投稿者: hodzilla51

  • MR2 – SW20【国産ミッドシップが本気で速さを追った時代】

    MR2 – SW20【国産ミッドシップが本気で速さを追った時代】

    1989年に登場した2代目MR2、型式SW20。初代AW11が「手軽に乗れるミッドシップ」だったのに対して、このクルマは明確に「速いミッドシップ」を目指していました。その方向転換の背景には、バブル期の市場の空気と、トヨタ自身の野心が見えます。

    初代が残した宿題

    初代MR2・AW11は、1984年に国産量産車初のミッドシップとして登場しました。カローラ用の4A-G型エンジンをリアミッドに搭載するという大胆な構成で、軽さと新鮮さが武器でした。ただ、その分だけ「本格スポーツ」としては物足りないという声も少なくなかった。パワーは控えめで、内装の質感もコンパクトカーの延長線上でした。

    つまり初代は、「ミッドシップを市販車でやれる」ことを証明した実験的な一台だったわけです。2代目に求められたのは、その先。ミッドシップであることを活かして、ちゃんと速く、ちゃんとスポーツカーとして成立させること。SW20はその宿題に対するトヨタの回答でした。

    バブルが許した本気の設計

    SW20の開発が進んだのは、まさに日本のバブル経済の真っただ中です。各メーカーが採算度外視でスポーツカーを作り、技術の粋を注ぎ込んでいた時代。トヨタもセリカやスープラに力を入れていましたが、MR2にはそれらとは違う役割がありました。ミッドシップ専用車という、他に代えがきかないポジションです。

    エンジンは3S-GTE型の2.0Lターボ。セリカGT-FOURにも搭載された実績あるユニットで、初期型でも225馬力を発生しました。自然吸気の3S-GE搭載モデルもありましたが、SW20の「顔」はやはりターボです。ミッドシップにターボという組み合わせは、当時の国産車では他にほぼ選択肢がなく、それだけで強烈な個性でした。

    ボディは初代より一回り大きくなり、全幅は1,695mmに。デザインもポップな初代から一転して、フェラーリ的とも評されるウェッジシェイプに変わりました。リトラクタブルヘッドライトを備えたフロントフェイスは、明らかに「スーパーカー的な佇まい」を意識しています。このあたりの振り切り方も、バブル期ならではの判断でしょう。

    ターボとミッドシップの難しさ

    ただ、SW20は発売当初から「扱いにくい」という評価がつきまといました。ミッドシップはエンジンが後輪の直前にあるため、リアの荷重が大きく、フロントが軽い。そこにターボの過給が加わると、アクセルオンでリアが急に押し出されるような挙動が出やすくなります。いわゆるタックインや、スナップオーバーステアと呼ばれる現象です。

    要するに、コーナリング中にアクセルを戻すとフロントが急に切れ込み、逆にアクセルを踏むとリアが唐突に流れる。この挙動は経験のあるドライバーなら対処できるものの、一般ユーザーにはかなり神経を使う特性でした。実際、事故や「怖い」という声は少なくなかったと言われています。

    トヨタもこの問題を認識していたようで、SW20はモデルライフを通じて繰り返しサスペンションのセッティングを見直しています。この改良の歴史こそが、SW20を語るうえで避けて通れないポイントです。

    I型からV型へ──改良の系譜が語ること

    SW20は1989年の発売から1999年の生産終了まで、約10年にわたって販売されました。その間に大きく分けて5回のマイナーチェンジが行われており、ファンの間ではI型からV型まで区別されています。これほど頻繁にアップデートが繰り返された車種は珍しい。

    I型(1989年)は先述のとおり、ターボの過激さとシャシーのバランスに課題がありました。II型(1991年)ではサスペンションジオメトリの変更やブッシュの見直しが行われ、操縦安定性がかなり改善されています。ターボモデルのパワーも225馬力のまま据え置かれましたが、足まわりの洗練度は明確に上がりました。

    大きな転機はIII型(1993年)です。ターボエンジンが245馬力に引き上げられ、2.0L直4ターボとしては当時の国産トップクラスに。同時にサスペンションもさらに改良され、リアのトー変化を抑える方向にセッティングが振られました。リアスポイラーの大型化も、単なる見た目の変更ではなく、高速域でのリアの安定性を確保する意図がありました。

    IV型(1996年)ではNAモデルが廃止され、ターボ一本に絞られます。そしてV型(1997年)が最終形態。足まわりのさらなる煮詰めに加え、ブレーキの強化やボディ剛性の向上が図られました。要するにSW20は、10年かけてミッドシップターボという難題の答えを探し続けたクルマだったわけです。

    I型とV型を乗り比べると、同じ車種とは思えないほど挙動が違うと言われます。最初期のピーキーさが好きだという人もいれば、V型の完成度を評価する人もいる。どちらが正解かはさておき、この改良の密度自体が、トヨタがSW20に対して真剣だった証拠でしょう。

    競合不在という孤独

    SW20が面白いのは、直接の競合がほとんどいなかったことです。同時代の国産スポーツカーといえばシルビア、RX-7、NSXあたりが思い浮かびますが、シルビアはFR、RX-7もFR(FDはフロントミッドシップ的ですが)、NSXは価格帯がまるで違います。

    2.0Lクラスのミッドシップターボという枠で見ると、SW20はほぼ唯一の選択肢でした。フィアットX1/9はすでに生産終了していましたし、ロータス・エスプリは価格も性格も別物。つまりSW20は、「手の届くミッドシップターボ」という極めて狭いが確実なニーズを、ほぼ独占していたクルマだったのです。

    ただ、競合がいないということは、比較対象がないということでもあります。ユーザーはFRスポーツの感覚でMR2に乗り、挙動の違いに戸惑う。メーカー側も、ミッドシップの市販車をどう仕上げるかのノウハウを蓄積しながらの開発でした。競合不在の孤独は、そのまま開発の手探り感にもつながっていたように見えます。

    MR2が残したもの

    SW20の後継として2000年に登場したMR-Sは、ターボを捨て、オープンボディを採用し、「気軽に楽しめるミッドシップ」へと大きく方向転換しました。これはSW20の反省──というより、SW20で得た教訓の帰結と言ったほうが正確でしょう。ミッドシップにパワーを与えるほど制御が難しくなるなら、パワーを落として楽しさに振る。MR-Sの企画にはそういう判断が透けて見えます。

    そしてMR-Sの生産終了後、トヨタはミッドシップの市販車を出していません。GR86はFRですし、GRスープラもFR。トヨタのラインナップからミッドシップが消えたまま、すでに15年以上が経っています。SW20は、トヨタが「本気でパワーを追ったミッドシップ」を最後に作った車種ということになります。

    今振り返ると、SW20は不完全さも含めて魅力的なクルマです。I型のピーキーさは危険と紙一重ですが、それはミッドシップターボという構成が本質的に持つ緊張感でもある。V型の完成度は高いですが、それは10年分の試行錯誤の結晶です。どの時期のSW20を選ぶかで、オーナーの価値観がはっきり分かれる。そういうクルマは、なかなかありません。

    SW20は、バブル期の熱量とミッドシップの物理法則が正面からぶつかった記録です。速さと危うさが同居し、改良を重ねるたびに少しずつ大人になっていった。その軌跡そのものが、このクルマの本質だと思います。

  • アフィーラ – VISION-S【量産寸前まで辿り着いた、ソニーとホンダの夢】

    アフィーラ – VISION-S【量産寸前まで辿り着いた、ソニーとホンダの夢】

    家電メーカーがクルマを作る。

    2020年1月、ラスベガスのCES会場でソニーが披露した一台のセダンは、自動車業界の常識に正面から疑問符を投げかけました。

    そして6年後の2026年3月、そのクルマは一台も顧客の手に届くことなく、歴史の中に消えていきます。

    VISION-Sからアフィーラへ。

    この物語は、「クルマとは何か」が揺れ動いた電動時代の、もっとも象徴的な実験のひとつでした。

    CES 2020の衝撃

    2020年1月、ソニーの吉田憲一郎社長はCESのステージで「モバイルの次に来るメガトレンドはモビリティだ」と宣言しました。

    そしてその場で、完成度の高いEVプロトタイプVISION-Sを公開します。驚いたのは業界関係者だけではありません。

    なぜならテレビとPlayStationの会社が走れるクルマを持ってきたのですから。

    しかもこれは、張りぼてのモックアップではありませんでした。車内外に合計33個のセンサーを配置し、CMOSイメージセンサー13個、レーダー17個、ソリッドステート型LiDAR3個という構成で、レベル2相当の運転支援にも対応していました。

    車体の設計・製造は、トヨタ・スープラの生産でも知られるオーストリアのマグナ・シュタイヤーが担当。ボッシュ、NVIDIA、クアルコムといった名だたるサプライヤーも開発に参画しています。

    つまりVISION-Sは、ソニーが「自分たちの得意技」をクルマという箱に全部載せたらどうなるか、という壮大なデモンストレーションだったわけです。

    立体音響「360 Reality Audio」をシートに内蔵したスピーカーで再生し、ダッシュボード全面にパノラミックスクリーンを展開する。エンターテインメントの会社が考える「移動空間」の提案としては、これ以上ないくらい明快でした。

    「売るつもりはない」から「売りたい」へ

    ただ、当初ソニーは明確に線を引いていました。開発責任者の川西泉氏は「現時点で製造や販売は考えていない」と繰り返し語っています。VISION-Sはあくまで、ソニーのセンサー技術を自動車メーカーに売り込むためのショーケースだったのです。

    ところが、世間の反応が想定を超えました。「ソニーが自動車メーカーになるのか?」という問いかけが世界中のメディアから殺到します。CES 2020の後、VISION-Sはオーストリアのグラーツに輸送され、さらに東京に戻されて開発が続けられました。明らかに、単なる展示用ではない扱いです。

    そして2022年のCESで、ソニーは大きく舵を切ります。SUVタイプのVISION-S 02を披露するとともに、EV事業の商用化を目指す新会社「ソニーモビリティ」の設立を発表。吉田社長は「移動を再定義できると確信している」と語りました。技術のショーケースだったはずのVISION-Sが、いつの間にか「売り物」に変わろうとしていたのです。

    ホンダとの合弁という選択

    ソニーがクルマを作りたいと思っても、工場もなければ、量産のノウハウもありません。そこで手を組んだのがホンダでした。2022年3月に基本合意書を締結し、同年6月に合弁会社名を「ソニー・ホンダモビリティ(SHM)」と発表。9月に正式設立されています。

    この座組みは、かなり異色でした。

    ホンダが車体やプラットフォームの開発・生産を担い、ソニーがソフトウェア、エンターテインメント、UI/UXを主導する。いわば水平分業です。SHMの従業員はわずか約400人で、その大半がソフトウェア技術者。会長兼CEOの水野泰秀氏は「工場を持たず、アセットライトな新しい自動車の事業モデルをつくりたい」と語っています。

    エンジンがないEVだからこそ、ハードウェアを外注する分業モデルが成り立つ——。

    そういう仮説のもとに、このプロジェクトは動き出しました。テスラやBYDが垂直統合型で勝ちに行く世界で、真逆のアプローチを選んだことになります。

    アフィーラという名前の意味

    2023年1月のCES 2023で、SHMは新ブランド名「AFEELA(アフィーラ)」を発表し、プロトタイプを初公開しました。名前の由来は、真ん中に「FEEL(感じる)」を置き、コンセプトの頭文字「A」で挟んだもの。クルマと人との「感じ合う関係」を標榜するネーミングです。

    VISION-Sの後継として位置づけられたアフィーラは、Eセグメント相当の5人乗りセダンで、全長4,920mm、全幅1,900mm、全高1,460mm、ホイールベース3,000mm。見た目はVISION-Sの面影を残しつつも、よりシンプルでフラットな面構成に仕上げられていました。良くいえばクリーン、悪くいえば「印象が薄い」。あえてスマートフォン的な無個性さを選んだという話もあります。

    特徴的だったのは、フロントに配置された「メディアバー」と呼ばれる横長のLEDディスプレイ。従来のグリルに代わって、外部への情報発信やコミュニケーションを担う装置です。ソニーが2017年にNTTドコモと共同開発した「New Concept Cart SC-1」の発展形とも言える、この会社らしいアイデアでした。

    中身は「走るPlayStation」

    2025年1月のCES 2025で、ついに量産版AFEELA 1が正式発表されます。価格は89,900ドル(約1,420万円)から。グレードは上位の「Signature」と標準の「Origin」の2種類で、カリフォルニア州から先行販売し、2026年中旬に納車開始という計画でした。

    パワートレインは、前後に180kW(約244ps)のモーターを各1基搭載したAWD構成で、システム合計483ps。バッテリー容量は91kWhで、EPA推定航続距離は約300マイル(約483km)。充電はNACS規格を採用し、テスラのスーパーチャージャーネットワークが利用可能です。最大充電出力は150kW。

    ただ、数字だけ見ると正直なところ厳しい立ち位置でした。ほぼ同じバッテリー容量のLucid Air Touringは航続距離653kmを実現しており、電費性能で大きく水をあけられています。充電出力もテスラ・モデルSやLucid Airの250kWに対して150kW止まり。約1,400万円という価格帯で見ると、スペック面での訴求力は弱いと言わざるを得ません。

    では何で勝負するのか。答えはソフトウェアとエンターテインメントです。

    車内外に計40個のセンサーを配置し、Qualcomm Snapdragon Digital ChassisのSoCで最大800TOPSの演算性能を実現。レベル2+相当の先進運転支援「AFEELA Intelligent Drive」を搭載し、高速道路の巡航から市街地の右左折、駐車まで幅広くサポートする構想でした。

    室内では、PlayStation Remote Playに対応し、DualSenseコントローラーでPS5のゲームが車内で遊べます。Epic GamesのUnreal Engineを統合したインフォテインメント、AI対話型パーソナルエージェント、360 Spatial Sound Technologiesによる立体音響。川西泉社長(COO)はかつてPlayStationやPSPの開発を担当した人物で、「モビリティソフトウェアクリエイターを育てたい」と語っていました。要するにアフィーラは、クルマの形をしたソニーのプラットフォームだったのです。

    6年の助走、そして中止

    しかし2026年3月25日、すべてが終わりました。

    ソニー・ホンダモビリティは、AFEELA 1および第2弾SUVモデルの開発・発売中止を正式に発表します。

    直接の引き金は、2026年3月12日に発表されたホンダの四輪電動化戦略の大幅見直しでした。ホンダは「Honda 0」シリーズを含む複数のEV開発を中止し、EV関連資産の減損などで最大約1.3兆円の損失を計上。SHMが前提としていたホンダからの技術やアセットの提供が困難になり、計画通りの商品化ができなくなったのです。

    背景にはEV市場の逆風があります。トランプ政権によるEV購入支援策の修正、カリフォルニア州の環境規制撤回、関税の影響。中国を除けば世界的にEV普及が減速する中で、新規参入ブランドが約1,400万円のセダンを売るのは、あまりに厳しい環境でした。

    CES 2026ではSUVプロトタイプまで披露し、カリフォルニア州トーランスにはデリバリーハブまでオープンしていました。オハイオ工場では試験生産も完了していたといいます。それだけに、ゴール直前での中止は衝撃的でした。

    予約済みの顧客には予約金の全額返金が案内されています。

    実験が残したもの

    アフィーラは失敗だったのか。

    結果だけ見ればそうかもしれません。6年間にわたるティザー期間は長すぎましたし、その間に競合は先を走り続けました。約1,400万円で航続距離483km、充電150kWというスペックは、2026年の市場では見劣りします。セダンという車型も、SUV全盛の時代にはハンディキャップでした。

    ただ、このプロジェクトが投げかけた問いは、いまも有効です。

    クルマの価値は走行性能やスペックだけで決まるのか。移動空間としてのUXに、もっと可能性はないのか。ソフトウェアを軸にした水平分業で、自動車産業の構造は変えられるのか。

    VISION-Sが最初に見せた「ソニーらしいクルマ」の原型——

    センサーで世界を認識し、エンタメで車内を満たし、ソフトウェアで進化し続けるモビリティは、たとえアフィーラが市販されなくても、これからのクルマづくりが避けて通れないテーマそのものです。

    ソニーとホンダという、昭和の日本を代表する2大企業のタッグは、試合開始のゴングを聞くことができませんでした。

    けれど、リングに上がろうとしたこと自体が、自動車産業の地図を少しだけ動かしたのだと思います。

    VISION-Sからアフィーラへ。

    この6年間は、「クルマの定義」が書き換えられようとした時代の、もっとも誠実な実験のひとつでした。

  • オーリス – E150/E180系【カローラを名乗らなかったカローラの話】

    オーリス – E150/E180系【カローラを名乗らなかったカローラの話】

    カローラの名前を外したカローラ…

    オーリスという車を一言で説明するなら、たぶんこれが一番正確です。

    トヨタが欧州市場を強く意識して投入したCセグメントハッチバックでありながら、日本ではどこか居場所を見つけきれなかった。その微妙さこそが、オーリスという車の本質だったように思います。

    カローラから名前を切り離した理由

    オーリスの前身は、カローラランクスです。もっと遡れば、カローラFXやカローラレビンといったハッチバック系のカローラに連なる系譜の上にあります。つまり、もともとカローラファミリーの一員だったわけです。

    ところが2006年に登場した初代オーリス(E150系)は、あえて「カローラ」の名前を外しました。これは単なるネーミング変更ではなく、明確な戦略的判断です。当時のトヨタは、欧州市場でのブランドイメージ刷新を強く意識していました。欧州において「カローラ」は実用車としての認知が強すぎた。もう少し若く、もう少しスポーティに見せたい。そのためには名前ごと変える必要があった、という判断です。

    車名の「Auris」はラテン語の「aurum(金)」に由来するとされています。ゴールド、つまり価値あるものという意味を込めたわけですが、正直なところ日本の消費者にはあまりピンとこなかったかもしれません。ただ、欧州向けの商品企画としては筋が通っていました。フォルクスワーゲン・ゴルフやフォード・フォーカスといった強豪がひしめくCセグメントで、「安くて壊れないカローラ」ではなく「走りの質感で勝負できるトヨタ車」として戦いたかったのです。

    E150系──欧州基準で作ったハッチバック

    初代オーリスは、欧州向けカローラと基本設計を共有しつつ、内外装のデザインや足回りのセッティングを独自に仕立てた車です。プラットフォームはMCプラットフォームで、当時のカローラやウィッシュなどと共通。エンジンは1.5L(1NZ-FE)と1.8L(2ZR-FE)の2本立てが日本仕様の基本でした。

    注目すべきは、欧州仕様ではディーゼルエンジンやMTが主力だったのに対し、日本仕様はCVTが中心だったことです。ここにオーリスの「二重性」が表れています。欧州ではゴルフの対抗馬として走りの質を問われ、日本では「カローラの代わりのハッチバック」として実用性を問われる。同じ車なのに、求められる役割がまるで違っていたわけです。

    デザインは当時のトヨタとしてはやや攻めた印象で、フロントマスクに個性を持たせようとした意図は感じられました。ただ、突き抜けたインパクトがあったかというと、そこは正直微妙なところです。「悪くはないけど、強く印象に残らない」。これは初代オーリスに対する当時の市場の空気感をかなり正確に表しています。

    E180系──本気で欧州と戦おうとした2代目

    2012年に登場した2代目(E180系)は、初代の課題をかなり明確に意識した進化を遂げています。プラットフォームは新世代のMCプラットフォームに刷新され、ボディ剛性が大幅に向上しました。欧州での走行テストを重ね、足回りの煮詰めにも相当な工数をかけたとされています。

    デザインも大きく変わりました。キーンルックと呼ばれるトヨタの新しいデザインランゲージを採用し、フロントフェイスはかなりシャープになっています。初代の「おとなしさ」への反省が見て取れるほど、2代目は意志のある顔つきをしていました。

    パワートレインでは、2015年のマイナーチェンジで1.2Lターボエンジン(8NR-FTS)が追加されたことが大きなトピックです。トヨタがダウンサイジングターボに本格的に取り組んだ初期の成果であり、116馬力・185Nmというスペックはこのクラスとしては十分な水準でした。さらに6速MTも設定されています。CVTだけでなくMTを用意したあたりに、欧州市場への本気度が見えます。

    加えて、ハイブリッドモデルも設定されました。1.8Lエンジンにモーターを組み合わせたTHS IIで、プリウスと基本的に同じシステムです。欧州では環境規制への対応としてハイブリッドの需要が高まっていた時期であり、ゴルフにはないトヨタ独自の武器として機能しました。

    日本市場での苦戦と、その構造的な理由

    ここまで読むと「なかなか良い車じゃないか」と思えるかもしれません。実際、欧州ではそれなりの存在感を発揮していました。しかし日本市場では、オーリスは最後まで販売的に苦戦しています。

    理由はいくつかあります。まず、日本ではCセグメントハッチバックというジャンル自体が弱い。軽自動車やミニバン、SUVが圧倒的に強い市場で、「5ドアハッチバックのセダン代替」は響きにくかったのです。

    さらに、カローラの名前を外したことが日本では裏目に出た面もあります。欧州では「カローラ=退屈」というイメージからの脱却が必要でしたが、日本では「カローラ=信頼と安心」というブランド資産がまだ生きていました。オーリスという聞き慣れない名前に乗り換える動機が、日本の消費者には薄かったわけです。

    販売チャネルの問題もありました。オーリスはネッツ店扱いでしたが、同じネッツ店にはヴィッツやアクアといった強力なコンパクトカーが並んでいます。店頭での存在感という点でも、オーリスは埋もれやすいポジションにありました。

    「カローラスポーツ」への転生

    オーリスの物語は、2018年に一つの結末を迎えます。後継モデルとして登場したのはカローラスポーツ。TNGAプラットフォーム(GA-C)を採用し、走りの質を根本から変えた新世代のハッチバックです。そしてその名前には、再び「カローラ」が冠されていました。

    これは、オーリスという実験の総括とも言える判断です。欧州でも日本でも、結局「カローラ」というブランドの引力は無視できなかった。ただし、オーリス時代に磨いた「走りで勝負するハッチバック」という方向性は、カローラスポーツにしっかり引き継がれています。むしろ、オーリスで蓄積した欧州的な走りの作り込みがあったからこそ、カローラスポーツはあれだけ高い評価を得られたとも言えます。

    つまりオーリスは、カローラが「走れるカローラ」に進化するための助走期間だったのかもしれません。名前としては消えましたが、そこで試みられたことは次の世代にちゃんと残っています。

    名前を変えても、変えなくても

    オーリスを振り返ると、ブランド戦略の難しさが浮かび上がってきます。欧州では「カローラじゃない名前」が必要で、日本では「カローラの名前」が必要だった。同じ車なのに、市場が変わると名前の持つ意味がまるで逆になる。これは自動車メーカーが常に直面するジレンマです。

    車としてのオーリスは、決して悪い車ではありませんでした。特に2代目のE180系は、ダウンサイジングターボにMT、ハイブリッドと多彩なパワートレインを揃え、走りの質感も確実に上がっていました。ただ、「この車でなければならない理由」を消費者に伝えきれなかった。それは車の出来というより、ポジショニングの問題だったように思います。

    カローラを名乗らなかったカローラ。その12年間の試行錯誤は、トヨタにとって決して無駄ではなかったはずです。少なくとも、今のカローラスポーツが持つ「走れるカローラ」という確かな手触りは、オーリスが欧州の道で磨いてきたものの延長線上にあります。

  • ギャラン VR-4 – E38A/E39A【後のランエボを作った4WDターボ】

    ギャラン VR-4 – E38A/E39A【後のランエボを作った4WDターボ】

    ギャランVR-4は、1987年12月に登場した高性能4WDセダンです。

    三菱公式の会社史では、このVR-4は4G63 DOHCインタークーラーターボを搭載し、205ps/6000rpmを発生すると説明されています。

    しかも単なる速い上級グレードではなく、フルタイム4WDと4WSまで組み合わせた当時の三菱のフラッグシップモデルでした。

    つまりギャランVR-4は、後からラリーに使われたのではなく、最初から「技術の全部入り」で世に出た高性能セダンなわけです。

    「グループAで世界と戦うクルマ」

    このクルマの意味は、市販車の豪華さだけでは足りません。

    新型ギャランが1987年10月に登場した後、その高性能版であるギャランVR-4を武器に、三菱は1988年から5年ぶりにWRCへ本格復帰します。

    ワークスとセミワークスの二本立てで参戦し、ヨーロッパ戦線とアジア・パシフィックの両方を睨んでいました。

    つまりVR-4は、三菱が“国内で速いクルマ”を作った話ではなく、世界ラリー選手権で戦う前提のグループAベース車として出てきたクルマだったわけです。  

    名機4G63が、この先の三菱を決めてしまった

    ギャランVR-4、そしてランエボすらも語るうえで外せないのが4G63です。

    WRCアーカイブでは、グループAの厳しい規則下でも、この4G63エンジンは競技仕様でキャリア初期から300馬力超を発揮していたと説明されています。

    さらに1990年ダカールのページでも、当時WRCを戦っていたギャランVR-4の4G63は300PS、45kg-m級の性能を持っていたとされています。

    要するに4G63は後のランエボで神格化される前から、すでにギャランVR-4の時点で世界と戦えるターボだったんです。

    ランエボの強さは突然生えたものではなく、既にこの時点で作られていたんですね。

    4WDと4WSまで持ち込んだ

    ギャランVR-4の面白さは、ただのターボ四駆で終わらないこと。

    このクルマはフルタイム4WDに加えて4WSまで備え、当時大きな注目を集めました。ここがすごく80年代末の旗艦モデルらしい。

    後のランエボのような「軽量・戦闘的・ラリー直結」というより、VR-4はまず三菱が持てるハイテクを全部投入して、世界で勝てるセダンを成立させようとしたクルマでした。

    やや大柄で重さもあるが、その代わりスケールの大きい速さと安定感を持っていたんです。

    実戦では、ちゃんと世界で勝っている

    ここがVR-4の重み。

    三菱のWRCアーカイブによれば、1988年のデビュー年からアジア・パシフィックでは篠塚建次郎氏がマレーシア、オーストラリアなどで勝利し、初代APRC王者にもなりました。

    さらにWRCワークス体制では、1989年にミカエル・エリクソンが1000湖ラリーで優勝、RACでもペンティ・アイリッカラが優勝。

    以後も1990年アイボリーコースト、1991年スウェディッシュとアイボリーコースト、1992年アイボリーコーストと勝利を積み上げ、三菱公式ではギャランVR-4のWRC通算勝利数を6と明記しています。

    つまりVR-4は後のランエボの踏み台なんかじゃない。それ単体で、もうWRC勝利車です。  

    しかし、強いままでも限界はあった

    ここが長いランエボの歴史につながってきます。

    ギャランVR-4は速かったし、実際に勝った。

    でも三菱自身が後年の説明で、1993年のグループA規定変更によりホモロゲーション条件が緩和されると、より軽量・コンパクトなランサーをベースに次の主力マシンを作る決断をしたと示しています。

    1992年にはすでにギャランVR-4の大規模開発をほぼ止め、参戦数も絞っていた。

    つまりVR-4は弱かったから終わったのではない。強かったけど、もっと勝てる器が見つかったから役目を終えたんです。

    これがエボ1への一番きれいな橋渡しになります。  

    「全部入り」のまま世界で通用した

    ギャランVR-4の強みを一言で言えば、ハイテク高性能セダンの姿のまま、ちゃんと世界ラリーで勝てたことです。

    4G63ターボ。フルタイム4WD。4WS。

    そしてグループAで鍛えられた競技性能。

    後のランエボは、ここからもっと軽く、もっと鋭く、もっとラリーに寄っていく。けれどVR-4はその前段階として、三菱の4WDターボが世界で勝てることを先に証明した。この証明があったから、ランエボは最初から本気で出せたわけです。  

    時代を感じさせるAMG仕様

    実はこのクルマ、面白いモデルがあります。

    ギャラン系には1989年に西ドイツAMG社と共同開発した「ギャランAMG仕様車」まで存在していたのです。

    三菱の車史ページにもその記述があり、当時のギャランが単なる大衆セダンではなく、かなり強いスポーツイメージと技術イメージを背負っていたことがわかりますね。

    VR-4はその頂点で、ギャランという車名そのものにただのファミリーセダンじゃない空気を持ち込んだモデルでもありました。  

    エボの前座では終わらない

    ギャランVR-4は、ランサーエボリューションの前身ではあります。

    でも前身という言葉だけだと少し弱い。実際には、三菱の4G63ターボ4WD路線を世界で通用する勝ち筋として成立させた本命です。

    WRC6勝、APRC制覇、そしてそのノウハウを全部ランエボへ渡して退く。かなり役者として完成しています。

    大柄なセダンなのに、やっていることは完全に戦うクルマでした。  

    まとめ

    ギャランVR-4を一言でいえば、

    ランエボに先立って、三菱の4G63ターボ4WDが世界で勝てることを証明した原点です。

    ハイテク全部入りの高性能セダンとして生まれ、WRCで6勝を挙げ、そのまま次の主役であるランサーエボリューションへバトンを渡した。  

    だからVR-4は、エボの前史じゃない。

    エボが成立する前に、すでに三菱が世界へ通用させていた本編の一つなのです。

  • ランサーエボリューション – CD9A 【ホモロゲのために生まれた急造の怪物】

    ランサーエボリューション – CD9A 【ホモロゲのために生まれた急造の怪物】

    ランサーエボリューションIは、1992年10月に登場した最初の「エボ」

    三菱自動車の公式ヒストリーでも、この初代は「栄光のマシン『ランサー』の名を受け継いだ」モデルとして紹介され、しかも発売後に即完売するほどの人気を集めたとされています。

    つまりエボ1は、後から神話になった始祖ではなく、登場した瞬間からただならぬ期待を背負っていたホモロゲーションモデルでした。  

    出発点はギャランVR-4の限界

    このクルマの開発背景はかなり明快です。

    三菱は80年代末からギャランVR-4でWRCを戦っていましたが、1993年シーズンに向けてグループAの規定変更が入り、ホモロゲーション取得に必要な最少生産台数は5000台から2500台へ引き下げられました。

    三菱のWRCアーカイブでも、1993年開幕戦モンテカルロにグループAランサーエボリューションを投入する計画のため、1992年にはギャランVR-4の大規模開発をほぼ止め、参戦数まで絞っていたと書かれています。

    要するにエボIは、ギャランVR-4の延長ではなく、次に勝つために急いで切り替えられた新兵器でした。  

    だからこそ、ランサーに白羽の矢が立った

    エボ1の核心はここです。

    三菱公式は、戦闘力を高めるために軽量・コンパクトなランサーをベースに選び、ギャランVR-4で熟成してきた4G63型2.0LインタークーラーターボとVCUセンターデフ方式のフルタイム4WDを搭載したと説明しています。

    大きいギャランで勝てないわけではない。

    けれど、ラリーで本当に強いベースを考えた時、より小さく、より軽く、より振り回しやすいランサーの方が正しかった。

    エボ1は、三菱が勝利のために迷わず小型化を選んだ結果だったわけです。  

    VR-4から魔改造が施された4G63

    搭載されたのは親の顔より見た4G63型2.0L DOHCターボ。

    市販車のエボ1はギャランVR-4より10PS高い250PSを発生させます。WRCの1993年ページでは競技車が4G63 1,997ccターボで295ps、45.9kg-mを発生していたと記されています。

    つまりエボ1は、単に「ランサーに強いエンジンを積みました」では片付けられません。市販車の時点でギャランより一段攻めた出力を与えつつ、競技車ではそこからさらに詰めていける土台を持っていた。

    最初のエボからもう、4G63を核にした戦闘車両として設計されていたんです。  

    見た目以上にちゃんと戦うためのボディ

    エボ1の強さはエンジンと4WDだけじゃありません。

    ボディは要所補強で剛性を高めつつ、アルミ製ボンネットフードの採用などで軽量化を推進。サスペンションも剛性アップを中心に最適化され、大開口フロントバンパーと大型リアスポイラーで空力も追求していました。

    つまりこのクルマは、派手なエアロをつけたランサーではなく、ラリーカーのベースとして必要な部分をちゃんと全部やったランサーだったのです。

    ここが最初のエボからもう抜かりないですね。

    インテリアまで含めて、最初から「その気」

    面白いのは、中身が本気なだけじゃなく雰囲気も本気なことです。

    当時では珍しいレカロ製スポーツシートやMOMO製ステアリングホイールまで採用されていました。

    ホモロゲーションモデルなんだから当然と言えば当然ですが、エボ1は最初から「普段使いのランサーをちょっと速くした」感じではなく、乗り込んだ時点で戦闘車の空気をちゃんと出していた

    これが後のエボらしさの原点でもあります。  

    実戦投入の初年度から大活躍

    1993年のWRCでランサーエボリューションはモンテカルロでデビュー。

    初陣はトラブルを抱えながらもケネス・エリクソンが4位、アーミン・シュワルツが6位で完走。

    その後もポルトガルで初のベストタイム、アクロポリスで3位、1000湖で5位を記録し、最終戦RACではエリクソンが2位まで迫りました。

    しかもシーズン中盤にはリアサスペンション、前後スタビライザー、4WDシステムを徹底的に見直し、ハンドリングが著しく向上したと公式に記されています。

    エボ1は未完成な試作品ではなく、デビュー年からもう十分戦えて、しかも伸びしろまで見せた一台でした。  

    「勝つための縮小」

    エボ1の強みを一言で言えば、ギャランVR-4で培った武器を、より小さく軽い器へ詰め替えたことです。  

    軽量・コンパクトなランサーのボディ。熟成された4G63ターボ。VCUセンターデフ方式のフルタイム4WD。補強と軽量化を両立したボディ。

    そしてラリー前提の空力と足まわり。  

    どれか一つの奇策で勝とうとしたクルマじゃない。

    既に持っていた技術を、一番勝てるサイズにまとめ直したことがエボ1最大の強さでした。だから初代からいきなりエボらしいんです。  

    エボ1は始祖というより既に切り札だった

    後から見るとエボ1はシリーズの最初の一台に見えます。

    でも当時の空気で見ると、これは悠長な第1章ではないことが伺えます。グループA規定変更に対応し、ギャランからランサーへ主役を切り替え、1993年開幕へ間に合わせるための実戦投入です。

    しかも市販車は発売後すぐ完売し、WRCでも初年度から上位争いに絡んだ。

    エボ1は後の成功につながる試金石というより、最初から勝負に出た初代エボでした。  

    まとめ

    ランサーエボリューション1を一言でいえば、

    ギャランVR-4の武器を、勝つために最も鋭いサイズへ詰め込んだ最初のエボです。  

    軽量・コンパクトなランサーを土台に、4G63ターボとフルタイム4WDを載せ、補強と軽量化と空力まで真面目に詰めた。  

    だからエボ1は、記念すべき初代というより、

    最初からいきなり本気だったランエボと言える存在なのです。ここも極めてランエボらしいですね。

  • ランサーエボリューションII – CE9A 【勝利のための長い調律が始まった一台】

    ランサーエボリューションII – CE9A 【勝利のための長い調律が始まった一台】

    ランサーエボリューションIIは、1994年1月に登場した二代目ランエボです。

    三菱公式の車史ページでは、このモデルをはっきり「実戦経験をフィードバック」と表現しています。

    つまりエボIIは、単なる年次改良ではない。1993年にWRCへ投入したエボIの実戦データをすぐさま市販車と競技車へ反映し、よりラリーで勝ちやすい形へ進めたモデルだったわけです。

    エボIがすでに速かったからこその次の一手だった

    ここがエボIIの面白いところです。

    初代エボは、1993年のWRCデビュー年からモンテカルロ5位、サファリ2位、アクロポリス3位、RAC2位と、いきなり十分に戦えていました。

    しかも三菱公式は、1993年シーズン中盤にリアサスペンションや前後スタビライザー、4WDシステムを見直したことでハンドリングが著しく向上したと記しています。

    だからエボIIは、苦戦した車のテコ入れ版ではない。最初から戦えたエボを、さらに本気で勝たせにいくためのアップデートだったんです。

    「実戦経験のフィードバック」が核にある

    三菱の日本向け車史ページでは、エボIIは「『ランサーエボリューション』に、1993年のWRCに参戦した実戦経験をフィードバックして開発」したと明記されています。

    さらにその結果として、「エンジン出力アップのほか、ホイールベース延長やサスペンション・ホイールの変更などによって走行性能を向上」させたとも説明している。

    要するにエボIIは、見た目を少し直した二代目ではなく、前年の現場で見えた課題を、車体と足まわりとエンジン全部に反映した改良版なのです。

    エンジンはやはり4G63を続投

    心臓は引き続き4G63型2.0L DOHCインタークーラーターボです。

    そして三菱公式によれば、エボIIでは最高出力が260PSまで引き上げられた。初代エボIが250PSだったから、数字としては10PSアップ。

    ただしエボIIの価値は単純な馬力競争じゃない。

    4G63の伸びしろをちゃんと活かしつつ、ラリーでの扱いやすさと車体側の進化まで含めて、より速く走るための総合改良に持ち込んでいるのが重要です。

    ホイールベース延長が、エボIIの性格をかなりよく表している

    エボIIで象徴的なのがホイールベース延長です。

    三菱公式は、走行性能向上のための具体策としてホイールベース延長を挙げている。これはすごくエボIIらしい。

    エボIは小さく軽く鋭いことが最大の武器だったけれど、実戦ではただ敏捷なだけでは足りない。荒れた路面や高速域でも踏んでいける安定感が必要になります。

    エボIIはその点で、初代の鋭さを捨てずに、もっと深く、もっと安心して攻められる方向へ寄せた二代目だったと見てよいでしょう。

    足まわりの見直しこそ、この世代の本丸だった

    公式説明でも、エボIIはサスペンション変更とホイール変更が明言されています。

    やはりエボIIの改良本質は「出力アップ」ではなく「実戦でより速くするためのシャシー改良」です。

    現場で見えたハンドリング課題や安定性の要求を踏まえ、ラリーで踏み抜ける方向に車体を煮詰めている。

    エボIが“まず小さい器に全部詰めた初代”なら、エボIIはその器をラリーでさらに機能するよう調律し直した二代目でした。

    実戦ではすぐにエボIIへ切り替わっている

    1994年WRCでの扱いを見ると、エボIIの意味がかなりよく分かります。

    三菱の1994年WRCページによれば、開幕のモンテカルロと序盤のサファリは引き続きエボIベースで戦い、その後のアクロポリスからエボIIベース車へスイッチしています。

    しかもエボIIはそのアクロポリスでいきなり2位。さらにニュージーランドでは3位・4位を記録した。

    これはかなり大きくて、エボIIは“市販車が出たから一応競技でも使った”のではなく、出した瞬間からちゃんと主力として戦力化されたモデルだったわけです。

    しかもこの年、ランエボはWRCの主役へ近づいていく

    三菱公式の1994年WRCページでは、エボI/IIを用いたその年の戦いで、アクロポリス2位、ニュージーランド3位・4位といった結果が残されている。

    そして同じ年の車史ページでは、インドネシアラリーでランサーエボリューションが総合1位・3位を獲得したことも記載されている。

    つまりエボIIの時点で、ランエボは“将来強くなる車”ではなく、すでに国内外で前に出始めていた。

    エボIIは、その上昇カーブを明確にした二代目です。

    初代の勢いをそのままに安定させた

    ランサーエボリューションIIの強みを一言で言えば、

    初代エボの鋭さを残したまま、実戦でより速く、より安定して使える形に変えたことです。

    4G63は260PSへ強化。ホイールベースは延長。サスペンションとホイールも見直し。

    そしてWRCでは投入直後から2位、3位、4位。

    どれか一つの派手な新機構で勝負した車じゃない。

    エボIIは、現場で必要だった改善を全部まっすぐ積み上げたことで強くなった。そこがいかにもランエボらしいです。

    エボIIは「ちゃんと偉い」二代目だった

    シリーズものの二代目って、どうしても地味に見えやすい。

    でもエボIIは違う。こいつがやったのは、初代の勢いを偶然で終わらせず、ランエボという名前を「毎年ちゃんと速くなっていくラリー直結モデル」として定着させることでした。

    エボIが切り札なら、エボIIはその切り札を勝負でちゃんと使い切れる武器にした世代です。

    まとめ

    ランサーエボリューションIIを一言でいえば、

    最初から速かったエボを、実戦の答えでさらに勝てる形へ煮詰めた二代目です。

    エボIの武器をそのまま引き継ぎ、4G63を260PSへ上げ、ホイールベース延長と足まわり改良で、ラリーでより深く踏めるクルマへ進めた。

    だからエボIIは、単なる改良版じゃない。

    「ランエボは毎年ちゃんと進化する」という文法を、最初に作った二代目と言えるでしょう。

  • レビン/トレノ – TE27 【「速いカローラ」はここから始まった】

    レビン/トレノ – TE27 【「速いカローラ」はここから始まった】

    「カローラにツインカムを積む」

    いま聞くと当たり前のように思えるかもしれませんが、1970年代初頭にこれをやったのは、かなり大胆な判断でした。

    TE27レビン/トレノは、その最初の一手です。

    大衆車の車体にレース直系のエンジンを押し込むという、ある種の「反則技」がここから始まりました。

    大衆車にDOHCを載せるという賭け

    TE27が登場したのは1972年。

    ベースとなったのは2代目カローラ(TE20系)のクーペボディです。レビンがカローラ店扱い、トレノがオート店扱いという販売チャネルの違いはありましたが、中身はほぼ共通。最大のポイントは、そこに2T-G型エンジンを搭載したことにあります。

    2T-Gは、ヤマハと共同開発された1.6リッター直列4気筒DOHCです。当時、DOHCエンジンといえばトヨタ2000GTやベレットGTRのような、いわば特別な車のためのものでした。それをカローラクラスの量産車に載せる。コスト的にも商品企画的にも、相当なチャレンジだったはずです。

    ただ、トヨタにはそうする理由がありました。1960年代後半から国内のツーリングカーレースが盛り上がりを見せており、日産はサニーやブルーバードで戦果を上げていました。トヨタとしても、カローラクラスで「速い車」を持っておく必要があった。TE27は、モータースポーツの文脈と販売競争の両方から生まれた車です。

    2T-Gという心臓の意味

    2T-G型エンジンのスペックは、最高出力115馬力(グロス値)。いまの感覚で見れば大した数字ではありませんが、車両重量が約855kgしかないTE27に積めば、話はまったく変わります。パワーウェイトレシオで見れば、当時の国産スポーツカーの中でもかなり上位に入る水準でした。

    しかもこのエンジン、回して気持ちいいタイプです。ソレックスのキャブレターを2基備え、高回転域まで一気に吹け上がる。レスポンスの良さは、排気量の大きなOHCエンジンとは明らかに質が違いました。DOHCならではの回転フィールが、この車の最大の武器だったと言っていいでしょう。

    もうひとつ見逃せないのは、2T-Gが「量産できるDOHC」だったという点です。ヤマハの技術を使いつつ、トヨタの生産体制に乗せられる設計になっていた。これは後の3T-G、4A-GEといったDOHCエンジンの系譜へとつながる、非常に重要な布石でした。

    軽さと後輪駆動が生んだ走り

    TE27の走りを語るうえで、エンジンと同じくらい重要なのが車体の軽さです。約855kgという数字は、現代のコンパクトカーよりもはるかに軽い。この軽さが、2T-Gの115馬力を「速さ」に直結させていました。

    サスペンション形式はフロントがストラット、リアがリーフスプリングのリジッドアクスル。正直なところ、リアのリーフリジッドは洗練されたものとは言えません。路面の荒れた場面ではリアが暴れやすく、ドライバーの技量がそのまま走りに出る車でした。

    ただ、それが欠点だったかというと、当時のユーザーやモータースポーツの現場ではむしろ「わかりやすい」と受け止められていた面もあります。リアが流れる挙動を自分でコントロールする楽しさ。これはFR(後輪駆動)と軽量ボディの組み合わせだからこそ成り立つものでした。

    要するにTE27は、電子制御もなにもない時代の、素の運転感覚で勝負する車です。そこに魅力を感じた人が多かったからこそ、いまでも語り継がれているのでしょう。

    レースでの実績が育てたブランド

    TE27を語るうえで外せないのが、モータースポーツでの活躍です。富士のツーリングカーレースをはじめ、国内各地のサーキットでTE27は数多くの勝利を挙げました。

    とくに1973年の富士1000kmレースでの活躍は、「レビン=速いカローラ」というイメージを決定づけた出来事のひとつです。

    レース活動を支えたのは、トヨタワークスだけではありません。プライベーターの参戦も非常に多かった。ベース車両の価格がスポーツカー専用車に比べて圧倒的に安く、パーツの入手性も良かったからです。つまりTE27は、「誰でもレースに出られるスポーツカー」という立ち位置を自然に獲得していました。

    この構造は、後のAE86にもそのまま引き継がれます。手の届く価格の量産車をベースに、モータースポーツの裾野を広げる。TE27が作ったこの「型」は、トヨタのスポーツモデル戦略の原型と言っていいものです。

    排ガス規制という壁

    TE27の生産期間は、1972年から1974年までのわずか2年ほど。短命に終わった最大の理由は、昭和48年排出ガス規制の影響です。いわゆるマスキー法に対応するため、高性能エンジンの多くが存続を許されなくなった時代でした。

    2T-Gエンジンも例外ではなく、規制対応のためにパワーダウンを余儀なくされます。後継のTE37/TE51系レビン・トレノでは、排ガス対策によってエンジンの出力特性が明らかに変わり、TE27のような切れ味は薄れていきました。

    これはTE27だけの話ではなく、日本の自動車産業全体が直面した壁です。ただ、だからこそTE27は「規制前の最後の自由な時代に生まれたスポーツモデル」として、特別な位置づけを持つことになりました。短命だったことが、逆に伝説を強化した面は否定できません。

    「速いカローラ」の原点として

    TE27が残したものは、単に「速い車があった」という記憶だけではありません。大衆車のプラットフォームにDOHCエンジンを載せ、モータースポーツで鍛え、それをブランドイメージに還元する。このサイクルの出発点がTE27でした。

    後のTE71、そしてAE86へと続く「レビン/トレノ」の系譜は、すべてこのTE27から始まっています。AE86が「ハチロク」として神話化される背景にも、TE27が築いた「カローラベースのスポーツモデル」という文脈があるわけです。

    まあ、冷静に見れば855kgの車体にリーフリジッドのリアサス、キャブレターのDOHCという構成は、いまとなっては完全に過去の技術です。

    でも、その組み合わせが生み出した走りの原体験は、トヨタのスポーツカー史に確実に刻まれています。

    TE27は、「速いカローラ」という概念そのものを発明した車でした。

  • MR-S – ZZW30【最後のミッドシップを、トヨタは軽くした】

    MR-S – ZZW30【最後のミッドシップを、トヨタは軽くした】

    トヨタが量産ミッドシップスポーツを作らなくなって、もう20年近くが経ちます。

    その最後のモデルが、1999年に登場したMR-S(ZZW30)でした。

    先代MR2(SW20)がターボで武装したハードなスポーツカーだったのに対し、MR-Sはまるで別の思想で作られています。排気量は小さく、ターボもなく、車重はわずか1トン前後。

    つまりトヨタは、ミッドシップの最終章をあえて「引き算」で書いたわけです。

    MR2の後継、ではなかった

    MR-Sを語るうえで避けて通れないのが、先代SW20との関係です。SW20型MR2は、3S-GTE型2.0Lターボを背中に積んだ本格的なミッドシップスポーツでした。最高出力は245ps。ところがこのクルマ、とにかく「怖い」と言われました。ミッドシップ特有のリアの挙動変化が急で、腕に覚えのないドライバーにとっては扱いにくい。スナップオーバーステア、いわゆる突然リアが流れる挙動が問題視されたのです。

    トヨタの開発陣がMR-Sで狙ったのは、その反省を踏まえた「誰でも楽しめるミッドシップ」でした。当時の開発主査・牧野洋二氏は、パワーで押すのではなく、軽さとオープンエアの気持ちよさでスポーツカーの楽しさを再定義しようとしています。つまりMR-Sは、MR2の正統後継というよりも、ミッドシップという形式を残しながらクルマの性格そのものを作り替えたモデルです。

    名前が「MR2」ではなく「MR-S」に変わったのも象徴的でしょう。Sは「Spyder」を意味し、最初からオープン専用として設計されました。MR2のハードトップを引き継ぐのではなく、ソフトトップの2シーターとして一から企画されたクルマです。

    1ZZ-FEという「弱さ」の意味

    MR-Sの心臓部は、1ZZ-FE型1.8L直4自然吸気エンジンです。最高出力140ps、最大トルク17.4kgm。スポーツカーとしては、正直なところ数字だけ見れば物足りません。同時代のインテグラタイプRが200psを超え、シルビアのターボが250psクラスだった時代です。「なぜミッドシップなのにこのパワーなのか」という疑問は、発売当初からつきまといました。

    ただ、ここがMR-Sの設計思想の核心です。車重は約970〜1,000kg。パワーウェイトレシオで見れば決して悪くない。そしてエンジンが軽いことで、ミッドシップの弱点であるリアヘビーな重量配分が緩和されています。前後重量配分はほぼ45:55。SW20が抱えていた「リアが重すぎて挙動が急変する」問題を、エンジンの小型軽量化で物理的に解消しようとしたわけです。

    要するに、1ZZ-FEは「非力だから選ばれた」のではなく、軽さと重量配分のために積極的に選ばれたエンジンでした。パワーが足りないという批判は当然あります。でもそれは、このクルマが何を優先したかを理解した上で語るべき話です。

    シーケンシャルMTという冒険

    MR-Sのもうひとつの話題が、SMT(シーケンシャル・マニュアル・トランスミッション)の採用です。クラッチペダルなしで、シフトレバーの前後操作またはステアリングのボタンでギアを切り替える2ペダルMT。当時のF1やスーパーカーで注目されていた技術を、200万円台のスポーツカーに載せてきたのは、かなり挑戦的でした。

    ただ、正直に言えばこのSMTの評価は割れました。変速のレスポンスが遅く、特にシフトアップ時のタイムラグが大きい。スポーツ走行ではもたつきが気になるという声が多く、結果として5速MTを選ぶユーザーのほうが多数派になっています。技術的な志は高かったものの、当時のアクチュエーター技術では理想に追いつかなかった、というのが実情でしょう。

    それでもSMTの存在は、MR-Sが単なる廉価スポーツではなく、新しいドライビング体験を模索していたクルマだったことを示しています。2002年のマイナーチェンジではSMTの制御が改良され、多少はレスポンスが改善されました。

    走りの味は、数字に出ない

    MR-Sの走りを語るとき、スペックだけでは伝わらない部分があります。このクルマの美点は、低速域から中速域でのコーナリングの楽しさです。ミッドシップレイアウトによるノーズの軽さ、1トンを切る車重がもたらす身のこなしの軽快さ。ステアリングを切った瞬間にノーズがスッと入っていく感覚は、同価格帯のFFスポーツでは絶対に味わえないものでした。

    足まわりはフロント、リア共にマクファーソンストラット。凝った形式ではありませんが、軽い車体との相性がよく、しなやかに動きます。リアの接地感はSW20ほど神経質ではなく、限界付近でも穏やかにリアが流れ始める特性に仕上げられていました。

    ソフトトップを開けて、エンジン音を背中に聞きながら峠道を流す。そういう使い方をしたとき、MR-Sは数字以上の満足感を返してくれるクルマでした。サーキットでタイムを削るよりも、ワインディングを気持ちよく走ることに特化した設計と言えます。

    売れなかった、という現実

    ここは避けずに書いておくべきでしょう。MR-Sは商業的には成功したとは言えません。日本での販売は伸び悩み、2007年に生産終了を迎えています。約8年間の販売期間で、国内累計販売台数は約1万6,000台ほど。同時代のロードスター(NB型)が安定して売れ続けていたのとは対照的です。

    理由はいくつか考えられます。まず、パワー不足という印象がスポーツカーユーザーの購買意欲を削いだこと。次に、ロードスターという強力なライバルがすでに市場を押さえていたこと。そして2000年代に入ってスポーツカー市場そのものが縮小していたこと。MR-Sの企画が間違っていたというより、時代の逆風が強すぎました。

    トヨタ自身も途中からテコ入れを試みています。2002年のマイナーチェンジでは足まわりの見直しとSMTの改良、内外装のリフレッシュを実施。さらに2005年にはエンジンを2ZZ-GE(190ps)に換装した仕様が……と言いたいところですが、これは実現しませんでした。2ZZ搭載の噂は根強くありましたが、結局市販には至っていません。

    トヨタ・ミッドシップの最終章

    MR-Sの生産終了をもって、トヨタの量産ミッドシップスポーツの系譜は途絶えました。初代MR2(AW11)から数えて約20年。3世代にわたるミッドシップの歴史は、ZZW30で幕を閉じています。

    その後、トヨタは86(ZN6)でスポーツカーに復帰しますが、レイアウトはFR。GRヤリスは4WD。ミッドシップという形式に、トヨタが再び量産で挑む気配は今のところありません。MR-Sは「トヨタが最後にミッドシップを作ったクルマ」として、否応なく歴史的な意味を持つことになりました。

    振り返ってみると、MR-Sは不遇なクルマだったと思います。パワーがないと言われ、SMTは中途半端と言われ、ロードスターに勝てないと言われた。でも、このクルマが提示した「軽いミッドシップで、オープンで、日常的に乗れるスポーツカー」という方向性は、今見ても十分に魅力的です。

    パワーで殴るのではなく、軽さで曲がる。屋根を開けて、エンジンを背中に感じながら走る。MR-Sが目指したのは、スポーツカーの原点に近い快楽でした。それが市場に受け入れられなかったのは、クルマの問題というより、時代の問題だったのかもしれません。

  • ランサーエボリューションIII – CE9A 【空力を得た初期の集大成】

    ランサーエボリューションIII – CE9A 【空力を得た初期の集大成】

    ランサーエボリューションIIIは、1995年2月に登場した三代目ランエボです。

    三菱自動車の公式車史では、このモデルについて「エンジン、駆動システム、足回りなどを徹底的に改良」したうえで、「空力性能向上」を狙ってフロントまわりの開口部拡大や大型リアスポイラーなどを採用したと説明しています。

    つまりエボIIIは、単なる出力アップ版ではなく、ラリーで勝つためにクルマ全体をさらに戦闘向けへ振った改良型でした。  

    エボIIまでで既に「武器は足りている」

    初代から二代目までで、ランエボの基本文法はもう見えていました。軽量・コンパクトなランサーのボディに、4G63ターボと4WDを載せ、実戦のデータを反映してどんどん煮詰めていく。

    その流れの中で1994年WRCでは、エボIIベース車がアクロポリスで2位、ニュージーランドで3位・4位と十分な戦闘力を見せています。

    だからエボIIIに求められたのは、ゼロから作り直すことではない。すでに速いランエボを、もっと勝ち切れる形へ仕上げることでした。  

    テーマは「「徹底改良」」

    三菱の車史ページでは、エボIIIはエンジン、駆動システム、足まわりを徹底的に改良したモデルだとされており、この点が非常に重要です。

    エボIIまでは実戦経験のフィードバック色が強かったけれど、エボIIIではそのフィードバックが一段進み、もうクルマ全体を勝利の方向へ最適化していく段階に入っています。

    シリーズ初期の三台で見ると、エボIIIはランエボが毎年強くなるラリー直結モデルとして本格的に輪郭を固めた世代と言っていいでしょう。

    ついに270PSへ到達した4G63

    心臓部は引き続き4G63型2.0L DOHCインタークーラーターボです。エボIIIでは最高出力は270PSまで引き上げられました。1994年時点のエボIIが260PSだったことから、また一段上積みされたことになります。

    さらに三菱のWRC 1996ページでも、エボIII競技車のスペックとして4G63、1,997cc、270ps、45.0kg-mが示されています。

    つまりエボIIIは、シリーズ初期の熟成の到達点として、4G63の力をかなり濃く引き出した世代でもありました。  

    空力を得たランサーエボリューション

    エボIIIを語るなら、馬力の話だけで終えると外します。

    この世代の象徴はやっぱり空力です。

    三菱公式は、冷却性能を高めるための大開口フロントバンパー、リフトを抑える大型リアスポイラーなどを採用して空力性能を向上させたと説明しています。この点はエボIIIを象徴しています。

    エボIやIIにももちろん競技の匂いはあったけれど、エボIIIになると見た目からして「もう完全にそのためのクルマ」になってくる。

    走りの必然が、そのまま外観の迫力へ出始めたのがこの世代でした。  

    エボIIIは、「ランエボ顔」がかなりはっきりしてくる

    シリーズの中でエボIIIが印象に残りやすいのは、性能だけじゃなく記号性が強いからです。

    大きな開口部、押し出しの強いフロント、そして大型リアスポイラー。これらは単なる演出ではなく、空力改善によるものです。

    つまりエボIIIは、ランエボがラリー由来の戦闘車であることを、見た目でもはっきり主張し始めた世代と言える。

    後のIV以降ほどメカニズムが複雑ではないのに、存在感はかなり濃い。そこがまたIIIの魅力です。  

    いつも通り実戦でもしっかり強い

    1995年WRCでは、シーズン前半にエボII、後半にエボIIIが投入されました。三菱の1995年WRCページと車史ページによれば、エボIIIはツール・ド・コルスで3位、ニュージーランドで5位、そしてオーストラリアでは1位と4位を獲得しています。

    つまりエボIIIは、見た目だけ濃くなったモデルではなく、投入初年度からきちんと勝利を持ち帰った。勝つための空力を与えられたエボが、実際に勝ったというのはかなり大きいです。  

    この年の勝利は三菱にとって重要だった

    1995年のオーストラリアでの勝利は、ランエボにとってただの一勝ではありません。

    三菱公式の1995年WRCページでは、この年のオーストラリアで篠塚建次郎がランサーエボリューションで優勝し、日本人初のWRC優勝ドライバーになったと説明している。

    これはランエボの速さを証明しただけでなく、三菱のラリー活動全体にとっても大きな節目でした。

    エボIIIは、シリーズ初の本格的な勝ちグルマ感をはっきり刻んだ世代とも言えます。  

    “速さの理由”が空力にまで及んだエボ

    ランサーエボリューションIIIの強みを一言で言えば、エボIIまでの強みであった4G63と4WDだけでなく、空力まで含めて勝つ理由を持ち始めたことです。  

    4G63は270PSへ到達。駆動システムも改良。足まわりも徹底見直し。

    さらにフロントもリアも、空力まで明確に競技寄り。

    そしてWRCでは実際に優勝。  

    エボIが「小さい器に全部詰めた切り札」、エボIIが「それを実戦向けに煮詰めた二代目」なら、エボIIIはその切り札を外から見ても中身から見ても本格的な戦闘車にした三代目です。  

    エボIIIは、初期ランエボの完成形的存在

    シリーズ全体で見れば、エボIVから先はプラットフォームも変わり、AYCなど新しい文法が入ってきます。

    だからこそエボIIIは、I〜IIIで積み上げてきた初期ランエボのひとまずの到達点として見やすい。4G63ターボ、コンパクトボディ、4WD、年ごとの徹底改良、そしてついに空力まで前に出てきます。

    このまとまり方がすごく綺麗なんです。エボIIIは、初期ランエボをもっともランエボらしい姿で締めた世代だと思います。

    まとめ

    ランサーエボリューションIIIを一言でいえば、

    速いだけでは足りないと知ったランエボが、空力まで使って勝ちに行った三代目です。  

    4G63は270PS。駆動も足も徹底改良。見た目は空力をまとってWRCではちゃんと勝った。  

    だからエボIIIは単なる三代目じゃない。

    「初期のランエボここに極まれり」と言いたくなるくらい、最初の三台の答えがきれいに揃った世代なのです。  

    次のエボIVから、ここから一気に文法が変わります。なんといってもAYCが初めて搭載されるエボですから…!

    (ランエボの記事毎回アツいな)

  • GT-R – R35 【スカイラインから解き放たれた革命機】

    GT-R – R35 【スカイラインから解き放たれた革命機】

    R35型GT-Rは、2007年12月に登場した新しい時代のGT-Rです。

    日産自身も、2002年にR34型スカイラインGT-Rが生産終了して以来途絶えていた「GT-R」が、今度はスカイラインの冠を外したNISSAN GT-Rとして復活したと説明しています。

    つまりR35の最大の意味は、単なる後継ではなく、GT-Rを一つの独立したブランドとして立ち上げ直したことにありました。  

    もう、スカイラインGT-Rではなかった

    R35はR34の後継機ですが、R32, R33, R34たちと同じように見てはいけません。

    R35は「次のスカイラインGT-R」ではなく、最初からGT-R単独で世界と戦うためのクルマなのです。

    2009年の決算説明でも日産はGT-Rを自社の「sports car flagship」と表現しており、単なる高性能グレードではなく、ブランドの顔として扱っていたことがわかります。

    R35は名前の時点で、もう役割が一段上へ移っていたわけです。  

    心臓部はVR38DETT

    R35の象徴はもちろんVR38DETTです。

    日産ヘリテージによる展示車両データでは、R35 GT-Rは3.8L V6ツインターボのVR38DETTを搭載し、展示車ベースで480ps・588N・mを発生していました。

    直6 RB26ではなくV6へ移行した時点で、もう「昔ながらのGT-R像」を守る気はなかったとも言える。

    でもそれは伝統を捨てたんじゃない。勝つためなら文法ごと更新するという、GT-Rのもっと根っこにある思想を押し通した結果でした。  

    レイアウトからして本気で変えてきた

    R35がただの大排気量ハイパワー車で終わらなかったのは、車体構成そのものが特殊だったからです。

    2016年のGT-R press kitでは、GT-Rが「premium midship package」に基づき、独立型のリア搭載6速デュアルクラッチ・トランスミッションを持つことが説明されています。エンジンを前に置きつつ、トランスミッションを後ろへ寄せるトランスアクスル的な構成で前後重量配分を最適化する。

    R35の凄さは、単に馬力を増やしたことじゃなく、その馬力を超高速域で成立させるためにクルマ全体の骨格から組み替えたことにあります。  

    「誰でも速い」を本気でやったGT-R

    R32〜R34のGT-Rも速かった。

    でもR35はそこからさらに一段進んで、超高性能を一部のプロだけのものにせず、電子制御と車体設計で誰でも引き出しやすい速さへ寄せていったのです。

    2016年press kitでも、ATTESA E-TSや洗練された車両制御、デュアルクラッチ後方トランスミッションなどが統合されたパッケージとして語られています。

    R35は昔ながらの“手懐ける怪物”というより、怪物の性能を量産車として再現性高く使わせるGT-Rだったわけです。  

    開発思想の核には、「磨き続ける」姿勢があった

    R35で面白いのは、一発の完成ではなく、毎年のように改良を重ねて育てられたことです。

    2014年モデル発表時、日産はGT-Rを「constant refinement and improvement」の象徴として語り、走行性能だけでなく乗り心地、静粛性、質感まで継続的に進化させてきたと説明しています。

    これはR35のかなり重要な特徴で、最初から完成品として君臨するのではなく、最前線のまま熟成し続けるという、新しいGT-R像を作ったんです。  

    2014年あたりでただの速いGT-Rを超え始める

    2014年モデルの公式説明では、GT-Rは「great GT」の精神を持ちながらベンチマークのパフォーマンスを発揮する、とされています。ここがかなりR35的です。

    昔のGT-Rがどちらかというと「速さのための戦闘車」寄りだったのに対し、R35は超高速性能に加えて、乗り味や質感まで含めたグランドツアラー的な深みを強めていきます。

    つまりR35は、GT-Rをただのサーキット兵器ではなく、世界レベルのハイパフォーマンスGTへ押し広げた世代でもありました。  

    決定的にしたのが、NISMOだった

    2013年に公開されたGT-R NISMOは、R35の思想をさらに先鋭化した存在です。

    日産はこのモデルをGT-R史上もっともパワフルで、最も速い量産モデルとして打ち出し、600PS仕様のVR38DETT、専用空力、専用足まわりで「究極のGT-R」を形にしました。

    さらに同時期の発表では、ニュルブルクリンク北コース量産車ラップ 7分08秒679 という記録も強く打ち出されています。

    R35 NISMOは、R35が単に快適性や上質さへのみ振ったGT-Rではなく、本気を出せばやはり最前線の怪物であることを証明するモデルでした。  

    力技ではなく「総合戦闘力」

    R35 GT-Rの強みを一言で言えば、

    超高出力を、車体・駆動・空力・電子制御まで含めて一台の説得力に変えていたことです。

    VR38DETTの圧倒的なパワー。後方トランスミッションを含む特殊レイアウト。高度な4WD制御。毎年のように続く熟成。

    さらにNISMOまで用意される懐の深さ。

    だからR35は「パワーがあるGT-R」では終わらなかった。いつ乗っても、どこで見ても、GT-RがGT-Rである理由を数字以上で感じさせるクルマになったんです。  

    モータースポーツでもすぐに結果を出した

    R35は市販車としての衝撃だけでなく、競技の現場でもちゃんと存在感を見せました。

    日産は2008年のSUPER GTでR35 GT-Rがデビューし、シリーズ全9戦中7勝を挙げ、XANAVI NISMO GT-Rがチャンピオンを獲得したとヘリテージで説明しています。

    市販車は4WDでも、SUPER GTではFRに切り替えて戦ったという点も面白い。

    つまりR35は、公道ではハイテク超性能GT-R、サーキットでは勝つために別の最適解を選ぶGT-Rでもあった。ここにも「勝つために文法を更新する」R35らしさが出ています。  

    だからこそ「RB26の後継」ではない

    R35を語るとき、ついR34までの延長で見てしまう。

    でも本質はそこじゃない。R35は、スカイラインGT-Rの最後の続きではなく、GT-Rを世界市場で単独成立させるための再発明でした。

    しかもその再発明はうまくいっていて、日産は2025年にR35 GT-Rの最終車がラインオフした際、18年間で約48,000台が生産されたと公表しています。

    つまりR35は一代で終わる突然変異じゃなく、GT-Rが単独ブランドとして成立することを証明した量産車でした。  

    なぜR35が特別なのか

    R35が特別なのは、GT-Rの「何を守るか」を見誤らなかったからです。

    直6を守らなかった。スカイラインの名も守らなかった。けれど、圧倒的な性能、最先端技術、そして勝つために伝統すら更新する態度は守った。

    だからR35は旧来ファンから見れば異端に見えても、GT-Rという名前の本質から見ればむしろかなり正統です。

    伝統の形ではなく、伝統の中身を守ったGT-Rだった。  

    まとめ

    R35 GT-Rを一言でいえば、

    GT-Rをスカイラインから解き放ち、世界の超性能ブランドへ押し上げた革新のGT-Rです。

    新時代の象徴であるVR38DETT。

    NISMOは究極。

    SUPER GTの結果は実戦の証明。

    R34までが「スカイラインGT-Rの完成」だとしたら、R35はその先で、GT-Rという名前そのものを再発明した世代です。

    だからR35は、系譜の終点じゃない。

    GT-R第二章の始点なのだと僕は信じています。