倒的に低いハードルでした。しかも安いだけでなく、走りの質がちゃんと伴っている。これが重要です。

    安くて楽しい、という評価は、裏を返せば「安いなりの楽しさでしょ」と軽く見られるリスクも含んでいます。ZC31Sがそう見られなかったのは、実際にサーキットやジムカーナで結果を出したからです。モータースポーツの入門カテゴリでは定番車種となり、ワンメイクレースも開催されました。「安いけど本物」という評価が、ユーザーの実体験を通じて定着していったわけです。

    初代が蒔いた種を育てた

    初代HT81Sは、スズキにとっての「コンパクトスポーツをやってみる」という宣言でした。市場の反応を見る実験的な側面が強く、完成度よりも意欲が先に立っていた部分があります。

    ZC31Sは、その実験結果を受けて「次はちゃんと作る」と決めたクルマです。プラットフォームを刷新し、エンジンを専用設計に近いレベルで仕上げ、足回りのセッティングも詰めた。初代で見えた課題──ボディ剛性の不足、エンジンの線の細さ、足回りの煮詰め不足──を、一つずつ解決しています。

    そしてこのZC31Sが築いた「安くて速くて楽しい」というブランドイメージは、後継のZC32S、さらにZC33Sへとそのまま引き継がれていきます。特にZC33Sでターボ化に踏み切れたのは、ZC31Sの時代に「スイフトスポーツは本気のスポーツカーである」という信頼が確立されていたからこそでしょう。

    「ちゃんとしたスポーツカー」の価値

    ZC31Sは、何か一つが飛び抜けて凄いクルマではありません。エンジンは125馬力、車体は普通のコンパクトカーベース、内装も質素。カタログ上のスペックだけを見れば、地味と言われても仕方がない。

    でも、このクルマの本当の価値は「全部がちょうどいい」ところにあります。パワーと車重のバランス、シャシーの素性の良さ、アクセルとステアリングの応答性、そして手が届く価格。どれか一つを突出させるのではなく、すべてを高い水準で揃えたことが、ZC31Sの設計思想そのものです。

    2000年代半ば、スポーツカーは高性能化と高価格化の一途をたどっていました。その流れの中で、「普通の人が普通に買えて、でも走りは本物」というクルマを出したこと。それ自体が、スズキのスイフトスポーツというシリーズの存在意義を決定づけた判断だったと思います。ZC31Sは、スイフトスポーツが「シリーズ」として続いていく理由を、走りで証明した一台です。

  • ロードスター – NB6C/NB8C 【無邪気さを研ぎ澄ませた、NAの成熟形】

    ロードスター – NB6C/NB8C 【無邪気さを研ぎ澄ませた、NAの成熟形】

    NBロードスターは、単なるキープコンセプトではないです。

    初代NAが復活させたライトウェイトスポーツの価値を、時代に合わせてもう一度設計し直したモデルです。

    1997年10月の東京モーターショーで公開され、1998年に登場したこの二代目は、ロードスターの核である軽さ、FR、オープン、そして「誰が乗っても楽しい」という原点を守りながら、商品としての完成度を一段引き上げる役目を担っていました。

    マツダ自身もロードスターの本質を「誰もが手に入れやすく、必要にして十分な性能を持つこと」だと説明しており、NBはまさにその思想を現代化した世代でした。  

    リトラを捨てたのは、魂を捨てたからではない

    NBでいちばん目立つ変化は、やはりリトラクタブルヘッドライトが消えたことですよね。残念がっている人も多い印象です。

    でもこれは単なるイメチェンではなく、時代の安全基準に適応するための必然でした。北米マツダも、NBでは歩行者保護の観点から固定式ヘッドライトへ移行したことを説明しています。

    その一方で、ボディはわずかにワイド化し、空力性能や快適性も改善。つまりNBは、見た目のアイコンを一つ失う代わりに、ロードスターというクルマを次の時代へ生かすための再設計を受けたモデルだったわけです。  

    開発思想はNAから地続きだった

    ここで重要なのは、NBがNAを否定していないことです。

    開発責任者の貴島孝雄氏は、ロードスターが一貫して意識してきた本質は「アフォーダブル」であり、ハイパワー化や複雑化よりも「走らせて誰もが楽しいと思えるクルマ」であることだと語っています。

    これはNAの「人馬一体」とほぼ同じ文脈にあります。要するにNBは、初代の成功体験に乗っかっただけの二代目ではなく、その思想を守るために何を変え、何を残すかを本気で選別したモデルだったわけです 

    NBの進化は、速さより質感の側にある

    NBの価値は、単純なスペックアップだけで語ると外します。

    もちろん1.8L系では改良が進み、後年には6速MTやビルシュタイン、トルセンLSDを組み合わせた仕様も現れます。

    けれど本質はそこではなく、操舵に対する車体の応答、幌まわりの質感、空力、室内の使い勝手、そして全体のまとまり方にあります。

    米国マツダもNBを「よりパワフルになり、数々の改良を受けた第二世代」として位置づけています。

    NAが発明だとしたら、NBは洗練と言えるでしょう。

    NB6Cは、あえて残された素のロードスター

    NB6Cは1.6Lを積むモデルで、NBになってもなお軽快さの芯を担った存在でした。

    二代目はテンパチモデルや装備充実の印象が強いですが、1.6L仕様が残されたことで、ロードスターが本来持っていた軽さと扱いやすさはきちんと守られていました。

    速さを誇示するためではなく、アクセルを踏み切れること、回して使い切れること、その気持ちよさを残していたのがNB6Cです。

    華やかさはNA6Cほどではないにせよ、二代目の中でいちばん原液に近いロードスターとも言えます。  

    NB8Cは、二代目の本命だった

    一方でNB8Cは、二代目ロードスターの完成形として見るとかなり強いです。1.8Lエンジンを軸に、年次改良で内容がどんどん濃くなっていく。

    とくに10周年記念車では、6速MT、ビルシュタイン、トルセンLSD、専用内外装まで与えられ、NBのスポーツ性と商品力の両方が一気に表に出ました。

    マツダもこの10周年記念車を世界統一仕様の限定車として展開しており、NBが単なるつなぎではなく、世界規模でロードスターというブランドを確立していく中心世代だったことがわかります。  

    そしてNBは、遊び方の幅まで広げた

    NBが偉いのは、単に熟成しただけじゃないところです。

    2001年にはパーティレース向けのNR-A、2003年には受注生産のロードスタークーペ、さらに同年末には初のターボモデルまで追加されました。

    マツダはクーペについて「ロードスターに新しい魅力を付加し、スタイリングや走行性能を重視するお客様に向けた」と説明し、ターボについては「人馬一体の走りに新次元を拓く」と打ち出しています。

    つまりNBは、ロードスターという一つの原点を守りながら、その楽しみ方をかなり広く育てた世代でもあったわけです。  

    インタビューから見えるNBの意味

    貴島孝雄氏の話を追うと、NBの意味はかなりはっきりします。

    それは「もっと高性能にする」ことより、「ロードスターらしさを崩さずに進化させる」ことです。ハイパワー車のように性能を持て余す方向ではなく、誰でも操って楽しいことを優先する。

    ロードスターがここで変に背伸びしなかったからこそ、後のNCやNDという傑作車たちまで系譜が切れずに続いたとも言えます。

    NB自体は派手に革命を起こした世代ではない。でも、革命のあとにちゃんと文化として定着させた世代でした。  

    強みは気持ちよさの密度が上がったこと

    NBの強みを一言で言うなら、NAの楽しさを薄めずに気持ちよさの密度を上げたことです。

    見た目は洗練され、実用面も上がり、剛性感も増し、グレード展開も厚くなった。それでいて、ロードスターがロードスターであるためのサイズ感やFRレイアウトや軽快さはちゃんと残った。

    だからNBは、NAより少し大人で、でも決して鈍くない。雑味を減らして、それでも遊び心は消していない。このバランス感覚こそがNB最大の武器です。  

    NBの存在は地味に見えてかなり重要だった

    NAが神話の始まりなら、NBはその神話を一過性で終わらせなかったクルマです。

    二代目がこければロードスターは「懐古趣味の当たり企画」で終わっていたかもしれない。けれどNBはそうならず、むしろ世界販売を積み重ね、2000年には2人乗り小型オープンスポーツカー生産累計世界一としてギネス認定にまでつながっていきます。

    派手さでは初代に譲るけれど、DNAを本物として繋いだ功労者としてはNBも相当でかいです。  

    まとめ

    NB6C/NB8Cロードスターを一言でいえば、

    原点を守ったまま、原点を商品として完成させた二代目です。

    NB6Cは素の軽快さ。NB8Cは熟成と厚み。

    そしてNB全体としては、NAの思想を「次の時代でも通用する形」に翻訳した世代でした。

    初代ほど神格化されたりはしない。

    でも、ロードスターという文化を続けるうえで必要だったのは、こういう二代目があってこそだったと思います。

  • ロードスター – NA6C/NA8C 【失われたライトウェイトの復権】

    ロードスター – NA6C/NA8C 【失われたライトウェイトの復権】

    NAロードスターは70年代に一度ほぼ絶滅しかけたライトウェイトスポーツカーという文化を、80年代末に現代の技術で蘇らせたクルマでした。

    マツダ自身も、60〜70年代の小型オープンスポーツが持っていた軽快なハンドリングと気軽なオープンエアモータリングを、当時の安全・品質基準で再提案するために開発したと説明しています。

    つまりNAは、新型車というより「途絶えた系譜の復活」だったわけです。  

    「そんなものいまさら売れるのか」

    開発の出発点も、いかにもロードスターらしい。

    80年代前半、ライトウェイトスポーツは市場からほぼ消えており、社内でも本当に成立するのか半信半疑でした。

    それでもマツダのエンジニアは「他社とは違う独自の商品が必要だ」と考え、企画を前へ進めていきます。

    さらに駆動方式の候補にはFF、MR、FRが並んでいたものの、最終的には「軽快で素直な運転感覚」を得るにはFRしかないと判断。

    コスト面では不利でも、理想を優先してFRオープンの道を選んでいます。  

    ロードスターの核は、最初から「人馬一体」だった

    このクルマを説明するうえで外せないのが、みなさんもお気づき「人馬一体」です。

    FRとオープンボディが決まった段階で、開発陣はこのクルマの楽しさを「人馬一体」という言葉で共有したとマツダは記しています。後から付けた宣伝文句ではなく、そもそもの開発思想そのものだったわけですね。

    GAZOOの開発者インタビューでも、貴島孝雄氏は初代ロードスターのコンセプトが「人馬一体」であり、運転して楽しいことを何より重視したと説明しています。  

    開発現場はかなり熱かった

    このクルマが伝説化して現代でも愛される理由は、思想だけではなく作り手の熱量にもあります。

    初期から開発に関わった貴島孝雄氏は、当時FC3S型RX-7を担当しながらもこのプロジェクトに加わりたくて参加し、「業務を終えた残業時間に手弁当で図面を書いていた」と振り返っています。

    しかもサスペンションまわりでは、コストがかかるダブルウィッシュボーンにこだわり、さらにトランスミッション後端とデフを結ぶパワー・プラント・フレームまで導入。

    生産現場の反発もあったそうですが、それでも「人馬一体」のために押し通した。NAロードスターの気持ちよさは、こういう面倒なことを面倒なままやった結果とも言えるでしょう。

    アメリカで行われた市場調査

    夢だけでは終わらせなかったのも面白いところです。

    1987年にはアメリカでフルスケールの樹脂製プロトタイプを使った市場調査が行われ、220人の参加者のうち57人が「発売されたらぜひ買いたい」と回答。この結果が意思決定に強い影響を与え、開発継続を後押ししました。

    そしてデザインはその年のうちに確定し、1989年に北米で発売。日本でも同年にユーノス・ロードスターとして登場します。理想だけでなく、市場性も確認した上で世に出てきたわけですね。  

    NA6Cは、軽さで走る1.6だった

    最初のNA6Cは1.6LのB6-ZE型を積み、120psを発生。

    数字だけ見ると今ではおとなしいですが、このクルマの本質は馬力ではなく、軽さとサイズと応答の良さにありました。

    全長4m未満の小さなボディ、FRレイアウト、前後ダブルウィッシュボーン、そしてオープン2シーター。今となっては贅沢なくらいに「スポーツカーの基礎体力」を真面目に揃えています。

    だからこそNA6Cは、速さそのものより、操ることがそのまま楽しさになるタイプのクルマでした。  

    NA8Cは、ただの排気量アップではない

    1993年には1.8LのBP型を積むNA8Cへ進化。

    このタイミングで貴島孝雄氏が主査を引き継いだことも、系譜としてはかなり重要です。

    NA8Cは130ps・16.0kgf-mとなり、NA6Cより明確にトルクが増しました。単なるパワー競争ではなく、ロードスターらしい軽快さを残しながら、より扱いやすく厚みのある走りに寄せた改良です。

    NA6Cが「軽さの鮮烈さ」なら、NA8Cは「熟成と余裕」に振れた初代後期の完成形と言っていいでしょう。

    強みは「全部がちょうどいい」こと

    NAロードスターの強みは、何か一つが飛び抜けていることではありません。

    ボディは小さい。重すぎない。FRである。オープンである。サスペンションは真面目。価格も当時としては手が届いた。

    つまり、運転が楽しい理由を高価なメカや大出力に頼らず、全部のバランスで成立させていたわけです。

    マツダも、以後のロードスターで一貫して軽量化と重量配分の最適化を続けてきたと説明しており、その原点がまさにNAでした。  

    だからNAは一代では終わらなかった

    NAロードスターはヒットしただけではなく、90年代のオープンスポーツ復権そのものを引き起こした存在でした。

    マツダはこのクルマが、70年代末に消えたライトウェイトスポーツを90年代に復活させるきっかけになったと位置づけています。

    実際、ロードスターの成功後には各社が小型オープンスポーツに再び目を向けるようになります。要するにNAロードスターは、1台の人気車ではなく、世界市場そのものを動かしてしまったんですね。

    今日までロードスターが「世界でもっとも成功した2シーターオープンスポーツの系譜」として続いているのも、全部ここが始点でした。  

    まとめ

    NA6C/NA8Cロードスターを一言でいえば、

    失われたライトウェイトスポーツの理想を、現代の量産車として成立させた原点です。

    NA6Cは軽さと素直さ。

    NA8Cはそこに厚みと熟成を加えた完成形。

    そして両方に共通するのは、スペックを眺めるためのクルマではなく、乗ればすぐ意味が分かるクルマだったこと。

    ロードスターの伝説はここから始まったとも言えますが、ここで「伝説になる条件」がほぼ完成していた、と考える方がしっくりきますね。

  • スイフトスポーツ – HT81S【固まる前に生まれた最初のスイスポ】

    スイフトスポーツ – HT81S【固まる前に生まれた最初のスイスポ】

    国際ラリー「JWRC」を照準に

    2000年代初頭、スズキはカルタス以降の世界戦略車として初代スイフト(HT系)を発売したものの、ラリーで名を上げた競合(プジョー206 RCやシトロエンC2 VTSなど)に対抗する「看板モデル」を持っていませんでした。

    若者に刺さる走りのイメージづくりと国際ラリー(JWRC)参戦、その両方を一手に担うホモロゲモデル。

    それがHT81S型スイフトスポーツだったのです。 

    HT81Sスイフトスポーツというクルマ

    2003年6月に登場したHT81S型スイフトスポーツは、3ドアボディ専用で全長3,620 mm、全幅1,650 mmというコンパクトなサイズに、車重わずか930 kgの軽量パッケージを実現しました。

    前後バンパーとルーフスポイラーは専用デザインとされ、鮮やかなイエローやブルーなどの純正カラーが軽快なホットハッチというキャラクターをいっそう際立たせます。

    また、日本車としては当時めずらしくRECARO製セミバケットシートを標準装備し、走りへの本気度を明確に示しました。

    軽量ボディと本格的な装備を組み合わせることで、発売と同時にスポーツ志向の若者たちの注目を集めました。

    M15A型エンジン

    カルタスGT-iの流れを汲む「軽量 × 高回転」思想を受け継ぎ、エンジンはM15A型 1.5 L DOHC16V(115 ps/6,400 rpm・14.6 kg-m/4,100 rpm)を搭載。

    等長エキマニや高圧縮11.0の「赤ヘッド」仕様で、レブは7,000 rpm超まで一気に吹け上がります。

    5速MTと短いファイナル(3.944)を組み合わせ、0-100 km/hは9秒台。パワーよりパワーウェイトレシオ8.1 kg/psの鋭さが身上でした。 

    「バネ下を削って曲がる」セッティング

    LSDこそ装備しないものの、足回りの剛性アップと軽量ホイール・ブレーキでバネ下を徹底的に軽量化。

    結果として操舵初期がクイックに、減速帯を越えても「跳ねずに掴む」味付けになりました。

    JWRCタイトル獲得、イグニスSuper1600の血統

    HT81Sのプラットフォームは、スズキがJWRC用に開発した「イグニス Super1600」と共通。

    2004年シーズンにはスウェーデン人ドライバーP-G・アンダーソンがこのマシンでシリーズチャンピオンを獲得し、「ライトウェイト+高回転」パッケージの実力を世界に示します。 

    わずか2年半、短命でも色濃い足跡

    生産は2005年夏までと短命ながら、「100万円台で買えるリアルスポーツ」というポジションで熱狂的なファンを獲得。

    ZC31S型(2005)、ZC32S型(2011)、ZC33S型(2017)へと続く「スイスポの礎」を築きました。

    DNAは今も脈々と

    軽量ボディがもたらす俊敏なハンドリング、高回転域まで一気に吹け上がる痛快なエンジンサウンド、そして若者でも手が届く良心的な価格――

    この三つの美点は、1.4 Lターボを積む現行ZC33S型にも脈々と受け継がれています。

    その礎を築いたのがHT81S型スイフトスポーツです。

    まさに「庶民派ホットハッチ」というイメージを決定づけた原点と呼ぶにふさわしい一台だと言えるでしょう。

    PS:KeiはアルトワークスのDNAで書きますのでお待ちください…

  • メガーヌRS – BBM5P【ルノースポールが放った最後にして究極のFF】

    メガーヌRS – BBM5P【ルノースポールが放った最後にして究極のFF】

    「FF最速」という宿命を背負った4代目メガーヌ R.S.

    メガーヌ II/III R.S. はワンメイクレースやニュルブルクリンクで華々しい戦績を残し、「ホットハッチのベンチマーク」という称号をほしいままにしていました。

    ところが2010年代半ば、CO₂規制強化と衝突基準の改訂で、従来どおりの 2 ℓ ターボ+3 ドア軽量ボディは成り立ちにくくなります。

    さらにライバルのシビック Type R が 306 hp に到達し、FF 最速ラップを更新。ルノー・スポールは “軽い+ハード” だけでは勝てない新章に突入したのです。 

    5 ドア化と 4CONTROL

    2017 年フランクフルトショーで姿を現した 4 代目(通称 Mégane IV R.S.)。

    最大の特徴は、ルノーにおける同セグメント初の四輪操舵システム「4CONTROL」を採用したこと。

    低速では逆相、高速では同相に切れる後輪が、従来モデルと同等の俊敏さと高速安定性を両立させました。

    加えて 5 ドア化により実用性まで引き上げ、「週末サーキット、平日ファミリー」を一台で賄う方向へ舵を切ります。 

    アルピーヌ譲りの 1.8 ℓ 直噴ターボ

    排気量は 2 ℓ から 1.8 ℓ(M5P)へダウンサイジング。

    アルピーヌ A110 と共同開発したユニットはツインスクロールターボと DLC コーティングで高効率化され、標準 280 ps/390 N·m、Trophy 系は 300 ps/420 N·m を発生します。

    エンジン単体で 109 kg と軽量に抑えられたのも、前荷重を減らして旋回性能を稼ぐための執念でした。 

    スポールとカップ、そして「Trophy」

    シャシーには減衰力を自動調整するハイドロリック・バンプストップが全車標準で組み込まれ、そのうえで用途に応じた3段階のグレードが用意されました。

    エントリーの「Sport」(国内呼称:シャシー Sport)は、街乗りでの快適性を最優先しつつ、オープンデフと電子制御トルクベクタリングで軽快なハンドリングを実現します。

    中間の「Cup」はスプリングとスタビライザーを約10%強化し、機械式トルセンLSDと2ピース仕様の355 mmブレンボブレーキを追加することで、ワインディングやサーキット走行での耐久性と限界性能を高める設計となっています。

    そして最上位の「Trophy」。

    Cupをベースに最高出力を300 psへ引き上げ、空力性能を高める専用フロントスプリッターを装着。こうして、普段は街を流しつつ週末はサーキットへ繰り出すユーザーまで幅広くカバーする、絶妙なラインナップが完成したのです。

    ニュル 7’40’’100。Trophy-R の衝撃

    2019 年、約 1 t(1,305 kg)まで徹底軽量した Trophy-R が登場。カーボンホイール、Öhlins 調整式ダンパー、チタン Akrapovič マフラーで 130 kg 近いダイエットを敢行し、ニュルブルクリンク北コース 20.6 km を 7 分 40 秒 100 で完走。

    ホンダ シビック Type R から “FF 最速” の座を奪い返しました。 

    「R.S. Ultime」ルノー・スポール最後のメッセージ

    しかし 2023 年、モータースポーツ部門は Alpine ブランドへ統合され、「Renault Sport」 名義の市販車は終了。

    ラストを飾った Mégane R.S. Ultime は Cup シャシー+300 ps エンジンをベースに、創設年「1976」を示すストライプと 1,976 台限定シリアルを与えられました。

    これをもって 20 年近いメガーヌ R.S. の系譜は幕を閉じ、その血統を次世代 EV&Alpine へ託すことになります。 

    「軽くて速い」DNA はまだ終わらない

    4CONTROL、1.8 ℓ ターボ、電子制御 LSD、そして軽量化に執念を燃やす開発姿勢、これらはメガーヌ IV R.S. が示した新しいライトウェイト思想です。

    アルピーヌ A290 や次期ハイパフォーマンス EV にも、この DNA が形を変えて受け継がれるのは間違いありません。

    フレンチホットハッチの物語は、まだ次のコーナーを立ち上がったばかりなのです。

  • カルタス GT-i – AF33S【羊の皮をかぶったS製ホットハッチの原点】

    カルタス GT-i – AF33S【羊の皮をかぶったS製ホットハッチの原点】

    「軽だけではもう伸びない」

    創業以来、軽自動車のみを作ってきたスズキでしたが、当時の経営陣は大きな意思決定を強いられていました。

    1970年代末、衝突規制強化により軽規格は技術的なコストが上がっており、他社と比べてシェアの小さいスズキは苦戦を強いられます。

    カルタスまでの普通車での失敗

    スズキとしても普通車で行くしかないとし、軽規格だったフロンテを普通車仕様に改造したフロンテ800や、輸出仕様のジムニー8(現在でいうジムニーシエラのようなもの)を実際に売っていました。

    しかし、結果は芳しくありませんでした。

    フロンテ800はわずか2600台で撤退。ジムニー8もニッチに留まり、商業的に大成功したとは言えませんでした。

    いずれにせよ、国内の軽マーケットは頭打ちで、当時のスズキには「海外でも売れる世界規格のクルマ」が必要だったのです。

    GMから来た「M-car」

    時を同じくして1979年、北米市場には燃費規制の波が直撃していました。

    大排気量のザ・アメリカンなクルマを作ってきたGMでしたが、小排気量のコンパクトカーを一刻も早く開発する必要がありました。

    しかし、社内で進行していた1リッター級世界戦略車、通称「M-car」は、採算が合わないと判断され計画中止寸前。

    大量の設計図と衝突・排ガス試験のデータだけが残されていました。

    そうです。このM-carこそがカルタスGT-i、ひいてはスイフトスポーツの直系の祖先となるのです。

    スズキとGMの資本提携

    普通車への進出に苦戦していたスズキ、M-carへの投資コストを回収したいと考えていたGM。

    この両者の利害がピタリと重なったのが、1981年の資本提携となります。

    スズキは自社株を5%も差し出し、GMからM-carの設計やデータ一式を「買い取る」形で資本提携をします。

    これにより、スズキは約2年という異例の速さで新型車を開発できただけでなく、北米・欧州の厳格な基準をクリアするためのデータまで手に入れました。

    1983年、スズキ カルタスの爆誕

    スズキはこの車にただならぬ想いを持っていました。

    フロンテ、ジムニーでの普通車進出への失敗、そして自社株を5%も渡して手に入れたM-car…

    もはや失敗するわけにはいきません。

    その結果、デザインはかの有名な「イタルデザイン」が仕上げます。今見てもかっこいいですねこのクルマ。

    全長3.7mのBセグメントボディは、日本・欧州・北米を一つの方でカバーできる世界規格のサイズ。これらにより、生産は一気にグローバル化をしていきます。

    新開発の高回転型G13Bエンジン

    カルタスの成功を裏に、スズキは1985年の東京モーターショーにミッドシップのコンセプトカー「RS-1」を展示します。

    実はカルタスGT-iに載っているG13Bは元々、このRS-1に載せるために開発していたエンジンでした。(当のRS-1はお蔵入りとなってしまいましたが…)

    1986年 カルタスGT-iが追加

    そして、スズキは何を思ったのかこのエンジンをカルタスに搭載し、カルタスGT-iを発表します。

    800kgの車体に94馬力のエンジン。

    大排気量よりも軽量で勝負。元々軽自動車屋だったスズキは、軽自動車での経験を活かすという社内哲学とも一致します。

    ホモロゲーション目的のワークスカーではなく、若者が乗りやすいライトスポーツ。これがカルタスGT-iの立ち位置でした。

    カルタスGT-iが残したDNA

    ここまで見たら勘のいい皆様はもうお気づきかと思いますが、この思想、現代のスイフトスポーツでもしっかりとまだ生きています。

    軽量、安い、そしてスイフトという世界戦略車に対するスイフトスポーツ…

    1986年からおよそ40年にわたり「若者のためのホットハッチ」という独自ポジションを守り抜いているのは、まさにGT-iが拓いた道筋と言えるでしょう。

    おわりに

    軽自動車メーカーが欧米の規格へ踏み出すという、当時としては無謀に見えた挑戦。

    GMが置き去りにした設計図を活用し、2年という短期開発で世界戦略車に仕立て上げた開発陣の執念は、今のスイフトスポーツにも脈々と流れています。

    カルタスGT-iは単なる一発屋ではなく、スズキの企業文化そのものを変えた「転機のクルマ」だったのです。