「ターボ」という言葉が、まだ特別な響きを持っていた時代があります。
1970年代、ターボチャージャーは一部のレーシングカーだけが使う技術で、公道を走る量産車に載せるのはほとんど非常識な試みでした。
ポルシェ930は、その非常識を最初にやってのけた一台なのです。
レースから降りてきた技術
930の誕生は、ポルシェのレース活動と切り離せません。
1970年代初頭、ポルシェは917や911 RSRといったレーシングカーでターボ技術を積極的に使っており、その経験が量産車への転用を後押ししました。
直接のきっかけは、1973年のオイルショック。
燃費規制や排ガス規制の波が押し寄せる中、ポルシェは「排気量を増やさずに出力を上げる」手段としてターボに目をつけます。当時の規制環境が、皮肉にも最もパワフルな911を生む引き金になりました。
1974年のパリモーターショーでプロトタイプが公開され、翌1975年に量産モデルとして発売。
型式930は、911のボディをベースにしながら、フラット6エンジンに大型のKKK製ターボチャージャーを組み合わせた全く新しい存在として世に出ていくこととなります。
数字より怖い、ターボラグという現実
初期型の排気量は3.0リッター、最高出力は260馬力。当時の量産スポーツカーとしては圧倒的な数字でした。1978年には3.3リッターに拡大され、300馬力に達します。
ただ、この数字だけでは930の本質は伝わりません。問題はパワーの出方にあります。
当時のターボ技術は「ターボラグ」が大きく、低回転域ではほぼノーターボの状態で、ある回転数を超えると突然、強烈なブーストが一気に押し寄せる。アクセルを踏んでから反応が来るまでのタイムラグが、コーナー出口で牙を剥くのです。
しかも930はリアエンジン・リアドライブ。
エンジン重量がリアに集中する構造は、コーナーでオーバーステアが出やすい。そこに突然のターボブーストが加わると、ドライバーが意図しないタイミングでリアが流れ出します。「ウィドウメーカー(未亡人製造機)」という不名誉なあだ名は、この特性から生まれたんですね。
ただ、これは単に欠陥ではなく、技術的な限界と設計思想の組み合わせでした。当時はABSもトラクションコントロールも存在しません。
930を安全に速く走らせるには、ドライバー側の高い技量が必要だったのです。
それでも選ばれた理由
危険な評判があったにもかかわらず、930は熱狂的に支持されました。
その理由のひとつは、あの時代に300馬力を公道で体験できる手段がほかになかったことです。フェラーリやランボルギーニは高価すぎて非現実的。930はポルシェの中では高額でも、スーパーカーの世界への現実的な入口だったのです。
もうひとつは、乗り手を選ぶという性格そのものが、ある種のステータスになったこと。「930を乗りこなせる」という事実が、ドライバーとしての格を示す証明となります。
危険と隣り合わせの緊張感が、むしろ930の価値を高めました。
デザインも930の存在感を際立たせます。リアフェンダーの大きく張り出したワイドボディ、巨大なリアウイング(通称「ティーレイ・ウイング」または「ホエールテール」)は、911の基本シルエットを保ちながら別物の迫力を持っていました。
見た目だけで語りかけてくる車でした。
ポルシェの中での役割
930は、ポルシェにとって単なる高性能モデルではありませんでした。ブランドの頂点に君臨する「旗艦」として、911シリーズ全体の価値を引き上げる役割を担っていました。
1970年代後半から1980年代にかけて、ポルシェは924や944といったフロントエンジンモデルを展開し、より幅広い顧客層を取り込もうとしています。その一方で930は、ポルシェが本気を出すとどうなるかを示す存在として、ブランドの背骨を支えていました。
また、930で蓄積されたターボ技術は、その後のポルシェ全体に波及します。
964ターボ、993ターボ、そして現代の992ターボSへと続く系譜の、最初の一歩が930だったわけです。
1989年、そして930が残したもの
930は1989年に生産を終了し、964型911ターボへとバトンを渡すこととなります。約15年の生産期間で、総生産台数は約21,000台とされる。量産スポーツカーとしては多くないが、一台一台の存在感は際立っていました。
964ターボ以降、ポルシェのターボモデルは着実に「乗りやすく」なっていきます。電子制御の進化がターボラグを抑え、四輪駆動の採用がトラクションを安定させた。現代の992ターボSは、誰でも扱える700馬力超を実現しています。
その意味で930は、洗練される前の原石と言えるでしょう。
技術が未成熟だったからこそ、ドライバーとの対話が剥き出しだった。乗り手を選ぶ車が、乗り手を育てる車でもあった。
今なお930が語り継がれるのは、その危うさと引力が、どんな進化した後継車にも再現できないものだからかもしれません。