排気量689cc。今の軽自動車ほどの小さなエンジンから、レースで勝てるだけの性能を引き出す。それを本気でやったのがカルロ・アバルトという人で、その執念が形になったのがフィアット・アバルト695、そして695 SSです。
型式名は110F、および110F/L。フィアット600という大衆車のプラットフォームを使いながら、エンジンも足回りもブレーキも、およそ「量産ベース」とは思えない水準まで手が入っています。この車は単なるチューンドカーではありません。アバルトという会社が何者だったのかを、もっとも端的に示す存在です。
フィアット600という「素材」
話の出発点はフィアット600です。1955年に登場したこの小型車は、リアエンジン・リアドライブの2ドアセダンで、イタリアの戦後モータリゼーションを支えた国民車でした。排気量は633cc、出力は21.5馬力。性能を語るような車ではありません。
ただ、アバルトの目にはこれが「素材」として映りました。軽量なモノコックボディ、リアに積まれた水冷直列4気筒エンジン、そしてなにより小さくて軽いこと。カルロ・アバルトは、この車をベースにした高性能バージョンの開発に着手します。
アバルトがフィアット車をベースに選んだのは偶然ではありません。フィアットとアバルトの間には、1950年代初頭から協力関係がありました。フィアットにとっては自社の量産車にスポーツイメージを付加できるメリットがあり、アバルトにとっては安定した供給ベースを確保できる。この関係が、600ベースのチューニングカーを次々と生み出す土壌になりました。
695と695 SS──排気量拡大の果てに
アバルトは600をベースに、まず排気量を拡大した750シリーズ(747cc)を展開し、ツーリングカーレースで大きな成功を収めます。しかしクラス区分の関係上、700ccクラスで戦える車も必要でした。そこで生まれたのが、排気量を689ccに設定した695です。
なぜ689ccなのか。これはFIA(国際自動車連盟)のクラス区分に合わせた数字です。当時のツーリングカーレースでは排気量別にクラスが細かく分かれており、700cc以下のクラスで最大限の排気量を確保するために、ギリギリの689ccとしたわけです。レースレギュレーションから逆算して排気量を決める。これがアバルト流のクルマづくりでした。
695の型式は110F。フィアット600の型式「100」系に対して、アバルトが独自に付与した番号です。エンジンはフィアット製の水冷直列4気筒OHVをベースに、圧縮比の引き上げ、専用カムシャフト、ソレックス製キャブレターへの換装などが施されました。ノーマルの600が21.5馬力だったのに対し、695では約38馬力を発生します。
さらにその上位版として登場したのが695 SS(セミスポルト、あるいはスーパースポルトとも)で、型式は110F/L。こちらはさらにチューニングが進み、約40馬力にまで出力が引き上げられています。わずか2馬力の差に見えますが、689ccという排気量を考えれば、この2馬力を絞り出すのがどれほど大変かは想像に難くありません。
小さなボディに詰め込まれた本気
695/695 SSの凄みは、エンジンだけではありません。むしろアバルトの真骨頂は、車両全体をトータルでレース仕様に仕上げるところにあります。
まずブレーキ。ノーマルの600はドラムブレーキですが、695 SSではより放熱性の高い仕様に変更されています。足回りもスプリングレートやダンパーが見直され、車高はやや下げられました。外観上の違いとしては、リアのエンジンフードに追加された冷却用のルーバーが特徴的です。リアエンジン車にとって冷却は常に課題であり、この処理はレースでの信頼性に直結するものでした。
車両重量は約580〜600kg程度。ここに38〜40馬力ですから、パワーウェイトレシオとしては決して悪くありません。最高速度は約150km/h前後とされており、689ccの車としては驚異的な数字です。
そしてなにより、このサイズと排気量だからこそ活きる軽さと俊敏さが最大の武器でした。ヒルクライムやサーキットの小さなクラスで、695は圧倒的な戦績を残しています。絶対的な速さではなく、クラスの中で誰にも負けない速さ。それがアバルトの戦い方でした。
「ジャイアントキラー」の方法論
アバルトという会社を語るとき、「ジャイアントキラー」という言葉がよく使われます。大排気量車に小排気量車で挑んで勝つ、という意味ですが、実態はもう少し戦略的です。
カルロ・アバルトが狙ったのは、あくまでクラス優勝です。総合優勝ではなく、自分が勝てるクラスで確実に勝つ。そのために排気量をレギュレーションに合わせて精密に設定し、車両全体を最適化する。695の689ccという排気量は、まさにその思想の結晶です。
この方法論は、結果としてアバルトに膨大な数のクラス優勝をもたらしました。1960年代を通じて、アバルトはFIA公認の記録や優勝回数でとんでもない数字を積み上げていきます。695/695 SSはその中核を担ったモデルのひとつです。
同時に、これらのモデルはホモロゲーション(競技参加のための公認)を取得するために一定数が市販されました。つまり、公道を走れるナンバー付きの車として販売されていたわけです。ただし生産台数は限られており、現在では極めて高い希少価値を持つコレクターズアイテムとなっています。
アバルト695が残したもの
695/695 SSの系譜は、その後のアバルト・ブランドの方向性を決定づけました。小さな車を速くする。量産車ベースでレースに勝つ。この路線はフィアット850ベースの1000シリーズへと引き継がれ、アバルトの黄金期を形成していきます。
もうひとつ重要なのは、「アバルト=サソリの紋章=小排気量の猛毒」というブランドイメージが、この時代に確立されたことです。695は、そのイメージの原点にもっとも近いモデルのひとつと言えます。
現代のアバルト 695(フィアット500ベース)が同じ「695」の名前を冠しているのは、もちろん偶然ではありません。小さな車に不釣り合いなほどの情熱を注ぎ込む。その精神の源流が、110F/110F/Lという型式番号の中にあります。
689ccで40馬力。数字だけ見れば、現代の基準ではどうということはありません。
しかしこの車が証明したのは、速さとは排気量の大きさではなく、どれだけ真剣に向き合ったかの総量だということです。
カルロ・アバルトが小さなフィアットに注いだ執念は、半世紀以上を経た今も、サソリの紋章の中に生きています。

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