家電メーカーがクルマを作る。
2020年1月、ラスベガスのCES会場でソニーが披露した一台のセダンは、自動車業界の常識に正面から疑問符を投げかけました。
そして6年後の2026年3月、そのクルマは一台も顧客の手に届くことなく、歴史の中に消えていきます。
VISION-Sからアフィーラへ。
この物語は、「クルマとは何か」が揺れ動いた電動時代の、もっとも象徴的な実験のひとつでした。
CES 2020の衝撃
2020年1月、ソニーの吉田憲一郎社長はCESのステージで「モバイルの次に来るメガトレンドはモビリティだ」と宣言しました。
そしてその場で、完成度の高いEVプロトタイプVISION-Sを公開します。驚いたのは業界関係者だけではありません。
なぜならテレビとPlayStationの会社が走れるクルマを持ってきたのですから。
しかもこれは、張りぼてのモックアップではありませんでした。車内外に合計33個のセンサーを配置し、CMOSイメージセンサー13個、レーダー17個、ソリッドステート型LiDAR3個という構成で、レベル2相当の運転支援にも対応していました。
車体の設計・製造は、トヨタ・スープラの生産でも知られるオーストリアのマグナ・シュタイヤーが担当。ボッシュ、NVIDIA、クアルコムといった名だたるサプライヤーも開発に参画しています。
つまりVISION-Sは、ソニーが「自分たちの得意技」をクルマという箱に全部載せたらどうなるか、という壮大なデモンストレーションだったわけです。
立体音響「360 Reality Audio」をシートに内蔵したスピーカーで再生し、ダッシュボード全面にパノラミックスクリーンを展開する。エンターテインメントの会社が考える「移動空間」の提案としては、これ以上ないくらい明快でした。
「売るつもりはない」から「売りたい」へ
ただ、当初ソニーは明確に線を引いていました。開発責任者の川西泉氏は「現時点で製造や販売は考えていない」と繰り返し語っています。VISION-Sはあくまで、ソニーのセンサー技術を自動車メーカーに売り込むためのショーケースだったのです。
ところが、世間の反応が想定を超えました。「ソニーが自動車メーカーになるのか?」という問いかけが世界中のメディアから殺到します。CES 2020の後、VISION-Sはオーストリアのグラーツに輸送され、さらに東京に戻されて開発が続けられました。明らかに、単なる展示用ではない扱いです。
そして2022年のCESで、ソニーは大きく舵を切ります。SUVタイプのVISION-S 02を披露するとともに、EV事業の商用化を目指す新会社「ソニーモビリティ」の設立を発表。吉田社長は「移動を再定義できると確信している」と語りました。技術のショーケースだったはずのVISION-Sが、いつの間にか「売り物」に変わろうとしていたのです。
ホンダとの合弁という選択
ソニーがクルマを作りたいと思っても、工場もなければ、量産のノウハウもありません。そこで手を組んだのがホンダでした。2022年3月に基本合意書を締結し、同年6月に合弁会社名を「ソニー・ホンダモビリティ(SHM)」と発表。9月に正式設立されています。
この座組みは、かなり異色でした。
ホンダが車体やプラットフォームの開発・生産を担い、ソニーがソフトウェア、エンターテインメント、UI/UXを主導する。いわば水平分業です。SHMの従業員はわずか約400人で、その大半がソフトウェア技術者。会長兼CEOの水野泰秀氏は「工場を持たず、アセットライトな新しい自動車の事業モデルをつくりたい」と語っています。
エンジンがないEVだからこそ、ハードウェアを外注する分業モデルが成り立つ——。
そういう仮説のもとに、このプロジェクトは動き出しました。テスラやBYDが垂直統合型で勝ちに行く世界で、真逆のアプローチを選んだことになります。
アフィーラという名前の意味
2023年1月のCES 2023で、SHMは新ブランド名「AFEELA(アフィーラ)」を発表し、プロトタイプを初公開しました。名前の由来は、真ん中に「FEEL(感じる)」を置き、コンセプトの頭文字「A」で挟んだもの。クルマと人との「感じ合う関係」を標榜するネーミングです。
VISION-Sの後継として位置づけられたアフィーラは、Eセグメント相当の5人乗りセダンで、全長4,920mm、全幅1,900mm、全高1,460mm、ホイールベース3,000mm。見た目はVISION-Sの面影を残しつつも、よりシンプルでフラットな面構成に仕上げられていました。良くいえばクリーン、悪くいえば「印象が薄い」。あえてスマートフォン的な無個性さを選んだという話もあります。
特徴的だったのは、フロントに配置された「メディアバー」と呼ばれる横長のLEDディスプレイ。従来のグリルに代わって、外部への情報発信やコミュニケーションを担う装置です。ソニーが2017年にNTTドコモと共同開発した「New Concept Cart SC-1」の発展形とも言える、この会社らしいアイデアでした。
中身は「走るPlayStation」
2025年1月のCES 2025で、ついに量産版AFEELA 1が正式発表されます。価格は89,900ドル(約1,420万円)から。グレードは上位の「Signature」と標準の「Origin」の2種類で、カリフォルニア州から先行販売し、2026年中旬に納車開始という計画でした。
パワートレインは、前後に180kW(約244ps)のモーターを各1基搭載したAWD構成で、システム合計483ps。バッテリー容量は91kWhで、EPA推定航続距離は約300マイル(約483km)。充電はNACS規格を採用し、テスラのスーパーチャージャーネットワークが利用可能です。最大充電出力は150kW。
ただ、数字だけ見ると正直なところ厳しい立ち位置でした。ほぼ同じバッテリー容量のLucid Air Touringは航続距離653kmを実現しており、電費性能で大きく水をあけられています。充電出力もテスラ・モデルSやLucid Airの250kWに対して150kW止まり。約1,400万円という価格帯で見ると、スペック面での訴求力は弱いと言わざるを得ません。
では何で勝負するのか。答えはソフトウェアとエンターテインメントです。
車内外に計40個のセンサーを配置し、Qualcomm Snapdragon Digital ChassisのSoCで最大800TOPSの演算性能を実現。レベル2+相当の先進運転支援「AFEELA Intelligent Drive」を搭載し、高速道路の巡航から市街地の右左折、駐車まで幅広くサポートする構想でした。
室内では、PlayStation Remote Playに対応し、DualSenseコントローラーでPS5のゲームが車内で遊べます。Epic GamesのUnreal Engineを統合したインフォテインメント、AI対話型パーソナルエージェント、360 Spatial Sound Technologiesによる立体音響。川西泉社長(COO)はかつてPlayStationやPSPの開発を担当した人物で、「モビリティソフトウェアクリエイターを育てたい」と語っていました。要するにアフィーラは、クルマの形をしたソニーのプラットフォームだったのです。
6年の助走、そして中止
しかし2026年3月25日、すべてが終わりました。
ソニー・ホンダモビリティは、AFEELA 1および第2弾SUVモデルの開発・発売中止を正式に発表します。
直接の引き金は、2026年3月12日に発表されたホンダの四輪電動化戦略の大幅見直しでした。ホンダは「Honda 0」シリーズを含む複数のEV開発を中止し、EV関連資産の減損などで最大約1.3兆円の損失を計上。SHMが前提としていたホンダからの技術やアセットの提供が困難になり、計画通りの商品化ができなくなったのです。
背景にはEV市場の逆風があります。トランプ政権によるEV購入支援策の修正、カリフォルニア州の環境規制撤回、関税の影響。中国を除けば世界的にEV普及が減速する中で、新規参入ブランドが約1,400万円のセダンを売るのは、あまりに厳しい環境でした。
CES 2026ではSUVプロトタイプまで披露し、カリフォルニア州トーランスにはデリバリーハブまでオープンしていました。オハイオ工場では試験生産も完了していたといいます。それだけに、ゴール直前での中止は衝撃的でした。
予約済みの顧客には予約金の全額返金が案内されています。
実験が残したもの
アフィーラは失敗だったのか。
結果だけ見ればそうかもしれません。6年間にわたるティザー期間は長すぎましたし、その間に競合は先を走り続けました。約1,400万円で航続距離483km、充電150kWというスペックは、2026年の市場では見劣りします。セダンという車型も、SUV全盛の時代にはハンディキャップでした。
ただ、このプロジェクトが投げかけた問いは、いまも有効です。
クルマの価値は走行性能やスペックだけで決まるのか。移動空間としてのUXに、もっと可能性はないのか。ソフトウェアを軸にした水平分業で、自動車産業の構造は変えられるのか。
VISION-Sが最初に見せた「ソニーらしいクルマ」の原型——
センサーで世界を認識し、エンタメで車内を満たし、ソフトウェアで進化し続けるモビリティは、たとえアフィーラが市販されなくても、これからのクルマづくりが避けて通れないテーマそのものです。
ソニーとホンダという、昭和の日本を代表する2大企業のタッグは、試合開始のゴングを聞くことができませんでした。
けれど、リングに上がろうとしたこと自体が、自動車産業の地図を少しだけ動かしたのだと思います。
VISION-Sからアフィーラへ。
この6年間は、「クルマの定義」が書き換えられようとした時代の、もっとも誠実な実験のひとつでした。
