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  • ホンダ ビート(PP1)の中古車ガイド【壊れる覚悟と、それでも降りられない理由】

    交差点をひとつ曲がるだけでニヤけてしまう軽自動車。ホンダ ビート(PP1)を語るとき、多くのオーナーがそう表現します。

    1991年に登場し、自然吸気で軽自動車の自主規制値64馬力を8100回転で叩き出すE07Aエンジンをミッドシップに搭載。

    5速MTのみ、2シーターのフルオープン。

    このスペックだけで、もう心が動いている人は少なくないはずです。

    ただ、最も新しい個体でも生産から30年が経過しています。

    「古いから壊れる」で済ませるつもりはありませんが、ビートにはこの車だからこそ気をつけるべきポイントがいくつもあります。

    逆に、思ったより安心できる部分もある。

    この記事では、ビートに惹かれているあなたが「何を怖がるべきで、何はそこまで怖がらなくてよいのか」を整理していきます。

    まず警戒すべきは「ボディ」と「電装」

    ビートの中古車選びで最初に見るべきは、エンジンでもミッションでもありません。

    ボディの錆と、ECU(エンジンの制御コンピューター)の状態です。

    この2つは、ダメだった場合の修理コストと手間が桁違いに大きいからです。

    まずボディの錆について。

    ビートはミッドシップ車なので、左右のサイドシル(ドアの下の部分)にエアインテークダクトが備わっています。

    ここから走行中に水や砂が入り込む構造になっていて、本来は水抜き穴から排出されるはずなのですが、

    長年のあいだにゴミが詰まって水が溜まり、サイドシル内部から錆が進行するケースが非常に多いのです。

    厄介なのは、外見からは分かりにくいこと。

    塗装がわずかに浮いている程度に見えても、内部ではかなり腐食が進んでいることがあります。サイドシルは3枚構造の鉄板で、本気で修理しようとすると切開・溶接が必要になり、左右やると「安いビートがもう1台買える」と言われるほどの費用がかかります。

    次にECU。

    ビートのECUはエンジンルーム近くの熱がこもりやすい場所に設置されていて、内部の電解コンデンサーが熱で劣化・破裂しやすいという構造的な弱点を抱えています。

    コンデンサーが壊れると、エンジン回転が激しく不安定になったり、突然エンストして再始動できなくなったりします。

    修理自体は基板のコンデンサー交換で対応でき、専門業者に依頼すれば5万円前後が目安です。

    ただし、液漏れが基板を腐食させていると修理の難度が上がります。リビルト品も流通しているので、購入前にECUが対策済みかどうかは必ず確認したいところです。

    小さいけれど印象を悪くする不具合たち

    ビートには、走行不能にはならないけれど「中古車としての印象を確実に悪くする」タイプの不具合がいくつもあります。

    これらは購入後に気づくと地味に萎えるので、事前に知っておく価値があります。

    まず雨漏り。ビートオーナーのあいだでは半ば「標準装備」と冗談まじりに語られるほど有名です。

    幌(ソフトトップ)の生地が紫外線や経年で縮み、縫い目が開いてくる。さらにウェザーストリップ(幌と車体の隙間を埋めるゴム)が硬化し、サイドウインドウとの密着が甘くなる。

    結果として、ブレーキを踏んだ瞬間に幌の内部に溜まった水がドバッと流れ落ちてくる——という、かなり衝撃的な漏れ方をすることがあります。

    幌を新品に交換すればかなり改善しますが、幌だけ替えても止まらないケースも多い。

    幌骨の歪み、ドアガラスの位置ズレ、リテナー部分のシール劣化など、複合的な原因が絡むため、ビートに慣れた専門店での調整が必要になります。

    幌とウェザーストリップの一式交換で15万円前後が目安です。

    次に内装プラスチックの白化

    ダッシュボードまわりやスイッチ類のプラスチックパーツが紫外線で白っぽく退色しているビートは非常に多いです。

    走行に影響はありませんが、オープンカーだけに直射日光を浴びやすく、見た目の「くたびれ感」に直結します。

    メーター内部の錆も地味に多い症状です。

    メーター下部に取り付け穴があり、そこから湿気が入り込んで内部が錆びる。トリップメーターのリセットが効かなくなったり、針の動きがおかしくなったりします。

    メーター単体の修理は可能ですが、分解に繊細な作業が必要で、ネジの締めすぎで内部の細い銅線を切ってしまうリスクもあります。

    そして、純正オーディオはほぼ壊れていると思ってよいでしょう。

    そもそもカセットテープ対応なので、仮に動いても実用性はほぼありません。

    20周年記念で限定販売されたUSB対応のスカイサウンドコンポが装着されていればめちゃくちゃラッキーですが、基本的には社外品への交換前提で考えるのが現実的です。

    エンジンまわりで知っておくべきこと

    ビートのE07Aエンジンは、自然吸気であることが大きな安心材料です。ターボ車のようにタービンの焼き付きやブースト圧の管理を心配する必要がなく、基本的なオイル管理さえしっかりしていれば、エンジン本体は長く持ちます。

    ただし、ミッドシップゆえにエンジンルーム内の熱がこもりやすいという構造的な問題があります。この熱害が、エンジン本体ではなく周辺の補機類に集中的にダメージを与えるのがビートの特徴です。

    代表的なのがエアコンのコンプレッサー

    エンジンルームの高温環境にさらされ続けることで、焼き付きや異音が発生しやすくなっています。

    サンデン製のコンプレッサーであればリビルト品が流通していますが、一部の個体に搭載されているケーヒン製は、内部部品の調達ができないためリビルト品が存在しません。

    購入前にどちらのメーカーのコンプレッサーが付いているか確認しておくと、将来の修理計画が立てやすくなります。

    もうひとつ注意したいのがフィールドコイルの焼損です。

    ビートの冷却ファンなどに使われているフィールドコイルは、他の実用車(トゥデイなど)と共通の部品が流用されています。ビートの高回転常用には本来耐えきれない設計で、焼けるとラジエーターファンも連動して止まり、オーバーヒートにつながることがあります。

    エアコン周辺のランプが点灯しない場合は、この系統のトラブルの兆候かもしれません。

    また、エンジンとECUをつなぐハーネス(配線束)の劣化も、この年代のホンダ車に見られる弱点です。

    真夏にエンジンをかけると回転が大きく不安定になり、エンストして数分間再始動できない——という症状が出ることがあります。ハーネスの交換は手間がかかる作業で、費用もそれなりにかかります。

    逆に、ここは安心していい

    弱点の多さに不安になったかもしれませんが、ビートには「ここは思ったより強い」と言える部分もしっかりあります。

    まず5速ミッション。ビートのシフトフィールは新車時から評価が高く、30年以上経った個体でも「手首の動きだけで確実にキマる」と評されるほどです。

    クラッチも軽く、ミッション本体の耐久性も高い。もちろん距離を走ればオーバーホールは必要になりますが、同年代の他車と比べても、ミッションで大きなトラブルを聞く頻度は少ないほうです。

    次にホンダによる純正部品の再販

    2017年から、ホンダは生産終了から20年以上が経過したビートの純正補修部品を再生産・販売するという、国産車としては異例の対応を行っています。

    ホイール、テールランプ、ブロアモーター、ステアリングギアボックスなど、順次対象パーツが追加されてきました。

    この再販が実現した背景には、総生産台数33,892台のうち約60%にあたる約2万台が2016年末時点で現存しているという驚異的な残存率がありました。

    通常、生産終了から20年を過ぎた車の残存率は10%未満と言われるなかで、ビートの愛され方は文字通り桁違いです。

    さらに、全国にビート専門のショップやレストアサービスが存在し、オーナーコミュニティも非常に活発です。

    部品がなければ他車種から流用したり、ワンオフで製作してくれるショップもあります。

    「古い車だから部品がなくて詰む」という最悪のシナリオが、ビートに関しては他の旧車よりもかなり起きにくい環境が整っています。

    そして軽自動車であること自体が維持費の面で大きなメリットです。自動車税は年間12,900円(13年超の場合)。車体が760kgと非常に軽いため、タイヤやブレーキの消耗も穏やかです。

    4輪ディスクブレーキを軽自動車で初めて採用した点も、制動面での安心材料と言えます。

    現車確認で見るべきポイント

    ビートの中古車を見に行くとき、最優先で確認すべきはサイドシルの状態です。塗装の浮き、ブツブツとした膨らみ、触ると柔らかい部分がないかを丁寧に見てください。外見がきれいでも内部が腐食している可能性があるため、可能であればリフトアップして下回りも確認したいところです。

    エンジンについては、オイルフィラーキャップ(オイルを入れる口の蓋)を開けて裏側を見ましょう。ヘドロのようなスラッジが付着していたら、オイル管理が不十分だった可能性が高く、エンジン内部のコンディションに不安が残ります。

    エアコンは実際にオンにして、冷えるかどうか、異音がないかを確認。「中古ビートのエアコンは壊れている前提」という声もあるほどなので、正常に動いている個体はそれだけで価値があります。

    幌は、閉めた状態でサイドウインドウとの密着具合を見ます。

    目に見える隙間があれば、雨漏りはほぼ確実です。リアスクリーン(後ろの窓)が純正のビニール製であれば曇りや割れの程度を、ガラス製に交換済みであればその取り付け状態を確認しましょう。

    整備記録簿が残っている個体は非常に貴重です。

    特にECUの対策履歴、エアコンコンプレッサーの交換歴、幌の交換歴が分かれば、購入後に必要な出費の見通しが立てやすくなります。

    ビートは単一グレードで5速MTのみなので、グレード選びで悩む必要はありません。ボディの状態が良い個体を最優先で選ぶのが正解です。

    結局、ビートは買いなのか

    正直に言えば、ビートは「買って終わり」の車ではありません。

    購入後も年に数万円の整備費は当たり前で、1〜2年に一度は数十万円レベルの出費を覚悟する場面が出てきます。雨漏りは「直す」というより「付き合う」ものですし、エアコンが効かない夏を過ごす可能性もゼロではありません。

    それでも、ビートは正直かなり買いです。見つけたあなたはお目が高いです。

    条件とは、「整備にお金と手間をかけることを楽しめるかどうか」。これに尽きます。

    壊れたら直す、直したらまた乗る。

    そのサイクルを苦痛ではなく趣味の一部として受け入れられる人にとって、ビートは唯一無二の体験を提供してくれます。

    8100回転まで回る自然吸気エンジンの吹け上がり。手首だけでスコスコ入るシフト。760kgの車体が路面に吸い付くように曲がっていく感覚。オープンにしたときに背中から聞こえてくるエンジン音。

    これらは、現行のどの車でも味わえないものです。

    ホンダが純正部品を再販し、専門店が全国に存在し、2万台近くが今なお走り続けている。この「インフラ」が整っている今こそ、ビートに手を出すには悪くないタイミングです。逆に言えば、この環境がいつまで続くかは誰にも分かりません。

    やめた方がよいのは、「安くて楽しい軽スポーツ」という期待だけで飛びつこうとしている人です。

    車両価格は安くても、維持には相応のコストと知識と覚悟が要ります。通勤の足として毎日確実に動いてほしい人にも向きません。

    でも、週末にふらっと乗り出して、下道をゆっくり流すだけで心が満たされる。

    そういう車を探しているなら、ビートはあなたの人生にちょうどいい「鼓動」を加えてくれるはずです。

  • S500【ホンダが四輪メーカーになった日の証明書】

    S500【ホンダが四輪メーカーになった日の証明書】

    ホンダが四輪メーカーになった瞬間を、たった一台で証明したクルマがあります。

    1963年に登場したS500。

    排気量わずか531cc、最高出力44馬力。

    数字だけ見れば小さな存在ですが、このクルマが持っていた意味は、スペックの大小では測れません。

    二輪屋が四輪に乗り込んだ時代

    1960年代初頭、ホンダはすでに二輪車メーカーとしては世界的な成功を収めていました。マン島TTレースでの勝利、国内販売台数の急拡大。本田宗一郎にとって、次のステージは明確に四輪でした。

    ただ、当時の通産省はホンダの四輪参入に消極的だったとされています。いわゆる「特振法」の問題です。自動車産業を少数の大手メーカーに集約しようとする国の方針と、新規参入したいホンダの意志は真っ向からぶつかりました。本田宗一郎が「私にはクルマを作る権利がある」と反発したエピソードは広く知られています。

    S500は、そうした状況のなかで世に出たクルマです。単なる新車発表ではなく、ホンダという企業が四輪メーカーとして存在する権利を、製品で証明する行為だったわけです。

    二輪の設計思想がそのまま走った

    S500の心臓部は、直列4気筒DOHC・531ccエンジン。注目すべきは、最高出力44馬力を8,000rpmで発生するという、当時の四輪としては異常な高回転型ユニットだったことです。リッターあたり約83馬力。この数字は、同時代の量産車としては飛び抜けています。

    なぜこんなエンジンが生まれたのか。答えは単純で、ホンダの設計者たちが二輪レースで培った高回転・高出力の技術をそのまま四輪に持ち込んだからです。4連キャブレター、ローラーチェーン駆動のカムシャフトなど、構成要素のひとつひとつに二輪の血が通っていました。

    もうひとつ、S500を語るうえで外せないのがチェーン駆動の後輪です。一般的な四輪車はプロペラシャフトとデフギアで後輪を駆動しますが、S500はリアにチェーンケースを備え、左右のホイールをそれぞれチェーンで回すという独自の方式を採用しました。これもまた、二輪的な発想の延長線上にあるものです。

    この方式は独立懸架との相性がよく、軽量なオープンスポーツとしてはバネ下重量の軽減にも寄与しました。ただし、構造の複雑さやメンテナンス性の面では課題もあり、後継のS600、S800へと進む過程で通常のリジッドアクスルへ変更されていきます。

    スポーツカーという選択の意味

    ホンダが四輪第一号としてスポーツカーを選んだことには、明確な理由があります。本田宗一郎自身が「技術の高さを証明するにはスポーツカーが最適だ」という考えを持っていたとされています。実用車で勝負するのではなく、走りの性能で技術力を見せつける。二輪レースで世界を獲った企業としては、じつに一貫した戦略です。

    同時期にホンダは軽トラックのT360も発表しており、商用車と並行して開発が進んでいました。T360のほうが実際の発売はわずかに早かったとも言われますが、ホンダが「四輪の顔」として世に問うたのは、あくまでS500のほうでした。

    結果として、S500は1963年10月に発売されます。価格は45万9,000円。当時の大卒初任給が約1万6,000円ほどの時代ですから、安い買い物ではありません。しかし、小さなオープン2シーターが8,000回転まで回るエンジンを積んでいるという事実は、自動車好きの心をつかむには十分でした。

    生産台数の少なさが語ること

    S500の生産台数は、わずか約1,363台とされています。きわめて少ない数字です。これは、S500がすぐにS600へとバトンを渡したことを意味しています。発売からわずか1年ほどで排気量を606ccに拡大したS600が登場し、S500は短命に終わりました。

    ただ、この短命さをネガティブに捉える必要はありません。S500はある意味で「走るプロトタイプ」に近い存在でした。市販車として世に出しながら、技術を磨き、次のモデルへ反映する。二輪レースで鍛えた「走りながら改良する」というホンダの文化が、そのまま四輪でも機能していたわけです。

    S600、そしてS800へと続くSシリーズの進化を見ると、S500で試みた高回転エンジンとライトウェイトスポーツの方向性がブレずに深化していることがわかります。S500は出発点であると同時に、方向を定めた羅針盤でもあったのです。

    ホンダらしさの原液

    S500が後のホンダに残したものは何か。それは「エンジンで語るメーカー」というアイデンティティの確立です。高回転・高出力、リッターあたりの馬力で勝負する。この思想は、のちのシビックやインテグラ、S2000に至るまで、ホンダのスポーツモデルに通底するDNAとなりました。

    VTECという可変バルブタイミング機構が1989年に登場したとき、多くの人がその高回転域の伸びに驚きましたが、ホンダにとっては1963年から一貫してやっていたことの延長でしかなかったとも言えます。

    また、S500が示した「実用車ではなくスポーツカーで技術を問う」という姿勢は、NSXやS2000の企画思想にもつながっています。ホンダがスポーツカーを作るとき、そこには必ず「技術の証明」という意志が込められる。その原点がS500です。

    531ccに詰まった企業の意志

    S500は、速さや性能の絶対値で語るクルマではありません。531ccの小さなエンジンを8,000回転まで回し切るという設計思想そのものに、ホンダという企業の性格がすべて表れています。

    二輪で世界を獲った技術を四輪に注ぎ込み、国の方針にも屈せず、スポーツカーで四輪市場に殴り込んだ。その最初の一撃がS500でした。生産台数はわずか、販売期間も短い。けれど、このクルマがなければ、その後のホンダの四輪史はまったく違うものになっていたはずです。

    S500は、ホンダが四輪メーカーになった日の、最も鮮烈な証明書です。

  • S600 / S800【バイク屋が本気で作った、最初の「ホンダの走り」】

    S600 / S800【バイク屋が本気で作った、最初の「ホンダの走り」】

    ホンダがまだ「バイクメーカー」だった時代に、四輪で最初に世に問うたスポーツカーがあります。

    S600、そしてS800。

    排気量こそ小さいけれど、この2台にはホンダという会社の性格がほとんどすべて詰まっていました。

    高回転型エンジンへの執念、レースで証明するという思想、そして「やるなら上から」という本田宗一郎の意地。

    ホンダの四輪史は、ここから始まっています。

    四輪参入の最前線

    1960年代初頭、ホンダはすでに二輪車の世界チャンピオンでした。

    マン島TTレースを制し、世界GPで勝ちまくっていた。けれど本田宗一郎の視線は、もうバイクだけに向いていなかった。

    四輪車を作る。

    それも、軽トラックやファミリーカーではなく、スポーツカーから始める。

    この判断は、冷静に見ればかなり異様です。

    当時の通産省は、自動車メーカーの新規参入を事実上制限しようとしていました。いわゆる「特振法」の動きです。

    ホンダが四輪に乗り出すなら、今しかない。そういうタイミングの問題もあった。ただ、それだけでスポーツカーを選ぶ理由にはなりません。

    本田宗一郎にとって、スポーツカーは「技術の名刺」でした。

    二輪で培った高回転エンジン技術を、もっとも純粋に四輪で表現できるのがスポーツカーだった。

    最初に出すクルマで技術力を見せつけ、ブランドの格を決める。

    この戦略は、後のNSXやS2000にまで一貫して受け継がれることになります。

    S500からS600へ──走りながら完成させた

    ホンダ初の市販スポーツカーは、正確にはS500(AS260)です。

    1963年に発売されましたが、生産台数はごくわずかで、実質的にはプロトタイプに近い存在でした。531ccのDOHC4気筒エンジンを積み、最高出力44馬力。リッターあたり80馬力を超えるこの数字は、当時の四輪車としては異次元のものです。

    ただ、S500は耐久性や生産体制に課題を抱えていました。

    ホンダはすぐに排気量を606ccに拡大し、1964年にS600(AS285)を投入します。最高出力は57馬力に向上。レブリミットは8,500rpmを超え、当時の量産車としては考えられない回転域を常用するエンジンでした。

    このエンジンの設計思想は、完全に二輪の延長線上にあります。4連キャブレター、ローラーベアリングを用いたクランクシャフト、そして極端なショートストローク。回して気持ちいいのではなく、回さなければ走らない。そういう性格のエンジンです。

    駆動方式もユニークでした。リアにチェーンドライブを採用し、左右独立のチェーンケースでそれぞれの後輪を駆動する。バイクの技術をそのまま持ち込んだような構造で、四輪の常識から見ればかなり変わっている。ただ、この方式のおかげで独立懸架との相性がよく、軽量な車体と合わせて軽快なハンドリングを実現していました。

    S800──小さなボディに本物の速さ

    1966年に登場したS800(AS800)は、排気量を791ccに拡大したモデルです。

    最高出力は70馬力。車重わずか755kgの車体に、リッターあたり88馬力を超えるエンジンを載せたわけですから、動力性能は数字以上に鮮烈でした。最高速度は160km/hに達し、当時の1,500ccクラスに匹敵する速さを持っていた。

    S800の途中からは、リアの駆動方式がチェーンドライブからコンベンショナルなリジッドアクスル+コイルスプリングに変更されています。チェーン駆動はホンダらしい独自技術でしたが、メンテナンス性や耐久性の面で課題があった。ここは現実的な判断です。

    ボディはクーペとオープンの2タイプが用意されました。いずれも全長3,335mm程度のコンパクトな車体で、今の軽自動車よりわずかに大きい程度。この小ささが、ワインディングでの身のこなしを際立たせていました。

    レースでの活躍も見逃せません。S800は鈴鹿サーキットをはじめとする国内レースで数多くのクラス優勝を記録しています。ニュルブルクリンク500kmレースにも参戦し、クラス優勝を果たした。ホンダが「レースで勝つことで技術を証明する」という姿勢を四輪でも貫いた、最初の成功体験です。

    高回転の思想、その功罪

    S600/S800のエンジンは、間違いなく当時の世界でも最先端の小排気量ユニットでした。ただ、この「回してナンボ」の性格は、万人向けとは言いがたい。低回転域のトルクは薄く、街乗りで気楽に流すような使い方には向いていませんでした。

    これは欠点というより、設計の優先順位の問題です。ホンダはこの時代、エンジンの絶対性能を最優先にしていた。乗りやすさや実用性は二の次。それが許された時代でもあったし、ホンダが最初に見せるべきものが「速さ」だったという事情もあります。

    内装の質感や装備の充実度は、正直なところトヨタや日産の同時代のクルマに比べると見劣りしました。ホンダはまだ四輪メーカーとしては新参で、生産技術やサプライチェーンの厚みが違った。ただ、それを補って余りあるほど、走りの純度が高かった。そこに惹かれた人が、このクルマを選んだわけです。

    ホンダのDNAはここに刻まれた

    S600/S800が後のホンダ車に残したものは、具体的な技術よりも思想です。エンジンで勝負する。高回転を恐れない。小さな排気量から最大限のパワーを絞り出す。この考え方は、シビックのCVCCにも、タイプRのVTECにも、S2000のF20Cにも、形を変えて受け継がれていきます。

    そしてもうひとつ。「最初にスポーツカーを作る」という選択そのものが、ホンダのブランド形成に決定的な影響を与えました。ホンダは実用車メーカーとしてではなく、走りの技術を持つメーカーとして四輪の世界に参入した。その原点がSシリーズです。

    S800の生産終了は1970年。排ガス規制の波が押し寄せ、ホンダは軽自動車のN360やシビックへと軸足を移していきます。

    Sシリーズの直接的な後継車が現れるのは、1999年のS2000まで約30年を待たなければなりません。

    けれどその30年間も、ホンダの四輪車にはどこかに「Sの記憶」が残っていました。エンジンを回す喜び、軽さへのこだわり、レースで証明するという姿勢。

    S600とS800は、ホンダが四輪メーカーとして何者であるかを最初に宣言したクルマです。

    あの小さなオープンボディの中に、ホンダの全部が入っていた。

    そう言っても、大げさではないと思います。

  • S660 – JW5【軽自動車枠で本気を出した、最後のミッドシップ】

    S660 – JW5【軽自動車枠で本気を出した、最後のミッドシップ】

    軽自動車でミッドシップ。

    この時点で、だいぶ変なクルマです。しかもそれを2015年に、しかもホンダが本気で市販した。

    S660という車は、冷静に見るほど「なぜこれが世に出たのか」が気になる一台です。

    ビートの後継ではなく、ビートの精神の続き

    S660を語るとき、どうしても1991年のビートが引き合いに出されます。

    ホンダが軽自動車枠で作ったミッドシップオープンスポーツ。自然吸気の高回転エンジンを背中に積んだ、あの小さな名車です。

    ただ、S660はビートの直接の後継というよりも、「ビートが証明したこと」を引き継いだクルマと言ったほうが正確です。

    つまり、軽自動車の枠の中にも本気のスポーツカーは成立する、という命題。ビートの生産終了から約20年、ホンダがその命題にもう一度答えを出したのがS660でした。

    26歳の開発責任者が通した企画

    S660の開発経緯は、ホンダの中でもかなり異例です。2010年に社内公募で行われた新商品企画コンテスト「Nプロジェクト」で、当時26歳だった椋本陵氏が提案したコンセプトが出発点になっています。

    若手が出したアイデアが、そのまま市販車の開発責任者に繋がるという流れ自体が、ホンダらしいと言えばホンダらしい。

    ただ、これを「若い情熱が会社を動かした美談」だけで片づけるのは少し表面的です。

    当時のホンダは、Nシリーズで軽自動車市場に本格的に再参入し、Nボックスが爆発的に売れていた時期。

    軽のプラットフォームやパワートレインの開発資産が社内に蓄積されていたからこそ、ミッドシップスポーツという変化球にもゴーサインが出せた。

    企画の情熱と、タイミングの両方が揃っていたわけです。

    660ccターボをリアミッドに積む意味

    S660のエンジンは、S07A型の直列3気筒ターボ。

    64馬力という数字は軽自動車の自主規制上限そのもので、数字だけ見ると特別なものではありません。でも、このエンジンをどこに積んだかが決定的に重要です。

    運転席のすぐ後ろ、リアアクスルの手前にエンジンを横置きするミッドシップレイアウト。

    これによって前後重量配分はほぼ45:55。

    軽自動車としては異例の、駆動輪にしっかり荷重が乗る設計です。フロントにエンジンがないぶんノーズは低く、重心も低い。結果として、660ccとは思えないほど回頭性が鋭く、コーナリングの手応えが濃いクルマになっています。

    トランスミッションは6速MTとCVTの2本立て。CVTにはパドルシフトが付き、MTを選ばない層にもスポーツ走行の入口を用意しました。ここにも「間口を広げたい」という企画意図が見えます。

    オープンだが、トランクがない

    S660はタルガトップ式のオープンカーです。

    ルーフは手動で脱着するロールトップ方式で、外したルーフはフロントのボンネット内に収納します。ここで気づくのが、このクルマには実質的にトランクがないということ。フロントはルーフ収納用、リアはエンジンが占領している。荷物を積む場所が、ほぼありません。

    これを不便と見るか割り切りと見るかで、このクルマへの評価は分かれます。ただ、ホンダは最初からS660を「日常の足」として設計していません。走ることそのものが目的のクルマに、積載性を求めること自体がずれている。そういう企画判断を、軽自動車という最も実用性が問われるカテゴリで通したことに意味があります。

    足まわりの本気度

    S660のサスペンションは前後ともにマクファーソンストラット式。形式だけ見れば一般的ですが、注目すべきはその専用設計の徹底ぶりです。フロントのロアアームはスポーツカー的なワイドトレッドを確保するために新設計され、リアサスもミッドシップレイアウトに合わせて専用のジオメトリが与えられています。

    ボディ剛性にもかなり手が入っています。軽自動車の規格寸法の中で、オープンボディの剛性を確保するのは構造的に難しい。S660ではフロア下にセンタートンネルを通し、サイドシル断面を大きく取ることで、オープンでありながら不快なボディのよじれを抑え込んでいます。

    結果として、街乗りでは「ちょっと硬いかな」と感じる場面もありますが、ワインディングに持ち込むと路面との対話が一気に濃くなる。そういう味付けです。

    限界と、それでも残したもの

    もちろん、S660に弱点がないわけではありません。

    64馬力というパワーは、高速道路の合流や追い越しでは明確に不足します。ミッドシップゆえの室内の狭さ、エンジン音の侵入、前述のトランクレス。

    実用車としてはまったく成立しません。

    価格も軽自動車としては高めで、発売時の車両本体価格は約198万円から。上級グレードのαは約218万円。

    同じ予算でコンパクトカーのスポーツモデルが買える価格帯です。「軽にこの値段を出すのか」という声は、当然ありました。

    それでも、S660は2015年の発売直後からバックオーダーを抱え、ホンダの想定を上回る反響を得ています。

    数字だけでは測れない「運転する楽しさの密度」に、確かに応えたクルマだったということです。

    生産終了という結末

    S660は2022年3月をもって生産を終了しました。

    最終モデルとして特別仕様車「Modulo X Version Z」が設定され、即完売。直接的な後継車は発表されていません。

    生産終了の背景には、軽自動車の安全基準・環境規制の強化があります。ミッドシップのオープン2シーターという形式を、今後の規制に適合させながら軽自動車の価格帯に収めるのは現実的に困難だった。これはホンダだけの問題ではなく、ダイハツ・コペンも含めた軽スポーツ全体の構造的な課題です。

    ただ、S660が残した意味は小さくありません。

    このクルマは「軽自動車でもスポーツカーの本質は成立する」というビート以来の命題に、現代の技術と規格で改めて答えを出しました。

    そしてその答えが、規制と市場の変化によって再び封じられた。

    S660は、ある時代にだけ許されたクルマです。

    だからこそ、今振り返る価値がある一台だと思います。

  • SPORTS 360【市販されなかったホンダの原点】

    SPORTS 360【市販されなかったホンダの原点】

    ホンダが初めて世に問うた四輪スポーツカーは、実は市販されていません。

    1962年、まだ二輪メーカーとしてしか認知されていなかったホンダが全日本自動車ショーに出展した小さなオープンカー。

    それがSPORTS 360です。

    型式もつかず、量産もされなかった。

    けれどこの車がなければ、S500もS600もS800も、おそらく存在しなかった。

    ホンダの四輪史を語るなら、ここから始めるのが筋というものです。

    これ、便宜上S660の系譜に入っていますが、実際はもっと広い血統の始祖と言えるようなクルマです。

    二輪屋が四輪を作る、という挑戦

    1960年代初頭の日本は、通産省(現・経済産業省)が自動車産業の再編を進めようとしていた時代です。

    新規参入を制限する方向の政策が議論されており、二輪メーカーであるホンダが四輪に乗り出すこと自体が、行政との摩擦を伴う決断でした。

    本田宗一郎はそれでも四輪をやると決めていました。

    有名な話ですが、「私が何を作ろうと自由だ」という趣旨の発言を残しています。この言葉は単なる反骨精神ではなく、二輪で培った高回転エンジン技術を四輪に転用できるという技術的な確信に裏打ちされたものでした。

    ただ、いきなり大排気量のセダンで既存メーカーに挑むのは現実的ではありません。ホンダが選んだのは、自分たちの得意領域──小排気量・高回転・高出力──を最大限に活かせる軽自動車規格のスポーツカーという土俵でした。

    356ccで33馬力という異常値

    SPORTS 360の心臓部は、排気量わずか356ccの直列4気筒DOHCエンジンです。この数字だけ見ても、当時としては相当に異質だったことがわかります。軽自動車に4気筒、しかもDOHC。1960年代初頭の軽自動車といえば、2気筒や空冷の実用エンジンが当たり前の世界です。

    最高出力は33馬力、回転数は8,500rpmに達したとされています。リッターあたり約93馬力。この数字は、二輪レースで鍛えたホンダの高回転エンジン技術がそのまま持ち込まれた結果です。バイクのエンジン屋が四輪を作ると、こうなる。SPORTS 360はその証明のような存在でした。

    車両重量は約380kgと極めて軽量で、最高速度は130km/hを超えたとも言われています。当時の軽自動車としては破格の性能です。ただし、これらのスペックはプロトタイプ段階のものであり、量産仕様として確定した数値ではない点には注意が必要です。

    なぜ市販されなかったのか

    全日本自動車ショーで大きな注目を集めたSPORTS 360ですが、結局そのまま市販には至りませんでした。理由として最も有力なのは、開発の過程でエンジン排気量を拡大する判断がなされたことです。

    360ccという軽自動車枠に収めるよりも、排気量を500ccに引き上げたほうが商品として成立する──そう判断されたと考えられています。実際、SPORTS 360の発表からわずか半年ほどで、排気量を531ccに拡大したS500が発表されます。エンジンの基本設計はSPORTS 360から引き継がれており、4気筒DOHC、チェーン駆動という構成は共通です。

    つまりSPORTS 360は、開発途上で「もっといける」と判断された結果、自らが進化形に道を譲った車です。打ち切りというよりは、発展的解消に近い。ホンダの四輪開発が驚くほどのスピードで進んでいたことの証拠でもあります。

    チェーン駆動という選択

    SPORTS 360の駆動系には、後輪をチェーンで駆動する方式が採用されていました。これは後のS500にも引き継がれた特徴です。通常の四輪車であればプロペラシャフトとデファレンシャルギアで後輪に動力を伝えますが、ホンダはバイクの技術をそのまま応用するかたちで、チェーンドライブを選びました。

    この方式には、軽量化やレイアウトの自由度といったメリットがある一方で、耐久性やメンテナンス性では従来の駆動方式に劣る面もあります。実際、S500の後継であるS600以降ではチェーン駆動は廃止され、一般的なドライブシャフト方式に変更されました。

    ただ、この判断をネガティブに捉えるのはやや短絡的です。ホンダには四輪の量産経験がなかった。二輪で実績のある技術を使って最短距離で四輪を成立させる、という合理的な選択だったとも読めます。完成度よりもスピードと独自性を優先した、スタートアップ的な判断です。

    S500、S600、S800への系譜

    SPORTS 360が切り拓いた道は、そのままホンダの四輪スポーツカーの系譜へと繋がります。S500は1963年に市販され、ホンダ初の量産四輪車となりました。続くS600は1964年に登場し、国内外で高い評価を獲得。さらにS800へと排気量を拡大しながら、ホンダは「小さくて速いスポーツカーを作るメーカー」というイメージを確立していきます。

    この系譜の起点にあるのがSPORTS 360です。小排気量DOHCエンジン、軽量ボディ、オープン2シーターという構成。ホンダが四輪で何をやりたかったのかは、すべてこの1台に凝縮されていました。

    さらに長い目で見れば、この「高回転・高出力の小排気量エンジンをスポーツカーに載せる」という思想は、ビートやS2000にまで通じるホンダの遺伝子です。SPORTS 360はその最初の発現でした。

    市販されなかった車が持つ意味

    SPORTS 360は1台も一般ユーザーの手に渡っていません。カタログスペックも量産仕様として確定していない。にもかかわらず、ホンダの四輪史を語るときにこの車の名前が必ず出てくるのは、それが単なるコンセプトカーではなく、実際に走る状態で完成していたプロトタイプだったからです。

    ショーモデルとして飾られただけの張りぼてではなく、エンジンが回り、走行できる実車として存在した。だからこそS500への発展が半年という短期間で実現できた。SPORTS 360は「作りかけの夢」ではなく、「完成した出発点」だったと言えます。

    市販されなかったことで、この車は商品としての評価を受ける機会を永遠に失いました。

    けれどその代わりに、ホンダが四輪メーカーとして歩み始めた瞬間の純粋な意志を、そのまま封じ込めた存在として残り続けています。

    売れたかどうかではなく、何を目指していたかが見える。

    それがSPORTS 360という車の、唯一無二の価値です。

  • BEAT – PP1【軽自動車にミッドシップを積んだ、ホンダの本気の遊び】

    BEAT – PP1【軽自動車にミッドシップを積んだ、ホンダの本気の遊び】

    軽自動車でミッドシップ。

    この言葉だけで、もう普通じゃないことはわかります。

    1991年、ホンダが世に送り出したビート(PP1)は、660ccの自然吸気エンジンをドライバーの背後に置き、フルオープンで走るという、どう考えても「売れ筋を狙った商品」ではありません。

    でも、だからこそ30年以上経った今でも語られ続けている。

    この車には、ホンダという会社がある時期に持っていた「やってみたかったからやった」という空気が、そのまま形になっています。

    バブルが許した「遊びの本気」

    ビートが登場した1991年5月は、日本経済がバブルの余韻をまだ引きずっていた時期です。

    NSXが1990年に発売され、ホンダの技術的威信は頂点にありました。

    F1では連勝を重ね、社内の士気も高い。そんな時期に、軽自動車の枠でスポーツカーをやろうという企画が通ったこと自体が、時代の空気を物語っています。

    ただ、ビートは単なるバブルの浮かれ仕事ではありません。

    企画の発端は1980年代半ばに遡ります。ホンダ社内で「軽で本格的なオープンスポーツを作れないか」というアイデアが動き始め、若手エンジニアを中心としたチームが開発を担いました。

    当時のホンダには、LPL(ラージ・プロジェクト・リーダー)制と呼ばれる開発責任者制度があり、比較的若い技術者にも大きな裁量が与えられていました。

    この時代のホンダには、もうひとつ重要な背景があります。

    1990年の軽自動車規格改正です。排気量上限が550ccから660ccに引き上げられ、ボディサイズもわずかに拡大されました。

    この新規格への移行が、ビートのようなチャレンジングな企画に現実的な余地を与えたのは間違いありません。

    ミッドシップという選択の必然

    ビート最大の特徴は、言うまでもなくミッドシップレイアウトです。エンジンを後輪車軸の前方、運転席の背後に横置きで搭載しています。

    軽自動車でこの配置を選ぶのは、コスト的にも設計的にも明らかに不利です。フロントにエンジンを置いたほうが、はるかに簡単に作れます。

    それでもミッドシップを選んだのは、走りの質を本気で追求したからです。

    重量物を車体中央に集めることで、ヨー慣性モーメント——つまり車が向きを変えるときの「もたつき」を小さくできます。軽い車体にこのレイアウトを組み合わせれば、ステアリングを切った瞬間にスッと向きが変わる、軽快な回頭性が得られます。

    ホンダにはアクティやバモスといったミッドシップ(リアエンジン寄りですが)レイアウトの軽商用車の知見がありました。

    まったくのゼロからミッドシップを作ったわけではなく、社内に蓄積された技術があったことも、この選択を後押ししています。ただし、ビートのためにフロアやサスペンションは専用設計されており、商用車の流用で済ませたような安易な作りではありません。

    NAで回して楽しむという哲学

    同時期のライバルを見ると、スズキ・カプチーノ(1991年)はターボ付き、ダイハツ・コペンはまだ登場前(2002年)。

    ABCトリオと呼ばれたオートザム AZ-1(1992年)もターボでした。軽スポーツの世界では、ターボで馬力を稼ぐのがほぼ常識だった時代です。

    ビートはそこに背を向けました。搭載されたE07Aエンジンは、自然吸気の直列3気筒SOHC 656cc。最高出力は64馬力で、軽自動車の自主規制上限に達しています。

    ただしその64馬力は、8,100rpmという高回転域で絞り出すもの。ホンダ独自のMTREC(Multi Throttle Responsive Engine Control)と呼ばれる3連スロットルシステムを採用し、各気筒に独立したスロットルボディを与えています。

    3連スロットルというのは、要するにアクセル操作に対するエンジンの反応を極限まで鋭くするための仕組みです。

    通常の1スロットルに比べて吸気の応答が速く、右足の動きにエンジンが即座に追従します。これはNSXやタイプRの系譜にも通じる、ホンダの「回して楽しい」という思想そのものです。

    トルクは絶対的に細い。最大トルクは6.1kgf·m/7,000rpmで、日常域では決して力強くはありません。

    でも、それがビートの狙いでもあります。エンジンを高回転まで回し切って走ることが前提の設計であり、低速トルクで楽をさせる車ではないのです。

    回さなければ遅い。回せば気持ちいい。

    この割り切りが、ビートの走りの核心です。

    オープンであることの意味

    ビートはフルオープンボディです。ソフトトップの幌を手動で開閉する方式で、電動格納のような豪華さはありません。ただ、このオープン構造は単に「気持ちいいから」だけで選ばれたわけではありません。

    ミッドシップのオープンカーという構成は、エンジン音を直接ドライバーに届けるための装置でもあります。背後で回る3気筒の吸排気音が、幌を開けた瞬間にダイレクトに聞こえてくる。この体験は、屋根のある車では絶対に再現できません。ビートの開発陣が「五感で楽しむ車」を標榜していたことは、各種メディアでのインタビューでも繰り返し語られています。

    車重は760kg。軽自動車としても特別に軽いわけではありませんが、ミッドシップかつオープンという構造を考えれば十分に軽量です。ボディ剛性の確保には相応の苦労があったはずですが、サイドシルを太くするなどの構造的な工夫で対応しています。

    売れたのか、売れなかったのか

    ビートは1991年5月の発売直後、予想を超える受注を集めました。初年度の販売は好調で、バックオーダーを抱えるほどだったと言われています。ただ、その勢いは長くは続きませんでした。

    バブル崩壊後の景気後退が直撃したこと、そして2シーターのオープン軽スポーツという商品がそもそもニッチであること。この二重の壁に、ビートは直面します。1996年に生産終了となるまでの総生産台数は約33,600台。数字だけ見れば大ヒットとは言えません。

    しかし、この台数を「少ない」と断じるのは少し違います。ビートは最初から大量に売ることを目的とした車ではありません。ホンダが自社のスポーツブランドとしてのアイデンティティを、軽自動車という最も身近なカテゴリーで表現するための車でした。その意味では、33,600台という数字は、むしろ健闘と言えます。

    ビートが残したもの

    ビートの直接的な後継車は、長い間存在しませんでした。ホンダが再び軽オープンスポーツを世に出すのは、2015年のS660(JW5)まで待たなければなりません。実に19年のブランクです。

    S660はビートの精神的後継と位置づけられ、ミッドシップレイアウトを踏襲しました。ただしS660はターボエンジンを採用しており、ビートのNA高回転型という哲学はそのまま受け継がれたわけではありません。それでも「軽でミッドシップのオープンスポーツ」という系譜は、ビートなしには存在しなかったものです。

    もうひとつ、ビートが残した遺産があります。それは「軽自動車でも本気のスポーツカーが成立する」という証明です。カプチーノやAZ-1とともに、1990年代初頭の軽スポーツブームを形成したこの3台は、後のコペンやS660に至る道を切り開きました。ビートは、その中でも最も「走りの質」にこだわった一台だったと言っていいでしょう。

    660ccの自然吸気エンジンを8,000回転以上まで回し、ミッドシップの旋回性能を味わい、オープンエアの中でエンジン音を全身に浴びる。ビートが提供したのは、速さではなく「運転している実感」そのものでした。

    それは、数値では測れない価値です。

    だからこそ、PP1は今でも中古市場で根強い人気を保ち続けているのだと思います。