アバルトの695と聞いて、すぐに「ああ、あれね」と言える人は、かなりのアバルト好きだと思います。
595なら知っている。でも695は何が違うのか。
端的に言えば、595のさらに上、フィアット500ベースのアバルトにおける「最上位」を意味する名前です。
ただ、その成り立ちはちょっと独特で、常設のカタログモデルというより、限定仕様や特別仕様の器として使われてきた名前でした。
型式31214Tで括られるアバルト695は、第3世代フィアット500(312型)をベースとするアバルトシリーズの頂点に位置します。この「695」という数字が何を意味するのか、そしてなぜアバルトはわざわざ595と695を分けたのか。そこには、小さなクルマに大きな物語を載せるという、このブランド特有の戦略がありました。
695という名前の由来と重み
そもそもアバルト695という名前は、1960年代にまで遡ります。
カルロ・アバルトが初代フィアット500をベースにチューニングした「695 SS」や「695 エッセエッセ」が原点です。
当時の排気量が695ccだったことに由来するこの名前は、アバルトにとって単なる数字ではなく、「500を極限まで仕立てた仕様」を意味する記号でした。
現代のアバルト695も、その文脈をそのまま引き継いでいます。つまり、フィアット500ベースのアバルトにおいて「これ以上はない」という位置づけ。595が常設のスポーツグレードだとすれば、695はその上に被せる特別な冠です。
ただし、ここがややこしいところで、695は単一の固定仕様ではありません。「695 ビポスト」「695 リヴァーレ」「695 トリビュート・フェラーリ」「695 セッタンタ・アニヴェルサリオ」など、時期によって異なるテーマの限定モデルとして登場してきました。695という名前は、いわば「特別仕様のプラットフォーム名」のように機能していたわけです。
595との差は、数字以上に大きい
では、595と695は具体的に何が違うのか。エンジンは同じ1.4リッター直4ターボ(312A3型系)ですが、695ではチューニングの度合いが一段上がります。595のトップグレードであるコンペティツィオーネが180馬力だったのに対し、695の多くの仕様では180馬力、あるいはそれ以上のスペックが与えられました。
ただ、馬力の差だけで語ると本質を見誤ります。695が595と決定的に違うのは、足回りとブレーキ、そして演出の密度です。たとえば695ビポストでは、Koni製のFSD(周波数感応型)ダンパー、ブレンボ製の大径ブレーキ、機械式LSD、さらにはレコードモンツァ製の専用エキゾーストが標準装備されていました。
要するに、エンジン単体の出力差よりも、「その出力をどう使わせるか」の部分で大きく差をつけていたということです。595が「速い500」だとすれば、695は「走りの質を本気で詰めた500」でした。
限定モデルという戦略の巧みさ
アバルトが695を限定仕様として展開し続けたことには、明確な商品戦略がありました。ひとつは希少性の演出。695は発売のたびに台数が限られ、日本市場でも数十台〜数百台規模の導入がほとんどでした。これが「手に入らないかもしれない」という飢餓感を生み、ブランドの求心力を維持する装置として機能していました。
もうひとつは、テーマ性による差別化です。695リヴァーレはヨットブランドのリーバとのコラボレーション、695トリビュート・フェラーリはフェラーリとの歴史的関係へのオマージュ、695セッタンタ・アニヴェルサリオはアバルト創立70周年記念。つまり、同じ695という枠の中で、毎回違う「物語」を載せて売っていたわけです。
これは小さなメーカーが大きなブランド力を維持するための、かなり賢いやり方です。ベースのメカニズムは共通でも、ストーリーと仕立てを変えることで、コレクター心理を刺激し続けることができる。実際、695の限定モデルは中古市場でもプレミアムが付くケースが多く、この戦略は結果としてうまく機能していました。
走りの実力——小ささが武器になる領域
695の走りについて語るとき、避けて通れないのが「車重の軽さ」です。695ビポストで約1,110kg、通常の695系でも1,100〜1,200kg台。この車重に180馬力が組み合わさるわけですから、パワーウェイトレシオとしてはかなり優秀です。
ただ、数字だけでは伝わらない部分があります。695の真骨頂は、ホイールベースの短さとトレッドの狭さから来る、独特の身体感覚的な速さです。コーナーでのノーズの入り方、ステアリングを切った瞬間のレスポンス、そしてレコードモンツァのエキゾーストが吠える音。すべてが「小さいからこそ濃い」という体験に収束します。
一方で、FF(前輪駆動)であることの限界は当然あります。180馬力を前輪だけで処理するため、トルクステアは避けられません。高速域での直進安定性も、ホイールベースの短さが裏目に出る場面があります。695はサーキットで速いクルマというより、峠道やワインディングで「体感速度が異常に高い」クルマです。その割り切りを楽しめるかどうかが、このクルマとの相性を決めます。
312型時代の終焉と695の意味
2024年、フィアット500は電動化へと舵を切り、312型ベースの内燃機関モデルは生産終了を迎えました。これに伴い、アバルト595/695も姿を消すことになります。後継のアバルト500eは完全な電気自動車であり、1.4ターボのあの音も振動も、もう新車では味わえません。
この文脈で見ると、695の最終限定モデルたちは、単なる商品企画以上の意味を持っていたことがわかります。内燃機関のアバルトとして、フィアット500ベースのホットハッチとして、「これが最後」という区切りの記念碑だったわけです。
695は、冷静に見れば「フィアット500のチューニングカー」です。ベースはあくまで実用コンパクトカーであり、プラットフォームに特別な素性があるわけではありません。でも、だからこそ面白い。限られた素材をどこまで磨き上げられるか、どこまで「特別」に仕立てられるか。その問いに対するアバルトの回答が、695という存在でした。
小さな器に、大きすぎる自意識を
アバルト695は、スペックシートだけ見れば「ちょっと速い小型車」です。しかし実際に触れると、そこにはスペック以上の密度があります。エキゾーストの音、シートの座面、ステアリングの革の巻き方、ダッシュボードに刻まれたシリアルナンバー。すべてが「これは普通の500ではない」と主張しています。
それは、カルロ・アバルトが1960年代にやっていたことと本質的に同じです。ありふれた大衆車をベースに、走りと演出を極限まで盛り込んで、まったく別の乗り物に変えてしまう。695という名前は、その精神の継承を意味していました。
内燃機関の時代が終わりつつある今、31214Tという型式は「最後のアナログなアバルト」として記憶されることになるでしょう。
小さなボディに過剰なほどの情熱を詰め込んだこのクルマは、合理性だけでは測れない価値を、最後まで体現し続けていました。

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