プレリュードの全5世代のなかで、もっとも贅沢に作られたのはどれか。答えは、4代目です。
ただしこの「贅沢」は、売れ行きには直結しませんでした。バブルの絶頂期に企画・開発され、崩壊直後の1991年に世に出た4代目プレリュード。
新開発エンジン、電子制御4WS、3ナンバー専用のワイド&ローボディ——。技術と意欲をすべて詰め込んだ一台が、なぜ歴代モデルほどのヒットにならなかったのか。
その背景を掘り下げると、「時代と車の関係」がよく見えてきます。
バブルが生んだ、バブル崩壊後のクルマ
4代目プレリュードが発表されたのは1991年9月。まさにバブルがはじけた直後です。ただ、ここで大事なのは「クルマは発売のタイミングで作られるわけではない」ということ。3代目が1987年に登場しているので、4代目の開発はそのころからスタートしています。つまり、バブル発生とともに開発が始まり、絶頂期に熟成されたクルマなのです。
先代の3代目は、バブル絶頂期の1988年に約5万8000台を売り上げ、日産シルビア(S13)とともに「デートカー」と呼ばれた時代の寵児でした。今では信じられないほど、2ドアクーペに人気があった時代です。
その成功を受けて開発された4代目は、当然ながら「もっと上を目指す」という空気のなかで生まれています。開発陣に予算の制約を感じさせない、バブルの空気がそのまま凝縮されたクルマ。ただ、完成した頃には市場の風向きが完全に変わっていました。
デートカーから、走りのクーペへ
4代目で最も大きかったのは、コンセプトの転換です。初代から3代目まで、プレリュードは「FFスペシャルティカー」として、スタイルや快適性で勝負するクルマでした。ところが4代目は、路線を大幅に変更します。スペシャルティカーからスポーティカーへ、明確に軸足を移したのです。
背景にあったのは、1990年に登場したNSXの存在です。NSXが牽引するホンダのスポーツイメージと、同年のレジェンド2ドアハードトップに見られるラグジュアリー性。4代目プレリュードは、その両方をうまく取り込もうとした印象があります。
外観も一新されました。2代目・3代目の象徴だったリトラクタブルヘッドライトを廃止し、丸みの強い砲弾型のフォルムに。当時ホンダは北米市場で高い評価を得ており、1988年に逆輸入で発売した初代アコードクーペの好評もあって、この北米テイストのデザイン変更は日本市場でも受け入れられました。ただし、リトラの廃止を惜しむ声は少なくありませんでした。
3ナンバー専用ボディという決断
4代目プレリュードで見逃せないのは、全車3ナンバーになったことです。ボディサイズは全長4440mm×全幅1765mm×全高1290mm。先代より全長を80mm縮め、全幅を70mm拡大、全高を5mm下げています。いわゆるワイド&ショートのプロポーションです。
当時のホンダ自身の言葉を借りれば、「新しいプレリュードが最も重視したのは、スポーツ性能を高めること」。全幅を広げた理由は、クルマを大きく見せるためではなく、前席のゆったり感とトレッドの拡大による走行安定性を両立させるためでした。
面白いのは、発売当初の乗車定員が4名だったこと。リヤシートのセンターに大型コンソールを配置し、あえて5人乗りにしなかった。効率より贅沢さを優先する設計思想は、まさにバブル期の産物です。この後席コンソールは不評で、1993年のマイナーチェンジで廃止されて5名乗車に変更されています。
ただし、3ナンバー化と2.2Lへの排気量拡大は、日本の税制上はデメリットでもありました。5ナンバー枠を超えたことで自動車税が跳ね上がり、若年層には手が届きにくい存在になってしまったのです。
H22Aという名機の誕生
4代目プレリュードの心臓部には、2種類のエンジンが用意されました。Si系に搭載されたF22B型2.2L DOHC(160馬力)と、Si VTEC系に搭載されたH22A型2.2L DOHC VTEC(200馬力)です。
とりわけH22Aは、ホンダのエンジン史においても特筆すべき存在です。ボア87.0mm×ストローク90.7mmのロングストローク設計ながら、VTECの恩恵で高回転域まで鋭く吹け上がる。200馬力/6800rpm、最大トルク22.3kgm/5500rpm。2.2LのNAでこの数値は、当時としてはかなりのハイスペックでした。
このH22Aは「エンジンだけで80万円」とも言われたほど、細部にまでホンダの技術が凝縮されたユニットです。FRM(繊維強化金属)シリンダーライナーやクローズドデッキ構造のシリンダーブロックなど、レーシングエンジンに通じる贅沢な作り。後にフォーミュラ3やスーパー・ツーリングカーのベースエンジンとしても採用されています。
H22Aはその後、5代目プレリュードでは220馬力にまでチューンされ、アコードユーロR(CL1)にも搭載されるなど、ホンダの2.2L系を代表する名機として長く活躍しました。その原点が、この4代目プレリュードなのです。
電子制御4WSとセナのCM
4代目のもうひとつの目玉が、ハイパー4WSと呼ばれた電子制御式の四輪操舵システムです。3代目で世界初の量産機械式4WSを実現したプレリュードですが、4代目ではその考え方自体を変えています。
従来の機械式は、前輪の操舵角に応じて後輪の切れ角が決まるシンプルな仕組みでした。4代目では電子制御化により、操舵角だけでなく車速やハンドル操作の速さも検知して後輪を制御するようになった。高速時の同位相の切れ角を抑えるいっぽう、低速走行時の逆位相の切れ角を拡大し、取り回しのよさと高速安定性を高次元で両立させています。
足まわりは前後ともダブルウィッシュボーン式で、構成部品を全面刷新。ボディのワイド化と合わせて、走行安定性と乗り心地の質感が大幅に向上しました。当時の自動車ジャーナリストが「90年前後のフルモデルチェンジのなかでも、特に印象に残る」と評したほどです。
そしてCMには、アイルトン・セナが起用されました。第二期ホンダF1の絶頂期、マクラーレン・ホンダで総合優勝を重ねていたセナが「さあ、走ろうか。」のキャッチコピーとともにプレリュードをドライブする姿は、当時大きな話題になりました。F1の勢いとプレリュードのスポーティ路線は、見事にシンクロしていたのです。
売れなかった理由、残したもの
これだけの内容を持ちながら、4代目プレリュードの販売は振るいませんでした。モデル全体の販売台数は約8万5000台。2代目・3代目が年間5万台以上を記録した時代と比べると、明らかに低迷しています。
理由は複合的です。まず、バブル崩壊によるクーペ市場そのものの縮小。さらに3ナンバー化と2.2Lエンジンによる維持費の増加。リトラクタブルヘッドライトの廃止による従来ファンの離反もあったでしょう。1990年代中盤以降はオデッセイやステップワゴンなどRV系が台頭し、2ドアクーペという選択肢自体が急速に存在感を失っていきました。
ただ、走りの実力は本物でした。N1耐久シリーズ(現スーパー耐久)では、4WS非搭載のBB4型をベースにしたレース車両が参戦し、無敵を誇ったR32 GT-Rを脅かすほどの戦闘力を発揮しています。改造範囲が極めて狭いN1規定で好成績を残したということは、市販車としてのポテンシャルの高さを証明するものでした。
型式の整理もしておきましょう。日本仕様では、SiがBA8型、Si 4WSがBA9型、Si VTEC 4WSがBB1型、Si VTECがBB4型。BB4はサンルーフや4WSを省いた軽量志向のモデルで、レースベースにもなった「走り」に振り切ったグレードです。
4代目プレリュードは、プレリュード全5世代のなかで「ミッシングリンク」と呼ばれることがあります。初代のサンルーフ、2代目のABS、3代目の4WS、5代目の「最後のプレリュード」——。それぞれに語られるエピソードがあるなかで、4代目だけが印象の薄い世代として扱われがちです。
しかし実態は真逆で、技術的にはもっとも意欲的で、もっとも贅沢に作られた世代でした。H22Aエンジンはその後のホンダスポーツの基幹ユニットとなり、電子制御4WSの知見は5代目のATTS(アクティブ・トルク・トランスファー・システム)へと発展しています。デートカーの殻を破り、本格的なスポーティクーペとして再定義されたのも、この4代目からです。
時代に恵まれなかったことは事実です。けれど、バブルの熱量がそのまま封じ込められた4代目プレリュードは、ホンダが「全部やりたいことをやった」結果として生まれた、純度の高い一台だったと思います。売れたかどうかではなく、何を目指して何を実現したか。その視点で見ると、この世代のプレリュードは、歴代でもっとも「ホンダらしい」クルマだったのかもしれません。

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