カテゴリー: スープラ

  • セリカXX – A60【セリカから離れ、GTの名乗りを上げた転換点】

    セリカXX – A60【セリカから離れ、GTの名乗りを上げた転換点】

    スープラという名前を聞くと、多くの人はA80、あるいはA70を思い浮かべるかもしれません。でも、そのスープラが「セリカとは違うクルマだ」という意識を初めて明確にしたのは、実はこのA60型の世代です。

    日本ではまだ「セリカXX」を名乗っていましたが、北米市場ではすでに「スープラ」というブランドが独立して動き始めていました。

    このクルマが面白いのは、スポーツカーとGTカーの境界線の上に立っていたことです。直列6気筒エンジンを積んで、快適に長距離を走れる。でも足回りはスポーティで、走る楽しさも捨てていない。

    その「どっちつかず」に見える立ち位置こそが、A60型の本質であり、後のスープラ系譜を方向づけた起点でもあります。

    セリカの兄貴分として生まれた背景

    A60型のルーツをたどるには、まず先代のA40/A50型セリカXXに触れる必要があります。

    1978年に登場した初代セリカXXは、セリカのボディに直列6気筒エンジンを押し込んだ、いわば「セリカの上位版」でした。北米では日産のZカー(フェアレディZ)に対抗する必要があり、4気筒のセリカだけでは戦えなかったのです。

    ただ、初代XXはあくまでセリカのバリエーションという色が強かった。ノーズを延長して6気筒を載せた構成は合理的でしたが、「セリカとは別のクルマ」という説得力はまだ弱かったのが正直なところです。

    A60型は、その課題を次のステップで解消しようとしたモデルです。1981年に登場したこの2代目セリカXXは、プラットフォームこそセリカ(A60系)と共有していましたが、ホイールベースを延長し、直6専用のフロントセクションを持ち、内外装の仕立ても明確に差別化されていました。

    つまり、「セリカに6気筒を載せた」のではなく、「6気筒を前提にしたクルマ」として設計の重心が変わったのです。この違いは、見た目以上に大きい意味を持っています。

    直6とGT性能へのこだわり

    A60型の心臓部は、トヨタのM型およびその後継にあたる直列6気筒エンジンです。登場時のラインナップでは、2.0Lの1G-EU型や2.8Lの5M-GEU型が用意されました。特に5M-GEU型はDOHC24バルブで、当時としてはかなり先進的なユニットです。最高出力は170馬力前後。数字だけ見ると控えめに思えるかもしれませんが、1980年代初頭の水準では十分にパワフルでした。

    1982年には、国内仕様のトップグレードに5M-GTEU型が追加されます。これはターボチャージャーを装着した2.8L DOHCで、出力は190馬力に達しました。さらに1984年のマイナーチェンジでは排気量を3.0Lに拡大した6M-GTEU型へと進化し、出力は190馬力を維持しつつトルク特性が改善されています。

    ここで注目すべきは、トヨタがA60型をスポーツカーではなく「高性能GT」として育てようとしていた姿勢です。エンジンの進化はパワー一辺倒ではなく、中間域のトルクや巡航時の余裕を重視する方向でした。直6という選択自体が、振動の少なさや回転フィールの滑らかさを意味しており、GTカーとしての資質に直結しています。

    シャープな外観と、時代を映す装備

    A60型のデザインは、先代の丸みを帯びたラインから一転して、直線基調のシャープなウェッジシェイプに変わりました。リトラクタブルヘッドライトを採用したフロントフェイスは、当時のスポーツカーの文法に忠実です。80年代初頭、リトラクタブルライトはある種のステータスであり、スポーティさの記号でもありました。

    ボディサイズは全長約4,660mm、全幅約1,685mm。現代の基準では決して大きくありませんが、当時の国産クーペとしてはかなり立派な体格です。ロングノーズ・ショートデッキのプロポーションは、フロントに直6を縦置きするレイアウトが自然に生み出したものでした。

    インテリアでは、デジタルメーターやエレクトロニクス装備が話題を集めました。特に上級グレードに設定されたデジタル表示のスピードメーターは、当時の先端技術の象徴です。今見ると少しレトロですが、「未来のクルマ」を演出しようとしたトヨタの意気込みがよく伝わります。

    足回りは四輪独立懸架で、フロントがストラット、リアがセミトレーリングアーム。この構成自体は当時の標準的なものですが、セッティングはスポーティ寄りに振られていました。高速域での安定性と、ワインディングでの応答性を両立させる方向です。

    「XX」と「スープラ」、二つの名前の意味

    A60型を語るうえで避けて通れないのが、名前の問題です。日本では「セリカXX(ダブルエックス)」、北米では「セリカ・スープラ」、そして途中から単に「スープラ」。この名前の分岐が、後の系譜に大きな影響を与えています。

    北米で「XX」を名乗れなかった理由は有名な話です。英語圏では「XX」がアダルトコンテンツの等級を連想させるため、マーケティング上の問題がありました。そこで採用されたのが、ラテン語で「超越する」を意味する「Supra」という造語です。

    ただ、名前が変わったことの意味は、単なるローカライズにとどまりません。北米市場でスープラという独自のアイデンティティが育ったことで、「セリカとは別のブランドとして独立させるべきだ」という方向性が社内で強まっていったのです。実際、次世代のA70型では日本でも「スープラ」を正式名称として採用し、セリカの名前は完全に外れます。

    つまりA60型は、セリカXXとスープラという二つの名前を同時に背負った、系譜上の分水嶺にあたるモデルです。

    競合との距離感と、市場での立ち位置

    A60型が戦った相手は、国内では日産のフェアレディZ(Z31型が1983年に登場)、北米ではZに加えてシボレー・カマロやポンティアック・ファイアバードといったアメリカンマッスル系のクーペでした。

    Zカーとの比較は常に意識されていました。フェアレディZが「スポーツカー」としての純度を前面に出していたのに対し、A60型スープラは快適性や装備の充実を武器にしていた面があります。良く言えばGTとしてのバランスが良い。厳しく言えば、スポーツカーとしてのキャラクターがやや曖昧だった。

    北米での販売は堅調でしたが、Zカーの牙城を完全に崩すには至りませんでした。ただ、トヨタにとってA60型は「このセグメントで戦い続ける」という意思表示として重要でした。直6ターボという武器を手にしたことで、次世代のA70型でさらに本格的なGTスポーツへ進化する土台が築かれたのです。

    系譜の中で果たした役割

    A60型スープラの生産は1986年に終了し、後継のA70型にバトンを渡します。A70型はセリカの名前を完全に捨て、より大きく、より速く、より高級なGTカーへと進化しました。その延長線上にA80型があり、2JZ-GTEという伝説的なエンジンが生まれることになります。

    こうして振り返ると、A60型は「スープラ」という系譜の助走期間にあたるモデルです。まだセリカの影が残っていて、完全な独立は果たしていない。でも、直6エンジンへのこだわり、GT性能の追求、そして北米でのブランド確立という三つの柱は、すでにこの世代で明確に打ち立てられていました。

    派手さでは後のモデルに譲りますが、スープラがスープラになるための道筋を引いたのは、このA60型です。セリカの延長線上にいながら、セリカではないクルマになろうとした。

    その過渡期の緊張感こそが、A60型の最大の魅力なのかもしれません。

  • GRスープラ – A90【17年の沈黙を破った、トヨタが一人では作れなかった直6FR】

    GRスープラ – A90【17年の沈黙を破った、トヨタが一人では作れなかった直6FR】

    スープラが帰ってきた——。

    2019年にそのニュースが世界を駆け巡ったとき、歓迎と困惑が同時に起きました。復活そのものは待望されていた。

    でも「BMWと共同開発」という事実が、少なくない数のファンを戸惑わせたのも事実です。

    なぜトヨタは、自社の看板スポーツカーを他社と一緒に作ったのか。

    そこには「作りたくても一人では作れなかった」という、2010年代のスポーツカー開発のリアルが詰まっています。

    17年間の空白が意味するもの

    先代A80スープラが生産終了したのは2002年。

    排ガス規制への対応が困難になったことが直接の理由ですが、背景にはもっと大きな流れがありました。

    2000年代のトヨタは、世界販売台数でGMを追い抜くほどの成長期にあり、経営資源はハイブリッド技術やグローバル展開に集中していたのです。

    直列6気筒エンジンにFRプラットフォーム。この組み合わせを維持するには、専用の開発投資が必要です。しかしスポーツカーの販売台数では、その投資を回収できない。これは何もトヨタだけの問題ではなく、日産もホンダも、2000年代には同じ壁にぶつかっていました。

    つまりA90が「17年もかかった」のではなく、17年間は「作れる条件が揃わなかった」というのが正確なところです。

    BMWとの共同開発という合理的な決断

    転機は2012年頃に訪れます。

    トヨタとBMWが技術提携を発表し、その枠組みの中でスポーツカーの共同開発が動き始めました。

    BMW側はZ4の後継モデルを必要としており、トヨタ側はスープラ復活の道を探っていた。プラットフォームとパワートレインを共有すれば、単独では成立しない企画が成立する——この判断が、A90誕生の出発点です。

    共同開発といっても、丸ごと同じクルマを作ったわけではありません。

    プラットフォーム(CLAR)とエンジンはBMW由来ですが、ボディ、サスペンションのチューニング、ステアリングフィールといった「走りの味付け」はトヨタ側——正確にはGAZOO Racingが独自に仕上げています。

    開発責任者の多田哲哉氏は、「エンジニアリングのベースは共有しても、走りの哲学は別物にする」という方針を繰り返し語っていました。実際、Z4がオープンボディでコンフォート寄りの味付けなのに対し、スープラはクローズドボディで剛性を稼ぎ、より硬質でダイレクトな走りを目指しています。

    この「同じ素材から違う料理を作る」というアプローチは、OEMとは明確に異なります。

    ただ、エンジンにBMWの型式(B58)が刻まれている事実は変わらない。ここに対する評価は、いまだに分かれるところです。

    ショートホイールベースという設計思想

    A90スープラの設計で最も特徴的なのは、ホイールベース2,470mmという数字です。

    これは86/BRZより短く、現行のスポーツカーとしてはかなりコンパクトな部類に入ります。全長4,380mmに対してこのホイールベースですから、前後のオーバーハングが相対的に長い、独特のプロポーションになっています。

    多田氏はこの設計意図について「回頭性を最優先した」と明言しています。ホイールベースが短ければ、ノーズの向きが変わるレスポンスは速くなる。直進安定性とのトレードオフはありますが、「スポーツカーとして曲がる楽しさを優先した」という判断です。

    前後重量配分は50:50。フロントミッドシップに近いエンジン搭載位置と、トランスアクスルではないもののリア寄りに配置されたトランスミッションによって、この数値を実現しています。カタログ上の50:50は珍しくありませんが、短いホイールベースとの組み合わせで得られる旋回特性は、数値以上に軽快です。

    直6ターボと、もうひとつの選択肢

    パワートレインは、日本市場では当初B58型3.0L直列6気筒ターボのみの設定でした。最高出力340ps、最大トルク500Nm。2020年の改良で387psに引き上げられ、さらに後に「A90 Final Edition」では400ps超の仕様も登場しています。

    この直6ターボは、BMW由来とはいえ非常に完成度の高いユニットです。低回転から太いトルクが立ち上がり、高回転まで淀みなく回る。ZF製8速ATとの組み合わせも洗練されていて、スポーツ走行でのレスポンスと日常域での快適さを両立しています。

    海外市場では2.0L直列4気筒ターボ(B48型)を搭載する廉価グレードも用意されました。日本でも2020年に「SZ」「SZ-R」として追加されています。197psのSZと258psのSZ-Rは、車両重量が1,410〜1,450kg程度と3.0Lモデルより100kg近く軽く、ノーズの軽さを活かした軽快なハンドリングが持ち味です。

    「スープラなのに4気筒?」という声はありました。ただ、この4気筒モデルの存在が間口を広げたのも事実で、特にSZ-Rは走りの質感と価格のバランスから、通好みの選択肢として一定の支持を集めています。

    「トヨタのスープラ」なのか問題

    A90を語るうえで避けて通れないのが、「これは本当にトヨタのクルマなのか」というアイデンティティの問題です。エンジンはBMW、プラットフォームもBMW、生産はオーストリアのマグナ・シュタイヤー。トヨタの工場で作られてすらいない。

    この点について多田氏は「大切なのは誰が部品を作ったかではなく、誰がクルマの走りを決めたか」と繰り返し述べています。実際、ニュルブルクリンクでの走り込みを重ね、サスペンションジオメトリやダンパー特性、電動パワステの味付けはトヨタ側が主導しました。

    ただ、この議論が起きること自体が、A90の宿命でもあります。A80までのスープラは、2JZ-GTEという伝説的な自社製エンジンを持ち、それがアイデンティティの核でした。その核を他社に委ねたことの是非は、おそらく永遠に意見が分かれるでしょう。

    一方で冷静に見れば、この共同開発がなければスープラという車名は復活しなかった可能性が高い。「純血」を守って消えるか、「混血」を受け入れて存在し続けるか。A90はその問いに対するトヨタの回答です。

    モータースポーツとGRの文脈

    A90スープラは、GAZOO Racingブランドの旗艦モデルとして位置づけられています。GRヤリス、GR86と並ぶラインナップの頂点であり、SUPER GTではGT500クラスの車両ベースとしても使われました。

    もっとも、SUPER GTのGRスープラは市販車とはほぼ別物で、共通するのは基本的にシルエットだけです。ただ、「スープラ」という名前がサーキットに戻ってきたこと自体に意味がありました。A80時代のJGTCでの活躍を知る世代にとっては、レースシーンにスープラが存在すること自体がブランドの説得力になります。

    市販車の世界でも、GRブランドの中でA90が果たした役割は大きい。GRヤリスが「ホモロゲーション的な尖り」を担い、GR86が「手の届くFRスポーツ」を担う中で、A90は「トヨタが本気で作るハイパフォーマンスFR」という看板を掲げました。この三層構造があることで、GRブランド全体の説得力が成立しています。

    A90が残したもの、残せなかったもの

    GRスープラA90は、2019年のデビューから2025年に至るまで、継続的な改良を受けながら販売されています。マニュアルトランスミッション仕様の追加(2022年)は、ファンの要望に応えた象徴的なアップデートでした。

    iMT(インテリジェント・マニュアル・トランスミッション)による回転合わせ機能付きの6速MTは、AT全盛の時代にあって貴重な選択肢です。

    このクルマが証明したのは、「スポーツカーを作り続けるには、従来の枠組みにこだわらない柔軟さが必要だ」ということでしょう。共同開発という手法は、A90以降、他メーカーでも選択肢として現実味を帯びています。

    一方で、A90が「トヨタの直6」という文化を継承したかといえば、それは少し違う。

    2JZの血統はここで途切れています。

    エンジン開発を自社で完結させる時代が終わりつつあるのか、それともA90が特殊な例なのか。その答えはまだ出ていません。

    それでも、17年の空白を経て「スープラ」という名前が現役であること。直列6気筒FRという形式が、2020年代にも新車として買えること。それ自体が、A90の最大の功績かもしれません。

    純粋主義者を完全に納得させることはできなかったとしても、存在しないスープラより、存在するスープラのほうがずっと価値がある

    A90は、その現実的な正解を体現したクルマです。

  • スープラ – A80【バブルの残り火が生んだ、奇跡の国産最高峰GTマシン】

    スープラ – A80【バブルの残り火が生んだ、奇跡の国産最高峰GTマシン】

    1993年に登場したA80型スープラは、トヨタが本気で世界のGTカーと張り合おうとした車です。ただ「速い国産車」だったのではありません。

    ポルシェ911やシボレー・コルベットを仮想敵に据え、直列6気筒ツインターボという心臓を新開発し、ボディ剛性から空力まで徹底的に詰めた。バブル経済の余韻がまだ開発現場に残っていた、あのわずかな時間だからこそ成立したクルマです。

    このA80は、後に中古市場で異常な高騰を見せ、チューニング文化のアイコンにもなりました。でも「なぜこの車がそこまで特別なのか」を理解するには、登場した背景と、トヨタがこの一台に何を賭けたかを知る必要があります。

    バブル崩壊後に世に出た、バブル期の設計思想

    A80スープラの開発がスタートしたのは、1980年代末のことです。まさにバブル経済の真っ只中。日産はR32 GT-Rを投入し、ホンダはNSXで世界を驚かせた。各メーカーが「世界に通用するスポーツカー」を本気で作ろうとしていた時代です。

    トヨタもその流れに乗りました。ただし、スープラが目指したのはピュアスポーツではなく、あくまでグランドツーリングカーでした。高速巡航の快適性、長距離を走っても疲れない懐の深さ、そのうえで踏めばちゃんと速い。そういう方向性です。

    ところが、開発が進むうちにバブルは崩壊します。1993年の発売時点では、日本経済はすでに冷え込み始めていました。それでもA80は、開発初期に設定された高い目標をほぼそのまま実現して世に出ています。

    開発途中でコストカットの圧力がなかったとは言いませんが、少なくとも心臓部と骨格に関しては妥協の痕跡がほとんど見えない。これは、バブル期に承認された開発予算と設計思想が、そのまま製品に結実した結果です。

    2JZ-GTEという伝説のエンジン

    A80スープラを語るうえで、2JZ-GTEエンジンを避けて通ることはできません。排気量3.0リッターの直列6気筒DOHCツインターボ。カタログ値で280馬力(国内自主規制上限)、トルクは44.0kgf·mを発生しました。

    ただ、この数字だけでは本質が伝わりません。2JZ-GTEが特別だったのは、エンジンブロックの強度が異常に高かったことです。鋳鉄製のクローズドデッキブロックは、ノーマルの状態ですでに相当な余裕を持って設計されていました。

    結果として、タービン交換やブースト圧の引き上げだけで600馬力、800馬力、果ては1,000馬力超えまで耐えるエンジンとして、チューニング界で神格化されることになります。

    トヨタがなぜそこまで頑丈なエンジンを作ったのか。公式にはっきりした説明はありませんが、当時の開発陣が「世界のどの市場に出しても壊れないGTカー用エンジン」を目指していたことは間違いないでしょう。北米市場での高速巡航、欧州のアウトバーンでの全開走行。そういった使用環境を想定すれば、マージンを大きく取るのは合理的です。

    結果的に、その過剰とも言える耐久マージンが、後のチューニング文化を爆発的に広げることになりました。設計者の意図を超えたところで価値が生まれた、稀有な例です。

    ボディ設計と足回りの本気度

    エンジンばかりが注目されがちですが、A80のボディ設計もかなり本気です。先代A70と比べて全長は短くなり、ホイールベースも縮んでいます。つまり、よりコンパクトでスポーティな方向に振ったということです。

    車体の軽量化にも力が入っていました。ボンネットやフロントのサスペンションタワーバーにアルミを使い、リアスポイラーには中空構造を採用。ターボモデルの車重は約1,510kgで、3リッターツインターボのGTカーとしては当時かなり軽い部類でした。

    足回りはフロントがダブルウィッシュボーン、リアもダブルウィッシュボーン。4輪独立懸架で、前後ともにアルミ製のアームを多用しています。この足回りの構成は、同時代のポルシェ928やジャガーXJSといった欧州GTカーを明確に意識したものでした。

    空力面では、あの特徴的な大型リアウイングが目を引きます。ただのデザイン要素ではなく、高速域でのリアのリフトを抑えるために機能しています。Cd値(空気抵抗係数)は0.31〜0.32程度とされ、あのボリューム感のあるボディにしては悪くない数字です。

    なんちゃってではなく、本物のGTを作ろうとした

    A80スープラの開発を主導したのは、チーフエンジニアの伊藤修令氏です。伊藤氏は「ポルシェに勝つ」ではなく「ポルシェと同じ土俵に立てるクルマを作る」ことを目標にしていたと伝えられています。

    この姿勢は、開発プロセスにも表れています。ニュルブルクリンク北コースでのテスト走行を繰り返し、欧州の道で鍛えるという手法は、当時のトヨタとしてはかなり踏み込んだものでした。日本の高速道路だけでは見えない限界域の挙動を、現地で潰していったわけです。

    北米市場では、自然吸気の2JZ-GE(225馬力)搭載モデルも用意されました。こちらはよりマイルドなGTとしての性格が強く、6速MTだけでなく4速ATも設定されています。

    日本国内ではターボモデルが主役でしたが、グローバルで見ると自然吸気モデルも重要な存在でした。トヨタがA80を「一部のマニア向け」ではなく「ちゃんと売れるGTカー」として設計していたことがわかります。

    売れなかった現実と、後から来た評価

    正直に言えば、A80スープラは商業的には成功しませんでした。日本国内での販売台数は限定的で、バブル崩壊後の市場環境では500万円前後という価格帯のスポーツカーは厳しかった。北米でもポルシェやコルベットほどのブランド力はなく、販売は伸び悩みます。

    1996年にはマイナーチェンジでVVT-i(可変バルブタイミング機構)が追加され、6速ゲトラグ製MTの採用など改良は続きましたが、大きなテコ入れにはなりませんでした。2002年に生産終了。後継車は長らく登場せず、スープラの名前は17年間途絶えることになります。

    ところが、生産終了後にA80の評価は急激に上がり始めます。きっかけのひとつは、映画『ワイルド・スピード』シリーズでの露出です。オレンジのA80スープラが劇中で暴れ回る姿は、世界中の若い世代にこの車の存在を刻み込みました。

    もうひとつは、チューニングベースとしての実力が口コミとネットで広まったことです。2JZ-GTEの底なしのポテンシャルが知れ渡るにつれ、A80の中古価格は上昇の一途をたどります。

    2020年代には程度の良い個体が2,000万円を超えることも珍しくなくなりました。新車価格の4倍以上です。

    A80が系譜に残したもの

    2019年、トヨタはBMWとの共同開発でスープラを復活させました。DB型、いわゆるA90スープラです。ただし、A90は直列6気筒こそ搭載していますがBMW製のB58エンジンであり、プラットフォームもBMW Z4と共有しています。

    この選択には賛否がありました。「トヨタ内製でやるべきだった」という声は根強い。

    しかし裏を返せば、A80のような車をトヨタ単独で作ることが、もはや採算的に不可能だったということでもあります。A80は、トヨタが自社の技術だけで世界最高峰のGTカーを作れた、最後の時代の産物だったのかもしれません。

    2JZ-GTEというエンジンは、トヨタの直列6気筒の最終到達点でもありました。この後、トヨタは乗用車向けの直6エンジンを長らく作っていません。

    A80スープラは、トヨタの直6文化の集大成であり、同時にその終着点でもあった。そう考えると、この車の存在感の重さが少し違って見えてきます。

    バブルの残り火で生まれ、市場では苦戦し、しかし時間が経つほどに評価が高まっていった。

    A80スープラは、「売れた車が名車」という常識を静かに覆した一台です。

  • スープラ – A70【トヨタが本気でGTカーを作ろうとした転換点】

    スープラ – A70【トヨタが本気でGTカーを作ろうとした転換点】

    スープラという名前を聞いて、多くの人がまず思い浮かべるのはA80型かもしれません。あの2JZ-GTEを積んだ怪物です。

    でも、そのA80が生まれる土壌を作ったのは、間違いなくこのA70型でした。トヨタが「セリカXX」の名前を捨て、グローバルで「スープラ」として独立させた最初の世代。

    つまりこの車は、トヨタがGTスポーツを本気でやると宣言した転換点です。

    セリカXXからの独立という決断

    A70型スープラは1986年に登場しました。それ以前、日本市場では「セリカXX(ダブルエックス)」として販売されていた車の後継にあたります。北米ではすでに初代からスープラの名が使われていましたが、日本国内でもこの世代からセリカの名を外し、スープラとして独立しました。

    なぜ独立させたのか。理由はシンプルで、セリカとは明確に別の車にしたかったからです。セリカはFF化が進み、よりパーソナルなスペシャルティカーの方向へ舵を切りつつありました。一方でスープラは直列6気筒をフロントに縦置きし、後輪を駆動するFRレイアウトを堅持しています。

    プラットフォームもセリカとは異なり、当時のマークII/ソアラ系と共有する、いわゆるトヨタのFR上級プラットフォームがベースです。つまりA70型スープラは、セリカの上位グレードではなく、ソアラと同じ土俵に立つGTスポーツとして位置づけられていました。

    直6ツインターボという武器

    A70型スープラの心臓部として最も語られるのが、1JZ-GTE型 2.5L 直列6気筒ツインターボです。1990年のマイナーチェンジで搭載されたこのエンジンは、280馬力を発生しました。これは当時の自主規制上限値であり、日産・スカイラインGT-R(BNR32)やホンダ・NSXと並ぶ、国産最高出力の一角です。

    ただし、デビュー当初のエンジンラインナップはもう少し控えめでした。初期型では7M-GTE型の3.0L直6ターボ(230馬力)が最上位で、自然吸気の7M-GE型や、1G-GTE型の2.0L直6ツインターボも用意されていました。日本市場では2.0Lターボが税制面で有利だったため、実はこちらが売れ筋だったりもします。

    重要なのは、どのエンジンを選んでも直列6気筒だったという点です。トヨタはこの車に4気筒を載せませんでした。直6のスムーズな回転フィールこそがスープラのアイデンティティであり、それはA80型、さらにはその先まで受け継がれる設計思想の出発点になっています。

    GTカーとしての設計思想

    A70型スープラをピュアスポーツカーと呼ぶのは、少し違います。この車の本質はグランドツーリングカーです。高速巡航を快適にこなしながら、ワインディングではドライバーの意思に応えるだけの運動性能を持つ。そういう設計です。

    サスペンションはフロントがダブルウィッシュボーン、リアがセミトレーリングアーム。当時としては標準的な構成ですが、後期型ではTEMS(Toyota Electronically Modulated Suspension)と呼ばれる電子制御サスペンションが採用され、乗り心地とスポーツ走行の両立を図っています。

    ボディサイズも、全長4,620mm、ホイールベース2,595mmと、2ドアクーペとしてはかなり大柄です。車重も1,400kgを超えるモデルが多く、軽快に振り回すタイプの車ではありません。むしろ高速域での安定感や、長距離を走ったときの疲れにくさに美点がありました。

    エアロダイナミクスにも力が入っていました。リトラクタブルヘッドライトを採用したフロントフェイスは、空力を意識した低いノーズラインを実現しています。大型のリアスポイラーも単なる飾りではなく、高速域でのリフト抑制に寄与するものでした。

    バブルと自主規制の時代に

    A70型スープラが生きた1986年から1993年という時間軸は、日本の自動車史において特殊な時代です。バブル経済の追い風を受け、各メーカーが採算度外視とも言える高性能車を次々に投入していました。

    スープラの直接的なライバルは、日産・フェアレディZ(Z31/Z32)でしょう。同じ直6FRのGTスポーツという構図です。さらに1989年にはR32型スカイラインGT-Rが復活し、NSXも登場します。国産スポーツカーの黄金期のまっただ中に、A70型は存在していました。

    この激しい競争環境が、1990年のマイナーチェンジで1JZ-GTEを載せるという判断を後押ししたのは間違いありません。280馬力の自主規制枠いっぱいまで出力を引き上げなければ、ライバルに対して商品力で見劣りしてしまう。そういう時代でした。

    ただ、この時代の恩恵と制約は表裏一体です。280馬力という数字は各社横並びになり、カタログスペックだけでは差別化が難しくなりました。A70型スープラは、パワーの数字だけでなく、直6の質感やGTとしての快適性で勝負する必要がありました。

    チューニングベースとしての評価

    A70型スープラは、市販状態での完成度とは別に、チューニングベースとしても高く評価されてきました。とくに1JZ-GTE搭載モデルは、エンジン自体のポテンシャルが非常に高く、タービン交換や制御系の変更で大幅なパワーアップが可能でした。

    FRレイアウトに直6ターボという組み合わせは、ドリフト競技やタイムアタックの世界でも重宝されています。後継のA80型ほど中古車価格が高騰していないこともあり、実用的なチューニングカーとして長く愛されてきた側面があります。

    もっとも、ベース車としての人気は、裏を返せば「ノーマルのままで語られにくい」という面も含んでいます。A70型は、純正状態の完成度よりも、手を入れたときの伸びしろで評価される傾向がありました。これは良い意味でも悪い意味でも、この車の性格を表しています。

    A80への橋渡しとして

    A70型スープラは1993年に生産を終了し、後継のA80型にバトンを渡します。A80型は2JZ-GTEという伝説的なエンジンを得て、スープラの名を世界的なものにしました。しかしA80型が最初からあの方向性で開発できたのは、A70型が「セリカとは別の、直6FRのGTスポーツ」という路線を確立していたからです。

    A70型が残したものは、エンジンやシャシーの技術だけではありません。「スープラとは何か」という問いに対する最初の回答を示したことが、最大の遺産です。直列6気筒、フロントエンジン・リアドライブ、高速巡航も楽しめるGTスポーツ。この定義は、A80型を経て、2019年に復活したDB型スープラにまで通底しています。

    振り返ると、A70型スープラは派手なヒーローではなかったかもしれません。同世代のGT-RやNSXほどのアイコン性はなく、後継のA80型ほどの伝説性もない。

    でも、トヨタがスポーツカーの系譜を本気で作ろうとしたとき、その起点になったのはこの車でした。

    地味に見えるかもしれないけれど、ここがなければその先はなかった。

    スープラの伝説はA80で完成したのかもしれない。けれど、その輪郭を最初に描いたのはA70でした。

  • セリカXX – A40/A50【セリカから枝分かれした直6の野心】

    セリカXX – A40/A50【セリカから枝分かれした直6の野心】

    スープラという名前を聞くと、多くの人はA80、あるいはA70を思い浮かべるかもしれません。でもこの車種の出発点は、もう少し地味で、もう少し野心的な場所にあります。

    1978年に登場したA40/A50型。日本では「セリカXX」と呼ばれ、北米では「セリカ・スープラ」として売り出されたこのクルマが、すべての始まりです。

    なぜセリカの名前がついているのにスープラなのか。なぜ直列6気筒だったのか。そしてなぜ、セリカとは別の道を歩むことになったのか。

    初代スープラの成り立ちを追うと、トヨタが1970年代後半に何を狙っていたのかが、かなりはっきり見えてきます。

    セリカでは届かなかった場所

    1970年代後半、トヨタには明確な課題がありました。北米市場で、日産のZカー(フェアレディZ・S30型)に対抗できるスポーツクーペがなかったのです。セリカは確かに人気がありましたが、あくまで4気筒ベースのスペシャルティカーという立ち位置。Zカーが持つ「直6のGTカー」という格には、どうしても届きませんでした。

    当時のアメリカ市場では、直列6気筒エンジンの滑らかさとトルク感が、スポーツクーペの格を決める大きな要素でした。4気筒ではどれだけチューニングしても「安い車」の印象を拭いきれない。トヨタがZカーに正面から挑むなら、6気筒を積んだクーペが必要だったわけです。

    セリカを伸ばして6気筒を押し込む

    トヨタが選んだ方法は、かなり合理的で、同時にかなり力技でもありました。2代目セリカ(A40系)のプラットフォームをベースに、ノーズを約130mm延長して直列6気筒エンジンを搭載する。つまり、セリカの車体を物理的に引き延ばして、上位モデルを作ったのです。

    搭載されたのはM型エンジン。日本仕様では2.0LのM-EU型(A40系)と2.6Lの4M-E型(A50系)が用意され、北米仕様では4M-E型の2.6Lが主力でした。M型エンジンはクラウンやマークIIにも使われていたトヨタの直6の系譜で、信頼性には定評がありました。ただ、スポーツエンジンというよりは「上質なツアラー向けのユニット」という性格です。

    ここが初代スープラの面白いところで、エンジン自体はスポーツカーのために開発されたものではありません。既存のセダン用直6を、スペシャルティクーペに転用している。要するに、トヨタは「新しいスポーツカーを一から作る」のではなく、「既存の資産を組み合わせて上位セグメントに参入する」という商品企画をしたわけです。

    セリカXXという日本名の事情

    日本では「セリカXX(ダブルエックス)」という名前で販売されました。なぜスープラではなかったのか。これはシンプルに、日本市場ではセリカのブランド力が圧倒的に強かったからです。セリカの上級版という位置づけのほうが、販売戦略上は合理的でした。

    一方、北米では「セリカ・スープラ」として投入されています。スープラ(Supra)はラテン語で「超える」を意味する言葉。セリカを超えるもの、という意図がそのまま名前になっています。この時点ではまだセリカの派生モデルという扱いで、独立した車種ではありませんでした。

    ただ、名前の付け方ひとつ取っても、トヨタの狙いは明確です。日本ではセリカの傘の下で売る。北米ではZカーの対抗馬として、セリカとは違う格を持たせる。同じクルマなのに、市場によってまったく違うブランディングをしていたわけです。

    GTカーとしての実力と限界

    走りの面では、初代スープラは「快適に速いGTカー」でした。直6の滑らかさ、ロングノーズの安定感、セリカより一回り余裕のあるキャビン。高速巡航での快適性は、4気筒のセリカとは明らかに別物です。

    ただし、ピュアスポーツかと言われると、そこは正直に言って微妙なところです。車重はセリカより当然重くなっていますし、M型エンジンのパワーは2.6Lの4M-Eでも110馬力程度(北米仕様・ネット値)。排ガス規制の厳しかった時代ですから仕方ないのですが、Zカーの直6と比べても突出したスペックではありませんでした。

    むしろこのクルマの本質は、スポーツカーというよりも「6気筒のラグジュアリークーペ」に近いものです。パワーウィンドウ、オートエアコン、AM/FMステレオといった装備が充実しており、トヨタとしてはセリカの上に「高級スポーティ」という新しい層を作ろうとしていたことがわかります。

    1981年のマイナーチェンジと進化

    1981年には大幅なマイナーチェンジが行われ、日本仕様では2.8Lの5M-GEU型エンジンが追加されました。DOHCの直列6気筒で、出力は170馬力(グロス値)。これは当時のトヨタとしてはかなり意欲的なスペックで、初代スープラの性格を一段スポーティな方向へ引き上げています。

    エクステリアもリトラクタブルヘッドライトの採用などでシャープな印象に変わり、初期型の穏やかな顔つきとはかなり雰囲気が違います。この後期型は、スープラが「GTカー」から「スポーツGT」へ軸足を移していく過渡期のモデルと言えます。

    北米でもこのタイミングで5M-GE型が投入され、セリカ・スープラの評価は確実に上がりました。Zカーへの対抗という当初の目的に対して、ようやく実力が追いついてきた時期です。

    系譜の出発点としての意味

    初代スープラ(A40/A50)は、後のA70やA80のような圧倒的な存在感を持つクルマではありません。セリカの派生モデルという出自、既存エンジンの転用、控えめなパワー。華やかさだけで見れば、正直なところ地味な部類に入るでしょう。

    でも、このクルマがなければスープラという系譜は存在しませんでした。「トヨタにも直6のスポーツクーペが必要だ」という判断。セリカとは別の格を持つGTカーという商品企画。そして北米市場でZカーと戦うという明確な意志。これらすべてが、A40/A50で初めて形になったのです。

    2代目のA60では完全にセリカから独立し、スープラは独自の道を歩み始めます。その独立を可能にしたのは、初代が北米で一定の支持を得て「スープラ」というブランドの種を蒔いたからにほかなりません。

    A40/A50は、スープラの原型というよりも、スープラが生まれるための実験だったと言ったほうが正確かもしれません。セリカの延長線上から始まった直6クーペが、やがてセリカを超え、独自のアイデンティティを獲得していく。

    その最初の一歩が、ここにあります。