カテゴリー: Mitsubishi

  • ギャラン VR-4 – E38A/E39A【後のランエボを作った4WDターボ】

    ギャラン VR-4 – E38A/E39A【後のランエボを作った4WDターボ】

    ギャランVR-4は、1987年12月に登場した高性能4WDセダンです。

    三菱公式の会社史では、このVR-4は4G63 DOHCインタークーラーターボを搭載し、205ps/6000rpmを発生すると説明されています。

    しかも単なる速い上級グレードではなく、フルタイム4WDと4WSまで組み合わせた当時の三菱のフラッグシップモデルでした。

    つまりギャランVR-4は、後からラリーに使われたのではなく、最初から「技術の全部入り」で世に出た高性能セダンなわけです。

    「グループAで世界と戦うクルマ」

    このクルマの意味は、市販車の豪華さだけでは足りません。

    新型ギャランが1987年10月に登場した後、その高性能版であるギャランVR-4を武器に、三菱は1988年から5年ぶりにWRCへ本格復帰します。

    ワークスとセミワークスの二本立てで参戦し、ヨーロッパ戦線とアジア・パシフィックの両方を睨んでいました。

    つまりVR-4は、三菱が“国内で速いクルマ”を作った話ではなく、世界ラリー選手権で戦う前提のグループAベース車として出てきたクルマだったわけです。  

    名機4G63が、この先の三菱を決めてしまった

    ギャランVR-4、そしてランエボすらも語るうえで外せないのが4G63です。

    WRCアーカイブでは、グループAの厳しい規則下でも、この4G63エンジンは競技仕様でキャリア初期から300馬力超を発揮していたと説明されています。

    さらに1990年ダカールのページでも、当時WRCを戦っていたギャランVR-4の4G63は300PS、45kg-m級の性能を持っていたとされています。

    要するに4G63は後のランエボで神格化される前から、すでにギャランVR-4の時点で世界と戦えるターボだったんです。

    ランエボの強さは突然生えたものではなく、既にこの時点で作られていたんですね。

    4WDと4WSまで持ち込んだ

    ギャランVR-4の面白さは、ただのターボ四駆で終わらないこと。

    このクルマはフルタイム4WDに加えて4WSまで備え、当時大きな注目を集めました。ここがすごく80年代末の旗艦モデルらしい。

    後のランエボのような「軽量・戦闘的・ラリー直結」というより、VR-4はまず三菱が持てるハイテクを全部投入して、世界で勝てるセダンを成立させようとしたクルマでした。

    やや大柄で重さもあるが、その代わりスケールの大きい速さと安定感を持っていたんです。

    実戦では、ちゃんと世界で勝っている

    ここがVR-4の重み。

    三菱のWRCアーカイブによれば、1988年のデビュー年からアジア・パシフィックでは篠塚建次郎氏がマレーシア、オーストラリアなどで勝利し、初代APRC王者にもなりました。

    さらにWRCワークス体制では、1989年にミカエル・エリクソンが1000湖ラリーで優勝、RACでもペンティ・アイリッカラが優勝。

    以後も1990年アイボリーコースト、1991年スウェディッシュとアイボリーコースト、1992年アイボリーコーストと勝利を積み上げ、三菱公式ではギャランVR-4のWRC通算勝利数を6と明記しています。

    つまりVR-4は後のランエボの踏み台なんかじゃない。それ単体で、もうWRC勝利車です。  

    しかし、強いままでも限界はあった

    ここが長いランエボの歴史につながってきます。

    ギャランVR-4は速かったし、実際に勝った。

    でも三菱自身が後年の説明で、1993年のグループA規定変更によりホモロゲーション条件が緩和されると、より軽量・コンパクトなランサーをベースに次の主力マシンを作る決断をしたと示しています。

    1992年にはすでにギャランVR-4の大規模開発をほぼ止め、参戦数も絞っていた。

    つまりVR-4は弱かったから終わったのではない。強かったけど、もっと勝てる器が見つかったから役目を終えたんです。

    これがエボ1への一番きれいな橋渡しになります。  

    「全部入り」のまま世界で通用した

    ギャランVR-4の強みを一言で言えば、ハイテク高性能セダンの姿のまま、ちゃんと世界ラリーで勝てたことです。

    4G63ターボ。フルタイム4WD。4WS。

    そしてグループAで鍛えられた競技性能。

    後のランエボは、ここからもっと軽く、もっと鋭く、もっとラリーに寄っていく。けれどVR-4はその前段階として、三菱の4WDターボが世界で勝てることを先に証明した。この証明があったから、ランエボは最初から本気で出せたわけです。  

    時代を感じさせるAMG仕様

    実はこのクルマ、面白いモデルがあります。

    ギャラン系には1989年に西ドイツAMG社と共同開発した「ギャランAMG仕様車」まで存在していたのです。

    三菱の車史ページにもその記述があり、当時のギャランが単なる大衆セダンではなく、かなり強いスポーツイメージと技術イメージを背負っていたことがわかりますね。

    VR-4はその頂点で、ギャランという車名そのものにただのファミリーセダンじゃない空気を持ち込んだモデルでもありました。  

    エボの前座では終わらない

    ギャランVR-4は、ランサーエボリューションの前身ではあります。

    でも前身という言葉だけだと少し弱い。実際には、三菱の4G63ターボ4WD路線を世界で通用する勝ち筋として成立させた本命です。

    WRC6勝、APRC制覇、そしてそのノウハウを全部ランエボへ渡して退く。かなり役者として完成しています。

    大柄なセダンなのに、やっていることは完全に戦うクルマでした。  

    まとめ

    ギャランVR-4を一言でいえば、

    ランエボに先立って、三菱の4G63ターボ4WDが世界で勝てることを証明した原点です。

    ハイテク全部入りの高性能セダンとして生まれ、WRCで6勝を挙げ、そのまま次の主役であるランサーエボリューションへバトンを渡した。  

    だからVR-4は、エボの前史じゃない。

    エボが成立する前に、すでに三菱が世界へ通用させていた本編の一つなのです。

  • ランサーエボリューション – CD9A 【ホモロゲのために生まれた急造の怪物】

    ランサーエボリューション – CD9A 【ホモロゲのために生まれた急造の怪物】

    ランサーエボリューションIは、1992年10月に登場した最初の「エボ」

    三菱自動車の公式ヒストリーでも、この初代は「栄光のマシン『ランサー』の名を受け継いだ」モデルとして紹介され、しかも発売後に即完売するほどの人気を集めたとされています。

    つまりエボ1は、後から神話になった始祖ではなく、登場した瞬間からただならぬ期待を背負っていたホモロゲーションモデルでした。  

    出発点はギャランVR-4の限界

    このクルマの開発背景はかなり明快です。

    三菱は80年代末からギャランVR-4でWRCを戦っていましたが、1993年シーズンに向けてグループAの規定変更が入り、ホモロゲーション取得に必要な最少生産台数は5000台から2500台へ引き下げられました。

    三菱のWRCアーカイブでも、1993年開幕戦モンテカルロにグループAランサーエボリューションを投入する計画のため、1992年にはギャランVR-4の大規模開発をほぼ止め、参戦数まで絞っていたと書かれています。

    要するにエボIは、ギャランVR-4の延長ではなく、次に勝つために急いで切り替えられた新兵器でした。  

    だからこそ、ランサーに白羽の矢が立った

    エボ1の核心はここです。

    三菱公式は、戦闘力を高めるために軽量・コンパクトなランサーをベースに選び、ギャランVR-4で熟成してきた4G63型2.0LインタークーラーターボとVCUセンターデフ方式のフルタイム4WDを搭載したと説明しています。

    大きいギャランで勝てないわけではない。

    けれど、ラリーで本当に強いベースを考えた時、より小さく、より軽く、より振り回しやすいランサーの方が正しかった。

    エボ1は、三菱が勝利のために迷わず小型化を選んだ結果だったわけです。  

    VR-4から魔改造が施された4G63

    搭載されたのは親の顔より見た4G63型2.0L DOHCターボ。

    市販車のエボ1はギャランVR-4より10PS高い250PSを発生させます。WRCの1993年ページでは競技車が4G63 1,997ccターボで295ps、45.9kg-mを発生していたと記されています。

    つまりエボ1は、単に「ランサーに強いエンジンを積みました」では片付けられません。市販車の時点でギャランより一段攻めた出力を与えつつ、競技車ではそこからさらに詰めていける土台を持っていた。

    最初のエボからもう、4G63を核にした戦闘車両として設計されていたんです。  

    見た目以上にちゃんと戦うためのボディ

    エボ1の強さはエンジンと4WDだけじゃありません。

    ボディは要所補強で剛性を高めつつ、アルミ製ボンネットフードの採用などで軽量化を推進。サスペンションも剛性アップを中心に最適化され、大開口フロントバンパーと大型リアスポイラーで空力も追求していました。

    つまりこのクルマは、派手なエアロをつけたランサーではなく、ラリーカーのベースとして必要な部分をちゃんと全部やったランサーだったのです。

    ここが最初のエボからもう抜かりないですね。

    インテリアまで含めて、最初から「その気」

    面白いのは、中身が本気なだけじゃなく雰囲気も本気なことです。

    当時では珍しいレカロ製スポーツシートやMOMO製ステアリングホイールまで採用されていました。

    ホモロゲーションモデルなんだから当然と言えば当然ですが、エボ1は最初から「普段使いのランサーをちょっと速くした」感じではなく、乗り込んだ時点で戦闘車の空気をちゃんと出していた

    これが後のエボらしさの原点でもあります。  

    実戦投入の初年度から大活躍

    1993年のWRCでランサーエボリューションはモンテカルロでデビュー。

    初陣はトラブルを抱えながらもケネス・エリクソンが4位、アーミン・シュワルツが6位で完走。

    その後もポルトガルで初のベストタイム、アクロポリスで3位、1000湖で5位を記録し、最終戦RACではエリクソンが2位まで迫りました。

    しかもシーズン中盤にはリアサスペンション、前後スタビライザー、4WDシステムを徹底的に見直し、ハンドリングが著しく向上したと公式に記されています。

    エボ1は未完成な試作品ではなく、デビュー年からもう十分戦えて、しかも伸びしろまで見せた一台でした。  

    「勝つための縮小」

    エボ1の強みを一言で言えば、ギャランVR-4で培った武器を、より小さく軽い器へ詰め替えたことです。  

    軽量・コンパクトなランサーのボディ。熟成された4G63ターボ。VCUセンターデフ方式のフルタイム4WD。補強と軽量化を両立したボディ。

    そしてラリー前提の空力と足まわり。  

    どれか一つの奇策で勝とうとしたクルマじゃない。

    既に持っていた技術を、一番勝てるサイズにまとめ直したことがエボ1最大の強さでした。だから初代からいきなりエボらしいんです。  

    エボ1は始祖というより既に切り札だった

    後から見るとエボ1はシリーズの最初の一台に見えます。

    でも当時の空気で見ると、これは悠長な第1章ではないことが伺えます。グループA規定変更に対応し、ギャランからランサーへ主役を切り替え、1993年開幕へ間に合わせるための実戦投入です。

    しかも市販車は発売後すぐ完売し、WRCでも初年度から上位争いに絡んだ。

    エボ1は後の成功につながる試金石というより、最初から勝負に出た初代エボでした。  

    まとめ

    ランサーエボリューション1を一言でいえば、

    ギャランVR-4の武器を、勝つために最も鋭いサイズへ詰め込んだ最初のエボです。  

    軽量・コンパクトなランサーを土台に、4G63ターボとフルタイム4WDを載せ、補強と軽量化と空力まで真面目に詰めた。  

    だからエボ1は、記念すべき初代というより、

    最初からいきなり本気だったランエボと言える存在なのです。ここも極めてランエボらしいですね。

  • ランサーエボリューションII – CE9A 【勝利のための長い調律が始まった一台】

    ランサーエボリューションII – CE9A 【勝利のための長い調律が始まった一台】

    ランサーエボリューションIIは、1994年1月に登場した二代目ランエボです。

    三菱公式の車史ページでは、このモデルをはっきり「実戦経験をフィードバック」と表現しています。

    つまりエボIIは、単なる年次改良ではない。1993年にWRCへ投入したエボIの実戦データをすぐさま市販車と競技車へ反映し、よりラリーで勝ちやすい形へ進めたモデルだったわけです。

    エボIがすでに速かったからこその次の一手だった

    ここがエボIIの面白いところです。

    初代エボは、1993年のWRCデビュー年からモンテカルロ5位、サファリ2位、アクロポリス3位、RAC2位と、いきなり十分に戦えていました。

    しかも三菱公式は、1993年シーズン中盤にリアサスペンションや前後スタビライザー、4WDシステムを見直したことでハンドリングが著しく向上したと記しています。

    だからエボIIは、苦戦した車のテコ入れ版ではない。最初から戦えたエボを、さらに本気で勝たせにいくためのアップデートだったんです。

    「実戦経験のフィードバック」が核にある

    三菱の日本向け車史ページでは、エボIIは「『ランサーエボリューション』に、1993年のWRCに参戦した実戦経験をフィードバックして開発」したと明記されています。

    さらにその結果として、「エンジン出力アップのほか、ホイールベース延長やサスペンション・ホイールの変更などによって走行性能を向上」させたとも説明している。

    要するにエボIIは、見た目を少し直した二代目ではなく、前年の現場で見えた課題を、車体と足まわりとエンジン全部に反映した改良版なのです。

    エンジンはやはり4G63を続投

    心臓は引き続き4G63型2.0L DOHCインタークーラーターボです。

    そして三菱公式によれば、エボIIでは最高出力が260PSまで引き上げられた。初代エボIが250PSだったから、数字としては10PSアップ。

    ただしエボIIの価値は単純な馬力競争じゃない。

    4G63の伸びしろをちゃんと活かしつつ、ラリーでの扱いやすさと車体側の進化まで含めて、より速く走るための総合改良に持ち込んでいるのが重要です。

    ホイールベース延長が、エボIIの性格をかなりよく表している

    エボIIで象徴的なのがホイールベース延長です。

    三菱公式は、走行性能向上のための具体策としてホイールベース延長を挙げている。これはすごくエボIIらしい。

    エボIは小さく軽く鋭いことが最大の武器だったけれど、実戦ではただ敏捷なだけでは足りない。荒れた路面や高速域でも踏んでいける安定感が必要になります。

    エボIIはその点で、初代の鋭さを捨てずに、もっと深く、もっと安心して攻められる方向へ寄せた二代目だったと見てよいでしょう。

    足まわりの見直しこそ、この世代の本丸だった

    公式説明でも、エボIIはサスペンション変更とホイール変更が明言されています。

    やはりエボIIの改良本質は「出力アップ」ではなく「実戦でより速くするためのシャシー改良」です。

    現場で見えたハンドリング課題や安定性の要求を踏まえ、ラリーで踏み抜ける方向に車体を煮詰めている。

    エボIが“まず小さい器に全部詰めた初代”なら、エボIIはその器をラリーでさらに機能するよう調律し直した二代目でした。

    実戦ではすぐにエボIIへ切り替わっている

    1994年WRCでの扱いを見ると、エボIIの意味がかなりよく分かります。

    三菱の1994年WRCページによれば、開幕のモンテカルロと序盤のサファリは引き続きエボIベースで戦い、その後のアクロポリスからエボIIベース車へスイッチしています。

    しかもエボIIはそのアクロポリスでいきなり2位。さらにニュージーランドでは3位・4位を記録した。

    これはかなり大きくて、エボIIは“市販車が出たから一応競技でも使った”のではなく、出した瞬間からちゃんと主力として戦力化されたモデルだったわけです。

    しかもこの年、ランエボはWRCの主役へ近づいていく

    三菱公式の1994年WRCページでは、エボI/IIを用いたその年の戦いで、アクロポリス2位、ニュージーランド3位・4位といった結果が残されている。

    そして同じ年の車史ページでは、インドネシアラリーでランサーエボリューションが総合1位・3位を獲得したことも記載されている。

    つまりエボIIの時点で、ランエボは“将来強くなる車”ではなく、すでに国内外で前に出始めていた。

    エボIIは、その上昇カーブを明確にした二代目です。

    初代の勢いをそのままに安定させた

    ランサーエボリューションIIの強みを一言で言えば、

    初代エボの鋭さを残したまま、実戦でより速く、より安定して使える形に変えたことです。

    4G63は260PSへ強化。ホイールベースは延長。サスペンションとホイールも見直し。

    そしてWRCでは投入直後から2位、3位、4位。

    どれか一つの派手な新機構で勝負した車じゃない。

    エボIIは、現場で必要だった改善を全部まっすぐ積み上げたことで強くなった。そこがいかにもランエボらしいです。

    エボIIは「ちゃんと偉い」二代目だった

    シリーズものの二代目って、どうしても地味に見えやすい。

    でもエボIIは違う。こいつがやったのは、初代の勢いを偶然で終わらせず、ランエボという名前を「毎年ちゃんと速くなっていくラリー直結モデル」として定着させることでした。

    エボIが切り札なら、エボIIはその切り札を勝負でちゃんと使い切れる武器にした世代です。

    まとめ

    ランサーエボリューションIIを一言でいえば、

    最初から速かったエボを、実戦の答えでさらに勝てる形へ煮詰めた二代目です。

    エボIの武器をそのまま引き継ぎ、4G63を260PSへ上げ、ホイールベース延長と足まわり改良で、ラリーでより深く踏めるクルマへ進めた。

    だからエボIIは、単なる改良版じゃない。

    「ランエボは毎年ちゃんと進化する」という文法を、最初に作った二代目と言えるでしょう。

  • ランサーエボリューションIII – CE9A 【空力を得た初期の集大成】

    ランサーエボリューションIII – CE9A 【空力を得た初期の集大成】

    ランサーエボリューションIIIは、1995年2月に登場した三代目ランエボです。

    三菱自動車の公式車史では、このモデルについて「エンジン、駆動システム、足回りなどを徹底的に改良」したうえで、「空力性能向上」を狙ってフロントまわりの開口部拡大や大型リアスポイラーなどを採用したと説明しています。

    つまりエボIIIは、単なる出力アップ版ではなく、ラリーで勝つためにクルマ全体をさらに戦闘向けへ振った改良型でした。  

    エボIIまでで既に「武器は足りている」

    初代から二代目までで、ランエボの基本文法はもう見えていました。軽量・コンパクトなランサーのボディに、4G63ターボと4WDを載せ、実戦のデータを反映してどんどん煮詰めていく。

    その流れの中で1994年WRCでは、エボIIベース車がアクロポリスで2位、ニュージーランドで3位・4位と十分な戦闘力を見せています。

    だからエボIIIに求められたのは、ゼロから作り直すことではない。すでに速いランエボを、もっと勝ち切れる形へ仕上げることでした。  

    テーマは「「徹底改良」」

    三菱の車史ページでは、エボIIIはエンジン、駆動システム、足まわりを徹底的に改良したモデルだとされており、この点が非常に重要です。

    エボIIまでは実戦経験のフィードバック色が強かったけれど、エボIIIではそのフィードバックが一段進み、もうクルマ全体を勝利の方向へ最適化していく段階に入っています。

    シリーズ初期の三台で見ると、エボIIIはランエボが毎年強くなるラリー直結モデルとして本格的に輪郭を固めた世代と言っていいでしょう。

    ついに270PSへ到達した4G63

    心臓部は引き続き4G63型2.0L DOHCインタークーラーターボです。エボIIIでは最高出力は270PSまで引き上げられました。1994年時点のエボIIが260PSだったことから、また一段上積みされたことになります。

    さらに三菱のWRC 1996ページでも、エボIII競技車のスペックとして4G63、1,997cc、270ps、45.0kg-mが示されています。

    つまりエボIIIは、シリーズ初期の熟成の到達点として、4G63の力をかなり濃く引き出した世代でもありました。  

    空力を得たランサーエボリューション

    エボIIIを語るなら、馬力の話だけで終えると外します。

    この世代の象徴はやっぱり空力です。

    三菱公式は、冷却性能を高めるための大開口フロントバンパー、リフトを抑える大型リアスポイラーなどを採用して空力性能を向上させたと説明しています。この点はエボIIIを象徴しています。

    エボIやIIにももちろん競技の匂いはあったけれど、エボIIIになると見た目からして「もう完全にそのためのクルマ」になってくる。

    走りの必然が、そのまま外観の迫力へ出始めたのがこの世代でした。  

    エボIIIは、「ランエボ顔」がかなりはっきりしてくる

    シリーズの中でエボIIIが印象に残りやすいのは、性能だけじゃなく記号性が強いからです。

    大きな開口部、押し出しの強いフロント、そして大型リアスポイラー。これらは単なる演出ではなく、空力改善によるものです。

    つまりエボIIIは、ランエボがラリー由来の戦闘車であることを、見た目でもはっきり主張し始めた世代と言える。

    後のIV以降ほどメカニズムが複雑ではないのに、存在感はかなり濃い。そこがまたIIIの魅力です。  

    いつも通り実戦でもしっかり強い

    1995年WRCでは、シーズン前半にエボII、後半にエボIIIが投入されました。三菱の1995年WRCページと車史ページによれば、エボIIIはツール・ド・コルスで3位、ニュージーランドで5位、そしてオーストラリアでは1位と4位を獲得しています。

    つまりエボIIIは、見た目だけ濃くなったモデルではなく、投入初年度からきちんと勝利を持ち帰った。勝つための空力を与えられたエボが、実際に勝ったというのはかなり大きいです。  

    この年の勝利は三菱にとって重要だった

    1995年のオーストラリアでの勝利は、ランエボにとってただの一勝ではありません。

    三菱公式の1995年WRCページでは、この年のオーストラリアで篠塚建次郎がランサーエボリューションで優勝し、日本人初のWRC優勝ドライバーになったと説明している。

    これはランエボの速さを証明しただけでなく、三菱のラリー活動全体にとっても大きな節目でした。

    エボIIIは、シリーズ初の本格的な勝ちグルマ感をはっきり刻んだ世代とも言えます。  

    “速さの理由”が空力にまで及んだエボ

    ランサーエボリューションIIIの強みを一言で言えば、エボIIまでの強みであった4G63と4WDだけでなく、空力まで含めて勝つ理由を持ち始めたことです。  

    4G63は270PSへ到達。駆動システムも改良。足まわりも徹底見直し。

    さらにフロントもリアも、空力まで明確に競技寄り。

    そしてWRCでは実際に優勝。  

    エボIが「小さい器に全部詰めた切り札」、エボIIが「それを実戦向けに煮詰めた二代目」なら、エボIIIはその切り札を外から見ても中身から見ても本格的な戦闘車にした三代目です。  

    エボIIIは、初期ランエボの完成形的存在

    シリーズ全体で見れば、エボIVから先はプラットフォームも変わり、AYCなど新しい文法が入ってきます。

    だからこそエボIIIは、I〜IIIで積み上げてきた初期ランエボのひとまずの到達点として見やすい。4G63ターボ、コンパクトボディ、4WD、年ごとの徹底改良、そしてついに空力まで前に出てきます。

    このまとまり方がすごく綺麗なんです。エボIIIは、初期ランエボをもっともランエボらしい姿で締めた世代だと思います。

    まとめ

    ランサーエボリューションIIIを一言でいえば、

    速いだけでは足りないと知ったランエボが、空力まで使って勝ちに行った三代目です。  

    4G63は270PS。駆動も足も徹底改良。見た目は空力をまとってWRCではちゃんと勝った。  

    だからエボIIIは単なる三代目じゃない。

    「初期のランエボここに極まれり」と言いたくなるくらい、最初の三台の答えがきれいに揃った世代なのです。  

    次のエボIVから、ここから一気に文法が変わります。なんといってもAYCが初めて搭載されるエボですから…!

    (ランエボの記事毎回アツいな)

  • ギャランクーペFTO – A61/A62/A63【三菱が若者に振り向いてほしかった時代の証】

    ギャランクーペFTO – A61/A62/A63【三菱が若者に振り向いてほしかった時代の証】

    三菱がまだ「スポーツの三菱」と呼ばれる前の話です。1970年代初頭、国内自動車メーカーはこぞって若年層向けのスペシャルティカーを模索していました。トヨタにはセリカがあり、日産にはシルビアがあった。では三菱はどうしたか。その答えが、1971年に登場したギャランクーペFTOでした。

    「FTO」という名前の意味

    まず名前の話から入りましょう。FTOとは「Fresco Turismo Omologato」の略とされています。直訳すれば「新鮮なグランツーリスモの公認車」。GTOが「Gran Turismo Omologato」なら、FTOは「フレッシュなGTO」というわけです。つまり、兄貴分であるギャランGTOの弟という位置づけが、名前の時点で明確に宣言されていました。

    ギャランGTOが1970年に登場し、三菱初のスペシャルティカーとして注目を集めていた時期です。ただしGTOは1.6L以上のエンジンを積んだ、やや上級志向のモデルでした。もう少し手が届きやすい価格帯で、もう少し若い層に訴求できるクルマが欲しい。FTOはそういう企画意図から生まれています。

    コルトギャランから何を削り、何を足したのか

    ベースとなったのは、当時の三菱の屋台骨だったコルトギャランです。型式でいえばA60系のセダンをベースに、2ドアのファストバッククーペとして仕立て直したのがFTOでした。型式はA61(1.2L)、A62(1.4L)、A63(1.6L)と排気量によって分かれています。

    ここで注目すべきは、FTOが単にセダンのドアを減らしただけのクルマではなかったという点です。ルーフラインはセダンとは明確に異なり、リアに向かって流れるファストバックスタイルが与えられました。全長はセダンより短く、ホイールベースも詰められています。つまり、見た目だけでなくボディの骨格レベルで「小さく、軽く、スポーティに」という意図が貫かれていたわけです。

    エンジンは三菱の4G系直列4気筒。1.2Lの4G42型から1.6Lの4G32型まで3種類が用意されました。特に注目されたのは1.4Lと1.6Lで、当時の自動車税制における区分を意識したラインナップです。1.6LのMCA仕様は最高出力100psを発揮し、車重が800kg台だったFTOにとっては十分以上のパワーでした。

    GTOとの棲み分けと、三菱の事情

    ギャランGTOとFTOの関係は、単純な上下関係ではありません。GTOはダイナミックなコークボトルラインを持つ、いかにもマッスルカー的な存在でした。対してFTOは、もう少しコンパクトで、もう少し日常的で、もう少し「最初の一台」に近い存在です。

    この棲み分けは、当時の三菱の販売網の事情とも関係しています。三菱は1970年に三菱自動車工業として独立したばかりで、ディーラー網の整備やブランド認知の構築がまだ途上にありました。GTOだけでは届かない客層に対して、FTOという入口を用意する。これは商品戦略として極めて合理的な判断でした。

    ただ、正直に言えばFTOはGTOほどの強烈な個性を持っていたわけではありません。GTOのあのアクの強いスタイリングに比べると、FTOはやや地味に映った。これは弱点というより、役割の違いです。派手さではなく、手堅さで勝負するクルマでした。

    レースとラリーが育てた実力

    FTOの評価を語るうえで外せないのが、モータースポーツでの活躍です。三菱は1960年代からラリーへの参戦を続けており、FTOもまたその系譜に連なるクルマでした。特にツーリングカーレースの1.6Lクラスでは、軽量なボディを武器に好成績を残しています。

    この時期の三菱のモータースポーツ活動は、後のランサー1600GSRによるサザンクロスラリー制覇(1973年)へとつながっていきます。FTOそのものが伝説的な戦績を残したわけではありませんが、三菱がコンパクトなスポーツモデルで競技に挑むという文化の、ひとつの起点にはなっていました。

    短命に終わった理由

    FTOの生産期間は1971年から1975年まで。わずか4年ほどで姿を消しています。その理由はいくつかあります。

    まず、1973年のオイルショックです。スペシャルティカー市場そのものが急速に冷え込みました。燃費や実用性が重視される時代に、2ドアクーペは逆風を受けやすい存在です。加えて、排出ガス規制の強化がエンジンの出力を削ぎ、スポーティさという商品価値を維持することが難しくなりました。

    もうひとつは、三菱自身の商品戦略の変化です。1973年にランサーが登場し、コンパクトスポーツの役割はランサーが引き受けることになります。FTOの居場所は、内外の事情によって急速に失われていったのです。

    20年後の「FTO」との関係

    FTOという名前は、1994年に復活しています。DE2A/DE3A型の三菱FTOです。ただし、この2台の間に直接的な技術的系譜はありません。プラットフォームもエンジンも、設計思想もまるで異なります。

    それでも三菱が「FTO」という名前を20年越しで引っ張り出してきたことには、意味があります。「若い層に向けた、手の届くスポーツクーペ」というコンセプトそのものが、三菱の中でひとつの原型として記憶されていたということです。1994年のFTOが「日本カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞したことを思えば、その種を最初に蒔いたのは間違いなくこのA60系のギャランクーペFTOでした。

    三菱が「入口」を作ろうとした記録

    ギャランクーペFTOは、華々しいヒーローカーではありません。GTOほど語られることもなく、ランサーほど戦績を残したわけでもない。けれどこのクルマは、三菱が「スポーツを身近にする」ことに初めて本気で取り組んだ記録です。

    自動車メーカーにとって、フラッグシップを作ることよりも「入口」を作ることのほうが実は難しい。性能を誇示するのではなく、手が届く価格で、日常の延長線上にスポーティさを置く。FTOが担ったのは、まさにその役割でした。

    短命ではあったけれど、このクルマが三菱のスポーツモデル史の中に確かな一歩を刻んだことは、覚えておいて損はないと思います。

  • FTO – DE2A / DE3A【三菱が本気で仕掛けた、忘れられたFFスポーツ】

    FTO – DE2A / DE3A【三菱が本気で仕掛けた、忘れられたFFスポーツ】

    三菱のスポーツカーといえば、多くの人がランサーエボリューションを思い浮かべるでしょう。あるいはGTOかもしれません。けれど1994年、三菱はもうひとつ、かなり本気のスポーツカーを世に出しています。それがFTOです。日本カー・オブ・ザ・イヤーまで受賞しておきながら、今ではすっかり語られる機会が減ってしまった。なぜこの車は生まれ、なぜ埋もれたのか。そこには三菱というメーカーの事情と、1990年代という時代の空気が絡んでいます。

    FTOという名前の来歴

    FTOという車名には、実は前史があります。1971年に登場した初代ギャランFTOがそれです。「フレッシュ・ツーリング・オリジナル」の頭文字を取ったこの名前は、若者向けのスポーティクーペとして一時代を築きました。ただし初代FTOと1994年のFTOの間には20年以上のブランクがあり、車としての直接的な血縁関係はほとんどありません。

    つまり1994年のFTOは、名前こそ復活ですが、中身はまったくの新規開発車です。三菱がこのタイミングで「FTO」の名を引っ張り出してきたこと自体に、ある種の意思表示が読み取れます。ランエボやGTOとは違う路線で、もう一本スポーツの柱を立てたかった。そういう企画意図です。

    なぜ三菱はFFスポーツを作ったのか

    1990年代前半の三菱は、スポーツカーのラインナップがかなり偏っていました。GTOは3リッターV6ツインターボの4WDで、重量級グランドツアラー。ランエボはラリーベースの4WDセダン。どちらもハイパワー・ハイコストで、気軽に手を出せる存在ではありません。

    一方、当時の市場にはインテグラやプレリュード、セリカといったFFクーペが元気よく走り回っていました。手頃な価格で、日常使いもでき、それでいてスポーツ走行もしっかり楽しめる。このゾーンに三菱は空白を抱えていたわけです。

    FTOはまさにその穴を埋めるために企画されました。プラットフォームはギャラン系のものをベースとしつつ、ホイールベースを切り詰め、全長を抑えたコンパクトなクーペに仕立てています。駆動方式はFF。4WDに強いイメージの三菱が、あえてFFで勝負に出たところに、このプロジェクトの性格がよく表れています。

    V6エンジンという選択の意味

    FTOの最大の特徴は、トップグレードに搭載された6A12 MIVECエンジンです。2.0リッターV6のDOHC24バルブで、自然吸気ながら200馬力を発生しました。型式でいえばDE3Aがこの2.0リッターV6搭載モデルにあたります。

    MIVECは三菱の可変バルブタイミング&リフト機構で、ホンダのVTECに対する三菱なりの回答でした。低回転域ではおとなしく、高回転に入ると一気にカムが切り替わって吹け上がる。この「変身感」は当時のスポーツエンジンの醍醐味そのものです。リッターあたり100馬力という数字は、1994年の自然吸気2リッターとしてはトップクラスでした。

    一方、エントリーグレードのDE2Aには1.8リッター直4の4G93エンジンが搭載されています。こちらは125馬力と控えめですが、車両重量が1,100kg台に収まっていたため、日常の足としては十分以上の動力性能を持っていました。

    ここで注目すべきは、三菱がFFクーペにわざわざV6を載せたという判断です。直4のほうがコスト的にもレイアウト的にもシンプルなのに、あえてV6を選んだ。これはFTOをただの廉価スポーツではなく、質感のある上級FFクーペとして位置づけたかったからでしょう。V6特有の滑らかな回転フィールは、直4では出せない味です。

    INVECS-IIという飛び道具

    FTOを語るうえで外せないのが、INVECS-IIと呼ばれたスポーツモード付きATの存在です。これはドライバーの運転パターンを学習し、シフトスケジュールを自動的に最適化するファジー制御のオートマチックでした。さらにマニュアルモード付きで、ステアリングから手を離さずにシフト操作ができる。

    1994年という時点でこの機構を量産車に載せたのは、かなり先進的でした。今でこそパドルシフトやマニュアルモード付きATは珍しくありませんが、当時はATといえば「スポーツカーには不向き」という認識が根強かった時代です。FTOのINVECS-IIは、ATでもスポーツ走行を楽しめるという提案を、かなり早い段階で市場に投げかけていたことになります。

    もちろん5速MTも設定されており、走りを突き詰めたいユーザーはそちらを選びました。ただ、FTOの販売台数においてAT比率が高かったのは、INVECS-IIの出来が良かったことの裏返しでもあります。

    カー・オブ・ザ・イヤー、そして静かな退場

    FTOは1994-1995年の日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞しています。三菱車としては初の受賞であり、しかもスポーツクーペがこの賞を取ること自体が珍しい。審査員が評価したのは、V6 MIVECの動力性能、INVECS-IIの先進性、そしてFFクーペとしてのトータルバランスでした。

    デザインも当時としてはかなり評価が高かった。丸みを帯びたボディラインは、角張ったデザインが主流だった三菱車の中では異質で、欧州的な色気がありました。実際、イギリスなど海外市場でも一定の人気を得ています。

    しかし、FTOの商業的な寿命は長くありませんでした。1990年代後半に入ると、クーペ市場そのものが急速に縮小していきます。ミニバンやSUVへの需要シフトが加速し、2ドアクーペは「実用性がない」と敬遠されるようになった。FTOは2000年に生産を終了しています。フルモデルチェンジはなく、一代限りで姿を消しました。

    三菱自身も、この時期は経営的に余裕がなくなっていきます。リコール隠し問題が表面化する前夜であり、スポーツカーの開発に資源を割く体力が失われつつあった。FTOの後継が生まれなかったのは、車の出来が悪かったからではなく、メーカーと市場の両方が別の方向を向いてしまったからです。

    FFスポーツ史における立ち位置

    1990年代のFFスポーツクーペといえば、ホンダ・インテグラタイプRが圧倒的な存在感を持っています。あるいはトヨタ・セリカ、日産・シルビアのFR勢も含めれば、FTOの競合環境はかなり厳しかった。その中でFTOが独自のポジションを確保できたのは、V6エンジンの質感とATの先進性という、他にはない武器を持っていたからです。

    インテグラタイプRが「FFの限界をMTで突き詰める」方向に振り切ったのに対し、FTOは「FFスポーツをもう少し大人っぽく、幅広い層に届ける」という方向を選びました。どちらが正解かという話ではなく、アプローチが根本的に違う。FTOは硬派なスポーツカーというよりも、スポーティなパーソナルクーペとしての完成度が高かった車です。

    中古車市場では長らく手頃な価格で流通していましたが、近年は90年代スポーツカーの再評価の波を受けて、程度の良い個体は値上がり傾向にあります。特にV6 MIVEC搭載のGPX系グレードは、走行距離の少ない個体が減りつつあります。

    三菱が一瞬だけ見せた、もうひとつの可能性

    FTOは、三菱がランエボやパジェロとは別の文脈で、スポーツカーを作れるメーカーだったことを証明した一台です。V6 MIVECの官能性、INVECS-IIの先見性、デザインの洗練。どれも「三菱らしくない」と言われがちですが、むしろ「三菱にもこういう引き出しがあった」と読むべきでしょう。

    一代限りで終わったことを惜しむ声は、今でも少なくありません。ただ、だからこそFTOには独特の純度があります。後継モデルとの比較も、マイナーチェンジの繰り返しによる薄まりもない。1994年に三菱が「こういうスポーツカーを作りたい」と思った、その一発の結晶がそのまま残っている。それがFTOという車の、少し切なくて、でも確かに魅力的なところです。

    (30年越しに、もう一度だけFTO出してみませんか?)